【19:うちの王様は意地っ張り】


「誰が……、手を出せと言った……?」
 アザゼルがゆっくりと立ち上がる。垂れ下がった長い前髪が目元を覆っているがためにその表情はうかがい知れない。だが、明らかに怒っている。その声色には分かりやすい程に怒りが滲んでいた。
「余計な真似を……」
「余計? 急ぎゆえ了解得ることを怠ったのは悪かったが、余計とは心外だな。普通なら私に感謝するべきではありませんか? 貴方、殺されるところだったんですよ?」
 自分には一切の否がないという絶対の自信でラファエルは軽く笑ってみせた。
 二人の間に挟まれているカインは自身の身体を貫いている槍を手で押さえ、首を垂らして静かに呻くだけ。最早、何をする気力も無いだろう。この泥人形はもう戦闘不能に陥ったと判断したラファエルは槍を抜き取り、そのまま背中越しに心臓を貫いてやろうと狙いを定めた――その刹那。
「ごちゃごちゃ……うるせえんだよ!!」
 まさかもう動くまいと思っていたカインが落ちていた大鎌を瞬時に拾い上げ、背後のラファエルに向けて振り回してみせたのである。
「おっと」
 油断していたラファエルは攻撃を避けるのが一瞬遅れた。
 耳に届く肉の裂ける音。
 僅かな手応えにカインが振り向くとラファエルの腕にパックリと赤い口が開いている様が見えた。しかし「痛っ。最低っ」という彼の呑気な反応が示している通り、見たままそのままの軽い掠り傷。これでは仕返しにもならない。
「流石はカイン、その傷で動けるとは。刺され慣れてるって感じですねえ〜」
 てゆーか腹を抉られてるのに喋ってるし、と付け足してラファエルがクスクス笑う。
 黙れと言い返したかったが、喉に違和感を覚えて声が詰まった。うんともすんとも声が出ない。
(なんだ……?)
 戸惑っていると、突然口から大量の血が噴き出して地面へと零れ落ちた。
「が……は……っ!?」
 呻き、カインは血の滴る自分の口元を手で押さえた。
 怪我の程度が分からない。本来、腹を抉られた程度でくたばるこの身体ではない、なのにもう既に足腰が立たない。と、いうことは見た目以上にヤバイ怪我を負ってしまった可能性がある。ラファエルのことだ、的確に狙い定めたところを突いたはず……。
(俺ひょっとして死にかけてるのか?)
 少し不安がよぎり始めた次の瞬間、今度は右腕に強い衝撃を受けた。せっかく拾った大鎌がまた手から離れていく。何事かと目をやると腕にラファエルの槍が深く突き刺さっているのが見えた。
「この人はやたらとタフだから、こうやって遠慮なく痛めつけちゃっていいんですよアザゼル」
 ラファエルがカインの腕に容赦無く槍をねじ込みながらアザゼルに目配せをする。が、当のアザゼルは返事もせず、ただ哀れんだ目でカインを見据えているだけ。
 天使に同情されるようでは、お終いだ。カインは唇を噛んだ。
「それで〜、最後はこうやって大人しくさせるんですよ!」
 カインの腕から槍を荒っぽく抜くとラファエルはその柄で喉元を突き、続け様に頭部へ強く握り合わせた両手を叩きつけた。
「う……!」
 カインは喉元に受けた衝撃で声も出せず、頭部を叩きつけられた衝撃に血を吐いて地面へと倒れ込んだ。
「ホラ、楽勝でしょ?」
 せせら笑い、ラファエルがサンダルの底でカインの頭を踏みつける。酷い屈辱だ。しかし今のカインには不幸中の幸いか屈辱による憤りを感じる余裕などなかった。
(あっちゃ〜……。ヤバイぞ、これってマジでヤバイんじゃねえか……? ルシフェルに嘘つきって言われちまうな。生きて、帰るって……言ったのに……)
 死が迫っている。にもかかわらずカインの頭の中は驚くほど落ち着いていて、静かだった。
 これで終わりかと思うと少し呆気無い、と思うだけ。
 これも『痛み』を感じることが出来ないせいだろうか……。
「で、これが仕上げです。カイン、さようなら。辛かった人生にやっと終わりが来ましたよ」
 ラファエルの構えた槍の先がカインの背中をなぞって心臓の位置を探る。本来こうして探らずとも彼ならば心臓の位置など熟知している。一思いに刺さないのは余裕の現れに他ならない。いつ刺すのかと身構えているカインを焦らして遊んでいるわけである。
(畜生が……!)
 やっぱり死ぬのは嫌だ、とカインは思った。こんな屈辱を味わった後に心置きなく死ねる自信が無い。やっぱり嫌だ、もう少し生きたい。けれど再生能力よりも出血の勢いが勝っている。血を失い過ぎて身体が動かない。
 どうすればいいのか、朦朧とし始めた頭で考える。しかし全くもって何も最善策が浮かばない。
「カイン……。呆気無いにも程があるよ。僕の誘いに乗ってくれたらこんなことにはならなかったのに……」
 アザゼルが掠れた声で呟いた。なんだってそこまで同情されなきゃならないのか理解出来ないカインである。
 ラファエルの槍が風を切った音がした。心臓を貫こうと振りかぶったのだろう。…………おかしい、衝撃が来ない。ラファエルの手が止まった。何故? カインが首を傾げるより早く槍とは別の何かが風を切り、ポタリと雫の落ちる音が聞こえた。
 何が起こったのか。カインが顔を上げると、キョトン顔のアザゼルが真っ先に目に入った。いつの間に移動したのか隣にはラファエルの姿。そのラファエルの胸に、何か鋭いものに引っかかれたような出来立ての傷が見える。ポタッと聞こえたのは彼から血が滴った音だ。
 何がなんだか分からない。
 二人の天使の視線はカインではなく、更に前方へと向けられている。
 背後に気配。近付いてくる砂を踏み締めるヒールの足音。やがてカインの視界に銀色の長い髪を揺らし黒い毛皮のロングコートを纏った人影が入った。そうか、そういうことだったのか。特徴的な耳元のフサフサと合わせてこのド派手な後ろ姿は見間違いようもない。
「バア、ル……?」
 搾り出すように名前を呼ぶ。喉を突かれたため、未だ声が思うように出ない。しかししっかり聞き取ったバアルは視線をカインに向けて微笑んでみせた。
「ああ、カイン。かなり派手にやられてしまいましたね。全く、酷いことをする」
 バアルの鋭く尖った手の爪から真っ赤な鮮血が滴り落ちている。ラファエルに一撃を加えたのは彼に間違いない。
「酷いのはどっちだ、人をいきなり引っ掻いて!」
 ホラこれ見ろ! と、ラファエルがザックリ切られて未だ絶賛出血中の胸元を指差す。
「それにしてもこんな雑魚のために単身で姿を現すとは……。バアル、とうとう頭がどうにかなってしまったのか?」
「雑魚? いいえ、私は『友人』のために来たまでです。なのでイカレちゃいませんよ。誤解してもらっては困りますね」
 皮肉を軽く流したバアルにラファエルは顔をしかめた。その横で「友人だなんて嬉しい〜!」とカインが倒れたまま心の中で叫んでいたのは此処だけの秘密である。
「同じようなものだ。友人だろうがなんだろうが弱いんだから雑魚でしょ、それ」
 まるでゴミを見るような目をしてカインを顎で指したラファエルに今度はバアルが顔をムッとさせた。横でカイン本人も「嫌なヤツ!」と心の中で叫ぶ。
「黙れ。これ以上私の友人を侮辱してみろ。どうなるか分かっているんだろうな!?」
 普段のおっとりした口調からは想像もつかない低い声でバアルが怒鳴り上げる。だが、ラファエルは動じない。
「さあ、どうなるやら? しかしまあ品のない口調だこと……。サタンらの影響でしょう? 友人はちゃんと選んだらどうだ? 私はどんどん下品になっていく貴方を見るに耐えない」
「黙れと言っているのが分からないか!! ならば我が友を侮辱することは万死に値するとこの手で嫌でも教えてやる!!」
(ア、アンタそんな声も出せるのか……)
 初めて聞くバアルのドス利いた迫力ある声にその場にいた誰よりもカインが怯えてしまったことも此処だけの秘密である。
 カインにはそうして怒鳴りを上げているバアルの表情はうかがい知れない。だが、背中を見ているだけでどれほど怒りに燃えているかは一目瞭然だ。
 自分のような泥人形のために魔界の統領が怒りに震えている……。迫力あり過ぎて恐いには恐いが、こんなに嬉しいことはない。同時に、申し訳ない気分にも苛まれた。なにせ自分の不甲斐なさが原因で普段朗らかな笑みを絶やさぬバアルが憤慨する事態に陥ったのである。
「やれやれ、好戦的だな。……おい、アザゼル!」
 ラファエルの呼び声にアザゼルが剣を構えて応えた。
「こちらは遠慮無しに二人がかりで行かせてもらいますよ。覚悟するんだな」
 槍の切っ先をバアルに向け、ラファエルは静かに目を細めた。確実に仕留めようという固い決意が見て取れる表情である。
「望むところですよ。かかってこい!!」
 バアルは己の怒りを具現化するようにパキパキと音を立てて足元の荒地を凍らせ、自身の周囲に分厚く鋭利な氷の結晶を幾つも作り出した。
 こんな時に何を呑気な、と言われるかもしれないが、カインはバアルの身体を取り囲み月の光を浴びて妖しく煌めく氷の層に思わず見惚れた。彼の作る氷はまるで大きな水晶の原石だ。煌めきの中心に凛と立つバアルの妖艶な姿も相まってこれ以上ない程に美しい光景である。
 そういえばカインは牢獄にいながらも風の噂で聞いたことがあった。天使の間に伝わる話だ。戦場にてキンと凍てつくような空気を肌に感じたら、それはバアルが近くにいる証拠だと。
 成る程、彼は憤怒すると自身の周囲にある全てのものを美しく凍りつかせる……。今まさに周囲のあらゆるものを凍りつかせたバアルの姿を目の当たりにし、カインは伝え聞いた言葉に納得がいった。



「助太刀したいのは山々なんだけど……皆、何処にいるのよー!?」
 ルシフェルは砂埃が立つ戦場の中でポツンと一人、迷子になっていた。みんなの居場所がまったく分からない!
 何度か大声を張り上げたが誰からも返事は無いし、砂埃で目印であるバアルの氷やレヴァイアの風も見えない。非常に困った……。
 ならば一人で雑魚掃除でも! と思いきや、女帝を相手にしても到底敵わないと思ってるのかごく単純に女帝が視界に入ってないのか分からないが、ちっとも天使はルシフェルの元へやって来ない。ガン無視である。
(と、とりあえず歩いていれば仲間から情報が聞けるだろーし、とにかく動こう……)
 そんなわけで忙しそうに戦っている悪魔を見つけては「白髪頭を見なかったか」とか「バアルやレヴァイアはどこですか」と尋ねるルシフェルだが、返ってくるのは「見かけてません!」とか「今はちょっと忙しいので後にしてください!」という素っ気ない返事ばかり。君たち女帝をそんな邪険にしていいのか……と言いたいところだが、本当に忙しそうなので大目に見てあげよう。
「アタシ、ポツーン……」
 寂しくぼやいたその時。ふとルシフェルは砂埃の中に物珍しい水色髪の天使を発見した。なんと目立つ髪色だろう。立ち振る舞いからして雑魚ではなさそうだ。しかし天使は丸腰でもって何か探し物でもしているのかキョロキョロと周囲を見渡しているだけ。殺傷を行なっている気配は無い。
 今、一瞬ルシフェルと目が合ったが、これまた天使は「あっ」と女帝の姿を見て僅かに驚愕してみせただけ。剣を構える素振りは全く無い。
(じゃあ別にいっか。無駄に相手するのもダルいしなあ〜)
 あまりの殺気の無さにこちらからわざわざ挑む気も起きず、ルシフェルは天使に背中を向けた。無視、ということである。しかし途端に「ちょっと〜!?」とその天使に呼び止められてしまった。
「ちょっと、ちょっと! ルシフェルちゃんでしょ〜!? 貴女を探してたのん! 無視しないでよ〜ん!!」
 気の抜けた口調でもって手を振りながら、腰まであろうかという長い水色の髪を揺らして天使は妙にフレンドリーな態度でもって自らルシフェルの方へと駆け寄ってきた。
(な、なんなの?)
 警戒しつつもルシフェルは走り寄ってくる天使の容姿についうっかり目を奪われた。まるで女性と見紛うような美しい顔立ち。だが、声の低さと身体つきからして男性だろう、多分。この胸板は間違いなく男だ。男のくせにこんな可愛い顔をしてるわけである。嗚呼なんと敵ながら美しい――って、ダメダメ。見とれている場合ではない。
(いけないいけない! フレンドリーに見せかけて奇襲かもしれないじゃん! 畜生、アタシを騙そうなんていい度胸よ。受けて立つぜー!)
「オホホホホッ! 覚悟なさい天使! その可愛い顔を丸焼きにしてやるわ!」
 声高らかにルシフェルはレイピアを構えた。すると水色髪の天使はギョッと目を見開き、足を踏ん張って急ブレーキで立ち止まった。そして、盛大に泣き出してしまった。
「キャー嫌〜!! 僕まだなんにも悪いことしてないのに殺すなんて酷いぃぃぃ!!」
 顔を崩して大いに泣く水色髪の天使……。何がなんだか、である。
「ちょっと……なんなのよアンタ!! 天使でしょうが!! 天使以前に男でしょうが!! 女を相手に泣きべそとは何事よ!! 恥を知れー!!」
 ルシフェルが怒鳴りつけると水色髪の天使はピタッと泣き止み、顔を上げた。
「僕、悪い天使じゃないですもん! あと男の子がみんな喧嘩大好きと思ったら大きな間違いですん!」
「悪い天使じゃない……? 悪い天使じゃないってことは良い天使……、世間一般の良い天使っていうと神様の方についてる天使のことを言うのよね? じゃあつまりアンタは神様派! イコール、アタシの敵!! やっぱりアタシの敵だ死ねー!!」
「ちちちちち、違います〜!! そういう意味じゃないのないの!! ちょっと僕の話を聞いてくださいよおおおおお!!」
 水色髪の天使が慌てふためいて両手をバタバタ振ってみせる。これは「やめてやめて」の仕草だ。とことんフザけた男である。
「な〜によ、話って!? アタシ忙しいんだからね!!」
「え? 言っても迷子みたいにウロウロしてただけだよねん? ぶっちゃけお世辞にも忙しそうには見えなかったよん?」
 ……今、ルシフェルは胸にグサッときた。
「アンタどうやらアタシをただ怒らせたいだけみたいね!?」
「ひいっ、滅相もございません!! あ、えっと、とりあえず僕の名はミカエルって言います! 肩書きは上級天使ですが、どうぞよろしく! 悪い天使ではありません! それで、話っていうか、あの、率直に申し上げますと貴女の仲間がラファエルのせっこい攻撃でピンチになってるって知らせたくて!」
 仲間が、ピンチ――水色髪の天使ミカエルの言葉にルシフェルは表情を変えた。
「どういうこと? ピンチって、一体誰が!?」
「名前は分からないんだけど白髪のイケメンです! それをバアルさんが庇ってましたが二人がかりでやられてまして……。ラファエルせこいんでバアルさんも危ないんですよん! 場所は僕が教えます! どうか助けてあげてくださいなあっ!」
 ミカエルが語気を強める。すっとこどっこいな口調ではあるが目は真剣そのもの。決して嘘をついている者の目ではない。
 信じてみるか。一切の殺気を感じない彼の言葉はなかなか信用出来る。
「分かった。ありがとう。でもなんで天使のアンタがそんなんアタシに教えちゃうわけ?」
 するとミカエルはニヘ〜ッと顔を崩して笑ってみせた。
「僕、ラファエル大っ嫌いなんで〜す。そんでバアル様の大ッファンなんで! バアル様のピンチは僕のピンチで御座います! キャー、言っちゃった恥ずかしい〜!」
「あ……そう……」
 バアル、変な野郎にばっかモテちゃうって悩んでいたけど、こういうことか……と、ルシフェルは一人、納得した。
「あっ、僕が言ったっていうのは此処だけの話にしてもらえません?」
 ミカエルが急に弱気に頭を下げる。彼の立場を思えば無理もないことだ。
「いいよ。悪魔って義理人情に厚いんだから安心しなさい! ……つか、なんならアンタも堕天しちゃえば? そしたら憧れの人により一層近付けるじゃ〜ん?」
 ノリで言った冗談半分の誘い。笑って受け流すと見越してのことである。しかしルシフェルの予想に反してミカエルは悲しげに視線を逸らし、首を横に振った。
「そりゃ僕もしたいことはしたいんだけど〜……裏切れない友人たちが天界にいるんだ。その友人たちは天界でしか生きられない事情があってね。見捨てるわけにはいかないんだわさ」
 苦笑いのミカエル。彼は彼なりに何か事情がありそうだ。
「そっか」
 ルシフェルは微笑み返した。成る程、天使もなかなか捨てたものではない。それが分かって、良かった。
「さ、早く案内して! バアルたちはどこにいるの!?」
「あっ!! そうでした! 早くしないと僕のバアル様が!! 僕のバアル様が危ない!! こっちです、ついて来てくださいまし〜!!」
 叫ぶとミカエルは一目散に走り出した。
(僕のバアル様ってアンタ……)
 思わず脱力しかけたが、ずっこけてる場合ではない。ルシフェルは必死に俊足のミカエルを追った。と、その途中でふと疑問が浮かんだ。
「ちょっと待ったあ〜!! アンタ天使でしょ!? だったら瞬間移動があるでしょ!? わざわざこんな疲れる移動しなくてもいいんじゃないの!?」
「ハッ! 確かにオラは瞬間移動が使えますが、あれ使うとラファエルに感づかれちゃうんです! だから頑張ってランナウェイ〜!」
 ミカエルが叫び答える。
 成る程、そういう事情なら仕方がない。いやしかしなんだっていきなり一人称が『オラ』になったのやら。
 お前のその口調は一体なんなんだ、とルシフェルの脳裏に新たな疑問が浮かんだが、ミカエルの足は冗談抜きに速い。呑気な口調とは裏腹にことは一刻を争うのだろう。ルシフェルは黙って走ることにした。



「息が上がってるぞ、バアル。降参って言葉を知っていますか?」
 ラファエルが歪んだ笑みを浮かべてバアルを挑発する。
「知りません」
 知らないわけないが、こう答えるしかあるまい。
 なんとか二人を同時に相手してはいるが、正直バアルには厳しいものがあった。カインに気を配りつつラファエルを相手にするだけでも相当なことなのに今日は一匹余計なマスクマンまでいる。
「バアル……」
 カインは、バアルが自分の盾となってくれていることに気付いていた。さっきも、ラファエルの放った光の矢がカインに当たりそうになった時、目の前に突然分厚い氷の壁が現れて防いでくれた。バアルの仕業である。しかし、そうしてこちらに気を取られている間にバアルは腕をアザゼルに斬られた。
 邪魔だけはしないようにと心に誓って戦場にやってきたはずが、これでは……。
(早く治れ……!)
 動かない自分の身体が恨めしい。やはり牢獄にいた頃とは身体の回復力が違うようだ。今までこんなに傷の治りが遅いことなどなかった。
 生まれて初めて味わう『守られる』という屈辱。いっそ見限って思う存分に戦って欲しい。しかしそれではバアルのプライドが確実に傷付く。泥人形一匹も守れない王というレッテルを彼に貼るわけにはいかない。この屈辱全ては致命傷を負ったカイン自身の責任だ。
「何が知らないものか。いつまでそうして強がっていられる?」
「フンッ。余裕ブッこいてると痛い目を見ますよ、ラファエル」
 口ではそう言ってみせるものの、正直、勝てる見込みは薄い。アザゼルはちょっと前にカインから受けたダメージもあってかなりの疲れが見える。だがラファエルはというと最初の一撃以来、一切負傷していない。その傷も今や跡形もなく治ってしまった。
 一方のバアルは回復が追いつかず身体中に細かい傷が残っている。敵将が御指摘してくれた通り、息も上がっている……。
「そうか、そうか……。もういいや。死んじゃえ」
 淡々とした表情のままラファエルは槍を構えてバアルに突進した。同時にアザゼルも大剣を握り直して走り出す。
 バアルは自身の周りに先の鋭利な無数の氷の結晶を作り出すと天使二人に向かって矢のように放った。
「お前の氷なんぞ、私の前には無力だよ!!」
 ラファエルが声を張り上げ、自身を覆い包むように熱い光を放った。その熱に負けジュッと蒸発の音を立てて溶けた氷が水となり荒地に降り注いで一瞬のうちに乾き消える。相当の高熱が放たれた証だ。
 同じくアザゼルも光を放って氷を溶かし消す。だが、疲れの見えていた彼は全てを溶かすことが出来なかった。たった一つ消し損なった氷の矢が鋭く肩に突き刺さる。
「う……っ!!」
 低く唸ってアザゼルは動きを止めた。これだけでもバアルにとっては充分な収穫である。ラファエルが一切怯まず目前に迫ってくることなど想定済みだ。彼が向ける槍の切っ先が寸分の狂いもなくバアルの心臓を狙い定めていることももちろん想定の範囲内である。
「お熱いことで」
 急所をピンポイントで狙った攻撃の軌道は読み易い。バアルは慌てず騒がずラファエルの一撃を爪で弾き返す。するとラファエルはその勢いを借りて高く飛び退くと背中に真っ白な翼を広げ羽ばたいて空中高くに留まった。
「バアル、お前はしぶといな。しかし私も手ブラで天界へ帰るわけにはいかない」
「なんですって?」
 空を飛ぶ術を持たないバアルは空に浮いたラファエルを見上げながら『彼が何を意図し、何を言っているのか』考えた。彼のやたらと自信に満ちた笑みは明らかに何か企みがあることを示している。何をする気なのか……。
 ラファエルの視線が一瞬、何処かを見定めた。視線を辿った先には未だ動けぬカインの姿……。
「まさか!?」
 遅かった。気付くのが一瞬遅かった。
「そう、そのまさかだよ!!」
 バアルが声を上げるより早く、ラファエルは槍を構えて急降下した。
 うずくまりながらカインもそれを見て、気付いていた。彼の槍が確実に真っ直ぐ自分の心臓を狙ってることを。しかし逃げようにも身体が言うことを聞かない。どこも動いてくれない。時間が経つにつれて治るどころか多量の出血で意識も薄れてきている。ラファエルがどれだけ的確に痛い場所を突いてくれたかがよく分かる。
 静かに、心の奥を『死』の一文字が過ぎる。
 牢獄にいた頃は毎日のように願っていた死が、目前に迫っている。そうだ、これはずっと願っていたものだ。なのに、僅かも嬉しくない。今ここで死ぬのは、不本意だ。不本意以外のなにものでもない。
 風を切る音と共にラファエルの槍が近付くのを背中に感じる。
「……ダメ……か……!」
 カインは目を固く瞑った。こんな風に構えなくとも痛みなど感じないだろうに、それでも大きな痛みが来ると覚悟して自然と身構えてしまうのは『生きている何よりの証拠』と解釈しておこう。
 ドスッと、肉の抉れた音が聞こえた。
 だが、一切の感触が無い。
 カインは痛覚が鈍い方ではある。しかし『何も感じない』なんてことは有り得ない。身体に何か刺さればちゃんと分かる。
「……?」
 ふと、カインは自分の背中に生暖かいものを感じた。生暖かいものが背中にフワッと広がって血の匂いが鼻を突く……。
 嫌な予感がしてカインは目を開けた。
「な……!?」
 嫌な予感が、的中してしまった。
「馬鹿……。何やってんだよ……!!」
 カインは出せる限りの声で精一杯に叫んだ。
「……うるさい。黙ってろ……!」
 搾り出すような声でバアルが返す。
 頭上のラファエルが目を丸くして槍を握ったまま地面へと降り立った。
「はは……っ、ホントに……。どうしてしまったというんですか……」
 苦笑いを含んだ声。想像もしていなかった、という思いが見て取れる。
 当のカインも同じく。こんな事態は僅かも想像していなかった。
(なんでだよ……!)
 槍は、バアルの腹部に深く食い込んでいた。うつ伏せのまま動けないカインのためバアルは咄嗟に己の身体を盾にしたのである。魔王がここまで身をていし泥人形如きを守るとは、その場にいた誰一人も予想していなかった。
 呆気に取られ、だがラファエルはすぐに冷徹な目を取り戻し、その下にあるカインの心臓を貫こうと槍をグイグイ押す。筋張った腕を見て彼がどれだけ力を込めて槍を捩じ込もうとしているが分かる。……ならば、何故、貫通してこないのか。
 ラファエルを見上げるばかりで何も出来ないカインの耳に、ジュッと焼き付くような音と、ズルリと何かがヌメって滑るような音が聞こえた。
「バアル……!?」
「っ……黙ってろと言った……!」
 またズルリと滑るような音が聞こえた。この音は、ラファエルが槍を強く押し込もうとするたびに聞こえる。
 カインは、察してしまった。バアルの手元まではしっかり見て確認出来ない、だが間違いなく彼は素手で槍の刃の部分を掴んでいる。ズルズルと聞こえるのはバアルの血に塗れた手を槍が滑る音だ。ジュッと焼き付くような音は光を帯びて高熱を発している槍によって手のひらが焼け爛れていることを示している。
「バアル……。何故です? こんなクズのために何故貴方ほどの人がそこまでする?」
 腕には相変わらず力を入れたまま、ラファエルは無表情で首を傾げた。全くもって理解出来ない、といった顔だ。
 本当に、何故なのか。それは当事者であるカインですら思っていることだった。
 ラファエルの槍は神の加護を受け、悪魔を殺すことに特化した武器である。ゆえに悪魔はこの槍に触れただけで身体が焼け爛れるという。それをバアルは腹に受けた挙句、素手で握っている。……尋常ではない痛みのはずだ。
「馬鹿野郎……! 指が持ってかれるぞ……。離せ!」
 擦れた声で再び叫ぶ。しかしバアルは手を離さない。
「それが……、どうした……! 私の指如き、貴方の程の価値は、ない……!」
 こんな状況下でバアルは笑み交じりに返事をしてみせた。
「…………っ」
 カインは何も言えなくなってしまった。最早、情けなくて顔を上げることすら出来ない。
 あの時、不用意に致命傷を負わなければ、こんなことにはならなかった。それか強がらずレヴァイアにこっちを任せれば良かったのかもしれない。しかし、そうしたところでカインはバズーとデイズをちゃんと救えただろうか?
 結局は、全て、自分の無力のせいだ……。カインはグッと溢れる悔しさを飲み込んだ。
「まったく……」
 吐き捨てるように言うと根気負けしたラファエルは押し込むのを諦めて槍を素早く抜き取った。押して駄目だから引いたのだ。その勢いでバアルの手のひらが音を立て裂けた。
 真っ赤な血がボタボタと乾いた大地に滴り落ちる。
 今ので力尽きたのかカインの目の前に血塗れのバアルの手がダラリと落ちた。白く美しい手が酷い有様だ。無残に切り裂かれ血に染まり、黒く焼け爛れている。
(俺のせいだ……)
 悔しくて堪らない。だが今のカインには目を見開くことしか出来ない。
「貴方の考えには……、ついていけない」
 見下しながらラファエルがバアルをつま先で蹴り飛ばす。「うっ」と低い呻き声が響き、カインの上からバアルの体重が消えた。
「別に……ついて来なくて、結構……」
 大地に仰向けで転がり苦しげに息を吐きながらも、バアルは笑みを交えてみせる。どこまでも強がるその態度にラファエルは眉をひそめた。
「貴方は、何故そんな有様になっても諦めないのですか!?」
 見たくもない光景、ということなのだろう。ラファエルが目を逸らし声を張り上げる。「貴方にこんな姿は似合わない。相応しくない!」という彼の心の叫びが今にも聞こえてきそうな、悲痛を帯びた声だ。
「大事な、約束……!」
 言いかけて、バアルはゲホッと口から血を吐いた。バアルの綺麗な顔が、血に汚れてしまった……。
(どうするよ、これ……!)
 この状況をどうしてくれようかとカインは冷静に考え巡らせた。先程バアルの一撃でアザゼルは重傷を負ったが、今では傷を手で押さえフラつきながらも立ち上がっている。完治するのも時間の問題だろう。
 ラファエルに関してはこの通りだ。バアルを見て少し苦悩してはいるが元気満々である。
 対してこちらはどうだ? 周りには悪魔軍も天使の雑魚一匹もいない。完全に孤立している。しかも、バアルも自分も重傷ときた。
 絶望的――――
 一番考えたくなかった言葉が、脳裏に浮かんだ。



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