【02:檻の中で光る赤い眼】
銀髪のポニーテールをぴょんぴょん跳ねさせながらルシフェルは一人、バアルに貰った地図を片手に魔界の荒れ地を歩いていた。
砂交じりの風。ひび割れた大地。真っ赤な月。赤い空。黒い雲。禍々しい景色だ。しかし生まれた頃からこの空の下で育ってきた彼女にはこれが当たり前の景色だった。むしろ今日は天気がいい。
「……結構遠いなあ。バアルの話からすれば城からそんなに遠くないって話だったのに。足痛い〜っ。やっぱりバアルに直接案内してもらうんだった!」
愚痴混じりの独り言をブツブツ溢すルシフェルだったが、目的地の入り口を見るなり堪らず黙り込んだ。
分厚い鉄の扉が、岩の間に挟まれて異常な空気を放っていたからだ。
「此処が、牢獄……」
魔界は自分の庭、と豪語する彼女だが、この辺りには一切足を踏み入れたことがない。何故なら、『危険』だからだ。全てはその一言に尽きる。父にも兄たちにも此処には近づかないよう口酸っぱく言われてきた。
此処は神の造った牢獄。扉の向こうには恐ろしく大きな洞窟が広がり、底が無いと思えるほどの長い長い階段がある。その階段を降りきると罪人を閉じ込めるための鉄格子に覆われた小部屋が無数にあるとの話だ。
ルシフェルは意を決し、分厚い鉄の扉に手をかけた。すると扉はその重厚な見た目とは裏腹に少女の細腕でも容易に開くことが出来た。まるで、女帝の来訪を歓迎するかのように。
一歩、中へ踏み込むとそこは光の一切差さない場所だった。蝋燭の薄明かりだけを頼りに歩かなければならないと話には聞いていたが、想像以上に足元が危なそうだ。
――一体、どこまで続くんだ、この階段。
厚底サンダルを履いてきたことに後悔しつつ、炎を自在に操れるルシフェルは己の手の平に紫色に揺らめく火を灯し、その薄明かりに照らされた階段を跳ねるように降りていった。
此処に投獄されている罪人は、実際それほど大した罪は犯していないという。彼らの罪は行動の大小を問わずただ神様を不機嫌にさせただけ。ただそれだけでこんな永劫の責め苦を負わされているのだから可哀相だ。可哀想どころの話ではない。理不尽だ。
ついでに此処には薄汚れた銀色の全身鎧を着た見張りが数人働いている。が、大した仕事はしていないらしい。せいぜいただ牢の中からやかましく叫んでいる罪人を鉄格子の間から槍で刺して黙らせる程度……。この見張りも見張りとは名ばかりに罪人同然だ。神を不快な気分にさせたがゆえにこんな面白くもないところへ送り込まれ、重たい鎧をむりやり着せられ永劫働かされている。
とどのつまり此処は、神様の作った『ゴミ箱』だ。目障りに思った人々を放り込む大きな大きなゴミ箱なのである。
こんな事情だ、皆さぞかし荒んだ目をしているだろうと思われた。
しかし、まず顔を合わせた見張りたちはルシフェルの姿を見るなり揃いも揃って悲痛さなど微塵も感じさせないような笑顔で「いらっしゃい!」と声を上げ近寄ってきた。
ゲラゲラと笑いながら雑談に興じていた罪人たちも言葉を失い、鉄格子から懸命に顔を出してルシフェルの姿に見入った。「本当に来た」「本物だ」という呟きがそこかしこから溢れる。
どうやら見張りも罪人も千年に一度あるかないかの大物登場に嬉しさと驚きを隠せないようだ。長い階段を歩きヘトヘトに疲れていたルシフェルはこの笑顔に少し安心した。
「出迎え、ありがとうさん!」
そりゃあもう、歓迎されて嬉しくないわけがないルシフェルである。はてしかし牢獄の彼らは初めて女帝の顔を見たはずだが、名乗るまでもなく誰もがルシフェルを女帝と分かってくれた。それはルシフェルの他に類を見ない右は桃色、左は水色という特徴的なオッドアイのお陰か、それとも持ち前の女帝としての風格によるものかは分からない。ルシフェル本人も特にそこを追求する気は無い。ついでに話が早いにも程があるが、罪人も見張りもルシフェルが何をしに来たのか既に察していたようだ。
ルシフェルが此処へ来た理由は他でもない、罪人の『解放』である。
神の呪いを色濃く受けている彼らに助かる術はない。しかし何千年かに一度だけこの牢獄の呪縛が弱まる時がある。その時、魔界の皇帝が罪人たちの中からたった一人だけこの場所から『解放』をしてやれるのだ。
ちょうど父サタンが亡くなってすぐにこの時がやってきたため、両親を亡くし酷く寂しさを感じていたルシフェルは誰か手頃な人材がいたら子分に引き抜いてやろうと考え此処にやってきたのである。
此処の罪人たちは神の呪いを受けたために不死となった身体と責め苦に耐え続ける強靭な精神を持っている。そして神に対する激しい『憎悪』をも胸に秘めている。それでいて『解放』したことによる弱みを握ってホイホイこき使えそうだというお得な条件付き。これほど仲間へ引き入れるに適した者はいない。
しかしルシフェルの望むような罪人はなかなか見つからなかった。
みんながみんな、媚を売るような目で女帝を見る。ただ自由が欲しさに女帝へ哀願するような者ばかり。
これでは、使えない。
ちなみにルックスにおいてもルシフェルの好みに引っ掛かる者はいなかった。側に置くのだから美形でなければ! というのが何よりの本音である。
要するに、なんだかんだ条件をつけても全ては、そこだった。
ルシフェルは何が無くとも自分に忠誠を誓ってくれるイケメンを我が家に一人置いておきたかったのである。だが、此処にいるのはどーにもムサい男ばかり……。まあ長い年月こんな所に入れられているのだ。見た目を気遣うヤツなんている方が珍しい……というか、整えようがないのだから仕様が無いかもしれない。
(あ〜あ、あてが外れたかな〜……)
そう思った時である。ルシフェルは牢獄の一番奥に、いかにも大罪を犯したヤツがいますよ、と、言っているような鉄の分厚い扉を見つけた。
「ここは?」
「ああ、此処には人類最初の人殺しをした超ド級の罪人がいるんですよ。最初に此処へ来たのもコイツ。あ、ちなみに男ですよ男」
見張りの一人が得意気に説明してくれた。
「超ド級の罪人かー」
この中にいるのは大物かもしれない。いや、間違いなく大物だ。超ド級なんて言ってしまう見張りの説明が確かならば。
ルシフェルは早速この扉を開けてくれと見張りの男たちに頼んだ。中にはどんな男がいるのだろう、胸が躍る。
重い鉄の扉を見張りが数人でこじ開け始めた。酷く軋んだ音が牢獄全体に響き渡る。もう何年も開けていない扉のようだ。
人類最初の人殺し、ということは、この中にいるのは『人間』だ。
待てよ、人間? 人間だって?
ルシフェルは改めて牢獄を見渡した。
……やっぱりだ。此処にいるのは堕天することも叶わなかった元・天使ばかり。どれだけくたびれていても、たとえ背中の羽を剥がされていても彼らの姿には天使の名残がある。それくらいの見分けはつく。と、いうことは、この扉の向こうにいるのは唯一の『人間』。わざわざ神が牢獄に閉じ込める程のことをした『人間』、尚且つ最初に投獄された罪人というからには後から適当に投獄された天使と違って『本気で神の怒りを買った人間』ということだ。
「ルシフェル様! 開きました! さあ、どうぞ」
見張りの声にルシフェルは視線を戻し、扉の向こうに一歩、足を踏み入れた。
部屋に充満した古い血と汗と脂の臭い……。あまりの腐臭に思わず顔をしかめ、そして、……ルシフェルは息を飲んだ。
扉の先、真っ暗な部屋の奥深く、そこには重そうな手錠と足枷をはめられボロ布一枚を纏っただけの男が静かに床へ座り込んでいた。
見るからに痛々しい乱れた白髪、汚らしく伸びた白い不精髭に覆われた顔、肉と皮だけ、皺くちゃの弱りきった身体……。他の罪人とは比較にならない程に惨たらしい姿の、しっかり生きてるのかどうかも分らないような男を目の前に、若干13歳の女帝は暫く言葉を失った。
しかし、黙って見ているだけでは始まらない。
「おい! アンタ!」
意を決しルシフェルは大声で呼びかけ、男の反応を待った。とりあえず彼がどんな男か知りたかった。これで「アーアーウーウー」と唸り声しか返さないようでは、可哀想だが使えない。
(さあ、なんとか言いなさいよ)
ルシフェルが見守る中、少し間を空けたのちに男は無言のままゆっくりと顔を上げた。
「っ…………」
男の表情を見てルシフェルは再び言葉を失った。
(この男、目が……死んでない……!)
底の深い、燃えるような赤い色をした男の目からルシフェルは不思議とそのまま視線が動かせなくなった。
薄暗い牢獄の中、凛と光る真っ赤な瞳……。ルシフェルには想像の域でしかないが、永劫の責め苦を与えられた状況にあってこれほどの鋭利な目を持ち続けることは容易ではないはず。
唯一投獄されている人間だ、最初から只者でないとは思っていた。しかし、予想以上だ。何が予想以上かと聞かれたら上手くは答えられない。が、とにかく彼はルシフェルの予想を超えていた。
部屋に充満した腐臭、真っ白な髪、細く弱り切った身体、しかしそれでも彼の赤い目は凛と光って女帝を射抜く。
どれだけ無言のままに見つめ合っただろう。実際はほんの数秒だろうが、ルシフェルにはこの時間がとても長く感じられた。
射るような目を向ける男は特に騒ぐでもなくルシフェルを無言でただただ、じっと見据えたまま。いい目だ。ボサボサに伸びた髪と斑な不精髭で顔がよく分らないが、目を見るかぎりこの男……、元は結構な美男子だったに違いない。
(これは、もしかして……私好みの男!?)
ルシフェルは、さり気なく心の中で拳を握った。瞬間、浮かれた心を見透かしたようなタイミングで「うるせぇな。何か用か」と男はルシフェルの想像以上に低く透き通った声でハッキリと喋った。
「は?」
荒っぽい口調と弱々しい姿のギャップがあまりにも激しく、ルシフェルは一瞬誰が喋ったの分らなかった。それゆえ咄嗟に隣の見張りが喋ったのかと思いギロッと睨んだが相手が「違います、違います〜!」と慌てて手をパタパタ振ったので再び男に視線を戻す。
「アンタが喋ったのか! うるさいとはなんだよ、うるさいとは!」
……これに対する返事はない。男はそんなことより用事はなんだ、という目でルシフェルを見つめている。なんとも無礼なヤツである。しかしとりあえず話をしてみようとルシフェルは気を取り直した。
「はいはい、用件言うわよ言いますよ。え〜と、アンタは此処から出たい?」
雑談をする必要もないだろう。ルシフェルは単刀直入に聞いた。すると男は「ああ」と、さもダルそうに答えた。
「此処から出たくないヤツなんかいたら是非握手してもらいたいね……」
そして自嘲するように鼻で笑う。
「お嬢ちゃんさあ、今の言葉もっと大声で言ってみたら? そしたら外にいるヤツら揃いも揃って出してくれーって手を上げると思うぜ。で、テメーは誰を選ぶんだ? 無意味な質問すんじゃねーよ、選択権はお前にあるんだろ」
――――気に入った。
こんな牢獄に延々と閉じ込められ続けているというのに、この態度。なかなか出来るものではない。
(よし、コイツにしよう)
ルシフェルはあっさりと決心を固めた。他に良さそうなヤツいないしコイツでいいかという軽いノリである。
「そうでしたそうでした。まあいいや。アンタに決めた! 此処からアタシがアンタを解放してあげるよ。そのかわり……」
ルシフェルは言葉途中で虚を突かれたように声を詰まらせた。普通の罪人なら泣いて喜んで飛び跳ねることだというのに、この男はただ静かに頷いただけ。この反応……。コイツはやっぱり大物だとルシフェルは確信した。
「そのかわり……、なんだ?」
早く言えよとばかりに男が女帝を睨む。
女帝である自分にこんなデカい口を叩き、尚且つガンを飛ばす……。コイツは面白い。ルシフェルは言葉を続けた。
「今からずっと私に仕えると、ずっと傍にいると誓って。それが嫌ならこのまま牢獄にいるんだね」
言い切ってルシフェルは腰に手を当て顎を引き、「私は偉いんだぞ女帝なんだぞ」と身体で表現した。
その態度のせいか条件に悩んだのかは分からないが「なんだそりゃっ」と男は意表を突かれたように少しだけ顔を崩し、僅かに考え込んだ。だが、彼の答えはすぐに出た。
「いいぜ。仕えてやる」
確かな決意を秘めた言葉。
「そう。ありがと! じゃあ決定!」
気負いも迷いも伺えない声色。これは、信用出来る。
言うが早いかルシフェルは左耳に付けた目の形を象っている奇怪なピアスを外し、全ての力を解放した。とても力を封印したままでこの強力な呪縛は解けない。
いつものことだが、力を解放した途端にゴキゴキと骨が軋んで身体が変化していくのが自分でも分かる。まだ、慣れない。父サタンが死に際にくれた目の形をしたこのピアスが両親を食らい異常に膨れ上がってしまったルシフェルの力を抑える大切なアイテムなのである。一体どうしてこの奇妙なピアスにそんな効果があるのか分からないが、あまり気にしていない。気にしたところで分からないからである。
未だコレを外した時の自分の姿に慣れないため、普段ルシフェルはお気に入りでもないのに四六時中このピアス身につけなければならないのだった。
「はい、釈放ー!」
力の解放を終えたルシフェルは渾身の力を込めて右手から光りの刃を放ち、男の鎖を断ち切った。一瞬、普通の少女からいきなり頭に角が生え髪も腰まで伸びて鬼のような姿に変わった女帝に驚き目を見開いた男だったが鎖が断ち切られたと分かると何事もなかったようにゆっくりと立ち上がった。
「うお……っ、久しぶりに立ち上がったから立ち眩みがするわ……。あ、ちょっとアンタ、髭剃り貸してくんね?」
……はい? と、ルシフェルは疑問符を浮かべて首を傾げた。解放後の第一声がそんなものなのか!? と。普通ならもうちょっと歓喜していいはずだ、そうでなくても女帝ありがとう感謝しますと頭を下げるくらいしてもいい、それなのに……。
固まっている女帝に向かって男は早くしろよとばかりに差し出した手の平をヒラヒラと振って催促した。
「髭剃り〜。なんでもいいから剃れそうなもの貸してくれって」
(コイツ、恩人に向かっていきなり何を言う!?)
思わぬ態度に少しムッとなったが素直に内ポケットから短剣を手渡した。滅多に使わないので切れ味は鋭い。男の素顔が気になるし白ヒゲ男なんかを連れて帰る……あまり美しい図ではない。これでも一応、髭くらい剃れるだろう。少し肉も削げると思うが。
「これじゃ肉ごと剃れちまう気がすんだけど。まあいっか」
ブツブツ言いながら男は伸びきった髪や髭をザクザク大雑把に切り出した。
肉ごと剃れそうとはまあ、最もなグチだが……
(私のお気に入りの短刀にケチつけるとは!)
ルシフェルはキーッと歯を食いしばった。隣では男のあまりの無礼さに見張りたちもワナワナ震えている。
「終わった。スッキリした」
それだけ言って男は一応気遣ったらしく付着したヒゲを手でパッパと払い落としてから短剣を放り返してきた。意外と器用みたいだ、こんな鋭い刃物で髭を剃ったというのに彼は怪我一つしていない。
しかし困った。周辺の蝋燭が燃え尽きてしまった……。暗くて肝心な男の素顔が見えない。
「あ、ちょっと待っててください」
気持ちが通じたのか見張りの一人が慌てて持っていた蝋燭に火をつけ始めた。シュッシュッとマッチを擦る音がシンと静まった空間に響く。
(あ、そうだ。まだ彼の名前を聞いてない。アタシは……名乗らないでも分かるか)
ルシフェルは頭の中で独り言をブツブツ呟いた。私は女帝、こんな牢獄の住人たちでも一目で気付くくらいに既に知れ渡った存在だと。
そんな自信満々の女帝に男が声をかけた。
「まだ名前言ってなかったな。俺の名はカイン。かの有名な人類最初の人殺しだ、よろしく」
カイン……、有名と自称するだけあってその名はルシフェルも聞いたことがあった。遥か昔に誕生した最初の人間であり人類最初の人殺し……。肩書きだけではピンとこなかったが名前を聞いて全て合点がいった。
(コイツ、やっぱ本当に大物だったんだ!)
ルシフェルが男を見上げた瞬間、見張りが蝋燭の火を掲げた。
浮かび上がった男の顔を見て、思わず微笑んでしまった自分にルシフェルは気付いただろうか。
頬はこけ身体は痩せ細って骨ばっているが男が期待以上の容姿をしていたことにルシフェルは自分の人選びの上手さを痛感した。ズバリ、好みの容姿だったのだ。
(やった、大当たりのイケメンだ!!)
痩せ細っているが、深い二重まぶたに少しつり上がった鋭利な眼や筋の通った鼻、凛とした口元……、うむ、完璧である。
一方こっそりウハウハ気分のルシフェルを他所にカインは「俺は今から女帝の側近になったんだぞ。布一丁じゃひもじいから服寄こせ、服」と、急に態度をデカくして見張りの男らにあれこれと命令していた。
またワナワナと震える見張りたちだが立場逆転されたのも事実なので素直に従う……。なんとも、可哀相な図である。
そしてカインは次にルシフェルに向かってこう言った。
「ところで、お前……、誰? 名乗れよ」
それはニヤケていたルシフェルの顔を強張らせるに充分な言葉だった。
(ええ!? 貴方、この魔界の最高権力者を知らないのですか!? 他の罪人が知ってて何故コイツだけ……。そうか、一人だけこんな鉄の扉の中に閉じ込められていたんだものね……。外を知らなくて当然か……)
そう寛大な心を持って許そうとした彼女にカインはトドメを刺した。
「どこのガキだよ、お前」
「あ……あはははは!」
ルシフェルは怒りを通り越して大声で笑い出だした。生まれて初めて投げつけられた無礼な言葉に笑うしかなかったのだ。
そう、この日ルシフェルは真っ暗な地の底で白髪、赤い目をした長身の男に会った。自分の軽いノリと気紛れがくれた贈り物。それがカインとの出会いだった。
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