【10:想いが届きますように(3)】


 たかが一月半、されど一月半。大罪を犯して投獄されたカインを追って泥だらけのリリスがこの地へやって来たことが随分と前のことのように感じる。
(そーいや俺ったら何するよりも先にリリスの裸を見ちゃってるんだよなああああ!!)
 サタンは紅茶を飲みながらテーブル越しに向かい合って座り笑顔でケーキを頬張るリリスを見つめた。長い金色の髪を手で押さえながら夢中でケーキを頬張る彼女の姿はとても可愛い。
 此処はレヴァイアから教えてもらった評判のケーキ屋。オープンして間もなく評判となっただけあってテラス席は相当な賑わいである。「またデートしてるう〜っ」とこちらを茶化す声もチラホラ。目立つの大好きなサタンとしては悪くない気分だ。リリスもリリスで「はーい、デートです〜」と頬を赤くしながら笑顔で応じている。満更でもなさそうで結構、結構。
(それにしても……)
 とことん今更にも程があることだがサタンは改めて「行動を焦ってはいないだろうか」と自問自答した。先日の戦争に影響され過ぎて焦ってはいないだろうか。この世界に生まれてまだ一月半な彼女の無知につけ込んではいないだろうか。その他モロモロ後ろめたい気持ちが多過ぎてケーキの甘さが頭に響く。
(そもそも何故に俺はケーキ屋さんなんぞに来てしまったんだ……!)
 リリスが喜ぶと思ってチョイスした店ゆえ、自分のことは全く考えていなかった。まさか緊張した身体に生クリームたっぷりの激甘スイーツがここまで毒とは想像もしていなかったことである。しかも甘いだけじゃなく本来は滑らかな口溶けであろうはずの絶品なスポンジが恐ろしいほどに喉を通らない。凄くパサパサと引っ掛かる。どうしよう。なんだか物凄く胸焼けまでしてきた。普段はこんなことないのに、むしろケーキ大好きなのに……。
(でもこれケーキに限らずステーキでも変わらなかっただろうな〜……)
 過度の緊張を伴いながらの食事はなんであれ喉を通らないに違いない。でもいい、この静かな身体の変調は心苦しさと同時に彼女とずっと共にありたい気持ちが本物であることの証だ。
 この一月半、食事の席にはほぼ必ず「美味しい!」と笑顔を見せてくれる彼女の姿があった。ゆえにいつの間にか彼女の存在が当たり前のものとなってしまった。もう彼女のいない食卓など想像がつかない。
 絶対に失いたくない。だから恐い。
 衣服も羞恥心も与えられず一人ぼっちで生を受けたリリスがあのまま人間界に留まっていたらどんな道を辿っていたかは容易に想像できる。
 この地に彼女が来てくれて良かった。リリス本人にもどうか正しい選択をしたのだと思ってもらいたい。これからもずっと、ずっとだ。ならば何をどうすればいいかの答えはもう出ている。あとは全て自分次第――。
(大丈夫だ、頑張れ俺……!)
「サタンさん、また何か考え事ですか?」
「ん!? あ、ああ……。次はどのケーキ食べようかなってね」
 しまった、ボーッとし過ぎた。幸いリリスはサタンの下手な咄嗟の誤魔化しにも深い詮索はせず「私ももう一個食べようかな」と席に座ったまま一緒になって店内のディスプレイケースに並んでいる色とりどりのケーキを眺めてくれたが、気をつけよう。
「リリス、どれ食いたい? 取ってくるよ」
「ありがとう! えっと、あの赤いヤツ! あの赤いのと白いのが段々になってツヤツヤしているケーキが食べたいです!」
「そりゃベリームースケーキのことか? 了解! 待ってな」
 いやはやデート中にボーっとするなど、らしくない。それに……マズい誤魔化し方をしてしまった。ちゃんと甘さ控えめっぽいチーズケーキをチョイスしたわけだがケーキはケーキだ、どうにも甘い。緊張している身体には重すぎる。ちょっと、吐きそうだ。
(やべぇぇぇぇ気持ち悪くなってきたああああ……!)
 サタンがバアルやレヴァイア相手に声にならぬ声で「吐きそう! 吐きそう!」と嘆き始めたのはこの辺りからだった。結果は言わずもがな。文句を言いつつも延々と付き合ってくれた彼らに感謝は尽きない。
 後日、高額なものを奢る羽目にはなりそうだが。
「ごちそうさまでした! とっても美味しかったです!」
 ケーキ3つをペロリと平らげたリリスが満面の笑みでこちらを見る。食事を終えた後に見せる彼女のこの笑顔がサタンは堪らなく好きだった。なんというか、胸にキュンッと来るのだ。
「ハハッ。喜んでもらえて何よりだよ。えーと、そんじゃ次は食休みにちょっと散歩でもどう? みんな最近やけに中央公園の手入れに気合い入れてるらしくてよ、こないだから見に来い見に来ーいって言われてんだよね」
「まあ! では是非行きましょう! 私、お花を見るの大好き!」
 花に限らず何を見ても喜ぶクセに……と思ったがサタンは口には出さずにおいた。わざわざ彼女をイジケさせる必要もあるまい。なにはともあれ基本的にサタンの誘いを断らないリリスはあっさり頷いてくれた。上々だ。公園を散歩しながら上手い具合にプロポーズのタイミングを見定めよう、そうしよう――などと考えていたら緊張で少し手が震えた。いけないいけない、悟られてはいけない。サタンはバレないように小さく深呼吸をして平静を装った。
「決まりだな。行こ」
 席を立って手を差し出すと「はい」という素直な返事でもって一切の疑念もない笑顔でリリスは手を繋いできた。その指先にはいつからか出掛ける際ともなるとほぼ必ず塗るようになった控えめなピンク色のマニキュアが艶やかに煌めいている。
(大丈夫だ俺!! これでフラレるわけがないぜ多分!!)
 それにしても、落ち着かない心模様とは裏腹にしっかり涼し気な表情を保てる自分の凄さにしみじみ。これじゃあバアルとレヴァイアに「このブリっ子野郎! カッコつけヤギ頭!」と怒られるのも当然だ。しかし格好つけたい男心はどうにもこうにも隠せない。
 延々と自問自答しながらリリスとのんびりと歩いて辿り着いた街のほぼ中心に位置する広大な公園は「見に来ーい!」とみんながみんな声を揃えて言っていただけあって色とりどりの草木が随分と増えていた。そのせいか以前よりも散歩している住人の姿が多い。向こうでは子供たちがボール遊びなんかもしている。
「へえ〜、ちょっと見ない間に頑張ったんだなあ〜」
 住人たちの憩いの場が色鮮やかになるのは良いことだ。察するにこれは先日の血の雨にやられて多くの草木が傷んでしまったことを受け住人たちが奮起した結果だろう。血で枯れた公園など見てしまっては当事者であるバアルとレヴァイアの気分が沈んでしまうと踏み、そうはさせまいと頑張ってくれたのだ。見に来いとみんなが胸を張っていたのも納得である。
「サタンさん、お誘い頂いていたならもっと早く見に来てあげれば良かったのに意地悪さんですね。皆さんきっとサタンさんに褒めていただきたくて頑張ったんですよコレ」
「しょーがねぇじゃん。俺一人でお花をジーッと眺める趣味なんかないもん」
 なんて言いつつ間もなく花壇に物珍しい花を見つけ思わずジーッと眺めてしまったせいで「本当かしら?」と笑われてしまった。言い返せる言葉が見つからない……。
「私で良ければいつでもお散歩ご一緒しますよ。……あ、これ綺麗ですね! なんて名前の花かなあ」
 不意にリリスがその辺一帯のスペースに群生している沢山の紫色の花を茎からぶら下げた植物を指差した。
「それはジキタリスだな。可愛いけど毒があるから気をつけろよ」
「まあ……。趣味じゃないものにもお詳しいんですね」
 それは褒められているのかなんなのかよく分からない言葉であった。
「好きで知ってるんじゃねーやい! 勝手に頭が記憶しちゃってんのっ!」
「それ私からしたら凄く羨ましいです。あ、この花はなんでしょう?」
 話をちゃっちゃと切り替えーのサタンの手を引いてグイグイと先に進むリリス……。それだけ花々に興味津々ということだ。サタンとしては微笑ましい限りである。
「へえへえ、お詳しい俺がなんでも教えますよ。どれが気になるんだ?」
 ちなみに移動の最中『やっと少しは落ち着いたか』という冷めたレヴァイアの声が届いた。
『おう、おかげさんで!』
『そりゃ良かった。こっちはお前のゲロ宣言が区切りついたおかげで今から昼食の準備だよ畜生。腹が減り過ぎて王様の御機嫌がマジでヤバイぞ馬鹿野郎』
『ご、ごめんなさい……』
 これは本当に後日ちゃんと詫びる必要がありそうだ。
「サタンさん、これこれ! これはなんですか? 白い花をつけてて可愛いのによく見ると葉っぱが牙の生えた口みたいで凄く不気味なんですけど」
 リリスが指差したのはこれまた花壇の一角に群生している食虫植物だった。飢えたヒナ鳥のように真っ赤な口を開けた葉が特徴の不気味な花だ。いつの間にか魔界のそこかしこにポツポツと生え始めた花ゆえ神が天界に生やすには相応しくないとして空から捨てたものに違いない。
「あー、そりゃ『女神のハエ取り罠』だよ。葉っぱの牙が女の睫毛に見えるからってことで命名されたらしい。俺は普通にハエトリグサって呼んでるけど」
「本当にどこまでもお詳しい……! えっと、でもハエ取りって?」
「そのまんまだよ。ちょうど見れそうだ。ほら、そこ」
 本当に良いタイミングで一匹の蝿がポッカリと開いたハエトリグサの真っ赤な口の中で羽を休めてしまった。この絵面だけで何が起こるのか予想出来たリリスは「危ない」と呟いて手を差し伸べようとした。だがサタンはそれを「待て」と制した。
「リリス、自分の身に置き換えてみな。心待ちにしていた大好物をやっと食えるってタイミングで指突っ込まれて口からぶん取られたらどう思う?」
 これはリリスが手を止めるに十分な力を持った言葉であった。そして――たった今、リリスの目の前でハエトリグサが素早く口を閉じて蝿を捕らえた。
「あ……」
 バタバタと蝿の足掻く羽音が響き渡る。しかしガッチリと閉じられた口からはとても逃れられない。やがて蝿は絶命に至ったのか僅かな羽音すら立てなくなってしまった。
「なっ、ハエ取っただろ。コイツら虫が食いもんなんだよ」
 何気にとっても残酷な光景を見てしまったリリスに対してサタンはこれに一切の凄惨さも垣間見ていないと言わんばかりの笑顔を向けた。だがリリスは見破っていた。この笑顔は偽りであると。
「サタンさん、ハエ取りさんのお腹は満たされたけれど代わりに蝿ちゃんは死んじゃった……。私なんだか弱肉強食の一端を見てしまった気分です」
「まあ〜、仕方ねぇな。これがこの世界の理だから」
 言ってサタンは食事を楽しむハエトリグサに視線を落とした。その瞳が憂いを帯びていることを本人は恐らく自覚していない。しかしリリスは察していた。
「でも、誰かが幸せになると誰かが代わりに悲しむって、やっぱり寂しいです私。どうしても割り切れない……。貴方は割り切れていますか?」
 あえて野暮な質問をした。彼が割り切れていないからこそ今、瞳に憂いを湛えていることも戦争の度に苦悩していることも、ひいては神に反逆したことも容易に想像出来る。それでもリリスはあえて尋ね、繋いでいる手をより強く握った。……その真意を察したサタンはリリスに振り向くとゆっくり目を細め優しげに微笑んだ後「ハハッ」と苦笑いを零した。
「お察しの通り全く割り切れてねーよ。こうやってリリスみたいに優しいヤツばっか傷付いてなんにも考えてねー俺みたいなヤツの方がなんにも気にせず楽しんで生きてるってこととかマジで全然納得いかねーし!」
 するとリリスはサタンを見つめる目を潤ませた。
「納得いかないなら貴方も優しい側の人ですよサタンさん。それも相当に優しい人」
「そっか〜? 自分じゃワカンネーや」
 誤魔化してサタンはただただ苦笑いをした。リリスに容易く心を見透かされて笑うしかなかったのだ。だが今日の彼女はどうしたことかサタンの誤魔化しを許してくれない。
 ――もっと貴方の気持ちを声にして聞かせて――
 まるで言葉を催促するように澄んだ青い瞳が真っ直ぐにサタンの目を見つめ続ける。
(分かったよ)
 白状する覚悟を決めてサタンは目を伏せた。
「俺は、ただただ納得いかないことが多いだけだよ」
 丁度いい。今日は彼女に何もかも白状する覚悟でいたのだ。そのタイミングを今か今かと探り続けていただけに向こうから催促してもらえて助かった。情けない話ではあるが……。
「なんつーか、こういう不満言い出したらキリがねえんだけど……。俺が光でレヴァイアが闇って言われてることにも納得いかねーし俺相手じゃ手に負えないからって神がバアルに縋って世界が混乱した責任全部押し付けたのも納得いかねー。でも――」
 サタンは改めてリリスの目を真っ直ぐに見つめた。
「アイツらそれで良かったって言うんだ」
 嘘偽りが通じないと分かった以上、素直な気持ちを露呈するのに抵抗はなかった。本音を吐くことに慣れていたおかげでもある。なんでも言い合える友人たちに恵まれていたことに改めて感謝だ。
「レヴァイアは光なんて重すぎるから俺は闇で良かったって言うしバアルなんか最悪だぞ、私が責任を押し付けられたことに責任を感じてくれてありがとう、どうか一生そのまま頭上がらない感じでいてくれると助かるっていうか責任感じてるならもっと私に宝石買ってくれとか言いやがって。いっつもそうだよ、俺がなんか言うとアイツらそうやって全部ムリヤリ肯定に持っていきやがる」
(白状するって覚悟したとはいえ、なーに喋ってんだろ俺)
 自然と溜め息が漏れた。だが、ここまで来たらもう引けない。サタンは言葉を続けた。
「アイツらがそんなだから俺ってば相手を勝手に不幸と解釈するのは酷く傲慢なことなんじゃないかってことで変な思考を回す癖がついちまってさ。今も、もしも蝿ちゃんも蝿ちゃんでハエ取りさんの栄養になれたことを喜んでいたとしたらいいなって思い込んで自分を納得させてた。…………どう思う?」
 するとリリスは真っ直ぐにサタンを見つめたまま笑みを湛えた。
「こんなこと言ったら怒られちゃう、かな。…………あの、正直、貴方と私の考え方が殆ど一緒で凄く嬉しくなりました!」
「へえ〜。予想の斜め上をいく答えだぜ。こんなん聞いて俺を情けないヤツだとは微塵も思わなかったのか?」
「はい、微塵も思いません。だってもし貴方の考えを否定したら私も自分を酷く貶さなきゃいけなくなりますよ、同じことを考えていたんですから。サタンさんは私と考えが重なってしまったこと嫌なんですか? 私は凄く嬉しいですよ」
 ……やれやれ全く、よくもまあそんな言葉を臆さずはっきりと言えるものだ。そのあまりの真っ直ぐさにサタンはわざと意地悪をして「嫌だ」と答えてみたくもなったが、この無垢な笑顔相手にそんなことはとてもじゃないが出来そうにない。
「嫌なわけねーだろ。ったく、お前は本当に不思議な女だな。俺が情けない姿を晒すたびに喜びやがる」
「えー!? 酷い!! そんな意地悪い女みたいに言わないでくださいよっ!!」
「実際ちょっと意地悪だろ〜が」
「ち、違いますよ私はただ、なんて言うか、えっと…………」
「ハハハッ!」
 急にうろたえ始めたリリスを見てサタンは堪らず笑ってしまった。大丈夫、上手く説明出来ないようだが彼女の言わんとしていることは分かっているつもりだ。
「な、なんで笑うんですかっ!!」
「ヒヒヒヒッ! だってあんまりにもリアクションが面白いからさあ! ヒヒヒヒッ! なあ、リリスはこんな世界をどうするのが一番いいと思う?」
「え? ……………………」
 突然の質問。答えに迷ったのかリリスは暫く押し黙ってしまった。だが気丈な彼女はすぐに「私は……」と顔を上げた。
「私は、やっぱりみんながみんな幸せになれるような世界にするのが一番いいと思う、かな。この世界はどうしてもデコボコだけど、デコボコなりにみんながみんな幸せだったらいいなって。さっきサタンさんが言ったように蝿ちゃんも蝿ちゃんで食べられることを喜びとしていたら決して可哀想とは言い切れません。そうやってみんながみんな幸せになれたら、いいなって」
 とても彼女らしい答えである。サタンは顔を綻ばせた。
「成る程ね。誰が何をしても喜びしかない世界か。良い考え方だ。でもそれはそれで気持ち悪い世界になりそうだから難しい。つーかそれ神様が目指しちゃってる世界そのものだしな。アイツの場合は厳密に言うと自分だけがひたすら喜べる世界を創りたいって感じだけど、でも本質は同じなんだよね。みんながみんな幸せであって欲しいってのも根本を突き詰めりゃ自分の為なわけだし」
「あ……」
 しまった、とリリスが視線を落としたのをサタンは見逃さなかった。
「あの、ご、ごめんなさい、私……っ!」
「だけどさ」
 リリスの言葉を遮ってサタンはますます顔を綻ばせた。彼女への慈しみと自身への多大な蔑みを込めて。
「俺なんてもっと酷いぜ。そんな世界は気持ち悪いし自分勝手で傲慢だって頭では分かってるのに、それでもみんながみんな幸せであって欲しいって願っちまうことをやめられないんだ。コレってつまり俺がなんにも割り切れずにいるどーしょもないガキンチョって証拠だよ。だから反逆なんて幼稚なことも出来たんだ。ハハハッ! そんな俺と気が合うことを喜んじゃいけねーよリリス!」
「サタンさん……」
 サタンは気付いていないが今リリスの胸に言葉では説明のつかない熱い思いが一気に込み上げた。本当に説明出来ない思いだ。上手く言えないがとにかく胸が苦しいほどに熱い。
「やっぱり貴方は優しすぎて損をしている人ですよ。それも相当に損をしている人」
「そう? ……あのさリリス、この一ヶ月半でお前は俺の駄目さ加減がよく分かったと思うんだけど、どうなんだ? 革命と謳って俺が目指しているのは結局のところ未だ形のあやふやなガキっぽい夢なんだよ。こりゃ駄目だと思ったらちゃんと見限っていいんだぜ?」
 するとリリスはキョトンと目を丸くした後「んっもう、何を言うかと思えば」と安堵の息を吐いた。
「自分を駄目って思い込むことこそ傲慢ですよサタンさん。貴方を慕う人たちまで貶していることになります。現に私は今、凄く貶されている気分ですよ」
「リリス……」
 ふと戦地にてサタンが神や天使たちから酷い蔑みの言葉を投げつけられるたびに彼女がまるで自分のことのように激高してくれていたことを思い出した。そうだ、彼女はいつもサタンが否定されるたびに声を張り上げてくれていた。
「そうだな、俺はどうにも傲慢で駄目だな。あ、また自分を駄目って言っちまった」
 改めて自身の傲慢さを自覚しサタンは言葉を詰まらせた。『この世界に生まれてまだ一月半な彼女の無知につけ込んではいないだろうか』などと悩んでいた自分が滑稽で仕方がない。彼女はとても聡明だ。生きた歳月は確かに短いが代わりに彼女はあらゆる知識を一切逃げずに真っ直ぐ受け止めてきた。ゆえに下手をすれば彼女は既に『悪知恵を身につけて目を瞑ることを覚えてしまったサタンより聡明かも分からない』。
 一方『聡明』と思われていることなど夢にも思っていないリリスはサタンが目を逸らしたことに手応えを感じていた。彼は確信に迫られるとどうにも目を逸らす傾向にある。きっと自覚は無いことだろう。なにせ彼は隙を見せるのが嫌いな男だ。なのに嘘をつくのが下手過ぎてこの通り、と。
 意地悪と思われてもやっぱり彼のこういう可愛げある一面を見ると幸せな気持ちになる。
「サタンさん、私は嫌だと思ったらすぐに逃げる情けない女です。実際に神様から全速力で逃げて此処に来ました。その私が何故貴方の側にずっといるのか理由は言わずもがなですよ。私は望んで此処にいます。貴方が言う幼稚な夢を何より素晴らしいものと思って此処にいます。貴方の夢は私の夢と同じだって知ってしまった以上貴方の側を動く気はありません。絶対動きません! 迷惑って言われても動かない! 貴方の側にいることが私の喜びだから!」
 力強く言い切ってリリスはサタンの手を改めて握り直した。
(どうかこの気持ちが届きますように!)
 祈ってリリスは強く強くサタンの手を両手で握り続けた。このまま此処にいていいのかと再三の確認をするサタンの気持ちが分からないわけではない。だがこちらを気遣うならばどうかこのまま側にいさせて欲しいのだ。
 不意に、場の空気が変わった。
「じゃあ、さ……。お前、これからもずっと俺の隣で俺と一緒の夢を見てくれないか。俺のために」
「貴方のために?」
 静かな問いかけに顔を上げるといつになく真剣な顔をしたサタンと目が合った。一体どうしたのか。リリスの前では基本的にいつも余裕を湛えて朗らかに構えている彼が二人きりの時にこんな顔を見せることは滅多にない。
「サタンさん……?」
 赤ほど燃えきらず、かと言って桃色ほどの柔らかさは窺えないショッキングピンクの瞳が真っ直ぐにリリスを捉えている。彼の内面を知った今ならば何故彼がこんな唯一無二の瞳の色を持つに至ったか分かる気がする。
 これは激しさと優しさをせめぎ合わせた色だ。激しくもあり優しくもあり、けれどもそのどちらにも染まり切れずにいる美しくも少し不器用な色――。
「俺とお前めっちゃくちゃ気が合って仕方がないことが分かっちゃったから改めて話したいことがある。大事な話だ。聞いてくれるか?」
 真顔でこの台詞である。
「私に……? はい、もちろんです!」
 断る理由は無い。リリスは迷わず頷いた。
「ありがと。此処じゃなんだからちょっと場所を変えよう」
 ありがと、と言った瞬間サタンの表情にいつもの柔らかさが戻った。
 一方、涼し気な表情を保ちつつもサタンの心は「今がタイミングで本当に良かったんだろうか!?」と早速の後悔に襲われていた。しかし一度口から出た言葉はどうにも絶対に引っ込まない。後悔しようがなんだろうがもう進むしかない。
『タイミングが来た!』
 遠くから黙ってこちらを見守り続けていてくれたであろう友人二人に声にならぬ声で宣言し、サタンはリリスを連れて街から遠く離れた荒れ地の一角に音もなく移動した。何故此処をチョイスしたのかというと、とにかく周りに危険物も怪物の気配も無し、大きな岩がドンと一つあるだけの落ち着いた場所としてパッと目についたのである。
「此処は……」
 いきなり地平線まで見渡せる荒れ地のド真ん中に連れて来られリリスは軽く辺りを見回した。空には相も変わらぬ赤い月が静かに鎮座して魔界を照らしてくれている。
「静かなとこで話がしたくてさ。え〜っと……、単刀直入に言うよ。よく聞いてくれ」
 もう、何もかも言うしかない。サタンは一度肩で息をしてから未だこちらの手を両手で握ったままでいるリリスの手に手を重ね、改めてその澄んだ青い目を見つめた。
 何もかも言うしかない。言うしかない。今がタイミングだ。今こそがタイミングだ。今しかない!
「リリス。…………どうか俺と結婚してくれ!!」
 刹那、リリスが弾けんばかりに双眸を見開いた。
「結婚……!?」
 リリスの中で今、自分に備わっている感情という感情の全てが一気に膨張して頭を縦一本に貫いていった。なんだこれは、目眩がして目の前が白んで立っているのがやっとだ。一体なんだ、これは――!
「で、答えを出すより先に聞いといて欲しいんだけど〜……、まず俺と一緒になれば間違いなくお前は正式に天使たちから命を狙われることになる。あと前例が無いから人間であるお前が俺みたいな得体の知れない男と契りを交わすと身体にどんな変化が起こってどうなるかは誰にも分からない。レヴァイアの加護を受けてバアルが目から真っ黒な血を吹いたようなことが起こるかもしれないし起こらないかもしれないし、ひょっとすると俺がお前を離す気が無いばっかりにお前は俺と共にどんな有り様になっても永劫を生きる羽目になるかもしれないしでこればっかりは本当に申し訳ない。つーかそもそも俺ってばカインと比べちまうとマジで何かと劣りまくりの駄目野郎だし! でも……!」
 でも、と前置きしてサタンは徐々に潤みを帯びてきたリリスの目を更に強く見据えた。
「でも、そういうの全部ひっくるめても有り余るくらいお前を幸せにしてやる自信はある!! お前の為に命を投げ出す覚悟も既にある!! だから、どうかお願いだ!! 俺と結婚してくれリリス!! 俺にはお前が必要なんだ!! 頼む!!」
 言い切ってサタンは震えていることを悟られまいとリリスから手を離しどこからともなく婚約指輪として購入した例の黒薔薇の指輪を収めたジュエリーボックスを開けてリリスに向かって差し出した。……それはいいが、その手がどう踏ん張っても小刻みに震えてしまうのが情けない。自分で自分をぶん殴りたい気分だ。だがそんな自身に対する不満を殺してサタンは真っ直ぐにリリスを見つめ、返事を待った。
「指輪……! あ、あの……っ、私……! 私で、いいんですか……!? サタンさん、本当に、私でいいんですか……!?」
「いいも何もお前じゃなきゃ絶対に嫌だからこの俺がこんなガタブルしながらお願いしてんだろうが馬鹿ッ!!」
「馬鹿ですって!? あ、でも、た、確かにサタンさん震えていらっしゃる……!」
 今にも泣きそうな顔をしながらリリスがプルプルと震えるサタンの手を見る。
「だろ!! マジだろ!! どうよ、この俺様が緊張で震えてんだぜ!! ありえねーよ!! ……ってプロポーズの最中に何を言ってんだ俺はーッ!!」
 混乱極まってサタンは咄嗟に近場の岩に渾身の頭突きを放ってしまった。静かな荒れ地に尋常でない重厚な炸裂音と突然のことにリリスが上げた「ひいいいいいい!?」という悲鳴が響き渡り、ビシビシと岩場に亀裂が走った。
「どうだ喜べリリス!! 今日の俺はいつになく情けないぜー!! 俺が情けないと嬉しいんだろお前良かったな、ワハハハハッ!!」
 見事なほど岩にめり込んだ頭をスポンと簡単に抜いてサタンはまた改めてリリスを見つめた。岩に頭突きしても額から血も出なければ皮膚が赤くもならないあたりは流石である。
「お前が喜ぶなら恥じらわずに全部言ってやるよ、なんかもうあんなジメジメした話の後にプロポーズって俺なに考えてんだって早速後悔しちゃってるし今とかよく分かんねーけど気を抜いたら今にも泣きそうだし何故か岩に頭突きしちまったし、その甲斐もなくまたこんな手が震え始めちまってるしマジで駄目な野郎だわ俺!! クソカッコ悪い!! ああもうマジ必死過ぎてカッコ悪いなあ畜生〜!! って違ーう!! 俺が言いたかったのはこんなことじゃなああああーい!!」
 再び混乱極まったサタンは指輪を差し出しつつもう一方の手で頭をガシガシと掻き回した。
「お、落ち着いてくださいサタンさん!! 落ち着いてー!! 大丈夫ですから!! そんなに焦らなくても私ちゃんとお話を聞きますからー!!」
 どうにも混乱しているサタンの顔を両手で捕まえてリリスは無理矢理に目を覗き込んだ。もうこの時点で婚約はほぼ成立しているようなものだが当の二人は全く自覚していない。
「サタンさん、落ち着いて! あの、私にもっとちゃんと言いたいことがあるんですよね? 大丈夫ですよ、私ちゃんと聞きますから。だから、話してください……!」
「お、おう……!」
 やっと我に返ることが出来たサタンである。だが……。
「あ、ヤベ。頭突きの衝撃で用意してた台詞が全部飛んじまった……」
「んっもう何をやってるんですかあああああっ!」
 怒られてしまった。最悪だ。これはもう笑うしかない事態だ。
「ワハハハハッ! まあでも言いたかったことはもう全部言ったよ。お前がもし婚約に頷いてくれたら俺は今までの自分を全て肯定出来る。悔やんでばかりの俺を助けると思って頷いてくれ。その代わり絶対幸せにするから」
 混乱から一転、満面の笑みである。リリスは堪らず目頭が熱くなった。なにせ待ち焦がれて止まなかった言葉が今まさに彼の声で紡がれているのだ。これは夢ではないかとリリスもリリスで本当のところ気が気ではなかった。それこそしっかり足を踏ん張っていないと今にも倒れてしまうそうな程に。
「私が……、私が頷いたら、貴方は救われるんですか?」
 問われてサタンは迷わず「おう!」と笑顔で答えた。
「お前が頷いてくれたら何もかもお前に会うための選択だったんだってことでどんな失敗も帳消しだよ。俺は俺のために正しい選択をして正しい結果を得てきたんだって胸を張れる。神に反旗を翻したことも、それで失敗してこの荒れ地に来ちまったことも全部だ。全部胸を張れる。こないだレヴァとやり合って情けない姿を晒したことすらお前に俺を身近に思ってもらえる機会になったんだってことでもう悔やまねえぜ! そんくらいお前の存在は俺ん中で圧倒的な力を持っちまったんだよ。だから側にいてくれないと困る! なんつって、とことん自分勝手だけど本当のことだから仕方ねーわ!」
 話せば話すほど墓穴を掘っている気がする。しかしこの場面で繕った言葉は使いたくなかった。本当に自分が不器用なことを痛感させられた格好だ。
「俺はお前のためならもっと強くなれる。だからどうか俺を側で支えてくれ、お願いだ」
 本当に、これで言いたいことは全て言った。伝えたかったことは全て伝えた。あとはリリスの返事を待つのみ。もうどんな返事をもらっても悔いはない……わけではないが一応の覚悟は出来た……と、思いたい凄く。
(しっかりしろ俺ーッ!!)
 なんだかもう一回くらい岩に頭突きをしたくなってきた。そんなサタンをなだめるように「私の話も少し聞いてくれますか?」と今にも涙が溢れそうなほどに瞳を潤ませながらリリスが微笑む。
「貴方は、無価値で無意味だった私の存在を真っ先に肯定してくれました。それから私、貴方のおかげでどんどん自分を好きになれたんですよ。意地悪って思われても貴方の色んな姿を見るたびに私と貴方の距離が縮まっていくように感じて、それが凄く嬉しくて、毎日が楽しくて、この恩をどう返したらいいのか毎日考えていました。だから、私なんかが側にいるだけで貴方の支えになれるって何よりも嬉しい……! 夢のようです! プロポーズ喜んでお受けします! 私、これから先どんなことになってもずっと貴方の側にいます」
 瞬間、サタンは両目を弾けんばかりに見開いた。
「え? それって…………」
 自分から起こした事態だというのに現状が上手く飲み込めない。
「だーかーらぁ、プロポーズお受けします! 結婚しましょうサタンさん! 指輪、ありがとう!」
 伝わらなかったならもう一度。リリスは改めて自分の意志を宣言し、差し出されていた指輪を受け取った。
「わあ! 薔薇さんだ、可愛い! 早速つけてみていいですか?」
「う、うん、いいけど、えっと、本当に結婚オッケーなんだな? 本当だな?」
 尚も疑うサタンである。
「本当も本当でっす! あ、この指輪ってば私の左手薬指にピッタリです! サタンさん、見――」
 サタンには彼女の言葉を最後まで聞く余裕がなかった。どうにも喜びが爆発してしまい自分でも気付かぬうちにリリスを両腕で強く抱き締めていた。
「やったー!! ありがとうありがとうありがとうマジでありがとうリリス!!」
 この喜びを隠すことなど出来はしない。不安げだった表情が一転リリスを抱き締めつつプレゼントを貰った子供のようにその場で小刻みに飛び跳ねながら満面の笑みでもってサタンは歓喜の声を上げた。
「サタンさん……! 私こそありがとうございます! あの……っ」
 貴方からプロポーズしてもらえる日をずっと待っていました――リリスはそう伝えたかったのだが何を思ったのかはしゃぎ過ぎたサタンがそれまでの鬱憤を晴らさんばかりに「イヤッホー!!」と声を上げながら先程頭突きした岩の左半分を突然パンチ一発で派手に粉砕しぃの、その砕けた大きな岩たちを「やったやったー!!」と言いながら持ち前の怪力で遠くに放り投げ出したせいで言いたかったことが全て吹き飛んだ。
「えええええええええええええー!?」
 なんでそんなことするんだというごく単純な質問すら声に出来ないままリリスは空を舞いドスドスとエグい音を立てて地面に突き刺さっていく岩々を呆然と見つめた。なんてことだ。もっとちゃんと感謝の気持ちを伝えたかったのだが本当に言わんとしていた言葉が全部吹き飛んでしまった。
「サ、サタンさん何をしてるんですかー!?」
「ん!? 嬉しすぎて岩を投げてた!!」
 眩い笑みでもってリリスに振り向きハッキリと答えるサタン。しかしリリスには喜びと岩を投げる行為がどうにもこうにも結びつかない。……やっぱり未だ彼は少し遠いところにいるようだ。でも、それでいいと思えた。完全に相通じ切っていないからこそ婚約する意味があるはずだからだ。
「おっ、指輪ピッタリだしよく似合ってるな!」
「岩を殴るより先にそれ言って欲しかったですぅ……」
「アハハハハッ! その指輪は俺からの『呪い』だよリリス。黒薔薇の花言葉はバアル曰く『あなたの全ては私のものだ、醜い感情が隠せないほどに強く愛するよ永遠に』って感じらしいからな。もう俺はどうあってもお前を離しそうにはないからバッチリだぜ」
 この男、眩い笑顔でさらりと恐いことを言ってのける。だがリリスは微笑みを僅かも曇らせなかった。それは『ある確信』があった為だ。
「サタンさん、それは呪いじゃないですよ。呪いは一方的な思いです。でも私も貴方には離して欲しくないから、そう望んでいるから、だからその気持ちは呪いじゃなくて私にとっては何よりも尊い『祈り』です。ちなみに私も今日からずっとこの指輪を極力外さないことで貴方に対して『あなたの全ては私のものだ』と毎日訴えさせていただきます。私のこの訴えを貴方は呪いと思いますか? 祈りと思いますか?」
 するとサタンは驚きに少し目を剥いたのち、ゆっくりと笑みを湛えた。
「もちろん『祈り』だと思うよ。何よりも尊い祈りだ。俺らもう相思相愛だな!」
「照れくさいですう〜! でも、えっと、とにかくこれで晴れて夫婦ですね私たち!」
「ううん、まだだよーん。まだちゃんと契りを交わしてなーい。口約束だけじゃ駄目なんだなこれが。だから――」
 だから、と前置きしてサタンは唐突に自身の左手のひらを斜め一直線に爪で深く切り裂いた。痛いだろうに表情を殆ど変えないあたりは流石である。
「これから血と血を合わせて俺の渾身の加護をお前に捧げる。けど、さっきも言ったけど俺の加護を受けたらお前の身体がどうなるかは未知数だ。覚悟はいいか?」
 先程までテンションMAXで岩をぶん投げていた男とは思えぬ真剣な表情。彼の渾身の加護を受ければリリスもバアルのように主のサジ加減ひとつでどうにでもなってしまう身体になると思って間違いはないだろう。だが、恐怖は感じない。彼がサジ加減を間違えることなど有り得ないからだ。我を失ったレヴァイアですらサジ加減を誤ることはなかった。前もって手本を示してくれたレヴァイアとバアルの存在に改めて感謝である。
「はい、大丈夫です。全然恐くありませんよ、貴方を信じていますから」
 迷わず答えてリリスは自身の左手をサタンに差し出した。
「ありがとう。……少し痛いけど我慢な」
 赤々と鮮血を滴らせる自身の手と違いサタンは僅かに血が滲む程度にリリスの手のひらを切った。痛いどころか痒い程度の傷だ。
「一応の最終警告。やめるなら今だ。俺の加護は間違いなく重たいぞ。お前に何かあったら嫌だって恐怖からお前がある程度は自分で自分の身を守れるようそれなりの力を与えるのはもちろんのこと俺を理解して欲しいって理由だけで俺の持ってる記憶や知識なんかもほぼ全部押し付ける。相当キツイはずだ。だけど一度受け入れたが最後、俺は絶対に加護を解かない。それでも本当にいいんだな?」
 ほぼ脅しに近い言葉である。リリスの頭の中に戦場にて加護を受け過ぎ全身から真っ黒な血を滴らせたバアルの姿が過った。身体に相当な負担を強いられていたにもかかわらず自信に満ち溢れていた彼の恐ろしくも美しかったあの姿にリリスは正直、憧れた。本能的に憧れた。ゆえに何故憧れたのかあの時は理解出来なかったが今ならよく分かる。
「構いません。ロテさん曰くリスクを伴わない結婚は存在しないそうですから! ちゃんと覚悟は決めていますよ私。大丈夫ったら大丈夫です!」
「ハハッ、頼もしいな! とことん迷わず頷いてくれちゃうんだからもう。よし、じゃあ俺の手を握ってくれ。そんで俺の加護を受け入れてくれればいい。俺はお前に全てを注ぐと既に誓ってる。お前も俺の加護を受け入れると心の奥底から誓ってくれ。それで契りは成立だ」
「分かりました」
 頷いてリリスは差し出されたサタンの血塗れな手を傷に傷を重ねるようにして握った。だが何も起こらない。まだ手を握っただけで心からの誓いを行っていない為だ。口で何を言おうと血と血をどれだけ合わせようと気持ちが伴わなければ何も起こらないのだろう。
 嘘が通じないのは逆に助かる。どうあってもこの気持ちを信じてもらえるからだ。
 リリスは目を閉じ深呼吸をして改めて声にならぬ声で彼に誓った。
 ――私は、貴方の加護を心の底から受け入れます――
 刹那、繋いだ手のひらから身体が燃え尽きるのではないかと思うほどの熱さが一気に込み上げて全身を駆け巡り瞼の裏にはサタンが生を受けてから今に至るまで目に焼き付けてきたと思われる無数の光景が映し出された。耳には彼が聞いてきたと思われる無数の声と音、頭の中には彼が今まで感じてきたに違いない沢山の思いが無言で木霊し喜怒哀楽全ての感情が波打つ。
 なんだこれはと戸惑う間もなくリリスは瞬時に理解した。これは彼の持つ熱い炎と膨大な記憶と希望の存在としての重圧の全てが血を介して一瞬で流れ込んできたのだと。
 彼が宣言した通り本当に重たい代物だ。とても一瞬で受け止められるものではない。しかし拒絶する暇もなく記憶の洪水はリリスの中に流れ込み続けた。まだ優しかった創造主の表情と天地創造の光景、親しい友人たちとの出会いと交流の過程、自分の半身にも等しいレヴァイアとの一時の別れやその間の葛藤、自分の無力を呪いながら嘆き悲しむジブリールを慰め続けたこと、やがて無事に人型の身体を得たレヴァイアと再会を果たした際の喜び、徐々に混乱を始めた世界と創造主に対する戸惑いと現状を把握しながらも何も出来なかった無念と悔しさ、自分が希望の概念であることの重圧を覚え無力感に苛まれ続け妹のように可愛がっていたジブリールが男に姿を変えて目の前に現れた時の言葉に出来ない気持ち、一人離れていったラファエルを引き止められなかった虚しさ、革命を決意するに至るまでの苦悩……。流れ込んできたものを上げればキリがない。
 重たい。重たすぎる。自身が何者であるか語っているだけだというのに彼の記憶は重たすぎる。
(貴方は、これだけのものを今の今まで一人で抱えていたんですね……!)
 さぞ苦しんだことだろう。こうして契りを交わしてもなお伝わり切らぬほどに苦しんだことだろう。沢山の期待を背負って悩んで苦しんで苦しんで、それでも彼の心は今、喜びに満ちている。リリスと共にあることの喜びに満ちてくれている。
『今、幸せで堪らないんだ』
 血を介して彼が一番強く伝えてくれたものは自身の正体ではなく今リリスを得たことによる大きな大きな喜びの気持ちだった。
 彼は照れ臭さがあったのかプロポーズの際に『好き』やら『愛している』といった具体的な言葉は一切使わなかった。代わりにこうしてリリスの存在一つで何もかもが幸せだと感じていることを充分過ぎるほどに伝えてくれた。
 彼の気持ちは何処までも本物だ。こんなにも嬉しいことはない。こんなにも嬉しいことは――!
「サタンさん、私……! 私……! 言葉になりません……!」
 この酷く上擦った感情をなんと言葉にすれば良いのか分からないまま身体を駆け巡っていた熱が徐々に収まってきたことを受けてリリスは閉じていた目を開いた。すると、驚いたことに目に映る景色が一変していた。
 なんだ、これは。
 何もかもが今までより遥かによく見える。遠くの砂煙もその砂粒の一つ一つが赤い月の光に反射して色鮮やかに煌めいている様も不思議と遥か遠く地平線の向こうにある街の光景すらもよく見える。何処までも何処までも限界なくよく見える。
 空に輝く月はその鮮やかさを増し、雲の流れはより鮮明になり、控えめな風の音は少女の美しい歌声のように耳を通り過ぎていく。
 これ全てサタンから受けた加護の賜物だ。
「貴方には、ずっと世界がこんなにも美しく見えていたんですね……! こんなにも……!」
「さてねえ。自覚が無いからなんとも言えないなあ俺には。逆にお前が今までこの世界をどう見てたのか知りたいな」
「私? 私は…………」
 とても言えやしない。自分が今の今まで何もかも大雑把に見ていたことを悟ってリリスは顔を歪めた。どうして今まで足元の砂粒を一つ一つしっかり見つめることすらしなかったのか。見ればすぐに気付いたはずだ、一見ただの荒れ地ばかりなこの世界がこんなにも果てしない輝きに満ちていたことに。
 どうしたらいいのだ、砂がこんなにも一粒一粒色も形も違って美しいものだとは想像もしたことがなかった。
「私、今まで何も見えてなかった……!」
 目に映る景色の変化は単純に彼の加護を受けて視力が増し五感が研ぎ澄まされたことだけが原因ではない。加護を得ただけあって聞かずとも分かる。これはこの世界を愛して止まない彼の気持ちが純粋に全てを美しく見せているのだと。
「どうして泣くんだ?」
 優しげに微笑んでサタンはリリスの潤んだ目元を手で静かに拭った。
「っ……だって、嬉しいんです……! 貴方と一緒の景色を見ることが出来て、嬉しい……! あと、貴方が、あまりにも優しいから……!」
 溢れる感情を抑えきれずリリスはとうとう大粒の涙を零した。砂粒一つ一つにすら目を向け美しいと気付くことの出来る彼は間違いなく優しい。馬鹿がつくくらいに優しい。この事実に涙が溢れて止まらない。
「んなに褒められたら照れるー! まっ、なにはともあれお前がバケモノにならなくて安心した。眼の色は変わっちまったけどなぁ」
 言ってサタンは穏やかな表情を湛えたままリリスの双眸を見つめた。
「え……? 私の眼どうかしちゃったんですか?」
「まあ、ちょーっとね。見てみるかい?」
 軽いノリで言ってサタンは何処からともなく手鏡を取り出してリリスに手渡した。
 さて彼女はどう思うだろうか。いつかの天界で見た空のように澄んでいた青が加護により金色に染まってしまったことを。
 幸いサタンの心配をよそに涙を拭って鏡を覗き見たリリスは涙とピタリと止めて「あらまあ」と呑気な声を上げるに留まった。
「金色になっちゃった! バアルさんやレヴァさんや街の皆さんとお揃い! サタンさん、私のこの変化どう思います?」
 リリスが大きな目をパチクリさせながらサタンを凝視する。
「どうって、正直なんで金色なんだよお揃いでピンクじゃねーのかよって気はしなくもないけどでもマジで俺のお嫁さんになってくれたんだなって感じがして可愛いぜ!」
「なら良かった! サタンさんが気に入ってくださったなら何も問題ありません、私ももうこの眼、気に入っちゃいました!」
「ああ」
 本当に彼女はどこまでも可愛らしい女性だとしみじみしてしまったサタンである。
「あ、あの、ところで私サタンさんと手を繋いで加護を受け入れるって誓った瞬間、何か凄い熱に身体を一気に貫かれてサタンさんの色んなものがドバッと一気に流れ込んできてブワッと頭の中に広がったんです。それで息が苦しくなるくらい身体が熱くなったりしたんですけどサタンさんは何か起こりました?」
 双方の合意と誓いがあっての契りである。一方的にリリスだけがサタンの記憶やら何やらを受け入れたとは考え難い。彼には一体何が起こったのだろうか。
「お前のその説明そこはかとなく卑猥だなオイ。んでもそう表現するしかねえか」
 ……真面目に質問しているのにサタンめこの態度である。
「えー!? 酷い!! 何をどう解釈したら今の説明が卑猥に感じるんですか!! んっもうサタンさんなんでもエロに結びつけちゃうエロ魔人すぎます!!」
「だっ、誰がエロ魔人だよ!! どう解釈してもありゃ卑猥に感じるって絶対!! って、んなこたどーでもいい! とにかく俺の中にもお前のモロモロが流れ込んできたぜ。ほぼ毎日一緒に行動してたせいで俺が既に知ってることばっかりだったけどな。でもお前があんなにも前々から俺のこと好きで好きで堪らなかったってのは全く知らなかったぜ! あーあ、知ってたらあそこまでプロポーズに緊張したりしなかったのになあ〜」
 安堵したことによるサタンの暴言だ。リリスは恥ずかしいやら何やらで一気に顔を赤くした。
「ちょっとやめてくださいよ私の何を見ちゃってるんですかーッ!! っていうかサタンさんズルいです自分のほぼ全部見せるって言ってたのに昔遊んだ女の子たちの記憶は全く見えませんでしたよ!! さては意図的に隠したでしょう!?」
「え? なんのこと? 俺リリスが初恋だよ、ワハハハハッ!」
「誤魔化したって駄目ですよ私みなさんから色々と聞いて知ってるんですからね!」
「おいおい早速ヤキモチかよ、嬉しいねぇ」
 茶化してサタンは繋いでいた手を離した。するとサタンはもちろんリリスの手のひらに刻まれていた傷もあっという間に跡形もなく治ってしまった。サタンの加護を受けて身体の治癒力も遥かに向上したということだ。この驚きでリリスはつい先程まで抱いていた感情を綺麗に掻き消された。
「傷……。あっという間に治っちゃった……」
「だろうな。もうお前は人間じゃなくて下手したら悪魔より酷い化け物と同等の存在になっちまったんだから。でも安心しろよ。俺は今日以降お前を悲しませるようなことは極力しない。誓いは確かに交わされた、これで俺たちは晴れて夫婦だ。一緒にずーっと途方も無い年月を寄り添って生きることになるぞ。改めてよろしく頼むぜ、リリス」
「はい! なんだか照れますね」
 ゾッとさせることを言ったつもりだがリリスの笑顔は曇らなかった。
「ハハッ、そうだな。ところでリリス、お前の目はもっともっと遥か遠くまで見通せるようになったはずだぜ。試しにバアルん家を見てみろよ。見えるはずだ」
「え? バアルさん家って……。無理ですよそんな、此処が何処かも分からないのに……」
「いいや分かるはずだ。ただ慣れてないだけだよ。ほら、視線を落としてゆっくりと思いを馳せてみな。必ず見える。俺が見えてるものが今のお前に見えないはずがないんだから」
 言ってサタンはリリスの顔を両手でそっと捕まえ、額と額を合わせた。
「視線、を……」
 二人の距離の近さが照れ恥ずかしいこともあってリリスは言われた通りおもむろに視線を落とした。
「そう、そしたら空の彼方に意識を持っていくんだ。自分の身体がフワッと宙を浮くところを想像してみるとやり易いかもしれない。此処からフワッと浮いて上空から魔界の景色を眺めてみな。そのうち街が見えてくる。さあ、ゆっくりフワッと浮いてみ」
「……ゆっくり、フワッと……」
 サタンの優しい声に導かれて言われた通りに想像を働かせてみる。此処からフワッと浮いて上空から魔界の景色を見渡す…………。辛うじて出来た。更には不意に地平線の遥か向こう、西の方角に小さく街が確認出来た。瞼の裏が見せる幻だろうか。いいや違う、これは確かにこの肉眼で捉えている実際の景色だ。
「西に、街が……! あの、サタンさんこれは、なんですか……!? まるで私の目だけが身体を離れて上空にポンと舞い上がってあり得ないくらいに遠くの景色まで見渡してしまってる……!」
「それが俺の『目』なんだよリリス。実際の目玉の位置は関係ない。この瞼が開いている限りは何処までも見通せる。少なくとも魔界の大半の景色は見通せる自信あるぜ。さあ、そのまま街を眺めてバアルの城まで見に行ってみな。アイツら今、謁見の間でお茶しながら結界も張らずにお前の視線が届くのを待ってくれてるよ」
「そっ、そうなんですか!? じゃああまり待たせてはいけないので早く行ってみなくちゃ……!」
 改めて精神を集中させる。すると信じられないほどの早さで身体から離れたリリスの目は街に到着、そのまま見慣れた大通りを抜けて真っ直ぐにバアルの城へ。そのまま実際には敵わないことだがスルリと違和感なく壁を擦り抜けて謁見の間に向かった。不思議と、あんなに迷った道順をすんなりと進むことが出来る。これも加護の賜物なのだろう。そして――謁見の間にて玉座に腰掛けたバアルとその隣に立つレヴァイアの二人と鉢合わせるに至り、どうしたことか『しっかりと目も合ってしまった』。
「あれ……? どうして……?」
 リリスは視線を飛ばしただけだ、なのに彼らは気配を察しリリスと真正面から目を合わせ満面の笑みで手を振ってくれた。咄嗟にリリスもその場で手を振る……が、はたしてこれは彼らに見えているのだろうか。だとしたら一体何がどうなっているやら……。
「お前の戸惑った顔しっかり丸見え〜。大丈夫、すぐ慣れる。神様が創造に不慣れだったせいで天地創造時に生まれた俺らはこの世界に留まるための器である肉体と魂の張り付きが特別甘いらしくてね。その影響でものの見え方が後から生まれたヤツとはまるで違うんだわ。ちなみにこのまま身体を向こうに持って行くと俺らがよくやってる一瞬の移動が出来る。……お前も声だけなら好きなだけ飛ばせるよ。試しに向こうの二人に声かけてみ。やり方を説明されなくても今なら出来るはずだぞ」
「え? えっと…………」
 そうだ、何も教わっていないのに知っている。いつもサタンらが声にならぬ声でやり取りしていることを不思議と思っていたが、あれは彼らにとって言葉を口に出して喋るのと同じ本能的に備わっているごく普通の会話方法なのだと今なら分かる。
『バアルさん、レヴァさん、私サタンさんのプロポーズをお受けしました!』
 声にならぬ声で早速の結婚報告。すると二人はますます顔に笑みを湛えて『やったね! おめでとー!』とリリスの耳の奥底に声を返してくれた。
「……届いた! サタンさん私にも出来ました! やった、これでいつでも皆さんと話せます!」
「だな! さあ、そろそろ戻ってこい」
「はい! ええと……」
 戻ってこいとはその言葉通りバアルの城から此処までしっかり戻ってこいということに間違いはないのだろうが、はたして無事に戻ってこれるだろうか不安である。
「大丈夫だよ!」
 リリスの戸惑いを察したサタンが声を上げた。
「なんの為にデコくっつけたと思ってんだ。温度を感じるだろ。それ目印にしてサッと戻ってこい。温度を辿れば楽勝だ」
「わ、分かりました……!」
 言われた通りにリリスは早速ジワリと額に感じ続けていた温度に気持ちを集中させ、閉じたままの瞼を瞬きさせて改めて目を開いた。
「おおう、良かった無事に戻って来れました!」
 顔を上げるとそこにはこの双眸が間違いなく見ている光景が広がっていた。しっかりと意識が身体に戻ったのである。サタンも安堵の表情で額をそっと離した。
「よし、よく出来ました」
 彼も彼でリリスに対してこうして的確な指示を与えることが出来たのは契りを交わしたことにより人間であるリリスの視野の狭さを把握した為だった。ある程度の予想はしていたがまさかこれほどに彼女の精神と身体が密接に機能していたとは想像していなかった。リリスに何を見たのか問われた際に『特別に得たものは何もなかった』と適当なことを言ったサタンだが実際はしっかりとリリスを守る上で必要不可欠な多くのことを一気に学んでいたわけだ。
「凄いなあ。改めて人間の私が何かと皆さんに劣っていたことがよく分かっちゃいましたよ」
「劣ってた? 凄いとか劣ってるとかってちょっと違うな。俺らはただ存在が朧げなだけだよ。だからモロモロ便利かもしんねーけどお互いがお互いの顔を見てしっかり自分の存在を認識しなきゃいけない。じゃないと自分が溶けてこの世から無くなっちまって普通に死ぬよりも遥かに酷いことが起こっちまう気がするんだよね。そんなザマになったヤツは今のところ一人もいないのにさ、得体の知れないそんなもんにず〜っと怯えてるんだ。凄くもなんともねえよ。むしろ情けない。お前はそんな覚えないだろ?」
「え? ええ……」
 言われて少し考えてみたが思い当たる節は無い。しかし他者がいないと自分を認識出来ないというのはリリスも同じだ。自分がワガママなのか優しいのか馬鹿なのか賢いのかを他者の一切存在しない完全な孤独状態で自己評価するのは難しい。ゆえに同じはずなのだ。だがサタンが指しているのはそういう話じゃない気がする。
「でもお前もすぐに分かるよ。申し訳ないことに俺の加護を受けてお前も少し朧げなものになっちまったんだからな。試しに目玉を飛ばさせたのはそれを自覚して欲しかったからだよ」
「朧げ……? 私の存在も朧げに……?」
 朧げという言葉を向けられリリスは自身の妙にフワフワしている足元を気にした。てっきり膨大な記憶を得たことによる目眩だとばかり思っていたのだが、ひょっとするとひょっとするのだろうか。気を抜くと今にも気を失いそうなほど地に足がついていない状態だ。それが不思議なことにサタンと目を合わせると不思議な安堵を覚えて静かに治る。
「おう。とどのつまり今日から毎日お互いよーく見つめ合ってお互いの存在を肯定し合おうぜって話だ! 今日からは俺がいるからお前がいて、お前がいるから俺がいるんだよ、やったネ!」
 サタンは喜び勇みながら不安げなリリスの細い身体を両手で抱き締めた。成る程、どうりで彼に見つめられると目眩が止むわけだ。
「っ……はい!」
 リリスの身体にこれだけの大きな変化を与えながらも彼が下手に詫びの言葉を並べないのは「俺が守るから大丈夫」という強い気持ちの表れに他ならない。それだけリリスを守り通す自信があるのだ。リリスにとってこんなに嬉しいことはない。こんなに嬉しいことは。
 沢山の感情が再び眼の奥にせり上がって涙として溢れ出そうになった。瞬間「改めて、御結婚おめでとー!!」と今の今まで遠くから様子を見守っていたバアルとレヴァイアが突然リリスの両隣に姿を現し二人揃って満面の笑みでリリスの顔を挟み込んでグリグリと猛烈な頬擦りを行った。
「おめでとうおめでとう! 自分のことのように嬉しいよリリス! 金色の瞳もまた美しい! 本当に御結婚おめでとう! 心から祝福いたします!」
 バアルが言うとレヴァイアもウンウンと頷いた。
「本当におめでとう! 今日から改めてリリッちゃんは俺らの妹分だよ嬉しいな! えっとね結婚生活で何か困ったことがあったらすぐ俺に言うんだよ! 俺がリリッちゃんの代わりにサタン殴ってあげるからね!」
「はい! ありがとうございます!」
 二人からの祝福に頬を赤らめるリリス。その目の前でサタンは不服そうに表情を歪めた。
「ちょっとー!! お前らリリスだけじゃなくて俺にも言ってよ! 俺にもちゃんとおめでとうって言ってよーっ!!」
 俺もお祝いされたい――顔を歪めたのは物凄く単純なヤキモチが原因だった。バアルとレヴァイアが頬擦りをピタリと止めてサタンを見つめる。
「おめでとうございますサタン。色々と手伝ったんだから本当に大きな石の乗った指輪を買ってくださいね」
「おめでとサタン。同じく俺にもちゃんとお高いお酒に分厚いステーキ頼むぜ」
「うわああああん酷い!! 分かってるよちゃんと感謝してますよおっ!!」
「ならばよし」
 バアルとレヴァイアが声を揃えて同時に頷いた。
「ところでサタン、プロポーズ成功したら岩を砕くよりもまず先に誓いのキスだろお。なんでキスしないんだよキスぅぅぅ〜っ」
 唇を突き出しながらレヴァイアが不服そうに眉間へ皺を寄せた。バアルも「そうそう」と頷く。
「そうですよ、チュウの一つもしないで興奮して岩砕いてぶん投げ散らすって馬鹿ですか。まあ馬鹿なんだろうけど」
「うるっさいな!! チュー自粛はお前らがガン見してることに気付いてたからだよッ!!」
 はて、なんの言い争いが繰り広げられているやらリリスだけが蚊帳の外である。サタンは彼女にそういう知恵だけは授けずにおいたのだった。経験するよりも先に知識だけあるというのはどうかと思っての判断である。
「あのぅ、キスとかチュ〜ッてなんのことですか?」
 この質問へ真っ先に反応したのはレヴァイアだった。
「ん? 気になるなら俺としてみる?」
 満面の笑みである。思わずリリスは頷きかけた……が、当然サタンが黙ってはいなかった。
「テメェそんなことしてみろ爪立ててポコチン握り潰してやっからなあああああー!!」
「えー!? やめてくださーい!! 軽い冗談ですからああああ〜っ!!」
 こんな下品極まりないやり取りの側でリリスはひたすら首傾げ。その様子に気付いたバアルが「ほほ〜う」と眉を上げた。
「成る程、そういう知識はまだ授けずにおいたんですねサタン。まだ無垢でいて欲しいという男のエゴだな。気持ちは分からんでもありませんよ」
「分からんでもないなら黙って察しておいてよ声に出して言わないでよ恥ずかしいからあああああ!!」
「え? え? どうしたんですか?」
 やっぱりどうにもリリスだけが蚊帳の外である。全て察しているレヴァイアは横で「アハハハハハッ!!」と腹を抱えて大爆笑だ。
「あらあら動揺しちゃって可愛いこと。でも夜の営みは夫婦生活を維持するために絶対必要なことですよ。ゆえにリリス、私からのアドバイスなんですが…………大丈夫、最初は痛いけどすぐに慣れて気持ち良くなるからね」
 これバアルは本気で親切のつもりである。
「へ?」
 優しげにポンッと肩を叩かれたはいいものの言葉の意味が分からずリリスは瞬きを繰り返した。なんにせよ意味が通じなかったことは幸いだ。しかしサタンは激高した。
「なにナチュラルにセクハラしてくれてんだ馬鹿!! 俺の嫁さんに要らん知恵を吹き込むな馬鹿ーッ!!」
 叫んでサタンは思い切りバアルの額に頭突きを食らわせた。普段ではまず考えられない行動である。それだけ嫁さんを汚れから守りたかったのだ。荒れ地に木霊すド派手な炸裂音。これには爆笑していたレヴァイアも一瞬で顔面蒼白。リリスもより呆気にとられてより一層開いた口が塞がらなくなった。
「痛ーっ!! おっ、おっ、お前……! お前この野郎ー!! 私にこんなことしていいと思ってんのか!! 人がせっかく親切にアドバイスしてやったっつーのに!! 知らねーぞもう知らねーぞ!! お前なんかリリスに痛い痛いって言われて泣かれちまえ!!」
 赤くなった額を手で押さえながらバアルが柄にもなく声を張り上げる。
「泣かせませんよ俺お上手ですもん!! だから全く余計なお世話様だぜって話だ畜生が!! っていうかお前らこっちの雰囲気ブチ壊した自覚を持ちやがれ!! 全くもう常識があるようで無いんだから!! おかげで色々と台無しだよー!!」
「祝いに来てやったっつーになんだその態度は!! ……レヴァ君、見て。おデコがこんなに腫れちゃった」
「え?」
 突如バアルが放った女のような声にかつて愛した女神を思い出してしまったのか間もなくレヴァイアがサタンを睨みつけながら眼の色を静かに変えた。
 これは冗談抜きにマズイ。
「卑怯者ーッ!! ここぞとばかりに病んだ旦那を便利に使うんじゃねーよ王様!! お前の男としてのプライドは何処に行ったんだよおおおおお!!」
「ホッホッホッ!! こう見えて私は勝利至上主義だ!! 男のプライドなんざ二の次だよ!!」
「二の次にしちゃ駄目なものだろそれ!! レ、レヴァ君、落ち着こうね!! ねっ!! お兄ちゃん後日ちゃんとお前にステーキご馳走するからっ!! ねっ!!」
 すると怒りよりも食い気が勝ったのか間もなくレヴァイアは普段の眼の色を取り戻した。隣で「お前ちょっと待て私よりもステーキを優先するのか!?」とバアルが嘆いているのもお構いなしだ。
「わーいステーキ!! っていうかサタンさあ、な〜んか踏ん切りが付かなそうな雰囲気あるから俺が精力増強効果のある薬酒でも作ってやろうか。すげぇ効くし自然と度胸が湧き上がるって街で評判なんだぜ」
 ……我に返った途端にこの言葉である。
「お前なんでそんなスキルまで持ってんだよ!? つーか街の野郎どもに何を配ってんだアホかー!!」
 腹の底から叫び上げる。と、ここで蚊帳の外すぎて我慢ならなくなったリリスがとうとう声を荒らげた。
「んっもう皆さんなんの話をしているんですかあああああああああ!!」
 全くもって間に入れない話ばかりである。彼女の怒りはご尤もだった。にもかかわらず男三人は反省するどころか怒りの形相を忘れて「アハハハハハッ」と笑い出した。
「ちょっと! 何がそんなにおかしいんですかッ!!」
「ヒヒヒヒヒッ!! なんでもないなんでもない!! ゴメンよリリッちゃん!!」
「ぶう……! 謝ってくれればいいですけどお〜っ」
 レヴァイアが笑顔で頭を撫でるとリリスの怒りは少しばかり収まった。彼はこういうところが本当に上手い。流石、女遊びを自然体でたしなむだけある。サタンとしても大事な弟分とリリスが仲良くしている様は見ていて微笑ましい。
「それにしても――」
 言い争いが一段落したところでバアルが周囲をグルリと眺めた。
「此処、良い観光名所になりそうですね」
 見渡す限りの荒れ地にてこのサタンの頭の形ピッタリにボッコリと穴が開いて左半分が砕かれている岩の壁と人工的に放り投げられたことは明らかといった感じに散乱している大きな岩の欠片たちは非常〜に目立つ。
 で、バアルの読み通り本当に此処はのちに皆の帝王サタンがリリスにプロポーズを行った場所として『愛のストーンサークル』と名付けられ此処でプロポーズを行えば必ず成功しぃの帝王夫妻のようにいつまでも仲睦まじくいられると言われるようになり必然的に恋人たちの憧れの地となってしまった。
 とはいえそんな未来など知るよしもないサタンは「わざとじゃないもん……」と衝動的に岩へ八つ当たりをしてしまった自分の幼稚さに肩を落としてしまった。
「ワハハハハッ!! いいじゃねーか、魔界ってばどこ見渡しても荒れ地ばっかだもん俺らでどんどん名所を増やして盛り上げていこうじゃないの!!」
 レヴァイアが言うと隣でバアルも「そうそう」と頷いた。
「噂によれば私が先日の雨で作り上げてしまった血の湖も何を間違ったのか早速観光名所と化しているそうですし……。んっもう超複雑な気分。でも皆さんが楽しんでくれてるならいいかなって感じです、ええ。結果良ければ全てよし。リリスが教えてくれたことですよ」
 微笑んでバアルは親しげにリリスの髪を撫でた。
「バアルさん……! あの、でもちょっと気になったんですけど血の湖ってなんですか? 凄く恐い響きだけど私も近々見に行きたいなあ」
「うっ」
 無邪気な笑顔に胸が痛んだバアルは堪らず言葉に詰まった。
「お前、全然まだ開き直れてねーじゃねーか」
 サタンの冷たい突っ込み。その横でレヴァイアは再びの大爆笑だ。彼も血の湖を作るに一役買った立場だというのに呑気なものである。
「うるさい! 細かいことを気にするんじゃない! さ、帰りましょう新郎新婦。私の城へいらっしゃい。式典の日取りやら何やらを決めなくては」
「とりあえずウェディングケーキは俺に任せとけ! 豪華でしかもデッカ〜〜〜いの作ってみせるぜ!」
 話すバアルとレヴァイアはとても楽しそうだ。
「おう! ありがとよ!」
 応じるサタンももちろん楽しそうである。
 リリスは静かに察していた。今サタンから得た様々な景色が瞼の裏に流れ続けている。どれもリリスが決して知るはずのなかったものだ。友人たちがサタンに心を開いて深い話をしている姿など特にそうだろう。サタンの記憶を得ればこうしてバアルとレヴァイアがサタンという友にだけ心を許して晒してきた無防備な姿もリリスに伝わってしまう。彼らだけじゃなく街の人々もそう、帝王であり希望であるサタンにしか晒していなかった姿をリリスにも見せることになる。リリスは既にバアルの記憶を得て様々なものを見た後ではあるが、あの時に見えたのはバアルが伝える記憶を限りなく絞っていたことやリリスが途中で手を離してしまったこともあって本当にごく一部分の景色だった。それと今回の契りを交わすための渾身の加護によって見る景色は比べ物にならないほど色濃い。
 だがサタンは臆さずに己が見てきた殆どの景色をリリスに見せてくれた。サタンほどの気遣い屋が一切の遠慮も躊躇もなくである。
 彼が友人たちの気持ちを度外視して躊躇なく行動するとは考え難い。と、いうことはサタンは前もってバアルとレヴァイアと街の人々から『同意』を得ていたのだ。お前たちが俺にだけ気を許して見せてくれた姿をリリスにも晒すぞ、と。それを仲間たちはどうぞどうぞと頷いてくれたのである。
(私は、サタンさんだけじゃなくて皆さんに迎え入れてもらえたんですね。サタンさんの花嫁として皆さん全員に……!)
 言葉にならない熱い想いが胸に込み上げて止まらない。また涙が溢れそうだ。
(私は、なんて幸せなんだろう!)
 改めて見つめた左手薬指の黒薔薇の指輪は赤い月に照らされて角度によって時折赤く煌めいた。
(私、この世界に生を受けて良かった、本当に良かった……! カイン、私しっかり幸せになれましたよ。そのきっかけをくれたのは他でもない貴方です――!)
「可愛い指輪を貰えて良かったねリリス」
 ジッと指輪を見つめるリリスに気付いてバアルが優しげに微笑んだ。
「あ、はい! 私これ凄く凄く気に入っちゃいました!」
 と、ここでリリスはバアルが「だってさ」とレヴァイアに目配せしたことに首を傾げた。はて何故サタンではなくレヴァイアに目配せをしたのか……。これつまりリリスはサタンがレヴァイアに散々アドバイスを貰ってこの指輪を購入した事情を全く知らない証であった。本当にサタンは自分にとって都合が悪いにも程がある記憶は逆の意味で正直なくらい一切リリスに見せなかったというわけだ。
「なんてズルいヤツ……!」
 リリスの反応を見て察したバアルとレヴァイアが声を揃えてサタンへ冷たい目を向けた。
「はい!? なんのことかしら!? ワハハハハハッ!! まあ細かいことは気にしない気にしなーい!! さあリリス、バアルのお城へ帰ろーう!!」
「え? え? あ、はーい」
 なーんか誤魔化してる風なサタンの態度を疑問に思いつつもリリスはサタンが満面の笑みを零しながら差し出してくれた大きな手を取った。その温かい手が「今日の出来事は決して夢じゃないよ。本当に起こったことだよ」と無言で囁く。
(私、本当に結婚したんだ――!)
 このニホニホと勝手に綻んでしまう表情を制することなど今のリリスにはとてもじゃないが出来なかった。



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