【03:毎日彼らは見飽きた夢を見る】


 なんて可愛い子でしょう――今も耳に残る生まれた瞬間に聞いた神の声。ヨーフィは神に祝福されて誕生した数少ない天使の一人だった。
 だが、生まれたはいいが何をしろというのだ。この世界で自分が出来ることなど何もない。命を懸けたところでせいぜい神々の心を僅かに揺るがす一本の矢くらいにしかならない。上級天使の身体を持って誕生したヨーフィは生まれながらにどうにもならないこの世界の理を全て把握していた。
 果てしなく続く白一色の空間にて眩い神の両腕に抱かれながらヨーフィは酷い虚無感に蝕まれた。するとその心を見透かしたように神はゆっくりと微笑んで諭すように言った。
「大丈夫、貴方は間もなく生きる意味を得る。間もなくですよ。だから安心しておやすみ。今日はゆっくり眠りなさい」
 そう虚勢を省いた神本来の優しい声色で言われ頭を撫でられた瞬間、強い眠気に襲われてその日の記憶は途切れた。
 眠りに眠って迎えた翌朝、背が高く美しい天使が七色カーテンの向こうから現れた。聡明な容姿に如何にも意志の強そうな眼差しと中性的でしなやかな身体に腿にまで届くほどの長い長い金色の髪を持った美しい天使。ヨーフィは生まれながらに彼が『ラファエル』という名の天使だと知っていた。
(そうだ、知っている。俺は何もかも既に知っている)
 自分が生まれた理由も何を糧にこれから生きるべきかも予め全て与えられて生まれてきたヨーフィは全て知っていた。
「ラファエル、子供を育ててみませんか」
 目の前の美しい天使を見つめるばかりなヨーフィの頭を優しく撫でて神が微笑む。だがラファエルはヨーフィに遠慮することなく難色を示した。
「結構です。私にそんな器用なこと出来ません」
 酷くふて腐れたような態度。これには神も苦笑いだった。
「そう言わずに引き受けてくださいませんか。この子は私が貴方への愛しさを募らせている時にお腹へ宿った天使なのですよ」
 この言葉にラファエルはますます眉間に皺を寄せた。
「私を想って孕んだ子だというんですか?」
「ええ、だからどうか貴方の側で育んでみて欲しい。お願いします。貴方の側にいればまずこの子に間違いは起こらないはずですから」
 神にここまで言われてもラファエルはまだ難色を示し大きな溜め息をついた。
「正直、お気持ちは嬉しいです。しかしこればかりは偉大なる貴方様の御命令と易々と引き受けるわけにはいきません」
「え〜? 困ったなあ。一体何がそこまで貴方を渋らせるのです?」
 想像もしていなかった事態なのだろう。神の表情に動揺の色が窺えた。
「命を預かるという責務の重さですよ。私にはこんなにも小さな子を面倒見た経験はありませんので扱いが分かりません」
「そんな。大丈夫ですよラファエル。この子は確かにとても小さいけれど生きていく上で必要な知恵は既に持っています。貴方が想像しているような面倒は起こりませんよ。どうかもう一度考えてみてください」
(このままじゃ俺、生まれてきた意味を失ってしまう)
 神とラファエルのやり取りを見守っていたヨーフィは無性に恐怖した。
(この天使に捨てられたら俺はなんの為に生まれたのか分からなくなる……。そんなの嫌だ、助けて。どうか俺を見捨てないで――!)
 ヨーフィは考えるよりも早く神の腕をすり抜けてラファエルの脚にしがみついていた。
(見捨てないで、見捨てないで――!)
「ほら、その子はもう既に貴方を親として慕っていますよ。この子の名は『ヨーフィ』。私の与えた名を気に入らず自分で付けた名前なんですよ。じゃ、あとはよろしくね」
「な……っ! ちょっと待ってください!」
 なんとも軽いノリで満足気に微笑む神とは対照的にラファエルは不服の感情を露わにした。それでも「決まりだよラファエル」と念を押されたことでとうとう諦めの溜め息をついた。
「チッ。仕方がありませんね。事故で殺してしまっても文句ないのであれば引き受けます」
「ハハハッ! もちろん何が起こっても文句はありません、それまでの子だったと諦めましょう。……話は以上です。あとはお任せします」
 ヨーフィの頭上で交わされるゾッとしないやり取り。しかし不思議と安堵が優った。ヨーフィには『この天使が俺を殺すはずない』という根拠のない自信があったのだ。
「分かりました。失礼します」
 ラファエルは神に深々と一礼してからヨーフィの身体を軽々と小脇に抱えて神殿を後にした。抱えられた瞬間鼻に届いたラファエルの香草にも似た甘い髪の匂いをヨーフィは今も鮮明に覚えている。
(やった、拾ってもらえた……!)
 だが安堵したのも束の間、神殿を出たところでヨーフィは突然草むらに放り投げられてしまった。
 人間で言えば五歳児程度の小さな身体だ、ラファエルは簡単に放り投げることが出来た。
「ほお〜。ぶん投げられても声一つ上げないとは……。忌々しいガキめ、よくも私に引っ付いてくれたな。おかげで要らぬ任務を与えられたわ! と、思ったがお前は神が言うに生きていく為の知恵は既に持っているんだろ。ならば律儀に私の元でわざわざ暮らす理由はない。此処で別れるのが互いの為だ。今から好きに生きるといい。これはお前の人生だ」
 それはヨーフィが生まれて初めて投げつけられた喜ぶべきか悲しむべきか分からない言葉だった。
(なにこれ、こんなの知らない……。こんなの教わってない……。俺、どうしたら……!)
 教わっていない。なのに『悲しい』。よく分からないが確かに今この胸は悲しみに悲鳴を上げている。
 動揺し切りなヨーフィを他所にラファエルはあっさり背中を向けてしまった。今ここで彼を引き止めなければ本当に捨てられてしまう――。
「ま……っ、待ってよ!!」
 ヨーフィは生まれて初めて声を張り上げた。
「いきなり放り投げられたらそりゃ驚いて声も出ないさ!! 馬鹿にすんなよ!! ってゆーか、あっさり捨ててくなよ!! 俺は貴方の為に生まれたんだ!!」
 これがヨーフィの産声。鳴いた甲斐あってラファエルは足を止めて向き直ってくれた。
「ほお〜。なんだ話せるじゃないか。しかしもう一度言うがこれはお前の人生だ、生まれの理由に縛られることはない。第一、私はお前がいなくても生きていけるしな。だから好きにしろ」
 これまた喜んでいいのか分からない言葉だ。……いや、喜べない。好きにしろと聞こえはいいがつまり『お前なんか要らない』と言われているのだ、喜べるわけがない。
「これは俺の人生か。じゃあなおさら貴方についていく」
「何故?」
「たとえ貴方が俺を嫌いでも俺は貴方が好きだから。ひょっとしたらこれは神から予め植え付けられた感情かも分からないけど、でも俺の中に湧いてる感情なんだから本物だ。俺は俺の気持ちを信じて行動する。だから好きにしろと言うなら何がなんでも貴方についていく!! 何がなんでもだ!!」
 思いの丈を真っ直ぐにぶつけた。するとラファエルは「ハッ」と短く笑ったのち「やれやれ」と首を振った。
「ガキが生意気な口を聞きやがる……。いいだろう、ついて来い。早速お前に離乳食でも食わせてやろう」
「やった!! ありがとう!!」
 やっと認められた喜び。意気揚々とヨーフィは先を行くラファエルの後をついていった。
「何がそんなに嬉しい?」
 顔を緩ませて後をついてくるヨーフィをチラリと見やってラファエルが冷めた溜め息を漏らす。終始トゲのある態度だ。普通なら「そんなに俺が嫌いですか……」と心折れることだろう。しかしヨーフィは違った。彼はこれをラファエルが『懐かれるということに不慣れなせいで戸惑っているんだ』と解釈したからである。実際この予想は当たっていた。ラファエル本人が後に認めたのだ、確かである。
「何がってやっと認めてもらえたんだ、改めてこの世界に生まれてこれたことを実感して頬も緩むってもんです!」
「変だな。お前この世界の仕組みを既に知っているんだろう? なのに生まれてしまったことが嬉しいのか?」
「そりゃあもう! この地獄を生きるに値する救いと意義も早速得ることが出来たしね。お兄さんだって何か救いがあるからまだしっかり生きてるんでしょ?」
「さてね。無い、と言ったら?」
 冷めた目がヨーフィを見下ろす。静かに襲いかかる威圧感。しかしこの世界に産まれて僅か一時間も経っていない少年は怯まなかった。
「俺が貴方の『救い』になります」
 目を逸らすことなく彼は言い切った。すると……、あろうことかラファエルは「あははははは!!」と大きな声で笑い出した。完全にヨーフィを見下して「ガキがマセた冗談を言いやがる!! あはははははっ!!」と腹の底から笑ってくれた。
「ひ、酷い!!」
 とはいえヨーフィは嬉しかった。初めてラファエルの笑顔を見れたからだ。正直悔しいには悔しいが……、それでも嬉しかった。
(ほら、俺は貴方を笑わせることが出来るよ。これからももっともっと笑わせてみせるよ)
 大丈夫、救いはある。この世界はまだ真の地獄ではない――ラファエルの笑顔を見てヨーフィは己の存在に胸を張った。
 その後ラファエルの家にて先に遊びに来ていた水色髪の少年ミカエルと鉢合わせし「お前は誰だ!?」「お前こそ誰だ!?」と早速喧嘩になったのは良い思い出である。
「お前ら仲良くしろ!! ドタバタ暴れんなホコリが立つだろうが!! そら、約束通り離乳食を作ってやるから大人しく待ってろ。ミカエルもだ! そこに座って待ってろ! いいな!?」
 その『離乳食』というのが冗談ではなかったのも今となっては良い思い出だ。生まれて初めての食事、ラファエルが作ってくれたあのトロトロに煮込まれたミルクチーズリゾットの味は今もよく覚えている。どう見ても本当に離乳食だったが物凄く美味しかった。「本当に離乳食を作りやがった……」と少し複雑な思いもしたがとにかく美味しかったのでヨシとしとく。一緒に食事をしたミカエルも「優しい味ですん!」と喜んでいた。

(久し振りに、食べたいな)

 願った瞬間に景色が暗転した。何が起こったのだろう、真っ暗だ。真っ暗な中でコンコンと何かを叩く軽快な音と頭上から静かな話し声が聞こえてきた。
「あ、馬鹿。そこはよせっ」
 ラファエルの声だ。
「勝負は勝負……。遠慮無しだよん……」
 これはアザゼルの声。
「それは分かるがちょっと待て、コイツが邪魔で全く集中出来ない」
 どうやらラファエルとアザゼルが二人で何やら話をしているようだ。一体何を話しているのだろうか。聞き耳を立てた矢先、ヨーフィは頭にベチンと強い平手の衝撃を受けた。
「起きろこのクソガキ!! いつまで人の膝で寝ているつもりだ!!」
「ひいっ!?」
 耳をつんざく怒鳴り声に一瞬で我に返ったヨーフィはボンと弾かれたように飛び起きた。
「おわわわわわ!? 何事ですかあー!?」
 慌てふためき四方八方を見渡すと今日も青空が眩しい天界の風景と今日も顔半分をマスクで隠してのほほんとした雰囲気を纏っているアザゼルに加えて至極不機嫌そうなラファエルが目に入った。
 ああ、そうだ。思い出した。ヨーフィは外でのんびり読書をしようと寝転がるに丁度良い場所を探していた最中、芝生に座ってアザゼルと何やら話し込むラファエルを見つけ、甘えて膝枕を借りたはいいがあまりの心地よさに読書どころではなく、すぐにそのままうたた寝をしてしまったのだった。
(どうりで懐かしい夢なんか見ちまったわけだなあ)
 状況の把握完了。あとは、何故こんなにもラファエルが不機嫌か探らなければならない。まさか膝にヨダレでも垂らしてしまったんじゃあないだろうか……。だとしたら若干潔癖なところがあるラファエルが烈火のごとく憤慨するのも当然だ。ヨーフィは青褪めた。
「何事ですかじゃねーよクソガキ!! いい加減に邪魔だ、どけ!!」
 怒鳴ってラファエルはまるで猫を扱うようにヨーフィの首根っこを片手で掴み上げ、そのまま勢い任せにポイと放り投げた。
「ぎゃふん!!」
 芝生に尻もちをついた衝撃で思わず変な声が出てしまったヨーフィである。
「うわん、痛ーい!! なんだよついうっかり寝ちゃっただけじゃん、そんなに怒らないでよお〜!! ぴいいいいいっ!!」
「うるさい喚くな、実はいい歳したオッサンのクセしやがって!! お前のせいで足が痺れてチェスに集中出来ないんだよ、怒りもするさ!!」
「ちょっ、俺がオッサンだったらラファ兄なんてオバサン…………ん? チェスって?」
「オバサンだ!? ああ、チェスはチェスだよ」
 言ってラファエルが指差した先にはコマの散らばり具合からして一目で熱戦の真っ最中と分かるチェスボードがあった。
「……ゴメンねヨーフィ君。僕が調子良くゲームを進めちゃったばっかりにラファさんを苛立たせちゃったんだよ……」
 今の今まで黙って様子を窺っていたアザゼルが申し訳なさそうに頭を下げた。成る程、確かにゲームはアザゼルが優勢だ。しかしこんな言われ方をされては当然ラファエルは面白くない。
「やかましい!! 足が痺れて集中出来なかったんだっつってんだろ!!」
「んっもう負けず嫌いなんだからあ……」
 盛大な溜め息を漏らすアザゼル。その態度だけで対戦中に彼がラファエルの扱いにどれほどの苦労を強いられたか分かるというものだ。逆に言えばラファエルを感情的にさせるほど彼のゲーム運びが上手いということでもある。ヨーフィはチェスボードを間近に覗き込んで「おおー」と目を剥いた。
「へえ〜! アザゼル強いじゃん! っていうかチェス出来たんだな! アザゼルって一人でいること多いからこういう対戦相手が必要な遊び出来るイメージなかったよ俺!」
「そ、そんな勝手にボッチ扱いして酷い……。僕だってチェスくらい出来るよう……」
 褒められているようで褒められていない。アザゼルはガクリと肩を落とした。
「そんなことより続けるぞアザゼル。これから絶対に盛り返してやる、覚悟しろ……! さあ、どう打つ?」
「どう打つって、あの……、じゃあ……、チェックメイト……」
 それはもう申し訳無さそうにアザゼルはクイーンを動かした。紛うことなき詰みだ。ラファエルとしてはまさかの事態である。
「ん? 何がどうしてこうなった?」
「ここ……、クイーンが動けた……」
 そっとクイーンを指差すアザゼル。せっかくの勝利を喜ぶどころか心底申し訳無さそうな様子だ。
「ああ、ああ〜そうか成る程な、そうか。ヤバイな、全く見えてなかった……」
 己の負けが信じられないのだろう。呆気にとられた様子でラファエルはチェスボードを凝視した。彼がこんな表情を見せるのは滅多にない。
「ハハハハハッ、しまったなあ、うっかりしていたなあ。凄いじゃないかアザゼル、この天界で私にチェスで敵う者などいなかったんだぞ。そんなわけで今回の勝負は無効だ、初めからやり直そう。私が負けるはずがないんだからな」
 真顔でサラッとこんな無茶を言うのがラファエルの凄いところである。それはもうアザゼルは呆気にとられた。横でヨーフィも開いた口が塞がらない。
「い、いやいやいやいやちょっとラファ兄それは大人げないっしょ!! 負けず嫌いにも程があり過ぎるよ!!」
「ぁあ? なんだと、誰のせいでこんなことになったと思ってんだガキ」
 ラファエルがその大きな手でヨーフィの顔面を容赦なく掴んだ。いわゆるアイアンクローというヤツだ。五本の指にメリメリと顔面を圧迫されたヨーフィは「イデデデデデー!!」と悲鳴を上げた。
「痛い痛い痛い痛いホント痛ーいッ!! やめてえええええー!!」
「うるさい、くたばれ……!」
 少年の嘆きなど聞く耳持たずラファエルはますます手に力を込めた。怒り収まらずといった様相だ。それもこれも良く言えば真面目さゆえ……。生真面目な彼はちょっとした勝負にも真剣に取り組み、勝敗の結果にも強くこだわってしまうのである。とどのつまりヨーフィの指摘通り度を越えた負けず嫌いなのだ。
「あ、あの……、やめてあげてラファさん。可哀想だよ可哀想……」
 勝利の美酒など味わう暇も無し。こりゃ見てられないと判断したアザゼルがラファエルをなだめに入った。
「ほほう、では今回の勝負は無効として後日改めて再戦してくれると誓うならばこの手を離そう。どうする、誓うか?」
 外道ここに極まる発言である。無茶苦茶だ。しかしこの条件を飲まなければヨーフィがいつまでも可哀想……。仕方がない。
「ち、誓う誓う……! 今回の勝負は無かったことにするし再戦にも喜んで応じるよ。だから離してあげてぇぇぇぇ……!」
「よし! 確かに約束したぞアザゼル!」
 不機嫌な形相から一転、得意げな笑みをアザゼルに向けてラファエルはヨーフィを投げ捨てるように解放した。やれやれ、酷い大天使様である。
「さーて、気分も晴れたことだし帰るとするか」
 足元で「痛い痛い」と嘆く少年天使になど目もくれずラファエルは一人清々しい様相でもって腕を振り上げ大きく伸びをした。
「帰るのはいいけど……。そこの可哀想な男の子、ちゃんと回収したげてね」
 おずおずとチェスの片付けをしながらアザゼルは草原に転がって咽び泣くヨーフィを見やった。
「なんだ、ちょっと顔面掴まれただけで情けない。……じゃあアザゼル、明日に再戦だ。予定しっかり空けておけよ」
「はーい」
 アザゼルの二つ返事を確認した後ラファエルは嘆くヨーフィを軽々と小脇に抱えて優雅に歩き去っていった。
(はぁ〜……、やれやれ……)
 大天使様の姿がだいぶ遠退いたところでアザゼルは肩を落として盛大な溜め息をついた。耳の良い大天使様にこの溜め息はしっかり届いてしまったことだろう。だが溜め息くらい出るというものだ。
(いるんだよなあ〜、対戦ゲームやるとああやって自分が勝つまでゴネにゴネていつまでも相手を付き合わせるタイプ……)
 足が痺れて集中出来なかったのは事実として、それでもあのゴネ方は酷い。酷すぎる。しかも扱いづらいことにああいうタイプはプライドが非常に高いせいでこちらが面倒になって「もう僕が負けて終わりにしよう」と下手に手加減しようものならすぐに見破り「この私に手加減をするつもりか!」と憤慨するに決っている。間違いない。
(魔界の王も凄いワガママらしいけど、うちの大天使様も相当だあ……)
 対戦に応じるんじゃなかったと後悔してももう遅い。しかし応じなかったら応じなかったでラファエルの性格を思えば「なんでだよ、暇だろお前!」と胸倉を掴まれていた可能性、大。どう足掻いても平和に逃れる術はなし。これつまり気儘な散歩の途中で彼にいきなり「チェスは打てるか」と話しかけられた時点でこちらの詰みは確定だったということだ。
「最強の駒、だね」
 アザゼルは手に持ったクイーンをしみじみと見つめた。
 ちなみに先程ついたアザゼルの大きな溜め息は案の定ラファエルの耳に届いていた。彼には少し可哀想なことをしてしまっただろうか。だが、仕方ない。譲れない。どうしてもどうしても勝負事で負けるのは嫌なのだ。可能な限り勝ちを収めていたいのだ。と、いうことでアザゼルには悪いがやはり今日の結果は無効として明日万全の状態にてしっかり勝たせてもらおう。
 自分で自分を強引に納得させたラファエルである。
「ラファ兄、俺まだ顔面がジンジン痛いんだけど……」
 小脇に大人しく抱えられていたヨーフィがボソリ。
「そうか、じゃあ骨が折れてるかもしれないな。まあ気にするな」
「なんでだよ気にするよッ!!」
「良い返事だ。それだけ喚けるならやはり心配は要りませんね」
「う……っ」
 悔しいかな返す言葉を失ったヨーフィはまたぐったりと頭を伏せた。まあ、こうして小脇に抱えて運んでもらえるだけ幸せだ。この細くしっかりとした腕に身体を預けて揺られるのはどうにも心地いい。ヨーフィはこっそりと顔を綻ばせた。景色の方に目を向けているラファエルは少年が実は御機嫌であることに全く気付いていない。
「この辺を歩くのは久し振りだなあ。少し花が増えたか?」
「今更〜? この辺に新しい花が一斉に咲いたのってだいぶ前だよラファ兄」
「へえ。気付かなかったな」
 耳だけじゃなしに目もそれなりに利く彼が気付かなかった、それつまり彼には景色をゆっくりと眺める余裕が殆ど無かったということだ。
(もっと俺に力があればなあ……)
 ラファエル一人が大きな負担を強いられている現状にヨーフィは唇を噛んだ。三年前にアザゼルが加勢しお荷物であった人間界も消滅したことから以前よりも状況は多少なりとも改善されたと思いたいが……。
「此処はラファ兄が守ってる世界なんだからさ、たまにはゆっくり景色も見てよ」
「そうだな、たまには眺めようか。でもなヨーフィ、この世界を守っているのは神であって私じゃないぞ」
「いいやラファ兄だよ。ラファ兄が神様を守ってるから天界はこうして今日も鮮やかさを保ってる。……ところで一つ聞いてもいい? なんで急にアザゼルとチェスなんかしてたの?」
 こちらから振ったものの正直『この話は苦手』だ。ヨーフィはそれとなく気になりつつもタイミングがなくて聞けずにいた素朴な疑問に話を逸らした。いやはや本当になんで急にチェス対戦なんかしていたのやら、と。
「ああ、単純に私の気まぐれだよ。アイツがいつも一人でボーッと散歩ばかりしているのが気になっていたからね、ちょっと交流を図ってやろうかなと」
「ふむ、なーるほど」
 確かにアザゼルは常に一人でいる。他の天使と交流している姿など見たことがない。とはいえ働きぶりは真面目であるしそれなりに社交的な部分も一応あってヨーフィが遊びに誘えば基本的に断ることなく乗ってくれる。だが向こうからこちらを何かに誘ってきたことは今の今まで一度もない。尚且つ素顔はマスクで覆ってひた隠しにしたまま。未だに住まいの場所も謎。常に結界を張って隠れているのだろうが、なんだってそこまで殻に篭もる必要があるのか……。相変わらず謎だらけ。ゆえにヨーフィは三年前に出会って以来アザゼルという不思議な存在が気になって仕方がなかったわけだが、その気持ちはラファエルも同じだったわけだ。
「……可哀想に。ラファに絡まれてアイツますます人付き合いが億劫になっちゃったぞ絶対……」
「ワハハハハッ! そうかもな!」
 流石、大天使様に悪びれた様子は僅かもない。
「どうでもいいがお前もう元気も元気じゃないか。自分で歩けハゲ」
「ハゲぇええええ!? っわ!?」
 ポイッと投げ捨てられてしまった。ヨーフィが驚異的な身体能力を駆使したおかげで無事に着地出来たからいいものの下手をしたら草原に顔面から突き刺さっていたところだ。
「んっもうラファ兄の俺に対する一挙手一投足が酷すぎるー!!」
「日頃の行いが悪いからだよデコッパチ野郎」
 あっさりした口調でこれまた酷い返しである。しかも彼はヨーフィを置いてさっさと先に歩いていってしまった。とことん酷い。まだチェスの敗北を引き摺っているのだろうか。
「俺が一体何をしましたかー!?」
 やれハゲだのデコッパチだの……。一応気にしたヨーフィは自慢のベリーショートヘアを労るように両手で撫でて早足にラファエルを追った。
「自分の胸に聞いてみなさい、たわけが。……あ、自分の胸に聞くで思い出した。お前は最近過去の出来事を何度も何度もしつこく夢に見ていたりするか?」
「へ?」
 突拍子もない質問にヨーフィは目を剥いた。
「有名な話だ、お前も当然知っているだろ。『過去を夢見るのは死期が近付いている証』だってな。死期が近付くとやり残したことはないか何か大事なことを忘れてないかと自問自答させるために死を本能的に予感した魂が奥底に眠っている過去をほじくり起こしてくる。で、なんの前触れだか分からないが近頃天界はもちろん魔界でも過去をしつこく夢に見ているヤツが相当な勢いで増えてきてるみたいでね。お前はどうだ?」
 やり残したことがないか自問自答するために過去を夢に見る――これはいつからかこの世界に生きる者が身に付けた悲しい習性だった。争い絶えないこの世界での歩みを少しでも幸あるものにしようと魂が足掻いた結果に得ることの出来た習性、というのが現在最も有力であり皆が納得している説である。
「あ〜……。俺は大丈夫。見てないよ」
 ヨーフィは何故か咄嗟に嘘をついてしまった。
「そうか、それならいい」
 はて、深く追求されなかったことを喜ぶべきか否か……。ヨーフィは複雑な気持ちを笑って誤魔化した。
「アハハハ。そういうラファ兄はどうなの?」
「私か。さあね」
 僅かも振り返ることなく颯爽と前を向いて歩きながらの返事である。
「さあねって、そんな……!」
「なんにせよ魔界の女帝が悪夢に近い過去を夢に見て悲鳴を上げる頻度が高まってきたのが気掛かりだ。近いうちに何かデカい動きがあると思っておきなさいヨーフィ」
「はーい……」
 どうにも上手い具合に話をはぐらかされた気がする。が、ラファエルはどれだけ追求しても一度誤魔化した話は簡単に白状しない。それだけ口が堅いのだ。諦めた方が懸命である。
「ねえラファ兄、もし女帝に死期が近付いてるとしたら感傷深いね。やっと戦争が終わるかもしれないんだな」
「ああ……、そうだな。争いが無くなったら私の存在意義も無くなりそうで複雑だが」
「そんな滅相もない!!」
 すると今日初めてヨーフィの前でラファエルが「アハハハッ!!」と大きな声で笑った。
「ハハハッ!! すまない、察してくれヨーフィ。数千年も戦争漬けの日々を送ってきたものだからどうにも想像つかないんだよ、張り合う相手のいない生活っていうのがさ」
「そりゃあ俺だって……。でもさ、大丈夫!! 争いがないってきっと凄く穏やかで楽しいことしかない毎日だよ、絶対に楽しいよ!!」
「だといいけど」
 目一杯に励ましたつもりだがラファエルからは苦笑いしか引き出せなかった。
(ラファ兄、俺がいる限り貴方の存在意義は無くならないよ。俺には貴方が絶対に必要なんだから)
 この思いを恥ずかしげもなく声に出して伝えることが出来たらどれだけ良いか。ヨーフィはヨーフィで自分の情けなさに苦笑いをし、改めて景色に目を向けた。透けるような青空の下で辺り一面を覆い尽くす花畑が風に揺られて甘い匂いを振りまきながら微かな音を鳴らしている。まるで平和とは何かをこちらへ語り伝えるように。
 争いさえ無くなればこうしていつものように颯爽と歩くラファエルの背中を早足に追える当たり前の幸せが毎日続くのだ、こんなに嬉しいことはない。
「あ……。あのさラファ兄、話は変わるんだけど〜……。今日久々にラファ兄の作ったミルクチーズリゾットが食べたいんだよね! 作って作ってお願いっ!」
「はあ? めんどい」
 ……予想通りの冷たい返事である。大丈夫、想定内だ。
「そう言わずに作ってよ、お願〜い!! お願いお願いお願ーい!!」
 ちょっとした用件の場合に限りこうして地団駄を踏めば大概ラファエルが折れてくれることをヨーフィは知っている。案の定すぐにラファエルは溜め息混じりに「仕方ないなあ」と零して空を見やった。常に天界を照らしている白い太陽が僅かに明るさを失っているのは時刻がもうすぐ夕飯時である証だ。
「ったく実はオッサンのクセしていつまでも赤ちゃんを卒業出来ないヤツめ。分かったよ、久々に作ってやる」
「やったー!! でもオッサン呼ばわり酷いッ!!」
「オッサンにオッサンと言って何が悪い。食材が無いから市場に寄ってくぞ。荷物持ち手伝え」
「はい喜んでー!!」
 この返事に颯爽と歩き続けていたラファエルが不意に歩みを止めてヨーフィを不思議そうに振り返った。
「お前って昔から乳製品ひたすら食い続けてるのに何故食っても食ってもただ雰囲気が乳臭くなるばっかりでちっとも身体デカくならないんだ?」
「なにそれスゲェ失礼なんだけどおおおおおッ!!」
 ラファエルに悪気はなかったんだろうがヨーフィ大絶叫である。
「いやなに、ふと疑問に思ったもんで」
 本当に悪気なさそうだ。
「疑問に思う時点でヒデェよ!! つーか俺がデカくなったらラファ兄は困っちゃうはずだぞ〜、まさか忘れてないだろうね。昔に交わした約束」
「は?」
「畜生、忘れてるのかよーっ!!」
 キョトンとしたラファエルの表情が皆まで言わずとも全てを物語っている。これは本当に覚えてなさそうだ。
「約束したじゃーん!! 俺がラファ兄の身長を抜いたらその時は俺のお嫁さんになるって!!」
 瞬間ラファエルは弾けんばかりに両目を剥いてスイッチが入ったように笑い出した。
「わははははは!! そんな何千年も前に軽く約束したことよく覚えてるなお前!! あははははは!!」
「ちょっ、笑いすぎなんですけどーッ!!」
「そりゃ笑うさ!! 何を思ったやら今より更に更に小さかったお前が牛乳を一気飲みした後に真剣な顔で私をジーッと見上げて『ラファ兄、俺頑張って大きくなるから』とかなんとか言い出して……! 覚えてる覚えてる!! 私を兄と呼びながら嫁に来いってそれどーゆーことだよと悩まされたからよ〜く覚えてるぞ、わははははは!!」
「畜生〜!! 覚えてるなら話は早いぜ!! 今もその約束は有効だぞ!! もし万が一に俺が身長抜いたらちゃんと結婚してもらうからな!!」
「ああ、構わないとも。もし万が一に抜いたらな、もし万が一に」
「うぬぬぬ〜!! その余裕ムカつく!! 絶対に無理だと思ってるな!? 分かんねーぞ奇跡起こっちゃうかもしんねーぞ覚悟しとけよホントに!!」
「はいはいはい。ほら、市場へ行くぞ」
 これまた酷く適当なあしらい方である。それだけ本当に無理だと思っているわけだ。
 それでいい。
「待ってよラファ兄〜!」
 ヨーフィは音も無くこの場から市場へ向けて先に移動してしまったラファエルの後を追った。
 そうして苦労の末に作ってもらえた懐かしい味は本当に懐かしく、これが自分にとって何より嬉しい御馳走であることをヨーフィに改めて自覚させてくれた。生まれて初めて口にした味というのはなかなか忘れないものだ。
 そういえばいつからだろう、このリゾットにベーコンとパセリが入るようになったのは……。完全離乳食と銘打ってこれを振る舞ってくれた時は本当に離乳食仕様で見事に具無しだったのだ。そこへいつからかさり気なく具を足してくれたあたりラファエルが一応少しはこちらの成長を認めてくれた気がしてヨーフィは嬉しくなった。
(今日はこのままラファ兄の家に泊まっちゃいたいなあ〜)
 楽しい時間を少しでも長く味わいたい――当たり前のように湧いた願望。しかし残念「ウチにはベッドが一つしかない。狭苦しいから帰れ」と言われヨーフィはあっさり帰されてしまった。願いというのはそう容易く次々には叶わないものだ。
 楽しい時間ほどあっという間に終わってしまうのは何故なのだろう。
(俺に残された時間、ひょっとしたら少ないかもしれないのに)
 ヨーフィは帰路にて無言で苦笑いを零した。誰も寄せ付けないとばかりにポツンとしたところに建つラファエルの家を出る時はいつも寂しい。



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