【08:黒き翼に花束を】
ルシフェルが住む城の中庭には二つ並んだ綺麗な墓があり、その墓には筆記文字でこう記されている。
――黒き翼の王、ここに眠る。
――黒き翼の愛した人、ここに眠る。
年に一度、彼らの命日にバアルとレヴァイアはその墓へ静かに花を手向けに来る。そして昔を振り返っては二人で墓石に向かって微笑みかけるのだった。
「あの二人を見てると思い出しますね」
バアルはいつものように豪華な装飾の施された椅子に座ってテーブルに頬杖をつき先刻淹れたばかりの紅茶から漂う湯気を見つめながら、ふと思い出したように呟いた。
「え? カインとルーシーのこと? ……何を思い出したっての?」
レヴァイアもいつものように窓にもたれて外の景色を眺めながら返事をした。レヴァイアはこうしてバアルのどんな唐突な呟きも必ず拾って何かしら返事をする。長年一緒に過ごしている証拠。阿吽の呼吸が成せる技である。そうして気がつけばどんどんと話が繋がって盛り上がっていくという、これは二人の日常よくある光景の一つだ。
「昔のことですよ。リリスが体調を崩してからは、ああしてサタンがルシフェルを連れてよくこの城へ遊びに来ましたよね」
「あ〜、そうそう、よく手ぇ繋ぎながら仲良く歩いてきたよな」
「一見、人のことなど気を遣わないようなあの人が……」
「ちゃ〜っかりちっこいルシフェルに歩調合せてのぉ〜んびり歩ってきたもんだよなあ〜」
「感傷深いですね。ついこの間に生まれたばかりと思っていた子が、もうあんなに大きくなって……」
「んで、ちゃっかり親父以外の男と手を繋いだりするようになっちゃって」
「お父さん、さぞかし草葉の陰で悔しがっていることでしょうね」
「違いねーや! アイツ娘を溺愛してたもんな!」
二人は顔を見合わせて「アハハ」と声を上げて笑った。今日も話のネタには困りそうもない。
ああ、そうだ、懐かしい。二人は同じ日の出来事を頭に思い描いていた。
「貴方が相談も無しに嫁を娶った時もどうなることかと思いましたが……、それから数千年を経て今度は子供ですか……」
バアルは半分呆れながら黒髪の男に話しかけた。
「いきなり子供、いきなり子供。隠すこともないでしょうに隠し事。この私に隠し事。しかも今更の報告。遺憾です。物凄く遺憾です」
暫く彼の嫁が自分に顔を出さないと思ったらいつの間にかご懐妊ときたもんである。相談もなく何をしてるんだお前は、水臭いじゃないか馬鹿、という少しイジケた感情が相まってのこの言葉である。
使いのカラスを通じての「子供が出来ちゃった」というあまりに突然の報告。バアルが「何がどうなっているんだ」と目を丸くし慌てて男の元を訪れ、勢い余って憎まれ口の一つや二つ漏らすのも無理はなかった。
「んっだよ、祝いに来たんじゃねぇのかよ! 結婚数千年目にしてようやくの子供だぜオイ!」
黒髪の男は「なんだよ〜」と両手を広げておどけながら口を尖らせた。
別に彼の語気が強いのは怒っているからではない。元々、口が悪いのだ。
「まあ〜、何はともあれ! めでたいじゃないか! サタン、おめでと!」
レヴァイアは黒髪の男を『サタン』と呼び、子供のことを祝った。
「おぉ! やっぱ分かってくれてるじゃん、レヴァ! めでたいものはめでたいよな!」
サタンと呼ばれた男はレヴァイアの両手をグッと強く握って満面の微笑みを浮かべた。
そう、この口調荒い黒髪の男サタンこそがかつて帝王として魔界の頂点に君臨していたサタンその人である。
「まあ創ってしまったものは仕方が無いですね……。あとどれくらいで生まれるんですか?」
なんだかんだでバアルも子供の誕生は楽しみらしく、ひょいと話題を変えた。
「あぁ、リリスが言うにはあとひと月くらいだってさ。アイツもうだいぶ腹デカくなってるよ」
「ええ!? もう臨月も臨月じゃないですか!! 報告がギリギリにも程がある!!」
バアルはまた語気を荒くした。が、レヴァイアに「まあまあ、しょーがないよ」と諭され、ゴホンと一つ咳払いをして気を落ち着かせた。
「全くもう。さてさて、どんな子が生まれてくるんでしょうね。貴方に似てしまったら悲劇でしょうなあ〜……」
バアルが嘲笑う。勿論それは軽い冗談であった。しかしサタンは冗談に受け取らず、髪の毛を逆立てて怒り始めてしまった。
「なんで……なんで俺に似たら悲劇なんだよ! いい男が生まれるに決まってるじゃねえか!!」
「女の子だったら?」
間髪入れずにバアルが返す。
「う……。たぶん……、きっといい女が生まれるに決まってるぜ!!」
不利な問いを投げかけられサタンは先程の怒りは何処へやら、急に弱気になった。それは自覚がある証拠。もし子供が女の子であったなら、自分に似てしまったらヤバイ。ここは是非、母親に似るべきだ、と。
「男だろうと女だろうと貴方のような目つきのわっる〜い男に似ちゃったら子供は苦労するでしょうねえ〜」
楽しげにサタンをからかいながらバアルはヒッヒッヒと意地悪く笑った。
「笑うな! このキリリとした目の何が悪い!! 子供も光栄だろうさ!!」
負けず嫌いなサタンは食い下がり「俺は女に生れてもきっと美人だったろうから大丈夫だ、俺の顔は美人だ」と喚きながら地団駄を踏んだ。
「あのさぁ……」
二人の会話を割ってレヴァイアがそっとサタンに話しかけた。
「んあ?」
場の空気を無視した彼の呼びかけにサタンは思わず拍子抜けである。
「ずっと気になってたんだけど、子供ってどうやったら出来るんだ?」
「へっ?」
バアルとサタンは彼の問いを受けて同時に首を傾げた。
「お……お前、知らないのか?」
「おう、全然分かんねぇ……。子供って結婚したらコウノトリさんが持ってきてくれるのかと思ってたけど、だったらリリスの腹から出てくるわけないし……どういうことなのさ〜?」
レヴァイアは真剣な眼差しで二人の男を見つめた。どうやら、ホントに、知らないらしい。何千年も生きているというのに、知らないとは、どういうことなのか。サタンとバアルは顔を見合わせ「どうしたものか」と二人揃って頭を掻く。暫くして、「よし分かった!」とサタンが何故か胸を張った。
「じゃあ、この俺様が親切に教えてやろう!」
サタンが自分を親指で指差しながら得意げに言い放つ。それを見てレヴァイアが「やったあ」と手を叩き喜ぶ。しかし……
「お……教えるって……!?」
バアルが顔を青くした。何故なら嫌な予感しかしない、それはもう嫌な予感しかしない。ゆえに、これは止めなければならないと判断し「ちょっと待て」と言いかけた時だった、
「じゃあバアルを嫁と見立てて俺とで実演するから見てなさい。まずこう、服をだな……」
サタンはバアルの胸元の開いた服の隙間に両手を入れると、有無を言わさずそのままガバッと前をこじ開けて上半身を露わにさせた。
「ぎゃ〜〜〜〜!?」
バアルはサタンの行動に驚き、叫び声を上げた。
「お〜、それから、それから!?」
レヴァイアは悲鳴を上げているバアルお構いなしに興味津々でサタンの説明に聞き入る。
「おう!! それからまず、嫁を全裸にせにゃならん!!」
「だから待てってこの馬鹿ー!!」
目をギラギラさせながら服を脱がしにかかるサタンにバアルは鋭い爪の先を向けた。
バアルの爪は臨戦態勢に入るとまるで弾かれたように長く鋭利に突き出す。その根元は樹木の根の如く幾重の筋が張って本来脆いはずの指と爪との境をしっかり支え、爪先は冷気を帯びて厚さと硬度を増し屈強な岩をも容易に切り裂く恐ろしい刃となる。バアルはこの己の爪一つで数多くの天使を葬ってきた。その鋭利な武器を目の前に向けられたのだ。サタンは顔を青くしてピタリと手を止めた。
「それ以上やるなら少し覚悟していただきたいですね……」
殺意に満ちた爪に加え、ドスの効いたバアルの声は相当の迫力。これ以上怒らせたら、マズイ。
「ダメだ!! この嫁は怖すぎる!!」
サタンは素早く手を離し、サッと身を引いた。
「大体……私を嫁に見立てて実演なんてもうすぐパパになる人がやることじゃありませんっ!!」
乱れた衣服を直しながらバアルが訴えると、
「だって、お前さん女に見えなくもないし、いいかな〜と思って……」
少し気弱にサタンがボソボソと喋く。一応、本人はこれで謝っているつもりだ。
「見た目の問題じゃないでしょう、見た目の!!」
滅多に取り乱さないバアルが口調を荒げた。
「う〜、いいじゃんバアル〜。俺知りたいもん」
それまでずっと黙って様子を見ていたレヴァイアが口を挟んだ。
「黙れクソガキ! 子供は知らないでいいことなんだから、知らないでいいんです!」
クソガキと呼ばれた上になぜか怒られたことでレヴァイアは凄まじくヘコんだ。
「仕方が無い。言葉だけでは少し分かり難いだろうが口で説明してやろう!」
サタンは諦めの悪い男らしい。実演じゃなければいいんだろと開き直り、あそこまで怒られてもめげずに教えようとしている。
「まず、嫁と二人でベッドの中に入る。それで、まず二人は全裸にならにゃいかん!!」
「だから、これ以上子供に変なこと教えないでください!! 真似したらどうするんですか!! 責任取れるんですか!!」
ヤル気満々で説明を始めたサタンを素早くバアルが止めにかかる。それもこれも無垢なレヴァイアを思ってのことだ。
「……なんで教えてくんないんだよぉ〜……」
バアルが何故頑なに阻止するのか、その真意を知る由もないレヴァイアは半ベソをかきながら詰め寄った。どうにも気になって仕方が無いらしい。しかしバアルは「お前は知らなくていい」の一点張りでレヴァイアの要求を却下する。
「バアル!! レヴァが可哀想だろ!!」
サタンはサタンで好奇心旺盛なレヴァイアに兄貴分として未知の世界を教えてやりたくて仕方がない。これはこれでレヴァイアを思ってのことだ。しかしサタンを阻むバアルの意志は固い。しばらく「教えてやりたい」「絶対ダメ」と両者の睨み合いが続いた。レヴァイアはそんな二人の間でただただ狼狽える。
ちなみにレヴァイアは一応数千年生きている大人の男だけあって子作りの行為そのものは知っていた。しかしそれを行うことで何がどうなってこうなっておめでとう御座いますご懐妊ですという流れになるのかが分かっていなかった。ゆえにサタンは下ネタに走らず保健の授業をレヴァイアに行えば良かったのだが、彼がそんな機転の利く男ならば誰も苦労はしない。お陰様でこの口論である。
そんなわけで三人が三人とも口論に夢中だった。ゆえに、ゆっくりと向かってくるヒールなしサンダルの足音に気付く者は誰もいなかった。足音の主は騒がしい部屋を覗くなり朗らかに微笑んだ。
「相変わらず賑やかですね」
その声を聞いて三人が一斉に目を向けると、開けっ放しになっていたドアから臨月のお腹を抱えた金髪の美しい女性が銀のトレーに四人分のお茶を乗せてゆっくりと歩いてきた。その細身の身体に不釣合いなふっくらとしたお腹は見るからに重々しい。
「言ってくださったらお茶くらい私が運んだのに……」
先程まで語気を荒げて言い合いをしていたバアルがサッと顔つきを変えて女性に近寄った。いつもの紳士な彼が帰ってきたのである。
「いえ、そんな……。バアルさんたちはお客様なのですから、どうぞお気を遣わず」
女性は優しげな微笑みを浮かべ遠慮がちに軽くお辞儀をした。
「万が一お腹に障ったらどうするんですか。こちらこそどうぞお気を遣わずに」
言うとバアルは女性の持っていたトレーを代わりに持って紅茶のカップをサタンとレヴァイアに配った。基本、女王様気質の彼がこんなにも甲斐甲斐しく動くことは稀である。
「バアルさん……。どうもすいません。そんな……」
「あぁ、リリス。バアルの言う通りだぞ。そいつら客なんて立派なもんじゃねえから気ぃ遣うな。むしろ便利に使ってやれ」
チッチッチと人差し指を振ってサタンは金髪の女性をリリスと呼び、平然とバアル、レヴァイアを侮辱した。
もちろん、こんな言い方をされて黙っている二人ではない。
「貴方にそう言われると非常に腹立たしいんですが!!」
バアルはまたも口調を荒げ部屋の中央にあったテーブルの上に荒っぽくトレーを置いた。
リリスという女性の前では紳士に振舞っていたが、サタンのせいですっかり表情が元通りである。
「そうだぞ、こんにゃろ〜! 俺らだって一応客でしょ! 邪険にすんな!」
先程までサタン側のような態度だったレヴァイアもキーキー反論開始。また賑やかな事態になってしまった。
「まあまあ、ホントに仲がいいんだから」
そう、このクスクスと口元を手で押さえて笑い腰に届く程に長い金髪を揺らす美しい女性こそがサタンの花嫁として有名なリリスその人であった。
「いや、仲なんかちっとも良くねえ。コイツら性格悪いんだもん。俺の苦労分かるだろ〜?」
サタンはリリスの前となると一応口調が穏やかになる。元々の言葉遣いがあまりに悪過ぎるために分かりにくいが、これでも穏やかな方なのだ。
「性格悪いのは貴方の方でしょうが!!」
バアルは前言撤回を求め手に持ったお茶を溢しそうな勢いで彼に怒鳴った。
「いやあ、リリっちゃんも大変だよね〜。周りがこんな環境でさ〜」
俺だけは紳士だぞとレヴァイアは二人の言い合いをよそにちゃっかりリリスの隣に移動し、その大きなお腹を愛おしそうに手のひらで撫でた。
「あははっ、いえいえ。いつもとっても楽しく拝見させてもらってるわ」
「そう? ならいいけど!」
「あ、待てゴルァ!!」
レヴァイアがリリスに安易に声をかけ、挙句そのお腹を気易く撫でたことにサタンが激しく声を荒げた。
「てめえ!! 俺の嫁さん横取りしようたあ、ふてぇヤロウだな!! リリスに触んな、この糞ったれナンパ野郎!!」
「え〜!? そんな、誤解だよ!!」
今にも殴りかかってきそうなサタンの気迫にレヴァイアは思わずリリスの後ろに身を隠した。
「こらレヴァ君!! 妊婦さんを盾にするとは何事ですか!!」
先ほどまでサタンと言い合っていたバアルが今度はレヴァイアの行動に怒鳴り声を上げる。こうなるともう収拾がつかない。
「こんな楽しい人たちに囲まれているんだもの。いい子が生まれてくるに違いないわ」
リリスは三人の男たちが至近距離でギャンギャン騒いでいることなど物ともせずに微笑み、ふっくらしたお腹を優しく撫でた。
「お外、楽しそうでしょ? もうすぐ出て来れるからね」
すると次の瞬間、まるで返事するかのように赤ちゃんはリリスのお腹をポコンと蹴った。
「あ、蹴った」
「ぁあ!? なんだって!? レヴァイア、テメーなにドサクサに紛れて俺の嫁に蹴りくれてんだよ!!」
妻が咄嗟に呟いた声を聞いて何をどう勘違いしたやら、サタンは烈火の如く怒って頭にツノを生やし、レヴァイアの胸倉を掴んだ。
余談だが帝王サタンは激高すると頭にヤギのそれによく似たツノが現れるという不可思議な特徴を持っていた。感情がそのままズバリ表に見える面白い男だったのである。
「え!? な、なにが!? どゆこと!? 俺なにもしてないよー!!」
必死に首を横に振るレヴァイアだったが、サタンの耳にその声は届いていたかどうか……。
常に怒号と笑い声が絶えず木霊する、これがかつて魔王が三人揃っていた時の光景だった。
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