【04:何を忘れてきたのだろう】


 楽しい時間ほどあっという間に終わってしまう――それは一応ラファエルも同じ思いだった。
 夕食を振る舞ってヨーフィを帰した後ラファエルは一人、満たされたお腹を擦りながらベッドに寝転んでヨーフィ宅から静かに木霊してきたオカリナの音色に聴き入った。彼は昔から暇になるとすぐオカリナを吹き始める。その音がまたとても心地よい。気付けばいつの間にやら瞼が閉じてしまった。
(今日も見るんだろうな……)
 過去の出来事を何度も何度も夢に見るのは死期が近付いている証というが実を言うとラファエルはそれをサタンらによる反逆戦争後から今日に至るまでずっと見続けていた。
 常に死と隣合わせで生きてきた影響だろうか、それともただ単純に『大きな後悔の念』が見せるしつこい悪夢なのだろうか……。なんにせよ、やはり今日もまたベッドでまどろんでいるうちに懐かしい声が聞こえてきた。
「なあラファエル、やっぱり一緒に来ないか?」
 この言葉を何度聞いたことだろう。
「断る」
 この返事も何度繰り返したことか。こうして目の前に立つサタンが「参ったな……」とボヤいて頭を掻く仕草もお馴染みだ。まだ髪が漆黒に染められていなかった当時のサタンはいつ見てもお世辞抜きに美しい。……黙っていてくれればの話だが。
「参ってるのはこっちだ。いい加減にしつこいぞ。私はお前の幼稚な夢に付き合うつもりはない。革命など馬鹿げている……!」
 この時のことはよく覚えている。夢で何度も何度も繰り返し見てきただけに余計だ。大草原の中でこうしてラファエルはただ一人サタンらと違う道を選んだのである。
「馬鹿げてるかどうかはやってみなきゃ分かんねーだろ!! この世界はもう限界だ、現状維持をする意味なんてねぇ!! 誰かがいつか一石を投じなきゃいけないんだ、そのタイミングが今で石を投げるのは俺たちだ!!」
 やはりサタンは喋ると美青年台無しだ。口調に品がなさすぎる。
「だーからそこまで言うなら私なんぞ軽く跳ね除けてお前が正しかったことを証明してみせろ。私は何がなんでも同行しないぞ。たとえお前やレヴァイアやバアルと対峙することになっても決して同行などしない!!」
 瞬間、サタンは苦虫を噛み潰したような顔をして「情けねぇ……」と零した。これに憤慨しないほどラファエルは悠長でない。
「情けないだと? 革命を謳って現実から体よく逃げようとしているお前にだけは言われたくない!!」
 渾身の力でもってサタンの胸倉を掴み上げる。……サタンはなんの抵抗もしなかった。しないのではなく出来なかったのだ。
「その通りだよラファ。情けないってお前に言ったんじゃねぇ、俺自身に言ったんだ」
 乱れた前髪の隙間から憂いを帯びた金色の瞳が覗けた。滅多に見られない目の色。ラファエルは言葉に詰まった。
「俺は、『お前を救うことも出来ない』んだな……」
 生まれ持った病的な優しさゆえの言葉だ、彼にこちらを畳み掛ける意図などなかったはず。だがラファエルにとってこんなにも胸の痛む言葉は他にない。危うく感情が爆発しかけた。
「やめろ、そんな言葉聞きたくない……!」
 サタンの身体を突き飛ばしてラファエルは逃げるように背を向けた。いや逃げるようにではない、実際に逃げたのだ。あのまま彼と対峙していては自分の中で何かが壊れると感じて上手い具合に逃げたのである。
 幸いサタンは追ってこなかった。もう為す術がないと判断したからだろう。
 一見粗暴なようで実は繊細。他者を気遣ってばかりいた不器用に優しい彼のことをラファエルは正直嫌いではなかった。だが彼が悪戯に見せる歯が疼くような甘い夢は嫌いだった。ゆえに彼の掲げる革命に参加することだけはどうしても出来なかったのだ。
(すまないサタン。私は神に剥奪されたお前の元の名前が今もまだ思い出せない)
 今この場に戻れたとしてもラファエルは一人で天界に残る道を間違いなく選ぶだろう。己の選択が間違っていたとは思えない。
(なのに、どうしてこの日の出来事をしつこく夢に見る……?)
 サタンから逃げたラファエルはグチャグチャに掻き乱れた心を引き摺りながら早足に草原を進んでバアルの元へ向かった。彼がラファエルにとって最後の希望だったのだ。
 今に相通じる濃い化粧で美しい顔を塗り潰し勝ち気な笑みを湛え柔らかな長い金色の髪を風にそよがせて凛と立つ彼の存在はやはり万人の憧れであった。
「お前が私を訪ねてくるなんて久し振りだね。用件はなんでしょう?」
 相も変わらぬ真意の読めない微笑がこちらに振り向く。彼がこんな表情ばかりするようになったのはいつからだったろう。
「サタンを止めてください」
「は? なんですって?」
 バアルが切れ長の目を大きく剥いた。
「サタンを止めてくれと言っている。彼の計画は無謀で馬鹿げています。貴方は彼がどれだけ無茶なことをしようとしているのか本当は分かっているはず!! 取り返しがつかなくなる前にお願いです、止めてください!! 世界がより混乱する前にサタンを止めてください!!」
「ってことは今日もサタンの誘いを蹴ったか……。頑固だね、お前も」
 綺麗に紅が塗られた唇から深い溜め息が漏れた。
「革命に参加しない理由はなんだラファエル。貴方がこの世界を好いているとは到底思えないんだけどね。まさかこのまま緩やかに世界もろとも神が自滅していく様を眺めたいとでも?」
「私はただ現実を見据えているだけだ!! 子供じみた夢に同調するのはやめてくれバアル、常識で考えろ!! 物質の源である神と対峙して得るものなど何もない!! 悪戯に失うものが増えるだけだ!!」
 どうにか目を覚ましてもらいたかった。だがバアルはただ呆れたように溜め息を漏らして「現実に常識、ね。私に言わせればそれこそ下らない」と吐き捨てた。
「ラファエル、お前の話はつまらない」
 蔑むような物言いだった。しかしラファエルは容易く引かなかった。ここで引いては取り返しのつかないことになると分かっていたからだ。
「つまらないから逃げるのかバアル!! この世界から貴方までも逃げ出すのか!!」
「失礼な。逃げるのではない、真正面からぶつかりに行くんだ。男らしいだろ」
「そんな冗談を言っている場合か!!」
 高ぶった感情がそのまま声に表れてしまった。大失態だ。案の定、再びバアルが深い溜め息を漏らした。
「お別れだラファエル。お互い絶対に譲れないものを抱えてしまった以上、私たちはもう相容れない。お別れだ」
 今日に至るまで何度も何度もお互いがお互いの道を正そうと話し合いを続けてきた。だがどう足掻いても話は平行線を辿るばかり。
 もう相容れない――いつからか心の何処かで覚悟していたことだが改めて声に出して言われると耐え難いものがあった。
「せめて……、せめて決行の日を先延ばしにしてくれ。近いうちに赤子の生まれそうな女が五人もいるんだ……」
「そんなことを言ってはいつまで経っても革命は実行に至らない。……申し訳ないけれど今がタイミングなのです、変更は有り得ない」
 頑なにもほどがある態度。答える彼の顔色には一切の変化も無し。本当にお互いが相容れない関係になってしまったことをラファエルはこの一瞬で痛感させられた。
「ふざけんな、お前たちは一体どれだけ身勝手なんだ!!」
「身勝手だ? 反対だよ、サタンは新たに生まれる赤子たちの為にもこの腐った世界に革命を起こそうとしているんだ、それが分からないわけじゃないでしょう?」
 勝ち気な笑みだ。バアルが相当の自信を持っている何よりの証拠である。
「……もういい。そこまで言うなら私を跳ね除けて貴方の選択が正しかったことを証明してみせてください」
 完敗だ。ラファエルは負けを悟った。もう何を言ってもこちらの声はバアルの胸に響かない。彼はラファエルではなくサタンとレヴァイアの思想に心酔してしまった。もう、響かない。
「いいとも証明しよう。どんな障害が目の前に立ちはだかろうと跳ね除けて私は己の正しさを証明してみせる。貴方も貴方で私の選択を正したいなら力ずくでいらっしゃい。遠慮は要らない。けれど私はたとえお前と殺し合うことになっても決して引きはしないよ。さようなら」
 ところが背中を見せてすぐにバアルは足を止めて振り向いた。
「その今にも泣きそうな顔に免じて最後に一つチャンスをあげようかラファエル」
「チャンス?」
「ええ。どうしても私を引き止めたいならば『行くな』と言って泣いてみせてください」
「な……っ!?」
 ラファエルは絶句した。無理難題にも程がある。どれだけ感情が高ぶろうとこの瞳は決して潤まない。何故なら当時既に彼は神の強い加護を受けて『涙』というものを封じてもらっていたからだ。
「さあ、泣いて懇願してみせてよラファエル。私に信念を折れというならお前も一つ信念を折れ。さあ、どうした泣けよ!! 泣け!!」
 圧倒的な美貌が目の前で感情的な言葉をぶつけてくる。しかしやはり目の奥が熱くなることはなかった。
「っ……出来ません。私は、泣けない……」
(後悔があるとしたらこの瞬間だ、彼を引き留めることが出来なかったこの瞬間だ――)
 悔しさに唇を噛むラファエルにバアルが最後の溜め息を吐いた。
「残念だよラファエル。私の『妹』は酷く泣き虫で私の後ろをついて歩くことしか出来ないとても可愛い子だったはずなのに……」
「アンタだって全く可愛くなくなっただろうが」
 咄嗟に言い返すとバアルは目を剥いた後に「アハハハハ!!」と腹を抱えて笑った。それはもう自虐的に「その通りだ違いない!!」と腹を抱えて笑い続けた。そうして笑うだけ笑って笑い疲れると彼は「じゃーね」と軽く手を振った。深刻さの窺えない酷く軽いノリだった。
 こんな別れ方でいいのか?
 咄嗟にラファエルは去り行こうとしていた華奢な背中を長い両の腕で抱き締めた。よくこんなことが出来たと今も思う。それだけ必死だったのだ。やれることは精一杯やりたかったのだ。今この瞬間に僅かの後悔も残したくなかったのである。
「待ってください!! お願いします、待って……!!」
「離せ。馴れ馴れしいぞ」
 振り向かないままバアルが低い声で呟く。一体、彼はこの時どんな表情をしていたのだろう。ラファエルには想像もつかない。
「泣けもしない『妹』など私には要らない。反対にお前だって今の私など要らないはずだ。でもサタンとレヴァイアはこんな私を必要としてくれている。私も私で彼らなしには生きられない。……だから、さよなら」
 頑なに前を向いたまま冷たく言い放ってバアルはまるで埃を払うようにラファエルの腕を退けこの場から音も無く姿を消した。……何度見ても胸の痛む光景だ。
「そんな簡単に『さよなら』なんて言うなよ……」
 鮮やかな景色に一人残され、ラファエルはやり場のない怒りに血が滲むほど強く唇を噛んだ。
(一体、どうすれば良かったというんだ)
 当時これが彼との長い別れになるとはまさか夢にも思わなかった。心の何処かでまだバアルが天界に留まってくれることを期待していたせいに違いない。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 もっと彼を抱き締める腕に力を入れれば逃さずに済んだだろうか、それとももっと無様な程に縋り付けば彼はこの場に残ってくれただろうか。いいや、これ以上に為す術はなかった。この別れは決して避けられないものだったのだ――そう自分を納得させるのにラファエルはどれだけの年月を費やしたか分からない。
 それだけ悔しかったのだ。世界の混乱を防げなかったこともバアルを引き止められなかったことも自分がバアル達に同調出来なかったことも悔しくて仕方がなかったのである。
(だが私は己の選択に後悔だけはしていない。あの人が自分の強い意志で行動したように私も己の信念を持ってして道を選んだんだ。そうだ、後悔だけはしていない……)
 では、この胸を支配する虚無感は一体なんなのか。自分が正しいと自信を持ち後悔もしていない、なのに寂しい。
(寂しい? 冗談じゃない、そんな感情は捨てたはずだ!!)
 ラファエルは内から込み上げる自身の声を掻き消した。
(もういい、やめろ!! こんな夢を見てどうなる!! 後悔もない、やり残したこともない、いつこの命が終わろうと悔いもない!! 私は常に最善の選択をしてきた、何度過去を夢に見ても思うところは何もない!!)
「畜生!!」
 叫んでラファエルはベッドから跳ね起き、悪夢を振り払った安堵にうな垂れ汗ばんだ額を手で押さえた。
 最悪の目覚めだ。身体はやたらと熱を帯び息切れも汗も止まらない。
「……アハハ……、ハハハハッ」
 情けない様の自分を嘲笑ってラファエルはグチャグチャに乱れた薄手の毛布を身体の上から蹴り退かした。
 参った、最近は毎日こんな調子だ。過去を夢に見ることは死期が近づいていることを指す、それは別に構わない。むしろ願ってもないこと。だが朝から疲れるような夢を連日見せられるのは困る。そうとも、ラファエルの悩みは「朝から疲れたくない」という一点のみ。
 本当は分かっているのだ、己の魂が何を執拗に訴えているのかを。
(そうだよ分かってんだよ。こんなしつこく訴えなくたって分かってんだ、全部……)
 薄いカーテンの向こうから差し込む眩い陽の光が朝を告げている。今日もまた陰鬱な一日が始まるのだ。寝ても覚めても悪夢が続く気分である。
(気分転換にカーテンの色くらい変えてみるべきか……)
 ラファエルは全く変わりない殺風景な白一色の室内を見渡した。大天使の住まいとは到底思えぬ必要最低限のものしかない吹き抜け平屋の1LDKだ。シミ一つ無い白い壁にチリ一つ落ちていない大理石の床、家具は全て四角形。唯一の彩りはダイニングテーブルの上にあるリンゴの入った籠と何年か前に『こんな家に住んでると病んじゃうよ!』と部屋の殺風景ぶりを心配したヨーフィが強引に棚の上へ飾っていった小さなサボテンの鉢くらいなものである。
(早く朝飯を腹に詰め込もう)
 そうすれば陰鬱な気分も少しは晴れると思い立ってラファエルはベッドを降り、……何か柔らかいものを蹴った気がして「ん?」と首を傾げた。見ると、腰を抜かしたような体勢で床に座り込んでいるヨーフィの姿があった。
「おや、驚いた。何やってるんだ、お前」
「お、驚いたのはこっちだよ!! 夢にうなされてるっぽかったから様子を見に来たらラファ兄、いきなり大声を上げて飛び起きるんだもんっ!」
「それはすまない。……私は、うなされていたのか?」
 ラファエルが聞くと、ヨーフィは「うん」と頷き、「少し、歯を食い縛っていた」と答えた。
「そうか……。心配かけたな。別になんともない、大丈夫だ。変な夢を見ただけだよ」
 告げながらラファエルは「しくじったなあ」と頭を掻いた。ラファエルの住まいがあるこの辺一帯は恐れ多いからと他の天使たちは距離をおいている。ラファエル自身も下手に自分の領域に踏み込まれるのは好かない性格ゆえ、自宅周辺には淡い結界を施している。が、そんな彼もヨーフィだけは弾かずにいた。つまり気を許していたのだ。だが、いくらなんでも悪夢にうなされている姿までは見せたくなかった。大失態だ――などと悔やんでいる思考を察したようにヨーフィは立ち上がるなり「少しは頼りにしてくれよ」と眉間に皺を寄せた。
「頼ってほしいなあ、俺」
「断る。お前はいまいち頼りにならない」
 あっさり吐き捨ててラファエルは顔を洗おうと洗面所に向かった。後ろで「酷ーいっ!!」とヨーフィが嘆いていることもお構い無しだ。しかし、……態度こそアレだが、ラファエルは内心ヨーフィの言葉をしっかり嬉しく思っていた。
(頼ってほしい、か。ふふっ。可愛いヤツめ)
 こんな具合に。
「ところでお前、朝食は済んでいるのか?」
「飯? まだだけど」
「そうか。せっかくだから食っていくか?」
「いいの!? マジで!? やった! んじゃ御馳走になろっと!」
「分かった。ほら」
 ほら、と濡れた顔を拭き終えたラファエルは嬉しそうにはしゃぐヨーフィに向かってキッチンボードの上にあったパンを一つホイッと投げ渡した。
「……ほい?」
 咄嗟に受け取ったパンを見つめてヨーフィが目を丸くする。どうやらラファエルの意図は伝わっていないようだ。
「それでも食えってことだよ」
「これ……? これってラファ兄の自家製?」
「いや、違う。市場のだ」
「おおお、俺てっきりお手製の料理が食えると思ったのに〜!」
「朝から面倒なことを言うな」
 朝飯なんぞ簡単に済ませるべきだ、とラファエルは2つのコップに水を注いで椅子に座り、質素なパンをかじり始めた。ガクンと肩を落としているヨーフィのことなど気にも留めない感じだ。
「まあいいや、せっかくだから頂くよ……。バター貰うね」
 仕方がない。ヨーフィは勝手知ったる風にキッチンからバターの瓶を取り出してパンに塗りつけてラファエルの向かいに座り、大きな口で豪快に食事を始めた。
「ラファ兄もパンを食べる時はバターくらい塗ったら?」
「必要ない。もう食べ終えたしな。ごちそうさまでした」
「早っ!!」
 そんなこんなで楽しく食事を終えたところでヨーフィは「ところであれか? まさか過去のことを夢に見てたなんてことないよな?」と食後のお茶を啜りながら首を傾げた。
「……さあな」
 少年の心配を他所にラファエルは素っ気無く答えて砂糖も何も入れていない紅茶に口をつけた。
「またそんな答え方して〜。俺は心配してるんだぞっ」
 そのプ〜ッと不機嫌に頬を膨らませた顔が面白くて流石のラファエルも「フッ」と笑みを漏らした。
「ああ、悪い悪い。大丈夫、変なものは見ていない。それよりヨーフィ、腹が落ち着いたらアザゼルと第一部隊の天使たちに連絡を頼む。今日の正午、魔界に向かうと」
「えっ!? 今日!? どうしたんだよ。今まさに神様から急なお告げでもあったの?」
「いや、私の独断だ。強制参加ではないが、もう少しで魔界が消滅する。それを奴らに少し手痛い形で伝えてやろうと思ってな」
「おおっ、マジで!? やった、最近退屈してたんだよね! よし行こう!」
「頼もしい返事をありがとう」
「うっし、そうと決まればこうしちゃいられない! 早速行ってこよっかな!」
「ついでに、私自身の悪夢も振り払いたいところだ……」
「え?」
「なんでもない。独り言だ、気にするな」
「はーい」
 気にするな、と言うからには気にしないでおこう。そうしないと……怒られる。だが、これだけは言っておこうとヨーフィはラファエルを真っ直ぐに見つめ、「俺、何があってもあなただけは守りますから」と静かに言い切った。
「守る? 私をか?」
「そうだよ。じゃあ、連絡回してきまーす!」
 言い残してヨーフィは音もなくその場から姿を消した。
「………………守る、か」
 ヨーフィの置いていった言葉にラファエルはただただポカンとしていた。なにせ『守る』など、滅多に貰ったことのない言葉だ。
「守る、ね。フフフッ、私なんぞ守る価値なんかないですよヨーフィ」
 一人、苦笑い。しかし、正直、悪い気は、しない。
 寝起きの陰鬱な気分は何処へやら、ラファエルは上機嫌に汚れた食器を器用に全て片手で掴んで流しへと運んだ。
 一方、意気揚々と外へ出たヨーフィは意気揚々と外へ出たものの「しまった!! 連絡するって言っても俺アザゼルん家が何処か知らねえや!!」と頭を抱えていた。
 これでは、連絡をしてやりたくても、出来ない。
「ええと、どうすればいいんだ……。おおーい、アザゼルー!!」
 とりあえず、大声で名前を呼んでみた。だが此処は一面花畑しかない道のド真ん中だ。
「ん〜、こんなところで呼んでも気付くはずないか……」
 ラファエルほどの耳を持っているならいざ知らず……、そうしてヨーフィが肩を落としたその時である。真後ろから「呼んだ?」と小さな返事がきた。
「うぉええええ!?」
 驚いて振り向くと、そこにはヨーフィが探し求めていた男の顔があった。朝から身体中に布を巻き付け顔の下半分もバッチリ布で隠しているアザゼルその人である。
「なななな、なんでこんな所にいきなり出てくるんだよーっ!!」
「いや……、呼ばれたから何かなと思って……」
 呼ばれたから応じただけ、アザゼルに悪気はなかった。
「ああああっ、ビックリしたなーもう! まあいいや……、ちょっと連絡したいことがあってさ」
「……何?」
「今日の正午、魔界に赴くことになった。お前は強制参加だ。準備しておいてくれ」
「ん、分かった……」
「うん。…………え? 反応それだけ? 急だねーとか、何するの〜とか、そういうのないわけ?」
「うん? ……うん。別にない。僕はただ従うだけ」
「なにそれ格好良い……! じゃ、よろしく!」
「うん」
 頷いて、本当にアザゼルは詳しい話を何も聞かないまま音もなく姿を消した。なんともあっさりした男である。
 男はあまり喋らない方が格好良いって、こういうことなのかな――と思いつつ、ヨーフィは続いて第一部隊に属する天使たちの元へ向かった。まさかこの会話を端から聞いてニヤニヤとほくそ笑んでいる裏切り者がいたことなど夢にも思わずに。
「ムフフフッ! イイこと聞いちゃった〜ん。早速バアル様にご報告しよっと」
 アザゼルとヨーフィが会話していた花畑から遥かに離れた岩の陰にて、ミカエルはニヒニヒと卑しい笑みを浮かべていた。前々から天界に動きがあれば一番に察知してバアルに伝え、大いに褒めてもらおう! と考えていた彼はちょくちょく天界に赴いては聞き耳を立てていたのである。正式な堕天をしていない彼は未だ天界にお邪魔し放題なのだ。
「いやあ〜、僕ってばお手柄。バアルさん褒めてくれるかなあ〜」
 笑い止まらぬままミカエルは意気揚々とその場を後にしようとした――が、目の前に大きな人影が現れ、一気に笑顔が引き攣った。
 視界に、華奢な身体と長い金髪が見える。ミカエルは硬直しながらも目の前にいるのが想像している相手でないことを願って顔を見上げた。しかし、願いは届かなかった。残念でしたね、とばかりに足元の花々が虚しく風に揺れる……。
「うぎゃーーーーっ!!」
 堪らず絶叫。するとミカエルの前に立ち塞がっていた相手、ラファエルは「なんだ、化け物でも見たような反応だな」と笑ってみせた。
「あ、いや……あの……。いや〜、今日はまた良い天気ですね〜ん」
「そうですね〜ん。って、馬鹿。お前がちょくちょく現れては聞き耳を立てていたことくらい知っていたよ。私が気付かないとでも思ったか? 今まで一応は見逃してきたが、そろそろ目障りだな」
 ラファエルはわざとらしく肩を竦めたのち、手に何処からともなく取り出した槍を握った。
「そう言わず、今回も見逃してくださいよん」
 ミカエルは眩い笑みを浮かべ、ラファエルの放った一撃をその場から姿を消すことで間一髪、回避した。……空を切ったラファエルの槍は虚しく足元に咲いていた花々を悪戯に散らせて終わった。
「……小賢しい奴め」
 花びらが舞い散るのを見つめながらラファエルは舌打ちした。
 まあいい、遅かれ早かれいつものようにバアルが感づくことだろう。
(だが、今回はいつもと違うぞ)
 ラファエルは口元に不敵な笑みを浮かべた。
「バアル、私は……、待ち疲れました……。もう、時間もない……。だから、本気でいく」
 戯れは終わりだ、と呟いてラファエルは金色の目を光らせ、その場から姿を消した。



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