【03:牢獄へ行こう】
――私の名はリリス。人間界に産み落とされたものの孤独に耐え切れなくて彷徨い、その場の勢いで魔界へと自ら堕ちてしまいました。でも後悔はしていません。そこで初めてのお友達に会えたのですから。そして今、私は魔王の皆様にお世話になりながら此処魔界で生活させて頂いています。毎日とても楽しくて幸せです。でも、一つだけ気掛かりなことがありました。未だ「私の夫となるべきだった方」に会えていないのです。きっとこの地の何処かにいるはず……。一体、何処にいらっしゃるのでしょう。大罪を犯し、人間界を追いやられたとされる夫となるべきだった人。私は、その人に、会いたい――
「リリス? 退屈させてしまってすいません。もう終わりましたよ。お気に召して頂ければ良いのですが」
耳元に囁かれた丁重な声にリリスはハッと我に返った。ついうっかり気が緩んで少しウトウトと船を漕いでしまったのである。
「あ……。すいません、バアルさん。私ったらボーッとしちゃって……」
差し出された手鏡を受け取りながらリリスは「も〜、私ったら……」と頭を軽く叩いた。
「いえいえ。ジッとしてると眠くなっちゃいますもんね。お化粧とか気に入らない箇所ありましたら言ってください」
言ってバアルは朗らかに微笑んだ。
今日リリスはサタンに連れられ、バアルに誘われるまま身なりを整えてもらいにこの城へとお邪魔していたのである。そしていつの間にやら夢の国に片足を突っ込んでしまったのだった。
さてさて、どんなことになったのだろう。意気揚々と鏡を覗き込む。
「……これ、私? ……凄い! 自分じゃないみたい! バアルさん、ありがとう! 自分で言うのも変だけど、凄く綺麗!」
リリスは綺麗に切り揃えてもらった髪と化粧で整えられた自分の顔を見るなり歓喜の声を上げた。年頃の女性らしい反応である。出会った当初は精神が未熟ゆえとても幼い印象を受けたが、なんのなんの。実に成長著しい。バアルは影でこっそり感心した。
「良かった。お気に召して頂けて。じゃあ次はお洋服ですね。このドレスなんて如何?」
「あっ、可愛いドレス! 嬉しいっ、早速着てみます!」
続けざまに前もって用意しておいた黒いドレスを広げて差し出すと、またリリスは歓喜の声を上げた。
「それじゃ、私は一旦部屋を出ておきますね。流石に私がいては着替えにく……」
バアルは言葉途中でピタリと硬直した。何故ならリリスが早速とばかりに着ていた服を脱いでしまったからである。
「う〜ん……、御免なさい。このドレスどう着るのか分からないわ。手伝ってもらえません?」
悪びれる様子も恥じらう様子もなく、リリスは胸を露にしてバアルに苦笑いした。
はて、未だ恥らいが芽生えていないだけなのか、それとも自分がまだ彼女に男扱いしてもらえてないのか……。バアルはリリスにドレスを着付けしつつ考えあぐねた。
あのねバアルは本当は男なんだぞとサタンが言ってもリリスはなかなか信じなかった。魔王三人がかり1時間以上の説得でようやく納得してくれたのだが、あまりにもあまりにも頑なに信じなかったため、バアルは思わずあの時「全く聞き分けのない女だ! ええい、こうなったら服を脱いでやる!」と叫んだのだった。幸い、未遂で終わったが……。
「うわ〜、可愛い〜っ。本当に本当に嬉しいですっ!」
リリスはバアルの複雑な心持ちを知ってか知らずかドレスを着た自分を鏡で見てキャッキャッとはしゃいだ。バアルはその姿を見て先程までの雑念をパッと振り払い、微笑んだ。
「フッ、完璧な仕上がり……。流石、私……。さあ、あちらで首を長〜くしてお待ちの野郎ども二人に一生懸命磨いた貴女の姿をお披露目してあげましょう」
「はいっ!」
リリスは元気良く頷いてバアルの差し出した手を握った。
「まだかな、まだかなー。二人はまだかなー。なあレヴァイア」
「まだだな、まだだな〜。女の支度は時間がかかるってホントなんだねえ兄ちゃ〜ん」
応接間、兼バアルの仕事場と化している城内のリビングにてサタンとレヴァイアはのんびり語らって時間を潰していた。隣同士、引っ付いたように椅子に座りながら……。と、不意にサタンは隣で煙草を吹かすレヴァイアを睨んだ。
「ってゆーかレヴァ〜。さっきからさ〜、煙が目に沁みるっていうか〜……。なんかそれ臭ぇんだけど! なんか目と鼻と喉とお肌にツーンと来るんだけど! なんなのそれ!」
「ぬあ!? 煙草を悪く言うなよサタン! これはだね、素晴らしいものなんだぞ!」
「どこがぁ?」
「言葉より経験! ちょっと吸ってみれば分かるって」
「え〜!? ……お前がそこまで言うなら、ちょいやってみよっかな?」
サタンは勧められるままにレヴァイアの吸いかけの煙草を口に咥えて軽く吸ってみた。が、レヴァイアの煙草はタール58ミリの超強力仕様。悪魔とはいえ初心者が耐えられるものではない。よってサタンは凄まじく咳き込んでしまった。
「ブホッ! ゲホゲホッ! おま……ウェッ! グェッホ!! ゲホゲホゲホ!!」
いやはや、とんでもない話である。こんなもの毒以外の何モノでもない。それはもうサタンはレヴァイアに向かって大いに苦情を訴えようとした。が、猛烈な咳で上手く言えない。こんなにもどかしいことがあるだろうか。
「おう、なになに?」
してやったり、ほぼ確信犯的な表情でレヴァイアはサタンの顔を覗き込んだ。
「ハァハァ……。な、なになにぢゃねーよ、馬鹿野郎……。返す……。こんなん要らねぇ……」
「え〜? なんで〜? 頭がクラッとしたりして楽しいでしょ、これ〜」
「ハゥハゥ……。レヴァちゃん、いつからこんなことする不良になっちゃったのかしら。お兄ちゃん悲しいっ」
「あ〜ん、お兄ちゃ〜んっ。でもバアルは平気で吹かしたけどなあ、コレ……。そもそも兄ちゃん炎を操るクセに煙がダメとはこれ如何に……」
嘆くサタンをよそにレヴァイアはボソボソと呟きながら揺らぐ煙を見つめた。と、その時、バアルが得意げな顔を浮かべて部屋へやってきた。
「お二人さん、お待たせしました。お嬢さん可愛く仕上がりましたよ。見てあげてくださいな」
さあ、いらっしゃいとバアルが手招きすると照れくさそうに伏し目がちになりながらリリスがやって来た。バサバサに荒れていた髪の毛は絹のようにサラリと風に流れ、無垢だった表情は化粧で一気に大人びた。身体のラインを強調したドレスもそれに一役買っている。……率直に言えば、綺麗だ。
「わ〜お!!」
先程まで気の抜けていたとサタンとレヴァイアにパチッと何かのスイッチが入った。リリスを見る二人の目の輝きたるや尋常ではない。
「すっげぇ!! リリっちゃん、可愛い〜っ!! こりゃ別嬪さんだ!!」
レヴァイアは火をつけたばかりの煙草を惜しむことなく灰皿に押し付けてモジモジと恥ずかしがるリリスの肩を叩いた。一方サタンはリリスに目を奪われたまま顔を赤らめてカチンコチンに硬直していた。
「……なんてこった……! 好みだ……!」
思わず口から零してしまった正直な気持ち。最初会った時に泥まみれだった彼女がまさかこれほどの器量とは思ってなかったのだ。
「いやだあ〜。嬉しいっ! そんなに褒めてもらえるなんて思わなかった〜!」
リリスはただただ照れて顔を赤くしていた。こんなにみんなが喜んでくれたのだ、隣でバアルも満足気である。
「それもこれもバアルさんの御蔭だわ。本当にありがとう御座います。お化粧上手なんですね」
「ははっ、いえいえちょっとした趣味ですので。喜んで頂けて何よりです」
「もうお姉さんが出来たようで私すっごく嬉しいっ! これからもっと色々お化粧とか教えてくださいね! 私、自分でも出来るように頑張りますから!」
「分かりました。任せてください」
リリスの言葉にバアルは至極喜んだ。が、すぐさま疑問が浮かんだ。
……お姉さんが出来たようで……、あれれ、お姉さん?
「ちょ〜っと、お待ちなさい。お姉さんが出来たようではなくて、せめてお兄さんでしょう、お兄さん」
「またまたバアルさんたら。いいんですよ、そんな性別を誤魔化さなくて。ちょっと胸が小さくて筋肉質だからって隠すことありません。バアルさんは十分に美人じゃありませんか」
悪気のない言葉。しかしバアルは顔をピクッと引き攣らせた。無理もない、納得したと思いきや彼女はまだバアルを女だと信じて疑っていなかったのである。静かに溢れるバアルの怒りの波動。サタンとレヴァイアはそれはもう硬直した。あまりにもしつこく女、女と言うとフェミニストを気取っている流石のバアルもキレるためである。そしてまさかリリスに怒りをぶつけるわけにはいかないだろうから八つ当たりを食らうのは確実にこっちだ。
……これは、一大事である。
「い、いやだなあ、リリスったら。そんなに言うならちょっとあちらで私の男たる証拠を……」
バアルはいつもより強張った笑みを浮かべリリスとさり気なく部屋を出ようとした……が、サタンとレヴァイアが慌てて止めに入った。バアルが何をする気なのか瞬時に察知したためである。
「よよよよ、よせ、バアル! 早まるな! お前はヴィジュアル系なんだぞ!!」
「そそそ、そうだよ! それにリリスはまだ男の身体なんか見たこと無いんだからどんなショック受けるか分かったもんじゃないよ、絶対ダメ〜!」
「え? え? え? なになに?」
二人の男の慌てようにリリスは動揺した。一方、道を阻まれたバアルは殺気立った目をギョロつかせてガルルッと獣のように喉を鳴らした。
「貴様ら邪魔するのか? そうか、私の邪魔をするんだな……?」
「やっばいよサタン。バアルったら……、完全にキレてる……!」
口調穏やかだが、間違いなくバアルは怒っている。レヴァイアはサーッと血の気が引いた。サタンも「マズイ」と冷や汗を流した。何故なら現三大魔王の中で最恐の人物は一度怒ると誰よりも暴走するバアルその人だったからである。しかし一度怒ると手がつけられない気難しい彼も「リリスはまだ子供なの、子供! 子供の言うことを真に受けちゃダメ!」というサタンとレヴァイア二人がかり40分にもわたる説得により無事大人しくなってくれた。そして次にポカンとやり取りを聞いていたリリスを捕まえて口酸っぱくバアルが女でないことを説明した。
やれやれ、である。
「ははっ、私ったらすっかり取り乱してしまいまして。どうもすいません、皆さん」
先程までの興奮は何処へやら、バアルは紅茶を啜って朗らかに微笑んだ。いつもの表情。気持ちはすっかり落ち着いたらしい。
リリスは身体こそ既に成熟しているが、まだ生まれたばかり。中身はまだまだ子供。思ったことを何でも素直に口にしてしまうのも無理はない。ここは寛容な心で接してあげるべきなのだ。たとえ、一番突っつかれたくないところを抉られても……!
「ま、まあ気にするな! リリスも気にするなよな!」
サタンはお茶菓子に出されたチーズケーキにフォークを刺しつつリリスの方に目を向けた。「はいっ」と勢い良く頷く彼女だが恐らくなんのことやら理解はしてないだろう。騒ぎの元凶だったというのに今やケーキを頬張るのに夢中だ。
「サタンこそ気にするなってオチみたいだな」
笑いながらレヴァイアが大きなチーズケーキを慣れた手付きで切り揃えていく。何気に皆に振舞われているこのチーズケーキは料理自慢である彼のお手製だ。
「あっ、ところでちょっとお聞きしたいのですが」
ふと思い立ったリリスはケーキに夢中になってる三人の男へ少し申し訳なさそうに声をかけた。
「ん〜?」
ケーキを詰め込んで頬をパンパンに膨らませたサタンが真っ先に振り向いた。
「あの、罪を犯してこの世界に落とされたという人間の男の人を御存知ありませんか? 私その人に会いたいんです」
いつ言おう、いつ言おうと思っていたことである。魔界にやって来て早10日、サタンが物珍しい人間の女を拾って世話を始めたという話はあっという間に街中に知れ渡った。と、なると、先にこの地に辿り着いた人間がいるならば気にして本人自らリリスを訪ねて来るか、街の誰かが仲間がいるよと教えてくれてもいいはずである。だが、一向にそんな気配はない。
とにかく、この地に来れば夫となるべきだった男に会えるとリリスは考えていた。しかし、そう単純にはいかないらしい。魔王三人から「また天から強引なお迎えが来るかもしれないから暫くは大人しくしておいた方が身のため」と言われたが、もう黙って待ってはいられない。自ら行動するしかない。
「罪を犯した人間ねえ……。う〜ん、なんか聞いたことあるような〜……」
サタンは紅茶を啜りながら唸った。するとバアルが「もしかして……」と口を挟んだ。
「それは人類最初の人間にして最初の人殺しとなった方のことではありませんか? て、ゆーか、絶対そうですよ」
「あっ、俺それ知ってる! そんで神様怒らせて牢獄に繋がれたって話だぜ」
「それ、本当!?」
後に続いたレヴァイアの有力情報的な言葉にリリスは大きく身を乗り出した。
「レヴァさん!! その牢獄って何処にあるんですか!?」
「あっ。確か〜、此処からそう遠くない場所で〜……デッカイ岩に囲まれた鉄製のデッカい扉が入り口で〜……その入り口までなら見たことあるよ。中はまだ知らない」
「おい、お前なんでそんなん知ってんだよ」
俺でさえ何にも知らなかったのに、と言いたげにサタンは眉間に皺を寄せた。
「いや、噂でさ。神が魔界に立派な牢獄造ったって聞いたから暇だし、どんなんか見に行ってさ。おっかないから中は見なかったけど」
「レヴァさん、お願いします!! 私をそこに連れてってくださいませんか!?」
リリスは立ち上がってレヴァイアに頼み込んだ。そこにいるかもしれないのだ。自分と結ばれるべきだった人が。
「そうだね〜、同じ人間に会ってみたい気持ち分かるな。じゃあ俺で良かったら案内するけど?」
みなまで言わずとも分かってます、そんな笑顔でレヴァイアは軽く応じた。
「是非是非お願いします!! 今すぐにでも行きたいんです!!」
リリスは舞い上がった。なにせ初めて掴んだ確かな手応えである。会えるかもしれない、とうとう会えるかもしれないのだ。
「うん、分かった。じゃあ食後の散歩がてらにちょっと行こっか」
「だああああああ!! 待った、俺も行く!! ここは魔界の帝王として俺も行く!!」
テメーだけにいいカッコはさせねーぜとばかりにサタンが素早くしゃしゃり出る。親切心よりもリリスと二人きりで散歩なんざさせてたまるか、ズルイ!! という考えだ。
「え〜? いいけど……。あんまり面白くはないと思うけどなあ?」
レヴァイアは首を傾げつつ、部屋の端に置いてある愛用武器のフレイルを手に取った。鎖に繋いだ大きな鉄球に鋭利なトゲが何本も生えている見るからに重厚な武器だ。
「おぉ!? なんで武器なんか持つかね、我が弟!?」
「牢獄はね、罪人を拷問するために天使がやって来てたりするって噂。何があるか分かんないからね、一応さ」
「あ、危ねぇじゃねえかよ、そんな場所!! やっぱ俺も行くぜ、リリスが心配だ!!」
「なにさ、そ〜んなに俺一人じゃ不安なわけ!? 俺だって女の子の一人や二人ぐらいちゃんと守れるのにさ! なんだい、なんだい! プーンッ!!」
プク〜ッと頬を膨らますレヴァイア。一方リリスはそんな大盛り上がりな男性陣を他所に「やっと決定ね」と胸を撫で下ろしていた。早く行きたくて仕方が無いのである。
「……私はお留守番してますね。いざという時には駆けつけますので」
バアルは静かに微笑んで椅子に深く腰掛けた。サタンとレヴァイアは気楽に構えているが牢獄というのは恐らく神の息が強く掛かっている場所。三人でノコノコ向かって万が一のことがあってはならない。留守番はその用心のためである。と、まあ、それは建前で先程大興奮して少し疲れた、もうちょっと休む! というのが実のところの本音である……。
まさかサボりとは思っていないサタンとレヴァイアはバアルに向かって素直に「分かった!」と頷くとリリスの手を引いて早速城を出た。
「ほら、此処だよ」
言ってレヴァイアは目の前のゴツゴツとした岩に囲まれた鉄製の大きな扉を指差した。威圧感たっぷり、自分たちの身長の優に5倍はあろうかと思われる巨大さである。城から30分ほど荒れ地を歩いた所にこれはあった。リリスは扉を見上げて息を飲んだ。上手く言葉に言い表せない何か異様な空気を感じたからだ。
――足を踏み入れてはいけない――
この場に漂う空気が無言で警告をしている。しかしリリスは進まなければならない。此処で引いたら魔界に来た意味が無い。
そうして一人の女性が懸命に目の前に立ちはだかる壁と向き合っている隣で魔王二人は呑気に構えていた。
「此処かー。オッケー、分かった。じゃあ俺とリリスとで中に入るからお前は此処で留守番頼むわ」
「う〜……ん!? なんで此処まで来て俺だけ留守番しなきゃなんないんだよ!!」
こんな具合である。
「え〜と……。ホラ、この中は未知の領域だろ? 何かあったら外から助けてもらわなきゃだぜ!」
「だ〜ったら最初から二人で入れば大概敵無しじゃないかよ〜! バアルが留守番してるし外は大丈夫! だから俺も行くっ!」
「そ〜だけどさ〜、なんてゆーか、その〜……」
サタンが浮かべたバツの悪そうな顔。レヴァイアはピンときた。
「お兄ちゃん、もしかしてリリっちゃんと二人きりになりたいとか〜? 二人きりになって頼れるとこ見せちゃいたいとか〜? 前回、美味しいとこをバアルに持ってかれた反省を活かして〜みたいな〜?」
意地悪いレヴァイアの耳打ち。ズバリ図星を突かれたサタンはモゴモゴと口篭って思い切り赤面してみせた。単純明快、分かりやすい男である。
「な〜んだ、そうならそうと早く言えばいいのに〜。いいよ、協力してあ〜げる。俺、留守番してあげるね。こりゃ貸しにしとくわよ、ウフフ。牢獄ったら薄暗いからきっとムード満天だし頑張ってネ」
「こんにゃろ、いつからそんな知恵を……。でも牢獄にムードもクソもねーだろ、薄暗かったらムードあるとは限らねっつの。まあいいや。ありがとよ。行こうぜ、リリス。入り口はレヴァイアが見張っといてくれるらしいからさ」
言うとサタンは重たい鉄の扉を思い切り踏ん張ってグイッとこじ開け、不安げに立ち尽くすリリスの手をとって中へ入っていった。見たままそのまま重たかった鉄の扉。生半可な力では到底開かなかったであろう。リリスはしっかりと「サタンさんがいなかったら中に入れなかったわ、助けてもらえて良かった」と感謝していた。まずは好印象である。
「いってらっしゃ〜い」
レヴァイアは真っ暗闇に飲まれていく二人の後ろ姿を見送った後、「やれやれ」と一人呟くと煙草に火をつけ、煙を吹いた。これは少し長い留守番になりそうである。
見上げた空は今日も血のように赤い。堕天した当初はこの色に違和感あったが見慣れてみれば綺麗なものである。手の届かないものというのはどうしてこう綺麗に見えるのだろう。なんちゃって、こんな黄昏ちゃうくらいレヴァイアは暇を持て余した。
『あーあ、ご愁傷さま。私は留守番して正解でしたね。見張り頑張って〜』
不意に頭の中でバアルの声が響いた。どうやらお得意の千里眼でこの状況を察したらしい。
『同情するなら構ってよ。俺に任せて呑気に紅茶ばっか飲んでないでさ〜』
声にならぬ声で返事をし、苦笑いするレヴァイアであった。
「あ〜あ、やってらんね。な〜んで私がこんなジメジメジトジトした所でこんな血なまぐさいことせにゃならんのだ」
ラファエルはブツブツ文句を言いながら小さなテーブルにもたれかかった。普段なにを命令されようと表情一つ変えずこなしてみせる彼ではあるが、流石に限度を超えた劣悪な環境で面白くもないことをやらされるとなると愚痴の一つも溢れるというもの。こんな冷たい壁に囲まれた光と風の一切入らぬ湿気に満ちて脂っぽくてカビ臭くて血なまぐさい場所にいれば誰でも気が滅入る。大天使ラファエルですら例外ではなかった。
「クックック……。大変だなあ。神の使いってヤツも。苦労分かるぜ?」
部屋の奥で、ひょろりと痩せこけ赤い目をギラつかせた男がだらし無くバサバサに伸びた白髪の隙間からすっかり参ってしまったラファエルを見て嘲笑った。
「ふん、知ったようなことを……。お前はよくこんな所での生活に耐えられるな」
「耐えられるわけがないだろ。お陰様で10代にしてこの髪だ」
冷笑して男は殆ど白髪に侵食されてしまった髪を撫でた。元は綺麗な黒髪であった。だが、この劣悪な環境が彼の髪の色をあっという間に奪ってしまった。
「確かにすっかり白くなりましたね。数年前見た時は真っ黒だった髪が。まあこんな生活してりゃあなあ〜」
「……そんなこと言いつつ、しっかり俺を拷問してるアンタはなんなんだ」
男は呆れるような物言いでもって身体中に刺された剣を一本一本抜いていった。しかしその抜き方が異常である。身体に深々と刺さった鋭利な剣を自ら引き抜く……、普通なら痛みでのた打ち回るはずなのだ。しかし男は無言、無表情。唸り声一つ上げず躊躇う様子も痛がる様子もなく淡々とやってのける。
……慣れてしまったのだ。此処では神に背いた罰として終わりの無い拷問が毎日行われる。激しい痛みを伴う日々が男から『痛覚』を殆ど奪ってしまった。
男が一本、また一本と剣を引き抜き、床に落としていく。その度に石の床に剣が跳ねる渇いた音と、それに混じってジャラジャラ鎖の擦れる音が響いた。男の手足が頑丈な鎖で繋がれているためだ。
地の底の牢獄にて身体の自由を奪われ、死ぬことも許されず終わりのない凄惨な拷問を受け続ける。罪を犯したとはいえ、これはあまりにも過酷な刑である。
いっそ殺して欲しいと男は何度も思った。しかしそれは決して叶ぬ願い。現に先程まで血を吹き出していた傷口は既に塞がり始めている。
「でもアンタの拷問はマシな方だ。こう思い切りザクザクやられた方が痛くないんでね。アハハッ」
「慣れっていうのは怖いものだな。そんな状態にもかかわらず平気で雑談出来るお前を尊敬しますよ。……しかし、あっち〜な」
ラファエルは酷い蒸し暑さに負けて手でパタパタと自分を扇いだ。
「そらアンタ一生懸命に動いたからだよ。俺にはこの室温ちょうどイイ。あ〜、ところで今日一日はアンタが拷問係りなんだろ? いいのか、そんな休み休みで」
男は笑いながら身体に刺さっていた最後の剣を引き抜き、床に落とした。
「そうですね。もう少ししたらまたやりますよ。ったく、痛がるヤツになら拷問もやりがいがあるというのに」
また愚痴を溢し、ラファエルは持ってきた瓶に口をつけた。ちなみにビンの中身は水である。
「悪いな。面白い反応してやれなくて」
吐き捨てるように言って男は喉を鳴らして美味そうに水を飲むラファエルを睨んだ。
「ああ、これは気付かなかった。水も飲めぬヤツの目の前でこれ見よがしに水飲んでしまった。……いる?」
「なんて嫌味ったらしい野郎だ……。いらねぇよ」
「ふはははっ。強がったところで得は無いぞ。遠慮せず貰っておけ」
言うとラファエルは立ち上がって嫌がる男の顎を持ち上げると強引に口をこじ開けて水を流し込んだ。一応、意地悪ではなくラファエルなりの純粋な親切心である。と、その時、分厚いドアの向こうから聞き覚えのある声が響いた。耳の良いラファエルだからこそ聞き取れた声である。
「だぁぁあああ、畜生め!! やったらめったら階段なっげぇし真っ暗で足元見えねぇし、なんなんだ、此処はよッ!!」
……口調といい荒っぽい言葉遣いといい、聞き覚えしかない。
「……まさか、あの声は……」
この嫌な予感がどうか的中しませんようにと願いながらラファエルは徐にドアの方へ目をやった。そして、……どれだけ動揺したのだろう、ついうっかりビンを手から滑らせて男の口に直撃させてしまった。ゴキッという鈍い音とガシャンとビンの割れる音が密室に響く。
「ぎゃっ!? ……お、お、お、お前〜!! 無理矢理水飲ませた挙句に何しやがる! 今ので歯ぁ折れたぞ、オイ!!」
男は口を押さえ、怒りに震えた声で叫んだ。指の間から血がポツポツと滴る。この男でなければ痛みで咄嗟に怒鳴ることなど叶わなかったであろう。
「あっ、すまん。事故だ、事故。それより珍しく此処にお客さんのようですね」
反省など欠片も見られぬ軽い物言いである。しかし男は言及することなく「客」という言葉にだけ反応して口を押さえたまま扉に赤い目を向けた。
珍しいもなにも此処に投獄されて以来、客という客など一度も来たことがない。来るといえば拷問を行いに来る天使たちだけである。
二人が見つめている中、軋んだ音を立てて重い鉄の扉はゆっくりと開いていき、部屋に僅かな光が注いだ。そして、男は目を弾けんばかりに大きく見開いた。
「……ビックリだ。悪魔と女なんか初めて見るぜ。ハハ……、こいつぁ刺激的な一日だ」
自然と溢れた笑み。初めて見る客人の姿に男はすっかり失っていた表情を思わず取り戻していた。
一方、右も左も分からず牢獄にやってきて扉を開けてみた張本人サタンも戸惑っていた。
「なんっっっだ、この部屋。ハンパねぇ血の臭いがする……ってラファエル!? お前こんなとこで何やってんの!?」
サタンはまさかこんな所にいるはずないと思っていた顔を見て度肝を抜かれてしまった。本当に意外だったのである。
「うるさい黙れ死ね。お前がリリス奪還の邪魔をしたせいで神から今日一日此処に行けと命令されたんだ」
「あ、なるほど。お仕置き食らったんだ。そ〜りゃ大変だな。アッハッハッハ!」
「この野郎……。ったく、早く今日一日が終わって欲しいものだ。ところでお前こそ此処に何しに来た」
「え? 俺? ああ、俺は特に用は無いんだけど……まあ、ちょっと彼女がね」
言ってサタンは自身の背中に隠れているリリスを見やる。ラファエルもつられて彼女に目を向け「成る程ね」と事情を察し、頷いた。
当のリリスは、ラファエルの存在には目も呉れず、男を見つめたまま硬直していた。
全身真っ赤な血塗れ姿で口からも一筋の血を流し、手足には頑丈そうな鎖を何重にも巻かれている白髪でげっそりと痩せた赤い目の男……。歳は18くらいだろうか。その男の射るような目から視線が外せない。
(もしかして、この人が……?)
聞いて確かめたいことや言いたいことが沢山ある。しかし何故か声に出ない。
牢獄という名の響きにある程度のことは覚悟していた。だが、目の前の光景はリリスの想像を遥かに超えていた……。
「なあ、ラファ。ちょっと聞くけど……というか、間違えようもねぇな。他に罪人はいなかったし。アイツが人類最初の?」
「ああ、人類最初の人間にして最初の人殺しをした男だ。ズバリ、リリスの探し物だよ」
サタンの質問にラファエルはさらりと答えた。やはり彼がリリスの夫となるべきだった男その人なのだ。しかしどうしたことだろう、横目で見る限りサタンのイメージしていた姿とは少し違った。もっと弱々しい姿を想像していた。それがまさかこんな無骨で無愛想、目をギラつかせているような男とは……。
(なんて目ぇしてやがる……)
薄明かりの中、ギラギラと光る赤い瞳……。尋常じゃない眼光だ。流石、神を激高させるほどの罪を犯しただけある。あんな目に睨まれては自分でも堪らない。リリスが男と見つめ合ったまま声も出せずに立ちすくんでいるのも分かる。
「えーと、リリスはな、ずっとお前に会いたがってたんだよ」
サタンはこのままじゃなんだと思い、二人の人間の間に割って入った。せっかく人類最初に生まれた男と人類最初に生まれた女が顔を合わせたのである。もう少し和やかに話が進んでもいいはずだ。
「俺に……?」
男は上目遣いでサタンを見つめ静かに口を開いた。しっかりと話を聞く気はありそうだ。サタンは「ほらっ」と背中に隠れているリリスを前に押しやった。
「あ……、あの……私は、リリスって言います。う、生まれてすぐに、人類最初の女性と、神に言われました……。そ、それで……」
リリスは上手く喋れなかった。彼が夫となるべきだった男で間違いはない。だとしたら沢山言いたいことがあったはず。なのに、いざ面と向かうと何を言うべきだったか全て忘れてしまった……。
「ふうん。それで?」
男のぶっきらぼうな返事にリリスはますます言葉を詰まらせた。なんだか、喋り難い。ただでさえ緊張している、それに加えてこの男が放つ圧迫感である。彼は先程から僅かもリリスから視線を外さない。
「それで……、あ、あの……っ」
リリスはモゴモゴしながらサタンを振り返り、「どどど、どうしよう!?」と困惑した目を向けた。
「やれやれ」
横で様子を見ていたラファエルが溜め息をつく。
「子守も大変だなサタン。こういう面倒くさいことになるんだから素直にあの時リリスを私に渡しておけば良かったんだ」
「うるっせえな。……リリス、俺の出る幕じゃねぇよ。お前が喋るっきゃねんだぜ。此処に用事があったのはお前だろが。しゃんとしな」
サタンの静かな後押し。リリスは再び言葉を紡ごうとした、その時、男が唐突にむせて血を吐いた。どうやら口から出ていた血が喉に引っ掛かったらしい。
「あっ、血が……!」
リリスは咄嗟に男に駆け寄ってハンカチで口から零れ落ちる血を拭おうとした。だが、男はそれに怒りに満ちた目で応じた。
「触るな!!」
「えっ!?」
男の突然の大声にリリスは身体をビクつかせた。黙って様子を見守っていたサタンも何事かと目を見張る。
「いい加減にしろよ。お前が何をしに来たかなんざ知ったことか。会いに来たって時点で俺はお前が気に食わない。そうさな、俺が順調に人間やってたらお前の旦那にでもなってたかもしんねーな。でももう無理だ。今の俺にはお前の孤独を癒すことなんざ出来やしない。そもそも人殺しだしな。ろくなもんじゃねー。……そうと分かってて来たのか!? ぇえ!? どうなんだ、女!!」
まるで悪鬼のような形相である。
「あ……。私はただ、貴方に一目、会いたくて……」
「それが大きな間違いだってんだ。牢獄に繋がれてるって聞いた時点で察しろってんだよ。俺はもうこの世に存在しない人間。死んだも同然……! いいか、今日俺に会ったことなんか忘れろ! お前の夫となるべきだった男なんざ最初からいやしなかった!! 分かったな!!」
「そんな、でも……」
「分かったらとっとと失せろ。二度と此処へ来るな……!」
「っ……」
リリスは男の一方的な怒鳴り声に思わず涙を溢しながら何を言い返すこともせず部屋から飛び出していった。途端、男の鋭利な眼光は影を落とした。
「……俺のことなんか……忘れて……。リリス、アンタだけでも幸せになれ。俺たちみんな出来の悪い欠陥児だったけど、それでも幸せにはなれるんだって……神様に見せ付けてやれ……」
ぐったりと俯き、誰に対してでもなく小声でボソリ呟く。正直なところ、男にはリリスの話を聞いてやれる余裕がなかった。いっそ心を鬼にして追い返すことが彼の精一杯の優しさだったのである。
「追わなくていいのか?」
ことを見守っていたサタンにラファエルが問いかける。
「いや、そっとしておこう。……ところでラファエル、神はもうリリスを連れ戻せとは言ってないのか?」
「ああ、もう放っておくと言っていた。人間の身体が脆いと分かった途端、追求をやめたよ。悪魔の子供なんかとても産めやしないってな。で、自分が罰を与えずとも魔界で苦痛が待ってるだろうと。神はお前がリリスをボロ雑巾にすると思っているぞ。さあ、どうする?」
「どうするも何も神の言うことなんざ全部逆にしてやるのが悪魔の勤め。ボロ雑巾にして欲しいと思ってるならとことん幸せにしてやるまでだよ」
「ははっ、面白いことを言う。甲斐性なしのお前が? どうやって?」
「んなもん分かんねぇよ! どうにかしてやるさ!」
「そーですか、そーですか」
ニヤつくラファエル。その表情からは「絶対無理」という言葉が見て取れる。実に失礼な話である。思わず口論に持ち込みかけたが、時間の無駄だ。サタンは気持ちを切り替えて男を見やった。
「それにしても……、不器用な男だなあ、お前」
俺は分かってますよ的な調子でサタンは男に微笑んだ。
「うるせぇ。もう二度とあんな女連れてくるんじゃねぇぞ。迷惑極まりねぇわ」
男は俯いたまま吐き捨てた。
「女付きじゃなきゃ、また来ていいんだな?」
「そりゃまあ……って、おいおい、本気か? こんな空気の悪い所そうそう来るもんじゃないぞ」
「な〜に、お前をちょっと気に入ったのさ」
「はあ? どこをどう気に入ったってんだよ」
「そうだなあ。俺もお前と同じ状況だったら〜……多分、同じようなことを言っただろうからな」
このサタンの言葉に男は僅かに動揺してみせた。キョトンとした顔はまだ少し幼さの残る青年そのものである。
「じゃ〜な、ラファエル。またそのうち嫌でも会うだろ。ってか俺の顔を見ても殴りかかって来ないなんざ今日はど〜した?」
「そりゃな。こんな所にかれこれ8時間もいるんだ。気が滅入ってて何をする気にもなれません。お前も女付きじゃそうそう下手に動けまい? 今日のところはお互い大人しく引き下がろうじゃありませんか」
「オッケー。それが得策だな」
サタンは頷いて部屋を出ようとした。が、その時、初めて男の方から「ちょっと待て」と声をかけられた。実はちょっとこっそり嬉しかったサタンである。
「なんじゃらほい?」
「あ、あの女……。いや、リリスに俺のことは嫌なヤツだ、とにかく早く忘れろって言っといてくれ。アンタからも言ってくれりゃ効果二倍かなってさ。……そんだけ」
「ん、分かった」
サタンは軽く返事をして部屋を出ると重たい扉を体重かけて引っ張ってゆっくりと閉めた。ゆっくりと男の姿が闇に飲まれていく。その光景に胸が痛んだサタンはこの扉は閉めきっていいものなんだろうかと躊躇った。が、すぐラファエルに「ちゃんと閉めろ」と睨まれたため、素直に閉めた。扉の閉まった重々しい音が廊下を反響する。
帰ろう……。薄明かりを頼りに廊下を見渡す。「あれ? リリスがいない!」と、一瞬焦ったが階段の方から彼女の啜り泣く声が聞こえてホッと胸を撫で下ろした。
何処へ行くわけもない、此処は長い長い階段しかない一本道である。
早速階段を覗き込んでみると、そこには膝を抱えてただただ泣き崩れているリリスの姿があった。
「あ、リリス……。……あいつ嫌なヤツだったな! あんなヤツ忘れちまえよ、そんで元気出せ!」
言うとリリスは涙でボロボロになった顔を上げた。
(……嫌だな、こういうの……)
サタンの胸がキリキリと音を立てんばかりに痛んだ。彼は、女の泣き顔が苦手なのだ。理由は分からないが見るとどうしようもなく息が苦しくなるのである。
「嘘よ……。あの人がそう言えとでも言ったんでしょう!?」
「ぅえ!?」
ズバリ見破られ、サタンは思わず素っ頓狂な声を出てしまった。
「あの人、とても優しい人だったわ。だって自分のことなんか気にしちゃいけないって……君は一人じゃないよって……幸せになるんだよって……あの人言葉に出さなかったけど目で全部言ってくれてた。言ってくれてた……!!」
流石のサタンでもここまで彼の思いを読めてはいなかった。これは彼と目と目をしっかり合わせていたリリスだからこそ汲み取れた言葉なのだろう。彼は理由もなくリリスを睨みつけていたわけではなかったのだ。
「リリス、それなら尚更そんな風に泣きじゃくってちゃアイツは報われないぜ。……ほら、立ちな」
「……ねえ、サタン……。あの人、助けられないの? 此処から出してあげられないの?」
「大丈夫、絶対に助けてやるさ! このままにしとくもんか! だから安心しろ!」
サタンの力強い言葉にリリスは差し出された手を握って立ち上がった。
しかし、心の何処かで覚悟は決めていた。サタンたちならば何があってもどうにかしてくれるはずとリリスは常に思っていた、だがサタンは今日『彼を助けようとはしなかった』。彼ならすぐにやってくれそうなことだ。しかし思い立ったらすぐ行動のこの男が何もしなかった。つまり、簡単ではないということだ。魔王サタンといえども下手に手を出せない場所……。物々しい雰囲気だけである程度察してはいたが、やはりこの牢獄、生半可なところではない。
「さあ、すっかり忘れてたけどレヴァイアが待ってる。今日はもう帰ろう?」
「……はい。……私、もう此処には来れないのね……」
リリスが寂しそうに呟く。
「リリス……。大丈夫、俺がなんとかする多分。……あっ」
ふとサタンは大事なことに気がついた。
「しまった……。アイツの名前聞いとくの忘れてた……! まっ、いいか」
「えっ?」
「いや、なんでもねぇ。行こ」
サタンとリリスはポツリポツリと会話を交わした後、目眩がする程に長い長い階段を上ってその場を後にした。
「………………可哀相に。お前の演技……。見事に見破られていたみたいだな」
ラファエルは壁にもたれかかりながら男に呟いた。分厚い鉄の扉が閉まっていようと関係なく何でも聞こえるラファさんである。
「ああ、なんてこった。数年ぶりに大声出したってのに甲斐無しか」
「それと、『カイン』……。お前、自分の名も教えなかったな」
「ああ〜、自己紹介すっかり忘れてた。まあ、いいだろ。また来るとか言ってたしな」
カインと呼ばれた男は軽い口調でハハッと小さく笑った。
「どうでもいいけど、アンタ休み過ぎじゃねえの? いいのか、仕事サボって」
「……ダルい……。今日はもう終わりにしよう。後の時間、私は昼寝でもする。せっかくだからお前も寝とけ」
「おう。って、それいいのかよ」
「たまには休みたくなるものだ。どうせバレやしないし、かったるいから良し。じゃあお休み」
言うとラファエルはその場に座り込んで早々に眠り始めてしまった。とことん今回の任務が気乗りしなかったことが伺える。
(みんな、大変なんだな)
壁の中で何も出来ない俺には関係ないけど、と付け足してカインは呑気にあくびをした。投獄されて数年。こんな呑気な気分を味わったのはいつ振りだったろうか……。
(リリス……。そうか、俺は今頃アイツの旦那になってたかもしれないんだな。美人だった。……勿体無いことをした。やべぇ、初めて犯罪後悔してるかも……。……あの顔、忘れないでおこう……)
もう二度と拝めないかもしれない女の顔だ。しっかりと記憶に刻みつけよう。暗がりでも映えていたあの鮮やかな金色の髪、真っ白な肌、硝子玉のような青い瞳……。
カインは至極穏やかな気持ちのまま目の前の天使同様に目をゆっくりと閉じた。
本当なら、せっかく自分を慕って遥々こんな地にやって来てくれた女を怒鳴り散らしたくなんかなかった。出来るならもう少しゆっくり話をしてみたかった。しかしそれは叶わぬ夢。
叶わぬ夢は、寝て見るのが一番だ。
サタンとリリスが牢獄から外に出ると、吸殻の山の隣に座り込んで寝息を漏らすレヴァイアが迎えてくれた。見張りも何もあったものではない。
「あ〜あ……。待ち時間1時間程だったのに、こんなに煙草吸いまくった挙句寝ちまうとは……」
言ってサタンはレヴァイアをひょいと抱きかかえた。
リリスはそんなサタンの姿を黙ってじっと見つめていた。
(あの人は、私に幸せになれと言ってくれた。……幸せに……。私は、あの人の思いを果たせるだろうか……。サタンさん、私どうしたらいいんですか……? 魔界に来た時から誰よりも私の傍にいてくれてる貴方なら、ひょっとしたら私がどうすればいいか分かるんじゃないですか……? ……なんだろう、胸が、痛い……。胸が……)
真剣に物思いに耽るリリス。と、その時、レヴァイアの腕からフレイルが滑り落ち、サタンの足を見事に直撃した。
「うぎゃあああああああああああああああ!!」
サタンの悲鳴が上がると同時にレヴァイアが目覚めて「なんだ何事だ!?」とのたうち回り、そんなこんなで男二人が引っ付き合ったままジタバタと騒ぎ始めた。リリスはその光景に背を向け、「……見てない、見てない。私は何も見てない……」と呟いた。
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