【07:荒地へ置いてきたもの】


 ルシフェルが部屋に帰ってからも一人でしばらくお菓子をつまんでのんびりしていたが、「座り続けているのもダルいな……。部屋に帰るか……」と、いよいよ退屈を覚えてカインは立ち上がった。もう寝よう、そうしよう。
 廊下に出ると冷たい風がスッと通り抜けて肌を刺した。どうにも魔界は昼と夜の気温の差が激しい。ここ魔界は一日中ずっと月しか見えないせいで昼も夜もないような世界だが、なんだかんだで一応は朝も昼も夜もある。けれども牢獄は、いつも夜だった。真っ暗な、夜だった。
 外に出たばかりで世界のことがよく分からないカインはボ〜ッと「昼ってなんだ夜ってなんだ、人間界の空の色は何色だったっけ」と考えながら早足に部屋に向かった。肌をさすりながら長い廊下に足音を響かせ歩く。黒の長袖、長ズボンの彼でもこの気温は寒いと感じる。と、なると、あんな薄着だったルシフェルはかなり寒かったろうな。などと思っているうちに部屋についた。
「……ん?」
 ドアを開けようとノブに手を伸ばすと同時にルシフェルの部屋のドアが音を殺してゆっくりと開いた。
「あの〜〜さ〜〜……」
 小さく開いたドアの間からルシフェルが申し訳なさそうにヒョコッと顔を出す。
「……眠れないのか?」
「うん……。なんか今夜は全然ダメだ……」
 今日は、そういえば外出しないで彼女はずっと室内にいた。身体をあまり動かさなかったことが寝苦しさの原因だろうか。カインはふぅと溜め息をつき、ドアを開ける手を止めた。
「それで?」
「ああ、あのー、この長〜い夜に付き合ってもらえないかな〜?」
 ニヒヒッと申し訳なさそうに笑みを浮かべる彼女を見ながらカインは「子守も大変だ……」と呟いた。
「今、なんて言った?」
「え? いや、別に」
 騒がれるのは面倒なので軽く誤魔化し、カインはルシフェルの部屋に入った。
「とりあえずお前は寝っ転がっとけ。そのうち眠くなるだろうよ」
 カインの指示に従い、ルシフェルは素直にベッドの中へスルッと潜り込む。
「ダメなんだよ〜。今日は睡魔君が面倒くさがってアタシんトコ来てくれないの」
 彼女の言葉を聞きながら、カインは寝転がっているルシフェルを潰さないよう浅くベッドに腰掛けた。
「じゃあ、かなり昔の思い出話でもしてやろうか?」
「待ってました! あっ……でも痛いのは眠れなくなるからやめてよ」
 はいはいと頷き、カインは幼少の頃に見た光景を思い浮かべ話を始めた。

 ――それは、彼の古い古い記憶だった。

 見渡す限り水気の無い干乾びた大地、その所々には力なく生えている木々、草花。頭上に広がる空に色は無い。白でも青でも黒でもない、本当にこの空には『色が無かった』のだ。そんな不可思議な景色がカインの記憶の始まりだった。
 赤ん坊だった頃の記憶は一切無い。父と母の顔も知らない。気付けば自分の存在が此処にあった。
 その姿は年齢で言えば既に十二歳くらいといったところだろうか。一体いつ育ったのか。それとも生まれた時から自分はこの姿だったのか。知る術は何もない。
 傍にはカインより僅かに幼い十歳くらいの少年の姿。彼が『弟』であると誰から教わったわけではないが、しかし疑う余地もなく彼は『自分の弟』なのだとカインは知っていた。何故かは分からない。しかし、そうなのだから仕方がない。彼もまた誰から教わったわけでもないのにカインは自分の『兄』だと知っている。だから自分たちは兄弟なのだ。誰に言われたわけではないが兄弟なのだ。
「兄さん、とりあえずお腹空いたね」
 少年はカインを見上げて食べ物の催促をした。が、周りには口に入れても良さそうなものは何も無い。
 カインは溜め息をついた。
「そんなこと言ったって……、食べ物なんか何処にあるんだよ」
 荒い口調は相変わらずなものの、今のように喧嘩腰な喋りではない。
 お腹が空いた。……待て、空腹とはなんだ。何故自分はお腹が空いているんだ、お腹が空くとはなんだ。しかしこの餓えと渇きが『空腹』というものだと知っている、誰に言われたわけでもないのにだ。嗚呼、空いている。確かにお腹が空いている。何か食べたい。
 そして、何かないかと荒れ地を徘徊していたその時だった。目の前に突然、勢い良く大地を引き裂いて大きな木が生えてきたのだ。
 恐ろしい早さでその木は熟し、実をつけた。甘い匂いの漂う赤い実。二人はその光景をポカンと口を開けてただただ眺めていた。
 後から知ったことだ。天上から神が二人の様子を観察し、その過程で『生きていくには何が必要か』を知り、色々なものを順に創造していたことを。今まさに神は二人が食べ物を求めたがゆえに早速、実のなる木を創造したのである。
 しかしそんな事情など知る由もない少年二人は突然目の前に現れた木に戸惑った。
「コレ……食えるのか? 怪しいな……って、オイ!」
 カインが安全性を考えていた最中、弟は勇敢なのか無謀なのか「大丈夫だよ」と笑って早速実を取ってかじりついた。
「美味しい! コレ、いけるよ兄さん!」
 美味い美味いとそのまま実を美味しそうにかじる弟を見て「しょーがないヤツだ……」と肩を落としつつ、しかしカインは「コイツがいてくれて良かった。一人じゃなくて良かった」と感じていた。何故そう感じたのか、理由は分からない。分からないことだらけだ。だが、感じた。なんのあてもない世界に一人ぼっちじゃない。それはとても心強いことなのだと確かに感じた。
「美味いなら結構。俺も食ってみるかな」
 大丈夫と言い切る弟を信用してカインも実を取り、かじりついてみた。
 甘酸っぱい味が口の中に広がる。何故この味を『甘酸っぱい』と思ったのかは分からない。だが、思ったのだから仕方がない。
 言い訳ばかりだ。しかし、やはり仕方がないことだった。カインたちには何もかもが手探りだったのだ。創りかけの世界に二人ぼっち、目で見るもの、手で触れるもの全てが未知の塊。仕方がないと言って全てを受け入れていくしかなかった。
「へえ、美味いじゃん、コレ」
 カインが言うと「そうでしょ〜」と弟はほら見ろ言ったとおりだと胸を張った。

 ――そうして時は過ぎていった。

 数年が経ち、あの幼かった二人の兄弟も青年の一歩手前というところまで成長した。カインに至っては声変わりが始まり少し低めの声を出すようになっていた。だが弟はまだ女の子のような澄んだ声を発していた。それがカインを不安にさせた。何故、自分だけ喉の調子がおかしいのかと。
「俺、最近、喉の調子が、オカシイんだ……。声が上手く出せなくて……。お前は、なんともないみたいだな?」
 声変わりというものを知らなかったカインは「どうしたんだろ」と戸惑い、喉を押さえて咳き込んだ。
「病気かもしれないね。気をつけてよ?」
 弟が心配そうにカインの顔を覗く。
 でも、『病気』って、なんだ?
 また分からない言葉が出てきたとカインが首を傾げたその時、のんびり木陰に座っていた二人の前に突然大きな黒い鳥が姿を現した。不気味な鳴き声を上げ、明らかにこちらへ敵意を持っているような仕草をする。背丈だけでカインより一回り以上は大きい鳥だ。羽を広げれば尚更大きい。鳥が羽ばたく度に木の葉がバサバサと舞う。
「な、なんだコイツ!? うわああああ恐いよー!」
 弟は慌てふためいてカインの後ろに隠れた。
 一方、弟の盾にされたカインは短剣を素早く身構え、呑気なことを考えていた。
(神のヤツ、今度はこんなもん創ったのか……。ってコトは、コイツ食えるのかな?)
 食えるとしたらどんな味がするのかと想像を膨らました直後、鳥が甲高い声を発してカインに飛び掛った。が、彼は弟を庇いつつ軽く飛び退いてその一撃をかわすとすぐさま身を翻して短剣を振り降ろし、鳥の首を一撃で切り落とした。
 ボトボトと大粒の血を滴らせながら鳥の身体が地に落ちる。
 首を失ったというのに鳥は暫くバタバタと羽を振り回し足掻いた。……だが、やがて静かに地面に沈んだ。死んだのだ。
 ふぅと深く息を吐き、カインは鳥の死体に近付いた。今日は風が強い。カインの黒髪が揺れに揺れる。
「な〜んか不味そうな肉の色だな。こりゃ食うのはやめた方が良さそうだ」
 なんてことないなとばかりに言うカインに弟は尊敬の眼差しを向けた。
「凄いや強いや兄さん!」
「ふっふ〜ん。当ったり前だろ! こんな鳥如きに負ける俺じゃねーよ!」
 本人も少しその気でいた。と、いうか、勝気でいるしかなかった。弟は未知な食べ物に関しては勇敢だが、こういう血なまぐさいことに関しては全くもってダメなのだ。そこはカインが身体を張って補うしかなかった。
「しかし風が強いな、今日は……」
「そうだねえ」
 黒髪の兄と違い、弟は日の光に透けるような綺麗な金色の髪をしていた。その肩まで伸びた綺麗な髪がボサボサと風になびいて弟は少し鬱陶しそうな仕草をした。と、いうか、今日に限らずいつもいつも欝陶しそうだ。しかしカインが「切ってやろうか」と言っても彼は首を横に振る。断る理由は「刃物が恐い、近付けたくない」だった。
 今日もあまりに欝陶しそうだったので「切ってやろうか」と提案したが、やはり弟は首を横に振った。
「お前は本当に気が弱いな」
 呟いてカインは弟の頭を撫でくり回した。
「なんだよ〜」
 やめてくれよと逃げ惑いつつ、しかし優しい兄の手のひらに撫でくられることは弟にとって何より嬉しいものであるようだった。その笑顔が証である。

 ゆっくりと過ぎていく時間。今日はいつもより風が強い。ただそれだけの、いつもと何も変わらない一日であるはずだった。

 二人は再び木陰に入った。いつものようにそのまま昼寝でもしたいところだが今日は風もあって少し肌寒い。
 カインは腕を擦りながら景色に目をやった。一部の大地にはようやく緑が茂った、だが少し離れるとすぐに荒地が広がる。空は青色、雲は白。目線を戻して脇を見るとそこにはよく分からない沢山の木々。不味い実のなる木や甘い実のなる木、花しか咲かない木……。その向こうには太い川があり、説明のつかない形をした生き物がいっぱい泳いでいる。
 ちぐはぐな世界だった。
 二人の幼い兄弟と共にこの世界も育った、だが、まだまだ未熟。何が必要で何が要らないのか分からない、それが誕生して間もない人間界の姿だった。
「次は何が出てくるんだろうな?」
 昼寝し難いお日和。カインは弟に何気ない話を振った。
「さあ。なんにせよ今みたいな鳥とか、ちょっと前に出てきた牙の生えてる四つん這いの生き物とか、そういうのはもう遠慮したいな。恐いもん」
「あれさ、なんのために創造したんだろな? まさか俺たちを殺したいわけじゃねーよな?」
「えー!? ……いや、それは無い! 大丈夫! だってみんな兄さんより弱いもん! あ、分かった。ひょっとしたらひょっとして本当に僕らが食べず嫌いしてるだけで彼らは新しい食糧なのかもしれないよ」
「よし、じゃあ味見係はお前な」
「え!? ヤダよ、たまには兄さんが味見やってよ!! …………あれ? 天使様だ」
 お互いに顔を見て笑い合い会話を楽しんでいた最中、長い金髪を揺らし真っ白な服を身体に纏って輝く羽根を広げた女顔の男……と、当時は思っていた大天使ラファエルが空から光と共に二人の目の前に降りてきた。カインが大天使ラファエルを男でも女でもない無性の者と知ったのは牢獄に入ってからのことだ。
 それはともかく今日はなんの用だろう。神と人間界の橋渡し役を担っていたラファエルには何度か会ったことがある為、二人は彼の登場に大して驚かなかった。自分たちが『人間』であること、未完成な世界にいること、それら全てを教えてくれたのは他ならぬこの天使。それゆえ、信頼していた。
「やあ、ラファエル。何か用? それともまた暇潰しで遊びに来た?」
「前者ですよ、今日はしっかりと天使らしい用事で此処に来ました。……そちらの弟くんを神がお呼びなのです」
 カインの問いにラファエルは男とも女ともつかぬ透き通った声で丁重に語り、弟へ目を向けた。
「コイツを? なんで?」
 人見知りをする弟の代わりにカインが聞く。
「はて、私は詳しいことを聞かされていないのでなんとも。とにかく弟くんを呼んでるんです、二人きりで話したいことがあると言ってね。さあ、私と一緒に天界に来てください」
 まるで幼子を諭すかのように背の高いラファエルがゆっくりと身を屈め、弟と目線の位置を合わせ微笑む。緊張にこわばる弟を安心させようとしてのことだろう。しかし急に一人だけ神から呼び出しを受け「はい分かりました」とは、なかなか言えない。
「え……? えっと……」
 案の定、小心者の弟は戸惑って、どうしたらいいものかとカインを見やった。
 普段カインに頼りっきりの弟は単独行動を極端に嫌がる。大袈裟でなく一人で用を足すのも怖がる。ゆえに用を足す時は必ずカインが側で見ててやらなければ駄目なのだ。そんな彼にとって一人で何もかも未知数な神の元へ行くなど言語道断の域。その心細さたるやどうにも言い表せない程だろう。
「兄さんも一緒……は、ダメなんですか?」
「はい。貴方だけを神はお呼びなのです。分かってもらえますか?」
「……でも……」
 弟は渋った。神のお呼び出しだろうとなんだろうと頷けるはずがなかった。一人で何処かに行くのは、恐い。どうして神が自分だけを呼んでいるのかも分からない、恐い……と。
「僕……、兄さんと一緒じゃなきゃ、嫌です……」
 それは風に消え入りそうな程に小さな声だった。だが、しっかりとカインは聞き取った。同じくラファエルも聞き取ったのだろう、二人で顔を見合わせてしまった。「どうにかしてくれないか」とラファエルの目が無言で訴えている。仕方がない。カインは口を挟むことにした。
「いいじゃないか、天界っつーと美味いモンがいっぱいありそうだ。お前、神様に招待されてるんだぜ? 何か美味いモン色々と食わせてもらえるかもしんねーよ?」
「え? でも……」
「大丈夫だって。天使君も一緒なことだし。お呼ばれついでに天界ってとこ見て来いよ。な? 俺ならちゃんと泣かずに大人しくお留守番出来るし。お土産よろしく!」
「天使君って私のことですか?」
 ラファエルが目を丸くしてパチパチと瞬きをする。天使君などと軽く呼ばれたのは初めてだったのだろうか。いや、ひょっとしたらそうして少しおどけることで弟の緊張を和らげようとしたのかも分からない。何せこの天使は気まぐれだ。
「……分かり、ました……。兄さんが言うなら……行きます」
 弟がようやく渋々ながら頷く。万事解決。ラファエルはカインに「ありがとう」とこっそり会釈した。
「じゃ、俺ここで待ってるから。早めに帰してやってくれよな」
「分かりました。さあ、行きましょう」
 ラファエルは弟の手を握ると、眩い光を放ちながら弟を連れて音もなくその場から姿を消した。

 それから、何時間が経っただろうか……。

 日が落ち始めていた。青かった空の色が赤いインクと黄色いインクをグチャグチャに混ぜたような色へと変わっていく。カインは眠気を覚えて目を擦りながら「早めに帰せって言ったのによぉ……。天使君のアホが……」と、憎まれ口をボソボソ叩いた。
 天使のクセに約束を破っていいのか、いや、いいわけがない。
 一人きりは落ち着かなかった。肩を叩いて天界に送り出したものの、やはり心配だった。弟は自分から離れたことがない。心配だ。まさか何か失礼を働いたのではないか、それで説教とかされちゃったりして帰りがこんな遅くなっているんじゃないだろうか。それとも天使君の目を盗んで散歩に出掛け、そのまま迷子になってしまったとか……。
 色んな想像が巡る。それもこれも天使君のアホが弟を早く帰してくれないからだ。
 よし、天使だろうとなんだろうと戻ってきたら絶対に文句を言ってやろう、そう決意を固めた時だった。前方から、虚ろな顔をした弟が俯き加減にゆっくりとカインの方に歩いてきたのが見えたのである。
 どうしたことだろう。様子がおかしい。カインはすぐさま駆け寄った。
「おい、どうした? 何があった?」
 ただならぬ様子にカインは虚ろな弟の肩を掴んで語気を強めた。
 いつも朗らかに笑っている弟が、こんなにも思い詰めた顔をしている。初めて見たその表情と荒んだ目の色にカインは何か大変なことが起こったのだと察した。何かが彼の身に起こったのだと。
 しかし「何があった?」と理由を聞けども聞けども弟は俯いたまま何も語ろうとはしなかった。しかし何度もカインに肩を揺さ振られるうち僅かに自我を取り戻したのか顔を上げ、「殺して……」と、呟いた。
「僕を……殺して!!」

 ――殺して、だと?

 耳を疑うとは、恐らくこういうことを言うのだろう。
「は、はぁ!? なに言ってんだよ!?」
 突然涙を溢し始める弟。カインは、戸惑った。まさか弟の口から出るとは思ってもみなかった言葉と、見ることなど無いと思っていた弟の涙を前に戸惑うしかなかった。
「おい、お前、何があったんだよ……」
 そう聞き返すのが精一杯だった。殺して、という弟の悲痛な言葉が頭の中で反響する。しかし、駄目だ、自分まで慌ててしまっては。きっと弟は今、酷く混乱している。ならば、自分がしっかりしなければならない。兄として、しっかりしなければ。
 カインが再三なだめるうち、弟はやっと正気を取り戻し天界でのことを語り始めた。
 聞くと、神は弟が大変優秀な人間に育ったことを至極喜んだそうだ。草木を愛し、カインと違い殺傷を行うこともなかった。そして神は言った、「私の元へ来い」と……。しかし弟はそれを嫌がった。神の元へ行く……そんなこと嬉しいわけがない。自分は兄と一緒にいたい。それに、神の言葉にはきっと何か企みがある。絶対に企みがあるはずだ。だが、その絶対に根拠はない、ただの直感である。しかし無理もない、今までのことを考えても自分たちはただの試作品のような扱いを受けてきたのだ。唐突に天界へ来いと言われても弟は素直に頷けなかった。頷きたく、なかった。
「神様に……嫌だって言ったら……、兄さんを殺すって……。アイツに、たぶらかされて嫌がっているんだろうって……、言われた……!」
 カインは、言葉が出なかった。ただ弟の話を聞くことしか出来なかった。たぶらかすとは、なんだ。俺を殺すって、なんだ。一体、今、自分たちに何が起こっているんだ。カインには状況が上手く呑み込めなかった。
 自分たちはただ、与えられた世界で生きていただけだ。何も悪いことなどしていない。
「兄さんが殺されるなら、僕が死んだ方がいい……。でも、僕は自分で自分を殺す勇気がないんだ……。兄さん、僕は、僕が天界に行くのも兄さんが死ぬのも嫌だ……。だから、僕を殺して!! 僕は死ぬべきなんだ!!」
「そんなことあるか! お前の方が優れているなら生きるのはお前だ! 俺じゃない!!」
 ようやく言葉の出たカインだったが、弟はその言葉に同意しなかった。
「いいや、僕じゃない。僕なんかじゃない。お願い、殺して……。僕のワガママを聞いて……!」
 昔からそうだった。弟は一度本気で決めたことは曲げない。普段はカインの言いなりな彼だが、よく分からない部分で急に頑固になることは前々からよくあった。現に暫く「俺だ」「いや違う」の押し問答を続けたが、弟は一切折れる気配がない。

 日が、今にも落ちようとしていた。

 赤いインクと黄色いインクをグチャグチャに混ぜたような空に紫色のインクが混ざり始める。
 カインは地平線に落ちていく太陽を見つめ、道は変えられないと悟り、説得を諦めた。夜になれば太陽は沈み、月が顔を出す。それはカインには到底操れない自然の理。世界には絶対に変えられないものが存在する。
 ふと、虚しさを覚えた。
 何故こんなにも自分は必死になっているのだろう。自分たちはただ世界の様子見に創られた試験的な命である。そう、そもそもが神にいつの間にか創られた適当な命。
 カインは無鉄砲な自分の行動を振り返った。何故自分はいつも無茶を出来たのか。何故、どんな怪物が目の前に現れても恐怖しなかったのか。
 ――簡単だ。自分が、どうでもいい存在だと知っていたからだ。
 反対に弟はいつも怪物に怯えていた。何故? ……答えは簡単だ。兄と共にこの世界に生きていたかったからだ。兄と共にいることが彼の全てであり、生に執着する唯一の理由だった。
 しかし、弟はその唯一の理由を奪われた。
 凛とした表情で弟は一切の迷いもなく尚も「殺してくれ」と兄にせがむ。
 兄として、カインは本能的に弟を守り続けてきた。ならば、最後まで、兄として、カインは弟を守らなければならないと思った。
 弟を殺したことで自分は罰は受けるだろう。それは御免だった。どうせなら、弟を殺した後に自分も逝こう。どうせこの世界には何もない。
 彼はこの難題に答えを出し、腰に下げた短剣を抜いて弟の目の前に突き出した。
「本当に、いいんだな……?」
 弟は、向けられた刃先を真っ直ぐに見つめながら静かに頷いた。



「それで俺はアイツが苦しまないように心臓を一突きにした……。あんにゃろう血ぃ吹きながら『ありがとう』なんて言いやがって、あっという間に死んでった。それから俺も自分を刺そうと思った」
 カインはそこまで言うと一呼吸おいた。
「だけど、死ねなかった。生きた先に何が待ってるか分かってたのにな……。俺はわざと、あの荒地に『死にたい』って願望を置いてきたんだ。嫌だったんだよ。なんの意味も無く、ただ生まれて、誰にも知られず死ぬなんてさ。誰かに、自分や弟がいたってことを、少しでも残したかった。それだけの理由で生きてきた」
 馬鹿だろ? と、付け足してカインはルシフェルの顔を見た。彼女は目をかすかに開いて静かに話を聞いていた。
「……アタシ、自分が世界で一番不幸なヤツだと思ってた。ダメだね、こんなんじゃ……」
 ずっと黙っていたルシフェルが口を開いた。なんて言葉を言えばいいのか考えていたようだ。
「いや、それはそれでいいんだよ、ルーシー。でも俺は自分を不幸な人間と思ったことはないね」
 カインは喋りながら自分の白く柔らかい前髪を触って見つめた。
 牢獄の激しい拷問によってあっという間に白くなってしまったこの髪こそが、あれから流れた長い長い年月を物語る。
「まあ、その後は天使に捕まって、さっき言った通りの拷問生活。でも、これって案外慣れちゃうもんさ。アレの御蔭で俺の痛覚ってヤツかなり麻痺したらしいんだよね。何も感じねんだよ、針を刺されようが剣で切られようが。しかしな〜、弟の名前が思い出せないんだ……。絶対に忘れちゃいけない名前だったのに……」
 ……反応が、無い。カインはルシフェルを見た。……目を閉じている。耳を澄ますと寝息と思われるものが聞こえた。話を最後まで聞き終えて満足したのかもしれない。
「おやすみ、お姫様」
 カインはルシフェルの乱れた毛布を綺麗に掛け直すと、音を立てないよう部屋を出た。



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