【04:一筋の赤い閃光】
――この間、俺はリリスの頼みで牢獄へ行った。そしてそこで白髪、赤い目の小汚ないガキに会った。アイツはリリスに言った。「二度と来るな」と。自分のことなんか忘れてお前だけでも幸せになれとの意味で……。俺はアイツが気に入ったよ。なんせ、俺も同じ状況に置かれたら同じようなことを言っただろうからな。……多分な。で、「また来ていいか」の問いにアイツは「リリス無しだったらいつでも」と言ってくれた。だからまた行こうと思う。だって、アイツを牢獄から救ってやりたいし、それにまだ……、名前も聞いてなかったんだぜ? ――
「こ〜んに〜ちは〜」
リリスは元気良くバアルの城の扉をコンコンとノックした。広い城のどこにいようと耳の良いこの城の主はノックの音を聞き逃さない。案の定、間もなくしてバアルとレヴァイアがリリスの前に顔を出した。
「あらあら。どうもこんにちは。……あれ? お一人ですか? サタンは?」
バアルは一人ポツンと立ってニコニコしているリリスに問いかけた。サタンは今までリリスを一人で外出させることなどなかったのだ。何せ彼は根っから心配性な挙句なんだかんだで人の面倒見がいい生まれながらの兄貴分基質なのである。
「えっと〜……、なんかこれ渡してくれって言われたんです」
言ってリリスは一枚の紙をバアルに手渡した。
「ん〜? 手紙? なんて書いてあんの?」
興味津々、レヴァイアがバアルの肩越しにひょいと顔を出して手紙を覗き込む。
「ちょっと待ってくださいね。……いつもながら汚い字だなあ。読み難いったらありゃしない。え〜と、『俺は今日一人で出かけなきゃならない用事があるんで、今日一日リリスの面倒見てやってくれ。よろしく〜』……ですって」
「なるほど。お出掛けか……。ど〜せどっか遊びにでも行ったんじゃないのぉ〜?」
「その可能性大ですね! あ〜もう、仕様が無いなあ〜。どうしましょう?」
魔王二人して顔を見合わせ「あの野郎……」と眉をひそめる。それもそうだ、急にこんなことを言われては今日一日の予定が狂うというものである。何故、前日にちゃんと言っておいてくれなかったのか。しかもこんな絶対に断れないやり方をして。
思い同じバアルとレヴァイアが顔を見合わす。一方、事情を知らないリリスはただニコニコと首を傾げるばかりである。
これでは本当に断れない。少し不服だが引き受ける他なさそうだ。幸い今日は特に大切な用もない。
「リリス、今日サタンは野暮用があるから貴女を私たちに預けたみたいです。今日一日うちでゆっくりしてってくださいな」
バアルは微笑んでリリスを手招きした。
「ん〜、とはいえウチには特に面白いものも無いしなあ〜……。あっ!」
閃いた! と、ばかりにレヴァイアは手をポンと叩いた。
「おや? 何か名案でも?」
「リリっちゃん自分の服とか全然無いでしょ? いい機会だし街に連れて行ってあげようよ!」
「あっ、いいですね。お化粧品とか欲しがってましたし……リリス、今日は一緒に街へ行きませんか?」
「え〜? 街? 街ってなんですか? でもなんだか面白そう! 行きます!」
元気のいいリリスの返事に二人は「決まりだね」と顔を見合わせて微笑んだ。が、此処で一つ素朴な疑問が浮かんだ。
「なあ、服とか買ってあげるじゃん? つまり全部俺たちの奢り?」
「魔王たる者そんな細かいことを気にしちゃいけません。いいじゃないですか、じゃんじゃん溢れる程お金あるんだし、いざとなればサタンに倍額請求しちゃいましょう」
意地悪そうに微笑むバアル。レヴァイアも「そ〜だな」とニヤリ不敵に笑う。横でリリスもこれは便乗するべきかと何がなんだか良く分かっていないクセに一緒になってニヤ〜っと意地悪い笑みを浮かべてみせた。
「……誰か今、俺の悪口を言ったような気が……。まあ気のせいか。そうだよな、うん」
一人呟いてサタンはまたあの牢獄の長い長い階段を降りていた。前回の反省を生かし今回は蝋燭持参である。「炎を操る悪魔なんだから蝋燭じゃなしにその能力を使えばいいじゃないか」と言われそうだが、実際、手の平に炎を出して周りを照らすとする。が、サタンの火はドス黒いのだ。あまり暗闇を照らせないのである。オマケに自分の手が熱い。そのため、蝋燭を持ってきたは良かったが……階段を降りてる途中で尽きてしまった。しかも蝋が手に垂れた。
「どわっちゃああああ!! あちちちち!! んっだよ、蝋燭め〜!! おまえ役に立たないじゃないか!!」
サタンはドロドロに溶けた蝋燭を怒鳴りつけ、階段の途中に畜生めと一方的に投げ捨てた。もう蝋燭なんぞ使ってやるもんか、そんな意気である。一応魔王だけあってサタンは暗闇でも目が利く。なのでわざわざ蝋燭を使うこともないのだが、どうしてもまだ『暗い所を歩くには明かりが必要』と思ってしまう。光り輝く世界に生きていた天使時代のクセが抜け切っていない証拠だった。
「ああ〜、蝋が……、蝋が手に……。ん? これが苦痛ってことは俺にドMの気は無いな。良かった」
サタンは一人納得し、また階段を降り始めた。
前回は暗闇に怯えるリリスの手を引いていたためカッコつけ精神を発揮してどんなに長くとも楽しく降りられたこの階段だが、予想はしていたものの一人だと想像以上に寂しいものである。
そんなこんなで心折れかけたが暫くして無事またあの分厚い鉄の扉の見える廊下に出た。やっとあの長い長い階段を降りきったのだ。
「お疲れ様、俺……!」
さてこの扉ってば重たいんだよな、頑張って開けようと気を引き締めてサタンはドアノブに手を伸ばした。が、その時、頑張るまでもなくその重い扉が勢い良く開いた。この扉は外開きである。危うくサタンは頭をぶつける所だった。
「うっわあああああああ!?」
サタンは突然開いた扉に恐怖して後方によろめいた。と、同時に一人の人物が部屋から顔を出した。腰まであろうかという金色の長い髪に不機嫌に歪んだ端正な顔、そして華奢な身体……の、天使といえば一人しかいない。
「ララララ、ラファエルぅ〜!? な〜んでお前がまた此処にいるんだよ!?」
「ゲッ。足音がそれっぽいと思って見てみればやっぱりお前か……!」
サタンとラファエルはお互いに「ゲゲゲッ! 嫌なヤツと会っちまった!」と苦虫を噛み潰したような顔を向け合った。
「ってか、お前がいきなり扉開けるから危うく顔がペシャンコになるとこだったぞ!! あぶねえだろ、馬鹿!!」
「知るか、そんなこと!! 私はお前の顔を見て更に憂鬱な気分だ、どうしてくれる!!」
「んっだと〜……! テメェの機嫌なんざ知ったことか!! 俺こそ御機嫌斜めだぜ、どうしてくれる!!」
「どうもしないな!! とにかく何しに来たんだ! さっさと帰れ、ドブ臭い魔物めが!!」
「ド、ドブだとぉ!? お前こそ聖水臭いんだよ、エセ天使!!」
顔を合わせればそのまま即喧嘩になる二人はこんな調子で暫く子供のような言い争いを続け、お互いの息が切れたところで我に返ったのか静かになった。
「……ああ、疲れた……。まったくお前と会うとロクなことがない……」
先に愚痴を零したのはラファエルである。
「俺だって疲れたっつ〜の……。ところでなんだぁ、最初に聞いたけどお前がなんでまた此処にいるんだよってんだよ」
「それについては詳しく語れば話せば長くなるが、まあ先日、此処に来た時だな」
言うとラファエルは腰に手を当てて「ハァァ」と大きな溜め息をついた。
「あまりに任務が退屈なんで居眠りしたところ、神にそれがヘタ打ってバレましてね。ちゃんとやれよってことでもう一日プラスされたという悲しい理由だ。あ〜……、しくじった……」
心の底から浮かない顔をしている。余程この任務が嫌なのだろう。
「お前が……、居眠り……。意外だ。ビックリだっ。なんてこった! ってか、お前も大変だなぁ、オイ」
「貴様に同情されたかない。で、お前はなんなんだ。今日は女付きじゃないな?」
「ん? ん〜……まあ個人的な用事で」
「ほお〜。まあお前が来る理由なんざ大体見当付くがな」
と、その時、二人の会話を裂くように部屋の奥から突然「うるせーぞ、お前ら!!」という怒鳴り声が響いた。
「ああ、起きたようだな。丁度良い、私は少しサボりたくなってたところだ。ヤツに話があるなら好きにしろ」
実にあっさりと身を引いてラファエルは先に暗い部屋の中へと入っていった。
「そうかい、そりゃ助かるぜ」
ボソリと呟いてからサタンは後を追うように部屋へ足を踏み入れた。
相変わらず息の詰まるような空間である。そして背筋がゾッとする。魔王サタンですらたじろぐ『何か』が此処には渦巻いている……。
「人が昼寝してるっつ〜に廊下で馬鹿騒ぎしやがって。って、なんだよ!? ホントにまた来たのかアンタ!」
目を擦って眠そうにしていたカインだがサタンの姿を見た途端どんよりした目に一瞬で生気を取り戻した。
「あ〜、そりゃ悪かった。……って、オイ!! なんでそんな状況で寝れる!?」
サタンは「うわああっ」と畏れ慄いて仰け反りながら悲鳴に近い声を上げた。何せカインは全身に剣を何本も刺された状態だったのである。にもかかわらず熟睡していたとは強い、強すぎる。
「慣れって怖いよなー。自分でも怖いと思うよ」
カインはケラケラと笑いながら刺された剣を表情一つ変えずに一本一本抜いていった。まるで痛みなど全く感じていないかのように。
(コイツ、痛覚を失ったのか……?)
慣れって怖い、ということは、元々はこうでなかったことを指している。こんな環境だ、彼の身に異様な変化が起こっても不思議ではない。しかし、これはどうにもサタンにとってあまり気持ちの良い話ではない。
「あ、そうそう……。俺さ、アンタの名前聞いてなかったんだよな。気になってんだ、教えてくれよ。俺はサタン。よろしくな」
「サタンか、覚えておく。って、何ぃ!? お前、あの魔界の帝王サタンだったの!?」
驚愕に満ちた声と呆気に取られた表情でもってカインは自身の身体から引っこ抜いた剣の最後の一本をカランッと力無く落とした。
「な、なんだよ。そうだけど……。何か!? 俺ってそんなに偉く見えないのか!?」
呆然としているカインにサタンは詰め寄った。
「まあ、お前からは威厳というものが欠片も見えないからな。無理もない」
傍で会話を聞いていたラファエルがチクリと刺す。
「うううう、うるっせえな! で、お前の名は?」
「え? あ、俺か。俺の名はカイン。ご存知、人類最初の人間にして最初の人殺しの称号を持ってる男だよ」
「カインか、良い名前じゃん。覚えておくよ」
「ああ。ところでなんだ。名前聞きに来ただけか?」
このカインの質問にサタンは参ったなとばかりに頭をポリポリ掻きながらチラッとラファエルを横目に見た。
「……なんだ。私が邪魔か」
腕組して壁にもたれ掛かっていたラファエルはサタンの視線に気付いて如何にも怪訝そうな顔を浮かべた。
「いや……え〜とだなあ……」
「やっぱり私の想像通りか……。ど〜〜〜〜せカインを此処から解放するべくやって来たんだろう? 分かり易いったらありゃしない」
「……ゲッ」
サタンはズバリ考えを読み取られて硬直した。同時に「自分、どうして嘘がこうも下手なのかなあ」と全身に冷や汗が流れた。まずい、これはまずい。一番バレてはいけない相手にバレてしまった……。
「解放……?」
解放、その言葉にカインはまるで針で突かれたようにピクリと反応した。
「図星か。お前の考えっていうのはどうしてこうも単純なんだろうなあ〜」
「うぅぅ……っ、おいどん悔しいでごわす……」
ラファエルの冷たい言葉がザクザクとサタンの胸に突き刺さる。
「ふん、まあいい。別に私は邪魔しない。安心しろ」
「えっ!?」
想像もしていなかった答えにサタンは勢い良く振り返ってラファエルの顔を見やった。
「ど、どうしたんだよ、ラファエル!! 超真面目で固くて頑固で救いようの無いお前がッ!!」
「な、なんだその言い様は!? ……コイツが解放されればもう二度とこんなつまらん任務を与えられずに済む。それだけだ」
「お前がそこまで嫌がるってことは……。よっぽど嫌なんだな。此処が……」
「拷問っていうのは相手の反応を楽しむものだ。ところがコイツは寝てるだけ……。まるで人形を相手にしている気分になるよ。実に退屈だ。冗談じゃない」
「おーおーっ、そりゃ悪かったよ人形みたいで!!」
二人の会話にカインが口を挟んだ。ちゃっかり話を聞いていたらしい。
「で、どうする気だ? 解放だなんて簡単に言いますけど、ヤツの鎖には神の渾身の呪いがかけられているわけでありまして」
あっさりカインの言葉を受け流してラファエルは話を続けた。
サタンが「う〜ん」と唸って天井を見上げる。
「……サタン、お前まさかなんの策も無しにやって来たのか……?」
「うん……、えっ!? いや! そんなことは断じてない!! あ、俺って腕力には自信あるんだぜ! イケる! たぶんイケる!!」
サタンは自信満々にカインの手に繋がれている鎖を掴んだ。
「ななな……、何する気だ!?」
カインはサタンがあまりに気迫溢れる表情で鎖を掴んだことに少したじろいだ。なにせ嫌な予感しかしない……。
「まあ、黙って見ていなさい。俺はこう見えてこの腕力だけで幾多の困難を切り抜けてきたんだぜ!」
サタンはそのまま鎖を引き千切ろうと思い切り力を込めた。だが、どんなにどんなに引っ張ろうとも鎖はビクともしなかった。傷一つ付かず何事もなかったかのように壁とカインを繋いでいる。
「……魔王さん……。俺もこう見えて腕力には自信あってさ……、何度かそれ試みたんだよな。うん」
やっぱりそうか期待するだけ無駄だった、そんな感じでカインはガックリうなだれた。
「うわー、あんな自信ありげに挑んでおいてカッコ悪っ! だから言ったろ。神の渾身の呪いが掛かっていると。お前の腕の力だけでそう簡単に千切れるものか」
言うと息切れしているサタンに向かってラファエルは薄ら笑いを浮かべた。
「……ハッ! そうだ、ラファエル! お前も手伝え!!」
それは一か八かのお願いだった。
「はあ? 私が!? やるわけないだろ、そんな馬鹿馬鹿しいこと」
……予想通り音速で断られた。が、一度断られただけで諦めるサタンではない。
「頼むよ、ラファさ〜んっ。お前だってコイツが解放されりゃもうこんな所に来なくて済むじゃ〜ん」
「だからと言って手を汚す気は無い。なんの得にもならないことはしない」
「そんな冷たいこと言わないでさあ〜っ、お前って力持ちじゃ〜ん。ね? ね? ねぇええ〜? 頼むよいい男! いい女! いいラファさん!」
「いい男いい女ってなんだ!? 男でも女でもなくて悪かったよ!! 褒め方に迷うくらいなら最初から言うな!! つーか気持ち悪い声を出すなぁああああああああ!! ……チッ、仕方が無い。少ししかやらんぞ」
「あ〜ん、ありがとうラファさ〜んっ!」
「分かった分かった。分かったからその気持ち悪い声をやめろ」
ラファエルは溜め息をつきながら寄りかかっていた壁から身を起こした。これだけしつこく言ってくるのだ、本意ではないがサタンの頼みを受けざる得ない。何せ彼は一度、人にものを頼むと「いいよ」と言うまでとことん粘る。現にサタンは神に反逆する時も「来ないか?」とラファエルを誘い、2時間以上「嫌だ」と断られ続けても引かなかった。ラファエルにとっては嫌な思い出である。
「じゃあ、お前そっち持って。そんで俺とで引っ張ってみようぜ〜」
不安そうに二人を見つめるカインをよそにサタンは「やったやった!」と言わんばかりの笑顔でもってラファエルに鎖を持たせた。
「あー、やだ。ホントやだ。やってられない」
一度手伝ってダメだったら諦めるだろうという魂胆ではあるが、気乗りしないものは気乗りしないラファエルである。
「そんなこと言わないの! さ、ほら、やるよ! せ〜のっ!!」
サタンの掛け声と共に二人は鎖を渾身の力でグイッと引っ張り合った。が、それでも鎖はビクともせず、代わりに二人が力を入れ過ぎて手を滑らせ、お互い後方に倒れて尻餅をついただけだった。
「イテッ! ほら見ろ、全然駄目じゃないかッ!」
「あいたたた……、おっかしいなあ。なんでだよ〜っ。畜生っ!」
「大体な、力だけでどうにかなるんだったら誰も苦労しないっつーの。……カイン、手を床に付いて伸ばせ」
ラファエルは何かを思いついたようにカインに顎で指示をした。彼にしては珍しく積極的である。カインは首を傾げつつ、言われた通りに前のめりな体制で手を床に付いて伸ばした。
「……何する気だ?」
サタンはお尻を擦りながらラファエルを見やった。
「力で駄目ならこれしかないだろ?」
言うとラファエルはかざした手の平から凄まじい閃光を放ち、鎖をバシン! と弾いてみせた。真っ暗な室内に一瞬満ちた光。それは闇に目が慣れていたサタンとカインに悲鳴を上げさせるに十分なものだった。
「まっぶい!! ……のに、切れてない……。傷一つ付いてねぇや……」
カインは閃光が当てられた鎖の部分を見るなり溜め息をついた。あれだけの高熱だ、普通の鉄なら軽く溶けていただろう。しかしこの鎖は焦げ一つ付かない。
「チッ。手加減し過ぎたか……。しかし今以上のは無理だな。あまり本気を出すとお前の存在自体が消滅する」
「存在自体消滅って!?」
「簡単に言えば消し炭になるということだよカイン。そうだ、なんなら手足を切断して鎖から引き抜くか? 鎖に固定された手足は捨てるしかないが自由と引き換えに手足を失うくらい痛くはないだろ。……いや、駄目だな。それでは最終的に首だけになってしまう」
淡々と放たれるラファエルの言葉にカインはゾォ〜〜ッと青ざめた。慣れた拷問ならまだしもなんだか脱獄するためと銘打ってトンデモない体験をさせられそうな気がして冷や汗が出たのである。
「……なーんちゃってな。そもそも呪い自体を打ち消さねば鎖を断つことなど不可能だ。コイツは魂もろとも鎖に繋がれている。肉体を解放したところでななんの意味もない」
ラファエルはお尻を打った体制のまま呆然としていたサタンを見やった。
「じゃあ、神を上回る力を持っていない限り鎖は取れないってことか?」
「まあ、簡単に言うとそういうことになる」
そもそもラファエルがカインの脱獄を邪魔しなかった理由は、最初から絶対に無理だと分かっていたからなのだった。これでもう分かっただろ、と言うようにラファエルは無表情のままサタンの隣に腰掛けた。
「……お前は神様以上の力って……持ってないよなあ?」
「持ってたらこんな所にいるか」
サタンの問いにラファエルは顔をムッとさせた。
「じゃあ、俺たち三大魔王プラスお前でも敵わねえかな?」
「お前は創造主をそんなに甘く見ていたのか?」
「いや、そういうわけじゃないが……。じゃあバアルとレヴァイア呼んでも無理?」
「ああ、まず無理だな。無駄だよ」
「無駄、か……」
「だからあの時も言ったろう。最初から反逆なんて無理、無駄だと。神に敵うはずがない。所詮我々作られた人形は主に逆らえない。逆らったところで敵うはずもない。何をしようと成す術も無く敗北し、ただゴミ箱に入れられるだけ。主は痛くも痒くもない」
ラファエルの静かな言葉にサタンとカインは俯いた。確かにそうだ、普通に考えればこの世界の全てを掌握している創造主になど敵うはずない。但し『普通に考えれば』、だ。
「それでも、俺は逆らう……。敵わなくたって、逆らってやる……」
カインがポツリ呟く。
「ハハッ、笑わせるな。泥から創られた人間一人に何が出来る? 逆らった結果お前はこうしてゴミ箱に入れられたじゃないか」
この言葉にカインはカッと頭に血が登ったのか鎖に阻まれながらもラファエルに掴みかかった。
「それでも俺は諦めない!! 絶対に、絶対にいつかこの手でアイツを葬ってやる!! 弟の仇をとってやる!!」
ラファエルの胸倉を掴んで引き寄せ、目と鼻の先でカインは怒鳴った。しかし一方のラファエルはそれでも涼しげな顔を続けた。
「弟か……。弟ねえ……。確かに神がちょっかいを出さなければ弟は自分殺しを兄に頼んだりはしなかったろうな。だがカイン。葬ることだけが復讐ではない。どうせ葬ることの出来ない我々の手が到底及ばぬ巨大な力など生かすに限る。死の無い生ほど苦痛なものはない。『永遠』と『絶対』程に残酷なものはない。それはお前が一番良く知っているだろう?」
「ラファエル……!?」
二人のやり取りを見守っていたサタンがギョッと目を見開く。
ラファエルの考えていることは、イマイチよく分からない……。
「じっくり苦しめていくということか……?」
カインは眉間に皺を寄せながらもラファエルを掴んでいた手を離した。しかし尚もラファエルの表情は変わらない。
「そう、その通り。そして嘲笑ってやるのさ。そいつが苦しんでいる様を見上げてな……」
「でも、それじゃあ駄目だ……。俺と同じようなヤツらがまた生まれちまう……。そんなの……、駄目だ……」
ゆっくりと首を横に振りながらカインは俯いた。
「俺だって諦めねえ。もう自分や、皆みたいな存在を作らせちゃいけないんだ。そうさ、諦めてたまるかよ!」
大声を張り上げながらサタンは頭を掻き毟った。
「まあ、好きにするがいいさ。どうしたってどうにもならないんだ」
言ってラファエルは明後日の方向を見つめて目を細めた。何処か、遥か遠くを見るような目である。
「そうだ……、俺は諦めない……。絶対にいつか此処から出て神に復讐してやるんだ……。絶対……、絶対……!」
カインはグッタリと俯いたまま呪文のように言葉を呟いた。
「カイン、ゴメンな。俺ったら無力でさ……。人、一人、助けられねぇ……。畜生!!」
自分の不甲斐なさに我慢ならなかったサタンは床をバンと拳で殴りつけた。少し血が滲んだ、だが、そんなことはどうでもいい。
やはり、リリスに何も告げずにおいて良かった。最初こそ大丈夫なんとかなると大見得を切ったサタンだが、正直上手く助けられる自信は殆どなかった。なんとかなるためせば成る、そんな気持ちだけで此処にやって来たのである。
「いいよ、気持ちだけでも嬉しかったぜ。……でも下手に希望を与えないでくれ。余計に辛くなるから……」
ガックリうなだれ。だがこれはカインからすれば冗談半分の言葉だった。彼もまた心の何処かで「どうせ無理なんだろうな」と構えていた、ゆえに然程この失敗を気にはしていなかったのだ。しかし真に受けたサタンは何も言えなかった。下手に希望を与えないでくれ……。そうだ、自分は考え無しに酷いことをした……。これでは神に反逆した時と一緒である。
――大丈夫なんとかなる。成功したら万々歳、失敗したとしても何もしないまま死ぬよりマシ。だから俺について来い――
勇ましく大見得を切った過去の自分がサタンの脳裏に過る。
「いや、そうでもないぞ。良いことを教えてやろうか?」
突然ラファエルが口を挟んだ。なんだろうとサタン、カインが一斉に目を向ける。
「呪いとはその者を憎むことで意味を成す。創造主は今、人間界創造にかかりっきりだ。忙しくしていればお前への憎しみもいずれ消えていくさ。それでなくとも主が何かに酷く気を取られれば呪いは弱まる。そこを叩けばいい。第一、憎しみなんて時が経てばどんどん薄まるものだ。そうなるまでに何千年掛かるかは分からないが。何にせよ、呪いが弱まる日は必ず来るだろうよ。どうだ、これは『下手な希望』じゃないだろう?」
成る程と頷くしかない完璧な推測である。簡単に言えば『牢獄生活は永遠じゃない』ということだが、小難しい言い方ゆえ当のカインはいまいち飲み込めていなかった。
「な、な〜るほど! ラファエルすげぇ! ……でも呪いの弱まる日なんて分かんねぇぞ俺」
「お前の仲間にフサフサ耳の厚化粧男がいるだろう。ヤツの凄まじい勘でどうにかなる。神が気を緩めたりしたらすぐに気付くだろうさ」
「あ、成る程。そういえばアイツいつも何かにつけてすげぇ勘が働くんだよなあ〜」
「お陰様でこっちはいつも大苦戦だ。なんなんだ、アイツのあの勘は」
「さあ〜……。俺にも分かんねぇ。ふさふさパワーとかじゃねぇの?」
「お前そんなこと言ったらアイツに殺されるんじゃないか? 何せ勘が働くんだ、そういう暴言しっかり聞こえてるかもしれないぞ?」
何やら大いに話が脱線したところでサタンはボーッと床を見つめているカインに目を向けた。
「それにしても、解放してやるにはスゲェ年月が必要なんだな……。何千年……か。神様は執念深いからなぁ」
屈強な呪い……。逆に言えばそれだけの罪をカインは犯したということである。彼が実の弟を殺したという大雑把な話だけならサタンの耳にも入っている。だが、それがこれほどまでに神を激高させたとはにわかに信じ難い。余程その弟を神が気に入っていたということなのだろうか。
これは何か他の事情もありそうだ。
しかしそれは興味本位に軽く詮索していい話ではない。そう判断してサタンは何も言わなかった。
「ああ、私にはそれ以外に方法が浮かばん。創造主以上の力がこの星に存在するなら話は別だが」
創造主以上の力など今のサタンには持ち合わせていない。これはつまり、待つ他ないということだ。
「カイン、ゴメンな。俺にもう少し力があれば……。あ〜、リリス喜ばせてあげようと思ったのに……。畜生、俺の甲斐性なし……!」
「なーに言ってんだよ。そりゃ俺を助けようと思ったのは女に恩を売るためかよ畜生とは思ったけど、何千年後だろうとこの生活に終わりがあると分かった時点で俺は救われた。ありがとう」
肩を落とすサタンに向かってカインは初めて笑ってみせた。
「カイン……」
こんな状況下にあっても笑える彼をサタンは心の底から『強い』と思った。そして歳相応のいたずらっぽさが残る笑みに胸が痛んだ。叶わないと知っても尚、今すぐに此処から彼を出してやりたいという思いばかりが込み上げる。
神は、本当に残酷だ。
もっと普通に出会えていたならば……。なんとなく彼とはとても気が合いそうなのだ。何故そう思うのかは分からない。だが、断言出来る。まだ会って間もないというのにだ。
「あのさ、カイン。迷惑じゃなかったらまた俺……」
「ところで今、リリスがどうとか言ったな? ……サタンさぁ、ちゃんと監視しといてくんね?」
サタンの言葉を遮ってカインは遠目に何かを見つめながら舌打ちをした。
「ははっ、なかなか鋭い娘のようだな」
続いてラファエルも扉の方を向きながら小さく笑う。……まさか。予感に突き動かされてサタンが振り向くとそこには扉の所から僅かに顔を出してこちらの様子を不安げに伺っているリリスの姿があった。暗がりでも彼女の金髪はしっかりと輝いて見える。
「う、うそぉ!? リリス、なんで此処に!? ……まさかバアルが……」
余計な入れ知恵しやがったのか、と言いかけてサタンは口を噤んだ。
「サタンさん、本当にバアルさんの言う通り、此処にいたんですね……」
リリスが牢の中にいる三人の顔を順に見渡しながら静かに呟く。一方カインはリリスを見るなり穏やかだった顔を一変させた。
「女、どういうことだ!! 二度と此処には来るなと言っただろ!! ふざけんな!!」
「ええ、言われました。すいません、約束を破りました」
カインの怒鳴り声にリリスは静かな表情で答えた。どうしたことだろう、先日は彼の凄まじい剣幕に怯んでいたはずなのに今日のリリスは僅かも揺るがない。
ふと、ラファエルがサタンに耳打ちをした。
「どうやらバアルが勘付いたようだな。此処にはもう二度と拷問班の天使以外、誰も入れなくなると」
「なん、だと……?」
サタンは驚愕に顔を強ばらせ、弾けんばかりに目を見開いた。二度と此処に来れなくなる、そんなことがあっていいのか……。
「二度もお前が此処に来て拷問を中断させているんだ。まだ憎しみの癒えぬ神が気付かぬはずがない。となれば此処の入り口を封印するのが普通だろう。バアルは恐らく『後悔の無いように』とでも女に言って此処に案内した……。差し詰めこんなところだろうな」
「……俺の、せい……?」
「いいや、お前しかいなかったんだから関係ない、お前以外、此処へは今まで誰も来なかった。誰も来ないのだから扉が開こうが閉じようがカインにとっては同じことだ。寧ろ、うっかり扉が開いてるうちに来れて良かったじゃないか」
それはラファエルにしては珍しいサタンを庇う言葉だった。ひょっとしたら嫌味か皮肉の意味かも分からない、しかし今のサタンには疑う余裕などなかった。
「ラファ……。あのさ、じゃあ事実上、此処の扉が次に開く時は……、俺の手で開けることが出来るとしたら、それは神の憎しみが弱まってカインを解放しれやれる時……か?」
「まあ、そうなるな。どうせならそれまで私をも入れない程に強く封印して欲しいもんだが……」
ボソリとラファエルは本音を交えた。が、そんな言葉は無視してサタンは一人「そうか、解放してやれる時か……」と呟き、頷いた。
「サタン、楽しみにしてるよ。お前の手でまたこの扉が開く時をな」
しっかり脇で話を聞いていたカインが顔を俯かせながら静かに呟く。俯いているのはリリスと顔を合わせたくないためだ。リリスはそんなカインを黙ってじっと悲しそうな目で見つめていた。
サタンはもう、言葉が見つからなかった。別れの挨拶をするべきかしないべきか、それなら「さよなら」、「またね」、どの言葉が適切なのか何をするにも全く判断がつかない。この悩んでいる時間は酷く無駄である。ならば、ここはもう、リリスに任せてやろう。
思い立ったら即行動、サタンはラファエルの肩をポンと叩いた。
「俺たち邪魔になってるぜ。ち〜っと廊下出ましょ、廊下」
「あのな、私はお前と違って遊びに来てるんじゃ……。まあいい、こういう場面は歯痒くなるから嫌いだ」
ラファエルの返事にサタンはホッとした。同意してくれなかったらどうしようかと思っていたのだ。しかしそこは曲りなりにも大天使、空気を読んでくれた。
「しかし私はとてつもない地獄耳だ。廊下に出ようと意味はない。今日はもう天へ帰ることにする。なーに、悪魔が来て仕事が出来なくなったとでも言い訳すればなんとかなる。余裕、余裕。なので心配は要りませんよサタン」
「こ、この野郎! しっかり俺を悪者にしやがって! とっとと帰れ、エセ天使!」
「勝手にほざいてろ。今は気が乗らないから何もしないが、次に会った時は容赦しない。……じゃーな」
ちゃっかり捨て台詞を吐き、ラファエルは音もなくその場から姿を消した。
(別れの挨拶なんて、要らないよな。もう、また会えるって約束したわけだし)
これでいい、サタンは一度振り向いて俯いてるカインを見やってから無言で部屋を出た。
俯く姿が、まるでカインもカインで下手な言葉は要らないと言っているようだった。
本当に、彼と自分は似ている。どうしてかは分からないが、確信している。片やこの世界で最初に誕生した天使、片やこの世界で最初に誕生した人間。色々と相通じるものがあって不思議ではない。
「あ……」
サタンは廊下に出てすぐ、腕組しながら壁にもたれ掛かっているバアルを見つけた。見慣れた顔に心の何処かで安堵する……。
「お前、俺が此処来てるって最初から分かってたのか。それに……」
「牢獄へ行った3日後にですよ、いきなりリリスを置いて一人で外出なんて言われたら大体想像つきますよ。……牢獄の出入り口が閉鎖されると思ったのは勘でしたがラファエルの言葉を聞く限り当たっていたようですね」
サタンの質問にバアルは床の一点を見つめながら淡々と返事をした。
「だからってお前な」
「此処に来たいと言ったのはリリスの意思。一生ものの後悔はしたくないと考えた彼女なりの結論です。今、会わなかったら、絶対に後悔すると彼女は言いました。どうしてそれを止めることが出来ますか?」
「まあ、うん……。なら仕方ないか……。あ、そういえばいつから此処にいたんだよ」
「カインの解放について貴方とラファエルが語らっていた時からですね。失礼、全部お話聞いていました」
「じゃあ、俺の無力ぶりも聞いてた、か。ハハッ、情けねぇ。俺って満足に人っ子一人助けてやれねぇんだぜ……。何が魔界の帝王だよ。名前負けにも程があるわ」
「いいえ、貴方は無力なんかじゃないですよ。彼の解放が絶対不可能ではないと分かったではありませんか」
「しかしだな、お前……。そりゃラファエルが教えてくれたことだし、ってコトは俺やっぱなんにもしてねーし……、そもそも何千年だぞ。こんな所に……、何千年もだぞ!?」
「彼が言っていたでしょう。『終わりがあると分かった時点で救われた』と。貴方は彼に希望を与えたんですよ」
「だけど……」
「サタン、私では彼に希望すら与えられなかったでしょう。貴方は何を恥じる必要がありますか?」
バアルの一言一言、丁重な返しにサタンは次第と何を反論することも出来なくなっていった。
(ったく。俺カッコ悪……)
何も出来なかった挙句に仲間に弱音を吐いて甘えるこの始末。情けないったらありゃしない。サタンはボソボソ考えを巡らせながらバアルの隣に歩み寄って同じく壁にもたれ掛かった。
「……俺たちさ、偉大な神様の前じゃ……、やっぱ無力なのかな……」
思わず漏れてしまった弱音である。それが余程珍しかったのだろう、バアルがキョトンと目を見開く。
「な〜に言ってるんです? 私は事実無力な者ですが貴方は違う。だからこそ私は貴方について来ました」
「それこそ何言ってやがる。俺にはお前のが強く見えるぜ。お前らと一緒だったからこそ……、何でも出来るような気がした」
「違いますよ。『気がした』んじゃなくて、何でも『出来る』んです。そう、出来ます。絶対に、出来ます。気のせいなんかじゃありません」
「……そうだよな。あ〜あ! 俺がしっかりしなきゃいけないってのに! わりぃ、ま〜たお前に頼っちまったな」
「ハハッ、何ですか急に改まって。……あっ、そうだ。落ち込んでいる貴方に良いことを教えてあげましょう」
言うとバアルはサタンに向かって茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
「此処に来る前、街でリリスに色々と買ってあげたんですよ。あの子ったらアレ欲しいコレ欲しいって本当に何でも興味を示すもんだから、それはもう沢山。で、今頃レヴァ君が凄い量の荷物を一人でえっちらおっちら運んでると思うんですけど、後程貴方に購入した品の全額と我々への子守り代金を合わせて要求致しますね〜」
「だっはっはっは!! そいつぁ結構……って、テメェ!! 何が良いことだよ、嫌なことじゃねぇか!!」
「あ〜らら、やったねサタン。元気出たじゃないですか。良かった良かった。さあ、私たちは先に此処から出ていましょう。私たちが廊下で騒いでいては彼らが落ち着かないかもしれない。せっかくの貴重な時間です、邪魔はしたくない」
「ああ、そうだな……。ん? バアル、お前カインのツラ見ておかないのか?」
「あ〜、今はいいです。解放された時に拝見させて頂きますよ。後のお楽しみってヤツですね。楽しみがあれば生きる糧になります。それに覗き込んでも彼、俯いちゃってるし。……それにしても怪しいですね。あのラファエルが貴方の助太刀をするなど……。何かもっと裏がある気がするのですが……」
「確かにな。でもまあ、今回は色々助かった。それだけでも良しとしておこうぜ」
語らいながら二人は階段を上っていった。その途中、ふとサタンは思った。
「そーいやバアル、カインが俯いてるのを知ってたあたり実はちゃっかり顔見ようとしたんだろ?」
「あ、バレた? だって今を逃したらあと何千年も待たなきゃいけないじゃん。見るに見れないって凄く気になる……!」
「そ、それでもちゃんと邪魔しねーでリリスを気遣ったあたりお前は紳士だと思うヨ……」
顔が見れる見れないというだけでも酷く重たい数千年という途方もない歳月。終わりがあると知っただけで救われた、そう言って笑ってみせたカインは一体今までどんな苦しみを味わってきたのだろう。あの笑顔に嘘偽りは微塵もなかった。
(俺も、強くなりたい……)
サタンは静かに拳を握り締めた。
遠くに聞こえていたサタンたちの話し声が消えた。シンとした静寂がこの暗い牢獄をより暗くしたような気がする。
暗い牢獄にてリリスは、ただただ黙ってカインを見つめていた。しかしどんなに視線を注いでも相手は何も言ってくれない、顔すら上げてくれない。
「あの……。私、もう此処には本当に来れなくなると聞きました。だから、もう一度だけでも貴方に会いたかったんです」
リリスはゆっくりと言葉を紡いだ。
「ざけんな。俺のことは忘れろ、なんにも気にせず生きろと言ったはずだ」
これが、ようやく彼の口から出た言葉だった。静かだが凄みのある声だ。
「出来ません。貴方を忘れることなんて出来ません!! 無茶言わないでください。どう忘れろと言うんですか……」
「だから最初から俺の存在は無かったと思えって言った!! 俺はちゃんと言った!! 此処にいるのは亡霊だ、いてはいけない存在だ!!」
カインは俯きながら髪を振り乱して怒鳴り散らした。それでもリリスは怯まなかった。彼が何故顔を上げないのか、何故ここまで頑なに自分を拒むのか、その理由を察してしまった以上、ただ大声に驚いて怯むことなど出来なかった。
「いいえ!! 貴方は亡霊でなく生きて此処にいます。確かに此処に、いるじゃありませんか……」
言うとリリスはおもむろにカインへ手を伸ばした。察したカインが針で突かれたように顔を上げ、咄嗟にその手を振り払おうとする。が、鎖が邪魔して上手く動けなかった。
(……あれ……?)
カインは改めて鎖を引っ張ってみた。……ビクともしない。どうしたことだろう、鎖が酷く重い……。変だ。こんなことは今まで無かった。普段なら手を上げて頭を引っ掻くくらいのことは出来る重さだ、なのに今はズシリと重くて僅かも腕が上がらない。
(ってことは、まさか……。呪縛が強まった!?)
嫌な予感。背中に冷たい汗が流れる。
「あー、これって物凄くヤバイ感じ……! ……リリス! よく聞け! 神が今呪いの力を強めた! もうすぐ入り口が閉まって自力じゃ開かなくなる! だから早く……っ……」
カインは途中で言葉を止めた。止めざる得なかった。リリスの手が、自分の頬に触れてしまったからだ。初めて、女に触れた。触れてしまった。
「あ……」
言葉が出なかった。白く柔らかく温かな手が自分の小汚い頬を優しく撫で上げている。なんて気持ちがいいのだろう。何を言おうとしたかも忘れるほどに気持ちが良い……。
「構いません。私も神に逆らった罪人。貴方と一緒に此処に残ります!」
「な……!?」
リリスの言葉に一瞬でカインは現実に引き戻された。そうだ、喜んでいる場合ではない。こんな惨めな思いをする人間は一人で十分だ。そう、十分なのである。
「あのな、アンタ自分がなに言ってるか分かって……、あっ」
言葉途中で、彼は我が目を疑った。
扉が、閉まり始めたのである。
「畜生……! リリス、とにかく馬鹿なこと言うな! 迷惑なんだよ! 此処に一緒に残るとか、そんなんされたって全っ然嬉しくねぇ! 俺の言うこと素直に聞けよ! お前は外の世界に行け! もう出てけ!! 頼むから行ってくれ!!」
「嫌です……嫌です!! 私も残ります!! 何千年なんて待てない! 待てません! 貴方と一緒にいます!!」
「待つことなんざ無い。俺の今の願いはただ一つ。アンタの幸せ……。でも、それは俺の手じゃ叶えられない願い……。あの黒髪の悪魔いるだろ? サタン君だっけ、い〜い男じゃねぇか。しかもアイツ、アンタに気があるっぽいぜ。俺の勘だとアンタはアイツとなら幸せになれるよ。そんな気がする。うん」
「え? え? ……ど、どうしてそんな……。私は……、私は!」
私は……。その続きの言葉が出なかった。絶対に伝えようと思っていた言葉だった、それなのに不思議と言ってはいけない気がして声に出ない。
「私……っ、私は……!」
伝えよう伝えようと思う気持ちとは裏腹に声が出てくれない。そんなリリスを見るカインの目は「分かってるよ」と告げるように穏やかな色に染まっていた。
「俺は、アンタに何もしてやれない。いつか時が来たらまた会おう。そん時はアンタが幸せになった姿を見せて欲しいな。……希望をくれてありがとう。それだけで、もう十分過ぎる。これ以上は何も要らない……」
言い終えるとカインは再び手足を動かそうとした。が、やはり動かない。しかしこのままでは扉が閉まってリリスが巻き添えになってしまう。
――負けねえ。テメェの呪縛如きに――!
次の瞬間、唐突に鎖がジャラリと音を立てて緩まり腕が動いた。
カインは心の中で叫んだ「ザマーミロミロ、見たか、神様。俺の熱い男気、そしてド根性を!」と。どんな時も悪態つくことを忘れない男である。
「でも、私は貴方のことを……!」
目に涙をいっぱいに溜めながらリリスが言葉を紡ぐ。しかしゆっくり聞いてあげられる余裕はない。カインは勢い良く立ち上がって彼女の身体を思い切り抱き締めた。
柔らかく温かい。生まれて初めて抱き締めた女の身体、本当ならゆっくり感傷に浸りたかった。だが、神の呪いがそれを許してくれない。
「続きの言葉は何千年後かのお楽しみにさせてもらうよ」
耳元での囁き。いきなり抱き締められたリリスは何も返事をすることが出来なかった。リリスからしてみれば生まれて初めて男の腕に抱き締められたのである。本当ならただ呆気に取られるだけじゃなしに、もっとちゃんと照れるなり何なり色んな感情を味わいたかったはずだ。だが、そんな余裕は僅かもなかった。
「私……!」
言い終える間もなく、次の瞬間リリスはカインに凄まじい力で部屋の外まで突き飛ばされた。……危ないところだった。扉がもう人が一人通れるか通れないかという所まで閉まりかけていたのだ。しかし安堵の気持ちは欠片も無かった。
「カイン!! カイン!!」
名前を呼び叫び、リリスは慌てて閉まりゆく扉の隙間からカインを見やった。
……彼は、笑っていた。泣きながら笑っていた。
その涙に濡れた彼の目は今まで決して見せなかった優しい赤い光を放っていた。
「リリス!! 正直アンタの言葉は全部俺には勿体無いくらい嬉しいもんばかりだった……。絶対に忘れねえからな!! 一言一句、忘れねえ!!」
「私も忘れません!! カイン、絶対にまた会いましょう。約束します。私、迎えに来ます。時が来たら絶対に此処に来ます! 何があっても!! 何があってもです!! たとえ、どんなに……どんなに姿形を変えようとも、絶対に貴方を迎えに来ます!!」
「ああ。待ってるよ。いつまでも……」
その言葉を遮るかのように、重い重い扉が不気味な音を立てて……………………閉まった。
扉の閉まる禍々しい大きな音、それが何千年もの歳月の重みを持っていることをカインは理解していた。……牢屋は真っ暗な闇に包まれた。……実感が無かった。つい先ほどの出来事が、全てが夢に思えた。
しかし彼女が触れた頬に残る温もり、抱き締めた腕に残る感触がこれは現実であることを残酷に告げている。
なんの音もなく色も無くなった空間で、彼女の残した温もりだけが鋭利に肌を刺す。こうなることは分かっていた。だから嫌だったのだ、彼女に触れられるのが。きっと一度触れたら忘れられなくなると、本能的に分かっていた……。
「……カッコつけすぎたかなあ……」
カインは真っ暗な天を仰ぎ、自傷気味に笑った。カッコ悪くても彼女を巻き添えにしてしまえば、こんな侘しい気持ちにはならなかった……いや、そんなことはない。此処に残れば彼女はきっと目の前で心無い天使たちによってこれ見よがしに蹂躙されたであろう。それはカインにとって自身の身体を弄ばれることなど比にならないくらいに耐え難い苦痛である。
ならば、やはりこれで良かったのだ。
不安げな目をして遥々こんな地下深くに自分を頼ってきた女、出来ることなら「大丈夫だよ」と言ってこの腕にしっかり抱き締めてやりたかった。しっかりと話を聞いてやりたかった。共にこの世界で生きてやりたかった。しかしそれは叶わぬ夢。こんなに悔しいことはない。せめてもと罰を一人背負った決意は、決して間違いではなかったと思いたい。
「うあああああああああああああああ!!」
やり切れない思いを晴らしたい一心でカインは腹の底から叫び、身体中を爪で掻き毟った。こんなに辛い思いを味わうのはいつ振りだろう。大丈夫、明日になればこんな肌寒さ消えている……、そんなささやかな希望を抱いて今はただ感情のままに喚いた。
辛い、寒い、悔しい、寂しい、これは、生きている何よりの証拠。感情全て殺せばこんな地獄も苦にならない、そうだ死んでおこうと決意した。それなのに思わぬ形で意図せず生き返ってしまった。辛い、寒い、悔しい、寂しい、なのに何故か僅かに、嬉しい。これこそ生きている何よりの証拠である。
だが、涙を流すのはこれで最後にしよう。カインは自分に言い聞かせて目を拭った。
「数千年、か……」
きっと指折り数えては気が滅入る。また何も気にせず眠り続けるとしよう。そうすれば知らぬ間に時は流れて行く。今までがそうだった。だから、大丈夫。また暫く死んでいればいいだけ。簡単なことだ。
友のくれた希望と女がくれた優しさを胸にカインは目を閉じた。こんなに穏やかな気分で目を閉じたのは、久し振りのことだった。
――また会おう――
その約束を胸に抱いて、あれからどれだけの責め苦を受けただろう。どれだけの年月が流れただろう。いつだったかサタンとリリスが結ばれたと風の噂で知った。それからまた途方もなく時が流れ、やがて子供が生まれたと聞いた。そして、次に……、サタンとリリスの二人が死んだと聞いた。
その頃からだったろうか。牢獄にやって来る天使の姿を見なくなった。自分は何年も放置された。そのうち自分以外の囚人と会話が出来る程に壁が薄くなった。それは呪いが弱まってきている証拠だった。……だが、もう二人はいない。また会おうと誓ったあの約束は一体どうなるのか。しかしカインは不思議と不安な気持ちにはならなかった。何故だろう、絶対に大丈夫だと自信を持って断言出来た。
案の定、扉は開いた。しっかりと開いてくれた。僅かな光が差し込んだ瞬間、カインはこれは夢かと目の前の光景全てが信じられなかった。
数千年もの長い長い時を経て開いた扉の向こうには桃色と青のオッドアイを持つ銀髪で少しマセた感じの少女がいた。……カインは思った、ああ、来てくれたんだなと。見間違うはずがない。なにせ自分を見て悲しそうな目をしてくれたその少女の顔は、かつてリリスが見せた表情そのもの。忘れるはずもない顔である。リリスは『どんなに姿形を変えようとも絶対に迎えに来る』という言葉を違えず、しっかりと約束を果たしてくれた。そして、幸せになった姿を見せてくれた。ついでにサタンもちゃっかり一緒に来てくれたようだ。少女の持つサタンと同じ桃色の瞳がそれを証明している。
と、いうか、この少女、よくよく観察してみればものの見事に二人を足して2で割ったような顔である。悲しそうな目をした瞬間はリリスそのものだったが、やがて好奇心に目を光らせ始めた顔はサタンそのもの。二人の面影濃ゆくてどちらにも似ている。
(あーあ、100%母ちゃんに似ときゃ良かったのに)
思わずニヤケてしまいそうだった顔を隠そうとカインが俯いて構えていると、少女は少し困惑の色を浮かべながら「おい! アンタ!」と、大声を出した。
これも、ちょっと、想像と違う。
(ひ、悲劇だ。口調が親父そっくりじゃん……。なんでそっちに似ちゃうんだよ!? チッ、ゆっくり思い出にくらい浸らせろよなァ、畜生)
心の中でブツブツ愚痴を呟きながらカインはゆっくりと顔を上げた。あの時と同じく、赤い目を鋭く光らせながら。
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