【10:想いが届きますように(4)】
あれはいつの話だったか、恐らくは堕天して半月ほど経った頃だ。街を築き上げて生活が少し安定したタイミングでのことである。サタン、バアル、レヴァイアといういつもの顔ぶれで集まってバアルの城にあるバルコニーにて優雅に昼食を取っていた最中レヴァイアが唐突に「ちょっと気になってることあんだけどいい?」と話の口火を切り、「俺の気のせいかもしんないんだけどサタンの名前って『サタン』だったっけ?」と首を傾げた。
意味不明。一体彼は何を言っているのか……。バアルとサタンは困惑の表情を見合わせた。
「何を言ってるんですかレヴァ君。サタンは生まれた時から今に至るまでずっとサタンと名乗っているでしょうが」
言い切るバアル。しかしレヴァイアは「違う気がする」と眉間に皺を寄せて譲らなかった。
「だって変だよ、今の今まで気付かずに呼んでたけどサタンって暗に『反逆者』って意味の込められた名だ。希望の神な兄ちゃんが生まれ持つべき名前じゃない。絶対におかしい」
「反逆者? ……あれ、本当だ。言われてみれば確かにおかしいな」
レヴァイアの疑問がしっかり根拠あってのものと理解したバアルは食事の手を止めて眉間に皺を寄せた。だが、どういうことだろうかと悩むまでもない。考えられる理由は一つだ。サタンらは反逆に失敗して魔界へ堕ちた際に創造主から様々な呪いをかけられた。この歪んでしまった姿見などその最たるもの。
そこでサタンとバアルはすぐに気が付いた。『恐らく派手に歪んだのは姿見だけではなかったのだ』と。
あの執念深く根の暗い創造主のことである、姿見を歪めるに留まらずあえて自覚させぬ静かな呪いも一緒に与えて何も気付かぬこちらを天上から見下ろし「馬鹿どもはまだ気付いていない」と小さな優越感に浸っていた可能性は限りなく高い。そうなると優に創造主を越えた力を内に秘めているレヴァイアだけはやはり例外でもって呪いをふとした拍子に乗り越え『一人だけなんらかの真実に気付いても不思議ではない』。と、いうことは……。
暫しの沈黙の後バアルが「あっ」と小さく声を漏らした。
「まさか、名を奪われていた……?」
この一言にサタンは針で突かれたように顔を上げてバアルとレヴァイアを順に見やった。二人も同じく驚愕の表情でもってサタンを見つめ、間もなくレヴァイアは気まずそうに視線を逸しバアルは悔しげに顔を歪めた。
「なんてことだ……。私は貴方を知らずのうちとはいえ反逆者呼ばわりしていたのか……! 希望である貴方を『サタン(反逆者)』と……!」
「ゴメン、言わない方が良かったかなコレ……。なんか名前が前と違うってことには気付いたんだけど肝心な元の名前はどうしても出てこねーし……。どう足掻いてもお前のことは『サタン』だって頭が強く記憶しちまってて希望を意味する本当の名で呼びたくても気付けば口が勝手にお前をサタンって言っちまう、クソ……!」
知らずにいた方が良いこともある。この話が正にそれかもしれない。レヴァイアは「あーもう俺ってヤツは……」と溜め息がちにボヤいて頭を掻き、気を紛らわせるように煙草を咥えてマッチを擦った。自分の無力さに苛立っているようだ。だが対照的に知らず識らず名を奪われていた当の本人は自体を全く深刻に捉えてはいなかった。
「んな顔しないのレヴァ君! 俺を希望の名で呼ぼうとするとどう足掻いても『サタン』って言っちまうんだろ? それってつまりお前らが今も俺のことを希望扱いしてくれてるってことじゃーん! そんだけで俺は嬉しいぜ! つーか言葉の意味なんて全部あとづけだろ。俺がサタンって名前を希望の意味に変えてやれるほど活躍しちまえば済む話じゃあないか、ワハハハハッ!!」
何事も前向きに。……しかし前向き過ぎてバアルに「出た、毎度お馴染み病的ポジティブ解釈」と溜め息されてしまった。
「バアルさん、しっかり聞こえてますよー!! なんつって、この通り俺は病的なポジティブ野郎だからとにかく気になったことがありゃなんでも遠慮無くすぐ言ってくれよレヴァ。俺らお前の鋭さを実はかなり頼りにしてたりするんだからさ」
それに余計なことばかりまた一人で抱えて欲しくはない。サタンは彼の負担を少しでも減らしてやりたかった。その気持ちはバアルも同じ。彼もまた「そう、その通り」とサタンの言葉に同意し頷いてくれた。
「そっか? それならいいんだけど……」
「胸を張りなさい! 今はなんでもかんでも手探り状態なんだ、気付いたことがあったらなんでも言ってくれよ。今更なにを遠慮し合う仲でもねーだろ」
歯切れの悪いレヴァイアの背を押すようにサタンは笑みを零した。
「それにしても名前か……。名前〜……。俺の本当の名前〜……。分かんねーな。ま、いっか。気にしない気にしない」
「いいのかよ!!」
バアルとレヴァイアが同時に声を荒らげた。いやしかし考えても考えても思い出せないのだから仕方ない。どうにも解決出来ないことは気にしないに限る。
「だーってヒントが一切無い状態でどうやって答え出すんだよ、絶対ムリだもん気にしないのが一番だ。名前がなんであれ俺は俺なわけだしな!」
希望の名で呼ぼうとすると勝手に言葉が変わってしまう、それつまり裏を返せば彼らがサタンを本当の名で今も呼んでくれているということ。ならば一体どこに嘆く理由があるというのだ。言葉の意味が『反逆者』だろうがなんだろうが彼らが親しみと温かい気持ちを込めて名を呼んでくれている事実は揺るがない。
「貴方らしい答えだこと」
バアルが朗らかな笑みを湛えて満足気に頷いた。だが――
(どうしよう、こいつらに一つ嘘をついちまった……)
すぐに後悔の波がサタンを襲った。何故なら名の剥奪を気に留めなかった一番の理由は気にならないことではなく『大きな安堵』だったからだ。反逆に失敗して仲間たちの夢を打ち砕いてしまったからには希望の名を剥奪されるのは当然でありサタンはひょっとしたら神にこんな呪いをかけられずとも自ら名前を封印していたかも分からない。
レヴァイアの話を受けて正直サタンは重たい看板を奪ってもらって良かった自分自身を呪う手間が省けたぜ、などと思ってしまった。
(無責任すぎるだろ俺、こんだけのことを仕出かしておいて……! 希望じゃなくなって良かったってどういうことだよ! アイツら今も俺を希望だと思ってくれてるのに……!)
罪の意識に耐えられなかったサタンはすぐに後日バアルとレヴァイアに名を奪われたことに対する本当の気持ちを打ち明け、謝罪した。すると彼らは憤慨するでもなく「なんだそんなこと!」と笑い、加えてレヴァイアは「そういうことを馬鹿正直に謝っちまうお前はこの世界で一番信用出来る男だ。希望であるお前が化け物である俺に信用されてる意味をよく考えてみろ」と肩を叩いて励ましてくれた。そして「俺の反対側にいるのがお前で良かった」とも言ってくれた。
ぶん殴られても当然のことをしたにもかかわらず彼はただひたすらにサタンを労ってくれたのである。
「…………なんで急にこんなことを思い出したんだろうな」
静かに呟いてサタンは分厚い鋼鉄の扉に手を当てた。相当に強い神の呪いを受けている扉ゆえ触れた瞬間に手のひらから熱い鉄板に肉を乗せた時のような焼けつくような音が漏れ、煙が出た。
ジワジワと火傷の痛みが手のひらに広がって感覚が痺れていく。しかし手のひらを離す気にはなれなかった。
此処は魔界の牢獄。リリスへのプロポーズを終えてバアルの城へ向かったあとにサタンは「ちょっと行きたいとこがある」とだけ告げてリリスをバアルとレヴァイアに託し一人でこの牢獄を訪れたのである。
此処に来るのは一月半振りだ。相変わらず真っ暗でなんとも言えない不気味な空気の漂っており、立っているだけで酷く気が滅入る。それでも立ち寄りたかった。
「カイン、俺とリリス結婚したよ。お前がそのきっかけをくれたんだ、ありがとうな」
どんなに声を飛ばしても向こうには聞こえるわけがない。だからこれは自己満足以外のなにものでもない行動だ。分かっている。分かっているがどうしても結婚した旨を彼に告げたかった。
「本当にお前のおかげだ。どれだけ礼の言葉を並べても足りねーよ」
サタンはレヴァイアが闇を一手に引き受けてくれたおかげで光を担うに至りカインが途方も無い孤独を引き受けてくれたおかげでリリスを得たことを自覚していた。
自分の一挙手一投足が常に誰かを傷付けている現状に反吐が出る。
だがそれは世の無常ではなく自分自身に自信が持てないことが原因だ。彼らを少しでも『犠牲』と思うことこそ傲慢だ。彼らはそんなことを望んではいない。それは彼らの人となりを思えば容易に分かることだ。なのに彼らを勝手に犠牲扱いするなどそれこそ自分に反吐が出るというもの。
「あと謝りたいんだけどよ。リリスの空みたいに透き通ってた青い目の色が俺のせいでちょ〜っと魔物じみた色になっちまったんだよね。でも相変わらずスゲー美人だから許してくれよな」
申し訳が立たないと思うならば彼らの全てを肯定出来るように事を運べばいい。彼らが己の選択を心から誇れますように。何もかもこれで良かったのだと互いに胸を張れるようにすればいい。申し訳が立たないと肩を落とすのはただの逃げ。全ては何がなんでもこれで良かったのだと言える結末に持っていけば済む話だ。
「色々と申し訳の立たないことばっかりだぜ。でも、だからこそお前と胸張って再会する為にも俺は命懸けでリリスを幸せにしてみせるよ。じゃあなカイン。いつになるかは分からないけど絶対に俺がこの扉をこじ開けてやるから待っててくれ。いつか必ずリリスと俺とでお前を迎えに来るからな」
この声が届かないことは分かっている。分かっているが、もしかしたらと夢見てしまうのは生きている以上仕方のないことだろう。サタンは無言で自分に苦笑いをして赤く焼け爛れてしまった手のひらを見つめた。
この痛みは自分の無力さの証だ。今はまだこの呪いに太刀打ち出来ないがいつかは乗り越えてみせる。困難な目標があることは幸いだ、そこに手が届くまでひたすら上を向いて歩いていける。
夕刻。サタンが寄り道を終えてバアルの城に向かうと謁見の間にて丸テーブルを囲んだバアルとレヴァイアがサンドイッチをツマミにワインを飲みながら和やかに結婚式について話し合っていた。リリスは城に着いて紅茶を一杯飲んだあと疲れを訴えた為に一室を借りて横になっているとのこと。本人はサタンの帰りを待ちたかったようだが「疲れている時は無理をせずに休みなさい。特に今日は大きな出来事があったのだから疲れて当然ですよ」とバアルに諭されて素直に部屋へ向かったらしい。頑固な性格の彼女にしては珍しい。それだけ体調が悪いということだろうか。
「じゃあちょっと様子を見に行ってみるかな」
「それは駄目」
お疲れの嫁さんを労りたかっただけなのだがバアルにすぐ止められてしまったサタンである。
「なんでー? なんでなんでー?」
「鈍い野郎ですね、それでも夫かアホ。リリスはあの性格だもの、疲れた顔なんて貴方には見せたくないと思いますよ。プロポーズしてもらった今日なら尚更」
成る程。大いに納得してしまった。これではアホと言われても仕方がない。
「そっか……。あんま顔に出してなかったけどや〜っぱ重かったんだろうなあ」
俺の加護が……と、サタンは少し溜め息した。
「貴方が二十年かけてゆっくり集めてきたものを彼女はたった一瞬で背負ってしまったんだ、受け止めるのに戸惑って寝込むのは仕方ない。だから決して責任を感じてやるなよサタン、それこそ彼女が落ち込む。向こうはしっかり覚悟を決めてのことだったんですから」
「分かってるよ。俺なりにリリスの性格は把握してるつもりだし俺も俺で覚悟してやったことだ、全く後悔してねーよ。…………ところで隣のお兄さんスゲー静かッスね」
言ってサタンは全く会話に参加してこないレヴァイアをチラリと見やった。
「おう。もんっの凄く真剣にウェディングケーキをどうするか悩んでんだよ」
どうりで煙草を吸いながら眉間に深い皺を刻んで何やら紙にレシピらしきものを書き込んでいらっしゃるわけである。
「そりゃあ嬉しいねえ!」
そういえばバアルの手元にも沢山の紙が広がっている。見るとその紙にはウェディングドレスのデザイン案がいくつも書き込まれていた。二人とも真剣に式のことを考えてくれているようだ。こんなに嬉しいことはない。が、ちょっと待て。
「王様、王様。俺の衣装は?」
「ああ〜、貴方は適当に普段通りの格好でいいんじゃないですか。なんたって結婚式の主役は花嫁ですからね。誰も貴方の方なんて見やしません」
「酷いッ!! 酷すぎるッ!!」
バッサリ切り捨てられてサタンは盛大に嘆いた。
「ま、いいから掛けなさいサタン。なにはともあれプロポーズ成功おめでとう」
全く悪びれない様子でバアルは椅子を勧め、装飾鮮やかなグラスに祝いのワインを注いだ。態度はアレだがちゃんと祝福の気持ちはあるのだろう多分きっと。
……どうでもいいがこのやり取りがツボに入ったのか先程まで手元の作業に集中していたレヴァイアが息を引き攣らせて笑っている。
「ありがとうございます、王様……! いっただっきまーす!」
椅子に座ってサタンは気を取り直すようにグラスを持った。
「ヒヒヒッ! でわ、お兄ちゃま夫妻の前途を祝しつつ後日ご馳走してくれるであろうステーキに期待を膨らませて乾杯〜!」
「後日頂けるであろう豪勢な指輪を期待して乾杯〜」
レヴァイアとバアルが順にサタンのグラスにグラスを合わせた。ガラス製のグラスが乾杯の軽やかな音を短く響かせる……んが、なんだかサタンはしっくり来なかった。
「お前ら本当に俺のこと祝ってるー!? んっもう揃って意地悪なんだから!!」
彼らの態度があまりにもアレなせいで全然信用出来なくなってきたサタンである。それでも喉に流し込んだ祝いのワインは格別の味がした。
「超んっまいなコレ〜!! いつ何処で誰が作ったワインだよ!? 初めて飲んだ味だぞ!!」
「詳細は内緒〜。でもこれ何気にバアルがワインセラーの奥底に隠し持ってやがった最高級ワインなんだぜ〜」
レヴァイアが悪戯っぽく笑う。その隣でバアルも得意げな表情を見せた。
「いつか何かの特別な日に飲もうと思って取っておいたものでしてね、今日飲まずにいつ飲むんだってことで奮発して開けちゃった。感謝なさーい」
「お、お前ら……!」
先程までの煮え切らない思いは何処へやら、一気に目頭が熱くなったサタンである。察するにこのワインはレヴァイアの手製だ。詳細を尋ねた際に「内緒」の一言で片付けたのがその証。店で購入したものならわざわざ内緒にするはずがない。それに、味で大体分かる。彼の作る料理はサタンの味覚のツボを必ず的確に突くからだ。それと察するに製造時期は堕天して間もなくこの荒れ地に葡萄が初めて実った時だろう。レヴァイアがたわわに実った葡萄を見上げて「やったー! 酒が作れるー! 酒ー!」と大はしゃぎしていたのを思い出す。その時バアルが「焦らない焦らない。折角の初物だからしっかり熟成させて特別な日に飲みましょう。とりあえず熟成完了したら熟成完了祝いに一杯ね」なんて話もしていた。
あの時に収穫出来た葡萄の量は決して多くない。ゆえに熟成完了祝い一杯飲んだきりで残りは物凄く特別な日に楽しもうとバアルが言っていたのを覚えている。
ならば彼らはつまり今日をその物凄く特別な日としてくれたのだ。
「王様や王様や、サッちゃんが今にも泣きそうな顔をしてらっしゃるぜ」
茶化してレヴァイアがサタンの顔を覗き込んだ。
「オホホホッ、色々と思うところがあるんでしょう。可愛いじゃあないですか」
バアルもバアルで茶化してきた。
「うるっさいなあもう!! ええと、式はいつにしよっか!」
劣勢も劣勢なのでサタンはどうにか話を逸らそうと考えた。
「リリスの体調が落ち着き次第かな。10日後くらいを目処に考えておきましょう。婚約の旨だけは後日カラスたちに街へ知らせるよう頼んでおきましたよ。暫くは街中から茶化されることでしょう、ざまーみろ」
「そいつぁ喜んでいいんだか嘆いていいんだかだぜ……!」
それにしてもリリスが少しばかり心配だ。サタンはバアルをジッと見つめた。
「なあ、目処を10日設けたってのは経験者としての判断か?」
バアルもレヴァイアという神に等しい存在から渾身の加護を受けた身だ、さぞかし貴重な体験をしているはず……という真面目な話を振ったつもりだったのだがどう受け止めたやらバアルは表情を一瞬で強張らせ、隣のレヴァイアに至っては煙草の煙が変なところに入ったらしく「ゴフッ!」と唸って煙を口ではなく目と鼻と耳から噴射した。
「えーーーーーーと……、なんの話でしょうか。私には全く覚えがないなあ〜」
出た、それはジブリールの話であって私は違う私はバアルだといういつものアレだ。
「んっもういちいち面倒臭いんだからもう! 必ずそうやってワンクッション設けるんだからもう! 事情全部知ってるんだから素直に話してよジブちゃん!」
すると強張るに留まっていたバアルの表情が憤怒に染まった。
「ジブちゃん言うなブチのめすぞクソがーッ!!」
物凄い怒鳴り声である。当のサタンはもちろん横のレヴァイアも恐怖に震え上がった。
「おおおおおお兄ちゃま!! 王様を怒らせるのはやめてください、後で俺が大変なんですっ!!」
「すすすすすすスミマセンでした!! でも気になるんだよお。お前どうだったのか教えてくれよ〜っ」
下手に出てのお願い。しかし機嫌を損ねたバアルは「フンッ!」と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
「知らん!! 身に覚えが無い!!」
嗚呼、これはとても話してくれそうにない。見兼ねてくれたのか新しい煙草に火をつけたレヴァイアが「やれやれ」と苦笑いをした。
「まあでもジブちゃんの経験談は聞いても参考にはならないと思うよサタン。なんたって負の塊な俺の加護を一身に受けたんだからひたすら苦しかったはずなのに彼女ってばドMだわ病んでるわだから苦しがりながらも俺がドン引くくらいハアハア気持ち良さそうに身悶えちゃって……痛あああああああああああーッ!!」
話の途中でバアルの拳がレヴァイアの脳天にめり込んだ。ゴツイ指輪をはめた左手による一撃である、それはもう物凄くエグい音がした……。固いクルミを鉄球で思い切り砕いたような音だ。これ頭蓋骨が陥没したんじゃないだろうか。見ていたサタン、顔面蒼白である。
「適当なことぬかしてんじゃねーよクソッタレ!! ……サタン、信じてはいけませんよ」
「は、はい……!」
ゾッとする程の爽やかな笑顔を向けられてサタンは頷く他なかった。
「適当なことなんか言ってないしクソも垂らしてないよ俺え〜っ! ひでぇなぁ痛いなぁ叩かれた衝撃で目玉飛び出すかと思ったあ〜っ!」
「自業自得だ馬鹿!!」
目に涙を溜めて頭を擦るレヴァイアを更に叱責した挙句、バアルは彼が手に持っていた煙草を素早く奪って吸い始めてしまった。
「あ、あの、ところで俺は本当に経験者による詳しい話をお聞きしたかったのでありますが……」
知識があればリリスのフォローをより上手く出来るはず、ゆえに冗談抜きで本当に本当に経験者の話を聞きたいのだが……。気持ちは伝わっているのかいないのかバアルはサタンに向けて口元に満面の笑みを保ちつつ細めていた目だけを爛々と剥いてしまった。いわゆる目が笑っていない不気味な笑顔を向けてきたのである。
「サタン。私は、経験者などでは、ありません」
不気味な笑顔に加えてこのたどたどしい物言い……。こりゃあ本気で何も話してくれそうにない。追求すればするほどただ悪戯に彼の機嫌を損ねてしまうだけだ。それは危険すぎる。
「わ、分かった、すいませんでした……!」
男には、恥を忍んで引かねばならぬ時もある。今がそうだ。バアルを憤慨させて得することなど何もないわけであるからしてこれは正しい判断だ。レヴァイアもウンウンと頷いてこの判断を支持してくれている。と、その時、開け放たれたままだった大きな窓からなんと金色のオーラを纏った敵将ラファエルが「お邪魔するよ」と堂々乗り込んできた。本当にあっさり堂々と。
「普通〜〜〜〜に入ってきたなお前ッ!!」
サタンとレヴァイアが揃って驚愕の声を上げる。一方バアルだけは既に気配を察していたのか全く動じることなく敵将にチラリと目を向けるに留まった。
「ええ、自分でもビックリするくらい普通にお邪魔してしまった。それもこれもどっかの誰かの酷く動揺した声と冴えないプロポーズが聞こえて一日中ずっと気分を害していたことをどうしても直接伝えたかったせいだな。結婚おめでとうサタン」
「祝福されてんだかなんだかよく分かんないケド一応ありがとうって言っとく!!」
敵将からの無表情の祝福にサタンはこう返すしかなかった。
「とにかくよく来たねラファエル。何か飲みますか?」
さらりと隣の椅子を勧めてバアルは煙草を灰皿に押し付けた。煙草の煙を嫌うラファエルをさり気なく気遣ってのことだ。
「酒は遠慮しておく。お茶をください」
素直に腰を下ろしてラファエルはレヴァイアを見やった。
「いいけど、いつだったか魔界の泥臭い水と生臭い葉で淹れたお茶は口に合わないとか言ってなかったっけ?」
意地悪く笑うレヴァイア。するとラファエルも意地悪い笑みで応じた。
「覚えているなら話は早い。泥臭い生臭いと分かっていても飲んでやると言っているんだ、光栄に思ってさっさと適当に何か淹れてくれ」
「ハハハッ。はいはい」
ラファエルがこういう言い方しか出来ないことを知っているレヴァイアは憤慨もせずただ笑って席を立ち近くに置いておいたティーワゴンの元へ向かった。
「ところで物凄〜く根本的なこと聞くけど、大丈夫なのかそんな普通〜に此処へ来ちゃって」
サタンが首を傾げる。今は敵対している同士とはいえ彼の身のことは一応心配だ。
「問題ない。また何やら孕んだらしくて神は今自分の腹の様子にばかり気を向けているからな。そもそも私はつまらんヘマなどしないよ。万が一にバレたとて、これしきのことでお咎めを受けるほど半端な仕事もしていない」
彼は一切目を合さぬまま答えてくれた。
「そう? そんならいいけど」
(俺のことは極力見ない、か)
バアルとレヴァイアにはしっかり視線を注いでいるにもかかわらずサタンの方には全く目を向けない。これはラファエルが反逆戦争の首謀者であるサタンを最も許せずにいる証だ。最愛の姉を堕落に導き自分と引き剥がした張本人と思っているのだ。
それにしても眩い天使である彼の姿はこのバアルの独特なセンスが光る城の中にて酷く浮いている。一瞬かつての友が完全な部外者に見えてしまったサタンは湧き上がった複雑な気持ちにこっそり唇を噛んだ。
「っていうかお前たちこそ大丈夫なのか? 私をこんな普通〜に招き入れてしまって」
するとサタンより先にレヴァイアが「大丈夫ですよーん」と答えた。
「殺気を持たずにやって来た相手に刃を向けるほど荒んじゃいないって話さ。はい、お茶どうぞ」
にこやかに良い匂いのするハーブティーを差し出し、レヴァイアは席に戻った。
「よく言うよ。本当はいざとなれば私など相手にならないと余裕ぶっこいてのことだろう、分かってんだよ。ま、とにかくお茶ありがとう」
普通にカップを受け取り、ラファエルは早速紅茶を口に運んだ。
「……うん、泥臭い水と生臭い葉で淹れたにしてはなかなかだな」
それつまり訳すと「美味い」ということ。その上機嫌な表情が全てを物語っている。
「お褒めにあずかり光栄でーす。サンドイッチとお菓子も遠慮なくどうぞ。つーかお前ちゃんと飯食ってるかぁ? 相変わらず味の無いパンばっか食ってそうで心配だわ」
「ご心配いただき恐悦至極。貴様の血を浴びたおかげで先日の戦争後は夢見の悪い日が続き3日ほど水しか口に出来なかったから少し痩せたかも分からない」
そういえば彼は先の戦争にてレヴァイアの血を受け絶望に全身を支配されて酷く嘔吐させられたのだった。
「あん時は俺も酷い目に遭ったんだ、お互い様だろ〜!」
アハハッと軽快に笑うレヴァイア。彼は何気にこういう席ではしゃんと割り切って話を出来る器用な男だ。
「何がお互い様だ! 私のが余程酷い目に遭ったわ!」
「ヒヒヒッ! だからこうして詫びにお茶を振る舞ってるんじゃあないか! ……ん? あれ? でもお前って俺が作ったお茶飲んだり飯食ったりしたら天界帰る時に腹の中のモンだけ弾かれて腹が爆発したりする?」
なにせバアルの指輪が木っ端微塵になった程の強力な壁が天界と魔界の間にはある。魔界での食事は大変な危険を伴うのではないかと今更ながら思ったのだ。だがラファエルは「何を言ってんだか」と一笑に付した。
「想像したら相当に面白い図ではあるが残念ながら私が食ったものはすぐに私のものとなるらしく大丈夫だ。ってことで話の本題に移ろう」
「あぁ、やっぱ俺に文句言いたかっただけじゃなしにちゃんと大事な話があったのね」
サタンが言うと「当たり前だ、ボケ」とこの日に初めてラファエルが目を合わせてくれた。ちょっと嬉しい。なんちゃって呑気に喜んでる場合ではない。これから真面目な話が始まるのだ。その証拠に横ではバアルが既に思考を巡らすため腕組をして視線を落としている。彼は思考を巡らす際に視線を落とすクセがある。視覚を極力断った方が頭がよく働くと思ってのことらしい。
「聞かずとも大体の察しはつきますけどね。こっちに決め手が無いのは勿論、そっちも今回の一件で決め手を失ったはずですから」
「御名答」
バアルの言葉にラファエルはニヤリと笑った。
「尚且つ神はどっかの野蛮な男にボコされたことが相当なトラウマとなったようでね、姉さんを手に入れたくて仕方がないとモヤモヤしつつも魔界に降りることは当分ないだろうな。……で、どうするかっていうと長期戦に持ち込む気でいるらしいんだ」
ここまで話してラファエルはテーブルの中央に置かれたハム玉子サンドに手を伸ばし一口食べて「姉さんの胃袋を捕まえただけある」と眉間に皺を寄せた。
「粒胡椒とマスタードが味の決め手だぜ。パンは自家製だ!」
ビシッと親指を立てて得意気に解説するレヴァイア。隣でバアルも「ジブリールは良い主夫を私の手元に置いていってくれました」としみじみ頷く。一方サタンはそんなことより何より早く話の続きが聞きたかった。
「うおおおい!! サンドイッチつまむタイミングおかしいだろ! 俺、話の続きがスゲェ気になるんだけどっ!!」
「うん? 仕方ないだろう、目に入った時からず〜〜〜〜っと美味そうだなと思ってたんだ」
眉間に皺を刻んだままサタンをチラリと見やりラファエルはサンドイッチを僅か3口で食べ切って紅茶を飲んだ。……ひょっとしてサタンと全く目を合わせなかったのは単にずっとテーブルの上にあるサンドイッチを凝視していたせいなんだろうか。
(俺って何かと難しく考えすぎなのかなあ〜!?)
自分の周りを囲む面子が揃いも揃って案外気楽に構えていることにサタンは軽い苦悩を覚えた。病的ポジティブ野郎であるサタンが一番アレコレ気を回し過ぎているってどうなのだ……。おかしい。こんなのはおかしい。っと、そんなサタンの苦悩など知る由もなくのんびりサンドイッチを食べ終えたラファエルは「じゃ、話の続きな」と仕切り直した。
「その長期戦のやり方が少々厄介でね。自我を持たない下級天使の量産は勿論のこと人間界の繁栄にもより一層の力を注ぐことにするんだそうだ。神はこの星に沢山の命が行き来すればレヴァイアとサタン、お前たち二人に大きな負担が掛かると読んでいる」
瞬間その場に僅かな静寂が流れた。命を愚弄する神の方針を聞いて全員が言葉に詰まったためだ。
「そっか……。参ったね。野郎はやっぱそういう方向に進むか……」
サタンは溜め息するしかなかった。なんとなくそういう手段に出るのではないかという予想はしていたがまさか本当に……といった気持ちだ。
「腹も立たないほどに正しいやり方だな」
つい先程まで温厚な表情を保っていたレヴァイアが目の色を僅かに変えた。明らかな怒りの表情……。しかし此処で憤慨しても意味が無いことを自覚してすぐに気晴らしの煙草を吸い始めた。彼はとても分かりやすい。ゆえに容易く心境を察して本来煙草を毛嫌いしているはずのラファエルも煙いだのなんだのといった文句を一切言わなかった。
(お前、こっちの人となりを未だにしっかり把握してくれちゃってんだなあ)
黙って一応の気遣いを見せるラファエルにサタンは少し感心した。レヴァイアもレヴァイアで風使いであることを活かし煙草の煙がラファエルに向かないよう黙って気を使っている。流石だ。
「人間に関しては下手に賢いと反抗しやがるってことで今度からは愛情を一切注がず欲望に特化した酷い馬鹿ばっかりを創る予定だそうだよ。そんで子孫繁栄に全力を注ぐよう促すんだと。そうすりゃ後は放っておくだけでネズミ算式に数が増えるだろうって寸法だ。尚且つサイクル早くするために人間の寿命は短めにするとかなんとか。ともかくもう馬鹿臭くて面倒見たくないから私はあんな世界放っておくことにする」
言ってラファエルは次にハムチーズサンドへ手を伸ばした。珍しくとことんお腹が空いているようだ。
「い、いやいやいやいや食ってる場合じゃないだろお前!! 神様スゲェ外道なこと考えてんじゃん!! なんとか止めろよオイッ!!」
サタンが声を荒らげるとラファエルはハムチーズサンドを咀嚼しながら「ぁあ?」と不機嫌そうに振り向いた。
「私が言って聞くような神なら苦労はしません。お前らがどう頑張ってもバアルに頭が上がらないのと一緒だ。彼はお前らが何か言ってどうにかなる王様じゃないだろ。そういうことだよ」
「ほほう、成る程。じゃあ仕方ない……」
納得なサタンとレヴァイアが声を揃えて同時に頷く。一方、今の今まで黙って話を聞いていたバアルは「何故そこで私の名を出す……!」と一気に不快感を露わにした。が、ラファエルは気にせずサンドイッチを食べ切って悠々と紅茶を飲んだ。
「だろ、もう決まってしまったことだ。今後、神は自我の欠落した天使たちを量産しては様子見の戦争を仕掛け命の無常を見せつける為に人間界の発展に尽力する。さて貴方たちはどう出るのかな。ひたすらに受け身を取るつもりか?」
「ええ、そうして起死回生の一撃を狙うつもりですよ」
誰よりも早くバアルが勝ち気な笑みをもって答えた。
「で、これから我々の拙い革命のせいで犠牲になるであろう無数の命に対して申し訳なく思わないのか、とでも貴方は言うつもりでしょうが残念でした。何が申し訳ないものか。我々が勝利すれば彼らの犠牲は無駄になどなりません。我々が降伏したところであの創造主の下では良い世界が築けるとも思えませんしね」
(……言いたいこと全部先に言われちゃった……)
出番が無くて肩を落とすサタンとレヴァイアである。一方のラファエルも溜め息がちに笑みを溢した。
「自信は揺るがない、か。わざわざ出向いた甲斐なしだなあ〜」
この反応からして彼がわざわざ今後の方針を教えに来てくれたのはやはり親切心ではなく焦りや罪悪感をこちらに与える為だったようだ。
「とことん長期戦になりそうで参っちゃうぜ。レヴァイア、お茶おかわり」
「え? あ、はーい。…………よく食いますなあ〜」
カップを差し出しついでにツナサンドを手に取ったラファエルを見てレヴァイアが笑う。
「夢見がちな貴様らと話をしているとストレスでやたら腹が減るんだよ、察しろ」
ご馳走になっておいてこの態度。
「まーたそんな言い方しか出来ないんだから全くもう。美味いなら美味いって素直に言いなさいよ」
横でサタンが茶化した。
「フンッ! 余計なお世話だ!」
嗚呼、鼻息を荒くしてしまった。良かった、すっかり人形のような表情ばかり見せるようになってしまったラファエルだがまだ少しのことですぐに怒り出す子供っぽい一面もしっかり残してくれている――サタンは堪らず綻びかけた表情を必死に制した。
「あっ、そうだラファエル」
安心ついでにサタンはふと思いついた。
「ちょっとひとつ頼まれてくれねーかな。なにかしらの礼はするからさ」
「頼みだと?」
言ってラファエルは返事を迷ったのか視線を一度サタンから外した。そして思考を巡らし結論を出したのだろう。暫しの沈黙から間もなく彼は警戒の色を濃く宿した目を真っ直ぐに返してきた。
「………………。ろくな話じゃなさそうだが一応聞いてやる」
「おう、ありがと!」
返事の仕方からしてどうやらラファエルは承諾することを前提に話を聞いてくれそうだ。サタンは安堵の笑みを湛えた。
目を閉じベッドの上で横になっていても不思議なほど身体は全く休まらなかった。部屋はとても静かだが遠くから無数の話し声が耳に届き頭の中にはサタンから受け取った記憶の波が押し寄せ続け、気を抜くと視線は何処か適当な場所を彷徨ってしまう。ゆえに何もしていなくても目が回る。
今もまた視線が勝手にバルコニーまで出て行ってしまった。
(ああ、まただ……。ちゃんと帰ってこなきゃ……)
リリスは重たい手を動かして手の甲を軽く抓り、目を開けた。……良かった、痛みを辿って無事に帰って来れた。
(早く、慣れなくちゃ……)
覚悟していたこととはいえ、いやはや。こんな有り様ではサタンに心配をかけてしまう。いや、心配だけならまだいい。優しい彼のことだ、加護を授けたこと自体を悔やんでしまう可能性もある。それだけは絶対に避けたい。
(ワガママだなあ、私……。せっかくお嫁さんにしてもらったのに……)
悔やませたくない、心配かけたくない、一人で寝ていたい、彼に胸を張ってもらうためにも早く自力でこの状況に慣れたい、これ全て酷いワガママだと分かってはいる。せっかく夫婦になったのだから本来なら恐れずに二人で痛みを共有するべきだ。だが、どうしても譲れない。
嗚呼、どうしたら一刻も早くこの身体に慣れることが出来るのだろうか。
今のところ利便性よりも身体と魂の繋がりが浅くなってしまったことの大変さばかりが身に沁みている。まさか此処まで自分を保つことに苦労するとは……。バアルの城に鏡が沢山置いてある本当の理由が今やっと分かった気がした。あれは自己を保つ為に必要なものだったのだ。身嗜みにさぞ気を遣うからだなんて呑気に思っていたのが申し訳ない。
天地創造時に生まれた天使は肉体と魂の繋がりが淡く自己を保つため常に気を張っていなければならない――サタンが与えてくれた知識だ。彼は自己を保つために気を張り続けるがゆえ彼らの多くは眠ることを苦手とし食事や嗜好品や身体での遊びに依存し易い傾向にあるとも教えてくれた。されどこれはまだ神が創造に不慣れでありながらも己の身を削って子供たち一人一人を大切に産み落としたことによる悪意の無い結果ゆえ未だに誰もこれに関する不平だけは口にしないのだとも……。
――腐っても俺らにとってアイツは親なんだよなあ――
サタンの記憶が見せてくれた天使たちの苦笑いが瞼の裏に過った。
「目眩が止まないのであればやはり淡い結界を張った方が良いのではありませんか。無理に早く慣らそうとするのは無茶です」
「え……?」
不意に頭上から降り注いだ淡々とした声。目を向けると無表情のライムがいた。カラス姿ではなくあえて人間形態でいるのはリリスの頭の中ではなく直接声をかける為だろうか。
「失礼、バアル様から貴女を見守るよう言われまして。勝手に部屋へ入ってすみません。でも声は掛けたんですよ。ドアのノックもしました」
「あ……。ごめんなさい、私きっと凄くボーッとしていたから気付かなかったんですね……。あの、結界はやっぱりいいです。まだ慣れていないけど虫の声とかがよく聞こえるの楽しいですし」
「ああ、この城の裏庭は色んな生き物が住んでて賑やかですからね」
優しげな声。……だが無表情だ。あんなにあんなにバアルに向かっては朗らかな笑みを湛えてみせたくせに今はまた酷い無表情だ。態度が違いすぎてどうにも悔しい。が、まあいい、そのうち微笑んでもらおうと気を取り直してリリスはゆっくりと身体を起こした。
「サタンさんたちはどうしていますか?」
「皆さん揃って謁見の間にて歓談中です。ところでもう間もなく夕食時ですがリリス様、食欲の方は如何ですか?」
「食欲は〜……正直微妙ですぅ。でも喉は渇いたかな。お茶か何か頂けると嬉しいのだけれど〜……」
キョロキョロと室内を見渡す。と、テーブルの上にあるティーセットが目に入った。先程までは無かったものだ。察するにライムが持ってきたのだろう。
「カラスの淹れたカラス臭いお茶で良ければ振る舞いますが」
「あはは。何をおっしゃいますか。是非お願いします」
「分かりました。お待ちを」
丁寧に一礼してライムはすぐにお茶の準備を始めてくれた。カラスの淹れたカラス臭いお茶などと自傷気味な言い方をしていたがなかなかに慣れた手捌きだ。
「あのう、どうにも私は貴方を見ていると好奇心が湧き上がって仕方がないのでまた色々とお尋ねしたいんですが」
「構いませんよ。バアル様をそれを見越して私を此処へ寄越しました。私の存在が貴女の良い気晴らしになれば、と」
「えええええっ!?」
ちょっとそれは、どうなんだろう。しかし実際に彼の出現によって意識は自然と彼に集中し先程までの酷い目眩も大きな無数の声もピタリと止んでしまった。これつまりバアルの読みは正しかったということだ。
「ああ、えっと、じゃあ、その早速なんですがライムさん普段からその姿でバアルさんたちと暮らそうとは考えないんですか? 便利過ぎる人の姿をしていると色んな欲が出てしまうとは言っていましたけど……、欲が出るくらい別にいいんじゃないのかなあ〜なんて私は思ったりなんかして」
「そうですか? でも私は同居人ではなく城の裏庭に住むバアル様のペットでありたいのです。それ以上の関係は望みたくありません」
「どうしてどうして?」
リリスが堪らず詰め寄ると、きっと以前だったらば聞こえることはなかったであろう小さな小さな声でライムが「鈍い女だ……」と零した。
「あああああ!? 酷ーいっ!! 聞こえましたよ今の!!」
「おや聞こえましたか、失礼しました。悪意はあります」
「なにそれ謝ってなーい!! ……で、どうしてライムさんはペットでいいんですか?」
気を取り直し改めて問いただす。するとライムは仕方ないなあと言った風に顔を上げた。
「我が君の側にいたいからですよ。私がもしカラスではなく普通の男であったならばバアル様は決して私をお側になど置いてくれなかったことでしょう。あの方はああ見えてとても一途ですので。どうあっても心だけはね」
心だけは……。なんとも色んな受け取り方の出来る言葉である。
「最後の補足がとっても意味深ですね……!」
「そこは御自由に想像してください。私はこれ以上何も言えません。あまり喋りすぎると我が君の氷で冷凍カラスにされてしまいます。はい、お茶をどうぞ」
ヒョイッとティーカップを差し出された。中身はとても甘い香りがするミルクティーだ。
「あら、ありがとう」
受け取って何度かフーフーと息を吹きかけた後に口をつけると、期待通りの甘くて柔らかい味がした。
「ライムさん、とっても美味しいです!」
「そう? カラス臭くはありませんか? 大丈夫ですか?」
「んっもう、その『カラス臭い』ってなんなんですかもおおおおっ。大丈夫です! 良い匂いしかしませんしとっても美味しいですよ」
「そうですか。良かった。お褒めに預かり光栄です」
良かったと頷くライム。しかし無表情だ。徹底して無表情だ。
(私、新たな目標が出来ちゃったかも分からない!)
いつか彼を自分の前でもニッコリ笑わせてみせるという目標だ。やり甲斐があること間違いなしである。
「ふう……。紅茶を飲んだら凄く落ち着きました。ちょっと夜風に当たってきますね」
「ええ、どうぞ」
返事を確認し彼に空のティーカップを渡してリリスはゆっくりとバルコニーに出た。涼し気な風が頬に当たって気持ちが良い。もうすっかり夜だ。…………それはいいが視界の端に何やらあり得ない気配が入り込んでいる気がした。まさかそんなわけがないが確かに入り込んでいる。恐る恐る振り向くとそこには見間違いでもなんでもなく実際本当にバルコニーの柵に腰掛けて夜風に長い金髪をそよがせた敵将ラファエルがこちらを静かに見つめている姿があった。
「ぎょあああああああああああああ!?」
およそ婚約を済ませたばかりの新妻とは思えぬ豪快な悲鳴を上げてリリスはバルコニーの端ギリギリまで後ずさりをした。
「おや、おぞましい化け物を見たかのような美味しいリアクションをありがとう。黙って待機していた甲斐あったというものだ」
憤慨しなかっただけ幸いと思うべきか否か、ともかくラファエルはリリスに向かって至極満足気な笑みを零した。
「な……っ、何故貴方が此処に……!?」
「さあ、なんででしょうね。とにかくご婚約おめでとうリリス。これで貴女は中立の泥人形ではなく正式に神の敵となった。次に戦場で会った時は見逃しませんよ、覚悟しておくことですね」
言ってますます目を細めるラファエルにリリスは静かに戦慄した。無理もない。ラファエルには神々をも超えた得体の知れない唯一無二の迫力がある。ゆえにリリスから見ても彼は何か創造主ともサタンともレヴァイアともバアルとすらも違う異種異様なものをその身に宿している気がしてならなかった。サタンの記憶を継いで彼のことを更に知ったからには余計である。
「お久し振りです、ラファエル様」
動揺し切りなリリスの様子などそっちのけで後から悠々とやって来たライムは片膝を折ってラファエルに跪いた。
「おお、久し振りだなライム。未だ私に頭を垂れてくれるとは思わなかった」
「私も正直なところ神の下僕と化した今の貴方には頭など下げたくはないのですが下僕と化してもなお貴方様がバアル様の大切な妹君であることには変わりありませんので」
本当にライムは無駄に正直なキャラのようだ。あのラファエルが「ひでぇ言い草だな」と眉間に皺を寄せてしまった。
「その口振りからして変わりないようで安心したよ。もういい、おもてを上げろ」
「有り難き」
あっさりと立ち上がるライムを見届けラファエルは再び強張っているリリスを見やった。この冷徹な雰囲気を帯びた金色の瞳に見つめられると全てを見透かされているような気分になる。正直、恐い。だが震えているばかりではいけない。
(こんなんじゃ駄目だ、ただ震えてるだけじゃサタンさんの奥様として情けないよ私……!)
リリスは自分を叱責し、思い切って顔を上げた。
「あ、あの……、貴方がしっかりと殺気を抱いて此処へ来たのなら貴方が槍を構えるよりも早くサタンさんたちが駆けつけてくださるはずなんです。でも誰もいらっしゃらない。そもそもそこにいるライムさんが凄く呑気。だから貴方は今日誰かを傷付けに来たわけではないのだと信じます。先程はお祝いのお言葉をありがとう。私の前に現れたのはそのため、ですね?」
緊張を隠して話し掛ける。するとラファエルは呆れたような笑みを零して肩を竦めた。
「当たらずといえども遠からず、といったところだな。……サタンからカインへ手紙を渡すよう頼まれた。そのついでだ、お前もカインへ手紙を渡したいなら預かってやらんでもないぞ」
言ってラファエルは先にサタンから預かっていたものと思われる封筒を何処からともなく取り出してリリスに見せてくれた。
「え? ……ええええ!? あ、あの、頼んでもいいんですか!?」
すぐに飲み込めないほど嬉しい話を聞いてしまった。そうだ彼は天使だけあって牢獄へも自由に行き来できるのだ。ゆえに彼を介せばあのカインにメッセージを送れる。あの数千年先まで一切の接点も持てないはずのカインに――!
「ええ、私の気が変わらなければね」
気が変わらなければ……。これは暗に急かされている。どうしよう、早く手紙をしたためなければラファエルの気が変わってしまう。
「分かりました!! えっと、ライムさん紙とペンを貸していただけますか!?」
「もう用意してあります。どうぞ」
ライムが手で指した先には紙とペンとインクの用意されたテーブルセットがあった。よし、早速手紙を書こう。でも……。
(何を書けばいいかな……)
彼に語りたいことは山ほどある。あれから此処でどう過ごしどんな経験をし何を感じたかその全てを語りたい。が、そんなの間違いなく文字に書き切れない。
(閃いた! どうしてもどうしても伝えたいことだけを書こう!)
リリスは椅子に座るなり迷いなくペンを滑らせて瞬く間に手紙を書き終えたのち仕上げとして常に持ち歩いている小瓶に入った愛用の香水を紙に一吹きした。
これでよし。
納得の仕上がりに笑みを零してリリスはバルコニーで待つラファエルに「これをお願いします」と瞬時に書き上げた手紙を差し出した。
「おい……。そこまで急かしたつもりはないぞ私は」
あまりの早さにラファエルが目を丸くした。それほどあっという間のことだったのである。それでも残念ながら隣に立つライムは無表情のままだ。相当の驚きを与えないと彼のポーカーフェイスは崩れそうにないらしい……と、いけないいけない。彼の表情を崩すのは後回しだ。今はこの千載一遇の好機を大事にしよう。
「大丈夫です、伝えたいことはちゃんと全て書きました。お願いします」
改めてリリスはラファエルに深々と頭を下げた。これでリリスの言葉が虚偽でもなんでもないことをラファエルは察したのだろう。すぐに納得してくれた。
「分かった、手紙は確かに預かった。必ず彼に渡そう。ああ、あとついでにコレを返しておく」
コレと言ってラファエルは何処からともなく厚手のショールを取り出してリリスに突き出した。
「え? あ、これ……」
ショールを受け取ってリリスはすぐに気付いた。これは先の戦争にてリリスが服の破けてしまったラファエルの身体に掛けたものだ。まさか返してくれるとは思わなかった。それもわざわざこんなシミ一つ無く綺麗に洗って返してくれるとは……。
「借りたものはしっかり返す主義なんでね。確かに返したぞ。これで貸し借りなしだ清々したぜ。では失礼する。次に会う時はお互いが殺し合う時だな」
瞬間、温和な色を保っていた端正な顔が一転して狂気じみた笑みを湛えた。
「あ……。あの! 待ってください! あの……、どうしても貴方と私たちは戦わなくちゃいけないんですか?」
リリスにはどうしても彼を完全に敵視することが出来なかった。こうして手紙まで預かってくれたのだ余計である。しかし相手は慣れ合うつもりなど無いと言わんばかりにますます狂気に顔を歪めた。
「ええ、どうしてもだよ。察するにサタンの記憶を見て頭が毒されたんだろうが『彼の記憶にある私はとっくの昔に死んだ』。今の私は彼らの友人でもジブリールの妹でもないただの神の下僕だ。踏みつけるに躊躇する必要は無いぞリリス」
「そんな……。そこまで自分を卑下した言い方するならどうして皆さんと一緒の志を持って革命に参加されなかったんです!? どうして!?」
必死に問いただす。するとラファエルは感心したように「ほお〜」と唸ってみせた。
「随分と生意気な口を叩きますなあ。この私に説教とは恐れ入った」
「い……、いえ、私はただ……、不思議なだけです……」
考えを全く読めないからだろうか、やはりリリスには彼が恐くて仕方がなく感じた。
「そうか不思議か。しかしお前に語ることは何もない。そっちがどう思おうが私は迷わずお前に刃を向ける。早く開き直っておくことだな」
「……はい……」
これ以上言葉を続けることを許してくれそうにないラファエルの態度を受けてリリスは堪らず俯いた。
そうだ、口を挟む余地など僅かもありはしない。敵将ラファエルは間違ってもリリスの一言二言で心変わりするような相手ではないのだ。
「気のない返事だこと。まあいい。バアルをこれからもよろしく頼んだぞリリス」
「えっ?」
バアルをよろしく頼む――全く予想していなかった言葉にリリスは俯かせていた顔を弾くように上げた。すると僅かに温和な表情を湛えたラファエルと目が合った。
「ここだけの話だが貴女は女神ジブリールを模して創られた女なんですよ。神は神なりにジブリールを本気で愛していたからな、模して創れば否が応でも想いを込めることが出来、強い魂の宿った良い女が完成すると思ったのだろう」
結果は超残念でしたけどねと笑うラファエル。リリスとしては複雑な心境だ。
「それはともかく勘の良いバアルは出会ってすぐ貴女が自分の模造品であると気付いたことでしょう。そして実の妹のように愛しく感じたに違いない。貴女を見る彼の目はとても優しいから。…………『彼の実の妹は既に亡くなっています』、代わりを務めろとは決して言わないが是非これからも仲良く寄り添ってやってください。彼はああ見えて酷い寂しがりやだから」
「貴方……」
そこまで気遣っておいて『実の妹は亡くなっている』などとよく言えたものだ。しかし追求するのは野暮というものだろう。リリスは素直に頷いておいた。
「はい、私でバアルさんを癒やすことが出来るのなら喜んで」
「大丈夫ですよ私も側におりますので」
今の今まで全く口を挟まずにいたライムがサラリと会話に割って入った。
「ああ、お前はカラス臭いのが欠点だが一応は頼りにしているぞ」
出た、カラス臭いという言葉。まさかラファエルまで口にするとは思わなかったリリスである。
(だからなんなんですか、そのカラス臭いっていうのは!)
ライムからは香水の良い匂いしかしないのだが、はてさて……。と、その時どこからともなくレヴァイアが突然この場に現れて「ほい、特製弁当お待ちぃ!」と布に包んだ大きな箱をラファエルに差し出した。
「おお〜、出来たか。良い匂いだ」
「おう、俺の得意料理ばっかり山盛り詰め込んだぜ! 温かいうちに食えよ!」
平然と箱を受け取るラファエルと妙に得意げなレヴァイア。一体これはどういう状況なのやらリリスには全く分からない。だが「本当にお礼はこれだけでいいのか?」というレヴァイアの言葉を受けてなんとなく察しはついた。
「十分だ。では失礼するよ……っと、その前にコイツをバアルに渡しといてくれるかレヴァイア」
唐突にラファエルがポイとジュエリーボックスのような小箱をレヴァイアに投げ渡した。
「へぇ〜。いいけど、なーんで直接本人に渡さないんだよ」
片手で軽く受け止めたレヴァイアが首を傾げる。
「んなもん1つ渡したらお礼も言わずに10欲しがるアイツの性格がクソ面倒だからに決まってるだろ。それやるから指輪が指輪がーって指輪失くしたこと嘆くのもうやめろって伝えとけ。わざと私に聞こえるよう延々喚きやがって全く。耳障りで仕方ない」
「アハハハハッ! 分かった、伝えとくよ」
「よろしく頼む。……ところでレヴァイア、一度聞きたかったんだがお前は一体いつまでバアルを信用する気なんだ? アレの腹黒さはお前が一番よく知ってるだろうに」
瞬間、レヴァイアは「ぁあ?」と唸って眉間に皺を刻んだ。
「何を言うかと思えばだぜ。心配は無用だ、アイツは確かに酷い腹黒野郎だけど俺の利にならないことだけはしないよ絶対に」
「ほほぅ、相当な自信だな。それならいいや。ではまたな」
「ああ、また」
この簡単な別れの挨拶の後ラファエルはその場から音もなく姿を消した。はて、サタンとバアルの見送りは要らなかったのだろうか――なんていうのはきっと余計な世話だ。付き合いの長い彼らのことである、リリスの知り得ない暗黙の了解とやらを数多く持っているに違いない。でなければ先日の戦争であれだけ凄惨なやり取りをした後にこんな和やかな会話が出来るだろうか。普通に考えれば出来やしない……なんてリリスがひたすら思考を巡らせている横でライムが「やれやれ」と呑気な声を出した。
「レヴァイア様、我が君の悪口を言い過ぎです。確かに我が君は凄く凄く凄く凄〜く面倒な性格の持ち主ですし驚きの黒さを誇る腹をしておられますが言い過ぎです」
「ぁあ? ま〜たお前はそんなカラス臭いこと言いやがって全く」
またまた出たカラス臭いという言葉。
(レヴァさんまでカラス臭いって言った!!)
ただでさえ色んな思考が巡っている最中の頭に『カラス臭い』という言葉が妙に響いて困るリリスである。
「ところでリリッちゃん体調はどう? 飯の準備できたんだけど食えそう?」
「あ、はい! 身体の変化にはもうだいぶ慣れてきたのか生意気にもお腹はバッチリ空いちゃってるので皆さんと一緒に御飯食べたいです!」
「そりゃ良かった! 飯が食えるなら一安心だ、いっぱい食って早く元気になれよ」
「はい! ……あの、サタンさんもバアルさんも私のこと心配していますか?」
問いかけてすぐに後悔した。何故こんなことを聞いてしまったのかと。
「あ? そりゃそうだよ、心配してるに決まってるだろ」
案の定レヴァイアはなんでそんな当たり前のことを聞くんだといった態度だ。
「そっか、そうですよね……。すいません、どうにもこんな脆い身体をしていることが申し訳なくて」
するとレヴァイアは「それ悪い癖だな」と苦笑いしてリリスの頭をガシガシと撫でた。
「申し訳ないと思うことを申し訳なく思えよ。それが出来るなら苦労はしないって話なんだろうけど、それでもだ!」
「は、はい……!」
と、返事をしつつリリスがいまいち納得いかない顔をしていることに彼は気付いたのだろう。今までにない優しげな声色で「大丈夫だよ」と言ってくれた。
「よく考えてみろリリス。兄貴は反逆を決意するにあたって長い間ずっと誰も想像つかないくらいの苦悩を強いられたんだ。それをだよ、もし僅か半日でリリスがすんなり受け止めちまったら逆にサタンはショック受けるっつー話だぜ!! 絶対に最低でも3日は寝込んじまうだろうな!! だからこう言っちゃなんだけど俺は素直にリリスが寝込んでくれて安心した!」
冗談交じりにアハハと笑うレヴァイア。だがこれは今のリリスにとって何より嬉しい励ましの言葉だった。
「あ……。ありがとうございます……! そっか、寝込んで当たり前なんですよね……。あの…………、あっ、やっぱりいいです。なんでもない」
「うん?」
「いえ、なんでもないです本当に! ごめんなさい!」
ジブリールはレヴァイアの加護を受けた際にどうだったのかと聞きたかったがすぐに思い留まってリリスは必死に誤魔化しを図った。あまり彼に向かって気の利かない質問はしたくない。しかし相手は気難しい女神さまと親しい間柄だっただけにこういうこととなると妙に鋭さを発揮してしまう男だった。
「あんだよ、もっと信用して欲しいなあ。俺はリリッちゃんになら何を言われても傷付かないしリリッちゃんを嫌いになることもないッスよ」
バレバレである。ついでに言うと隣にいるカラスも無駄に鋭い男であった。
「我が君もかつてレヴァイア様の加護を受けた際は様々な重みにのた打ち回られた。我が君は常軌を逸した変態なので善がり半分でしたが、ともかく我が君でさえも神に等しい者の加護を受けたらそんな有り様だったんです、当然貴女程度の存在が容易く耐えられる代物ではありません。寝込んで当たり前、寝込んで当たり前」
「うわああああん、なんか凄いこと言ってるし慰めてくださってるんでしょうけど妙に腹が立ちます〜!!」
無表情を保ったまま一人うんうんと頷くライムにリリスは声を荒らげた。
「おう、そんだけ大声で嘆けるなら結構だ! 飯食いに行こうぜ、二人が待ってる」
「はいいい……」
嘆きながらもリリスはレヴァイアが差し出した手を取った。そして一瞬で移動した先の部屋では美しい銀食器の並んだ長テーブルを前に談笑をしているサタンとバアルの姿があり、彼らはリリスの姿を見るなり「あっ」と声を上げてすぐに席を立った。
「リリッちゃんもご飯食べたいってさ」
旦那の前でいつまでも新妻の手を握っているわけにはいかない。レヴァイアはすぐに気を利かせて手を離し、歩幅一歩分の距離をとった。
「リリス! 身体は大丈夫なのか?」
早足に駆け寄ったサタンがリリスの手を力強く握る。やはり彼に心配をかけるというのはどうにも申し訳ない気持ちになって仕方がない。でも、これでいいのだから胸を張ろう。リリスは自分に言い聞かせて表情に笑みを湛えてみせた。
「ええ、一丁前にお腹が空くくらいには大丈夫です。心配かけてすみませんっ」
これを聞いてサタンはホッと胸を撫で下ろし、横でバアルも朗らかな笑みを湛えてくれた。
「いえいえ。下手に焦った様子もなく安心しました。大丈夫、すぐに慣れますよ」
「はい! ……っ…………」
ラファエルの話を聞いた影響だろうか、リリスは頷くなり気付けば衝動的にバアルの背中に両手を回して抱きついていた。
「夫の目の前でなんと大胆なーッ!!」
空気を読まないというか読めない夫サタンが嘆きの声を上げた。
「あらあらあらあら。何かあったんですか?」
抱きつかれた当人も何事やら把握出来ずに目を丸くした。この反応から察するにラファエルはリリスとの会話を彼に悟られぬよう気を配っていたのだろう。それにしても何かあったのかと改めて問われるとなんと言っていいやら分からない。そうして答えに迷っている最中、後から部屋にやって来たライムが「いいえ何もありませんよ我が君」と咄嗟の言い訳をしてくれた。
「特に何かあったわけではありません。ただ、あの敵将と顔を合わせたんです、強気に応じていましたがやはり少し緊張したのでしょう」
違和感のない言い分だ。「だったら俺に縋ろうよお……」とサタンは頬を膨らませてしまったがバアルはすぐに「成る程ね」と納得してくれた。
「ところで貴方たち会話の最中に私の悪口を言っていませんでしたか? 性格がクソ面倒だの腹黒野郎だの常軌を逸した変態だのって言葉が朧げに聞こえたんですけども」
「それは気のせいです我が君。では私は一旦失礼致します。また何かあればお呼び出しください」
言うだけ言ってライムはカラスに姿を変え開け放たれたままであった窓から素早く外へ羽ばたいていった。とどのつまり彼は後のことをレヴァイアに全部押し付けて素早くこの場から逃げたのである。
「あの野郎〜!! ……あ、えっと、さーて飯にするか! あとは火を通すだけでーす! お待ちあれ〜!」
これはマズイと判断してレヴァイアもその場から一瞬で逃げてしまった。やれやれ。リリスはさてどうバアルの機嫌を取ろうかと頭を巡らせた……が、そんな気遣いをする隙など微塵もなかった。
「まあでも常軌を逸した変態だのなんだのって全部当たってるじゃねーか」
この全くなんの意味もなく自ら危険に飛び込んでみせるのがサタンという男である。
「お前が私の何を知っているんだ何をッ!!」
やっぱり即行怒られた。が、このやり取りにリリスが大声で笑ったことを考えるとサタンの特攻は決して無駄にはならなかったと言える。
ちなみに暫くしてレヴァイアがテーブルに並べてくれた料理の数々は心成しか所謂『スタミナ料理』と称されるメニューで溢れていた。サタンが「なんだってこんないつも以上に高カロリーなもんばっか作ったんだ?」と問うとレヴァイアは「新婚初夜だから」と答えた。そう、「新婚初夜だから」と。
「お前、馬鹿じゃないのー!?」
そりゃあもう大声で叫んでみせたサタンである。しかしレヴァイアは何故文句を言われたのか分からないといった感じに納得のいかない顔をしてみせた。
「えー? なんでー? 新婚初夜って大事じゃん! バアルもスタミナ料理いっぱい作るべきだって言ったもん!」
「マジでー!?」
確認の為にバアルを見やる。と、相手は「はい、言いました」と堂々たる表情で頷いた。
「だって新婚初夜ですもの。たった一度の大事な夜ですよ」
全く悪気の無さそうな笑顔……。こりゃあ話にならないとサタンは感じた。
「んっもおおおお!! お前ら気が利くようで利かないんだからもう馬鹿じゃないの!! リリス疲れてんだよスゲー疲れてんだよ!! そこに追い打ちかけるようなことをこの俺がするわけねーだろ馬鹿じゃないの本当に馬鹿じゃないの!! 女がみんな例の女神様みたいに疲弊してるとこをダメ押しされると興奮したり重たい加護を受けたら苦しむどころかアヘッたりヤッてる最中に頬を平手打ちされたり首締められたりして喜ぶ変態だと思ったら大間違いだぞッ!!」
「わあああああああああ暴露すんなよ馬鹿ー!!」
瞬時にバアルが声を荒らげた。黙っていれば今の話を肯定せずに済んだものを咄嗟のこととはいえ正直に反応してしまうのが彼の不器用なところだ。こうなると女神の彼氏であったレヴァイアも黙ってられない。
「ってゆーか兄ちゃんなんでそれ知ってんの!? それ俺しか知らない話だよー!? まままままままさか……!?」
最悪の想像がレヴァイアの脳裏を過った。
「え!? ああああああ違う違う!! 実はガチで俺とお前は兄弟でしたなんてオチじゃないから安心しろ!! たんにこの野郎めが自分から意気揚々と俺に話してくれやがったことがあってだね!!」
「なにいいいい!? んじゃ自業自得じゃねーかバアル!! 俺まで恥ずかしい思いするんだからそういうことは人様にベラベラ喋るんじゃないよ馬鹿ー!!」
「だ〜ってぇぇぇぇ〜……」
不満げにバアルが唇を尖らせる。
「だってじゃなーい!! お前は三度の飯より下ネタが好きだからいっぱい色々と喋りたいのは分かるケド現にこんなしっぺ返し食らってんだから以後慎みなさい反省しなさーい!!」
「あの〜、なんの話です?」
一人ずっと蚊帳の外にいたリリスが首を傾げる。すると真っ先にレヴァイアが事情を正直に説明しようとしたのでサタンは慌てて彼の口を手で押さえた。
「もごごごご!?」
「なっ、なんでもない!! なんでもないったらなんでもないッ!! 気にすんなリリス!! 絶対気にすんな分かったか!! とにかくレヴァイアがお疲れなリリスの為にスゲー元気が出ちゃうような料理いっぱい作ってくれたぜ、いっぱい食おうぜー!!」
「ええ〜? はーい、分かりましたあ……」
何やら誤魔化しているのが明らかな態度だ、当然納得いかない。が、しかし何かを執拗に隠すサタンに「なーんだお互い様ね、夫婦になったからって何もかも分かち合う必要はないんだなあ」と一人で寝込んだ罪悪感に苦しむことをリリスはやめることが出来た。
結果良ければ全て良しである。
サタンとリリスに手紙を託されたラファエルは荒れ地の真ん中にあった城より大きな断崖に腰掛けて崖下へ優雅に足を投げ出し未だ見慣れぬ真っ赤な星空を眺めながらレヴァイアに貰った弁当を食した。天界へ持ち帰ってゆっくり食べようとも思ったがもし万が一に空間を隔てる壁に弾かれてせっかく貰った弁当が爆散したら大損だ。
そうして大事に食した出来たてホヤホヤの弁当には何故かやたらとニンニクを効かせたスタミナ系の料理ばかり詰められていたわけだが美味しかったので問題ない。毒が盛られている可能性も少し覚悟していたが大丈夫だった。ちゃんとまともな飯を渡してくれたあたり彼らは相変わらず義理堅い性分のようだ。いや彼らいうかサタンとレヴァイアはと限定した方が正しいだろう。バアルはそれこそ平気で毒を盛るような性格だが後の二人はそういう提案をされても決して頷きそうにない。
そうして悠々と腹ごしらえを済ませた後、不意にラファエルは眼下に広がる果てのない荒れ地を見渡した。先程から形容し難い怪物たちの姿がチラホラと確認出来る。あれ全て神に失敗作と判断されて捨てられた生き物たちだ。彼らはラファエルの存在に恐怖を感じるのか決してこの断崖に近付こうとしない。
(恐怖を感じるなら結構。それは『生きたい』という意志の表れだからな)
さーてその『恐怖』というものをすっかり忘れてしまった男の元にそろそろ行くとするか。ラファエルは服に付いた砂粒を軽く手で払うとサタンらと交わした約束を果たすために牢獄へと向かった。
ちなみに天使と悪魔の腹は特殊な構造ゆえニンニクを食べても身体が匂うことは無い。
牢獄へ着くと相も変わらぬ薄暗い空間の中でポツンと座り込んだカインが赤い瞳を光らせ何やら真剣な顔つきでもって手元を動かしていた。見ると、彼は床に散乱した恐らくはカイン本人のものと思われる骨の欠片を集めてそれを元通りに組み合わせているようだった。何をやってるんだろうか。まるでパズル遊びをしているような雰囲気だが……。
「踏むなよ蹴飛ばすなよ!! もうちょっとで完成なんだから!!」
ラファエルがやって来たことに気付いたカインが作業を続けながら声を張り上げた。
「…………何やってんだ、お前」
「ぁあ? 見て分かんねーかオイ、自分パズルだよ。バラバラになった俺の骨を元通りに組み上げんの。暫く飽きずに遊べそうだぜコレ。難易度を上げたかったら骨を更に細かく砕けばいいだけだしな」
「へえ。それはまた凄い遊びを考えたものだな」
暇を持て余し過ぎているのか最近カインはこうした一人遊びをすることが多くなった。どれだけ自分の身体を傷付けても痛みもなければすぐに元通り再生してしまう彼にとって自分の身体はこの場にある唯一の玩具。ゆえにこの骨はひょっとすると拷問とは関係なく自分で引っこ抜いてしまったものかもしれない。
「そういえばお前そんな感じで先日は自分の骨と内臓と目玉を使って等身大の肉人形を作って飾って拷問係としてやって来た天使をビビらせて失禁させたそうだな。酷いことをしやがって」
「えー? そんなんで酷いとか俺をこんなとこに閉じ込めて延々虐めてるヤツらがよく言うぜ。あの肉人形だって時間かけてスゲー頑張って作ったっつーに腐って臭いが出始めたら大変だからとかなんとかイチャモンつけてちゃっちゃと片付けてくれやがってよお〜。……出来た!」
冷たい床に見事、元通りに組み上げられた骸骨が完成した。いやしかし、どうなんだろう。カイン本人は完成の喜びでなんとも思ってないようだがその口をポカーンと開けて寝そべっている骸骨の姿はなんとも言えない哀愁に酷く満ちている……。
「自分の骨を見て喜ぶなよカイン……」
悪意なく猟奇的な遊びに走るカインを目の当たりにして流石のラファエルもなんとも言えない気分になってしまった。まあ、こんな環境に身を置いているのだ、心が歪むのも無理はないという話だが……。
「ワハハハッ! なんでも楽しんだもん勝ちだぜ! ところで今日はなんの用だ?」
ようやくカインが顔を上げてラファエルと目を合わせた。
「ああ、サタンとリリスから手紙を預かってしまったから渡しに来てやったんだよ。ほら」
「手紙……?」
カインが一瞬で目を丸くした。
「そう、手紙だ。これがサタンから」
何処からともなく預かった手紙を取り出し、ラファエルはまずサタンからの手紙をカインに渡した。
「ああ、サンキュ。でも手紙って言われても俺、文字読めな〜…………んだコレ恐いスゲー恐いッ!!」
そそくさと封を開けてビックリ。サタンの手紙には文字が一切書かれておらず、代わりにただビッショリと一面に真っ赤な血が塗りつけられていたのである。
「なにこれ嫌がらせ!? 俺への嫌がらせ!? 俺サタンに何かした!?」
「落ち着けアホ。お前が文字読めないことを予想してこういう手段に出たんだよ。血と血を合わせれば何が起こるかお前も一応は知ってるだろ?」
「え? ああ、記憶を共有したり加護を授けたりってことは知ってるけど……。えーとじゃあコレはこうすりゃいいのか?」
首を傾げつつカインは先程まで玩具にしていた自身の骨の欠片で手のひらを切り、その傷を血塗れの手紙に当てて目を閉じてみた――刹那、瞼の裏に笑顔のリリスがほんの数秒だけ映った。化粧をし美しく着飾ったリリスがこちらを向いて嬉しそうに微笑んでいる姿だ……。サタンはカインがリリスのことをとても気にかけているはずと踏んで自分の視線を介して彼女の近況を伝えてくれたのである。
彼女が幸せか否かはあの笑みが全て物語っている。彼女を見ることが出来たのはほんの数秒だったが、充分だ。充分に何もかも伝わった。
(良かった、ちゃんと幸せに暮らしてるんだな……)
「おーう、見れた見れた。いいもんが見れた。ありがとさん」
目を開けるなりカインは空元気な笑顔をラファエルに向けた。何故かは分からないがしんみりした顔は彼に見せたくなかったのだ。
「見れたなら良かった。次はリリスからの手紙だ。ほらよ」
「はいよ、どーも。……………………………………これは、マズイな」
封を開けて困惑。香水の良い匂いが広がったことはもちろん、リリスからの手紙は普通に文字で構成されていたのである。これは困った、何故ならカインは文字が読めない。本当に僅かも読めない。ここに書かれているのがただのミミズ絵ではなく文字ということは理解出来るが一文字も読み解けない。はて内容を把握するのは諦めるべきだろうか。しかしこの丁寧な字と想いを宿すように染み込ませてあった香水の匂いからしてとても大切なメッセージが刻まれていることは間違いない。
「あ〜……、あのさラファエル……。えっと、これ……、代わりに読んでもらえないか? 頼むよ、俺、文字読めないんだわ……」
仕方なしにカインは恥を忍んでラファエルを頼ることにした。一時の恥よりリリスの気持ちをしっかり受け取る方を選んだのである。だがラファエルは「やだ」と即答した。
「人様の恋文を音読する趣味は無い。絶対やだ」
簡単には頷いてくれないだろうとは思っていたが想像以上の拒絶っぷりである。カインは開いた口が塞がらなくなった。
「おっ、お前この俺がこんな下手に出て頼んでるっつーにそりゃねーだろ!! 頼むよお、読んでくれよお〜!! なんでもしますからああああ〜!!」
「うん? なんでもするとな?」
「するする!! それ読んでくれるならお前さんの足だろうがなんだろうが喜んで舐めます、だからお願い読んでー!!」
何がなんでも読んでもらいたいのである。するとラファエルは諦めがついたのか「仕方ないなあ」と溜め息した。
「分かったよ。ただし一度しか読まないからよく聞いておけ」
そうしてカインがおずおずと差し出した手紙をラファエルは案外あっさり受け取った。なんだかんだ言ってリリスから手紙を託された時点で文盲なカインの為にこれを音読する羽目になることを彼は最初から覚悟していたのである。
「では読むぞ。……『カイン驚かないでね。実は私、妊娠しました。絶対に貴方の子よ。きっと貴方に抱き締められた瞬間に孕んだんだわ私』……だってさ」
……これは大変だ。
「うわー、なんてこった!! 残念だけどリリスそりゃ想像妊娠だ、野郎の腕に抱かれただけじゃ子供は出来ないぜ! って、馬鹿野郎ラファエル!! ちゃんと読めよちゃんと!!」
すぐに分かる嘘。だがラファエルは少し自信があったのか「チッ」と舌打ちをしてみせた。
「つまらん男だ、もうちょっと食いつけよ」
物凄く不満げだ。
「ぁあ!? 食いついて欲しいならもうちょっとマシな嘘をつきやがれ!! で、ホントはなんて書いてあんの? お願いだから真面目に読んでくれよ〜っ!! こちとらスゲー身構えてんだからさあ!」
「へぇへぇ。では改めて。『貴方がこの世界に生まれてくださったことと貴方が選んできた全ての選択に心から感謝します。私の幸せは貴方の存在無しに有り得ませんでした。ありがとうカイン。再会を心待ちにしています』……と、書かれている」
「それは……」
今度こそ本当に書かれた通りの文章を読んでくれたのだろう。一言一句がじわりと胸に沁みて言葉にならない。
「カイン、お前の存在とお前の選択に彼女はとことん感謝しているみたいだぞ。一応は生まれてきた甲斐があったな」
言ってラファエルは手紙を丁重に元通り閉じて再びカインに差し出した。しかしカインは受け取らずに首を振った。
「なんつーか厚かましいお願いだとは思うんだけど……。それ、アンタが預かっておいてくれないか。手紙を渡されても此処にはしまっておける場所が無いんだ。拷問係の天使に見つかるのは絶対に嫌だし……」
とても手元には置いておけない。見つかればせっかく二人がくれた手紙にどんな悪意が塗りつけられるか分かったものではないからだ。
自分は何をされても構わないがこの手紙だけは決して汚されたくない。
「構わないが私がコレを汚さぬという保証は無いぞカイン」
意地の悪い笑みでもってラファエルがカインを見下ろす。だがカインには確信があった。
「大丈夫。そうしたら自分の甘さを責めるだけさ。アンタは俺が信用するに値する天使だ、どう転んでも悔いは無い。……お願いだ、預かってくれ」
真っ直ぐに目を見つめ助けを乞う。……通じたのか暫くしてラファエルは「分かった」と頷いた。
「仕方ない、預っといてやろう。ありがたく思えよ」
「そりゃあもう!!」
感謝の気持ちを込めて柄にもなくカインは満面の笑みを湛えてみせた。ラファエルとしても悪くない気分である。
「今日の用事は以上だ。またな、カイン」
「ああ、うん。また」
そうして珍しくラファエルは要件だけ済ませて雑談もせずに帰ってしまった。
(……気を、遣ったのかな……?)
カインもカインで彼を引き留めようとしなかった。理由は、溢れる感情を抑え込むのに必死だったからだ。それもそうだ、リリスに己の存在を肯定してもらえたのである。こんなゴミも同然の己の存在を肯定してもらえたのである。
嬉しさのあまり今にも泣きそうだった。
「俺の存在は、無意味じゃなかったんだな……!」
決定的な言葉こそ無かったが、なんとなくカインは『サタンとリリスが婚約したことを察してしまった』。サタンを見るリリスの目の輝きといい二人がいきなり手紙を寄越してきたことといいラファエルがそれを親切にも渡しに来てくれたことといい、きっと間違いない。
良かった、リリスは幸せになってくれたのだ。しかもそれはカインの存在と選択があってのことだったと――。こんなに嬉しいことがあるだろうか。カインがこの世界に生まれたことも罪を犯したことも牢獄で責め苦を受けたことも決して無意味ではなかったと一人の女性からはっきり告げられたのだ。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「……アハハッ。アハハハハハハッ!!」
一人で笑ってカインは今しがた完成したばかりのパズルを興奮のあまり蹴飛ばしてしまった。ああ、やっちまった。ガシャガシャと音を立てて散乱した骨を見てすぐさま後悔。でもいい、また組み立てればいいのだ。何度でも何度でも組み立てればいいのだ。己の存在を肯定された今のカインに恐いものなど何もなかった。
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