【13:遥か天空の地にて】
――オカリナの音が聞こえる。アイツがすぐ近くにいる証拠だ――
大天使長ラファエルは柔らかな太陽の光を浴びながら草花に満ちた優しい大地を踏みしめていた。
彼の腰まで届こうかというくらいに長い金色の髪が穏やかな風と遊ぶ。今日も変わらず気持ちのいい気候だ。こんな天界が大好きだ。
此処天界はそれはもう魔界というゴミ捨て場の環境と大違いである。あそこときたら乾いた荒地に砂っぽい風に荒い連中に荒い荒い……嗚呼、荒いだらけ。酷い環境だ。
そんな地に暮らしているバアルたちの気が知れない。元は高貴な天使だったというのに……。嗚呼、ラファエル自身の憧れでもあった彼らがあんな荒地で生活を営んでいるとは……。
誰が想像出来ただろう。憧れであった彼らはゴミ捨て場へと落とされ、ラファエル一人だけが天界へ残った、こんな今を誰が想像出来ただろう。
(物思いに耽ったところで事態が変わるわけでもなし、だな)
やめよう――心の中で呟き、ラファエルは改めて辺りに咲き誇る花々に目を向けた。
今日は神から新たなお告げを頂いた。それを仲間たちに伝えねばならない。
ふと、耳を澄ます。
ラファエルは耳が良い。あまりにも良い。ゆえにその耳はこの世界のあらゆる音を拾う。草花が風に揺れる音、人々の話し声、本気を出せば天界にいながらも魔界に住む民の話し声でさえ聞くことが出来る。そしてラファエルはその膨大な音の中から瞬時に今まさに必要な音を探り当てる。
今まさにラファエルの耳には無数の音に紛れて微かにオカリナの笛の音が聴こえた。何処から聴こえてくるのか、その距離と方角も分かった。こうして彼はこの世界を把握しているのである。
歩く速度を少し速めてラファエルは綺麗な花の咲く一本道を真っ直ぐに進んだ。
その気になれば一瞬で行けるが今日はなんとなく歩きたい。
やがてオカリナの音が大きく聴こえるようになってきた。遠くに目を凝らすと、大きな石の上に小さな人影。あまりにも遠くに見える小さな人影だが目も利くラファエルには容易にその人物が見える。
「ヨーフィ!」
男とも女ともつかぬ声でラファエルは遠くの小さな人影に呼びかけた。途端オカリナの音が止み、人影がゆらりと揺らめいてこちらに手を振った。だが瞬きした一瞬の隙にその人影は石の上から姿を消してしまった。
しかしラファエルは慌てない。何故ならそれが天使にとって当たり前の『移動方法』だからだ。
「呼んだかい、ラファ兄ィ!」
白い服を身に纏った少年が元気よくラファエルの前に何処からともなく突然姿を現した。
彼が先程まで石の上にいた人影だ。短い金髪といかにも生意気で意地の悪そうな目つきがトレードマーク、しかし黙っていればそのまま絵画に収まっていても違和感がないほどの美しい少年、名はヨーフィ。右手には先程まで音色を響かせていた水色のオカリナをしっかりと握っている。
「ヨーフィ。未だに移動が下手ですね。危なく私の足を踏むとこでしたよ」
ラファエルが自分より頭二つ分以上は小さい少年を少々不機嫌そうに見下ろす。並の天使ならば天界の最高位である大天使長にこんな目で見つめられたら竦み上がってしまうことだろう。しかしヨーフィは「すいませんねえ〜」と笑って誤魔化すだけ。わりと親しい間柄だからこそ許される態度である。
「ところでラファ兄。俺を呼んだってことは何かお告げでも来たんか?」
「当たり。神からお告げを頂いてきたので早速伝えに来ました」
「ご苦労様ッス! で、なんて言われたの?」
期待に目を輝かせるヨーフィ。するとラファエルは唐突に後ろを振り向いて誰に向けてでもなく手招きをした。どこまで見渡してもその方向には誰もいない。ただ青い空と一面に咲き誇る草花が風に揺れているだけである。「なんだ?」と疑問に満ちた表情を浮かべヨーフィーが首を傾げる。と、同時に突然風の向きが変わった。円を描くような風の流れを受けて草花が僅かに空へと舞い散る。その風の流れの中心に何処からともなく白い布のマスクで顔の半分を隠した一人の男が目の前に姿を現した。
「……誰?」
見慣れぬ顔にすかさず問いかけるヨーフィ。しかし男はなんの反応もせずただただ自分の足元だけを見つめる。質問に答える気はなさそうだ。
ヨーフィはまた首を傾げ、自分より頭二つは大きい男の顔をジッと見上げた。天使の証である金色の髪。長い前髪の隙間から覗ける金色の瞳はとても綺麗で澄んだ色をしている。口元はマスクに覆われていてうかがえない。だが、一目で彼が美形であることは分かる。しかし何故顔を隠しているのか……。ヨーフィは男に少し不気味なものを感じた。
「神のお告げその一、今日から彼も仲間に入れてあげなさいとのことだ。名はアザゼルというらしい。よろしくしてやってください」
何も言わない男アザゼルに代わってラファエルが紹介をした。
「成る程ね〜。えっと……お前ひょっとして今日生まれたばっかり?」
ヨーフィが人懐っこく尋ねる。だがアザゼルは無言のまま自分の足元を見つめるだけ。なんの反応も示さない。
まさか目を開けて立ったまま寝てるなんてことはないだろうか。だがヨーフィが見つめる中、ちゃっかりアザゼルはパチパチと瞬きをする。寝ているわけではないらしい。
「コイツ、口利けないの? それとも耳が聞こえないとか?」
「……さあね」
ヨーフィの問いにラファエルが素っ気なく答える、というかこう答えるしかないのだ。彼アザゼルは大天使長ラファエルに対してもこの通りの態度を貫いた。何を聞いても答えやしない。業を煮やしたラファエルが神に「彼なんなんですか?」と正直に質問すると「どうやらちょっとシャイみたいでなあ……」的な答えをもらった。そして「それでも悪い子ではないから一応仲良くしてやってくれ」と言われた。そんなわけで多分シャイだから喋れない、ということしか分からない。
「だが、神から直々の紹介だ。即戦力にはなってくれるでしょう……多分」
余程のことがない限り神が生んだばかりの子をよろしく頼むと言ってラファエルに紹介することはない。つまり、実力は確かということだ。
「だといいけど!」
ウチ人手不足だからねぇ……と、ボヤくヨーフィ。
そんな真横で繰り広げられる二人のやり取りにもアザゼルはなんの反応も示さず、ただただ自分の足元だけを見つめ続ける。
「さて、お告げそのニ、こっちのが重要だ」
ラファエルがサッと話題を変えた。
「今度は何?」
ヨーフィが改めて期待に胸を膨らませ、言葉を待つ。その頼もしい反応にラファエルは頬を綻ばせた。
「4日後、魔界を攻撃しろとの命令です」
「おおおお!! やった、待ってましたー!!」
はしゃぐヨーフィ。その側でアザゼルがゆっくりと顔を上げた。ようやく示した反応である。
「最近退屈してたんだよねー!! 行こう、行こう! 暴れちゃおうよ!!」
置物のようだったアザゼルがやっと少し動いたことにも気付かず舞い上がるヨーフィ。そんな彼を「頼もしい限りだ」とラファエルが微笑んで見つめる。
「準備は怠らぬよう。今度こそ決着をつけるという気持ちで挑まなければね」
「オッケー、任せて! そうと決まったら俺っちの可愛い剣をよく磨いておかなくっちゃ!」
ヨーフィは本当に楽しそうだ。実に可愛らしい。
さて、ヨーフィが無事乗り気になったところでラファエルは眼差しをアザゼルに向けた。一応、聞いておかねばならない。
「えっと、キミも行きますか?」
「………………」
アザゼルはやはり返事をしなかった。まあ、別に黙っているなら黙っているでいい、しかし困ったことに頷きも首を振りもしない。ただただラファエルを見つめているだけ。これでは行くのか行かないのか全く分からない。
どうしたもんかなー、とラファエルは思わず肩で溜め息をついてしまった。
「やっぱなんにも言わないみたいだね。もう放っておこうよ。無理に連れてくこともないし、お留守番でいいんじゃ……」
と、そこでヨーフィは言葉を止めた。何故なら、聞こえたのだ。微かだったがアザゼルのものと思われる声が……。
「あれ? 今、何か言いましたね?」
聞き返し、ラファエルは黙って彼の言葉を待った。
「僕も……行きます……」
アザゼルの口がマスクの下で動いたのが見えた。間違いなく今の少し擦れた低い声はアザゼルのものである。やーーーーっと喋ってくれた。ラファエルは「分かりました」と頷き、簡潔に返事をした。するとその返事だけで満足したのかもう用は無いと判断したのか、アザゼルは二人に背中を向けるとその場から早々に音もなく姿を消してしまった。
実際、もう紹介も済んだし行くか行かないかの返事も聞けた。これ以上の用はない。よってラファエルは黙ってアザゼルを見送った。
「なんなんだよアイツ、不気味だなあ。なんか暗い! 凄く暗い!」
アザゼルがいなくなったところでヨーフィは眉をひそめ、自分より遥かに背の高いラファエルを不満気に見上げた。
「そう言うな。わけありなんじゃないかな。事情があるんだろ。今日唐突に仲間に入れてやれという神の言葉からして怪しいものだ」
ラファエルは腕組をしながら先程までアザゼルのいた方向を見つめた。
「ラファ兄でも神を怪しいと思うことあるんだねえ」
ヨーフィが茶化す。
「そりゃあね……。でも神は正しいんですよ、いつだって……。疑問を抱くなど恐れ多い」
言いながらラファエルは眩しそうに目を細めた。
「さて、何はともあれ4日後に備えましょうか。いつも言っていることだが、決して相手を甘く見るな。落ちぶれた馬鹿ばかりではない」
「ああ、バアルのことでしょ? アイツは頭が良いんだよな〜」
いつもずる賢いことばっかしやがる……とヨーフィがボヤく。
「そう。サタンが死んだとはいえバアル一人でも十二分に厄介だ。気をつけろ。ついでにレヴァイアは一直線馬鹿ではあるが万が一に視界に捉えられてしまったら大事だ、気をつけるように」
「うんっ! 大丈夫!」
頷くヨーフィ。
「本当に大丈夫か? 向こうの総大将は本当に厄介な相手だぞ?」
何故かラファエルは昔から他の魔王は馬鹿だのアホだの貶しまくるクセにバアルだけは決して侮辱しない。どこか敬意を払った言い方をする。
「そんでもこっちにはラファ兄がいるんだ。ラファ兄が一人いれば向こうが数人で何しようが余裕、余裕っ!」
「はは、責任重大ですね私は」
言いながら、ラファエルは何処か寂しそうに笑った。
一人いれば、という言葉。そう、こちらにはラファエル一人しかいないのだ。
(バアル……。神はきっと貴方を許してくれる。いいえ、むしろ喜んで迎えてくれることでしょう。なのに何故素直に謝らない? 諦めない? 私も貴方の改心を遥か昔から願っている。なのにどうして……。どうして貴方ほどの人が……)
ラファエルの心の中にさまざまな思いが駆け巡る。遥か昔から、この思いが途切れたことはない。
「ラファ兄……?」
ヨーフィが視線を落として黙り込んだラファエルに気をとられているその時「あら? なにやら悩んでいらっしゃるみたいねん?」と、場の空気を一切無視した呑気な男の声が二人の真横から突然投げつけられた。
「……いつもいつも、その遠くの方から人を眺めては妙なタイミング狙って近寄ってくる癖、どうにかならないか?」
特別驚きもせず振り向きもせずに言葉を返すラファエル。一方のヨーフィは警戒して素早く振り向き……「なんだ、お前か」と気が抜けて肩を落とした。
「すいませんねえ〜。治そうにも治らないんですよん。みんながビックリしてくれるのが楽しくって」
実に悪びれの無い返事である。
「ミカエル、その様子ではもう神からのお告げも聞いていたかな?」
肩で溜め息をつき、ラファエルは声の方へと振り向いた。大天使長に睨まれても淡い水色の長髪を風になびかせ宝石玉のような大きな青い瞳を煌めかせて『ミカエル』と呼ばれた男は屈託なく微笑む。女性と見紛うような甘く繊細な容姿を誇るが、ただの優男と思うなかれ。彼は天界を支える立派な上級天使の一人である。……しかし、残念ながら本人にその自覚は薄い。それゆえに言動も至極軽い。
「ええ、バッチリ聞いていましたよん。また戦争ですか〜。好きだね、神様も。ああ、ヤダヤダ。僕は争いなんて嫌いだなあ」
少々呆れたかのような仕草をしながらミカエルはハハッと短く笑ってみせた。
「貴方の口調を聞いてると力が抜ける。自分が高貴なる上級天使の一人だという自覚をそろそろ持ったらいかがか?」
少々不機嫌そうなラファエルの反応。しかしミカエルに怯む様子は無い。
「これでも少しは自覚はありますよ。だから部下の皆様には僕がお告げを伝えておきます。ラファエルさんだと皆怖がっていまいち話聞いてくれませんもんねー。それじゃ、僕はこれで!」
嫌味にも似たようなことを言って、と、いうか、思いっ切りな嫌味を言ってからミカエルはこれ見よがしに丁重な一礼をして姿を消した。
「なにあの態度!! アイツってどうしてああなの!?」
言うとヨーフィはミカエルが先刻まで立っていた場所に向かい鼻筋立ててイ〜ッと歯を食い縛ってやった。獣の威嚇ポーズである。
ミカエルはいつもああなのだ。大天使長のラファエルに向かって生意気な態度をとり、挙句、何かにつけて嫌味ばかり言う。
自分の尊敬するラファエルに対してこんな態度ばかりとるミカエルの存在はヨーフィにとって決して面白いものではなかった。
「そうギスギスしない。アレでも一応仲間ですよ。秘めた力は侮れないものがあるし、仲間思いな所は天界一です。態度が悪いくらい気にしない気にしない」
ラファエルは無表情で如何にも心のこもってない褒め言葉をサラサラと述べた。
そう、仲間思いではある。仲間思いではあるがミカエルは神を決して尊敬してはいない。この天界のことも好きではない。ゆえにいつ裏切るかもしれない男だ、下手に刺激しないでいた方がいい。態度が悪いくらいで気を立てる必要はない、こっち側にいるだけヨシ。それがラファエルの考えだった。
「さーて、ミカエルが連絡係を引き受けてくれたことだし私はもう家へ帰ります。貴方も今日は早めに帰りなさい。決戦に備えてね。では失礼」
言ってラファエルはヨーフィに背を向け、音もなくその場から姿を消した。
「はいよ〜」
ラファエルを見送り、頷き答えるヨーフィ。しかし家に帰っても退屈なだけ。昼寝の気分でもない。
ヨーフィはまた先程の石の上に腰を掛けると再びオカリナを吹き始めた。
ラファエルの地獄耳はおそらくこの音色を聞き逃さないだろう。だが、叱りに現れないあたり許してくれていると解釈して良さそうだ。
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