【XX:お兄ちゃん家に泊まろう】


 これはサタンとリリスが健在でルシフェルがまだリリンと呼ばれておりボンボンゴムでの二つ結び頭がよく似合っていた3歳の頃の話である。
 父サタンは当時この小さなリリンを連れてほぼ毎日のようにバアルの城を訪れていた。リリンと出掛ければ産後の肥立ちが悪く寝たきり生活を強いられている妻リリスを静かに休ませることが出来るし可愛いリリンを見るとバアルとレヴァイアが喜ぶからだ。彼らは自分たちに子供がいないこともあってリリンを生まれた当初から我が子同然に可愛がってくれる。今や一日一回リリンの顔を見なければ気が済まないと断言するくらいだ。
 そんなわけで今日もサタンは午後にリリンを連れてバアルの城を訪れた。そしていつも通り謁見の間にてバアルと今後の方針などを真面目に相談しつつ、傍らでレヴァイアと遊ぶリリンを微笑ましく見守った。何もかもいつも通り。平和そのものの一日である。
 やがて月は陰り時刻は夕食時を迎えた。家へ帰る時間だ。だが今日はどれだけレヴァイアとの積み木遊びが楽しかったやらリリンが珍しく「帰りたくない」と駄々を捏ねた。サタンが「もう飯の時間だぜ、ママ待ってるよ」と言い聞かせても「ヤダ、まだ遊ぶ」の一点張り。リリンがこんなワガママを言うのは本当に珍しい。さてどうしたものかと頭を掻くサタン。そこへレヴァイアが「そうだ! リリン今日はウチへ泊まったらどう?」と提案。すかさずリリンが「大賛成!」と挙手し、城の主であるバアルも「いいね私も賛成」と頷いたことから騒動は始まった。
「え〜? 本当に一晩バアルんトコ泊まるのかリリン。パパ帰っちゃうぞ〜? 大丈夫か〜? 本当に大丈夫か〜?」
 しゃがみ込み、リリンと目線の高さを合わせてサタンは念を押した。パパっ子で甘えん坊なリリンがパパから離れてちゃんとお泊り出来るのかどうか、どうにも怪しい。だが娘は親の心配をよそに「大丈夫!」と言って聞かない。やれやれ、妙に強情な性格は母親譲りだろうか。
「ん〜、じゃあバアル、レヴァイア、このコを一晩頼んでいいか?」
 本人はこんな具合だしバアルとレヴァイアはリリンのお泊りを迷惑どころか大歓迎してくれている。現に「頼んでいいか」の問いに彼らは迷わず「もちろん!」と頷いてくれた。こうなれば反対する理由は何も無い。リリンももう3歳だ、一晩くらい他所のお家にお泊りしてもバチは当たらないだろう。
「よーし、分かった! いいよリリン、今日は特別にお泊りを許してやる。その代わりバアルとレヴァイアに迷惑かけんなよ、ちゃんといい子にするんだぞっ。パパと約束な」
 父親の答えを不安げに待っていたリリンの頭を優しく撫でてサタンは腰を上げた。
「やったあ! ありがとパパ! リリ、ちゃんと良い子にするよ! 大丈夫!」
 こう可愛い姪っ子に喜ばれてはバアルとレヴァイアも嬉しい限りである。
「良かったなあリリィ! 今日はまだまだいっぱい遊べるね! 夕飯もすっげぇ御馳走作ってやるからな!」
 レヴァイアが言うとリリンは目一杯に彼を見上げてニッと白い歯を見せた。
「にひひ〜! やったあ! 楽しみ! あ、あとお風呂も一緒に入ろうねレヴァ君! お背中流しますう〜っ!」
「おお、いいね! 背中洗いっこしよーぜい!」
 仲睦まじい二人である。彼らを見つめるバアルの眼差しも優しい。が、何か引っ掛かる。なんだろう。
「わははは……って、ちょっと待てぐるぁああああああああ!!」
 サタンは忘れてはならない重大な重大なことに気付いて頭にツノを生やしながら絶叫した。
「お風呂ってお前お風呂ってお前お風呂ってお前ぇええええ!! ダメ絶対ダメダメダメダメ絶対にダメーッ!! 嫁入り前の娘に何を晒す気だレヴァイアぁあああ!!」
「えー? 何を晒すって………………チンチンかな」
 何を晒すと言われて真っ先に浮かんだ部位がそこだった。隣でバアルが「チンチン言うな……」と肩を落として深く溜め息。一方リリンは父親が大声張り上げた意味が分からずポカンと口を開けていた。
「チンチンかなーじゃねぇよトボけた顔して何言ってんだよフザッけんなよテメェ!! ダメダメダメ絶対ダメ!! お前とリリンが裸の付き合いなんて嫌だ俺絶対に嫌だあああああああッ!!」
「別に平気だろ、まだ一度も男の身体見たこと無いってんなら分かるけど兄ちゃん前に俺ってば毎日リリィと一緒に風呂入ってるんだぜウフフ〜って話してたじゃん」
 反対される理由が理解出来ず眉間に皺なレヴァイアである。サタンとレヴァイアは殆ど体格が同じ。二人揃って目つきも悪ければ耳の尖り具合も一緒。見た目の派手な違いはサタンが黒髪でレヴァイアが銀髪なことくらいだ。いやしかしそんな問題ではない。
「馬鹿野郎、一緒にすんじゃねーよ!! 俺はパパだからいいの!! つーかお前の股間にいる破壊神見たらウチの娘ってば絶対ビックリしちゃうっつーのッ!! だからダメ絶対ダメ!! ダメぇええええッ!!」
「あぁ、俺の兄ちゃんよりデケェからな。成る程ね父親の威厳を保ちたいから反対してるわけね」
 そうだ、そこの見た目が少し違った。やっと納得いった表情のレヴァイア。すると今度はサタンが目を剥いた。
「そうそうそういうこと……って違うわボケ!! とにかくお前はケダモノだから信用ならねぇ、一緒にお風呂ダメ絶対ッ!!」
「兄貴テメェそりゃどういう意味だゴルァ!! 俺がお前似の3歳児なんかに欲情するわけねえだろ馬鹿か!!」
「あー!? お前リリンになんてこと言うんだ畜生ー!! そこは欲情しとけよ畜生!!」
「出来るか馬鹿野郎!! 超ド級の媚薬を盛られたって出来ねーよ!!」
 嗚呼、大の男二人による本気の怒鳴り合いが始まってしまった。普通なら横で見ている子供が怯えて泣き出すレベルの迫力である。が、いつものことなので幸いリリンは慣れていた。
「バアル、バアル。男二人がリリを巡って争ってるわ。嬉しいけどやめさせてっ」
 この通り、横で溜め息しているバアルのシャツを引っ張って仲裁を頼むほどの逞しさである。
「そうですね、止めましょう。はいはいはい、二人ともその辺になさい! 大の男がワーワーギャーギャーうるさい! 子供の前でカッコ悪いですよ!」
 言ってバアルが手をパンパン叩いて鳴らすとサタンとレヴァイアは獣のような唸り声を上げつつまだ何か言いたそうな顔をしながらもリリンの目を気にして大人しくなった。
「でも風呂どーするよ。サタンは俺じゃダメだってさ」
 フンッと鼻を鳴らしてレヴァイアが口を尖らせる。
「まあまあ。じゃ私がリリンをお風呂に入れるのはどうですかサタン。私なら信用出来るでしょ?」
 にこやかに名乗りを上げるバアル。するとサタンは「ああ、お前なら」と頷き……、しかし何が気に食わないやら「でもなぁ〜」と腕を組んで首を傾げた。
「ナニのサイズは問題無いとして、でも顔と下半身のギャップがスゲェし風呂入っても落ちない化粧とか見たらやっぱりウチの娘が驚いちゃいそう……」
 女性的な顔立ちに妖艶な紫色ベースの厚化粧に腰まで届く長い銀色の髪、だがバアルは男だ。男なのだ。なんかそれはそれで娘への刺激が強そうで心配である。
「ぁあ!? 化粧云々はともかくナニが問題ないとは心外だぞヤギ頭!! アンタ私の息子が本気でフルパワー出した時の姿を見たことないだろが!! 見てから言えよアンタと張り合う自信あるぞこう見えてもなぁあああああッ!!」
 サタンの声を遮ってバアルが突然激高した。どうも、なんというか、カチンと来てしまったようだ。
「ひいいいいい!! ご、ごめんなさああああい!! 言葉の綾です悪気は無かったんですううううう!!」
 一番怒らせてはいけない人を怒らせてしまった。此処は素直に謝っておくべきと判断したサタンである。あまりの恐怖に頭のツノもシュッと引っ込んだ。
「で、どうするの? リリン一人でお風呂に入るのは心配だから俺としちゃ付き添いたいんだけどなあ〜。なんなら水着のトランクス穿いて入るよ、それでもダメ?」
 結論を急かすレヴァイア。すると大人しく成り行きを見守っていたリリンが「えー、水着ヤダー」と声を上げた。
「リリ、レヴァ君の裸見たーい! 水着なんか着ちゃダメー!」
 ……3歳児の問題発言である。当然父親は驚愕に全身を支配された。
「ななななななな何を言ってるんだリリン!! パパそんな教育した覚えないよ!? あぁぁぁあーもうじゃあアレだ、俺リリンを風呂に入れてから帰るわ! いいだろ!?」
 一番無難な案が出た。少し不服だがサタンが納得するなら飲むしかない。レヴァイアとバアルは眉間に皺を寄せながら「アンタがそうしたいなら仕方ない」と頷いた……が、困ったことに当の娘がこれに納得しなかった。
「ヤダー! パパの身体飽きた、レヴァ君とバアルがいいっ!」
 これまた凄い発言だ。父親としては開いた口が塞がらない。
「女の子がなんてこと言ってんだリリーン!! パパの身体飽きたってなんだよ酷すぎるだろッ!! パパこう見えても街では未だにモテるんだからね、胸板厚くて鎖骨美人でセクシーって評判なんだからね!! それをなんですか失礼なッ!!」
「だって毎日見てるから飽きたもん、リリだって女の子よ。たまには他の男の身体とも触れ合いたいのだわ」
「リリンやめなさああああああああい!!」
 娘としてはごく単純にたまには親しいお兄たちとも楽しくお風呂に入りたいと言ってるだけなんだろうが、なんというか解釈を誤るとトンでもないことになる言葉である。サタンは軽く目眩を覚えた。いや軽くない。重い目眩だ。そこへバアルがダメ押しとばかりに物凄く冷徹な目をして詰め寄ってきた。
「サタン。貴方の教育方針について幾つか聞きたいことがあるんですけど……!」
「ひいい!? お、お母さん勘弁してください!! 俺はちゃんと娘は健全に育ててるつもりです、ホントですホントですよおおおお!!」
「誰がお母さんだボケ!! どういう教育してんだお前、正直に言え!!」
 何を言われても仕方のない状況だ。しかし、誤解である。決してバアルが想像しているような劣悪な教育をした覚えはない。単に娘の言葉選びが汚れた大人にはちょっとアレな解釈出来てしまうというだけである。……多分。
「で、結局どーすんの!?」
 混乱しているサタンにレヴァイアが答えを求める。真横にはこっちの教育方針に未だ疑念を抱いているバアル、足元には兄たちと一緒にお風呂に入りたがっている娘……。
「だあああああもう分かった分かったもう分かったよー!! 俺が悪かったよ、お風呂は好きにしてくださーい!!」
 最早サタンとしてはこう答える他なかった。とどのつまりお父さん敗北である。肩を落とすサタンの真横でまるで作戦成功を喜ぶようにレヴァイアとバアルとリリンが「やったー!」と笑顔でハイタッチを交わした。なにこれ凄く悔しい。が、仕方ない。娘は嬉しそうだ。たまにはお兄ちゃん二人に風呂へ入れてもらうのもいいだろう。
 なにせ、『家族』なのだから。
 泊まると決まったからにはこれまた仕方ない。早速サタンは一度一人で自宅へ向かってリリンの着替えやらパジャマやらお泊りに必要な物を即座にバッグへ詰めてまたバアルの城へと戻ってきた。その間10分足らず。いざ行動を始めたら実に迅速な男である。
「じゃホントのホントにウチの娘お願いしますよ!? 変なことしないでよ!? まだ3歳なんだからお酒とか飲まさないでよ!? 幾らなんでも早すぎるからね!! あと煙草も論外だよ絶対吸わせたりしないでよ!? あとあんまり夜更かしなんかもさせないようにね!! ええと、あとは〜……」
 覚悟は決めたはずだったが、娘が初めて外泊するのだ。サタンはどうにも落ち着かない。
「アンタどんだけ私たちに信用無いんですか!!」
 見るに見兼ねてバアルが声を荒げた。
「ぶっちゃけ俺ら兄貴よりリリィに良い教育出来ると思いますう〜っ」
 レヴァイアもサタンを笑って茶化す。
「リリ、ちゃんと良い子にするから大丈夫だよ。お酒と煙草はちゃんと断りまっす!」
 当の娘はとことん親の気も知らずに脳天気だ。……仕方ない。仕方ないったら仕方ない。遅かれ早かれ経験することだ。此処は彼らを信じよう。
「分かった! じゃあパパは帰るからねリリン。明日迎えに来るからな」
 大きな手で娘の頭を撫でる。すると娘は嬉しそうに笑って「うん!」と頷いた。……可愛い。やっぱり離れがたい。
「っ……ほ、ホントのホントにパパ帰っちゃうからね!? 明日まで迎えに来ないからね!? いいんだね!? ホントにいいんだね!?」
「ホントにいいってばあ。バイバイ、パパ。また明日ね」
「うん……。で、でもホントのホントのホントに……!」
「パーーパぁあああ〜っ」
 あまりにもしつこい父の食い下がりに娘としてはいよいよ溜め息のひとつも出るというものである。
「お父さん、娘さんの意思は固いですよ。諦めてウチに一晩だけ娘さんを預けてください」
 なかなか引き下がらないサタンにバアルが念を押す。
「っ……。うああああああああん!! リリンの馬鹿ー!! 俺の気持ちも知らないで酷いいいいい!! もういいもんそのままバアルさん家の子になっちゃえええええ!! でも明日には迎えに来るからな畜生ー!!」
 もうこりゃ引くしかないと踏ん切りをつけたサタンは号泣しつつその場から音もなく姿を消した……。
「な、泣いた……! アイツ泣いたよバアル……!」
 まさかそんな泣くに至るとは想像もしていなかったレヴァイアは兄のあまりの姿にポカンと立ち尽くした。
「泣きましたね……。そんなに寂しいのか……」
 バアルもほぼ同じく、である。
「んっもうパパってばホントに寂しがりやなんだから困っちゃうな。さあ遊ぼレヴァ君、バアル!」
「そうですね……と言いたいけどあのオッサンがゴネにゴネたせいで時刻は夕食時もいいところです。先にご飯とお風呂を済ませましょうリリン」
 言ってバアルは静かな笑みを湛えた。
「オッサンと言ってやるなよ可哀想だろ……。ま、とにかくリリィなに食べたい? 今日はレヴァ君いつも以上に張り切っちゃうぞー!」
「わーい!! あのねじゃあリリ、ステーキとハンバーグとパスタとグラタンと〜……」
 指折り自分の大好物を羅列していくリリン。
「ダメダメ。そんなこと言うとこのお兄さんホントに全部作っちゃうから」
 バアルが言うと隣でレヴァイアは目を丸くし「え!? 作っちゃダメなの!?」と予想通りの反応を示した。女の子が食べ切れる程々の量を作るという概念が、彼には無い。
「貴方が残った料理を全部食べ切れるなら、挑んでも構わないが」
「おう、そんじゃ任せとけ! リリィに大好物を王様食いさせてあげたいんだよね〜」
 あれれ。バアルとしては「そんなの無理!」という彼の反応を期待したのだが……、なんてこったレヴァイアの胃袋を少し甘く見てしまったかもしれない。まあいい、初めてリリンがウチに泊まるのだ。少しばかり贅沢をさせてやりたいという気持ちはよく分かる。
「仕方ないなあ〜。では量も量だ。私も少し料理を手伝いましょう」
「じゃあリリも手伝うー!!」
「いいねぇ、助かるよ! じゃ、皆でキッチンへゴー!」
 まずはみんなでお料理遊び。意気揚々とスキップでキッチンへ向かうレヴァイア。それを真似てリリンもバアルと手を繋ぎながら歪なスキップを踏んだ。
「ほらリリン、そんな歩き方をしているとまた転んでしまうよ」
 しかし既に手遅れだったようだ。前方でリリンではなく何故かレヴァイアが柱に足を引っ掛けてドカバキと鈍く派手な音を上げながら10段以上ある階段を転げ落ちていった。
「ひ、ひいいいい……!」
 大回転しながら派手に落ちていく大きな身体を見てリリン、ドン引き。
「大きな坊や、なにやってんの」
 階段の上から、床に倒れて呻く相方を見下ろすバアルの目は氷のように冷たい……。
「ちょっと、喜び勇み過ぎました……」
 ピクピクと頭を強打した痛みに痙攣しながらもちゃんと答えを返すレヴァイアである。
「やれやれ、注意力散漫にも程があるな。さては頭の中どんな料理作ろうかでいっぱいだったんでしょ。気をつけてください、食事前に貴方の血と脳ミソなんか見たくないですよ。ねえリリン」
「え……?」
 なんか凄い話を笑顔で振られてしまった。リリン更にドン引きである。
「えーっと、うんっ!」
 ここは、頷いておいた方がいい。とりあえず頷いておいた方がいい。僅か3歳の子供ながら逆らって良い人と悪い人の区別はちゃんと出来るリリンなのだった。



 一方その頃サタンはベッドにて上半身を起こし読書に勤しんで家族の帰りを待っていたリリスに事の経緯を話すと改めて娘のいない寂しさからグッタリと脱力してリリスの傍らに顔面を突っ伏した。
「と、いうわけでリリンは今日帰ってきません……」
 嗚呼、冷たいシーツの感触に先程緩んだ涙腺がまた決壊しそうだ……。しかし男子たるもの容易く泣くべからず。サタンは泣くのを耐えるためにフルフルと身体を震わせた。
「成る程、だから貴方あんな半ベソで帰ってきたのね。そんなに寂しい?」
 リリスは吹き出しそうになるのを必死に耐えながら、久々にゲッソリと落ち込んでいる夫の頭を優しく撫でた。
「寂しいよお……。なんか気が抜けちゃって全然ダメだ……。嗚呼、早く明日にならないかな……」
 時間よ早く過ぎ去ってくれ――そう願うしかない。
「やーね貴方ったら。そんなにゲッソリされると私リリンに妬いちゃうなあ〜」
 いやホントに冗談抜きで妬ける。唇を尖らせ、リリスはサタンの頭をツンツンと指の先で突っついた。
「妬くって〜?」
「そのまんまヤキモチよ。せっかく久々の二人きりなのにそんなゲッソリしちゃって、傷付くわ私」
「はああ〜? なーに言ってんだよ」
 堪らずサタンは突っ伏していた顔を上げて苦笑いをした。
「だってだって傷付くも〜ん。貴方そんなにリリンがいいの〜? 私じゃダメなの〜?」
「アハハハッ! ダメなわけないだろって!」
 そうとも、何がダメなものか。出産の負担で歩けなくなり寝たきりで何処に出掛けるわけでも誰に会うわけでもないのに毎日綺麗に化粧をし長い髪を整えドレスを着るリリスはサタンにとって愛おしくて堪らない存在だ。結婚して数千年が経ち母となった今でもしっかりと女であり続ける彼女は本当に可愛い……なんてことを考えていたら見る間に顔が赤くなったサタンである。
「貴方?」
 なに赤くなってるの? とリリスが首を傾げる。
「あ、いや……。そうだなせっかく久々に二人きりになったんだから楽しんだもん勝ちだよなって思ってさ! ええと……、本当に久々だな」
 リリンが生まれてからはいつもいつでもサタンの側にリリンが居た。妻リリスとこうして二人きりになるのは年単位で久々だ。妙に照れ臭い。
「ええ、嬉しいわ私。今日だけは私が貴方を独占出来ちゃうんだもの。バアルさんとレヴァさんに感謝しなくちゃ。これってばあの二人がリリンを普段から可愛がってくれてるおかげよね」
「何を何を何を言ってるんですかリリスさん。さあ、腹減ったろ、何食べたい?」
「んー……。じゃあハンバーグお願いしちゃおっかな! 私、貴方の作るハンバーグ大好き! あ、でも大きさは程々にね。貴方いつもその大きな手で思い切り作るんだもの。今日は半分こ出来るリリンがいないんだから小さめに作ってよ〜」
「はーい気をつけまーす。じゃ、すぐ作ってくるからちょっと待ってな」
 可愛い可愛い妻の頭をヨシヨシ撫でるサタン。しかし妻は眩い笑顔をそのままに「嫌です」と言い切った。
「待つのイヤでーす! 私も一緒にキッチンへ行きます」
「えー? なんだよ珍しい」
 なんだか久々にリリスの小さなワガママを聞いた気がするサタンである。
「だって今日はご飯を待ってる間に話し相手をしてくれるリリンがいないんですよ貴方。一人でポツンと待ってるのは寂しいです。私も連れてってください」
「ああ〜……そっか」
 いつもサタンが夕飯を作っている間にリリンが今日一日の出来事をリリスに報告するのが毎日の恒例であった。そのリリンが居ないのだ、今日一日の報告は代わりにサタンがしなければならない予感だ。
(つっても今日って面白いことなんかあったかなー?)
 リリンが向こうの城に泊まることとなった経緯はもう話してしまった。その他は物凄く何事もない平和な一日だった。おかげで土産話が何もない。困った。と、なると、なんというか、どんな些細な出来事も大袈裟に楽しく報告する娘の話術はなかなかのものだなと改めて思ったサタンである。幼いなりに寝たきりのリリスを楽しませようと努力してくれてるのだろう。……なんてことを考え出したらまた会いたさに身悶えしそうだ。いけない、いけない。とにかく早くご飯を作ろう。サタンは自分に強く言い聞かせた。
「分かったよリリス。ほら、掴まれ」
「わーい!」
 身を屈めたサタンへリリスが嬉しそうに飛び付く。妻も妻で相変わらず可愛い。ヤキモチさせたら可哀想だ、今日はしっかり彼女だけを見ることにしよう、そうしよう。たまには、ね。
(なんか俺って幸せ者だなあ〜)
 しみじみ実感しちゃったサタンである。



 今の今まで父親の反対で一度もキッチンへ立ったことがない、だからやってみたいというリリンの言葉に「アイツは顔に似合わず過保護だなあ〜」などと思っていたバアルとレヴァイアだったが、いざ彼女の小さな手に包丁を握らせてみた結果サタンの判断が正しかったことを強く確信した。
 なにせこの娘、不器用だ。信じられない勢いで不器用だ。まだ幼いから、という理由では足りないほど本当に手先が不器用なのだ。
 それゆえ簡単に「ジャガイモを皮むきしたあと一口サイズに切ってくれ」と頼んだところ皮むきの手つきは至極危うく、身を刻む際は明らかに自身の指が刃の下にあるにもかかわらずそのまま包丁を落とそうとした。側でバアルとレヴァイアの二人がしっかり見守っていたからいいものの、おかげさまでクールが取り柄のバアルが何度「ギヤアアアアアアア!! 危ないいいいいいい!!」と絶叫させられたか分からない。
 せっかく預かったリリンに怪我をさせたとなっては一大事だ。しかし危ないからといって何も手伝わせないとこの娘は一丁前にイジケてみせる……。仕方がないので刃を使わない具を混ぜるだけの簡単なお手伝いを頼んだら一応また上機嫌になってくれた。可愛いものである。まだキッチン台に背が届かないので椅子に乗り、後ろに立ったバアルに手を添えられながらニコニコとマカロニサラダを混ぜるリリンの姿にレヴァイアは料理をしながら終始頬が緩みっぱなしであった。
 こりゃ堪らん。こりゃ可愛い、と。
 そうして出来上がった料理はステーキにハンバーグにじゃがバターにマカロニサラダにパスタ三種にその他もろもろ多過ぎて一つ一つ説明するのが手間な域。食事用の大きな長テーブルの上をギッチリと埋め尽くした料理の数々はどう足掻いても3歳の少女が食べ切れる量では無かった。普通の3歳児と比べれば相当に食べた方だが……。
 しかし宣言通り残った料理はレヴァイアが綺麗に食べ切ってしまった。何気にバアルもよく食べた。リリンが「二人とも食べた料理ドコに入ったの?」と全く膨らんでいない二人のお腹をキョトンと見つめるほどに。
 そうして無事に食事は終了。後片付けも仲良く三人で行い、終わった頃には程良くお腹も落ち着いた。お風呂へ入るタイミングである。
 リリンが見守る中、意気揚々とズボンの裾をたくし上げて入浴の準備に取り掛かり城ご自慢の豪華なローマ式大浴場にお湯を張るレヴァイア。準備は一切のトラブル無く順調そのもの。ところがそこへ後からやって来たバアルが「せっかくリリンと入るのだからお風呂もいつもよりゴージャスに!」と浴槽一杯に大量の真っ赤な薔薇の花弁を投入したからさあ大変。また少し騒動となった。
「何を何を何をしているんですか貴方は!!」
 ただでさえよく分からない彫刻がいっぱい飾られていたりなんだりしているバアルの趣味を大いに反映したゴージャスなローマ式の風呂に大量の薔薇をプラスされてしまった。なんだこのナルシスティックな空間は。レヴァイアが絶句するのも当然である。
「何ってただの風呂ではつまらないから薔薇の風呂にしただけですよ。どうです、綺麗でしょリリン」
 一切悪びれなく微笑むバアル。リリンもリリンで「うん! 凄く綺麗!」とご満悦だ。
「薔薇の風呂にはストレス解消やリラックス効果に加えて血行促進や疲労回復の効能もあるんですよ」
 王様とっても得意げである。いやしかし、いやしかしコレは……。
「あのー、アンタらはいいかもしんないけどこのお風呂には僕も入るんですが……」
 女性的な顔立ちのバアルや見たままそのまま可愛らしいリリンは良しとしてレヴァイアのようなガラの悪い男が入るにはあまりにもあまりにもな風呂である。だってこんな、どう想像しても、似合わないに決まってる。
「あらレヴァ君、服を選ぶ際は『俺に似合わない服はない!』っていつも胸を張っているじゃないですか。大丈夫イケメンはなんでも似合う似合う。さ、準備は整った。早速お風呂に入ろう、そうしよう」
「い、いや似合う似合わないにも限度が……。あ、ところでバアル! どうするよ俺ら水着ってマジで穿いた方がいいのかな?」
「さてね、風呂は好きにしていいって言ってたから此処はリリンに判断してもらいましょう。どうするリリン、見たい? 見たくない?」
「見たーい!! 水着ダメ絶対!! チンチン見せろー!!」
 バアルの問いに即答なリリンである。
「なんか逆にスゲー脱ぎにくいんだけどー!!」
 大浴場に木霊すレヴァイアの叫び……。いやしかし見たいと言われたからには逆らえない。覚悟を決めて脱衣所にてみんなで入浴の支度。……案外リリンは小ざっぱりした子だったようで二人のナニをチラ見した際「わーお! ご立派!」と言い、完全に裸を晒した際はガッチリ引き締まった身体に黒のトライバルタトゥーをところどころ彫り込んでいるレヴァイアと細身で引き締まってるバアルを交互に見比べて「どっちもセクシー!」と一度は目を輝かせたが裸に関するリアクションはそれっきり。レヴァイアの股間の破壊神よりも幼いリリンにはどれだけ石鹸で洗っても落ちないバアルの化粧の方が気になったようだ。レヴァイアとしては助かった。それはもう、本当に。もし万が一にこの可愛い破壊神が突かれたり鷲掴みされたりしたらどうしようかと思っていたわけであるからして本当に本当に助かった。
「なんでバアルのお化粧は落ちないの〜?」
 洗い場にて二人の間に座り身体をゴシゴシとボディスポンジで擦って泡だらけにしながらリリンが首を傾げる。此処、魔界ではメンズコスメが大昔からの流行りだ。女だけでなく男も多少なりとも化粧をして出歩くのが当たり前となっている。特に男が力を入れているのはアイメイクだ。サタンとレヴァイアも例外ではない。ゆえに二人とも風呂に入ると多少顔が変わるわけだが、はて……、何故バアルは何も変わらないのか。
「だーってコレが私の素顔ですもの」
 水にも泡にも負けない超ウォータープルーフ仕様の化粧品を使っているというのが正しい答えなわけだが、相手が子供だからと適当なことを言う王様である。「まーたそんな〜」と笑うレヴァイア。しかしリリンは「そうか! レヴァ君のタトゥーと同じ感じなんだね!」と納得してしまった。ちょっとした嘘もこうして本気で信じてしまうのが子供の可愛いところだ。そういえばリリンはレヴァイアのタトゥーが生まれつき身体に描かれていたものだという嘘も未だに信じている。
「そんなことより、リリィ。耳の後ろがちゃんと洗えてないぞ、ほら〜」
「えー? うひひひひひっ! くすぐったいいいいい〜!」
 レヴァイアの手に耳の後ろを擦られて笑い震えるリリン。微笑ましい図ではあるが「そこはかとない犯罪臭……」と素直な感想がつい口から漏れてしまったバアルである。
「なんでだよどういう意味だよッ!!」
 しっかり聞こえていたレヴァイアなのだった。
 そんなこんなで一応無事に身体を洗い終えた一同は大量の薔薇が漂う浴槽へ。「嗚呼、なんてことをしてくれたのでしょう」と嘆くレヴァイアだったが、洗ってびっしょり濡れた髪をオールバック風に撫で付けていつもより大人っぽい雰囲気を醸していることもあっていざ身体を沈めてみれば案外その姿はサマになった。お湯の温度にうっとりした顔も加えれば更にといった感じだ。
「わあ、レヴァ君ってば王子様みたーい!!」
 レヴァイアの向かいにてバアルに抱きかかえられながら先に浴槽へ浸かっていたリリンが目を輝かせた。
「え!? マジで!? ありがとう、よく言われる!」
 ……喋ったら残念ながらいつも通りのレヴァイアだった。
「リリン、リリン。あれが王子様なら私は?」
 優雅に足を伸ばして風呂に浸かっていたバアルが自身を指差した。その一切化粧の崩れていない女性的な顔に腰まである長い銀髪を後ろに髪留め一つでまとめ上げた姿はどう見ても水も滴る良い女……とは男としてのプライド高い彼には口が裂けても言えない。
「え? バアルはー……えっとー……」
 なんとなく、絶対に答えを間違えてはいけない相手であると幼心に察してリリンは目線を天井へ向けた。はたして最も正解に近い答えは一体なんだろうか……。
「リリン、素直に言っていいんだよ。『魔女』みたいだって」
 少女の困惑を察してレヴァイアがボソリ呟く。
「このお湯を一気に絶対零度の氷漬けにしてやろうか、レヴァ君」
 魔女という言葉に予想通りバアルは気分を害して眉間に皺を寄せてしまった。
「いえいえいえいえいえいえ、そんなやめてくださいいいいいっ!」
「あわわわわ……! あ! バアルは王様! 王子様より偉くてカッコイイ王様!」
 咄嗟に気を利かせたリリンである。するとバアルは「あら、ありがとう!」とすぐに機嫌を良くしてリリンの頭を何度も撫でた。
(いやいやいや、子供に気を遣わせちゃダメでしょお前!!)
 とは思ったものの、とても素直に口に出しては言えなかったレヴァイアである……。
「それにしても。リリンには一日とは言わず何日でも此処へいて欲しいものですね。何せリリンがいるとレヴァ君が煙草を面白いくらい控えてくれることが判明しました」
 湯にプカプカと浮く薔薇を指先で弄りながらバアルが微笑む。
「おタバコ〜?」
 一緒になって薔薇で遊びながらリリンが首を傾げた。
「そう、お煙草。この人ってば煙草を通じてじゃないと呼吸出来ないのかなってくらい何してる時もずーっと煙草を吸うんですよ。だからお風呂場の端にも灰皿があるの。せっかくの入浴剤の香りが台無しになるからお風呂の時くらい控えなさいって言ってるのに全く聞かないんですよ、困ったものです」
「アンタがそう言うから必ず毎日の一番風呂は譲ってるでしょおが」
 幼女相手に日頃の愚痴を零す相方へレヴァイアは眉間に皺を寄せた。控えた方がいいのは分かってはいるが、どうにも我慢出来ないのだから仕方ない。今日はなんというか、リリンにもし「煙たい! イヤン!」と言われたら生きていけないから頑張れているが実を言うと、正直結構辛い。早く風呂を出て一服したい。けど可愛いリリンとまだ一緒にお風呂で遊びたいから我慢、我慢……。
「口さみし〜ならチュウでもしたろかレヴァくん」
 幼いなりに何か察したリリンが悪戯っぽく笑ってみせた。
「おお、気が利くねリリィ。じゃあお願いしちゃおっかな〜」
 いや本当リリンにキスしてもらえるならレヴァイアとしてはあと一時間でも二時間でも禁煙出来そうである。んが、バアルに「犯罪!!」と声を上げられて阻止された。残念だ。
 さて、軽く目眩がするほど身体が温まったところで入浴終了。揃って脱衣所にて身体を拭き、それぞれは寝間着に着替えた。リリンのパジャマは黒地にピンクの星柄模様。レヴァイアは上下黒のジャージ、バアルは黒のナイトガウンという格好である。寝巻きにも個性が溢れている。
 それはさておきレヴァイアは本当に禁煙が限界だったらしく後の面倒は一旦バアルに任せてまだ濡れた頭をタオルで拭きながら煙草を吸いにその場から姿を消してしまった。やれやれ。しかしまあこれはリリンと二人きりでゆっくり触れ合うチャンスだ。
「リリン、こっちへおいで」
 呼ぶとリリンはすぐに「はーい!」と元気よく返事をし、バアルに言われるがまま脱衣所の端にあるドレッサーの前に座った。
「いい子だ。髪を乾かしましょう。濡れたままにしておくと身体が冷えてしまうからね」
 バアルの力を使えば一瞬でリリンの髪を乾かすことも出来る。だがそれでは味気ない。ゆえに、あえてドライヤーを使うことにした。この判断は正解だった。傷みなど殆ど無い絹のように柔らかな髪を手櫛しながら温風で乾かす喜びたるや尋常ではなく、椅子に座ったリリンもとても大人しいだけでなく髪を手入れされるのが楽しいのかニコニコと笑みを絶やさなかった。単純に温風に当たって泳ぐ自身の肩より長い髪の動きが面白かっただけかも分からないが、とにかくやたらと嬉しそうだ。
「リリン、そんなにドライヤー楽しい?」
 あまりの上機嫌っぷりが気になって問いかける、するとリリンは「んふふ〜」と何処か得意気に笑って足をやんわりバタつかせた。
「ドライヤー楽しいってゆーか〜、バアルのおててが気持ちいいっ!」
「私の手が?」
 確認するとリリンは迷わず「うん!」と頷いた。
「しっとりしててフワッと温かくて凄く優しい手! ずっと頭撫でてもらいたいくらい気持ちいいっ!」
「リリン……!」
 手が優しいだなんて、数千年ほど生きてきたが初めて言われたかも分からない。なにせ振り返ってみれば怖い怖いと言われてばかりな人生だった……。嗚呼、なのにこの子は……!
「ありがとう、嬉しいな」
 今、もし誰かに泣いていいよと言われたらバアルは迷わず号泣する自信がある。それくらい胸にグッときた。
 こんなにも嬉しいものだったのか。優しいと称えられるのは。
「よし、乾きましたよ。あとは髪を梳かすだけだからもう少し大人しくしててくださいね」
「はーい!」
 相変わらずリリンの返事は威勢がいい。と、そこへ一服を終えたレヴァイアが「ただいまー」と帰ってきた。
「なあバアル……。お前、なんか泣きかけたりしたか?」
 若干オロオロしながらの問い。風呂あがりはいつもバルコニーに出て夜風に濡れた髪を晒しながらビール片手に煙草を吸うレヴァイアである、ゆえに何か……『空模様の僅かな変化』を察したようだ。
「はて、なんのことやらで御座います。それにしても馬鹿だね貴方、髪の毛を乾かしてる時のリリン超可愛かったのに」
「そうだぞ勿体無いことしたぞー!」
 バアルの言葉に便乗してリリンが笑いながらイーッと歯を剥き出す。確かに柄物パジャマを着て普段二つ結びしている髪を下ろしている姿は普段と違ってまた可愛い。が、問題はない。
「なーに言ってんだ、リリンはいつだって可愛いじゃないか」
 アハハと笑ってレヴァイアは手入れの終わったリリンのサラサラの髪を撫でた。



 同じ頃サタンとリリスも食事と入浴を済ませた。今はリビングにて色違いのナイトガウンを羽織り二人でお茶を飲んでいる最中である。久々に過ごす妻と二人きりのゆったりした時間。しかしやはりいつも足元をチョロチョロしている娘の姿が無いのはサタンにとって寂しい……なんて素振りを見せたらまたリリスがイジケてしまう。ここは我慢だ。
 よーし気分を変えよう、そろそろリリスがいつも就寝する時間だ。サタンは自分に言い聞かせて顔を上げた。
「さてリリス、今日は何処の部屋で寝る?」
「今日? 今日は、えーと……」
 サタンの質問にリリスは天井を見つめて目を泳がせた。
 寝たきり生活のリリスに少しでもいいから毎日刺激を、というサタンの計らいでリリスは毎日寝る部屋を変えていた。家族三人で住むには無駄に部屋数の多い城である。候補は山盛りだ。さてどの部屋で寝よう。彫刻に囲まれたルネサンスな感じの部屋もいいし大きな天窓があって星を見ながら眠れるあの部屋もいいしピンクと白でまとめられた自室も捨て難い。だが今日は、ほぼ一択だ。
「ねえ貴方、今日は私――」
「リリス! ええとその今日は俺の部屋で寝てくれると嬉しいんだけど、ダダダダダメかな!?」
 リリスの言葉を遮ってサタンが声を上げた。酷い吃りっぷりからして照れ具合がよく分かる。
 今更なにを照れることがあるのやら。リリスは夫の態度に堪らず吹き出した。
「勿論です。私も今日は貴方の部屋で寝たいって思ってたから嬉しい」
 しかしリリスが微笑むとサタンはバツが悪そうに目を逸らし、頭を掻いた。
 まあ、理由は大体察しつく。
「ゴメン、やっぱちょっと寂しくて……。うええええん、もうお前と一緒に寝る支度するよ俺……! もう無理もう今日は何も頑張れないいいいいい……っ!」
 夜更かしが日課のサタンはリリスよりいつも3時間は遅れて就寝する。が、今日はダメだ。今日はもう早く眠って時間をすっ飛ばし明日を迎えたい。なんたって寂しすぎる。
「そんなことだろうと思った! ホントに妬いちゃうわ全くもうっ! でも一緒に寝れるのは嬉しいから許しちゃう」
「う〜〜っ」
 優しくモシャモシャと妻の手に頭の髪を揉まれてどうにもこうにも立場の無い夫である。妻の表情は優しい手とは裏腹に若干怒りに満ちている。眉間に寄ってる皺が証だ。嗚呼こりゃ怒ってる確実に怒ってる。しかし本当に寂しいのだから仕方がない。
 間もなくお茶を飲み終えたサタンは早速リリスを抱えて洗面台へ行き、歯磨きをした。これにて寝る支度は完了。……寂しいと連呼したせいで相当に機嫌悪くしたかと思いきやサタンの腕に抱えられながら歯を磨くリリスの表情は打って変わって上機嫌そのものだった。さっきの怒った顔は冗談だったということなのだろうか。
 結婚して数千年になるが、未だに妻の心がよく分からないサタンである。
 いざベッドに移動してもリリスは上機嫌なまま。「貴方のベッド久し振り!」とシーツに頬ずりすらしていた。
「おいおいおいおい、恥ずかしいからやめてよやめてよ……!」
 部屋の明かりを消し、窓から差し込む月明かりだけを頼りにサタンもベッドへ潜り込む。するとリリスはサタンをジッと見つめてニッコリと微笑み「貴方、久々に私にだけ腕枕くださいっ」と腕枕を要求してきた。やっぱり母となった今でも彼女は可愛い。
「おお。いいよ、ほれ」
 腕を伸ばして応じるとリリスは「やった」と嬉しそうに微笑んで早速頭を乗せた。
「お前もよく分かんねー女だなあ〜。機嫌良くなったり悪くなったり」
「しょーがないんです、リリンと貴方が仲良くしてるとママの立場では嬉しいけど女としては悔しいんですっ。私だって複雑なのよ」
「なーに言ってんだよ」
 抱き寄せた身体は寝たきりな影響もあって以前より明らかに細くなった。サタンの加護によってある程度の健康的な見た目は一応保たれているが……、彼女にだけ大きな負担を強いてしまったことが本当に悔しい。
「お前は世界一可愛い俺の妻、リリンは世界一可愛い俺の娘。それじゃダメか?」
 やれやれ、何をイジケることがあるのだ本当に。簡単に腕が回ってしまうこの細い身体を抱き締めるたびに何がなんでも守ってやりたいと思えた、サタンの気持ちは今も昔も変わらない。
「うーん、私もリリンも一番だなんて凄く優柔不断な感じしますう〜っ」
 あーあ、唇を尖らせてしまった。
「んっもう! どう言ったって納得しないんだからもうっ! しょーがないだろ、お前もスゲー大事だしリリンはそのお前が命懸けで産んでくれた俺の宝物だ。可愛くて堪らないんだよ」
「貴方……」
 おおっと、リリスの顔が赤くなった。ようやく少し納得してくれたようだ。
「どれだけお礼を言っても足りないと思ってる。ありがとう、リリス」
 目を閉じ、サタンは強くリリスの身体を抱き締めた。リリンの誕生はこの細い身体が命懸けで起こした大きな奇跡であることを噛み締めながら――。
 サタンは希望の概念を担う神に近い異質な存在だ。そのサタンの子を産めばリリスの身体に大きな負担が掛かることは結婚当初から明らかだった。ゆえに子を持つことなど考えもしなかった。だが、結婚から数千年経ったある日彼女は唐突に『もう我慢出来ない。どうしても貴方と私の子供に会いたい』と言い出した。とっくに諦めたはずだろうに今更なにを言うのか。そうして当初は反対したサタンだがリリスの意思はどうにも固かった。『どうしてもどうしても会いたいんです。貴方は会いたくないんですか?』……そう聞かれて「会いたくない」とは口が裂けても言えなかった。そんな嘘を吐いても勘の良い妻は間違いなく見破ってしまう。
 観念するしかなかった。
 サタンの二つ返事にリリスはそれはもう喜んだ。『良かった。貴方から貰うばかりの数千年でした。だから、私は貴方に何か返したいんです』と。『大丈夫、何があっても私は死にません。私は貴方の妻ですよ。簡単に死んだりなんかしません。だから、大丈夫』と。
「一つだけ、改めてちゃんと言っておきたいんだけど……」
 夫の腕の中にすっぽりと収まったリリスがチラリと顔を上げた。
「私は今、世界一幸せですよ」
 これはリリンを出産してからの彼女の口癖であった。日の終りに微塵の嘘も含んでいませんと言わんばかりの眩い笑顔でもって必ず口にする言葉だ。
「ああ。俺もだよ」
 サタンもいつもと同じ言葉を返した。するとリリスは笑顔で頷きいつも安心したように目を閉じるのだが、今日は少し違った。
「貴方に念を押しておきたいんだけど……」
 珍しく今日はまだもう少し話があるらしい。リリンがいない影響だろうか。サタンは「なに?」と言葉を待った。
「えっと、貴方のことだから私にばかり負担をかけてるって思っちゃってる部分があるかもしれないけど、もしそうだとしたらそれは大きな間違いですよって言っておきます」
「ぅえ!?」
 いきなり心の中をズバリ見抜かれてサタンは堪らず変な声を上げてしまった。「ああ、やっぱり」とリリスが得意そうに微笑む……。
「大きな大きな間違いですよ。だって貴方は毎日リリンの面倒を一人で見てご飯を作って夜になると私の髪を綺麗に洗ってくれるじゃありませんか。私が申し訳なく思うくらい貴方はよくやってくださってます」
 言いながらリリスはサタンの胸元に頭を埋めた。夫は体温が高い。ゆえに、こうしているととても落ち着く。
「申し訳なく思うことねーよ、全部俺が好きで楽しくやってることだ。だから俺ばっか楽しくてゴメンってなるのも仕方ないだろ」
「私は、そうして貴方が楽しんでくれてることが楽しい。……お互い楽しいことだらけね貴方」
「ハハッ! そうだな」
 笑ってサタンはリリスの長い髪を優しく撫でた。
「もう寝ろ、リリス。おやすみ」
「ええ。おやすみなさい。貴方とリリンには申し訳ないけど、やっぱりたまーにはいいものだわ貴方を独占するのって」
 妻がゆっくり大きな目を閉じる様を見守りながらサタンは思った。俺、マジで超幸せ! と。



 積み木にトランプゲームにチェスにオセロと玩具を取っ替え引っ替えでひたすら遊ぶに大忙しで大はしゃぎなリリンを見て「こりゃ明け方までこの勢いかな〜?」と徹夜を覚悟したバアルとレヴァイアだったが、何事にも全力な子供が電池切れを起こすのは案外早かった。レヴァイアが趣味で少し楽器が出来ると聞くやいなや、じゃあ何か弾いてくれとはしゃぎ出した彼女にアコースティックギターの音色を披露したところ、なんだそれスゲーなどうやるんだ教えてくれ私も弾くぜ弾いてやるぜと言われたので胡座をかいた脚の中に彼女を座らせて弦の押さえ方を軽く教えていた最中、少女は突然ヨダレを垂らして船を漕ぎ始めたのである。背にしていたレヴァイアの体温が丁度心地良かったのかもしれない。
 んが、せっかくのお泊り。もう寝てしまうのは勿体無いと感じたのか寝るように諭す二人にリリンは「やだまだ遊ぶ」と駄々を捏ねた。しかしながら強がる心とは裏腹に身体は正直である。もはや目を開けていられなくなったリリンは仕方なくバアル、レヴァイアと並んで洗面所にて歯を磨き、用意してもらった部屋のベッドに潜り込んだ。そしておやすみなさい……と思いきや、リリンの「一緒に寝ようよ」の言葉がキッカケとなりバアルとレヴァイアどっちと一緒に寝るかでまた一騒動となった。
「よーし、じゃあ俺が一緒に寝てやるよリリン!」
 一緒に寝ようよと言われて真っ先に名乗りを上げたのはレヴァイアの方であった。が、間髪入れずにバアルが「ちょっと待った」と口を挟んだからさあ大変である。
「貴方は寝相が大変悪いので添い寝は私のが適任です。私と一緒に寝ましょうリリン」
 爽やかな笑み。だが、バアルの目からは気のせいでなく『私だ、私を選べ!』という凄まじい圧力を感じる。
「あばばばば……っ」
 バアルの圧力は幼いリリンを怯えさすに充分な威力であった。
「言い出すと思ったぜ畜生……! リリィ、俺とバアルどっちがいい? つーか俺だよな。こんな厚化粧を真横に落ち着いて安眠なんか出来ねーもんなあ」
「なんだとテメェこら……! リリン、私ですよね? ……私、です、よね?」
 二人がジーッとリリンを見つめる。……その目が怖い。特にバアルの目が怖すぎる。リリンは答えに詰まってガクブル震えた。
「アンタ子供を目で脅すのやめなさいっ!!」
 気付いたレヴァイアがすぐに指摘した……が、バアルは悪びれなく「なんのことやら」と首を傾げて誤魔化した。酷い大人である。
「じゃあ〜……三人で寝ようよ。うちでもたまにパパとママのどっちがリリと寝るかでモメるんだけど、そういう時はケンカしないで三人で仲良く寝ることにしてるよ」
 リリンが出した最も平和的な解決法。……しかし二人はいまいち納得しなかった。
「えー、バアルと寝るのヤダよ俺」
 レヴァイアがこう言えばバアルも「そら私の台詞だ」と返した。
「私だってお前と一つのベッドで寝るなんざゴメンですわ」
 全く困った二人である。
「んっもうワガママ言わないの! 大人なんだから!」
「はーい……」
 3歳の娘に叱られてしまった……。こりゃもう同時に頷くしかなかった二人である。と、いうことで大きな大きなベッドにて左にレヴァイア右にバアルが寝転び、リリンを真ん中に挟む形で三人仲良く川の字で寝ることに落ち着いた。照明を落として今度こそオヤスミ……と思いきやベッドに潜るなりレヴァイアが「腕枕どうぞ」とリリンに腕を差し出したことでまた波乱が起こった。
「いえいえ、私の腕枕へどうぞリリン」
「またお前はそんな! 俺だよな、俺の腕のがいいよなリリィ!」
 そして二人は「ガルルルルッ!」と歯を剥き出しにして睨み合いを始めてしまった。やれやれ全く、キミたちは争わずには生きていけないのかとリリンもツッコミたくなる域である。
「んっもう、そーやってすぐケンカするんだから! リリはどっちかじゃなくて二人から腕枕もらうことにしまっす! それでいいでちゅね?」
「……はーい……」
 若干不服だが子供に怒られては立場がない。二人は渋々ながらそれぞれ腕を伸ばした。全く本当に困った大人たちだ。しかしケンカはすぐに治まった。チョコンとリリンの頭が腕に乗っかった途端、眉間に皺を寄せていた二人がそのあまりに可愛らしい重みを受けて一気に破顔したからである。なんて可愛いんだ、こりゃもう喧嘩してる場合じゃねーよ、ということだ。一件落着。リリンも二人の穏やかな表情を確認し、安心して目を閉じることが出来た。
「それにしてもリリン、今日はなんだって急に帰りたくないって駄々こねたりしたんだ?」
 ずっとレヴァイアが引っ掛かっていたことである。いつも通りに遊んだだけ。特にリリンがゴネる理由など無かったはずなのだ。するとリリンは目を閉じたままニヤリと笑った。
「ふーふみずいらず」
 これは少女が覚えたばかりの言葉だった。
「夫婦水入らず、って?」
 バアルが首を傾げるとリリンはますます口角を持ち上げた。
「そっ。たまにはご夫婦二人でゆっくりしてもらいたかったリリの乙女心よ」
 なんとも得意げな言い方である。これは話をもっと追求した方が喜ぶだろうと踏んでバアルは「どういうこと?」と更に聞いてみた。
「あのね、ママがね、昨日リリに『リリンとパパは仲良し過ぎてママ心配。ママからパパ取らないでね』って言ってきたからそんなつもりは無いよって言いたくてね。リリはパパも好きだけどママのことももちろん大好きだから、悲しませるわけにはいかないの。だから今日はママにパパ返してあげようと思って」
「ヒヒヒッ! 子供ながらに気を遣ったわけか。良い子だなぁ、お前」
 レヴァイアが笑うとリリンは「そうでしょ」と軽く目を開けて振り向いた。
「レヴァくん、リリこう見えて出来る子よ。どう、惚れ直した?」
「おう、惚れ直した惚れ直した。気配り上手な女ってのは得点高いぜリリィ」
「やった。じゃあ結婚しようレヴァ君」
「はいはい、もう寝なさいリリン」
 少女の一世一代の告白を横で聞いていたバアルが冷静に遮った。決して嫌がらせではない。これは優しさからである。そう、優しさだ。こんな男と結婚しても良いことなんか一つもないわけであるからして、こんな話からまた騒動になったら面倒と判断し本当に寝かしつける気満々で彼はリリンの身体を正面に向かせると胸をポンポンと一定のリズムでもって手のひらで叩き始めた。
「あの、あんまりにも酷いんじゃないでしょうか……」
 暗に「そんな男はやめておけ」と言われたようなものである。レヴァイアは派手に肩を落とした。
「だって貴方ってば生活力無いし遊んでばっかりなダメ男の典型じゃないですか。ダメダメ、絶対ダメ」
「そら言いすぎでしょ……! 毎日家事はせっせと頑張ってるじゃないですか家事だけは……! なあリリン。…………リリン?」
 返事がない。見ると少女は目を閉じて柔らかな寝息を唇の隙間から漏らしていた。完全に寝入ってしまったようだ。
「あらら、完全に電池が切れたみたいですね」
 レヴァイアに向かって悪態ばかりついていたバアルが目を細める。
「だな。……可愛いなあ、ホントに」
 カーテンの隙間から差し込む微かな月明かりに照らされた無垢な寝顔は本当に可愛らしい。この安心し切った顔は自分たちを信用してくれている証拠でもある。
「私たちも寝ましょう。騒いで起こしちゃったら大変だ」
「だな。…………それはいいけど、お前ちょっと毛布引っ張り過ぎじゃねーか? 俺、背中出ちゃってんだけど……」
 大きな一枚の毛布に三人で仲良く包まってるわけだが、はて、何故かレヴァイアの背中は丸出し状態だ。にもかかわらずバアルの方の毛布には相当の余裕があるように見える。
「気のせいです。私も背中は出ちゃってます。ではオヤスミ」
 リリンの胸を尚もポンポンと叩きながら、ちゃっちゃと目を閉じるバアルであった。
「嘘をつけ、この野郎……! まあいいや、オヤスミ……」
 言い争ったところで勝てる見込みは無い……。悪足掻きを諦めてレヴァイアも目を閉じた。夜更かしが生き甲斐の魔王二人にとっていつもより遥かに早い就寝。だがそこは魔王。本気を出せばいつでも何処でもどんな時でも即座に熟睡出来る便利な身体である。
 そうして迎えた翌朝、自分がバアルの城に泊まったことを忘れて見慣れぬ天井に戸惑うリリンの元にモーニングコーヒーの良い香りが届いた。そして間もなく彼女はコーヒーカップを片手に持ち朝から化粧バッチリのバアルと、同じくコーヒーカップ片手に昨日お風呂場にて王子様と呼ばれたことで今日は髪をワックスでオールバックにまとめて過ごすことに決めたっぽい前髪の無いレヴァイアに「おはよう、お姫様」と挨拶された。「おはよう」と返すとレヴァイアに目覚めのドリンクは何がいいか聞かれた。半身を起こして「ミルクがいい」と答えると何処から取り出したやらすぐに「はいどうぞ」とミルクをなみなみ注いだコップをバアルに渡された。それを一気に飲み干した後、改めてレヴァイアに「王子様みたい!」と言うと彼はそれはもう嬉しそうに「ありがとう!」と笑った。
 それからバアルに付き添われつつ顔を洗って寝癖を直して髪を二つ結びしてもらってパジャマを着替えた後に屋上のテラスへ行くと、リリンが朝の支度をしている間にパパッとレヴァイアが用意した「それは本当に朝食なのですか!?」と首を傾げたくなるような大量の料理が待っていた。一応朝食だけあって並んでいるのは夕食よりも軽めなラインナップだが量が尋常でない。どれもこれもとても美味しい。だが、これまた幼いリリンが食べ切れるわけはなく、どうしても各料理一口ずつという王様食いをすることになってしまったのだが、やっぱりまた残った料理はレヴァイアとバアルの二人が綺麗に平らげてしまった。それでいてまたもお腹は微塵も膨らまない。一体ドコに食べ物が入ってしまったのか本当に不思議である。リリンは食べたら食べただけお腹が膨らむ、なのに何故……。幼心に男の引き締まった腹部を羨んでしまったリリンである。
 そうして食事は何事も無く和やかに終了。だが静寂は食後のコーヒーに舌鼓を打ちつつリリンがさあ今日は何をして遊ぼうかと考え始めたタイミングでサタンが目の前に現れたことにより見事に砕け散った。ノックも何も無しで本当にサタンはいきなり三人の前に現れたのである。
「リリーン!! 会いたかったあああああああああああああ!!」
 現れるなりサタンはポカンと口を開けている娘を両手で強く抱き締めた。娘の戸惑いなどそっちのけである。ついでに友人二人の戸惑いもそっちのけ……。
「早いよ!! お前お迎え早すぎるよッ!!」
 我に返ったバアルとレヴァイアが同時に怒鳴り上げた。
「でも明日って今日だろ!! 俺は迎えの時間までは言わなかったぜ、明日迎えに来るとだけ言ったんだぜ、その明日って今日だろ!! 夜が明けたら明日だろ!! つまり今日だ!! っリリーン!! パパ凄い凄い寂しかったよおおおおおおおおお!!」
 無茶苦茶言いながら未だ戸惑っている娘にグリグリグリグリ頬ずりするサタン。どれだけ娘の温度を感じるに夢中なのやら、その大事な娘が苦しがって腕をタップしていることにも気付いていない……。
「あぁあああ!! サタン!! リリン苦しがってるッ!! 息が詰まって苦しがってるよッ!!」
「貴方、自分の娘になんてことしてるんですか!!」
 レヴァイアとバアルがすぐに止めてくれたおかげでリリンは辛うじて窒息を免れた……。が、すると今度はこの親父め何を思ったのか「リリン息が苦しかったのかゴメンよ!!」とリリンに力強く口づけしてプーッと息を吹き込み人工呼吸を始めた。しかし呼吸のある状態でそんなことされてもただ苦しいだけである。強く息を吹き込まれて歪に膨らむ頬、眼は白目を剥き、リリンの顔色はみるみる青ざめる……。
「やめたげてー!!」
 これまた二人が大声を張り上げて止めてくれたおかげでなんとかなった。
 そんなこんなだが時の流れというのは万能なもので、15分ほど経つと愛娘との一日ぶりの再会により大興奮していたサタンもようやくいつもの調子に戻った。とりあえず椅子に腰を落ち着け「あれ? そーいやレヴァイアなんで頭オールバックにしてんの?」と隣に座る友人の髪型の変化に気付ける程度には。
「今更かよ!! ええとコレはだな、昨日一緒にお風呂へ入った時に濡れた髪を上げてたらリリィが王子様みたーいとか言ってくれたからさ! 暫くこの頭でいこうかなって!」
 今更かと怒りつつちゃんと教えるのがレヴァイアの優しいところである。
「王子様ぁ〜?」
 ただでさえ目つきの悪いレヴァイアが髪を上げると更に鋭利な目元が強調されてとても王子様とは呼べない……。どう見てもただの超怖いお兄さんである。しかしサタンが「あれが王子様?」と振ると、父親の近くは危険だからとバアルの膝の上でくつろいでいたリリンは迷わず頷いた。
「王子様! 男は目つきが鋭くてナンボよパパ。リリは野性的な男が好きだしね。んで、なんで野性的な男が好きって聞かれたらセクシーだからと答えとくわ」
 なんだかとても3歳とは思えぬ発言である。
「ほほ〜う。目つきの悪さなら私も自信がありますよ。どうリリン、私の切れ長な目もなかなかでしょ」
 こういう話となると必ず張り合おうとするバアルである。しかし実際本当に彼の切れ長の目もなかなかだ。
「うん! とってもセクシー! 鋭利なおめめも性的よバアル!」
 切れ長セクシーな目に見つめられて少女ご満悦。だが父親としては黙っていられない。
「待てお前、子供が性的とか言うんじゃないよー!!」
 そりゃもう悲鳴にも似た声を上げたくもなるというものである。
「やーね、リリはもう3歳よ大人よ。全く、おこちゃまな父を持つと苦労するのだわ」
「3歳はまず間違いなく子供ですッ!!」
 こればっかりはサタンの方が正しかった。
 さて、こうして談笑をしながら今日もこのままみんなで遊んでも良かったのだが一日リリンが居なかったことを寂しがっていたのはサタンだけでなく夫の独占を喜んでいたリリスも同じであり「やっぱ寂しかったみたいで会いたい会いたいって朝に発作起こしたぜ」と聞いては無理に引き止められない。リリン本人はもっとバアルやレヴァイアと遊んでいたいとのことだったが「でもママが寂しがってるんだよ?」とレヴァイアが言った途端に駄々をこねるのをピタリとやめて「じゃあ帰る」と頷いた。本当にリリンは幼いながらに気遣いの出来る子だ。
「バアル、レヴァイア、とっても楽しかったよ! ご飯も美味しかったです! どうもありがとう!」
 こうして親に言われなくともペコリと頭を下げてちゃんとお礼も言えるのだ。本当によく出来た子である。
「どう致しまして! またいつでも遊びにおいで。お泊りも大歓迎だよ」
 ヨシヨシと可愛いリリンの頭を撫でるレヴァイア。
「薔薇のお風呂にもまた一緒に入ろうね」
 バアルも一緒になってリリンの頭を撫でた。
「うん! 是非是非なのですよ!」
 嬉しそうに言いながらリリンは待たせていた父親の手を握った。
「なんだよリリン、薔薇の風呂って」
 大きな手で優しく娘の手を握りながらサタンが首を傾げる。
「おうちに帰ってから教えてあげるっ! あのね、凄く綺麗だったんだよ!」
 お土産話がいっぱい。是非母親と父親の二人に話を聞いて欲しいリリンなのだった。
「へえ〜、なんだろなあ。じゃ、バアル、レヴァイア、またな! リリンの世話してくれてどうもありがとよ!」
「いえいえ。お兄さんさえ良ければ何日でも預けてくれていいのよ」
 レヴァイアが言うと隣のバアルもウンウンと頷く。
「ええ。一日とは言わず一週間でも二週間でも一ヶ月でも一年でも」
「んなの冗談じゃねーやい!」
 言ってサタンはリリンのお泊りグッズを詰めたカバンを拾い上げるとバイバイと二人に手を振る娘を連れて音もなくその場から姿を消した。賑やかだった空気が一転、静かないつも通りの朝が訪れた。
「……バアル、物凄く正直な気持ちを言っていいか?」
 もう煙草を控える理由が無くなりましたとばかりに早速煙草を口に咥えながらレヴァイアがボソリ。
「どうぞ言ってください」
 頷くバアル。するとレヴァイアは煙を吐きついでにこれでもかというくらい大きな溜め息をついた。
「俺、スッッッッッゲー寂しいよ今……!!」
 予想通りの言葉である。
「っ私もだよレヴァ君……! なんだろう、なんて言ったらいいんだろうなこの喪失感は……! あぁぁぁぁ寂しい! 昨日スッゲー楽しかったマジ楽しかった! なんで帰っちゃったんだろうリリン!」
 それはもう、ずっと足元をチョロチョロしていてニコニコとはしゃいでいた可愛い少女がいなくなってしまった喪失感たるや尋常ではなかった。これにはレヴァイアはもちろん冷静沈着が売りのバアルも堪らず気が抜けてしまった……。
「なんか、俺らこんな調子でいざ将来リリンに彼氏なんか出来ちゃった日にゃどーなるんでしょおねぇ……」
 三人揃って血の気が引いて倒れてしまうんじゃないかとさえ思えちゃうレヴァイアである。
「いやあ〜、待て待て焦るなレヴァ君。まずそんな日は来るんでしょうか? だってあの父親がいて我々という兄がいる女の子に寄ってくる男なんています?」
 なんかこれはこれでちょっとリリンには可哀想な話ではあるが、実際問題あの父親を見て寄ってこれる男がこの世にいるのかどうかは大変怪しいところだ。
「さあねえ。でも目つきの悪い男が好きだってあの歳で言っちゃってんだから相当に気の強い男を捕まえるはずだぜ?」
「そんな男いますかねぇ……。自慢じゃないが我々は目つきの悪さも世界トップクラスですよ。貴方の目元が好きとか言っちゃうくらいだから相当に相当な目つきの悪さが必要とされるはず。…………いないよ、そんな男」
「あのぅ、俺ってそんなに愛嬌無い目ぇしてます?」
 バアルの言葉になんかちょっと不安になってしまったレヴァイアである。そこまでそこまでレヴァイアとしては自分の目つきが悪いつもりはないのだ、一応。
「目つき……目つき……。ん〜じゃあもうアレだ、なんつーかもうあの子は俺の嫁になるしかないな。俺って世界一目つき悪いし! リリンはあと僅か20年もすりゃいい女になるかも分からねぇ。イケる!」
「いやいやいや、無理でしょ。お父さんがツノをおっ立てながら交際に大反対する様が容易に想像出来ます……」
 はてさて、リリンの将来や如何に。気が早いことは分かっているが色々と今から心配してしまう二人なのだった。
 ちなみに。サタン、バアル、レヴァイアの三大魔王にも引けをとらない目付きの悪さを有したリリン好みの野性的な白髪の男が実際目の前に現れるのはもうちょっと先の話である。


END



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