【26:破壊の扉を叩く音】
神から呼び出しを受けたラファエルは天界の果てにある神殿の更に奥深くへと足を運び、オーロラにも似た七色に輝くカーテンの前でゆっくりと跪き頭を垂れた。
此処はこの世界でもっとも高貴で神聖な場所である。大天使ラファエルといえども無礼は許されない。それは何故か……。理由は簡単だ。この世界を創った全知全能の神『創造主』その人が七色のカーテンを隔てたすぐ向こうに鎮座しているからである。
「ラファエル、只今参りました」
『よく来てくれた。……ラファエルよ、今日汝に足を運んでもらった理由は他でもない。一昨日における戦争の詳しい話を聞きたいのだ』
ラファエルの声に応えてズシリと肩に伸し掛かるような重たい声がカーテンの向こうから木霊す。常人であればこの声を耳にしただけでその身を押し潰されることだろう。
「なんなりと。私の知る限りのことは全てお答え致します」
『では聞こう。魔王二人の様子はどうだった。思い直してくれる気配はあったか?』
「いいえ……。私も説得は試みたのですが彼らの意思は相も変わらず固く、僅かな揺らぎも感じられませんでした」
『そうか。帝王サタンを失ったからには今回の戦争でいよいよ諦めると思っていたのだがな。残念だ』
創造主は声のトーンを変えぬまま淡々と言葉を返した。しかしトーンは変わらぬものの、落胆の色はしっかりと滲み出ている。
(主がいよいよ痺れを切らしてしまったとしたら、厄介なことになるな……)
ラファエルは僅かに俯いた。神が度々魔界に戦争を仕掛けていたのは、あわよくば勝利を手にすることは勿論、悪魔たちの心を砕き『警告を与える』という目的もあった。足掻いても無駄だ。頭を下げて天界へ帰って来いという強引なメッセージである。
しかし状況は一向に変わらない。何千年もの長い歳月、数え切れないほどの戦争を繰り返し、やっと帝王がその命を落とした、それでも尚、状況は変わらない。
『レヴァイアはともかく、バアルを失うのは我にとってとても惜しいことだ。心が痛む。彼だけでも戻って来てくれると長い長い年月信じていたのだがな、困ったものだ。どうにも惜しい。あれほどの天使、二度は創れぬ……』
「我が主、その思いは私も同じです」
ラファエルとしても願わくばバアルにはこの天界へ戻ってきて欲しかった。だが、彼の意志は固い。どうにも固い。幾度と無く戦争を繰り返しても尚、希望であった帝王サタンという存在を失っても尚、魔王バアルの意志は折れなかった。
正直ラファエルにはバアルがその岩より固い意志を砕き、神へ頭を垂れ降伏を宣言する姿が全く想像出来ない。
『ところでラファエル、戦争が始まってからどれほどの月日が経っただろうか』
「月日……。でしたら凡そ4000年ほどです」
『4000年か。随分と経ったものだな』
その時ラファエルはカーテンの向こうで神が深く溜め息ついたのが分かった。
『ラファエル、我は彼らが改心してくれるよう魔界を創造し、猶予を与えた。しかし無駄な時間だったようだ。いよいよ我自らが手を下し、全てを無に帰す時が来た。人間界もろとも全てを無に帰す時が。待つだけ辛い思いをするだけだ。もう疲れた』
「我が主……」
ラファエルは目を伏せた。とうとう、この時が来てしまったのだ。
『人間は積み上げた知恵をひけらかして我の存在を否定し、我の領域を汚した。悪魔は我の期待を再三裏切り我を悲しませた。これは全て万死に値する罪だ。ラファエル、4000年に渡り度々の魔界への赴き大儀であった。無駄骨を折らせてしまって、すまなかったな』
「いえ、無駄骨などと……。勿体無い御言葉、嬉しい限りです」
『そんなに畏まってくれるな。時が来ればまた働いてもらうことになるが、暫く猶予がある。ゆっくりと過ごすが良い。汝とて昔の友との戦いは複雑な思いであっただろう。その苦労、察するに余りある』
「いいえ、とんでもない。昔の友とて今ではただの敵に過ぎません。私にはなんの迷いもないことです」
『そうか? 我にはそれが汝の本心であるようには思えぬが……。まあいい。では私は『破葬』の準備にかかる。準備が整い次第まずは人間界、次に魔界を無に帰す。バアルたちに伝えておけ。そして私に許しを請うなら今だとな。要件は以上だ』
「分かりました」
ラファエルは複雑な心持ちを噛み殺して静かに頷き、一礼してその場を後にした。
はて喜ぶべきなのか悲しむべきなのか……。絶え間なく続いた天使と悪魔の戦争は犠牲を出しつつもこの脆い世界に辛うじての均衡をもたらしていた。その均衡が、いよいよ破られる。魔界の帝王サタンが死んだ瞬間から覚悟はしていた。だが、いざその時が来たとなると、やはりラファエルにも動揺は隠せない。
「とうとう始まるか。『破葬』が……」
神殿を出た先にはいつもと変わらぬ透き通る青い空、無限に広がる鮮やかな花畑が広がっていた。これから起こることなど我関せずといった風に。
破葬が行われる事実を神はバアルたちに伝えておけと言っていた。しかし必要はないだろう。何を言わずとも感の鋭い王はすぐに事態を察するはずである。
(それにしても、好きに過ごせ……か。どう過ごすかな)
ラファエルにとってこの世界には、なんの娯楽も存在しない空虚な空間だ。ただ淡々と時が流れていく空虚な空間……。
(いつから、こんな風になってしまったのかな)
ラファエルは一人苦笑いを零すと、その場から音もなく姿を消した。
「っ!!」
なんの前触れもなく悍ましい光景が脳裏を過ぎったバアルは息を引き攣らせ、ベッドから飛び起きた。その衝撃に宙を舞ったシーツが音を立てて床へと落ちる。
「ど、どうした!?」
寝ている王の自室にお邪魔して呑気にコーヒーを飲んでいたレヴァイアが突然のことに目を見開く。
「夢……、夢を……」
息を切らせながらバアルはゆっくりとレヴァイアへ振り向いた。汗の滲んだ額に銀色の髪が張り付いている……。寝起きだけあって今の彼には冷静を装う普段の厚化粧が無い。その感情そのままに動揺を隠さぬ素顔を見てレヴァイアは「たかが夢」と言いかけた言葉を飲み込んだ。彼が此処まで動揺する夢となると、只事ではない。
「夢を……、見たんです……。天より降り注ぐ眩い光を受けて人間界が消失し、次にこの魔界が消失する夢を……」
語るバアルの目は酷く緊張に強ばっている。これがただの夢ではない確かな自覚と自信が滲み出た表情だ。
「まさかそれ、いつもの勘ってヤツじゃないだろうな?」
レヴァイアの眉間へ一気に皺が寄った。
「その可能性があるからこう飛び起きて……。いえ、可能性どころじゃないです。必ず起こります。必ず……!」
「言い切ったな、お前」
王の縁起でもない強気な言葉を受けてレヴァイアは堪らず苦笑いをした。
「とうとう『破葬』が行われる……。神が痺れを切らした証ですね。やっとこの数千年に及ぶ天地の均衡が崩れるか」
深く息を吐き、バアルは乱れた前髪をゆっくりと掻きあげた。
「破葬って……。いつ起こるんだ、それ!?」
なにせあまりにも急な話だ、レヴァイアの語気が自然と強まる。
「いつ起こるかは……、時が近付けばラファエルが親切に教えてくださいますよ、きっと。レヴァイア、こちらも色々と考えておかなくてはね。『待ちに待っていた時』が来たのです。失敗は許されない」
言うとバアルは凛とした目でレヴァイアを見つめ、目が合うなり今の今まで緊張に張り詰めていた表情を崩して朗らかに笑ってみせた。
「亡きサタンの分も私たちが頑張らないとね。彼と共に描いた私たちの夢、必ず叶えましょう」
「ああ、そうだな」
レヴァイアは安堵の笑みで返した。目の前にあるバアルの朗らかな笑みは『絶対の勝機はこちらにある』という自信の表れ。昔から彼がこの表情を見せてくれる時は根拠など何もなくても素直に大丈夫と思えるのである。
「さて本題だけれど……。神が魔界を滅ぼそうとしているのなら、少なくとも今から数年は力を蓄える必要があるはず。それだけ空間のバリアは硬い。私たちの意志と同じくらいにね。と、なると、神が充電を始めて動けないなら天使たちもそうそう動けない。恐らく今後暫くは下手に細かなちょっかいなど出さず私たちの最後の足掻きを想定して戦力を蓄えるでしょう」
「とどのつまり天界は最終戦争に備えて充電期間に入るってわけか」
レヴァイアが言うと、バアルは「そういうこと」と頷き答えた。
「大当たり。せっかくだからこちらもフィナーレに備えて充電しておきましょう」
「賛成〜! と、言いたいとこだけど充電って、俺らな〜に溜めときゃいいんだ?」
天界はどうだか知らないが受け身一辺倒の悪魔たちはいつ攻め入られても対処できるよう常に臨戦態勢を整えている。充電しろと言われても特に必要がない。
「う〜ん……。一日一日をまったりしっかり楽しく生きて思い残すことのないよう過ごせばいいんじゃありません?」
「そんな適当なー!!」
実に投げやりなバアルの言葉にレヴァイアはガクンと肩を落とした。
「だーって天使たちは魔界にいつでも来れるけど私たちが天界に向かう手立ては何もないんですよ? どうにもならん。相も変わらず、ただ待つしかない」
「言い切ったな、これまたスッパリと言い切ったな、お前……」
レヴァイアの肩がますますガクリと落ちる。そりゃ肩も限界まで落ちるというものだ。危機を察しているというのに何もすることがないなんて残念にも程がある。
「仕方ないじゃないですか。あっ、でも一つだけ早急にやらねばならないことが見つかりました!」
「へぇ〜。なに?」
胸の躍る話であることを期待し、レヴァイアは目を輝かせた。
「いつ消滅するか分からない人間界からの物資強奪です! 魔界では手に入らない貴重な食材とか早急に持ち帰って揃えないと、もう二度と手に入らなくなってしまう! これは一刻を争いますよ! 街の皆さんにも手伝ってもらってガンガン盗まないと…………って、どうしましたレヴァ君? 偏頭痛ですか?」
レヴァイアが頭を抱えていることに気付き、バアルは首を傾げた。
「い、いや、そういうわけじゃない……。大丈夫……」
偏頭痛では、ない。しかし唯一出来ることが物資の強奪となるとやはり頭を抱えたくもなるというもので……。
「大丈夫ならいいけれど。ところでレヴァ君、気になったんだけど。なんだって貴方は私の部屋でコーヒー飲んでるんですか?」
一通り気分が落ち着いたところで尋ねてみた。すっかりツッコミ忘れていたが、そういえば何故彼は朝っぱらからバアルの部屋へ勝手に入り悠々とコーヒーを飲んでいたのか。
するとレヴァイアは思い出したように「ああ」と軽く頷いた。
「朝飯なに食いたいか聞きに来たんだよ。そしたらお前さん珍しく気持ち良さそうに熟睡してたからさ、起こすの忍びなくてね」
てっきり良い夢を見てるとばっかり思ったんだけどな、と笑ってレヴァイアは湯気の薄くなったコーヒーに口をつけた。
「ちぇっ。寝顔観察なんてやめてくださいよ」
気恥ずかしさに唇を尖らせ、バアルは床に落ちたシーツを拾い上げてからベッドを降った。そして部屋の奥にある洗面台にて冷たい水で顔を洗い、レヴァイアが気を利かせて用意した紅茶には目もくれず真っ直ぐ装飾美しいドレッサーの前へ腰を下ろした。魔界の王が朝に起きて真っ先にすること、それは化粧である。
「スッピンのが可愛いってあのカインですら言ってたのに」
熱心に化粧を始めた友の姿を笑って茶化すレヴァイア。だが、そんな茶化しなどとうに慣れたバアルに憤慨の色は微塵も浮かばない。
「お黙り。王様心の分からぬヤツめ」
それだけ返して淡々と化粧を続けるバアル。もうすぐ世界に大きな変化がもたらされると分かっても、魔王二人は全くもっていつも通りなのだった。
人間界が破葬されたのはそれから7日後のことである。
その日、赤い月に照らされた魔界の空に突如として眩い閃光が走り、全ての景色が一瞬真っ白に染まった。そして滅多に眩しい光を見ることのないこの世界へ向けて白く鋭利な光が降り注いだ。
「うっぎゃー!! ヤバい眩しいんだけどーっ!!」
大声で叫び、ルシフェルは両手で目を押さえた。真っ赤な空を幾重にも切り裂き地上へ降り注ぐあまりにも眩いこの光は、とても悪魔が直視出来るものではなかった。勿論女帝ルシフェルといえど例外ではない。
「なんだよ……、この光……」
喚く女帝の隣でカインは手をかざし、その指の隙間から異常な光を放つ空を辛うじて見つめた。今にも目が眩み過ぎてどうにかなりそうだ。しかしこの光景は何がなんでも目に焼き付けなければならないものだと本能が告げる。
ラファエルが悪魔を焼き払うために手の平から発する灼熱の光は何度か目にしたことがある。だがこの眩しさと禍々しさは到底その比ではない。
この光は一体なんだ。記憶の奥底にある創造間もない人間界で見た太陽の光とも勿論違う。
光とは本来、美しいものだ。しかしこの光は違う。何か、酷く禍々しいのだ。禍々しく不気味でなんと言い表せば良いのか見当もつかないほど無性に恐怖を感じる光なのである。
ゆえにカインの足元にいるバズーとデイズはこの異様な空を見つめて「恐い」と口を揃えて怯え引っ付き合っている。
その通りだ。正直に言えばカインですらこの光には恐怖を感じる。恐いものなどもう無くなったはずのカインですら、だ。
一体、何が起こっているのか。
朝起きて間もなく異常に気付いた一行は、誰が号令をかけるでもなくルシフェル、カイン、バズーとデイズの四人は急ぎ城の屋上へと駆けつけた。それから揃ってこうして空を眺めているわけだが、立ち竦むばかりで為す術が何もない。
此処からは街の様子も見渡せる。街の住人たちも揃って異常に気付き外に出て空を見上げているようだ。
やがて鋭利な光は消えた。代わりに、本来真っ赤であるはずの空が、まるでデタラメな色合いの油絵の具を強引に溶かし込んだようなフラクタル模様に染まった。
「なんだろう……、まるで上の世界が燃えてるような……」
目を細め再び空を見たルシフェルがポツリと溢した。何故上の世界が燃えてると感じたのかは分からない。だが、確かにそう感じたのだ。上の世界で何か想像を絶する事態が起こっていると……。
「上の世界って……。確かこの世界って魔界、人間界、天界って三層の世界が縦に並んでるんだよな? まさか……」
カインは改めてますます不気味さを増していく空を見やった。
そして、その場にいた全員の脳裏に『破葬』という言葉が自然と過ぎった。
「じゃあ、これが、この間バアルが言ってた、神による破葬の実行……? まさか、本当にそんなことが起こるなんて……!」
ルシフェルは縋るようにカインを見やった。しかしカインは空を見つめるばかりで視線を返さない。これは、俺に頼ってないでしっかり神の所業を見ておけ、ということだ。
意図を汲み取ったルシフェルは彼の言う通りまた顔を上げて不気味な色に染まった空を見やった。
近々人間界に対し破葬が行われるという話はいつもながらの鋭い勘で全てを察したバアルから既に聞いていた。しかし、正直に言えば半信半疑であった。早ければ数日のうちに消滅するというバアルの言葉を受けて今のうちとばかりに大急ぎで人間界から物資を仕入れる悪魔たちの動きを見ても尚、本当にそんなことが起こり得るのかと。いくら神とてそんな大それたことをするだろうかと。ゆえに大した心構えもなく日々を過ごし今日を迎えてしまった。
改めて、自分たちは神を敵にしているのだとルシフェルは思い知った。
今、このすぐ上の世界で一体どれだけ多くの命が消えているのだろう……。
人間界には何度か父と遊びに行った。そして青い空や青い海、沢山の緑と白い太陽を見せてもらった。そして「これが本当の色なんだよ」と言う父に「魔界の赤のが綺麗だよ」とルシフェルは返した。生まれ育った世界の色が一番だと。すると父は苦笑いして「でも、お前には青い空を見せたかったんだ。人間界があって本当に良かった」と言った。それから「随分と様変わりしてしまったけれど此処は天界の景色によく似ている」と独り言のように呟いて、遠い目をした。
その人間界が、破壊され、消えようとしている。
ルシフェルは寒気が止まらなかった。神にとって命とはなんなのか。こんなことが出来るのだ、紙くずと同じに思っているんじゃないだろうか。
「今まさに人間界が消滅している……。この光は、この世界の真上で破葬のために神が大爆発を起こした何よりの証」
突然バアルが音も無くルシフェルの背後に現れた。バズーとデイズが「うわあっ、ビックリしたあ!」と足元で声を揃える。だがルシフェルにとって彼の予告ない登場はいつものことだ。今更動じない。
「アタシ、ショックだよ。一つの世界がこんな簡単に壊されちゃうなんて……」
バアルの予想からたった7日後である。大した力も使わずに容易く壊すことが出来た、そんな印象だ。
「あくまで泥人形の住む世界でしたからね。人間の持つ知恵はなかなかのものでした、ですがその有り余る知恵に邪魔をされて多くの人間は生きる気力に乏しかった。生きる気力に乏しい泥人形の住む世界を滅ぼすなど神には造作ない。案ずるなかれ、我々はこう簡単にいかない」
迷いなく語るバアル。その傍らでカインが「あくまで泥人形……」とちょっぴり肩を落とす。
「バアル、今から何年後くらいに魔界もヤバいんだっけ?」
バアルと同じく音もなく現れたレヴァイアが口を挟んだ。
「さてね。今から5年以内には起こり得るでしょう。まあ、時期が来ればあちらから教えてくれますよ。向こうの敵将は親切ですからね」
そして不敵に笑うと、バアルは目を細めて空を見やった。その凛とした瞳は人間界の消滅を目の前にしても尚、この戦いが自分たちの勝利で終わるという確信に満ちている。彼のこの自信は一体どこから来るのか……。なんにせよルシフェルにとって常に迷いのない兄の姿はとても頼もしく心強い。
(相手は神。桁違いの力を持ってて当然だ。でも、アタシたちは負けない。みんながみんな負けないって口を揃えてるんだから絶対負けない……!)
自分自身を奮い立たせるように、ルシフェルは強く拳を握った――その傍らで今にも弱音を吐きそうな女帝の様子に気付いていたカインが微笑む。
(俺が何を言うまでもなかったみたいだな)
少女の固く握られた白く細い拳が全てを語っている。彼女はしっかり前を向いたのだと。
「なあ、カイン。本当に良かったのか?」
不意にレヴァイアが言った。
「ん? 何が?」
主語の無い言葉に首を傾げる。だが、すぐに思い当たってカインは「ああ」と納得の頷きをした。
「大丈夫、後悔なんざしてねーから安心してくれ。これで良かったんだ」
数日後に人間界が消滅するとバアルが予言したその日、レヴァイアは真っ先にカインの元を訪れ「今のうちに人間界へ行かないか」と誘ってくれた。生まれ故郷の土を踏み青い空を見る最後の機会であると。しかし折角の誘いだがカインは断った。自分と弟が過ごした景色などもう跡形も無いと思われる人間界を見たくなかったのだ。
見たら、何かを失う気がした。
その何かが何なのかは分からない。上手く言うことの出来ぬ酷く曖昧なものである。それでも、変わり果てた人間界を見たくないと思った気持ちは本物だ。今の今まで一度も人間界へ行きたいなどと駄々をこねなかった理由もそれである。
本当にいいのかと念を押すレヴァイアにカインは答えた。「空の色は赤しか認めない」と。今は亡き友が娘を通じて約束を果たし牢獄から解き放って見せてくれたこの空の色だけこの目に知っていればいいのだと。
「そんならいいけど」
笑って、レヴァイアは煙草を口に咥えた。こんな時でものんびり煙草を吸うとは如何にも彼らしい。せっかくなので俺もと便乗しかけたが、コートのポケットを弄ったところでルシフェルにひと睨みされ断念した。なんで、レヴァイアは良くて、俺はダメなんだ……と、若干納得はいかないが、まあ、仕方がない。
やがて魔界の住人たちが揃って見守る中、異様な模様に染まっていた空はいつも通りの色を取り戻した。人間界が完全に消え去ったのである。
とうとう、無くなってしまった。
腐っても故郷と言うべきか……。カインの胸がチクリと痛んだ。自分が生まれ落ち弟と共に過ごした世界が、たった今、消えたのだ。
「さてルシフェル、どうします? 私たちが間違っていましたどーもスイマセンと頭を下げれば神は寛大な心で我々を許してくださるとのことですが」
軽い笑みを浮かべてバアルがルシフェルを見やる。女帝として神の言葉にどう応じるかと聞いているわけだ。
「そんなの、考えるまでもないことよ」
言うとルシフェルは足を進め、屋上の先端に立った。この位置からは広大な街の風景が一望できる。不安に満ちた表情の住人たちが一斉に女帝ルシフェルへ視線を向けた様も一目瞭然だ。
みんながみんな、帝王サタンの意思を継いだ幼い女帝の言葉を待っている。
「アイツ、なにする気だ?」
まさか飛び降りるわけではなさそうだが、カインは一応隣のレヴァイアに尋ねた。
「すぐ分かるよ。なんだかんだでアイツはこの世界の女帝なんだ」
なんとも思わせ振りな答え。しかし察しはついた。
「そうかい」
簡潔に返してカインはルシフェルの背中を見つめた。成る程、傍らでバズーとデイズが「ルーシー、カッコイイ!」とはしゃぐのも分かる。どうしたことか凛と前を向く若干13歳の細い少女の背中がなんの理由も必要としない程に頼もしく見えるのだ。
カインは今日この時に初めて明けの明星を指し希望を意味する彼女の名に偽りがないことを知った。
(親父から良い名前を譲ってもらったもんだな)
今は亡き帝王の顔を思い浮かべカインは一人、微笑んだ。
「皆、聞け!!」
深く息を吸った次の瞬間、ルシフェルは普段の声色とはまるで違う低い声で街の住人に向け叫んだ。民を導く、それが女帝としての役割だ。ならば今、しっかりと己の意思を伝えなければならない。
(アタシには責任がある。女帝としての――!)
自分に言い聞かせ、ルシフェルはまた大きく息を吸った。
「神は我々に降伏を求めている!! 逆らえばとうに痺れを切らした神は容赦なくこの魔界をも消滅させることだろう!! どうだ、皆怖いか!? 足掻くのをやめてヤツに従うか!? 私は嫌だ!! 人間界の破葬を目の当たりにしても尚、私は神に逆らいたい!!」
街の住人たちは静かに女帝の真っ直ぐな言葉に聞き入った。勿論、後ろに立つ普段は口喧しいいつものメンバーも例外ではない。
「改めて私、新帝王ルシフェルは父の意志を継ぎ、此処に神への復讐を宣言する!! さあ皆どうか私に続いてくれ!! 父に代わってこの私が必ずや神を葬り去ってみせる!!」
これは神に対する女帝ルシフェルの正式な宣戦布告であった。僅か13歳の少女が神の圧倒的な力を前にしても父の意志を継ぎ、全知全能の神に宣戦布告をしてみせたのである。
これに奮い立たぬ悪魔たちではない。
「ルシフェル様、万歳ー!!」
「やはり貴女は私たちの希望だ!! 一筋の光だ!!」
一瞬の静寂の後、待ってました、その言葉が聞きたかったとばかりに街の住民たちは一斉に歓声を上げた。間近ではバズーとデイズが「ルーシー最高ー!!」と満面の笑みで拳を突き上げる。
そうだ、悪魔たちは誰一人として降伏しての生など望んではいない。望んでいたならば、神を殺し、この世界を破壊するという目標など間違っても抱くはずはないのだ。
「ありがとう、みんな……!」
渇いた大地に木霊す悪魔たちの大きな歓声にルシフェルの頬が思わず緩む。
「よく言いましたね、ルシフェル」
見守っていたバアルが歩み寄り、小さな女帝の肩を優しく抱いて労う。
「バアル……! アタシの決意、ちゃんとみんなに伝わったかな?」
「ええ。この歓声が何よりの証明です」
そしてバアルは歓声を上げる住民たちに目を向けた。
「私たちについて来なさい!! 決して揺るがぬ絶対の希望はこちらにある、恐れることなど何もない!!」
響き渡るバアルの威厳ある声。「その通りだ、俺たちは恐れない!!」と住民たちの歓声が更に増す。
「……つか、お前はなんにも言わないのか?」
不意にカインがレヴァイアを見やった。女帝、そして王と続いたのだ、次は彼の番だろうと思いきやレヴァイアは笑顔で二人を見守るばかりで一向に前へ出ようとしない。
「え!? 俺!? いやあ〜、なんつーか俺は場が引き締まるようなカッコイイ台詞なんて言えないから遠慮〜。今ちょっとボケていい場面じゃないしね!」
だから俺に振るなと逃げるようにレヴァイアは天を仰いだ。
「ああ、まあ、確かに、そうだな……」
成る程、と頷くカイン。彼の言う通りだ。此処でズッコケるようなこと言ったら雰囲気台無しにも程がある。遠慮するが吉だろう。
「お前こそ女帝の側近として何か一言デッカい声で宣言しておいたら? ルシフェルは俺が守るーっとか」
「んな恥ずかしい宣言してたまるかよ!」
意地悪いレヴァイアの笑みを突っぱねてカインは煙草を口に咥えた。声に出さずともそんな誓い、とっくに己と交わしている――なんてことも声に出したら絶対に茶化されるのでカインは黙って小さな女帝の背中を見つめた。
泥で出来たこの身体で皆の希望である彼女の盾になれるなら、本望だ。
そうしてカインが己の胸に誓いを新たにする中、ルシフェルは天を睨んだ。
「この声が聞こえるか、天使ども!! アタシたちは絶対に降伏などしない。最後の最後まで戦ってやる!!」
何事もなかったかのように赤い月が静かに佇む空へ向かって、ルシフェルは叫んだ。きっとこの声は聞こえているはずだという確信を持って。
「…………ハハッ。改めて宣戦布告か……。後で泣いても知らんぞ」
透き通るような青空の下、花畑の真ん中に置かれた大きな石に座って腰まである長い金色の髪を風に揺らしていたラファエルは一人、歪んだ笑みを漏らした。察しの通り、神は勿論、敵将ラファエルの耳にも魔界の声はしっかりと届いていたのである。
「えっ!? えっ!? なに!? 急に笑ってラファ兄ったら恐い!!」
ラファエルの隣に座って呑気にオカリナを吹いていたヨーフィがギョッと振り向く。
「フフッ、失礼。私の地獄耳はな〜んでも聞こえてしまうもので」
言ってまた歪んだ笑みを湛えるラファエル。隣でヨーフィが少し恐怖していることなどお構いなしだ。
(まあ、上機嫌ならなんでもいっか。……ん?)
気を取り直し、もう一度オカリナを吹こうとしたその時である。ふとヨーフィの目に顔を狂気に歪め力無くだらりと両手を垂らした不気味な前傾姿勢でゆらゆらと前方の道を歩くミカエルの姿が入った。
それなりに距離があり、此処から見るミカエルの姿は指先程度の大きさだ。だが目の良いヨーフィには彼の顔が狂気に歪み、目を真っ赤に染めている様がしっかりと確認出来た。
明らかに、様子がおかしい。どう見ても普通ではない。ミカエルの全身から確かな殺意が漂っている。その度合たるや尋常ではない。この距離をもってヨーフィが恐怖に身体を竦ませるほどだ。
「ラファ兄……」
「ああ、見えている。どうにも普通じゃないな。声を掛けてみるか」
ヨーフィが何を言う前にミカエルの様子に気付いていたラファエルは音もなくその場から姿を消し、ミカエルの目の前に立った。
「ラファエル……」
気配に気付いたミカエルがゆっくりと顔を上げる。間近に見てラファエルはますます彼の異常さを把握した。水色の髪はグシャグシャに乱れ、怒りを滲ませ据わった目は血涙に濡れている。両腕の肩から手首にかけて刻まれている引っ掻き傷は見るからに己の爪でやったものだ。傷の付き方といい、僅かに血で汚れた両手の指先が何よりの証明である。
「お前、一体……」
ミカエルから漂うあまりの殺気を目の前にし、流石のラファエルも息を呑んだ。普段飄々としている彼のこんな姿は、初めて見る。
「ラファエル、僕は、神が憎い……!」
たどたどしい口調で言ってミカエルはラファエルに向け淀んでいた目をゆっくりと見開いた。
神が憎いなど、天使が最も口にしてはならない言葉である。しかしラファエルに制止させる間も与えず、むしろ強く拒むかのようにミカエルは「あああああ!!」と大声を張り上げ、髪の毛をグチャグチャと両手で掻き回した。
「畜生、畜生、畜生!! 何が創造主だ。全知全能だ、全ての母だ、ふざけるな!! 神だからなんだっていうんだ!! あのクソ野郎、命をなんだと思ってる畜生!!」
「ミカエル、やめろ。神を冒涜するなど……」
言いかけたところでミカエルが瞳孔開いた目でラファエルを睨んだ。
「なんだ、もっての外とでも言うのか!? ふざけるな!! あんな下衆は神なんかじゃない!! 残念ながら僕は下衆を敬う術なんか知らない!!」
低く荒い声色でもってミカエルは叫んだ。
神を堂々『下衆』と呼ぶ……。只事でないにも程があると判断したラファエルは離れたところからこちらの様子を窺っていたヨーフィに向けて「帰れ」と手で合図した。
「分かった……」
この空気が読めぬヨーフィではない。彼は素直に頷き、その場から早々に音もなく姿を消した。
これで良し。ラファエルは改めてミカエルに目を向けた。
「一体、何があった?」
温厚なミカエルがここまで荒れているのだ、余程の事情があるとラファエルは見た。
「何がって、アイツはな、殺したんだ。殺したんだよ!! 人間界を消滅させることに異議を申し立てた皆を僕の目の前で躊躇いもなく殺したんだ!!」
ミカエルの目から赤い血の涙が一筋流れた。だが、ミカエルはその血を拭うこともなく話を続けた。
「皆はただ、ただ人間界には沢山の仲間がいるんだ皆殺しなんてやめてくれ、破葬なんて残酷なことはやめてくれって頼んだだけだ、ただそれだけなのに何故殺す必要があった!? 理由を聞いたらあの下衆野郎、『うるさかったからだ』って!!『異議を唱えるヤツは許さない』って!! そんで『邪魔な者は誰であろうと殺す』ってさ!! じゃあ僕も殺せって言ったらアイツなんて答えたと思う?『お前は貴重な戦力だ』ってさ!! 貴重な戦力だ、悔い改めてやれば許してやるってさ!! クソッ!!」
吐き捨てるように言ってミカエルは手のひらが千切れんばかりに強く拳を握った。
「それは……、神に楯突いた罰だ。虫の居所が悪い時に抗議をしてしまったのだろう。運が悪かったと思うしかない」
ラファエルはなだめるつもりだった。しかしミカエルは一層取り乱してしまった。
「運が悪いで済ませてたまるか!! うああああああ畜生!! 憎い!! 憎い!! 畜生!! 畜生!! アイツを殺したい!! アイツを、この手で!!」
喚き散らしながらミカエルが既に血の滲んでいる己の両肩を更に爪で掻き毟る。
「落ち着け!! 喚いたところでどうにもならない!! よく考えろ、お前が反逆を企てても死んだ友は戻らない、そうだろう!? とにかく落ち着け!!」
言ってラファエルは自傷を続けるミカエルの手を掴み制した。だが、ミカエルの怒りはまるで収まる気配がない。
「うるさいうるさいうるさい!! アンタには分かんねーよ絶対!! 僕の目の前でみんな光に包まれて一瞬で焼け爛れて灰にされちまったんだ!! 血の一滴すら流すことも出来ずにみんな殺されたんだ!! そんな光景見せられた僕の気持ちが!! アンタに分かるのかよ!!」
「っ…………」
あまりの気迫にラファエルは掴んでいた彼の手を離し、言葉に詰まって目を逸らしてしまった。
返す言葉が、見当たらない。
今のミカエルは計り知れないほど深く傷ついている。どんな慰めの言葉もきっと無意味だ。一体どうすればいいのか……。
「く、悔しい……!」
絞り出すようにミカエルが言った。
「い、一生懸命、灰になったみんな、掻き集めようとしたんだけど……、あ、あの神殿の中、風なんか吹かないはずなのに……、灰、集めても集めても僕の手から漏れて舞い散っちゃって……っ、そうこうしてるうちに出てけって神に結界張られて神殿から追い出されて……っ、ぼ、僕は……弔いすら……してやれない……! みんなの弔いすら……!」
「ミカエル……」
歯を食いしばり顔を崩してありったけの悔しさを滲ませるミカエルを前にしてラファエルの胸が痛んだ。よく見ると、いつも白く綺麗なはずのミカエルの服の裾が今日は土で薄汚れている。神殿から追い出された後にせめて手に残っていた分の灰だけでも……と、血涙を流しながら土を掘って僅かな灰を埋め友を必死に埋葬したミカエルの姿が目に浮かぶ。
(なんてことだ……)
ラファエルは悔やんだ。どうして、気付いてやれなかったのか。魔界の音すら届くこの耳をもってすればこんな事態になる前に彼の友の動きやミカエルの目から滴る血涙を容易に察してやれたはずである。何故、気付けなかったのか。人間界の破葬を間近にして少し慌ただしくしていたせいだろうか、それとも彼らがラファエルに制されることを想定して気配を消し行動に及んだせいだろうか。どちらにしろ不甲斐ないことに変わりはない。
「……すまなかった……」
柄にもなくラファエルは謝罪を口にしてしまった。それほどに自分に真っ直ぐ向くミカエルの血に染まった視線が胸に痛く突き刺さったのである。
「すまなかったで済むかよ……。アンタ、どうして神を止めてくれなかったんだ!! 破葬なんて創造主だろうと絶対にやっちゃいけないことだろ!! 人間界にどれだけ多くの命が根付いていたと思ってる!? 無数の命がそれぞれ色んな思い抱いて生きてたんだぞ、それを創造主一人の勝手な判断で壊していいはずがない!! それも、人間界全てを絶対悪と決めつけて一瞬で何もかも無に帰す破葬なんて残酷な方法で……!! なあ、何か違うのか? 僕や……、みんなの言い分は何か間違ってるのか……?」
「間違ってるも何も……、神の決定は絶対だ。私にそれを変える力などありはしない。聞き入れるしかないんだ。分かれミカエル。全て仕方のないことだった」
辛うじての反論だった。何故ならミカエルの意見は何も間違っていない。突然に命を絶たれた人々の気持ちを想像すれば当然のこと。しかし、破葬は神の決断なのだ。神の決断に対して反論を述べるなど、到底許されない。
「もういい……、アンタと話しても埒が明かない……」
プチリと唇の端を噛み切るとミカエルは歩を進めてラファエルの脇を通り抜けた。
「待て、何処に行く?」
「決まってるだろ。神を殺しに行くんだよ」
「ミカエル!!」
叫んでラファエルは歩き去ろうとしたミカエルの腕を捕まえた。しかし、立ち止まる気はないとばかりにミカエルは振り向きもせず前だけを見つめる。
「離せ。僕は、立ち向かうだけ無駄と分かってても、やっぱり神を殺しに行く。敵わないって分かってても、それでも神を殺しに行く!! そうしなければこの思いは収まらない!!」
叫び振り向いた瞬間、ミカエルは何処からともなく銀色に輝く長剣を取り出し、その手に握った。ラファエルを睨み据える真っ直ぐなアクアブルーの瞳、そして強く握られた長剣……。本気、ということだ。ならば尚更ラファエルはこの手を離すわけにはいかない。
「ミカエル、いい加減にしろ!!」
「うるさい、どけ!! この手を離せ!! 離さなければ斬る!!」
「馬鹿野郎が!! 無駄死にすることが何になる! それで友は喜ぶか!? よく考えろ、頭を冷やせ!!」
必死の説得。しかし今のミカエルにラファエルの言葉は何も届かない。
「どうしても手を離さない気かよラファさん。なら、アンタにだって容赦しないよ……!」
明らかな殺気を持ってミカエルの手が長剣を握り直した。
「馬鹿が」
ラファエルが舌打ちすると同時にミカエルが長剣を振るった。横一直線の斬り……、ラファエルが一歩後ろに飛び退くのが僅かでも遅れていたら今頃胴体が腰の位置で真っ二つに分かれていたことだろう。
こうなっては仕方がない。
応戦するためにラファエルは何処からともなく金色に輝く槍を取り出して握り構え、大振りな攻撃を避けられたことで僅かに体制を崩していたミカエルを見やった刹那、ミカエルは即座に剣を構え直し、ラファエルへ向けて斬りかかった。
だが、冷静さを欠いていたことが仇になったとしか言いようがない。普段のミカエルならこの間合いの意味に気付いただろう。彼が不用意に一歩踏み込んだそこは完璧なラファエルの間合いだった。ゆえに間髪入れずラファエルは指で弾いて槍を半回転させてから、真っ直ぐに槍の柄でミカエルの喉笛を一突きすると続けざまに槍を振り回して喉の痛みへ気を取られ防御の甘くなったミカエルの手を叩き、握っていた長剣を弾き飛ばした。そしてミカエルの目に一切の降伏の意思が見られないと判断するや、槍をもう一度手の中で回して握り直し、彼のみぞおち目掛けて槍の柄を叩き込んだ。その間は僅か一秒も満たなかったかもしれない。刃の部分を使わなかったのはせめてもの優しさである。それでもラファエルの一撃だ、その衝撃たるや半端ではない。
「ゲホ……ッ!」
ミカエルは血混じりの唾液を吐き散らし、強打された腹を抱えてよろめいた。ラファエルがこうして腕を差し出しその身体を抱えなければ今頃は顔面から地面に倒れ伏していたことだろう。
「思い知ったか? お前は私にすら勝てやしない。なのに神へ牙を剥くと? やれやれ、笑い話にもなりませんね」
平然とラファエルは自身の腕に力を無くして全身の体重を預けているミカエルを見やった。
「ち、畜生……っ!」
腹への一撃で全身の力は抜けている、それでもミカエルは尚ラファエルの腕に爪を立ててまだ心は死んでいないと意地を張る。
「諦める気になりましたか?」
無いことは明白だが、ラファエルは敢えて問いかけた。
「ふざけんな……。まだだ。まだ諦めてたまるかよ……」
察しの通りな答えである。
「成る程。この程度で冷える頭ではなかったようですね。いいでしょう、分かりました」
言うとラファエルはミカエルを腕に抱えたままその場から音もなく姿を消し、ある場所へと向かった。
耳に届くは柔らかな川のせせらぎ。
「ほら、ミカエル。これならその煮え滾って収まらない頭も冷えそうではありませんか?」
淡々と言ってラファエルはミカエルの髪をグイッと引っ張り、その項垂れていた顔を無理矢理に上げさせた。
「う……!?」
呻くミカエルの目に入ったのは、キラキラと光を反射させ穏やかにせせらぐ透き通った川であった――次の瞬間である。「何をする気だ」と言わせる間もなくラファエルはその川に向かって掴んでいたミカエルの頭を思い切り叩きつけた。
バシャンと水の跳ねる大きな音が静かな静かな川辺に響き渡る。
当然、川に頭を突っ込んでしまったミカエルは反射的にすぐさま顔を上げようとした。だがラファエルの足に頭を踏みつけられ、再び頭はどっぷりと水の中へ。先程まで透き通るほどに美しかった川の水にミカエルの流していた血涙が滲む。
「ぶあ……っが……!」
溺れかけ必死に脱出を試みるミカエルだが、その度にラファエルの足が脳天を踏みつけ息を吸うことを阻止する。
「もう少し冷やしたほうがいい」
ラファエルは表情一つ変えずミカエルの頭を川の水に沈めながら苦しげにゴボゴボと彼が噴き出す泡や海草のように揺らめく水色の長い髪、顔を上げようと必死に足掻く様を見つめた。
そうして抵抗する力すら失い手足がダラリと下がった頃にようやくラファエルはミカエルの襟首を掴み、まるでゴミを扱うような態度で川から引きずり上げた。
「どうだ。この水は冷たくて気持ちいいでしょう。もう頭は無事に冷えましたね?」
……しかしミカエルは必死に息を吸うばかりで何も答えない。
「まだ足りなかったか」
溜め息ついてラファエルはもう一度ミカエルの髪を掴み、川の中へと叩き込んで頭を踏みつけた。そしてジタバタと苦しみ足掻く姿を見つめ動きが弱まってきたところでまた川から上げ、それでもミカエルが反省の弁を述べぬと見るやまた川へと叩き込み……これを何度も何度も繰り返した。
そして、何度目だったろうか。草むらに放り投げられたミカエルが「もういい、分かった……」と、やっと音を上げてくれた。
「それでよし」
無駄死にするなと叱っておいて自分が彼を殺してしまってはどうしようもない。ラファエルはゴホゴホと苦しげに水を吐くミカエルを見下ろした。先程まで怒りでがむしゃらに神殿へ向かおうとしていた様子とは違い、むせながら胸を必死に手のひらで叩いているミカエルの姿には心なしか普段の茶目っ気が垣間見える。少しは落ち着きを取り戻したと見ていい。
「ようやく落ち着いたか」
身体を丸めて水を吐くミカエルを見下ろし、ラファエルは安堵の息を吐いた。
「っもうちょっと……、マシな方法は、なかったんですか……!?」
苦しげにミカエルが言葉を紡ぐ。
「これが一番いい案だと思ったんだ。何か問題あるか?」
言い切ってラファエルは胸を張った。悪びれなど一切窺えない態度である。
「……いいよ、もう……」
これは苦情を言うだけ無駄と判断したミカエルは半ば諦める形で口をつぐみ、草むらの上へ仰向けに寝転んだ。
胸を大きく上下させながら見上げた空の青さが目に眩しい――――ミカエルは何もかもが夢だったのではないかと思えた。冷静になって、友を失った実感の薄さに気付いたのである。
しかし、残念ながら夢ではない。確かに今日人間界は破葬され、それと同じく友も全て一瞬の光で灰にされた。そして、この手に掻き集めて土に埋めた。確かに埋めた。
何もかも、夢ではない。何一つ、夢ではない。
ふと、自分を淡々と見下ろすラファエルと目が合った。
「お前には何も強制はしないよ。好きな所に行き、好きなようにすればいい」
優しさなのか哀れみなのか見限りなのか判断つかぬ声色でラファエルが言った。
「なにそれ……。どういうこと?」
判断に悩んだミカエルは素直に言葉の意味を問うた。
「もうこの天界は、お前にとって何もない場所なのだろう?」
相も変わらず感情の読めぬ淡々とした目がミカエルを見つめる。
「ああ、そりゃあもう……。ついさっき何一つ無くなったわさ……」
「ならば好きにしろ。近い将来に神は魔界に対しても破葬を実行する。『その時が悪魔にとっても最大の好機』だ。良くも悪くも戦争は終わる。その際、天に味方するか地に味方するかはお前次第だ。どちらにもつかず傍観する手もあるがな」
「ラファエル、それって……」
「ああ、単独で神に突っ込んで犬死にだけはするなという私からの優しいアドバイスだ」
「ラファエル……!」
淡々と言葉を紡ぐラファエルとは正反対にミカエルは驚きを隠せなかった。神の右腕であるあのラファエルがミカエルに対し魔界への加勢を許可しているのである。何がどう転んでも通常は有り得ない。神への冒涜行為であり、ラファエル自身の負担が増すだけ。なんの利益も与えない話だ。
一体なんのつもりなのか……。
ミカエルが疑問に満ちた目で見つめる中、ラファエル本人はもうお話終わりと背を向けてしまった。あっさりしたものである。
「ゆっくり考えろ。私からはもう何も言わん」
そしてラファエルはミカエルを川に突っ込んだ際に水が飛び散って服の裾に張り付いた水の雫を手でパッパと払った。
「待ってよ……。なんでそんな……?」
ミカエルは今にもこの場から音もなく姿を消してしまいそうなラファエルを呼び止めた。突然与えられた自由に戸惑ったのである。しかし、ラファエルはこういう問いに対して素直に答えるキャラではない。
「さあ、お前の血涙を見てこの真っ平らな胸が痛んだせいかな」
振り向きもせず鼻で笑いながらこの答えである。しかしこれでも一応は彼の本心だった。ミカエルの取り乱した姿を見てラファエルの心が揺らいだのだ。と、それはともかく真っ平らな胸という発言……。なんと返していいやらなミカエルはとりあえず「そっか」と頷くにとどまった。
「言っておくが、お前が魔界に加勢する道を選んだとしたら……その時は容赦しない。迷わず刃を向けてお前を貫く」
「ははっ、参ったな」
もう既に進路をラファエルにいとも容易く見破られていると悟ったミカエルは堪らず苦笑いをした。そして彼に向けて何年か振りにこの言葉を放つ決心をした。
「ありがとう」
ラファエルへ心から感謝の言葉を述べるなど、いつ振りのことだったか――――。
「ミカエル?」
ありがとうの言葉を受けてラファエルは弾かれたようにミカエルを振り返った。だが、そこにはもう彼の姿は影も形もなかった。
何事も無かったように川がせせらぎ、草花が揺れる。
「……行ったか……」
ポツリ呟いたちょうどその時、少し強い風が吹いた。そしてラファエルの長い長い金色の髪が、寂しそうに揺れた。
ちょっと小腹が空いたので紅茶片手にお菓子でもつまもうと一階のキッチンを漁っていたルシフェルの耳にコンコンと城の扉を叩く音が聞こえた。
「え? 珍しいなあ〜」
街の住人は遠慮をして滅多なことではルシフェルの城を訪れない。またバアルやレヴァイアは何故か正規の入り口ではなくもっぱら黙ってベランダなどから入ってくる。いや、ベランダから入ってくるならまだいい。たまに意地悪で音もなく背後に現れたりする。あれは心臓に悪い。ゆえに予告なく扉がノックされることは稀なのだ。
一体誰だろう……。戸惑っていると、急かすように再びノックの音が響いた。
今バズーとデイズは食料品の買い出しに行っている。カインは朝ご飯を済ますなり何処かへ出掛けてしまった。と、なると、ここは女帝自らが応対するしかない。
「はいはいはーい。今行きますよー。どちらさんですかー?」
そうして早足に向かって扉を開けた瞬間、ルシフェルは驚愕で口をあんぐりと開けたまま硬直してしまった。なにせ扉の向こうに凡そ魔界の景色には似つかわしくない眩いオーラを身に纏い透けるような水色の長い髪を揺らした白い服の大天使が立っていたのである。
「エヘッ。来ちゃった〜ん」
硬直するルシフェルをよそに大きなキャリーバッグを持ったその天使は茶目っ気たっぷりに首を傾げて微笑んでみせた
「あ、あ、あ、アンタはミカエル!! 来ちゃったって何よ来ちゃったって!?」
この水色の髪に妙におっとりとした脳天気な口調、一度会っただけだがよく覚えている。間違いない、彼は先の戦争にてバアルの危機を伝えてくれた変わり者の天使ミカエルだ。もちろん冗談半分に彼を魔界へ勧誘したこともよく覚えている。しかしあくまで冗談半分だった。まさかそんな本当に家へ訪ねてくるとは夢にも思ってはいなかった。
「んっもう聞いてよルーちゃん! 僕ねえ昨日あの頑固兄貴のラファエルと喧嘩しちゃって〜! ちょーど神様にも愛想尽きちゃったしこれはもう家出のタイミングでしょってことで…………あれれん? ル〜ちゃ〜ん? どうしたのん? ねえねえ」
目を見開き硬直したままでいるルシフェルの様子に気付いたミカエルが顔の前で手のひらを振る。しかしルシフェルの眼球はその手の動きを追うこともなく驚愕の色に染まったままミカエルの顔を凝視し続ける。
こりゃ参ったなあ〜、いきなり過ぎて驚かしちゃった……と、ミカエルが反省の感情を抱いたその時、背後に只ならぬ気配を察した彼は素早く振り返った。するとそこには死神の如く上から下まで黒尽くめでもって赤い目を殺意に光らせた白髪頭の男が一人……。
「妙に眩しい野郎が遠目に見えたから急いで帰ってくりゃ案の定だ。なんなんだ、テメェは。そのゴージャスな風貌からして上級の女天使か!?」
「あっ、はい僕わりと上級……って、女!? 女天使!? お兄さん今この僕を女と言いましたね!? こんにゃろ、ドコに目ぇつけてんだよ!! この雄々しい胸板が目に入らぬか!!」
カインの胸ぐらを掴んで「よく見ろ」と自身の胸板をビシッと指差すミカエル。しかしマズイ。胸ぐらはマズイ。これは完璧な喧嘩の合図である。
「ぁあ!? やっぱりヤル気か、そうこなくっちゃな!!」
やはりだ。スイッチの入ってしまったカインは鬼の形相でもって意気揚々と声を荒げミカエルの胸ぐらを掴み返すと有無を言わさずその端正な顔に拳を叩き込んだ。だが、この頼りない見た目とは裏腹に腐っても上級天使。一発で容易に怯むミカエルではない。彼は咄嗟に足を踏ん張って体制を立て直すと殴られ赤くなった自身の頬に目もくれず拳に力を込めた。
「テメー顔を殴ったな!! 顔は男の命なんだぞ畜生が!!」
お返しとばかりにカインの顔面に拳を叩き込むミカエル。だがカインもカインで一発の衝撃に容易く怯むような男ではない。
そんなこんなで怒涛の殴り合いが始まってしまった。
「……あっ、ちょちょちょちょちょちょっと!! ちょっと二人ともやめなさーい!!」
ドカドカバキバキとなんかもうエラいことになってしまったあたりでようやく硬直の解けたルシフェルが慌てて仲裁に入った。しかし頭に血の昇った男二人をなだめるのは簡単ではない。二人とも殴り合いに夢中でルシフェルの言葉に全く耳を貸さない。ならば――――
「コラー!! 喧嘩やめないとオヤツ抜きだよ!!」
泣く子も黙るこの言葉でどうだ。
(なんちゃって、効くわけないか…………あれ?)
何故だろう、二人とも綺麗に拳を止めて「オヤツ抜きは勘弁」な目をルシフェルに向けた。
その後、落ち着いたところで三人揃ってバアルの城に向かい簡単な事情を話すとミカエルはその場ですんなりと仲間入りを認められた。しかし、本当に簡単な事情説明だった。ミカエルが述べたのは「神に愛想が尽きた」というたった一言だけである。バアルはそれだけで頷き、正式に堕天もしていない彼を受け入れた。今の今まで悪魔を一人も殺傷したことがない経歴を見込んだのだという。裏切り行為をしたらすぐさまブチ殺すと一応の念押しはしていたものの、バズーやデイズの時もルシフェルは感じたことだがバアルのチェックは結構甘い。それだけ彼の心に余裕があるということなのかもしれないが……。まあバアルが良しというなら良しなのだろう。隣でレヴァイアも賛成していた、彼らの判断が間違うはずない。
そしてミカエルはそのまま家事全般の手伝いをすることを条件にバアルの城へ居候することとなった。ルシフェルの城とバアルの城どちらに住むかという話になった際ミカエルが即座に「バアル様のお城へ是非!!」と言ったためである。
しかし家事全般の手伝い……。ドSなバアルにそれはもう良いようにこき使われる姿が生々しく想像出来るが当の本人は憧れの人と同じ城に住めるということで大喜びだ。そっとしておこう。
こうして天使ミカエルはルシフェルたちの仲間になった。
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