【09:散り逝く羽根に歌声を】
あれからひと月が経った。
「リリス、まだ体調悪いの? 大丈夫?」
レヴァイアは心配そうに無言で前を歩くサタンに話しかけた。
いつもの三人組でサタンの城に向かって歩いている途中のことである。普段なら集まればすぐ大騒ぎをする三人が顔を合わせているというのに、今日は勝手が違う。三人が三人とも気まずく口篭る。しかし沈黙に耐えられなかったレヴァイアがまず口を開いたのだった。
「あぁ、全然だな……。少しも回復してくれねんだ……」
レヴァイアの問いにサタンは少し俯いて答えた。
「アイツ、『リリン』を産んでから、ずっと寝たきりだ……」
リリンというのは現魔界の女帝ルシフェルの旧名である。サタンは娘リリンの誕生を心の底から喜んだ。だがその代償に出産の負担が大きかったリリスは足を動かすことが出来なくなり、寝たきりの生活を余儀なくされてしまった。
「リリンの方はどうなんですか?」
「そっちは問題ねえな。母ちゃんの元気全部奪ったってくらい元気、元気!」
バアルが子供のことを聞いた途端、サタンに笑顔が戻った。
(良かった、笑ってくれた……)
バアルとレヴァイアは心の中で安堵の溜め息をついた。妻リリスが心配でならないサタンは今日も暗い顔をしていた。だが、こうしてしっかり笑えるなら結構だ。
「流石に俺の子だけあってスゲーんだぜ! もう髪は生えてるわ、歯もあるわ、言葉も喋るわってよぉ!」
「あれ、娘ちゃん生まれてまだ4日しか経ってないですよね? 凄いじゃないですか」
このバアルの褒め言葉がサタンの親バカ心に火をつけた。
「いっや〜、最初生まれた時の姿は猿みたいだったんだけど、こ〜れが今じゃ可愛いのなんの!!」
マズった、と、バアルは思った。リリンが誕生してからというもの、サタンに子供の話を振るとまあ止まらない。思い起こせば数千年前のリリスとの結婚当初もちょいと夫婦仲を尋ねれば「もう結構です、お腹いっぱいです」と聞き手が音を上げる程に惚気話を延々喋り続けてくれた。
懐かしく思うと同時に「成長してないな、この男」と、バアルは一人で小さく頷く。
「……お喋りはここまでですね。城に着きましたよ。二人とも静かにね。赤ちゃん寝てるかもしれないでしょう? 起こしちゃったら大変です」
サタンはまだ何か言い足りなかったらしいが、バアルに言われた通り静かになった。レヴァイアも真似してちゃっかり口を閉じる。サタンよりバアルの方がよほど父親らしい……と、それはともかく三人は静かにリリスと娘の寝ている部屋へと向かった。
「あんまり騒ぐなよ。アイツの体調に響くかもしれねんだからな……」
シ〜ッと指で「静かに」という仕草をするサタンにレヴァイアが「アンタに言われたかないよ」と小声で返した。
「テメ……!」
思わずいつものノリで怒鳴り返しかけたサタンだが、一応、父親になった効果だろうか。ゴホンと咳払いをして怒りを誤魔化し、「リリス、開けるぞ」と優しい口調で告げゆっくりドアを開けた。普段壊す勢いでドカバキ荒っぽくドアを開閉するサタンがこうしてゆっくりドアを開けること自体が殆ど奇跡に近い行動である。
「あらまあ、いらっしゃい。リリン、お兄ちゃんたちに挨拶して。こんにちは〜って」
ベッドの上で半身だけを起こし子供をあやしていたリリスが三人を見て軽く会釈をした。すると続けて「おに〜ちゃんたち、こんにちは」と、赤ちゃん……と、言うよりは幼児と言ったほうが正しい姿をした女の子が片言で挨拶をし、ペコリと頭を下げた。パッと見、とても4日前に生まれたとは思えないこの子供こそがリリン、後の女帝ルシフェルである。
「わあ可愛い!! こんにち……」
幼い少女のあどけない笑顔に胸をときめかせ、レヴァイアとバアルが朗らかに挨拶を返そうとしたその時である。まるで遮るように「リリ〜〜ン、パパにお帰りって言って〜〜!!」と、今までになく猫なで声を出しながらサタンが素早くベッドに駆け寄ってリリンを抱きかかえた。
「わ…………」
バアルとレヴァイアの口から放たれ残った言葉が虚しく洩れる……。
「パパ、おかえり〜」
リリンは素直にサタンの要求に応えて歯を見せて笑った。父親に抱かれてとても嬉しそうだ。
「なっ、なっ! もう喋れるんだぜ、凄いだろ!! 賢いだろ!! 可愛いだろぉ〜!!」
リリンをあやしながらサタンがポカンとしている魔王二人に「見て! この子を見て!」と言わんばかりの輝く笑顔を向ける。
「な、なあ、こういうの親バカって言うんだよな?」
「ええ、それも超! が、付くくらいのバカですね」
レヴァイアとバアルはお互い顔を見合わせ、眉間に皺を寄せて同時に頷いた。リリスがその様子を見て楽しそうに笑う。
「バカってなんだよ、バカって!!」
サタンはいつものように語気を強めて反撃した。が、娘に「パパ、おこっちゃや〜よ」と諭された途端サッと表情を変え「あ〜、ゴメンね〜! パパ怒ってないよ〜。ね? ね?」と、必死につい先程の発言を誤魔化した。
(どうやらホントにバカになったらしいな……)
バアルはまた一人こっそり頷く。
「なあ……、子供が生まれてから旦那は毎日こんななの?」
娘とじゃれ合うサタンを尻目にレヴァイアはリリスの側にこっそり移動して話しかけた。
「ええ。そりゃあもう。凄いんだから、あの人。面白いのよ、見てて飽きないわ」
微笑ましくて堪らないといった風にリリスは目を細め、頬ずりし合うサタンと愛娘を見つめる。もうすっかり母親の顔だ。
「ヤキモチ焼いたりしないの?」
旦那、あんなに娘ラブになっちゃって……と、小声で付け足して笑うレヴァイアにリリスは照れ臭そうに首を横に振る。そして、ポツリと独り言のように溢した。
「こんなに喜んでくれるなら、もっと早く産んであげたかったなあ」
――もっと、早くに――
それは当のサタンと娘には聞こえなかったであろう小さな声。しかしレヴァイアとバアルには聞こえてしまった。
彼女の紛れもない本音にバアルはなんと声をかけたらよいものか言葉に詰まった。博学な彼だが『こういう話は少し苦手』なのだ。そんな相方の代わりにレヴァイアが臆すこと無く「ダメだよ」と諭すように言ってリリスの肩をポンと叩いた。
「リリスは昔からずっと幸せなんでしょ? だったらそんなこと言っちゃダメだ。幸せだったってことは、全部リリスにとって正しかったってことなんだから。今までの夫婦二人きりで過ごした時間は何も間違ってない、その結果で今ここにあの子がいる。そうでしょ?」
レヴァイアは稀に、何の気もなく頼もしいことを言う。
リリスは「そうね、そうに違いない」と頷き「だから、今この子を産んだことも正しいのよね」と自分に言い聞かせるように呟いた。
「ところでレヴァ君は、どうなの? そろそろ身を固めてもいいんじゃない? 堅苦しく思えるかもしれないけど案外悪くないものよ、正式に婚姻するって」
「えっ!? いや、俺は〜……えーと……そう言われてもアテがないっつーか、まあその、そういう相手が見つかったら考えてみようかなー、あはは〜っ」
リリスの表情は優しげだ。意地悪でも何でもなく純粋に尋ねてくれたのだろう、だが逆に答え難い。下手に突っぱねることも出来ず、アハハハハッ、と、レヴァイアは必死に笑うことでその場を誤魔化した。
嗚呼、屈託のないリリスの笑顔が、胸に痛い。
一方サタンは妻とレヴァイアが親しげに談笑していることも気にせず暫くリリンと夢中でじゃれ合っていた。が、バアルにチラチラと「話がある」と言いたげな目を向けられていることのに気付くと表情を一変させ、「分かった」と真っ直ぐな眼差しで返事をした。横でレヴァイアはそんな二人の無言のやり取りにも気付かずリリスと世間話を楽しんでいる。これはチャンスだ。
「よっ、レヴァイア。折角だからちょっとリリン抱いてみるか?」
「ああ、いいよ。って、えぇ!? 俺がリリンを!?」
サタンの思わぬ言葉にレヴァイアは焦った。何せ、幼い子供を抱きかかえるなど経験が無い。一度もない。そう、数千年生きてきたというのに一度もないのだ。彼が今まで幼子と触れ合うことを極端に避けてきた事実が容易にうかがえる。だがサタンはお構いなしだ。
「大丈夫、大丈夫。ちょっとやってみろよ。肉親以外で最初のリリン抱っこ兄さんになれるぜ!」
「よく分かんないけど、なんかそれ責任重大な感じするし、俺、ちょっと……いいって、そんな……」
レヴァイアは本当に困惑して「俺、爪が長いから危ない」とか「力加減が分からない、潰しちゃう」とか「尖ったアクセサリーいっぱい付けてるし危ない」とか「ひょっとしたら汗臭いかも」とか「いけません、私は汚れ物です」など適当な言い訳を用いて必死に遠慮し続けた。
「どうしたの〜?」
父の腕に抱かれたリリンが不思議そうに「やだやだ」と手のひら振り続けるレヴァイアを見上げる。不意にその無垢な瞳と目が合ったレヴァイアは思った、なんて純粋な目なんだ、よし、やっぱり俺が抱っこするわけにはいかない、だって私は汚れ物、と。だが、決心を固めたところで傍若無人なサタンには勝てなかった。
「はいはい問答無用。はい、リリン。このおに〜ちゃん頭悪いけど顔はカッコイイから触っても大丈夫だよ。ちょっと抱っこしてもらいな」
「褒めるのか貶すのかどっちかにしろよ!」
文句を言いつつ、しかしサタンがリリンを手渡しに向かうとちゃっかりレヴァイアは両手を差し出して応じた。だが、その手は緊張のためか微かに震えている。
「レヴァ君、リリン泣かさないでね」
傍で様子を見守っていたリリスが笑顔でチクリと警告する。
「そ、そんなこと言われたって……。あらっ、お嬢ちゃん意外と重いのねっ」
「あ、レディにたいしてシツレイだあ〜。おに〜ちゃん、かおはかっこいいけどホントにあたまわるいのねっ!」
「ご、ごめんなさい……! 許してリリーちゃんっ」
と、まあ声は上擦っているものの意外としっかりリリンを抱っこ出来ているレヴァイアの様子を確認したサタンは「これでヨシ」と頷き、バアルの肩をポンッと叩いて目配せをした。
「じゃあ、俺ちょっとお茶のおかわりでも持ってくるわ。バアル、手伝えよ」
「いいですよ」
待ってましたとばかりに簡潔に答えるバアル。
「悪いわね。お願いします」
リリスは笑顔を向けて部屋を出て行く二人を見送った後、おっかなびっくり娘をあやすレヴァイアに目をやった。
さあ、ここなら会話を聞かれることはないだろう。
「で、なに?」
リリスの部屋から離れ、廊下を真っ直ぐ歩いた先にあるベランダに出た二人は風に髪をなびかせつつ話を始めた。まず口火を切ったのはサタンだ。
「なんか話があるんだろ?」
おちゃらけていた先程と違い、凛とした表情でサタンはバアルに目を向ける。
「ええ、ちょっとしたことなんですけれど」
ベランダの先端で軽く街の風景を眺めていたバアルは少し間を空けてからサタンと視線を合わせた。どう見てもちょっとしたことではなさそうな雰囲気だ。
普段からクールなバアルはその言動の何が冗談で何が本気なのか良い意味でも悪い意味でも一見すると分からない。付き合いの長いサタンやレヴァイアでもだ。だが、今は明らかに長い睫毛の下で金色の眼が凛と光っている。これは間違いなく本気で何かを言おうとしている証拠だ。
「貴方は、何千年もの間リリスに子を産ませることを避けていた。何故なら彼女は『人間』だから。悪魔の……、まして巨大な力を誇る貴方の子を産んだら身体に激しい負担がかかるのは目に見えていた。そうでしょう?」
「ああ、その通りだ」
バアルの問いかけにサタンは静かに頷いた。
「だからこそお聞きしたい。何故、今になって、子を産ませたのかを」
「……それが聞きたかったのか?」
「そうです」
そこで会話は一時途切れ、二人は暫く無言のまま見つめ合った。
「……何か、を……」
目線を外したサタンがゆっくりと口を開いた。
「何かを……残したかった。それと、俺がいつ死んでもいいように、代わりになってくれるもんが欲しかった、の、かも」
「貴方らしくない答えですね」
内容といい歯切れの悪さといい、本当にらしくなかった、
「ああ、俺らしくない。自分でも分かってる」
歯切れの悪い自分に苛立ってサタンが眉間に皺を寄せる。
「戦争が始まってから、とんでもなく時間が流れただろ。そんで俺、ちょっと戦う意味を無くしかけてた気がするんだ……。臆病になって『終わり』を恐れて今が続けばいいなんて思い始めて……。だから、何か、自分が変わっちまうデッカいきっかけが欲しくなったのかな。で、それはきっと何がなんでも守りたいって思える存在だろうって思って……」
「成る程、あの子をこの世界に招待したのは自身の気持ちを高めるためですか。貴方リリンのことを少しも考えていないね。こんな戦火の最中に生まれた子供がどんな思いをするか」
「分かってる!! そんなの俺が一番良く分かってる!!」
予想もしていなかったバアルの厳しい反応にサタンは怒鳴ることでしか対抗出来なかった。それだけ痛いところを突かれたのだ。
「それでも、会いたかったんだ。俺は、あの子に会いたかった……!」
絞り出すようにサタンが言った。
「お前には分かってもらえないかもしんないけど……。俺は、この戦いの中で、自分の無力さを知った。どんどん、月日が経つにつれて臆病になってく自分に、心底ガッカリしたんだ。死にたくない、死にたくないって……。なんで死にたくねんだろって考えたら未練があるからなんだよ。こんな世界に未練なんかねーだろうに、一つだけ、俺、まだ、リリスとの子供に会えてねーなって…………」
黙って話を聞いていたバアルがあからさまに溜め息をついた。それを受けてサタンの表情が苦痛に歪む。苦虫を噛み潰したような顔……。胸が、痛むのだ。
「……バアル、あの子は、俺の力を継いで強い力を持っている子なんだよ……」
「だから?」
納得出来る答えを欲するバアルの目は未だ冷ややかだ。サタンはどうにか彼を頷かせようと痛む胸を押さえて思いの丈を絞り出し、声にした。
「この戦いを終わらせるには、あの子がどうしても必要だったんだ。俺が本来の力を発揮するためにも。最悪、俺が何をやり遂げることも出来ないままお前らより先に死んだとしても、あの子がいれば『希望』は消えない……!」
伝えなければならない。友に、しっかりと思いを伝えなければならない。サタンは後ろめたさで今にも逃げ出したい気持ちを必死に抑え、踏ん張った。
バアルがこれほどに厳しい追求をする理由をサタンは知っている。彼は冷徹な表情とは裏腹に、子供が大好きなのだ。ゆえに不幸を見逃せないのである。
「俺さ、もし先に死んじまったらあの子に自分の血肉を食わせるつもりなんだ。そうすれば、さらに力を継いで今までに無いくらい強力な王が誕生することになる……。だろ?」
「ええ、確かにそうだ」
バアルは腕組しながら静かに頷いた。未だ到底納得などしていないことはその怪訝そうな表情が如実に物語っている。もっとしっかり、伝えなければならない。
「俺は自分の弱さを知った……。でも、みんなで幸せになりたい。だけど、俺の一人の力じゃ無理だった……! だけど、あの子がいれば、もう一度、俺は、奮い立てるかなって……。しっかり未練を断ち切って、また死ぬ気で戦えるかなって。それに、最悪俺がいなくなっても、まだリリンがいれば勝機は残る。だから……」
「そんなものを押し付けられた子供は、きっと苦しむでしょうね。現に貴方は自身の巨大な力にいつも苦しんだ。違いますか?」
「っ……」
バアルの静かな問いにサタンは言葉を詰まらせた。
「でも……、これしかないって思ったんだよ!! 戦争を終わらせるためには誰かが犠牲にならなきゃいけない!! 犠牲を出さないなんて無理だ!! それはお前も分かるだろ!?」
先程まで目線を外していたサタンが顔を上げ、目を赤くしながらバアルを見つめ返す。
「つーかお前、何もかも悪い方向に転んだ時のことしか考えてねーじゃねーか!! そら多少の辛い思いはさせちまうよ必ず!! でも俺はハナから娘を不幸にするつもりなんかない!! リリスもあの子も、俺は絶対幸せにする!! そんでこの戦争を終わらせる!!」
「……成る程ね」
バアルは若干背の高いサタンを上目遣いで淡々と見つめ、やがて「よく分かりました。理由は全部、後付けですね」と呟いていつもの微笑みを浮かべた。
「ありがとう。貴方を虐めるつもりはありませんでした……。ただその言葉を聞きたかったんです」
気迫溢れる表情をしていたバアルが打って変わって優しい笑みを浮かべたことにサタンは「え?」と戸惑い、どう返事すべきかも分からず声を詰まらせた。
「無い頭を絞って必死に理由付けなさったことは評価しますが、もっと最初から簡潔で単純な理由を述べてくだった方が私は容易に納得したはずです。まあいい。貴方は今まで何もかも自分で背負い過ぎていた。少しは他者に甘えることをしてもいいでしょう。それが正しいことかは分かりませんが……ね」
今度はサタンが静かにバアルの言葉に聞き入った。
「あの子はどうあれ不幸になりはしませんよ。こんなに素敵な父と母から生まれたんですから」
バアルがサタンの口から聞きたかったことは、本当にただの一点だった。「娘に会いたかった」それだけである。どうやら心配はなさそうだ。サタンは「絶対幸せにする」と断言してくれた。この男が言えばどんな夢物語も必ず実現出来る。根拠もなくそう信じられる。こればかりは理屈ではどうにも説明出来ない。だが、無心に信じられるのだ。だからこそバアルは彼とずっと行動を共にしてきた。
サタンには不思議と人々に『希望』を与える力がある。バアルは子供の誕生を機に彼からまた新しい希望を見せて欲しかった、それだけなのだ。
この古き良き最高の友人は色んなものを糧としてどんどん変わっていく。今や父親となった彼は更に強くなり、また新しい希望を見せてくれることだろう。
「グッダグダ言いましたけど、要するにとにかく子供が欲しかっただけなんでしょう? 幸せにする気があるなら私にはなんの異論もありません」
ズバリ、お見通しであった。
「バアル……。だって、ちゃんと説明出来なきゃお前ぜって怒ると思って……。理屈っぽいし……」
サタンの赤くなった目から一筋の涙が流れた。バアルに子供の誕生を歓迎された安堵の涙である。
「はて、貴方は私をどういう目で見ていたやら!? とにかく泣かないでください。私が虐めたみたいじゃありませんか」
バアルは何処から出したかハンカチを手にサタンの顔をゴシゴシと拭き、サタンはサタンで無言のままに「痛え、痛え」と嫌がるような仕草をしつつ素直に顔を預けた。
そして、ある程度の涙を拭き取れたタイミングで不意にベランダ入り口から「ぱぱ、みぃ〜つけた」と幼い子供の可愛らしい声が響いた。
バアルとサタンの二人が顔を上げて振り向くとそこには「あっ、バアルおに〜ちゃんがパパ泣かせてるぞ〜。いけないんだぁ〜」と悪戯っぽく笑いながらレヴァイアがリリンを抱きかかえ二人の元へ歩いてくる姿。
「どうして、貴方が此処に?」
空気読めよ、と小声で付け足してバアルはサタンの顔を拭いていた手を止めた。
「ハブろうったってそうはいかないぜ。俺も一応は大人だぞ〜。こう見えて時と場合によっちゃしっかり真剣な話も出来るんだぞ〜」
ね〜? と、リリンに向かって大袈裟な笑顔を作るレヴァイア。なんだかんだ言っていざやらせたらなかなかに子守の上手い男である。しかし彼にとって空気は読むものではなく吸って吐くものだ。バアルの考えが通じるはずもなかった。
「全部……聞いてたのか?」
サタンは目を見開き、恐る恐る彼に問いかける。
「あぁ、全部聞いちゃった」
なんのこたないさとばかりに普通に頷くレヴァイアにバアルとサタンは顔を見合わせて苦笑いをした。
「サタン、俺は難しい話はよく分からないけど……。会いたかったって理由はスゲーいいと思うぜ、うん!」
……この言葉が、全てを物語っていた。自分でも言っているが彼は本当に話の意味をいまいち分かってないっぽい。この調子で隣にいられたらやはり話は上手く進まなかっただろう。
「やっぱり貴方は真剣な話に向かない人みたいですね」
笑顔で誤魔化すレヴァイアにバアルは肩を落として溜め息をついた。と、同時に小さな手がサタンの方へと伸びた。
「ぱ〜ぱ〜」
レヴァイアに抱かれていたリリンがサタンの方へと身を乗り出したのだ。
「あ〜、やっぱ抱っこしてもらうのはパパの方がいいかあ〜」
だよね、と少し残念そう肩を落としてレヴァイアは「ほらっ」とサタンにリリンを手渡した。
「ああ、面倒見てくれてありがとな」
平然を装って娘を受け取るサタン。だが、隠し切れなかった。娘が見ているというのにポロポロと涙を流し続けるこの帝王……。彼は一度涙腺が緩むと簡単に涙を止められないのだ。
「ぱぱ、しょっぱいしょっぱいでてる」
「あ、ゴメンね〜。しょっぱくて。なっかなか止まんないんだよね〜、コレ」
サタンは片手でリリンを抱きながらもう片方の手で目を擦った。
「俺この子の一件で分かったんだ。俺、今まで破壊ばっかしてきただろ、神に対抗するために。でも、何かを壊すことは簡単なんだ、創るよりもずっと……。って、今更過ぎるよな。でもこんな当たり前のことすらすっかり忘れてた」
バアルとレヴァイアはサタンの言葉を静かに聞いた。
「なあ、お前らにちょっと頼みことしてもいいか?」
「なんですか?」
サタンに言われ、バアルは首を傾げた。彼が真面目な顔をして頼み事をするなど滅多にないことだったからだ。
「俺に何かあったら、リリスと、この子を頼む」
「え?」
想像もしていなかった言葉である。バアルとレヴァイアは目を丸くし、顔を見合わせた。
「お前、今すぐ死ぬ人みたいなこと言うなよ、縁起悪いなあ〜」
「そうですよ。いきなり何を言いますか」
二人はおどけたが、サタンは黙って答えを待っていた。彼は真剣だ。ならばこちらも真剣に応じなければならない。バアルとレヴァイアはふぅと肩で息をして表情を改めた。
「いいですよ。約束しましょう。その子と、リリスを守ると……。言われなくても守るつもりでしたけど」
「俺も頑張るよ。可愛い妹が出来たみたいだし精一杯守るつもりっ。なあ、バアル!」
勿論、と相槌を打つバアルにレヴァイアはニッコリと笑顔で返事をした。
バアルとレヴァイアの記憶が正しければ、確かサタンは結婚した時も似たようなことを言った。「俺に何かあったらリリスを頼む」と。
彼は、何かを得る度に臆病になっていく。だが、同時に強くもなる。それは恐らく、絶対に失いたくないものを守るため。
「ありがとう。幸せモンだぞ、リリン。生涯かっこいいおに〜ちゃんたちの護衛つきだぞ〜。片方は頭悪いけど!」
サタンに言われ、意味も分からないだろうにリリンはキャッキャとはしゃいだ。レヴァイアが憤慨していたことなどこの親子はお構いなしだ。
この時、バアルは密にもう一つの約束を自分の中で作っていた。
この子が道に迷い、何もかも見失ったら、その時は教えてあげよう。貴女は力を目的で創られた子じゃない。確かに両親に愛されて生まれた子だったのだと。みんなに望まれて生まれてきた子だったのだと。
――あれから、13年。そうだ、あの時の小さな少女が気がつけばもう13歳だ。ついこの間、生まれたばかりと思っていたのに、子供の成長は本当に早いものである。
「なにニヤニヤしてんだよ」
「え?」
レヴァイアに言われバアルは我に返った。
「あらいやだ、私ニヤニヤしてました?」
「妄想でもしてたかの如く天井見ながらニヤ〜〜ッてしてたぜ、お前」
「ああ、少し昔のことを思い出していたんですよ」
「思い出し笑いかよ、やっぱ変態だな……」
瞬間、バアルの何かにスイッチが入った。
「誰が変態ですか! しかも『やっぱ』ってなんですか!!」
「そりゃお前、見たまんまだよ〜ん!」
バアルの反応にレヴァイアがケラケラと笑う。
「あれだ、元カノのことでも思い出してたんだろ。察するに10人くらい前の元カノ!」
「ああ、あの一番おっぱい大きかった子ね。って、違う!!」
黙れコノヤロウとレヴァイアの頭を引っ叩き、痛みに喚く彼の姿を見届けてからバアルは椅子に座り直した。
全くもう……と、ふて腐れた表情をしつつ、しかしバアルの心の中は穏やかだった。
黒き翼の魔王も、優しき魔の聖母も今はいない。自分の希望であった存在は、もういない。しかし、一度交わした約束を違えるわけにはいかない。
(私が今、ここにこうして生きているのは、貴方とリリスと可愛い娘がいてくれたからなんですよ)
心の中で呟き、バアルは静かに一人微笑んだ。
そんな相方の思いを余所にレヴァイアはまだ痛い痛いと頭を押さえ喚き続けている。
「うるさいですよ」
静かに注意するとバアルはテーブルの上にある山のような書類に目を通し始めた。
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