【10:呼び声が聞こえる】
目を開けるという行為が嫌いだった。このまま目を閉じていたい。何も見たくなんかない。こうして楽しい夢だけ見たまま時が流れ、痛みもなく消えてしまえたらどんなに楽だろうか……。
「起きろ」
「………………」
何処からともなく聞こえてきた声。しかしルシフェルは無言で逆らい、目をつぶり続ける。
「起きろ!」
声は徐々に語気を強めてきた。それでもルシフェルは意地になって目を開けない。理由は単純、まだ寝ていたかったからだ。
「いい加減に起きろよ、クソガキ!!」
「…………なにぃ!? 女帝に向かってクソガキだ〜!?」
失礼極まりない言葉に思わずルシフェルは飛び起きた。どんなに眠かろうと女帝の意地とプライドというヤツの方が優先されたのである。
「畜生、わちゃちは女帝だじょ!!」
寝惚けて回らぬ舌でもって叫び、目を擦って失礼極まりない声のした方を見ると、カインが顔を歪め不機嫌にこちらを睨んで構えている姿があった。
「テメェはとことん朝に弱いヤツだな。今日一緒に街行くんじゃなかったのかよ!!」
カインの言葉がルシフェルにはイマイチ、ピンと来なかった。しかし、そういえば、昨夜……「服とかいろいろ必要なものが欲しい」と彼が言っていたような気がする。そしてルシフェルは「んじゃ明日は街で一緒に買い物でもするか」と答えたような……。
「あ〜、思い出した。そうだったねぇ」
「そうだったねぇ、って……」
ルシフェルののんびりとした返事にカインは大きく溜め息をついた。
「俺まだ金の使い方とか分かんねぇからお前いなきゃ困るんだよ……。っていうか俺、金なんか持ってねぇし……」
あーあ、と情けなさにうな垂れるカインである。
「あ〜、そっか。そうだよね。まだお小遣いもあげてなかったし、アタシが一緒に行ってあげないとアンタ買い物とか出来ないのよね。ゴメン! ちゃんと起きるわ!」
大声でケラケラと笑うルシフェル。一方カインはズーンと重く肩を落としていた。
「……この立場が嫌になってきた。俺……」
こんな少女に頼らなければ街にすら行けない、その情けなさが彼を悩ませる。
「まあまあ、そんな落ち込まないで」
ルシフェルも一応彼の苦悩を少しは理解しているつもりだ。彼はまだ貨幣など存在しない時代に産まれ、今まで外を知らずに生きてきた。文化に一切触れる機会は勿論ない。ゆえに貨幣の使い方も知らなければ文字も読めないのである。現に、昨日一緒に食事をしていた時「塩を取ってくれ」と頼んだルシフェルにカインは「塩ってなんだ」と首を傾げながら胡椒を手渡した。せめて塩と砂糖を間違えたならばまだ救いはある、しかし、彼は一番近くにあったとはいえ胡椒を手に取った。戸惑ったルシフェルだが後々に思えば彼はそういうものに触れる機会が一切なかったのだ、何も知らないのは当然である。
今もルシフェルの「朝御飯に何か作ってくれ」の声に彼は首を傾げ、「アサゴハンって、何?」と頭を掻きながらキッチンをウロウロと徘徊し始めた。何をどうしていいやら分からないらしい。朝、昼、晩、三食の食事をとるという人々の一般的な習慣すら彼は知らない。
(しょーがないな。これから一つ一つゆっくり教えていってあげよう)
ルシフェルは決意を胸に「うんうん」と一人で頷き、テーブルに腰を下ろして適当にサンドイッチを作り始めた。
「何やってんの?」
カインが興味津々といった風にルシフェルの手元を覗き込む。
「サンドイッチを作ってるの。こうやってパンを薄く切って、バターを塗ってハムとレタスを挟む! そしたらハムサンドの出来上がり!」
「よく分かんねーけどなんかボロボロしててスゲー不味そうだな」
差し出されたサンドイッチを、まるでゲテモノでも眺めるような目で見てカインは顔を歪めた。まあ、ルシフェルは今までろくに自炊というものをしたことがない。お嬢様過ぎてサンドイッチすら上手に作れないわけだ。
「うるさいわね、見た目が悪くてもお腹に入れば同じよ!! 文句言わずに食べなさい!!」
「はーーーーい」
渋々、といった顔でカインはその場でサンドイッチに噛り付いた。レタスを、ちゃっかり、取り除いてから。
昨日の食事でもそう、彼は野菜をちゃっかり弾いてご飯を食べる。今日は今日でレタスを避けた。成る程、ルシフェルの疑惑が確信に変わる。
彼は、相当の野菜嫌いだ。
(そんな好き嫌いしてられるような環境にいなかったでしょに……)
野菜も食べなさいと注意しても彼は唇を尖らせイジケるだけで一向に改めようとしない。昨日がそうだった。今日は二人で初めて街にお出掛けするのだし、朝から不機嫌になられてもなんだ、ルシフェルはとりあえず黙っておくことにした。
「えっと、サンドイッチ美味しい?」
「ん? 口の中の水分全部持ってかれたけど一応食えるレベルだな。一応」
……実に可愛くない男である。
街は城を出てすぐ目の前に広がっており、少し高台にある城を出て景色を眺めれば嫌でも一望出来る。魔界の人口の殆どは此処に集中しているため、相当な規模の街だ。
人間界では馴染み深い『科学』というものはあまり発達していないが衣類、食品、宝石、化粧品、酒、煙草などの趣味趣向品は天界や人間界よりも頭一つ抜けて秀でている。悪魔は気儘な性分、好きこそものの上手なれとはよく言ったものである。
そんなこんなで二人は街へと出発。目的地は城を出てすぐにある高台を切り崩し作った長い階段を降りて目と鼻の先だ。徒歩5分といったところか。
「なあなあ、なんでも好きなだけ買ってくれるんだよな?」
「え? 違う違う。必要なものなら買ってあげるって言ったのよ」
「だから必要なものなら何でも好きなだけ買ってくれるんだろ?」
「いやいやいや、限度あるわよ。必要だろうと限度あるわよ。アンタ、お金はタダじゃないんだからね」
「よく分かんねーなあ。じゃあつまり何買ってくれるんだよ?」
「えーと……、ええい、ややこしい! いざ店に行ってから考える!」
ルシフェルとカインの二人はピーピー言い合いをしながらのんびりと目の前の街に向かって歩いて行った。
黒い木造建築やレンガ建て建築が立ち並ぶ少し古風な匂いのする街並み。人間界でいうところ中世ヨーロッパの風景を全体的に黒くしたような、または年がら年中ハロウィン色に染まっているような……と言ったほうが分かり易いかもしれない、そんな造りだ。
遥か昔、荒れ地が広がるばかりのこの世界で先人たちは酷く限られた材料と己の力を頼りに生活必需品を製造した。道を囲む街灯が少し歪な骨組みをしているのもそのためだ。あれは、戦地で拾い集めた天使の死体を焼き、残った骨を加工し組み立てて作られたものである。
使えそうなものは何でも使っちゃえというサバサバした思考にのっとってこの禍々しい街は出来上がった、という歴史をルシフェルは簡単にカインへ伝えた。
「どの家も揃って黒っぽい外装してるのはそもそも魔界で採取出来る材料が黒いからなのよ。近年じゃ人間界から材料パクッてきて色んな家を建ててるみたいだけどね。手間が掛かるから、こだわる一部の人しかやらないみたい」
「成る程。悪魔だから悪魔っぽい街を作ろうと思って作ったわけじゃなく必然的に禍々しいデザインになっちゃったってことか。でもだからって天使の死体の骨使って街灯作るってスゲーな。誰が最初に考えたんだよ」
これ骨なのか、感心しながらカインが街灯を見上げる。
ルシフェルには、言えなかった。この街灯は悪ノリ大好き適当大王の父サタンが提案したものだとは、とても言えなかった。言ったら恐らくカインはドン引くと思ったからだ。
「あっ、ルシフェル様だ! みんな、ルシフェル様が街へ来てくださったぞ!」
ルシフェルとカインが街に足を踏み入れて間もなくのこと。背中に黒い羽根が生えていたり頭部に角が生えていたりと何処か歪な姿をした人々が歓喜の声をあげ一斉に周囲へ集まってきた。
流石、即位して間もないとはいえ『魔界の女帝』。久々に街へ姿を見せたルシフェルを確認するやいなや街の住人たちは大喜びして出迎えてくれたのである。
「やっほ。ちょっと買い物に来たんだ」
ルシフェルが言うなり店を構えている人々は「では是非うちの店へ!」と声を揃え、自身の店のオススメ商品を熱弁し始めた。その熱意は素晴らしいが一斉に喋るせいで声が混ざり合い、残念ながら誰が何を言っているのか分からない。
(なんか、なんなんだ、これは……)
カインは状況を上手く飲み込めず横でポカーンと立ち尽くした。彼はルシフェルのことを『どう見てもただの小娘、一応女帝』といった風に軽く捉えていた。ゆえに予想以上に住民に慕われている様を目の当たりにして戸惑ったのである。
「ところでルシフェル様。そちらのお兄さんは?」
ワイワイと賑わう相当な人集りの中、一つの声がルシフェルに問いかけた。そちらのお兄さん、というのは確認するまでもなく横にいるカインのことだろう。
女帝の側にいる見慣れぬ背の高い白髪の男にみんな同じ疑問を抱いていたらしく「誰?」という声が順に続き、先程まで騒いでいた人々が揃って耳を澄ましルシフェルの答えを待った。
「あ〜、アタシの子分……。じゃなくて、えーと……側近! そうそう、側近の男よ。新しく仲間になったの。名前はカインっていうんだ。仲良くしてやってね」
横でカインが「お前、今、子分って言いかけたな。覚えてろよ……」と小声で呟いたが、街の住民たちに囲まれ舞い上がっていたルシフェルの耳に届いていたかどうかは酷く怪しい。
「このヒョロ長い身体と真っ白な頭と真っ赤なおめめがチャームポイントよ。みんな、女帝の側近カインのこと、ちゃんと覚えてね」
やはりカインの呟きは届いていなかったようだ。ルシフェルは隣でカインが眉間にこれでもかと皺を寄せていることにも気付かず意気揚々と紹介を続ける。
(チャームポイントってなんだ、そもそも女帝の側近って肩書きはどういう意味だ?)
俺って一体お前の何なんだ、カインは声を大にして聞きたかった。しかし流石にこの大勢の民衆の前でいつもの調子でルシフェルに怒鳴ったらきっと分が悪いと判断し、仕方なく耐えた。
「なあ、カインって名前……、聞いたことないか?」
「ある。確か人類最初の人殺しの名前だよ……」
「そのカイン、なのかな? でも、だとしたら牢獄にいるはずじゃ……」
「たまたま同じ名前か? それともあのカインをルシフェル様が助けたとか……?」
「同じ名前は無いだろう。悪魔や天使にカインという名前はいない。あの真っ白な髪からして本物の罪人カインだよ。だって言い伝え通りじゃないか、真っ白な髪に赤い目って」
「じゃあルシフェル様があの牢獄から彼を連れてきたのか、凄いな」
人々がヒソヒソと会話するのがルシフェルとカイン本人にも聞こえた。悪魔は寿命が長い分、博学な者も多い。それでなくとも人類最初の人殺しであり牢獄に監禁された最古の罪人カインの存在は歴史上有名である。多くの者が名前を聞いただけでピンとくるのは当然のことだった。が、中にはまだ若く、知識の浅い者もいるわけで……
「おぉ、そうだったんですか! いやあ、てっきりルシフェル様の追っかけか何かでこんなにさり気無く横に密着してるのかと……」
「待て。なんで俺がこんな小娘を追っかけなきゃならねんだ?」
その言葉だけは我慢ならねえとばかりに空気を読まない明朗快活な男に向かってカインがガンを飛ばすと彼の声は途中でピタリと止まった。どうやらカインの鋭い目つきと真っ赤な瞳は悪魔をも容易に黙らせるに充分な迫力があるらしい。
「と、とりあえず買い物するかぁ。なあ、カイン! じゃ、みんな! またね!」
なんだか場の雰囲気がヤバくなりそうだったのでルシフェルは集まってくれた人々に手を振り、カインの袖を引っ張って歩き始めた。
「はい、ごゆっくりお買い物をお楽しみくださいルシフェル様!」
群がっていた住民たちもルシフェルが話を終えたと察して散らばっていった。やれやれ、やっと一息、である。
「ケ、ケンカはダメだからね……」
「俺からは何もしやしねぇよ」
ルシフェルの問いに対してカインは不機嫌そうに答えた。先程の一件に少し腹を立てているようだ……。
「で、テメーの側近なのか俺は。側近ってなんだ? 子分とかパシリよかなんとなく響きはいいけどよ」
「あーらヤダ、側近の意味も知らないの? アンタ、アタシに仕えてくれるって言ったでしょ。だからアンタは女帝のすぐ側に仕える人ってことで側近って立場なの。光栄な肩書きですわよ、何か不満?」
「いいえ、別に。えーと、何が光栄なんだか全く意味分かんねーけど小娘の面倒を見る人だから側近か、成る程ね〜、ふ〜ん」
カインがこれでもかと唇を尖らせて不満げな顔をする。
「なななななによ、その顔わ!! アタシに仕えるくらいなら牢獄暮らしのがマシって言いたいわけ〜!? なんだったら牢獄に帰ってもいいんだぞコノヤロウ!!」
「別にそこまで言ってねーじゃん。一応感謝してるし。いーちーおーうーねー」
……とことん可愛くない男である。女帝に向かってこれ程ふてぶてしい態度をとるヤツが今までいただろうか。いや、いない。
この男、本当に恩義を感じているんだろうか……。
まあ、この疑問を本人に尋ねたところで正しい答えは期待出来そうにない。今日はせっかくのお買い物、ルシフェルは気を取り直すことにした。
「ところで、まず何見る? 中央通りは色んな店がいっぱいあるからさ、どんどん順番に見て行こうよ」
ルシフェルの言葉に「あぁ、そうだった。買い物するんだったな」と溢してカインは頷いた。
「えっと……、あ、そうだ。まず服が欲しいな。いつまでも親父さんの借りるわけにゃいかねぇだろ」
「そうだねえ。……じゃあ、ここの店どうかな。入ってみる?」
「ああ、入る。けど、此処なに売ってる店なんだ?」
ルシフェルが指差したショーウインドウには綺麗な服を着たマネキンが5体並んで飾られている。どう見ても明らかに服屋なのだが……、初めて街を見たカインには分からなかった。
「アンタ服欲しいって言ってんだから服屋さんに決まってるでしょ!」
「あーもー、何聞いてもいちいちキャンキャン吠えて返しやがるうるせー女だなテメーはホントに!!」
「何よ!! そうやってあんまり可愛くないことばっか言うと何も買ってあげないんだからね!!」
ギャーギャー言い合いながら二人は大きなレンガ造りの店に入った。
実は此処、ルシフェルが常々通っているお気に入りの店である。素材よしデザインよし、尚且つレディースからメンズまで扱っていてカジュアルなものからフォーマルなもの、戦闘に適した頑丈な服までもが揃っている街の中でもトップクラスの規模を誇る店である。これだけの品揃えだし自分が気に入っている店なのだからカインも気に入る……かな? と、考えたのだ。
「あっ、ルシフェル様、いらっしゃいませ!」
カッチリと黒いスーツを着こなした背の高い女性が二人を見るなり眩しい笑顔で挨拶をした。どうやら彼女がこの店の店長だなとカインは直感する。
「今日はアタシの服じゃないんだ。こっちの……」
「カイン様ですね。初めまして。さあ、どうぞ、こちらへ」
「え!? あ、はい……」
いきなり様付けで呼ばれて柄にもなく改まった返事をしてしまうカインであった。いやはや紹介をして間もないのにもうカインの名前が知れ渡っているとは……。住民の情報網に驚きつつ二人は女性の後について行った。
広い店内には沢山の棚とお洒落な服を纏って気取ったポーズをしたマネキンがいくつも並んでいる。カインは目移り気味にそれらを唖然とした表情で見渡した。
「二階がメンズファッションを取り扱ったフロアとなっております。どうぞ気兼ねなくお手に取ってご覧くださいませ」
「お手……。うん、分かった」
お言葉に甘えてカインは棚に置かれた服をピロピロと端から順に広げたりマネキンの衣服をいじったりと品選びを始めた。……が、暫くして「う〜〜〜〜ん……」と、腕を組んで天を仰いでしまった。どうやら今まで服を選んだことがないカインにとって、この無数の服から一つを選ぶというのは相当難儀なこと、らしい。かなり悩んでしまっている。
それと彼はファッション用語を殆ど知らない。これもまた厄介だ。とりあえず先に下着を買おう、そうだロングコートとかカッコイイよ、など色々ルシフェルが言ってみても大概は通じず「なにそれ?」と首を傾げてしまう。
このままでは時間がか〜なりかかってしまう。そう感じたルシフェルはカインの服選びを熱心に手伝った。店長もその様子を見てちょこちょこと二人に助言を与える。しかしルシフェルと店長が色々なアドバイスをしたりこれはどうだといくつかの服を勧めてみてもカインは唸るだけで頷こうとしない。
「あのー、どんな服がよろしいんですか?」
「え〜と……。俺、多分、よく暴れるから、破れにくくて動きやすくてカッコイイ服がいい……気がする」
「デザイン的には、どんなのがお好みですか?」
「え〜……カッコイイやつ……」
曖昧なカインの注文にルシフェルは頭を抱えた。横で店長も少し困り顔だ。
「アンタ、どんなのがいいのか全然分からないよ、それじゃ……」
「やっぱり?」
カインも苦笑いを浮かべた。なにせ初めてなことなので本人も自分が悪いと分かっている。それでも諦めずにまた広い店内をキョロキョロ見渡し、徘徊を始めた。
「ねぇ〜。アタシが決めてあげよっか……?」
「ルシフェル様は服のセンスが良いですからね、それも手かもしれませんよ」
しかし「よし、選んであげよう」と、二人の女に言われてもカインは素直に「はい」と頷かなかった。なにせ人生で初めての買い物。本人にとってはそれはとても記念すべきことなのだ。ゆえに何がなんでも、どんなに時間をかけても自分で服を決めたいようだ。変に頑固な男である。
そんなこんなで1時間が経過した。
「カイン、意地張らないでアタシに任せなさいよ〜」
何度も訴えるルシフェル。だがカインは決して「はい」と言わない。それでいて服を眺めながら悩み続ける。
……長い、長過ぎる。
なんだかルシフェルは他のお客に応対しつつ辛抱強く笑顔で色んな服を勧めてくれたり助言を続けてくれる店長さんに申し訳なくなってきた。それでいて、飽きてきた。非常に、飽きてきた。これ以上時間がかかるようならこの男を放置してどこかでお茶休憩でもしていようか。いやしかし一人で放っておくのも心配である。やれやれ、困ったものだ……。
「も〜、決断力の無い男はモテないわよ!? よし、分かった! こうしよう、あと5分以内に決めなきゃ服買ってあげなーい!」
「あっ!? またそんな意地悪を言いやがる!! ホント性格悪いよな〜……あっ、あれ! あれがいい!! ルーシー、あれ!!」
突然パッと顔を輝かせてカインは少年のような声を出し、端にあったマネキンを指差した。
「あの黒色の、ええと、軍服みたいなヤツ欲しい!」
はしゃいだ声で嬉しそうにマネキンに歩み寄ってカインは「これこれ」と希望の服をルシフェルに伝えた。軍服とか言っちゃうあたり何気に少しばかりファッション用語を覚えたようだ。今日のやり取りは無駄ではなかった……! そんな彼が指差したのは黒の革製ミリタリーロングコートだった。あちこちに施された銀の装飾がとってもいい感じである。ルシフェルは「いいじゃんっ」と即座に手を叩いた。
「いいセンスしてんじゃん、カイン! 似合うと思うよ! 決まりだね」
ルシフェルはこれでいいよと店長に目配せした。
「これで御座いますね。このコートは着回しも利きますし丈夫で動き易いのにおしゃれ着としても使えますから一着持っているだけで凄く便利ですよ。でもサイズが合わないと困ってしまいますから是非試着してみてください」
「……『試着』って、なんだ……?」
カインは『試着』の意味が分からずルシフェルに「なんのことだ?」と目で訴え首を傾げた。
「えーとね、試着ってのは身体に服が合うかどうか確かめるために試しに服を着てみることを言うのですよ」
丁重に教えてあげるルシフェルである。
「ふーん。……大丈夫だろ、多分合うよ合う合う!」
「ダメ! いくらそのコート気に入ったからって適当に合う合う言わないの! ちゃんと試着してみなきゃ買ってあげないんだからね!」
「っんとに細かい女だなー……。で、試着ってどうやるの?」
「試着はだね、えーと、ほら、あそこに試着室があるから……。つーかコートだけ選んでも意味ないじゃんシャツとか一式揃えないと! ええと、もう面倒だからこの軍服のマネキンちゃんが着てる一式そのまんま試着してみなさい! ほら、このダークレッドのシャツと黒のパンツとチェーンとか鋲がいっぱい付いたゴッツいブーツ! はい、これ持って試着室へゴー!!」
やれやれ、である。説明の途中で店長が「大変ですね」とルシフェルの肩をポンと優しく叩いてくれた。
全くもう、何から何まで教えてやらねばならない。しかし本当に彼は何も知らないのだから仕方がない。少し面倒だがこれも想定の範囲内だ。牢獄から彼を出した時点で覚悟はしていた。しかし悪い気はしない。口はアレだがあれこれ新しいものを発見するたび好奇心に目を輝かせる彼はなかなか可愛いし見ていて面白い。ルシフェルは満更でもなかった。
「サイズは如何ですか? 肩がキツいとかありませんか?」
「あぁ、大丈夫」
試着室でも「服の着方が分からない」と一人で騒いでいたカインだったが、今は無事に服を一式着こなして鏡で自分を見つめていた。今日でチャックの締め方やらボタンの留め方やらブーツの履き方も覚えてくれた、一安心である。
「着たままお帰りになりますか?」
「あ〜、うん。このまま帰るわ」
店長とカインの会話を聞いてルシフェルは金貨を店長に渡し「お釣りは取っといて」と小声で告げた。なんというか、異様に手間をかけさせてしまった、その迷惑料である。「お釣りにしては多過ぎます」と店長はやんわり遠慮する意図でもってパチパチと大袈裟に瞬きをしたが、ルシフェルは「是非貰ってください……!」と言って押し通した。
女帝がこう言っているのである、受け取る他ない。「では、ありがたく」と店長は遠慮がちに会釈して金貨を受け取った。
「しっかし、無事に服が決まってよかったわ。ホント」
「あはは、そうですね〜。毎度ありがとう御座います。またのお越しを」
店長はカインの着てきたサタンのお古を丁重に袋に入れてルシフェルに手渡した。
うむ。色々あったが、これでカインの服は決まった。あとは何を買おうかな〜……と次を考えたいところだが、ルシフェルはもうすでに疲れていた……。
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