【02:黒服の花嫁】
――『此処は……、何処なの? 私は誰なの?』それが、私の産声でした――
「嗚呼……、一体なんなの? 此処は何? 私は何? ……分からない!! 何も分からない!! 誰かいないの!? 助けて!! 誰か!!」
腰まで届かんばかりの長い金髪を風に揺らし、宝石のような青い瞳と透けるような繊細な容姿を誇るその美しい女は一糸まとわぬ姿のまま頭を抱えて大地に膝をついた。
周囲は見渡す限りの緑豊かな大地、頭上には透けるような青空、遙か向こうには青い海が広がっている。何もかもが美しくて果てしない。ゆえに、寂しい。そして彼女の中で「何も分からない」という思いが心の奥底から大きな不安となって膨れ上がり、わけも分からず絶望に伏してしまったのだった。
そもそも何故こうして自分が立っている場所を『大地』だと思ったのか。頭上に広がるものを何故咄嗟に『空』と呼んだのか。彼女は何も分からなかった。
「こ、怖い……、怖い……。でも『怖い』って、なに……? わ、分からない……、なにも…………」
ただただ、涙が溢れた。その時だった。
『そう狼狽えるな。そこは人間界と呼ぶ場所。そして汝の名はリリス。我が手より生まれし人類最初の女、リリスだ』
予期せず空から響いてきた重々しい声にリリスと呼ばれた女は飛び上がらんばかりに驚いた。ただ単純に初めて自分以外の声を耳にしたためである。
そう、彼女こそが後に人類最初の女性として歴史に名を残したリリスその人だった。
「私の名は……、リリス?」
『そうだ』
リリスの問いに空の声は簡潔に答える。
「あの、教えて! どうして私は此処にいるの!? どうして私は一人ぼっちなの!?」
不安を取り除きたい一心でリリスは空に向かって声を張り上げた。なにせ分からないことが多過ぎる。頼れるのはこの空から木霊す声だけだ。縋るしかなかった。
『質問だらけだな。いいだろう、教えてやる。汝がそこにいるのは我が産み落としたからだ。我こそが汝の父であり母である。孤独の理由は、汝の夫となるべきだった男が大罪を犯し、この地から追放されたためだ。これについては早急に手を打とう』
空の声はリリスの質問に丁重に答えた。
「えっと、よ、よく分からないけれど、分かりました。……えっと、その私の夫となるはずだった方は今、何処にいるのですか!? あ、あの、私、その人にお会いしたい!!」
リリスは縋る思いで再び声を張り上げた。孤独に耐えられないと思ったからだ。もう一人、自分と同じ境遇の者がいるならば是非とも会いたかった。そうすれば何か変わる気がした。同じ境遇ならばこうして自分が不安でいることも何もかも理解してくれると思ったのである。だが、空の声は難色を示した。
『残念だが汝とその男と会わせることは出来ぬ。ゆえに早急に手を打つと言った。すぐに汝と同じ人間を創って地上に送ってやる。暫し待て』
「そんな……。ではもう一つだけ聞かせてください! どうして私をお創りになられたのですか!?」
『汝の質問は意味のないものばかりだな。付き合っていられぬ。だが最後に教えてやろう。汝を創った理由、それはこの世界を充実させるためだ』
「この、世界を、充実……? 充実って、何ですか!? 何故それに私が必要だったんですか!?」
リリスはわけが分からず空に向かって叫んだ。だが、再び空から返事が来ることはなかった。
「お呼びですか?」
ラファエルは跪き、神に問いかけた。今日、突然の呼び出しを食らったのだ。どういう要件だろう。なるべくなら簡単な用事がいい、それが本音である。
『我が先日、人間の女を創ったのは知っているな?』
煌めくカーテンの向こうから重々しい声が響く。
「はい。それが何か?」
『あの女には生まれながらに余計な感情を与え過ぎたかもしれぬ。結果、自分の存在理由だのなんだの、つまらぬ疑問を抱いてしまった。……カインたちに続いて失敗作にはしたくない。よって汝に監視を頼みたいのだ。あの女が下らぬことを仕出かさないようにな。特に、万が一サタンたちと関わられては面倒なことになる』
「成る程、分かりました。……ところで、サタンたちと関わると面倒なことになるとは?」
『あれは女。つまり子を産むことが出来る。サタンたちに利用されて悪魔を大量に産み落としでもしたらどうなると思うか、ラファエル』
「それは厄介な……ことになるでしょうね。分かりました、暫く私が監視します」
『頼んだぞ、ラファエル。お前だけは我を失望させるな。とはいえ急な頼みだ。明日から始めて構わぬ』
「承知しました」
必要最低限の淡々とした会話を終え、ラファエルは一礼して神の間を出た。
天界は今日も綺麗な青空が広がっている。眩しい。
(女……。子を産むことが出来る生き物……か。まあ私には関係の無い話だな)
ボソリとラファエルは心の中で呟いた。無性の身体を持つラファエルは自らが子を産むことも女を孕ませることも出来ない。しかし一度でいいから赤子をこの腕で抱いてみたい……という人並みの願望は少なからず持っていた。
(望んだ所で無駄か)
ラファエルは近くにあった大きな石に軽く腰かけた。不可能なことを望んでも虚しいだけ。一休みして忘れようと考えたのである。と、そこに赤子を抱いた一人の女天使が駆け寄ってきた。
「あの、ラファエル様」
女は少し息切れしながら申し訳無さそうにラファエルの顔を覗き込む。なんだか口篭っている様子だ。
「なにか?」
腕組しながらラファエルは少し怪訝な表情を浮かべた。彼は滅多なことでは身分の低い天使からこんな至近距離で声をかけられたりしない。ゆえに警戒したのである。
「すいませんっ! あの、他に近くに人がいなくて、それで……」
「何ですか? 簡潔にものを言いなさい」
「はい! スミマセン! えっと、こ、この子を少し抱いていて頂けませんでしょうか? あの……あの……私、お手洗いに行きたくて!! き、緊急事態なんです〜っ!!」
「はああ!?」
何を言いやがるんだ、この女っ! と、喉まで出かかった言葉を飲み込みラファエルは眉をひそめた。しかし緊急事態なら仕方が無い。見ればこの赤子、金色のふわふわした髪、ぷちぷちしたお肌、小さな手に無邪気な笑顔ととても可愛らしい。ラファエルの中で何かの感情が疼いた。
「可愛い子ですね。いいですよ、抱いていてあげましょう。どうぞ、急ぎなさい」
言ってラファエルがそっと両手を差し出すと女は目を輝かせた。
「あっ、ありがとう御座います! 宜しくお願いします! すぐ戻りますので!」
何度も何度も頭を下げた後、女は優しく赤子をラファエルに手渡して凄い速さで一直線に走り去っていった。本当に緊急事態だったわけだ。
「……まさか、こんな形で赤子抱きたい〜の願いが叶うとは……。世界には不思議が一杯だな。ねぇ?」
ラファエルの問いかけに赤子はわけも分からないだろうににニコニコと笑みを返した。赤子独特の匂いと、柔らかな抱き心地……、いいなあ、コレ欲しい、飼いたい。と、ラファエルは女神のような優しい微笑みを浮かべた。
その頃、リリスはがむしゃらに走っていた。行くあては何処にもない。ただ『此処』にはもういたくなかった。その一心でただただ走っていた。走ったところで何がどうなるわけでもない、だが、何もしないよりはマシという考えが彼女をただただ突き動かした。
(此処は酷い所だ。あの声の主はきっと冷たい人だ。私は一人ぼっちなんだ。……全てが嫌だ。此処の全てが!!)
何故ここまで嫌悪感を覚えたのか、それはリリス自身よく分からない。しかし『世界を充実させるためにお前を創った』、『寂しいなら早急に同じ人間を創って地上に送ってやる』という言葉は彼女を無条件に恐怖させた。
逃げなければならない。逃げなければ。何故か分からないが夫となるはずだった男以外の人間になど決して会ってはいけない気がした。会ったら、汚れる気がした。
――逃げなくちゃ――
心の中で叫んだその時だった。リリスは「あっ」と声を上げて思わず一歩後ろに身を引いた。
目の前に、この世の全てを飲み込むかのような大きな大きな底の見えない黒い穴が広がっていたからである。
「これは……、何?」
深い深い断崖絶壁、果てなどないと思えるほど地平線の遙か向こうまで広がっている黒い穴。風の音が何かの雄叫びのように木霊す。
リリスは恐る恐る身を乗り出して穴を覗き込んだ。……やはり底は見えない。一体これはなんの穴なのか。
『そこは駄目だ!! そこは死の世界へと繋がっている!! 近づいてはいけない!!』
不意に空から声が響いた。今までになく大きな声が。
「死の、世界?」
『そう、死の世界。我に反逆し、我を悲しませた罪人たちが堕ちていった穴だ。離れろ!! 今すぐに離れるのだ!!』
空からの威圧的な声にリリスは少し身震いした。ただ穴を覗き込んだだけである、何をそんなに怒ることがあるのだろうか。
(そもそも別に私が此処に堕ちたところでなんだというの……。また早急に別の女を創ればいいだけの話じゃない……。……あれ? まさか……)
リリスはふと気付いた。自分の夫となるべきだった人は罪を犯し、この地を追いやられた。と、いうことは……。
「教えてください。もしかして、私の夫となるべきだった方はこの穴の底にいるのですか!?」
『そんなことはどうでもいい!! いいから、そこから早く離れろと言っている!!』
「そんな、こと……?」
生まれて初めて『怒り』という感情がリリスの全身を突き抜けた。
「……私を理由もなく創って……こんな世界に一人ぼっちにして……! 私は会いたいの! 夫となるべき方に! ……あ、貴方の言うことなんか聞くものですか!」
リリスは勢い良く走りだすとそのまま躊躇うことなく真っ黒な穴の底へと飛び込んでいった。
『……なんということだ。また失敗作だったのか……』
酷く落胆した声が誰もいなくなった人間界に虚しく響いた。
これを機にこの真っ黒な大穴は神の手によって早々に埋められた。
これは元々、反逆した天使たちを落とした際に出来た魔界へと続く大穴だ。あまりにも深い穴、埋めるには神でさえも少しばかり力を使う。ゆえに後回しにしたことがこのような形で災いした。
神は僅かも予想もしていなかったのだ。脆く弱く創ったはずのリリスが星の裏側、世界の果てにあるこの穴まで己の足だけで辿り付けようとは……。
「いやあ、今日もお月様が綺麗だなあ〜」
サタンは呑気に赤い月を眺めながら日課である散歩を楽しんでいた。
住めば都とはよく言ったものである。この魔界とやらも慣れてみればそう悪い所ではない。自分の城も最近完成して寝床も完璧。街もみんなの頑張りで随分と立派なものになった。こんな荒地どう頑張っても住み良くはならないだろうと思ったが炎を操る者、水を操る者、草花を咲かせる者、みんながそれぞれの力を遺憾なく発揮してくれたお蔭でなんとかなった。何事もためせば成る、サタンは満足気だった。
「さ〜て、この辺でお茶でも飲むかな〜」
サタンはニコニコと手に持っていたビンの栓を抜いた。が、お茶と言いつつ中身は酒である。冷やして持ってきたこの酒を散歩の途中に飲むのが至極、生きてて良かった! と思える瞬間なのだ。が、彼がビンに口をつけて自称お茶をグッと一口飲むと同時に目と鼻の先で大きな衝撃音が響いた。ドカンッ!! と何かが勢い良く堕ちてきたような音。サタンは驚いて思わず口から自称お茶をブーッと吹き出してしまった。
「う……うおお〜!? なんだ、なんなんだ!?」
動揺しつつもサタンは音の方に目をやった。地面から砂煙が上がっている。一体何が堕ちてきたのか。目を凝らしてみると……、サタンはあまりのことに「ひゃあ!」と間の抜けた声を上げてしまった。
「ななななー!? 全裸の女ぁあああーー!?」
しかもナイスバディ〜。サタンはそれはもう顔を赤くした。が、これは何気に一大事かもしれないと思い、すぐに気を引き締めた。
腰に届かんばかりの長く美しい金色の髪、華奢な身体、しかし豊かな乳房、繊細な顔立ち……。率直に言えばとても綺麗な女性である。だが、『この女性は一体、なんだろう』。羽も独特の神々しいオーラも無いのでまず天使ではなさそうだ。しかし悪魔でもない。悪魔の中に金髪はいない。奇形化している箇所も特に見当たらない。
(一体、この女はなんだ……?)
サタンがまじまじと顔を覗き込むと、女は小さく呻いて身体を捩ってみせた。成る程、どうやら死んではいないらしい。
「しゃんと生きてるようだな。えっと、こういう時は水が一番なんだが、まあこれでもいいだろ」
サタンは女を軽く抱き起こして口にビンを当てた。……しかし中身は酒である。女は弱っているところに刺激の強い飲み物を口に入れられたため、間髪入れずに飲んだものを「ブッ!!」と全て盛大に吐き出してしまった。身体が酒を拒否したのだ、仕方が無い。
「あーーっ、勿体無いっ!! 空にするまで飲んで吐くなんてー! これ結構上物なんだからな!!」
まったくくもう、と付け足してサタンはビンをポイと投げ捨てた。しかし吐けるほどの元気があるなら良し。案の定、間もなくして女はゆっくりと目を開いた。
「……私、生きてるの? ……あっ!!」
女は悲鳴に近い声を上げて飛び退き、目を弾けんばかりに大きく見開いてサタンの顔を凝視した。まるで恐怖に引き攣っているかのような表情。混乱しているのだろうか。
「な、なんだよ。怖がらなくてもいいぞ。俺は怪しいヤツじゃねぇって」
サタンは女の予想外の行動にも冷静に対処した。優しい声をかけて落ち着かせるつもりだった。だが、その意に反して女は涙を流し始めてしまった。
「ななな、なんで泣くっ!? 俺は何かしたか!? 違うぞ! お前最初から全裸だったぞ! 誤解すんなよ!!」
「違うの……。初めてなの……」
「だーっ!? だから違うって! 何にもしてねぇったら!! いいか俺はこう見えて紳士だぞ!! 了承も得ずにそんな行為に走るほど野蛮じゃないぜ!!そうさそれはもう女を大事にする主義なんだからあああああ!!」
「は、初めて……人に会えた!!」
言うと女は慌てふためくサタンに力強く抱きついた。こっちの言葉全く関係なしである。そんな女の必死な様にサタンは喚くのを止めて顔つきを変えた。
天使とも悪魔とも思えぬ女の姿。一つの答えがサタンの中に浮かんだ。
「お前、……まさか『人間』か?」
サタンの静かな問いに「はい」と女は泣きじゃくりながら頷いた。
人間――
「俺の名はサタン。アンタは?」
サタンは女が落ち着くのを待って一つ一つ丁寧に質問をしていった。お前は誰だ、何処からどうやって此処に来たのか……。すると女は自らを『リリス』と名乗り、人間界から来たこと、空の声に自分が世界を発展させるために創られた人類最初の女性であると告げられたことを語り、それからある人物を探しているとも話した。
「私、自分から穴に落ちたんです。あの世界は寂しい所で、私一人ぼっちで……だから……、えっと、私の前に創られた人間さんも、此処にいるみたいなことも聞いたし……。それで私、穴に、自分から……」
聞く限り彼女の話は信用出来る。生まれたばかりというのも納得だ。その真っ直ぐな目を見れば分かる。それに彼女は喋るのが下手だ。あまりにもたどたどしい。本当に今まで誰にも会ったことがなかったのだろう。と、いうか、そもそも男の前だというのに露な身体を隠そうともしない。きっとまだ恥じらいの感情が芽生えていないのだ。
「自分から堕ちてきたってことか。そうなると……なんか嫌な予感がするな」
「え?」
サタンの言葉にリリスは目を丸くして首を傾げた。
「う〜ん、アンタを迎えに長〜い髪の身体が細くて長くて女っぽいヤツが来る気がしてさ」
言ってサタンは自身の羽織っていたマントを外してリリスの肩に掛けた。彼女は敵じゃない。ちゃんと守ってやろう。まず本人は気にしていないがいつまでも胸を露にされていてはこっちが目のやり場に困る。……よく見ればどれだけ必死に世界の果てまで走ったのか、その足はボロボロで傷だらけだ。痛々しい。
「長〜い髪の身体が細くて長くて女っぽいヤツって、なーに?」
「神様の使いさ、多分そのうちアンタを此処に探しに来ると思う」
「私を探しに……。あ、それって、もしかしてあの人?」
おもむろにリリスがサタンの背の向こうを指差す。
嫌な予感。
サタンはそ〜っと後ろを振り返った。
「……うわー!! 出たあああああああーー!!」
視線の先にいた人物を見るなりサタンはオバケでも見たかの如き悲鳴を上げた。
「チッ、背中から仕留めてやるつもりだったのに。ええい、黙って聞いていれば誰が細くて長くて女っぽいヤツだ!!」
槍を構えたまま天敵ラファエルが怒鳴った。一体いつからそこにいたのか、全く気配がなかった。危ない危ない。彼は本当に黙って刺す気満々だったのだろう、その槍の先は真っ直ぐサタンに向けられていた。
「ああ〜、心臓に悪い!! まだドキドキしてるっ!! ったく、なんでぇラファエル。また神のパシリ? 大変だなァ、お前も」
「うるさい黙れお前に用は無い。さあリリス、私と一緒に上の世界へ戻りましょう。こんな埃っぽくてカビ臭くてなんか変な黒髪の男がいる世界なんて嫌でしょう?」
優しげに微笑んで歩み寄るラファエル。だが、その静かながら威圧的な声と鋭利な目付きにリリスは怯えた。
「わ、私、も、戻りたく、ありません……。もう一人ぼっちは嫌!! 私、此処にいたい!! この変な黒髪の人はとても親切だし、だ、大丈夫です!! 私のことは放っておいてください!! お願い!!」
「私を困らせないでください。後悔しますよリリス。神が言ったでしょう、すぐに仲間を創ってあげると。だから戻っても一人ぼっちではありません。何を恐れることがある?」
「……目よ……。空から目を感じたわ。私の足掻く姿をせせら笑うような! そんな世界にいたいわけないじゃない! あそこには優しさが何もない!」
「ふ〜ん。貴女を見守る神の目をそんな風に捉えるとはね」
「お願いします!! 私を此処にいさせてください! あの世界は嫌!!」
何がなんでもと哀願の目を向けるリリス。しかしラファエルにも引けない事情があった。
「なるほどね。気持ちはよく分かりました。しかし私は神に仕える身。その命令は絶対。ゆえに貴女の気持ちは関係ない。申し訳ないが無理にでも連れ戻します」
ラファエルは淡々と言い切り、リリスに向かって手を伸ばした。だが、そうはさせないとサタンが間に割って入った。
「離せ、サタン」
腕を掴まれたラファエルがあからさまに舌打ちをする
「やめろ、嫌がってんじゃねぇか!! 大体、変な黒髪の男って誰だ!! 俺か!?」
「そうだ、お前だ。そしてお前に用は無いと言ったはずだ。邪魔するな」
「テメェは無くとも俺には大有りなんだよ。それに、この女とは少し仲良くなっちまってな。悪いけど見過ごせねぇのよ」
「あ、あの……。あの……。や、やめて……。喧嘩は、ダメ……」
リリスが怯えた目で交互に二人を見やる。だが、既に戦闘態勢に入ってしまった二人にリリスの言葉は届かない。
「そうか、やれやれ……。お前に説得は通じないだろうな。邪魔するなら容赦はしない。馬鹿は死ね」
「な〜んてこと言うんだ畜生!! テメェが死ね!!」
この言葉を合図にラファエルは槍、サタンは拳を振りかざした。
「あ、ああ……」
臨戦態勢に入った途端サタンの頭部にニョキッとツノが生えたことを驚いてる場合ではない。何も出来ないリリスは一歩下がったところで二人を見守るしかなかった。
(私の、せいだ。私がワガママを言ったから、喧嘩が始まってしまった……。私のせいだ……!)
リリスは自分を責めた。だが、それでも何故か人間界に戻るとは言えなかった。言えばこの喧嘩は終わるだろう。そう、終わるのだ。そうすれば誰も傷つかない。分かっていた。分かっていたのに、それでも言えなかった。
(私の、せいだ……)
涙が流れた。……この『涙』とはなんだろう? 何故流れたのだろう? リリスには分からない。嗚呼、本当にこの世界は分からないことだらけだ。だが、そんな分からないことだらけの中にあって人間界に帰りたくないという気持ちだけは確かである。自分の正直な気持ち、これだけは譲ってはいけないと何処からともなく声がした。そうだ、譲ってはいけない、譲ってはいけないのである。そして譲れない気持ちというのは、こんなにも大きな代償を必要とする……。
リリスは涙を拭い、自分のために血みどろになって戦っている二人の姿を目に焼き付けた。
「いででで……、こんにゃろ〜……。そろそろ諦めろ、馬鹿!!」
身体中を槍によって穴だらけにされたサタンは地面に倒れ込んだまま前方に見えるラファエルを怒鳴りつけた。少し、刺され過ぎた。身体に力が入らない。
「お前こそ……、そろそろ諦めて、女を差し出したらどうだ……?」
ラファエルは横腹を押さえ片足を折って前のめりにうずくまったまま怒鳴り返した。拳による殴打で骨を何本か砕かれていたのだ。更に右腕はサタンの放つ炎で完全に焼き爛れていた。利き腕をやられたため、槍が上手く持てない。最早、どちらも余裕は無い。
「サタンさん……」
何度も何度も目元を拭いながらリリスは成す術なくその場にへたり込んでいた。一体どうすればいいのか。成す統べなくただ見ているしかない自分が情けなかった。
「……テメェが諦めろ!!」
サタンは残っている力を振り絞り、うずくまっているラファエルの首を掴んで地面に張り倒した。抵抗しようにも身体に力が入らなかったラファエルは「ぐあっ」と低く呻いてそのままサタンに首を許してしまった。ラファエルの細い首はサタンの大きな手にかかれば軽く片手で締め上げられる。
「うはははは!! マウントポジション取ったああ!!」
声高らかに優勢を喜ぶサタン。当然、ラファエルは面白くない。
「……クソが……!」
ラファエルは汚い言葉を吐き、左手を僅かに動かしてサタンの適当な傷口に指を突き刺した。
「いでー!!」
これは痛い。流石のサタンも声を張り上げ顔を歪めた。だが、首を絞める手を緩めることはなかった。この手を緩めたら確実に隙を突かれて負けると分かっていたからだ。
「おぇぇ〜……、貴、様……!!」
ラファエルは意地になってサタンの傷口に指を深く差し込んだ。しかし粘ろうとする本人の意に反して身体は音を上げてしまった。細い首の奥から「ゴキッ」と物騒な音が鳴り、直後ラファエルは口から血を吹いて力の抜けた手を地面に落とした。
今は敵とはいえ、この非の打ち所ない端正な顔が苦痛に歪む様はサタンにとって見ていて気分の良いものではない。
「もう、引け。俺はお前を殺したくない……!」
「……あ、まい……。甘い、な……。お前が……私を、殺さずとも、私は、お前、を、殺、す……。ふ、はは……っ。殺る、なら……今だ、違う、か……?」
「ラファエル! もう馬鹿なことはやめろ!」
「クク……ッ。お前こそ、馬鹿なことは、やめたらどうだ……? 神に逆らったところで、敵うはずが、ない……」
ラファエルは喉を潰されているにもかかわらず勝気な表情でサタンを嘲笑った。考え改める気は僅かも無いらしい。サタンが再度の説得を試みようとしたその時、それは恐らく最後に残っていた力だろう。ラファエルは指でサタンの右目を思い切り貫いた。
「ぎゃあああああああ!!」
まさかもう反撃されまいと思っていたサタンは突然の不意打ちと激痛にカッコつける余裕もなく無様な声を上げて体制を崩した。直後、隙ありとばかりに今度はラファエルがサタンの首を左の拳で締め付け地面へと張り倒した。起死回生の一撃。もうあまり力は残っていない、だが腕に全体重をかければ首くらい潰せるだろうとラファエルは踏んだのである。
「さあ……、今度は、私が絞める番だなぁ……? ゲホッ! ゲホッ! 聞くが……女を手に入れて、どうする気だ……? どうせ、お前の子供でも産ませたりでもして、便利に、利用する気なんじゃないのか……?」
「……えっ……?」
利用、その冷酷な言葉の響きにリリスは青ざめた。言われてみれば確かに、である。そもそも何故彼ら二人はあんな血みどろになってまで自分のために戦っているのか。そしてこれが無償の善意である保証が一体どこに……。ひょっとしたら相当の見返りを求めているのではないか。リリスの脳裏に幾つもの考えが巡り巡った。
「リリス、よく、お聞きなさい……。コイツは、この魔界の長。悪の権化……。惑わされるな、破滅するぞ!!」
「ぐぇぇぇ〜……テメェよくもまあ平然とそんな人聞き悪いこと言えるな!!」
サタンはラファエルの腕を必死に跳ね除けようとしながら怒鳴った。と、同時に二人の頭上から唐突にクスクスと笑い声が木霊した。
「そうそう。よくまあそんな酷いこと言いますね。誘惑してるのはどちらです?」
男とも女ともつかない丁重でおっとりとした声。こんな声を放つ者は一人しかいない。腰まである銀髪の長い髪を持ち聡明な容姿を誇る魔王の一人、バアルしか。
「……バアル、貴様……。クソッ、血の臭いを嗅ぎつけやがったかっ」
ラファエルは横目でバアルの姿を確認し、思わず舌打ちした。何せ状況が不利過ぎる。サタン一人相手にするだけでも大変だったというに。
バアルはフッと一瞬微笑むと無言でラファエルを蹴り飛ばし、強引にサタンから引き剥がした。彼は繊細な容姿とは裏腹に容赦というものが微塵も無い。
フゥ、とバアルが肩で息を吐く。
「あ〜あ、散歩の途中に全裸の女性を拾っちゃうなんて貴方ってば凄い人……。まあ、とにかく此処は私に任せて貴方は彼女を連れてお逃げなさい。そんな身体じゃ多分もう無理ですよ。お目々も痛そうだしね」
バアルはサタンを見下ろし朗らかに微笑んだ。確かに彼の言う通りサタンにはもう戦う力など残っていない。無理をすれば頑張れるだろうが、せっかくの助けだ、ここは素直に甘えるべきである。
「うううっ、畜生この野郎、美人な救世主だぜ惚れそうだ!! 悪い、じゃあ後は任せた!! すぐ戻るからな!!」
サタンは勢い良く立ち上がるとへたり込んでいたリリスの手を取って走り出した。
「大丈夫ですよ〜!! こんな死にかけ相手なら私一人で余裕、余裕〜!!」
見送るバアルの言葉にサタンは走りながら後ろを振り返った。……彼がお構いなくとばかりに手をパタパタ振っているのが見えた。余裕ぶっこき過ぎだが本当に大丈夫だろうか。少し心配だが、しかしサタンは今ひたすら走るしかなかった。
「……待って。ねえ、待って!!」
ラファエルたちが見えなくなるほど走ったところでリリスが突如足を止めた。引っ張ろうにもこれだけ足を踏ん張られてしまっては走りようがない。サタンは渋々立ち止まってリリスを振り返った。
「あ……」
息を切らし、潰れた右目部分から鮮血を滴り落とす男の鬼気迫る顔にリリスは一瞬息を飲んだ。だが、しっかりと確かめなければならないことがある。呑気に怯えている場合ではない。
「あの人の言っていたことは本当、なんですか? 私を誘惑って、どういうことですか? 利用するって、なんですか!?」
「ああ、その話か……」
リリスの質問にサタンは参ったな、と頭を掻いた。
「アンタ、地上に戻ったら多分殺されるよりも酷いことされるよ。神様は女の扱いが荒いからな。俺はそういうの見るの大嫌いなんだよ。つーかそもそも俺は女一人騙すためだけにこんな怪我出来るほど演技派じゃねえ!! 本当さ、アンタを助けたかっただけだ」
「サタンさん……」
リリスは暫く俯いて黙り込んだ。信じるべきか疑うべきか……。これは考えたところで答えなど出そうにない。ならば直感に頼る他ないだろう。自分の手をしっかりと握るサタンの手は力強くて温かい。この手が嘘であるはず、ない。
「……分かりました。私、信じます! だって貴方に会えた時、本当に嬉しかったもの!」
迷いを振り払うようにリリスは笑ってみせた。その心を汲み取ってサタンも「良かった」と笑顔で答える。この真っ直ぐな目が、嘘であるはずがない――。
「嬉しかったし、それに自分と同じ女の人の顔を見て安心しましたし! 貴方があの細長い人が言うような悪い人なら傍に女性がいるわけないですよね。私ったら変なこと言っちゃって……、ごめんなさい。助けてくれたのに……」
「いや、いいんだよ。アンタ生まれたばっかだろ? 色々と不安になって当然さ! 気にすんなって! 俺も気にしないからよ!」
サタンは自信満々に言ってのけた。が、直後に一つ疑問が浮かんだ。自分と同じ女の人を見て安心……。女? おかしい、今まで登場した人物の中に女はいなかったはずだが……。
首を傾げたその時、服に返り血をベッタリつけたバアルが音もなくサタンら二人の目の前に姿を現した。いやはや本当に真っ赤である。バアルはサタンと違い決して容赦などしないわけであるから、彼が躊躇うことなく瀕死のラファエルを思う存分いたぶっただろうことは想像に難くない。
「やれやれ。あと少しで殺せたんですが、もう一歩のところで逃げられてしまいました。残念です」
物騒な話をしながらバアルは少し乱れた髪を直して微笑んだ。
「ハハッ。そいつぁ残念。ところでレヴァイアは? なんでアイツは来てくんねぇんだよ。俺のピンチだったってのに!」
「ああ、あの子ったらどんなに揺すって起こしても昼寝からなかなか起きてくれないんで置いてきました」
「ひでぇ!! アイツ超ひでぇ!!」
嘆くサタンであった。と、二人の呑気な会話を傍らで聞いていたリリスがふとクスクス笑みを漏らした。
「お二人はもう子供もいらっしゃるんですね。私、ますます安心しました。何も分からない私ですけど、家庭を持っていらっしゃる殿方は信用出来ると本能が言っています」
「……え?」
彼女は一体、何を言っているんだろう。サタンとバアルは顔を強ばらせて同時にリリスの方へと振り向いた。だが、二人の戸惑いはいまいちリリスには伝わらなかったらしい。彼女は頭の中でどんどん想像を膨らませていった。
「いいなあ。美男美女の素敵な夫婦ですね。羨ましいっ。私も早く夫を見つけたいわ」
「な……ななななななな何言ってんだよリリス!! お前何か勘違いしてねえか!?」
「嫌だ、サタンさんたら照れちゃって。夫の危機に駆けつけてくださる妻がいてくださるなんて素敵っ! 愛って素晴らしいですね!」
「それって……」
一方的なリリスの言葉にバアルは開いた口が塞がらなくなってしまった。
恐らく、いや、絶対に彼女の言う「妻」とは自分のことを差してくれちゃっている。これはいけない。一体、何をどう勘違いされてしまったのか……。
「と、ととととと……とにかく今は俺の家に行こう! リリス泥だらけで服も着てないんだもんな! いいかリリス、女ってのはちゃんと胸を隠さなきゃいけないんだ! だからとにかく俺の家に行こう、そうしよう!」
言うとサタンは颯爽と先頭を歩き始めた。が、直後バアルに物凄く怖い目付きで迫られ、「テメェちょっと待て」とドスの効いた声で耳打ちされてしまった。
「何を誤魔化してるんですか……。早く誤解を解きなさい! 私が女、しかも貴様の妻と思われてるんですよ!?」
「ん〜……、まあ、悪くないじゃあないか。なあ、我が妻!」
気にすんなとばかりにケラケラと軽く笑ってサタンはバアルに寄り掛かった。おちゃらけた行動かと思いきや……、その傷の深さと出血量を見れば一目瞭然。正直なところ自力で真っ直ぐ歩くのが辛かった。
「だ、誰が妻ですか! 気色悪いったらもう! 早くどうにかしてくださいよっ。こんなの嫌ですってば!」
て、ゆーか、この場面で引っ付くのはマズイだろうと内心思いつつもバアルはサタンの傷を察して邪険に扱うことなく肩を貸した。
「まあ、待て。今そんなこと言ったらリリスが混乱しちまう。もし女顔の男を使って私を騙したのねーなんて言われたら大変だ。だから暫くは安心させるために嘘ついとこうぜ?」
「なんじゃそら。しかし、うぬぬぬ……、分かりましたよ、畜生め。不本意ですが人命救助のためには仕方が無いですね……」
渋々バアルは同意し、寄りかかるサタンをそっと支えた。なんだかんだで優しい男である。
「……どうでもいいけど、お前今日やたらと口悪くね? まさか生理?」
なんとなく深い意味はないが冗談でボソッと呟いてみたサタン。その0:5秒後に容赦なくバアルに渾身の力で頭を引っぱたかれることになろうとは夢にも思っていなかった。飛び散る血飛沫。彼は仲間に対しても少し容赦のない男である。
(嗚呼、てっきりサタンさんが私の夫となるべき方だと思っていたのに。まさか妻子持ちだったなんて……)
リリスは支え合って歩くサタンとバアルの後姿を見つめながら思った。
(でも、いいなあ。あんな夫婦になりたいな〜。私も早く夫になるべきだった方を見つけなくちゃ。何処にいらっしゃるのかしら……)
大罪を犯し、地上を追われたという本来リリスの夫となるべきだった男はきっとこの地の何処かにいるはず。大罪とは名ばかりにきっと自分と同じような境遇でうっかりこの地へ堕ちてしまっただけだ、そうに決まっている。一体どんな顔をしているのだろう、そして今どんな暮らしをしているのだろう。会いたい。会って話をしたい。
期待に胸が高鳴る。リリスはこの時、初めて『生まれてきて良かった』と感じた。
ちなみにリリスが「バアルは男だ」と知ったのは、それから7日後のことである。
――そう、私はその時、夢にも思っていなかった。この黒髪の男の人が将来自分の夫となることなんて微塵も――
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