【03:私よ貴方の色に染まれ】
※「01:胸焼けするほどの愛を捧ぐ」「02:彼は形にする術を知らない」の続編です※
朝起きてすぐドレッサーの前で胸元まで届く長い銀色の髪をゴムで一本に束ねリボンを巻くのがルシフェルの常である。いつもそうして一日の始まりを実感してきた。だが今日は気分が乗らない。いや、今日に限らない。何日か前からどうにも気分が乗らない。むしろ何日か前どころかずっと前から気分など乗ってなかったかも分からない。
そうか、これはもう自分を変えるタイミングだ。そうに違いない。
「やっぱ髪、切ろうかな」
束ねた髪を指で弄りながらルシフェルはショートヘアの自分を想像した。……うむ、なかなかイケそうだ。いやいやイケそうなんてレベルではない。似合い過ぎて困るほどだ。カインからホワイトデーという名目で誕生日に貰った右耳のピアスも髪を切れば今よりよく見えるはず。そういえばこのピアスを貰って以来髪を切りたい切りたいと考え始めるようになってしまった気がする。
このブルーダイヤとピンクダイヤがワンポイントに埋め込まれた純金の星が5つ連なったぶら下がりピアスをもっとよく見せたい。それには長い髪が少し邪魔……。
頭の片隅に渦巻き続ける欲求は日増しに強くなっていく一方。もう行動に移すしかないだろう。これは自分を変えるタイミングで決まりだ。ただそうしたいと思った、行動する理由はそれだけで十分だ。何も迷うことはない。
「よし!」
気持ち定まれば即行動。ルシフェルは悠々と自室を出てすぐ隣りのカインの部屋を訪ねた。
家事手伝いとして同居している双子チビは朝食の片付けを終えた後に仲良く買い物へ出掛けてしまった。今この城にいるのはルシフェルとカインだけである。
「カイン、入っていい〜?」
ドアをノックすると随分と遠くから「おーう」というぶっきら棒な返事をされた。入ってどーぞということだ。遠慮無く踏み込むとカインの姿は部屋ではなく開け放たれたバルコニーの向こうにあった。パーカーにジーンズにサンダル履きというラフな格好で椅子に座りテーブルに肘をついて何やらパチパチと小気味の良い音を手本で鳴らしている。どうやらネイルニッパーで爪切りをしているようだ。トレードマークである真っ白な髪を風に揺らしながら空にある月と同じ色の赤い瞳で手元を見つめているその姿はなかなか絵になっている。
「あらあら、爪のお手入れ?」
「まーね」
「どれどれ〜?」
振り返らず答えるカインの手元を覗き込むと彼がいつも通り物凄〜く小刻みに少しずつ爪を切っていることが確認出来た。
いつもカインは細やかな作業に自信が無いのか慎重に慎重を期してなのか、こうしてやたら小刻みにチマチマした爪の切り方をする。これは「絶対に深爪すんな」とルシフェルがしつこく言い聞かせてきた結果だ。痛覚のない彼を心配してのことである。少し深爪をしたところで治癒能力の高い彼は一定の長さまですぐに爪を伸ばすことが出来るし当然痛みも感じないわけだが、それでも痛覚の有無は関係なしに身体の痛むことは極力してほしくない――この思いが伝わっているのか否かは彼のこの面倒臭い爪の切り方を見れば言わずもがな。ルシフェルは顔を綻ばせた。
「カイン、手伝ってあげようか?」
「ぁあ? 舐めんな、爪切りぐらい一人で出来る」
軽く突っぱねてミリ単位の作業を続けるカイン。しかし拒んで容易く怯むルシフェルではない。
「いいからいいから! ちょっと待ってて、アタシのネイルケアセット持ってくるから」
「えーーーー?」
とっても不満気な態度だ。だが口では文句を言いながらもカインはすぐに爪切りを中断して煙草を吸い始めた。じゃあ任せますよ、ということだ。
よしよし。
早速ルシフェルは意気揚々と自室に戻ってドレッサーからネイルケアセットを取り出し、ついでに黒のマニキュアも手に持った。絶対に似合うと判断してのことである。しっかり仕上げるためにベースコートとトップコートも忘れずに。
バルコニーに戻ると丁度カインが吸い終わった煙草を灰皿に押し付けているところだった。彼は肺活量が多いのか煙草を吸う速度が早い。おかげさまで元は父親が使っていたこの部屋も随分と煙草臭くなってしまった。しかし嫌ではない。むしろありがたい。父親が亡くなってからこの部屋の匂いが日に日に薄れ、やがて消えてしまったことに泣いた過去があるからだ。その経験があってルシフェルは人の匂いが大好きになった。しかもこの部屋に漂っているのは他の誰でもないカインの匂いである。そりゃあもう嫌なわけがない。
「たっだいまー!」
「おう、お帰り〜……って、なーんか嫌なもんが見えちまったぜ」
ルシフェルの手元をチラリと見てカインの眉間に皺が寄った。もう色々と察してしまったらしい。
「えー? 嫌なもんってなーに?」
「それだよそれ。その、えっと、マニュキアだったかマニキュアだったか、それ」
マニュキアだのマニキュアだのという発音に苦戦しつつ、また俺を玩具にする気か……と溜め息するカイン。目つきの凶悪な彼は溜め息しただけで相当に迫力がある。だがルシフェルは臆さない。
「マニュキアじゃなくてマニキュアが正解! いいじゃん、女の子って結構男の指先までしっかり見てるんだよ。だからちゃんとしとかなきゃモテないんだぞ〜」
「んじゃ尚更いらねーよ。どーせなにしたって俺モテないもん」
「どーしたの? 珍しくネガティブじゃん」
言いながらルシフェルはカインの脚の間にスッポリとハマるように座って「もう好きにしてくれ」と言わんばかりにテーブルへ投げ出されていた大きな手を捕まえた。ルシフェルの手より軽く一回りは大きい綺麗な手だ。整え甲斐がある。ルシフェルは早速爪切りを開始した。
「そりゃネガティブにもなるわ。無駄に権力だけは持ってるうるせぇガキがマジでうるせぇから誰も俺に寄ってきてくんねんだよ。あーあ、街には綺麗なお姉ちゃんが沢山いるってゆーのにさああああ〜」
「それはそれは悪うございました」
「全くだ畜生」
と、こんな憎まれ口を叩きながらもカインは大人しくルシフェルに手を預けて華奢な肩越しに作業を見つめている。少女の細やかな作業に感心してくれているようだ。
「アハハッ! ああ、そうだカイン。爪を切った後はこうやってヤスリがけもした方がいいよ。じゃないとアンタが爪切りたての時に手を繋ぐとちょっとザリザリしてて痛いんだよね〜」
「えーーーー、面倒臭い」
……やれやれ、本当にこの男は素直に頷くことが滅多にない。
「またそんなことを言う! なんならネイルサロン行ってもいいから爪はちゃんとしなさい! サロン代くらいちゃんとあげるから! 分かった!?」
「はーい……」
振り返らずともふて腐れてるのが容易に分かる声色だ。なんという態度だろうか。本当にふて腐れたいのはこっちである。こっちが口うるさくなるのはそもそも言っても言ってもカインが聞かないせいなのだ。そうとも、本当はこんなうるさいことばかり言いたくないのだ。何故なら――
(ああ、まただ。どうしてこんな可愛くないことしか言えないんだろうアタシ……)
こんな風に悩んでしまうからだ。
丁重に爪の先端をガラス製のヤスリで整えながらもルシフェルの心中は穏やかでない。
「痛くしたらゴメンよ〜」
落ち込む気持ちを掻き消すように背後へ声をかけると「気にしねーよ」とだけ返された。そうだろうな、とルシフェルも思う。彼は自分が傷つくことをなんとも感じない。痛みは無い、傷もすぐに塞がるとなれば気にしないのが普通だ。なのに、痛覚の有無は関係なしに身体の痛むことは極力してほしくないという感情の押し付けはやはり我侭なのやも分からない……。
「おいルーシー、お前が普通なんだから思い悩むこたねーぞ。変なのは俺の方なんだからな」
「え? な、何が?」
カインの唐突な言葉に咄嗟の誤魔化しを図ったルシフェルだったが、既に手遅れというヤツだった。
「何がって、……分り易いんだよ、お前は」
「うっ」
分り易いと言われたあたり言葉にせずとも何か伝わってしまったのだろう。一応同じ屋根の下に暮らし始めてもう3年になる。彼がルシフェルの変化に少し鋭くなるのは自然なことだ。
「ア、アンタが心配ばっかかけるからいけないんだからね!」
あっ、また可愛くない態度をとってしまった……と後悔してもこれまた手遅れ。口から一度出てしまった言葉は引っ込まない。が、幸いカインは「悪かったよ」と軽く笑ってくれた。こういう余裕たっぷりなところカッコイイなあ〜とお世辞じゃなしに思うルシフェルである。
「で、どうでもいいけど、それマジで塗るわけ?」
両手の爪にヤスリをかけ終えたルシフェルがカインの指先をコットンでしっかり拭いてマニキュアを塗る下準備を始めたことを受けてのカインの言葉である。「勘弁してください」と言わんばかりの口調だ。しかしルシフェルが引くはずなどなかった。
「もちろん! 絶対に格好良くなるから塗らせなさい!」
「嫌だっつーの! テメェはいつも俺を玩具にし過ぎ……っあーーーー!!」
こういう時は先制攻撃をするに限る。ルシフェルは嫌がるカインの手をしっかり捕まえて爪へ問答無用に透明のベースコートを塗った。
「もう塗っちゃった〜! 動かないでねカイン」
すると観念したのかカインは「マニキュア臭いし暇だし最悪」と溜め息がちに呟いてルシフェルの左肩にゴツンと顎を置いた。ちょっと重たいが悪い気はしない、むしろもっと密着してください! なルシフェルは上機嫌にそのまま作業を続けた。
(んっもう、そんな引っ付かれたらアタシ勘違いしちゃう……ッ!)
冷静に手元を動かしつつ内心はこの通りウハウハもウハウハ。ルシフェルは今にも湯気を上げそうな自分の身体を必死に制した。
「ところでテメェ俺の部屋に来たそもそもの目的はなんだったわけ?」
「え? あ……」
ふて腐れた声に問われてルシフェルは針に突かれたように顔を上げた。
「ああ、そうだ忘れてた! ちょっと聞きたいことがあってさ」
「聞きたいこと?」
その時、彼の目がこちらに向いたのだろう。ルシフェルは頬にカインの視線を感じた。
「うん。……あのさ、アタシ髪の毛をバッサリ切ろうと思うんだけど〜……どうかな?」
ちょっと照れながらも思い切って意見を乞う。するとカインは一切の躊躇もなく「あぁ、別にいんじゃね」と至極あっさり答えた。
「え?」
全く予想していなかったカインの答えにルシフェルの思考が麻痺した。軽快に動かしていた手もピタリと止まった。
「え? ってなんだよ。テメェが髪切りたいなら好きにすればいいじゃねーかって話だよ」
カインもカインでルシフェルの反応に不服そうだ。いやしかし不服の度合いはルシフェルの方が遥かに大きい……とルシフェル本人は判断した。
「いやいやいやいやいやいやいや、アンタそりゃないでしょ!! 仮にも女の子が髪のことで相談してんだよ!? それを別にいんじゃねーの一言で片付けるとは何事よ!! なんかこうもうちょっと俺は長い髪の方が好きだなーとか短い方が俺の好みだから是非切ってくれ〜とかさ! もうちょっと何か言ってくんないとさあ!!」
早口でガミガミガミガミ。するとカインは毎度おなじみの深い溜め息をついて「またそんな面倒クセーこと言う……」とボヤいた。全く本当に女心を分かっていない男である。
「ちょっと!! アンタの意見を尊重してやろうってのに面倒とか言うんじゃないよ!! で、どうなの!? 女の髪は長いの短いのどっちが好きなの!?」
「んなの考えたことねーから分かんねーよお。一応は長い方が好きかもしんねーけど別にお前じゃどっちでもいいんだよなあ〜」
別に、お前じゃ、どっちでもいい。この無神経な言葉はルシフェルの怒りスイッチを押すに十分な力を持っていた。
「ちょっとおおおお!! アンタそれまさかアタシを女として見てないってこと!? なにさ馬鹿!! 馬鹿!! アンタ今アタシに手を握られてるってこと忘れてないでしょうね!? あんまナメたことぬかすと爪にピンクでハートとかお花とか描いてやるからね畜生ー!!」
「んな姑息な嫌がらせはやめてください女帝様〜」
「じゃあ別にーじゃなくてちゃんと答えてよ! アタシの髪どっちがいい!?」
「えーーーー? じゃあ……、短い、方……が、いい」
「本当!?」
怒りに頬を膨らませていた表情が一転、ルシフェルは歓喜に目を輝かせた。
「うん……。今の頭も可愛いケド短い方がより活発な感じがして似合うと思いますです……」
「分かった! ありがとう!」
頷くなり再び意気揚々と手を動かすルシフェル。その一切はみ出しも歪みもなく綺麗に黒のマニキュアを爪に塗っていく様に彼女がどれだけ機嫌を良くしたかが表れている。
(簡単な女で良かった……)
ホッと一息なカイン。どう思おうが女の話は否定するよりも肯定しといた方が丸く収まる――これはレヴァイアから教わった知識である。実践して良かった、本当に丸く収まった。
わざわざ「髪の毛をバッサリ切ろうと思うんだけど〜」なんて確認に来るくらいだ、彼女の気持ちは既に固まっていて、あとは背を押してもらえば完璧という段階だったに違いない。と、ここまで察していたのだから最初から「短い方が似合う」とでも軽く答えておだててあげればすぐに終わる話だったんだろうが、とても言えなかった。こんな少女を容易くおだてる自分の姿など想像しただけで全身がムズ痒くなる。痛みと同じく痒みを感じることも殆ど無くなったこの身体がムズ痒くなるのである。
(お前はお前で男心が分かってねーぜ)
まだお子様だろうから仕方ないだろうけど、と真横でコッソリほくそ笑む。変なところ鈍いルシフェルは笑われていることなど全く気付かず作業に夢中だ。
(節々のゴツゴツした長い指に黒の爪! う〜ん、アタシ好み過ぎてヤバイ!)
ルシフェルはどんどんカインが自分好みの姿になっていくことが楽しくて堪らなかった。
「それ塗るの、そんなに楽しい?」
何やら察したカインが不思議そうに聞く。
「楽しいよ! カインだって自分の指先が綺麗になってくって楽しいでしょ?」
「ん〜? 分かんな〜い」
楽しいと言われれば楽しい気もするが楽しくないと言われれば楽しくない気もする。どうにもカインには判断つかない状況だった。これもまたお世辞でも「楽しい」と答えれば丸く済んだ話なのだろうがカインはそこまで器用な男ではない。案の定「こんな綺麗に塗ってやってんのにぃ」とルシフェルの頬が不満げに膨らんだ。また少し機嫌を損ねたようだ。と、そこへ「よう!」と突然レヴァイアが音もなく姿を現した。ジーンズに黒の半袖パーカーという完全にオフの格好だ。しかしその両腕には派手なアクセサリーがジャラジャラとひしめいている。オフのスタイルとはいえお洒落に抜かりはないようだ。
「あっ。レヴァ君、おはよ!」
「お〜っす」
笑顔で挨拶するルシフェルとは対照的にカインの表情は心なしか曇り気味だ。
「はよーっす。お二人さん今日も仲睦まじいことで」
ニヤニヤと笑いながらバルコニーの柵に腰を下ろすレヴァイア。彼が二人を茶化しに来たことはその態度からして明白だ。此処から街を跨いで米粒サイズに見える遥か前方の城からこのバルコニーの様子を見たのだろう。そりゃあカインの表情も曇るというもの。
「おう、今日も大人しく玩具にされてるよ俺。偉いだろ」
「またまた、満更でもないくせにぃ〜。ところでルーシー、髪切りたいんだって?」
聞きながらレヴァイアは流れるような手つきで煙草を口に咥え、銀製のジッポで火をつけた。幼い頃から耳にしてきたせいだろうか、ルシフェルは彼のジッポを擦る音を聞くと妙に安心する。家族が日常を営んでいる音というのは良いものだ。と、それはともかく既に彼が話を把握している件についてだ。やれやれいつものことだが彼ら魔王もラファエルほどではないが相当な地獄耳である。まあ、でも、話が早いに越したことはない。ルシフェルは茶々を入れに来たレヴァイアを邪険にすることもなく手元に意識を集中させたままチラリと笑顔を向けた。黒いマニキュアは塗り終えた。後はトップコートを塗って仕上げれば完成である。
「うんっ。ちょっとイメチェンしたいなーって思って。16歳になったことだしね。ってことでレヴァ君、どっかオススメの美容院ない?」
「さてねぇ〜。美容院に心当たりはないけどお前が髪切りたがってるって知って『ならば私が!』と朝から張り切ってヘアカット用のハサミとか用意し始めた王様がいることなら知ってる」
「えっ、じゃあバアルがアタシの髪を切ってくれるの?」
確認するとレヴァイアは「うん」と迷わず頷いてみせた。
「本人、既にやる気満々だよ。アイツめ美容に関することなら知識も技能も無駄に半端ねぇから是非頼ってみてくれ」
「うん、喜んで!」
ルシフェルとしても助かる話である。バアルに任せればまず失敗は無いからだ。
「本当に女子力が高いな、あの王様は……」
バアル本人が聞いたらさぞ憤慨するであろう台詞を小声で吐くカイン。聞こえてしまったレヴァイアは「それ絶対に本人の前では言うなよ」と笑った。
「あははっ! あ、ところでレヴァ君は女の子の髪って長いの短いのどっちが好み?」
ルシフェルによる興味本位での質問である。優雅に煙草の煙を明後日の方向に吹いていたレヴァイアが「え?」と目を丸くした。この話を振られるとは思っていなかったようだ。彼は暫し「えーと、そうだなあ〜」と空を仰いだ後、気持ちを固めて頷いた。
「うん、俺はやっぱ長い髪の方が好きかな!」
「だと思った」
間髪入れずにルシフェルとカインとで声を合わせる。なにせ予想通りだ。何故かは分からないが絶対にそうだろうなあという気がしていたせいで全くなんの驚きもない。が、レヴァイアとしては折角の告白をしたのだからもうちょっと大きなリアクションを期待していたわけであるからして妙に冷めた二人の反応に「なんでだよ」と頬を膨らませた。
「ってゆーか俺の好みを聞いてやっぱ髪を切るのやめよう的な可愛い反応はないわけ?」
「ノーコメント! はい、風使いの出番だよーん」
あっさり話を切り上げてルシフェルは綺麗に仕上げたカインの両手をレヴァイアに差し出した。ムラ無く黒のマニキュアが塗られている。お世辞抜きに見事だ。
「ルーちゃんって不器用なようで器用だよなあ」
微妙な褒め方をしつつレヴァイアは素直にカインの指先にフワリと風を巻き起こして一瞬でマニキュアを乾かしてみせた。
「ほい、出来上がり」
得意気に微笑むレヴァイア。本当に便利な能力である。
「あ、なに? 終わった?」
成り行きを見守っていたカインがルシフェルを見つめて確認を図る。
「うん。乾いたから触っても大丈夫だよ、ほら」
言ってルシフェルはカインの黒く光る爪を親指で撫でてみせた。よしよし、完全に乾いている。触れても全く問題ない。「へえ〜」と感心してカインも同じく自分の爪を撫でる。と、マニキュアとトップコートによるツルツルした感触が妙に癖となったのかカインはそのまま暫く指先で撫でるように爪を触り続けた。
「良かったなルーシー。カイン絶対気に入ってるぞコレ」
茶化すようにレヴァイアが笑う。
「ん、んなこたねーよ多分……! つーかよ、お前も何気にマニキュアしてんのかそれ」
不意にカインの目がレヴァイアの指先に向いた。真っ黒で猫のように先端の尖ったポイント型の長い爪だ。
「これ?」
言ってレヴァイアは指先から2センチは出ていて生活に不便ではないかと思うほどの長い爪を有した指先をカインとルシフェルに向かって差し出した。
「俺のコレはマニキュアじゃなくて元々なんだなあ。生まれた時から真っ黒なんだよ爪。ちなみにある程度の伸縮も自在。料理する時なんかはちゃんと短くしてる」
こんな感じにとレヴァイアは二人が見ている前で爪を短くし、尖っていた先も自在に丸くしてみせた。「見れば見るほど便利で羨ましくなるよ〜」と口を尖らせるルシフェル。己の爪を瞬時に伸ばして硬質化し武器とするバアルの能力はもちろん、普通に伸縮自在なレヴァイアの爪もなかなかに羨ましい。っと、前知識があったがゆえにドライな反応しかしなかった少女とは裏腹に全くの初見であったカインは目を輝かせて「スゲー!!」と声を上擦らせた。
「いいなあああ!! いいなああああ!! なにお前の爪スゲー!! 羨ましい!! お手入れ要らずじゃん!! いいなああああ!! それ欲しい!!」
無垢な少年そのものといった感じのリアクションだ。羨望の眼差しを受けて当のレヴァイアも嬉しそうである。
「エヘヘヘヘ〜ッ。でも俺は可愛い女の子に爪を手入れしてもらえるお前のが羨ましいなあ〜」
「え? 可愛い女の子なんてドコにいるよ?」
わざとらしく周囲を見渡すカイン。これにルシフェルが憤慨しないわけがなかった。
「アンタのその目玉ちゃんと機能してないみたいだから一回抉って洗った方がいいかもしんないねッ!!」
「え? そんなこと言うと俺マジでやっちゃうよ〜」
これまたわざとらしく言って瞼を指で広げるカイン。まさか、本当に、やる気なのか。ルシフェルはすぐに「ギャアアアアアア!! 絶対ダメー!!」と叫んでカインの手を押さえた。
「こらこらカイン君。いたいけな少女をグロいネタでからかうのはやめなさい」
流石にレヴァイア兄さんからも注意が飛んだ。
「分かってるよ軽い冗談だよ。ところでレヴァイア、お前は朝っぱらから俺らを茶化すためだけに此処へ来たわけか?」
「いやいやいや。俺はちゃんと王様がルーシーの髪を切る気満々だってことを伝えに来たんだよ。茶化しはそのついでだ」
……どうだか、怪しいものである。ルシフェルは笑ってカインは溜め息した。
「なにはともあれ、お前ら魔王のスキルの高さには日々感心しきりだよ俺。出来ないことの方が少ないだろ畜生」
「まあ〜、そうだな。バアルに出来ないのは恋人くらいなもんだ」
「失礼なことを言ってくれるねレヴァ君」
一体どの辺りから話を聞いていたのやら、いつの間にやらレヴァイアの隣にやって来たバアルが口を挟んだ。
優に腰まで届くほどの長い髪をサイドに編み込み束ねて宝石を沢山ちりばめたブローチで留め、服装は七分袖のロングカーディガンに黒のパンツにゾッとする20センチ厚底ハイヒールという今日は彼もまた完全にオフの格好だ。しかしながら化粧はバッチリでもって両手の指には見るからに重そうな大きな宝石をはめ込んだ指輪がズラリと並んでいるしハイヒールは言わずもがな。オフでも自身のアイデンティティはしっかり維持しているようだ。っと、それはともかくなんの予兆も無しに姿を現す彼らにはカインはもちろん実はルシフェルもまだ慣れていない。どうしても慣れない。やっぱり一応いきなり出てこられるとビックリする。全くリアクションしないのは突然やって来る当人たちだけである。
「おう、準備は出来たのかい?」
ちゃっちゃと話を切り替えるレヴァイア。バアルもバアルで「出来ないのは恋人くらい」という言葉を深く追求する気はなかったらしく「ええ」と素直に頷いて答えた。
「城の一室をバッチリ美容院そのものにしましたよ。ルシフェル、私の腕を信じてくれますか」
ルシフェルに向かって圧倒的な美貌が朗らかな笑みを浮かべる。美しい笑顔だ。だがその美しい笑顔には「絶対に断らせない」という凄みが分かり易く含まれている。これはどう足掻いても断れない。断るつもりは毛頭なかったが尚更と言った感じだ。
「アハハッ。勿論だよ! よろしくね、バアル!」
ルシフェルはこの威圧に笑顔で返せる自分を自分で凄いと思った。それはもう、本当に……。
なにはともあれ、こうしてルシフェルはバアルに連れられてバアルの城へ、カインはレヴァイアに誘われて街へ出掛けることになった。昼時一歩手前、男二人揃って小腹が空いた為にまず向かった先は最寄りのコーヒーショップ。そこでレヴァイアとカインはアイスコーヒーとそのお供にサンドイッチを幾つか買ってなかなか雰囲気の良いテラス席に腰を下ろした。周りにはコーヒー片手に和やかな会話を楽しんでいる悪魔たちの姿がチラホラ。優雅な光景である。彼らはレヴァイアとカインの姿を確認するなり笑顔で軽く会釈をした後、また向き直ってお喋りを始めた。
「あー、腹減った。……でも良かったのか、ルーシーが髪を切るとこ見学しなくて」
腹が減ったと言いつつレヴァイアは席に座るとすぐに煙草を吸い始めた。食事よりまずは煙草。まあ、いつものことだ。
「別に。特に興味ない挙句に出来上がりを楽しみにしとけって別行動を命じられたんだ、そら素直に従うわな」
素っ気なく返してカインは大嫌いな野菜を全部抜いて作ってもらった特注のハムサンドに噛み付いた。カインの野菜嫌いは既に街中で有名だ。おかげでカインから言い出さずとももっぱら店員さんの方から「野菜は抜きますか?」と確認してくれる。大変ありがたい。
「んっとにその偏食は治りそうにねえなあ〜」
言うことを聞かない駄目な子供を見るような目でもってレヴァイアが笑う。
「ぁあ? アンタのチェーンスモーカーっぷりが治んねぇのと一緒だよ」
「いや違うなあ。あんな炭の塊を美味いって食えたお前なら本気出せばレタスの1枚や2枚も簡単に食えるって」
あんな炭の塊……。どうやらバレンタインデーでのことを言われているようだ。
「アレはアレ、コレはコレ! 俺がレタス食わなくても魔界は平和だけどあの炭ん時はそうじゃなかっただろうがっ!」
「成る程ね。ルーシーを泣かせない為ならある程度のモンは無理してでも食える、と」
「うっ」
なにやら墓穴を掘ってしまったことに気付いてカインは声を詰まらせた。
「クッソ〜……! 俺絶対に行動を間違えたわ……!」
あの時、無理して炭状態のチョコなんか食べたばっかりにホワイトデーのお返し探しに奮闘する羽目になるわこうして頻繁に蒸し返されて茶化されるわ散々も散々である。
「あははは! そんなこと言うなよ! 可愛いだろ、あの子。お前から貰ったピアス気に入りすぎてずっと着けてるし」
眉間に深い皺を寄せたカインにレヴァイアは更なる追い打ちをかけてきた。追い打ちも追い打ちである。なんと全身を掻き毟りたくなるようなことを言ってくれるんだろうか。カインは堪らずいつもの癖で己の首筋に爪を立てた……が、マニキュアしたばかりということを思い出して引っ掻くのを躊躇してしまった。
「お前のそういうところ可愛いよな!」
鈍いようで鋭いレヴァイアが異常なほど眩しい笑顔を向けてきた。彼のことだ、先程からカインが爪を庇うようにコーヒーカップなりサンドイッチなり手にしていることなど容易くお見通しだったに違いない。
「う、うるせえな!! 一日も経たず爪ボロボロにして帰ったら絶対面倒なことになるからだよ!! つーか可愛いとかやめろよ邪魔すんなよそうやって茶化かされるとガチで全身が痒くなんだよ俺!!」
「痒みなんか殆ど感じるはずもないのに?」
「そうだよッ!!」
必死の訴え。だが目の前の魔王様は「分かった分かった悪かった」と言いつつ暫く笑い続けてくれた。畜生、悔しい。いつか何か弱みを握って大いに仕返ししたいものである。
城の一室をバッチリ美容院そのものにしましたよと宣言しただけあってルシフェルが招かれた部屋の一角は本当にほぼ美容院そのものであった。大きな大きな姿見鏡の前に電動スタイリングチェアが置かれ、脇のワゴン台にはプロ仕様のハサミやらスタイリング用のスプレーやらドライヤーやら美容師さん御用達の道具がズラリと並んでいる。しかも向こうにはシャンプー台まである。聞けば行きつけの美容院から半ば強引に一式まるごと借りてきたのだという。王様に「貸せ」と言われて断れる人はいないわけであるからして……、いやしかしどんな風に借りたかは想像しないでおこう。そうしよう。それがいい。
「さてと、どんな髪型にしたいのかな?」
作業をし易いよう手の指輪を全て外しカーディガンの袖を捲りながらバアルが微笑む。彼を見ているうちに「やっぱり髪は長いままがいいかな……」と少し心が揺らいだ。が、「いやいやいや、もう決めたんだから!」とすぐに思い直してルシフェルはスタイリングチェアに座って自身の結っていた髪を解いた。
「どんな髪型っつーか、んーと……とりあえずカインくらいの長さにしたいんだよね」
目安は彼。なにせ髪を切りたいと思い始めたのは彼の影響に他ならない。見せびらかしたくなるほど素敵なピアスを貰ったこともそうだが、それ以前からナイフ一本でザクザクと思い切り良く自分の髪を切る彼の姿にいつも上手く言葉に表せない内なる強さを感じ、とどのつまり単純にずっと憧れていたのだ。しかも適当に切っているようでかなり上手い。何故そんなに上手いのか――聞けば長い長い牢獄生活中、暇を持て余した彼はたびたび自身の伸びた髪の毛を指で引き千切って遊んでいたのだという。ゆえに牢獄を出て暫くは美容院を勧めても自分で切った方が気楽でいいと何度も突っぱねられた。「今日は自分で切るの面倒だな」とボヤいて彼が稀にではあるがきちんと美容院に行くようになったのはつい最近のことである。
「あらあら。惚れた殿方と同じ髪型にしたいなんて可愛いこと言いますね」
「でしょ〜。アタシったら超カワイイ! って、違うよ! あくまで長さの目安に言っただけ!」
「おやおや、そこは素直に認めた方が可愛いと思うけどなあ。えっと、あんな感じの無造作ヘアでいいんですか?」
胸元まで届くルシフェルの長い髪を軽く指で撫でながらバアルが首を傾げた。それもそうだろう、彼のミディアムショートを手櫛で無造作にスタイリングしたヘアスタイルは女の子が真似るには少しばかりワイルド過ぎる。
「いやいやいやいや、あんな勇ましいのはちょっとアレだからもうちょっと女の子らしくしたいな」
ルシフェルは改めて自分の理想としている髪型を妄想した。
大丈夫、きっと似合う。
髪を切りたいと思うようになったのは、彼のように強くなりたくて貰ったお気に入りのピアスをもっとよく見えるようにしたくて、そして毎朝髪を結ってリボンを巻くと「可愛い」と言ってくれる両親がいなくなったことも少なからず関係している。
いや、やめよう。理由なんて全て後付けだ。とにかく自分を変えたいのだ。
「長さはあれくらいでもうちょっと女の子らしくか。分かりました。任せて任せて」
ルシフェルの首周りに優しくタオルを巻きながらバアルが微笑む。迷いの無い笑みは流石といったところだ。酷く抽象的な注文だったわけだがもうしっかりイメージが湧いたのだろう。
「はーい、任せまーす。よろしくね」
答えながらルシフェルはバアルから差し出されるがままに切った髪が服に掛からないようビニール製のクロスに袖を通した。こんな備品まで借りてきたあたり本当に本格的だ。
「はいな。では早速ジャキンといっちゃいますよ」
いよいよハサミが構えられた。美容に関することなら任せろと豪語しただけあってバアルはとても楽しそうだ。ルシフェルのイメージチェンジを手伝うことが出来て幸せで堪らないといった感じである。ルシフェルとしても彼に楽しんでもらえるのは嬉しい。
「うんっ。思い切りやっちゃって!」
もう迷いはない。ルシフェルは真っ直ぐ鏡の中の自分と見つめ合った。
「了解。動かないでね」
瞬間、頭の後ろで小気味よい音が響いて髪の束が床に落ちた。
嗚呼なんだろう、うまく言えないが清々しい気分だ。
これを皮切りとしてハサミがリズミカルに軽快な音を発し始めた。
(エヘヘ、とうとう髪を切っちゃった)
床にパラパラと髪の束が落ちるたびに自分が変わっていく紛うことなき充実感が胸に込み上げる。見る間に短くなっていく髪がとても気持ち良い。……それもこれもまず楽しげに作業している王様の手元に迷いがないおかげだ。
本当に彼の手には迷いがない。
どう目星をつけているやらヘアクリップでルシフェルの髪を大雑把にあちこち固定しつつ櫛でかき集めた髪を一束スルリと指で挟んでは軽快にハサミを動かしている。その流れるような手捌きたるやプロではないかと思うほどだ。と、いうか、これはもうプロだ。
「……バアル、プロ過ぎ!」
なんかもう黙っていられなくて率直に感想を述べた。すると彼はハサミを動かしながら「どう致しまして」と朗らかに微笑んだ後「なにせ私に出来ないのは恋人だけですので」と低い声で溢した。何気にレヴァイアの心無い言葉を引き摺っていたようだ……。
「だ、大丈夫だよそのうち良い人が現れるよ……!」
男からも女からも羨望の眼差しを向けられながら恋人と呼べる存在が出来ないとはこれいかにといった感じだがバアルは本当に隙の無い完璧な男でもって全身を覆っている威厳に満ちたオーラが尋常ではない。幼い頃より親しくしているルシフェルですらそのオーラを察するくらいだ。恐れ多くて誰も近寄らないのは仕方ないといえば仕方ない。そして稀に寄ってくるのはそんなオーラを物ともしない変わり者だけという……。
「ありがとうルシフェル。そのうちそのうちと思ってもう数千年待っているんですが諦めずにもうちょっと待ちます私」
とはいえ、語る彼の表情に悲壮感は殆ど見受けられない。むしろ余裕しゃくしゃくといった感じだ。察するに本気で恋人を欲してはいないのだろう。なにせ悠々自適な生き方が似合う男だ。本人も己には独り身が合っていると思っているに違いない。
「なんならほら、最終的にはミカちゃんがいるよミカちゃんが」
「え? ヤダ」
「ヤダって酷いっ!!」
本気で悩んでいないのだから冗談を言っても許されると判断して彼を慕い憧れているミカエルを推してみたわけだが、まさかあっさり「ヤダ」の一言で却下されるとは予想外だ。あんなに毎日尽くしているのに可哀想なミカエル……。
「だって彼は男の子じゃないですか。ヤダ」
「でもバアルって男もイケるでしょ?」
今の今まで彼からしっかりと詳細な恋愛履歴を聞き出したことは無いので真実は定かでないが、なんというかこのなんでも食べてしまいそうな雰囲気だけでおおよその察しはつく。
「オホホホッ! 貴女も凄いこと言う年頃になりましたね。ま、否定はしないでおきましょう」
「えええ!?」
今あっさりとさり気なく初めて具体的な返事を貰ってしまったことに驚いてルシフェルは髪を切ってもらっている最中にもかかわらず彼を振り返りかけた。
「ひ、否定しないの!? うわー、じゃあやっぱりそうだったんだー! って、そんじゃミカちゃんでもいいじゃん」
「えー? 彼はヤダ」
また1秒待たずに却下……。男もイケるというならミカエルの何がそこまで嫌なのか。
「なんでよ可哀想に」
「だってあの子、エロくない」
「エロくないって!?」
とどのつまりバアル的にはそそられない、ということだろうか。
「いやいやいやいや、でもバアルって絶対にドSだからああいう綺麗な人を汚すって堪らないんじゃないの?」
「ルシフェル、あんまりにも凄いこと言うと私の手元が狂って貴女の可愛い後頭部にハゲが出来るかも分かりませんよ。危ない危ない」
顔色を変えずにこういう冗談を言うのが彼の怖いところだ。……いや、顔色を変えないだけあってひょっとすると冗談ではないのかも分からない。
「ハゲは勘弁!! でもミカちゃん可愛いじゃん。あんな可愛いのにダメなの?」
再度確認。するとバアルは「ん〜〜〜〜……」と暫く眉間に皺を寄せ、しかしやはり何か違ったのか「可愛くてもアレには手が伸びないなあ」と首を傾げながら溢した。……絶対にドSだろというルシフェルの指摘を全く否定しないあたりは流石である。
「あ、ところでそのミカエルは?」
「彼なら裏庭で私のカラスたちと遊びながら花の手入れをしていますよ。最近ガーデニングにハマッているそうで」
「へえ〜。良いお嫁さんじゃん。やっぱどうしても相手がいなかったらミカちゃんに目を向けてあげたら?」
「ヤダ」
また却下……。これミカエル本人が聞いたら泣くんじゃなかろうか。「酷いわん酷いわん!」と派手に嘆く彼の顔が目に浮かぶ。もうこの話はやめようそうしよう。ルシフェルは次の話題を探した。
「えっと、そういえばレヴァ君とバアルって髪の長さもある程度は伸縮自在なんだっけ?」
「ええ、まあね。それがどうかした?」
爪も髪も姿形そのものもある程度は自由に変えられる――それは彼らが天地創造時に姿見が曖昧な状態で生まれたことの名残だとルシフェルは以前に聞いて知っていた。子供の頃にそれを便利だと言ったら「そうでもないよ」とバアルに返され、なんとも言えない気持ちになったことを覚えている。彼曰く「これは自分の姿が曖昧な証拠。気を抜いたら自分の顔が失くなってしまいそうな漠然とした恐怖が常に隣り合っている」のだそうだ。
ルシフェルもルシフェルでピアスの着脱だけで姿見が変わってしまう不思議な身体を得てしまった今では、バアルが自分の姿はあまり好きではないと語りつつ城内に沢山の鏡を置いている理由がなんとなく分かる。
っと、まあそんな重い話をしたかったわけではない。
「バアルは髪を短くしようと思ったことはないの? 一回くらいやってみればいいのに。髪の毛が伸縮自在なら失敗してもすぐ伸ばせるんだしさあ」
「とんでもない。すぐ伸ばせば済むってレベルでないくらい私は本当に短髪が似合わないんですよ」
「そお? 想像してみたらかなり可愛いのになあ〜」
「可愛いから嫌なのっ。……出来ましたよ。これくらいの長さでどうです?」
「え? ……わあ〜!! ありがとう!! 完璧!! これ完璧!!」
雑談をしている間にイメチェン完了していた自分を鏡に見てルシフェルは目を輝かせた。女の子らしく丸みを帯びたシルエットでもって少し長めに残した前髪を横に流したワイルド過ぎず可愛らし過ぎずの中性的なショートヘアスタイルだ。襟足が長めに残されているのも「カインぽくして!」という注文を生かしてくれたのだろう。
「気に入った?」
ルシフェルの喜びように髪の切り残しをチェックしながらバアルが愛おしげに目を細める。
「んっもう気に入ったなんてもんじゃないよー!! もう決めたアタシこれからの人生ずっとこの髪型で生きるわ!!」
大袈裟ではなく本当に思ったことだ。
「おお、そこまで言う! 気に入ってくれて良かった。嬉しいです。…………あ、そうだ。一つ気になることがあるんですけど」
何やら思い出してポンと手を叩くとバアルはさり気なくルシフェルの左耳の大きな目の形をしたピアスを外した。これを外すとルシフェルは頭に角が生え目つきの鋭さが増し背と髪が伸びる。と、いうことでバアルは髪を短くしたルシフェルが変身をしたらどうなるか確かめたかったらしい。結果、髪を切ったにもかかわらずピアスを外したルシフェルは以前の変身姿と変わらぬ長さまで髪が伸びてしまった。
「あーー!! せっかく切ったのにー!!」
何もかもが元の木阿弥になってしまった気持ちである。しかしバアルがピアスを付け直すとしっかりショートヘアのルシフェルに戻った。
「あっ、あわわわ戻った! 良かった戻ったああああ〜!」
せっかくのイメチェンが元の木阿弥とならず一安心である。
「ふ〜む。やっぱり変身前と変身後では身体がまるで違うのかなあ」
ルシフェルの不思議な身体を前にしてあの博学なバアルが首を傾げた。彼にもこの身体の仕組みは分からないのか……と思うとやはり不安になる。やれやれ、両親を喰ってしまった代償はどうにも重いなあとルシフェルは鏡から目を逸らして鼻息を漏らした。
「不思議だよねえ、変幻自在なバアルたちと違ってアタシのこの姿は逆に形状記憶って感じなの、なんでだろ」
「ねー。また試してみようか?」
「え?」
ちょっと待て、と言うよりも早くバアルは自身の爪を鋭く伸ばしてルシフェルの長い髪をバッサリと実に適当な感じで切り落としてしまった。重い音を立てて床に落ちる髪の束。ルシフェルの頬を冷たい汗が伝った。が、切られた髪は見る間に元の長さまで再生し、切られて床に落ちた髪の束は塵よりも小さな粒子となって煙のように消えた。まるで何事もなかったかのように跡形もなく、である。
「おーっ。いつ見ても見事な再生力だ」
突然のことに青褪めたルシフェルの様子などお構いなしにバアルはなにやら納得の表情で頷いた。
「おバカ!! そういうことは心臓に悪いから一応アタシの合意を得てからやってみてくれないかな!?」
王に向かっておバカと言っても笑って許されるのはルシフェルくらいなものだろう。これがレヴァイアだったら今頃きっと流血沙汰だ。
「はーい、ごめんなさーい」
全く反省の色が窺えない謝罪を口にしながらバアルはルシフェルの左耳に目のピアスを付け直し――何故かすぐに外してしまった。一瞬引っ込んだ髪と角がまたも伸びる。するとバアルは真顔でまたピアスを付け直し、何故かまた外して……これを三回ほど繰り返した後に「おもしれぇ〜」と呟いた。とどのつまりルシフェルの見た目の変化を見て遊んでいたわけである。
「ちょっとおおおおお!! アタシで遊ばないでよおおおおお!! アタシの変身は骨が伸びたり縮んだりして一応少し痛いんだからね!!」
「アハハハッ! はいはい失礼しました」
笑いつつ今度こそバアルはちゃんとピアスを付け、不機嫌に膨らんだままのルシフェルの頬を指でポニュポニュと突いた。
「さて、せっかく強奪してきたシャンプー台を使いましょうか。私はシャンプーも上手いんですよ」
瞬間、バアルは手の指を怪しく順に折り曲げてみせた。
「な、なんだか少し怖いけどお願いしまっす……!」
恐る恐る席を立つ。……そして改めてルシフェルは鏡越しに自分を見た。このサッパリとした頭に黒のミニスカート・ワンピースが少し似合わなくなった気がするのは気のせいだろうか。お気に入りの一枚であり父親の加護を得ていることもあって戦場へも着て行ったものなのだが……。なにせ3年前に買った服だ。肩紐を調整したりサイズを直しながら今まで着続けてきたが……そろそろ限界だろう。身体が成長すれば子供服は当然似合わなくなる。仕方がないことだ。
「どうかしました?」
立ち上がるなり自分と睨めっこを始めたルシフェルにバアルが目を向ける。
「ん? んー、せっかくのイメチェンついでにそろそろ服も新調しようかなあって思って」
「へえ〜。いいじゃないですか、そういうの大事ですよ」
このワンピースがサタンに加護されているものだと知っているバアルだ、ルシフェルが軽い気持ちで服を新調しようなどと発言しないことは分かっている。全て分かっていて一皮剥けようとしている少女の背中を笑顔で推してくれたのだ。
「そう思う? じゃあ髪が終わったらそのまま街へ買い物に行こうかな」
「了解。お供しまーす」
間髪入れずに挙手するバアル。本当に彼はノリの良い王様だ。
「あら嬉しい! でも今日はお仕事とか無いの? 大丈夫?」
「ええ、大丈夫。仕事なんか後回し後回し。国政はいつでも出来ますが今日の貴女と遊べる機会は今日しかありません。ってことで一緒に行きましょう」
「やった! ありがとう!」
知識豊富な彼が隣にいれば買い物もまず失敗はしない。正直、助かる……が。
(バアルそんなんだからいつも机の上に書類が山のように溜まっちゃうんだよお〜)
今みたいなノリでいつも仕事を後回しにしてしまう彼が少し心配なルシフェルであった。しかしまあ本人が大丈夫と言うからには大丈夫だろう。彼が本気を出せばあんな書類の山程度一日で片付くはず、多分。
決して特別に着飾っているわけでもなんでもないが魔王と女帝の側近が二人並んで歩いている姿はどうしても目立ってしまう。二人揃って背が高く目つきも鋭いわけであるからして、滲み出るオーラはどうにも隠せないようだ。
しかしこうして目立ったことが幸いしたのか夕刻を迎えた街の中央通りにて今日は完全に別行動をとっていた小悪魔バズー、デイズと偶然にも合流。更にはみんなでお茶しようとカフェを探していた最中、新しい花の種を買いに街へ来ていたというミカエルとも鉢合わせた。親しい間柄の面子というのは自然と集まってしまうものなのだろう。
赤い月の下、丸テーブルを囲んでの茶会。魔王に女帝の側近に瓜二つな双子に水色の髪に白い服という見た目が突飛なミカエルも加わって目立つどころの騒ぎではない。が、当の本人たちはそんなもの慣れっこなので特に気にせず普通に会話を弾ませた。
「ってコトでルーシーのイメチェンが終わるまで二人でひたすら時間潰してたわけさ」
街を闊歩していた事情を説明し、レヴァイアはフーッと煙草の煙を吐いた。本当に今日はひたすら時間を潰していた気がする。今日こうしてオープンカフェでコーヒーを飲むのは何度目か……。本当なら酒場に行きたいところだったが酒の匂いを漂わせてルシフェルと再会したら何を言われるやら分からないので我慢した。女の子に頭が上がらないというのは本当に辛い。
「それにしても誕生日を機に髪を切りたがるなんてルーシーも乙女ねえ」
憧れの彼レヴァイアの隣に陣取って意気揚々とドーナッツを頬張りながらデイズが目を細める。その隣では姉の浮かれっぷりを早々に察したバズーが心なしか冷めた目でコーヒーに舌鼓を打ってみせた。まあ、普段あれだけ口うるさい姉が憧れの男の前ともなると借りてきた猫のように異様なほど大人しくなるわけであるからして、そんな目になるのも無理はない。
「なんつーかさぁ、俺が煙草を吸うと臭い臭いって怒るクセにレヴァさんの煙草はカッコイイからオッケーって絶対おかしいよなぁ……。んで俺が食べ物を溢すとこれまた汚いだのだらしないだのガキ臭いだの怒るクセにレヴァさんが何か溢すと男の子っぽくて可愛いとか言いやがる。どーなってんだよ畜生……」
ブツブツブツブツ、不満が口から漏れて止まらない様子だ。
「デイズちゃん、デイズちゃん。最近は落ち着いたけどレヴァさんっていわゆる女遊びが凄〜く激しかったんだよ、そんな男の人でもいいのん?」
口を挟まずにいられなかったのか大人しく紅茶を飲んでいたミカエルがレヴァイア本人に丸聞こえな声でデイズに耳打ちをした。それでも当のレヴァイア本人は「昔の話だよ、昔の話ぃ」と呑気に笑っただけで何も言い返さない。ミカエルの言葉が事実だからだ。
「うう〜ん、自分でも不思議なのよね。経験豊富な男は危険だって分かっててもでも凄く魅力的に見えちゃうっていうか〜、つまり超素敵っていうか〜……」
遊び人、と聞いてもデイズの気持ちは全く揺るがないどころかますます燃える様子。弟はこれにも納得いかない顔をした。
「出たよ、これもだよ……。今の今まではナンパな男なんて論外とか言ってたクセにレヴァさんに限ってはコレだよ。どーなってんだよマジでマジで……!」
「女なんてそんなもんだバズー。気にすんな」
いたたまれなくなってカインはバズーをそっとフォローした。が、これが運悪くデイズ本人の耳に届いてしまった。
「なにさカインさん、そんなん言うほど女性遍歴を持ってないでしょ!!」
この口撃は呑気に煙草を吸っていたカインを一瞬硬直させるに十分な威力を持っていた。
「お……おいおいおい、ちょっと待て胸にグサッときたぞ!! ナメんなよ、こう見えて牢獄にいた時は天使のお姉ちゃんたちから引っ張りだこだったんだぜ俺!!」
「んん!? なにその話!! 初耳なんだけど!!」
カインとデイズの間に挟まれて話を聞いていたレヴァイアが食いついた。
「あれ、言ってなかったか? 俺モテたんだぜ牢獄にいた時。なんか寂しいのーとかなんとか適当な理由つけて頻繁にお姉ちゃんたちが訪ねてきたっけな」
懐かしいなあ、と遠くを見やるカイン。するとバズーが疑いの目でもって「そ、それってただ慰み物にされてただけじゃ……」と小声で呟いた。他のメンバーも同感と頷く。そして「昔から女の子に都合よく使われてたカインさん可哀想……」と涙声でデイズが溢す。が、本人の受け止め方は違った。
「馬鹿野郎バズー!! デイズも俺を可哀想とか言わない!! なんだよ可哀想ってふざけんなよ!! 俺は基本ネガティブだけど根っこは超ポジティブなんだよ!! ありゃ単純に俺がモテたんだ馬鹿ッ!!」
強がりなのかなんなのか……。しかし本人がこう言うのだ、これ以上の否定はしないでおこうとその場にいた全員が無言で通じ合った。
「えっと、ちなみにその話はルーシー知ってるの?」
デイズが聞くとカインは「勿論だ」と頷いた。
「万が一に童貞疑惑抱かれたから堪ったもんじゃねーから先手打って正直に話したさ。そしたら『童貞は童貞で萎えるけど女との経験が豊富ってのも超複雑っつーかムカつくし超ショック』ってスゲェ難しいこと言われたぜ。どうしろってんだ」
ご尤もな訴えである。
「まあ、なんだかんだ牢獄生活を楽しんでいたようで何よりだよカイン」
なにやら気まずい空気になったのでレヴァイアが真っ先にそれとなく話を逸しにかかってくれた。
「おう、案外楽しかったぜ。お前も一回入ってみるといいぞ」
「それは遠慮しとく! それにしても意外だなあ。やっべぇ俺てっきりお前は童貞だと思ってたわ」
「へえ、童貞…………っんだとゴルァ!!」
「レヴァさん……」
双子とミカエルが同時に溜め息した。話を逸らしてくれたのはいいが残念ながら逸らす方向が大いに間違っている……。レヴァイアはほんの冗談のつもりだったのかもしれないがカインはどう受け止めたやら火をつけたように激高してしまった。
「テメェ俺の話を聞き流しすぎだろ!! もう何回も何回もハッキリ言ってるだろうが俺は童貞じゃないって!!」
「そうだっけ? ゴメ〜ン、忘れてたっ」
全く悪びれない笑顔である。
「この野郎……! あのなあ、この中で童貞っつたらバズーくらいなもんだよ!! あ、ミカエルも怪しいか」
「カインさん酷いッ!!」
いきなり矛先を向けられて叫ぶバズー。
「うあああああ、なんてこと言うんですかあああああん!!」
ミカエルも続いて嘆いた。
「あー、バズーもミカエルも色気が無いからなあ」
ニヤニヤと笑うレヴァイア。隣でデイズは「アタシその手の話にはノーコメント!」と声を上げてコーヒーを口にした。
「色気が無いってなんですかん失礼な!! 僕これでも天界では中性的で清楚で可愛いのにカッコイイってそこそこモテたんですよん!! ただこういう話はニガテなので童貞かどうかの詳細は言わないでおきますん!! んっもうヤダ魔界に来てからずっと思ってることだけどみんな主な会話内容がエグいエグいぃぃぃぃ〜ん!!」
顔を両手で覆ってメソメソと嘆くミカエル。しかし自由な思想が売りの周囲が彼の訴えを聞き入れるわけなどなかった。
「あーあ、分かってねぇなミカエル。下ネタで盛り上がれるってぇのは気持ちが若い証拠なんだぜ」
天地創造をその目に見たレヴァイアによる妙な説得力を有した言葉である。人間界の創造をその目に見たカインもウンウンと頷く。
「そうそう。気持ちが若い証だ。つーかミカエルが実はオッサンのクセしてウブ過ぎんだよ。お前もルーシーと一緒にその鬱陶しい髪をバアルに切ってもらったらどうだ、もう少しは気持ちが男らしくなるかもしんねーぜ」
「アンタめちゃ失礼だなオイッ!!」
実はオッサン、ウブ過ぎ、鬱陶しい髪……。カインの無神経な言葉にミカエルは鼻筋を立てて怒鳴りあげた。普段はフニャフニャな声で喋る彼だが怒るとしっかり低い声を出す。そういうところは男らしい。
「僕の髪型はコレでいいのんっ!! これバアル様リスペクトでやってるんだから絶対に切らないもんねーだ!!」
怒鳴りながらミカエルは自身の腰より長い髪を手で摘んだ。
「ああ、やっぱそれそうなの?」
言いながらカインは何故みんな憧れの人を真似したがるのか考えた。
此処、魔界には自分たちで築いた文化の他、人間界で繁栄した古今東西のあらゆる知識も取り入れられている。ゆえにファッションの幅も無限大。時代関係なく自分が刺激を受けた文化に身を染める者、何者にも影響されず我が道に走る者、ファッションリーダー的な存在を追う者と楽しみ方はそれぞれだ。
そんなわけで街にはみんなの王様に憧れて髪を長く伸ばしエレガントな服を好んで着ている女やら本人の意図したことではないが大昔から魔界のファッションリーダーとして君臨しているレヴァイアの真似をした男が多々見受けられる。実際このカフェにおいても向こうの端に座っている女は鬱陶しいどころではない長さの髪を有し、妙にヒラヒラの付いた服を着ている。誰の真似をしているかは一目瞭然だ。
(これは、自分もあんな風に強くありたいっていう願いみたいなもんなのかな)
そういえば自分が今の髪型に落ち着いたのは何故だったろうか。心当たりはなくもないが個人的にはそうと思いたくない……と、ゴチャゴチャしてきた頭をタイミング良くミカエルの「あと、自分で言うのも悲しいけどバアル様が快く僕の髪を切ってくれるとはとても思えましぇんですし……」というどうでもいい小声のボヤキが冷ましてくれた。我が道を行く呑気な奴が近くにいると変なところで助かるものだ。
「お前、バアルからなんかスゲェ邪険に扱われてるもんな……」
カインが言うとミカエルは「はい」と力なく頷いた。
「うう、悲しい……。でも大丈夫ですん! イジワルは好きの裏返しとも言いますからねん! 何事もポジティブにん!」
まるで自分に言い聞かせるような口振り。あまりの健気さに他のメンバー全員が一斉に溜め息をした。
「あのさ。こう言っちゃなんだけど……、ミカリンはアレのどこがいいんだ?」
なんとも言えない表情で尋ねるレヴァイア。本当に不思議でならないといった感じだ。そしてこの言葉には少しばかり心配の気持ちも含まれている。だがミカエル本人には通じなかった。
「ちょっと!! バアル様をアレとか言わないでくださいよん!! どこがいいって全部に決まってるじゃないですかん!! だってなんかもう存在そのものがカッコイイ〜ん!!」
恋は盲目。憧れもまた然りということだろう……。
「えー? 納得いかねーなぁ。だってアイツ裏表激しいし怖いしワガママだし怖いし怖いし怖いし怖いし超怖いじゃん。ドコがいいんだよ」
と、その時、不意に周囲の空気が凍てついた。それを一番に察したのはレヴァイア本人であろう。
「随分な言い草ですね」
聞き慣れた冷徹な声……。嗅ぎ慣れた香水の匂い……。頬に押し当てられた冷たい肌の感触……。痛いほどに握られた肩……。ガタガタと身体を震わせながら恐る恐るレヴァイアが視線を向けると冷たい殺気を纏ったバアルその人と至近距離で目が合ってしまった。
「いやああああああああああああああああっ!! 出たああああああああ!!」
話の中心人物が音もなくやってきて頬に頬を当てて超至近距離で睨みを利かせてきたのだ、そりゃあもう魔王レヴァイアといえど悲鳴の一つも上がるというものである。
「騒ぐなクソガキ!! 周りの皆さんがビックリするだろうが!! ……失礼、なんでもありませんよ」
バアルに笑顔でこう言われたら周囲の悪魔たちは「そ、そうですね、なんでもなさそうですねっ」と顔を逸らして元通りの雑談に興じる他ない。それほどに迫力があるのだ。
「バ、バアルさんこんにちは……!」
怯えながら挨拶する双子、その横ではミカエルが「迫力満点の登場の仕方からして本当に素敵ですん!!」と一人で身悶えている。一体、何が彼をそこまで興奮させるのか……。
「こんにちは」
怯えるレヴァイアや身悶えてるミカエルを一切無視して双子に温和な笑みを投げかける姿がまたこの王様の怖いところだ。
「ってゆーか、お前さんが此処へ来たってことは……」
「そうとも、イメチェン大成功ー!!」
カインが察すると同時にルシフェルが満面の笑みでもって両手を上げながらみんなの前に姿を現した。
長かった髪は両耳の大きなピアスが映えるサッパリとしたミディアムショートヘアに。服は黒い毛皮のロングコートに胸元を強調するような真紅のコルセット、下は星形の大きなバックルと小さなスタッズをちりばめた同じく真紅のベルトを巻いた黒皮のホットパンツ。足元は20センチ近い黒のハイヒールロングブーツだ。その左ブーツには先日双子からプレゼントされた星型チャームが付いた金のブーツアンクレットが光っている。
「おおー!!」
あのリボンを巻いたポニーテールにミニスカート・ワンピース姿のお嬢様から見事なほど一気に大人びたルシフェルの姿に一同大歓声。周囲の悪魔たちもこれには黙っていられず「ルシフェル様が見違えた!!」と目を輝かせた。
「いいじゃんルーシー!! 凄い似合うよー!!」
真っ先にデイズが席を立ってルシフェルに駆け寄り全身をくまなく観察しだした。バズーも姉を真似て歩み寄るなり「マジ似合う!!」と褒め称え、新しいもの好きの性だろうか真新しいルシフェルのコートを指で摘んで興味津々に凝視。
「女の子って本当に化けますねん! ルーちゃんますます可愛くなったよ〜ん」
ミカエルも笑顔。「大人っぽくなっちゃってまあ」と茶化すように笑うレヴァイアの視線も穏やかだ。っと、そんな中カインだけは「ほお〜」と感心はするものの大したリアクションをしなかった。
「馬子にも衣装って言葉があったよな確か」
リアクションをしないどころか冷めた態度でもってこの言葉である。
「アンタ本を読めないくせになんでそんな言葉知ってんだよッ!!」
ルシフェルの怒りメーター急上昇。体温も急上昇である。
「んな怒るなよ、俺なりの褒め言葉だ。サマになってるじゃんってね」
「そ? ありがと!」
しかし全く褒められた気がしないのは気のせいだろうか……。側で双子とミカエルも首を傾げている。そりゃそうだ、馬子にも衣装とは大した者でなくても着飾れば立派に見えるという意味の言葉である。
「それにしても」
話の流れを切ってレヴァイアがルシフェルの格好を頭のてっぺんから足の先まで見渡して顔を綻ばせた。
「そんな格好をされちゃ敵わないな」
「ですよね」
レヴァイアの言葉に頷くバアル。勘の良い二人はすぐに察したのだ。ルシフェルが何故このファッションを選んだのかを。
「ルーシー、それ戦場にも着て行く予定の服なんだろ」
「うん、勿論!」
迷わず頷いたルシフェルにますますレヴァイアは目を細めた。
「オッケー。じゃあ加護してやらなきゃな」
他の誰にも見られぬようこっそりとレヴァイアは長い爪で自身の親指を軽く切って僅かに滲んだ血をルシフェルのコートに塗りつけた。血は魂を運ぶもの、つまりこれは彼の『ルシフェルを守りたい』という想いを塗りつけたことになる。よって破壊神の加護を得たこの毛皮のコートは刃を弾き、燃え盛る炎や鋭利な風や焼けつくような光にすら容易く屈することはなくなった。戦場へ着て行くに値する特別な一張羅になったということだ。
加護の儀式をこっそり行ったのは「俺にもやって!」と周りの人々に強請られないように、である。加護はいわば強い祈りだ。誰も彼もに振り撒いてしまってはその効力は期待出来なくなる。
「ありがとう、レヴァ君! 凄く心強いよ!」
彼の行動の意味を理解したルシフェルは満面の笑みで礼を述べた。
「どう致しまして。……ブーツには既に誰かさんの加護が宿ってるみたいだな」
「はいな、お先に失礼」
すんなり加護主を見破ったレヴァイアにバアルが微笑む。それはさて置き、先程から双子とミカエルとカインがやけに大人しいと思ったら何やら集まってヒソヒソと話していてカイン一人だけが眉間に皺を寄せている。何事だろうか。
「何を話しているのやらやら〜?」
ルシフェルが目を向けると双子とミカエルが揃って悪戯っぽい笑みでこちらを向き、カインだけが視線を落としたまま大きな舌打ちをしてみせた。かなり不機嫌な様子だ。
「コイツらがせっかくだからイメチェンしたルーシーと二人でデートして来いデートして来いってうるっせぇんだよ。俺ルーシーと二人で出掛けても別に楽しくねんだけど」
言ってカインが眉間の皺を更に深くした。成る程、茶化されていたからそんな怖い顔になっていたわけだ。いやしかしそれにしても酷い。最後の一言がとても酷い。
「うわん、ちょっと待ちなさいよ!! アタシと出掛けても楽しくないって凄く酷いんですけどっ!!」
「だ〜って楽しくねんだもん!!」
どれだけふて腐れてしまったやら女帝に喚かれてもこの態度。しかし双子もミカエルもニヤニヤと笑うばかりで提案を撤回しようとはしない。
「まあまあまあ。いい提案じゃないですか。デートしておいでよ二人で仲良く」
「だな。ルーシーの良い思い出になるだろうし今日は二人きりで過ごしてみろよ」
バアルとレヴァイアも賛成の意を表明した。
「ありがとう二人とも!」
喜ぶルシフェル。だがカインは納得しない。
「またすぐお前らはそんなことを言う!! 嫌だっつーの!!」
「そんなに拒否られると流石のアタシも傷つくんですけどっ!!」
「ぁあ!? 勝手に傷つけブス!!」
「なんだとこの白髪頭ぁあああああああああああ!!」
ああ、怒鳴り合いが始まってしまった。こうなると話し合いでの解決は難しい。仕方がないから強行手段に出よう――バアルとレヴァイアはニヤリと笑って互いに目配せをすると双子とミカエルの元へ駆け寄ってその手を捕まえた。
「はいはーい照れない照れない! 私たちは消えますので二人でごゆっくりどうぞ」
「デートを楽しんでくれ、わははは!!」
「なっ!? お前ら……!!」
カインが二人の意図を察した時には既に遅し。双子とミカエルの茶目っ気が溢れた「じゃあねー」の声だけを残し彼らは揃ってその場から音も無く姿を消してしまった。ちょっと待て、と言う間もない一瞬の出来事であった。
ポツンとオープンカフェに残されてしまったルシフェルとカイン。ルシフェルは「流石はバアルとレヴァ君! 気が利くぅ!」とはしゃいでみせたが、カインの反応は違った。
「あ、アイツらああああああああ!! んっもう、どうしてこうなるんだ!! なんでいつも俺の味方は一人もいないんだー!!」
悔しいったらありゃしない。そんなカインを周りの悪魔たちがニヤニヤと笑う。が、そのおちょくるような視線に気付かぬカインではない。
「なんだ畜生!! ジロジロ見てんじゃねーぞゴルァ!!」
「ひいいいいい!!」
カインの恫喝に悪魔たちは一斉に震え上がって「何も見てません!」と目を逸らした。
「こらこら、アンタの怒鳴り声は迫力が有り過ぎるんだからやめなさいよ」
「うるせぇ畜生!! ああもう、店を変えるぞブス!! ついて来い!!」
この空気の中にはいたくない。だってなんか超恥ずかしい……。そんなわけで言うが早いかカインは「誰がブスだ畜生!! お小遣い下げるぞ畜生!!」と喚くルシフェルの右手を引いて逃げるようにカフェを後にした。
そうしてルシフェルが追いつくのにやっとな速度の早足でどれくらい通りを真っ直ぐに歩いただろうか。先程のカフェが見えなくなったあたりでカインはやっと歩みの速度を緩めた。
「ったくもうどいつもこいつも……! おいルーシー、アイツらドコに行ったか分かんねーか? 追いかけて一発ぶん殴ってやる畜生いつもいつも俺をおちょくりやがって……!」
も、物凄い怒りの表情だ……。繋いでいる手をいつ握り潰されても不思議ではない勢いである。
「い、いや、その、えっと、申し訳ないけどバアルみたいにそんな器用なことが出来たらアタシ苦労してないよお〜」
「そうか、残念だ……!」
カインの口から深い溜め息が漏れた。そして気を取り直す為か片手で慣れた風にコートのポケットから煙草を取り出して咥えジッポで火をつけた。……特に意味は無いがルシフェルは何故か彼のこういう何気ない行動をついジッと見てしまう。しかしあんまり見つめるとまた「ジロジロ見んじゃねぇ」と怒られそうだ。仕方なしに目を逸らす。
夜を迎えた街の通りはいつもながらの賑わいだ。みな歩きながらどの店で食事をしようかと軒を連ねたレストランを順に眺めつつ、バッサリと髪を切ったルシフェルに気付くなり「可愛い」「似合う」「大人っぽくなったなあ」などと褒め言葉を口にしてくれる。当然、悪い気はしない。むしろもっと見てくれ、という感じなのだが隣の男が抱く思いは違うようだ。視線を受けてますます不機嫌そう……。やれやれ。
「んっもうプリプリプリプリしてばっかりぃ! そんなにアタシといるのイヤ!?」
「うるせぇな、俺は元々こういう顔なんだよ。……で、どうする? どこ行く?」
これは、もう仕方ないからルシフェルに付き合おうという彼の諦めであった。
「あ、ちゃんとデートしてくれる気になったんだ? 嬉しいっ!」
「うるせぇブス。で、どこ行くよ」
「ブスって言うな!! んーと……。あっ、向こうの中央公園で昨日から薔薇園のライトアップイベントやってるみたいなんだよ! それ見に行こ!」
「薔薇のライトアップ? なにそれ」
「あの公園の一角に広〜い薔薇園があるでしょ、そこの薔薇を夜になるとライト当てて照らすの。闇夜に花が映えて凄く綺麗なんだって!」
「へぇ〜。ま、お前が見たいっつーなら行くか」
熱の入ったルシフェルの説明に全く同調せず関心無さそうな表情でもってカインは吸い終わった煙草を道端に置かれた灰皿に捨て、そのままルシフェルの手を引いて中央公園に向かって歩き始めた。
「興味なさそーだねぇ。……ところでカイン、ネイル綺麗なままだね。一日経たずボロボロにしちゃうと思ってたから超意外!」
繋いでいる手をまじまじと見つめてルシフェルは微笑んだ。
「気ぃ遣ったんだよ、ボロボロにしたらテメェがうるせぇと思ったから。案の定、目敏く爪を見てきやがった。危ねぇ危ねぇ」
「なにそれ〜」
なんとも可愛くない言い方だ。だが実際こうして気を遣ってくれたあたり彼はちゃんと優しい。
(素直じゃないんだから全くもう)
彼のそんなところも、わりと好きだ。
此処から中央公園まではそこそこに距離があった。擦れ違う悪魔たちが皆ルシフェルに視線を注いでくる。そしてすっかり上機嫌なルシフェルはすれ違いざま「似合いますね!」「可愛い!」と声を掛けられるたびに「ありがとう」と笑顔を返した。そんな短いやり取りを何度も繰り返しているうちにカインが「本当にお前は愛されてやがるな」と笑ってくれた。デート始まって以来、彼が初めて見せた笑顔である。
「自分でもそう思う。ありがたいことですだ。あとは貴方からも愛を頂ければ申し分ないのですけれど」
「はいはい、寝言は寝て言え。ところで気になってたんだけど、随分と派手になったそのファッションはバアルの見立てか?」
「本心からの言葉だったのにちゃっちゃと話を逸らして酷い……。あ、ううん。これは自分でちゃんと全部選んだんだよ。でもバアルが見立てたように見えても仕方ないかな」
「どういうこと?」
「エヘヘ〜、ここだけの話だよカイン」
首を傾げるカインを見上げてルシフェルはニッコリと白い歯を見せた。彼の興味をそそることが出来た喜びに堪らず破顔してしまったのだ。
「これね、アタシなりにみんなへの敬意を込めて選んだ格好なの。毛皮のコートはいつもワイルドで格好良いレヴァ君、コルセットはいつもセクシーで綺麗だったママ、ハイヒールはいつもブレずに真っ直ぐ歩くバアル、当然アタシなんてみんなには全く及ばないわけだけど格好だけでも真似てみたかったんだ。あっ、ベルトは前からパパとお揃いで付けてたのそのまんまでホットパンツは個人的な趣味ね」
彼らのように強くありたい、ルシフェルの選んだ服にはそんな想いが込められていたのである。これをレヴァイアとバアルはすぐに察し、喜んで加護を施したのだった。
「ふーん。お前って無自覚にそういうことやっちまうのがスゲェよな……。つーか俺の要素がねぇな。どういうこった」
「なーに言ってるの。アタシ一生このピアスつけ続ける気でいるのに」
これ、とルシフェルはホワイトデー兼バースデープレゼントとしてカインに貰った右耳の星の連なったピアスを指差した。
「……そっか!」
納得いったのか珍しくカインが素直な笑顔を向けてくれた。彼のたまにこうして素直に喜んでくれたりするところも好きだ。
「そーだよん! あ、あとヒールの高さについても言及してよ。本当はバアルと一緒の20センチヒールにしようと思ったんだけどあえて18センチヒールにしたんだよ、なんででしょう!」
「ん? どーでもいい!!」
それは真っ直ぐで無駄に力強い返事であった。
「なにそれ酷い!! 聞いてよ!! 興味持てよ!!」
「だってどうでもいいし公園に着いたしぃ〜。おお、賑わってるな薔薇園の方」
「……ぶぅ」
タイミングの悪さにルシフェルは頬を膨らませた。そんなこんなで相手にしてもらえず説明出来なかったが、ルシフェルの身長は167センチ、カインの身長は187センチ。単純に20センチヒールを履いてしまうと素の彼の身長丁度になってしまう、それを避けたのである。長身の彼より常に目線は低くありたい乙女心からだった。是非とも彼に聞いてもらいたかった話だ。
それはさておき、広大な敷地を誇り妙にねじ曲がった奇っ怪な木々に彩られた中央公園はライトアップイベントをやっている影響からかいつも以上に賑わっていた。美味しそうな匂いを漂わす様々な出店も立ち並んでいる。そしてルシフェルの姿は此処でも注目の的となった。皆、闇夜に浮かぶ薔薇に注いでいた視線を一斉にこちらへと向ける。真横にいるただ一人の男を除いて……。
「うわー!! なんだこれスゲェ綺麗なんだけどー!! ルーシー見てみろオイッ!! スゲェな花っつーよりガラス細工みたいだ!! 光を当てるだけでこんな綺麗に見えるのか!!」
周りの視線もなんのその。あの興味無さそうな態度はなんだったのかというくらいライトアップされた薔薇の海を見渡してカインは目を輝かせた。
「うふふ、そんな薔薇を見て興味津々に輝く貴方の赤い瞳も綺麗よ」
「おう、さっきも言ったけど寝言は寝てから言えブス!! うわ、すっげぇ〜!!」
「だからブスってゆーな!!」
やれやれ。軽く溜め息してからルシフェルはこっちの話を軽く流し薔薇を夢中で眺めるカインを見上げて微笑んだ。
(お世辞じゃなしに本気で言ったんだよ、薔薇よりもアンタの赤い目のが綺麗だって)
彼のこんな表情を見ることが出来ただけでもこのデートは大成功といえる。ルシフェルはなんの記念日でもなかった今日という日を生涯忘れない気がした。
ちなみに、この日より一週間ほど魔界の街はルシフェルが髪を切ったという話で持ち切りとなった。注目度の高さは勿論のこと他に大した話題が無かったのだ。街がとても平和だった証である。
END
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