【06:帰っておいで(1)】


 ――これは、これから戦地に赴かんとする夫へ妻が贈った言葉である――

 なんとも言えない焦げ臭さを鼻に感じたら、それはサタンが近くにいる証拠。
 唐突に風向きが変わったことを感じたら、それはレヴァイアが近くにいる証拠。
 痛いほどに肌を刺す冷たい空気を感じたら、それはバアルが近くにいる証拠。
 彼らの気配を感じたら必ず逃げてください。逃げることは決して恥ではありません。いいですか、必ず逃げるのです。
 一度、剣を交えたら最後。いいえ、目が合っただけで最後かも知れません。どれだけ命乞いをしようと、破壊こそ正義と謳う彼らには一切の躊躇もないことでしょう。
 嗚呼、どうか、どうか、愛しい貴方、無事に生きて此処へ帰っておいで……。
 天界に残り命を長らえたにもかかわらず、私はこうして貴方を危険な戦地へと送らなければならないことが、本当に悔しい。

 ――話を聞いた夫は首を横に振った。どうか心配せずにいて欲しいと優しい笑顔で首を横に振った。なに、今の言葉を胸に刻み自分が無事に生きて帰ってくればいいだけのことだ。必ず、ただいまを言うよと――



 意気揚々とキッチンに立つリリスの背中をサタンは微笑ましく見守っていた。レヴァイアに何度か料理を習って自信がついたのだろう。彼女は今日こそ私が作ると言い張って譲らなかった。
「やっぱ野郎の作る飯よりも女の手料理だよなー。なんかこう、気分が違うぜ! いつもより栄養を倍以上は摂取出来る気がする!」
「へえ〜、お兄様はいつもボクが作ったご飯じゃ栄養とれてなかったんだ」
 サタンの何気ない言葉に隣に座っていたレヴァイアが遺憾の意を表して頬を膨らませた。
「え!? いや、そんなことは多分無い!!」
「多分、無い、か。ふーん。いいもんいいもん、兄ちゃんにはもう二度と飯なんて作ってやんないから!!」
「えええ!? そりゃないよ我が弟!!」
 ワーワーギャーギャー騒ぐ二人。見兼ねたバアルが「まあまあ」と朗らかな笑顔を浮かべて間に入る。
「落ち着いてレヴァ君。サタンは久々に乙女の手料理を口に出来るということで気分が異常に盛り上がっているのです、大目に見てあげましょう。ほら、この人こう見えて私たちより遥かにモテなくて女っ気無い人生送ってるから。しょーがないの。うん」
「あ、そっか」
 納得のレヴァイアである。
「なんだとバアル、テメェ〜!! レヴァもレヴァで納得すんなっ!!」
「どうしたんですか〜?」
 大騒ぎする男たちが気になったのかリリスが小首を傾げながら振り向く。慌てて三人がなんでもないなんでもないとワタワタ両手を振ると「じゃあいいや」とばかりに微笑んで彼女はまた作業に戻った。
「ったく、こうやってウルサくなるからバアルとレヴァは別に呼ばなくていいって言ったのに……」
「なんですって?」
 ボソッと零したサタンの独り言を聞き逃さなかったバアルが一睨み。
(いやん、怖いっ!)
 なんだか生命の危機を感じたサタンは間髪入れずに「あ、いや、なんでもないデス」と頭を下げて謝っておいた。隣に座るレヴァイアは我関せずリリスの手元を遠目にジッと見つめている。一応は料理の師匠として弟子の手並みが気になるのだろう。
「それにしても……」
 紅茶に口をつけて気を取り直したバアルが感傷深げにリリスを見つめる。
「彼女、すっかり元気になってくれたね。安心した……」
 先程までの冗談めかした態度は何処へやら、優しい安堵の表情である。彼は本当にリリスを妹のように可愛がっている。背中を見守る表情は正に姉……いや、兄そのものだ。
「ああ、うん……。お陰様で。あれからよく遊んでよく笑うようになったよ」
 バアルの説得がどれほど効いたのやら、本当にあれからリリスは毎日活発に行動し、何事もなかったかのようによく笑う。
 最初は無理をしているのだと思った。心配をかけまいと無理をして笑っていると。しかし彼女は「それは違う」と笑顔で言い切ってみせた。自分は、当たり前のことをしたいだけだと。当たり前のように笑って、当たり前のように生きていきたい。だから、まずは皆と同じようになりたい。文字の読み書きや料理を覚えたい、と……。
(しっかし、こんなにも違うもんなんだなあ)
 リリスの背中を見てサタンはしみじみと思いを馳せた。なにせリリスを見ていると発見ばかりである。まず第一にサタンは神から直接生まれた自分たちと神に泥から創られた人間が姿こそ似ていてもまるで違う生き物であるとリリスを介して教えられた。神からなんの力も授かっていないことや背中に羽が無いのは勿論のこと、多少の切り傷ならすぐに治ってしまう自分たちと違ってリリスは料理の際ちょっとナイフで指を切ってしまっただけで完治に数日を要し、また自分たちが生まれながらに知っていた文字の読み書きも彼女はその一切を知らなかった。きっと他にも異なる部分は多々あるのだろう。今のところはっきり分かっているのは、とにかくリリスは『自分たちより遥かに脆い』ということだ。
 まだ憶測の域だが、このリリスの泥から創られた脆い身体は恐らくカインを牢獄から救い出せる数千年先までは到底持たないだろう。
 まあしかし、それは彼女が『生涯、普通に人間として生きられたらの話』ではあるが……。
「おおおー!! ウマそう!! スッゲーウマそう!!」
 突如、歓喜に満ちたレヴァイアの声が響いた。
「んえ? ……おおっ!! こりゃスゲーや!!」
 サタンが我に返るとテーブルの上にはリリスが腕によりを掛けて作った出来立てほやほやの料理が並んでいた。オムレツ、サラダ、パスタ、ハンバーグ……、大食いの三人のことを考えてか相当な量である。まだ料理初心者だというのにリリスが美味しい料理を振舞おうと本当によく頑張ったことが伺える。男三人の頬も思わず緩むというものだ。
「まあ〜! 私の大好物ばかり! もう食べていい? いい? いいよね? いただきまーす!」
 言うが早いか真っ先に料理に手をつける、普段クールを気取っているバアルですらこの反応である。
「いただきまーす!」
 サタンとレヴァイアも意気揚々と続いて料理を頬張った。
「どうぞどうぞ、召し上がれ。あ、一応ちゃんと味見しながら作ったから食べた途端にブーッて噴いちゃうようなものは多分ないと思うけど〜……、どうかな?」
 評価が気になるのだろう、リリスは並んで食事をする三人の顔を順に見つめてそわそわと落ち着かない様子だ。
 暫くして彼女が見守る中、三人はもぐもぐと動かしていた口を止めた。そして「美味い!!」と綺麗に声を揃えると、それを皮切りとして更に勢い良く次々と料理を口に運び始めた。いやはや本当に凄い食いっぷりだ。加えて三人とも何を食べても「美味しい、美味しい」の連呼である。想像以上の高評価にリリスはポカンと口を開けたまま固まってしまった。
「え、えっと、美味しい……? 本当?」
「ホント、ホント! 今度から料理当番リリスに任せちゃいたいくらい!」
 褒め称えてサタンが笑顔を向けるとリリスはようやくホッと胸をなで下ろし「良かった」と呟いた。しかし喜びよりも安堵が勝ったあたり、まだまだ未熟だと自身に活を入れることも忘れない。のんびりして見えてリリスはなかなかストイックな女性である。
「ほほう、おだてまくって良い具合に女の子の手料理を求める作戦ですね、サタン」
「こらバアル〜!! テメそんな心無い補足すんじゃねーよグルァアアアアッ!!」
「はいはいはい、喧嘩しないのっ! ……リリス、師匠として俺は鼻が高いぜ。あっという間に基本を覚えちゃったな。ホントに立派なもんだよ、よく頑張りました! これに満足せず更なる高みを目指してくれたまえ! 俺で良かったらいつでも料理教えるからさ」
「はい、師匠! ありがとう御座います!」
 最初ジャガイモの皮すら上手く剥けなかった自身の姿を知っている師匠レヴァイアによく出来ましたと言われては喜びも一入。リリスは満面の笑みを浮かべた。
(私でも、やれば出来るものね)
 そうしてリリスが達成感に浸っているうち、あっという間にお皿は綺麗になってしまった。到底食べ切れないはずの量を作ったつもりだったのだが、いやはやこの魔王三人は胃袋も規格外だ。あれだけあった料理を平らげて「腹八分目で調度良かった」と口を揃えお腹を撫でている。もっと多く作っても良かった気がしなくもない。
 よし、次回はもっと沢山作ろう、そうしようとリリスの中に新たな目標が生まれた。
「師匠、次はどんな料理を作ってみたらいい?」
 とりあえず基本は身に付けることが出来た。次のステップに進もう。はて、そのためには何をすればいいか……。食後のコーヒーを皆に振る舞いながらリリスが尋ねるとレヴァイアは「うーん」と唸って顎に手を当て、天井に視線を泳がせた。
 そうして如何にも考え巡らせてますよなポーズをとって暫くした後、彼は閃いた! と目を輝かせて手を叩いた。
「今晩の夕食のメニューを自分で考えて作ってみるとか、どう? 俺が言った通りじゃなしにメニュー自分で考えてさ、そのうち材料の買い物なんかも自分でやれるようになったら文句なしに完璧な一人前だよ」
「成る程!」
 リリスは素直に頷いた。何せリリスが今日作った料理は殆どレヴァイアの提案あってのものである。レヴァイアが用意してくれた材料を使ってレヴァイアに教わった通りに調理し、テーブルに並べて振舞った……、きちんとこれ全て一人でやれるようにならなければ一人前とは言えない。
「じゃあ早く一人前になりたいので後で早速お買い物に行ってみます、私!」
「おお、張り切ってるねえ〜。でもゆっくり一つずつでいいんだよ?」
 そう、急ぐことはない。しかし一度ヤル気になってしまったリリスは簡単に止まらない。案の定「いいえ、今日やります」の一点張り。隣でサタンとバアルは食後のコーヒーに口をつけながら微笑ましげにことを見守っている。二人の視線から察するに、ここは彼女に任せてみろ、ということだろう。意図を汲み取ったレヴァイアは「分かった、やってみな」と笑って折れることにした。
「大丈夫です、まだ少しだけど文字も読めるようになってきたし! サタンさん、今日は夕食も私が作りますね! 何か食べたいものがあったら言ってください。何かないですか? ニンジン食べたいとかタマネギ食べたいとか〜……」
 せっかくだからいつも親切にしてくれているサタンの好きなものを作りたい。せめてもの恩返しの気持ちである。しかしサタンは「うーん」と唸って首を傾げてしまった。
「食いたいモンか〜。飯食ったばっかだから浮かばねえなあ〜……。うん、リリスが作ってくれるもんだったら俺はなんでもいいぜ!」
「え〜? 嬉しいけど、それはそれで困っちゃうなあ〜」
 リリスが唇を尖らすと話を聞いていたバアルがクスクスと笑った。
「なんでもいい、が一番困るリクエストなんですよね〜。リリス、いざ買い物に出掛けて色んな食材を見て回ったら何かしら作りたい料理が浮かぶと思いますよ。なんでもいいと言うんだから自分が作りたいものを作ってしまいなさい」
「悪かったな、一番困るリクエストしちゃってよっ。その代わり俺は何が出てきてもテメーと違って喜んで平らげる自信があるぜっ」
「そうそう、バアルなんかよく『なんでもいい』って言いやがるクセに料理出来た後で他のモンが食べたかったーみたいな最低の文句言うからな!」
 チクリと刺すサタンとレヴァイアである。
「黙りなさい君たち。リリス、彼らの戯言は気になさらず。とにかく好きなの作っちゃいなさい」
「アハハッ。はい、分かりました! じゃあ片付け終えたら買い物に行ってきます」
「……待った」
 レヴァイアが口を挟んだ。
「本当は今スグ飛び出して行きたいって顔に書いてあるぜリリス。片付けは俺がやっとくから行ってきなよ」
「え? でも〜……」
 申し訳ない、という表情である。
「俺を師匠と謳うなら素直に言うことを聞く!! いいから行っといでって」
 レヴァイアが優しく微笑む。この親切を頑なに断るのも非礼というものだ。リリスは「じゃあ、お願いします」と素直に彼の好意を受け取ることにした。と、今度は「待った!」とサタンが口を挟んだ。
「なに好感度上げようとしちゃってんだよ、レヴァ!! ずるいぞ畜生!! この猫畜生!! 煩悩だらけのケダモノめっ!!」
 いきなりの暴言ラッシュ。これに落ち着いていられるほどレヴァイアは大人ではない。
「な!? 言いがかりも大概にしろよコノヤロー!! そんなに言うなら兄ちゃんどうぞ片付けヨロシクねっ!!」
「ああ、いいとも!! 俺が片付けやってやろうじゃん!! ……えっ? 俺が片付け?」
 瞬間、我に返ったサタンはテーブルの上に所狭しと並んだ汚れた皿と向こうのキッチンでリリスが調理に使って散乱したままの大量の鍋やら調理器具を順に見つめた。これを、一人で片付け、である。
「レ、レヴァく〜ん。手伝ってもらえるとお兄ちゃん嬉しいかも〜」
「俺、猫畜生だからそんなお願い聞こえな〜い!!」
「なんだと、ケチ!! ケダモノでしかもケチ!!」
「もおお〜、二人ともそうやってすぐ口喧嘩するんだから〜」
 実に、低能な言い争いだ。既に見慣れた光景ではあるが、やれやれなリリスである。
「いつものことです、気にしない。あ、そうだリリス。もしどうしても買い物中に困ったことがあったら私たちの名を呼びなさいね。そうしたら我々は耳が利きますので、すぐに駆けつけますから」
「はいっ。分かりました!」
「ん、良い返事です。ではサタンはあのザマですから私が代わりにお金を渡しておきましょう。上手に使うんですよ。食材だけじゃなしに好きなものをなんでも買っておいで。今日美味しいランチを御馳走してくれたお礼です」
 言うとバアルはリリスの手に金貨を数枚握らせた。これは魔界において大概のものは好きに買える額である。
「こんなに……!? ありがとう御座います! 大事に使います!」
 王の好意を遠慮するのは失礼なことだと既に学んでいたリリスは素直に金貨を受け取るとペコリ頭を下げ、言い争いを続けている男二人を尻目に意気揚々とバアルに見送られて部屋を出て行った。
 ちなみにその10分後、言い争いに疲れて息切れを起こすまでサタンとレヴァイアはリリスの姿が見えないことに気付かなかった。全く、一体どうしたらそこまであんな言い争いに夢中になれるのやら……。
 バアルは「やれやれ……」と二人を観察しながらため息混じりに頭を掻いた。が、そういう彼もいざとなると全く人のことは言えない。実際バアルが代わりにリリスへお金を渡したことに気付いたサタンの「お前まで俺を出し抜いていい顔しやがってズルイぞケダモノ二号!!」という暴言に対して彼は「頭の上に出たり引っ込んだり忙しいヤギそっくりのツノをくっつけた男にケダモノ呼ばわりされたかないね!」と相手のコンプレックスをピンポイントで抉る言葉を怒鳴り上げた。そこからは言わずもがな恒例の罵り合いである。
 類は友を呼ぶとは、よく言ったものだ。



「リリス、大丈夫かなあ〜……」
 男に二言は無し、本当に片付けを一人でやることになってしまったサタンはポツンと流しに立って黙々と手を動かしていた。今頃リリスは何処でどんなものを買っているだろうか。誰かしらと一緒にではあるが何度も買い物には出掛けている、ゆえに商品を選んでお金を払うというルールはしっかりと把握しているはずだ。それはいいが街には悪魔だけあって悪戯っ子が多い。ゆえにリリスの無知につけ込んで変な商品を勧めている輩がいないとも限らない。が、基本的には街の住人は親切だ。きっとそんなことはないと思いたい。思いたいが……、なんだか色々と、とにかく心配である……。
「貴方ってば本当に心配性ですねえ」
 傍らで椅子に腰掛けたバアルが手元を泡だらけにしているサタンを悠々と眺めながら紅茶を啜る。先程までサタンの暴言に激昂していたとは思えぬ落ち着き様である。
 レヴァイアはというと此処から離れた向こうのベランダの外に出てコーヒー片手に一人のんびりと食後の一服中だ。どんなに言い争いをした後でもサタンの城内は全室禁煙という決まりをしっかりと守ってくれるあたり彼の人柄が伺える。
「ちぇっ、茶化すなよ」
 口を尖らせつつ……、本当ならそのまま文句の一つでも言いたいが我慢だ。今はあまり大きなことを言えない……。なにせ彼、バアルも食後にのんびりと風に当たりたかったのかレヴァイアと一緒にベランダの外へ出ようとしていた、しかしポツンと一人で片付けというのはなんだか物凄く寂しい気がしたサタンが「行かないでくれ〜! 一人にしないで〜!」と駄々をこねたために此処へ残ってくれたのである。
 しかし、本当に残ってくれただけ。片付けを手伝う素振りは一切ない。「貴方が一人でやると言ったんでしょ」と、そこは全く譲らない。厳しいお方である。
「フフッ。大丈夫ですよ、リリスは女の子ですからね。私たちよりも根は遥かにしっかりしています。だから、こっちの心配を他所にちゃっかり買い物を楽しんで帰ってきますよ」
「女の子、ねぇ〜……」
 女は強い――バアルがよく口にする言葉である。最初はいまいちピンと来なかった。しかしリリスを見ているうちサタンも徐々にその言葉の意味が分かってきたような気がする。実際、彼女の精神面での成長は著しい。それだけではない。そもそも彼女は生まれながらに自分たちには無い強さを兼ね備えている。まず創造主にたった一人で反抗し、この魔界へと堕ちてきた経緯からして彼女の意志の強さは相当なものだ。創造主へたった一人で反抗など容易く出来ることではない。
 そしてカインとの出会いを機に、周りに頼るばかりでなく自分の足でも歩けるようにと更に前を向くようになった。自分という存在がこの魔界において誰よりも劣っていると知っても尚、決して自らを卑下せず少しでも追いつこうとしている……。もし自分が彼女の立場だったらここまで出来ただろうか。考えると、サタンは頷くことに少し迷う。
「なあバアル、やっぱリリスってカインのこと好きなのかな?」
 本当に、カインとの出会いを機に彼女はより一層強くなった。女があれだけ強くなるきっかけになったのだ、そこにはとても深い想いがあった――そう察しても不思議はない。
「そりゃ好きか嫌いかで言ったら『好き』でしょうね」
 バアルがクスクスと肩を震わせて笑う。
「いや、そーじゃなくて……、なんてゆーか、その……」
「分かってますよ、冗談です。気を悪くしないで。でも、そういう質問は本人に聞くのが一番だと思いますよ。本人の気持ちの問題ですもの」
 第三者に返せる答えは憶測でしかないのだ、なのに私に聞いてどうするんだとバアルが暗に指摘する。
「そうなんだけど、なんか、リリスには直接聞けなくてさ」
 サタンは口篭った。気にはなるが安易に聞けることではない。女は強い、しかしリリスからは強いばかりではなく、やはり下手に触れたら壊れてしまいそうな繊細さも感じる。
 女というのは、本当に難しい……。カインのことを下手に聞いたらせっかく塞がり始めていたリリスの傷口を不用意に開いてしまう可能性がある。もしそうなったら――――いや、それはきっと建前だ。
 本音を言えば、この質問に対してリリスが頷いてしまうことが恐かった。リリスの口からはっきりと「彼が好き」と言われてしまったら、サタンは自分の中の何かが粉々に砕けてしまう気がするのである。
 そう、結局は自分の都合だ。
「俺って、こんなに情け無いヤツだったんだな……」
 思わず洗い物をしていた手を止めてサタンは肩を落とした。
 本当に、情けない。あれこれ自分勝手な思考を巡らせて悩むくらいならリリス本人に直接気持ちを聞けばいいのだ。そうすれば全て今すぐに解決するのである。しかし、分かっているのに臆病風に吹かれて出来ずにいる……。彼女の気持ちを確かめる、たったそれだけのことが出来ない自分がサタンは酷く情けなかった。
 そうして本気で悩んでいるサタンの心を知ってか知らずか、バアルは肩を震わせて「やだ、可愛いっ」と笑う。
「あ〜!! ま〜たそうやって茶化す!! もういい、今の話は忘れろ畜生!! 言うんじゃなかった!!」
「ゴメン、ゴメン! だって貴方の口からそんな言葉が出てくるなんて思ってもなかったから!」
 しかしゴメンと言いつつバアルはまーだ腹を抱えて笑っている。これは、相談する相手を間違えたかもしれない。
「もういい、お前も向こう行っちゃえ!! 俺一人ポツンと寂しく片付け頑張るからっ!!」
「まあまあまあ、そんなこと言わないで。でも本当に珍しい。どうしてそんなに自信がないの?」
「そりゃあ〜…………、まあ、なんてゆーか……」
「なんてゆーか、なに?」
 ハッキリ言え、と急かすようにバアルが紅茶を啜る。正直、こんな本音はあまり口に出したくない、だが話を始めたのは自分だ、ちゃんと最後まで恥じらわずに言おうとサタンは覚悟を決めた。
「その……、カインを一目見た時にさ、直感的に思ったんだわ。『ああ、俺コイツにはどう頑張っても勝てねーな』って」
「何故?」
 想像していなかった言葉なのだろう、バアルが目をまん丸く見開いたのがサタンの視界の端にも確認出来た。
「何故って言われると上手く答えらんねんだけど……。なんかそう思っちゃったんだよね。実際アイツがリリスにしたことはスゲー立派だし……。だから、もしリリスがアイツのこと好きなら俺もう勝ち目ねーじゃん、みたいな……」
 洗い物をする手を再び動かしながらサタンは細々と呟いた。
 勝ち目などない。なにせカインは咄嗟の判断と強い決意で途方も無い年月休むこと無く降り注ぐ負の矛先の全てを自分一人に向け、リリスを救った……。あれと同じことを出来るかと聞かれたら、サタンはすぐに頷けない。
 きっとカインにも相当な想いがあったはずである。そして彼はリリスの幸せを願って迷わず自分を犠牲にしてみせた。そのカインのことをリリスも深く愛していて、彼が脱獄するのを数千年先まで待つ気でいるならば……。自分が今抱いているこの感情はなんの意味も持たないことになる。なにせ、勝ち目がない。かといって、本人に気持ちを確かめるのも恐い……。サタンはそんな自分がただただ情けなかった。
「でも、そのカインはリリスを貴方になら任せてもいいと言ったじゃないですか」
 カインとリリスが最後に交わしていた会話の中にこの言葉は含まれていた。少し卑しいが聞こえてしまったものは仕方がない。カインは確かに、サタンにならリリスを任せてもいいと言っていた。
「ひょっとしたらカインも同じように貴方を見て『コイツにはどう頑張っても勝てないなー』って思ったのかもしれませんよ。じゃなきゃあんな可愛い女の子を他の男に任せてもいいなんて簡単には言えない気がします」
「そう、なのかな……」
「そうですよ」
 言うとバアルは励ます意を込めてサタンの肩をポンと叩いた。
「今リリスの側にいてあげることが出来るのはカインではなく貴方です。本当に強い人は自分の弱い部分をちゃんと知っている……と、小耳に挟んだことがあります。自分を卑下するのはそれだけ相手を大事に想っている証拠。貴方は弱くなったんじゃない、今まで自分が持っていたそういう一面を知らなかっただけ。自分が情けないヤツだと分かった貴方は、これからどうする?」
「……強くなるしかねーな!」
 散々悩んでいたわりにはすんなり出た答えであった。弱い部分があるならばそこを補って強くなる他ない。カインに敵わないと思うなら超えられるよう強くなるしかない。考えるまでもないことだった。そうだ、考えるまでもないことだったのである。
「よっしゃ、なんかスッキリした! ありがとよ、バアル!」
 ちょうど洗い物も終わった、色んな意味でスッキリである。
「ならば良し。洗い物もお疲れ様でした。ご褒美としてこの私が直々に紅茶かコーヒーをいれて差し上げましょう。どっちがいい?」
「なにそのハイパー上から目線ッ!! えっと、じゃあ紅茶で……」
 レヴァイア曰くバアルは滅多なことでは自分でお茶をいれないらしい。紅茶のおかわり欲しさにわざわざ他の場所にいるレヴァイアを呼びつけるほどだそうだ。それを思えばこれは光栄なことなのかもしれないが、うーん、どうなんだろう。サタンにはいまいち判断つかない……。
「紅茶ですね、分かりました。あ、レヴァ君はもう暫く外で風に当たりたいようだから私たちだけでお茶をしましょう」
 言うとバアルはテーブルに移動してちゃっちゃと紅茶の準備を始めた。ベランダの向こうではレヴァイアが相変わらずこっちに背中を向けて煙草を吸っている。やれやれ、いつの間にコンタクトをとったのやら、である。
「こんだけ近くにいるんだから直接声でやり取りしなさいよね。全くホントにものぐさなんだからっ」
 なんて言いつつ試しにレヴァイアの頭の中に向けて『やーい、馬鹿!』と呼びかけてみた。すると間もなく『うるせぇ馬鹿!』とサタンの頭の中にレヴァイアから返事がきた。相変わらずこっちに背中を向けてはいるが、ちゃっかり集中は巡らせているようだ。目と耳の良い彼のことだからひょっとしたらあの位置から今も買い物に励んでいるリリスを見守っているのかもしれない。なにせ、ああ見えて彼もそれなりに心配性だ。
「お茶が入りましたよ」
「ああ、ありがと」
 バアルの隣の椅子に腰を下ろし、紅茶を啜る。……うむ、しっかり美味しく注がれている。滅多に自分で入れないのが不思議なくらいだ。
 静かに流れる午後の一時。カラスの鳴き声が遠くから聞こえた。本当に静かな午後である。しかし、こうして静かな時間が訪れるとサタンは逆に強い不安に駆られる。そして何処からともなく声が響く。
 ――こんなことをしてる場合じゃないだろう――
 ――お前は一体なにをしているんだ――
 そんな自問する声が何処からともなく聞こえてくる。
 時が穏やかに流れて感じるのは、今自分が何も見えていないからだ。何故なら『この世界が平和であるはずがない』。自分たちが反旗を翻すに至った天界の惨状を思えば尚のこと。こうしている間も誰かが苦しんでいる。
 サタンの脳裏に今も牢獄にいるカインの姿が過ぎった。そうだ、正に彼がそうだ。こうして自分たちがお茶を飲んでいる間も彼は休みなく血を流している。
 ――こんなことをしてる場合じゃないだろう――
 そうだ、その通りだ。分かっている。分かってはいるのだ。
 だが、どうすればいい……?
「大丈夫、私も同じですよ」
 全てを察したようにバアルが呟く。
「なんで俺の考えてることが分かる?」
「貴方は悩むと急に黙って床を見つめ始めるから分かり易い」
 何もかも容易くお見通し、ということだ。
「ま、それなら話が早いよ。……なあ、俺らがこの地に堕ちてからどんくらい経ったかな?」
「それなら凡そ三年、といったところですね。早いものだ」
「三年、か……」
 この三年、サタンは自分が何をしてきたかを振り返った。そして、何もしていないことに気付く。必死に荒地を開拓し、街を作り上げ、生活の場を整え、時折此処へ攻め入ってくる天使から住人たちを守ってきた、それだけだ。
「俺たちこの三年間、ただ生きていただけだよな……」
 これでは、どうにもならない。もっと行動しなければ、しかし――――
「けれど、こちらから天界に攻め入る術は無し。私たちは地の底に落とされて空が何処にあるかを見失った。仕方のないことです」
 そう、『何も出来ない』のだ。生まれ育った大地をサタンたちは堕天を機に見失ってしまった。天界が何処にあるのか見当もつかない。ゆえにどれだけ攻め入りたくても叶わないのだ。
 それだけではない。
 もしも闇雲に天界を探し、運良く見つけ出したとしよう。それでも攻め入ることは不可能だ。神は反旗を翻した者など自分の側に近づけたくはないだろう、と、いうことは結界を強めている可能性がある。天界を探り当てたとしても下手に近付けばただ結界に触れて身を砕かれ何も出来ないまま、意味もなく死ぬ。
 日に日に一度の敗北の重さが身に染みる今日この頃。自分たちは唯一勝利出来る決定的なタイミングを逃してしまった、そんな気がしてならない……。
「サタン、何度も言いますが時を待ちましょう。それしかないのです」
 まるで言い聞かすようなバアルの口調である。
 自分たちはこれからどうするべきなのか、それは何度も議論をしてきたことだ。しかし結論はいつも変わらない。
「待つ、待つ、待つ…………。なんかもう、『待つ』ってなんだよ……。大人しく待たなきゃいけないってどーゆーことだよ……。カインのことだってそうだ。時を待て、そうすればって、俺は今すぐ救いたいんだ、それなのに!!」
 サタンは頭を抱えた。こんなことをボヤいてもなんの解決にもならない。分かっている。それでも耐え切れなかった。待つしかない自分が、情けなかったのだ。
「ったく、何が『明けの明星』、『希望の象徴』だよ……。俺は神に名前を奪われて正解だったのかもな……」
 大きな大きな溜め息が漏れた。自分の本来の名前がなんだったのかは神に記憶ごと奪われたせいで思い出せない。だが、どういう意味を持っていたのかは覚えている。『希望』という意味の名……。皮肉にも程がある。
「そんなことはないよ。貴方は今も私の希望です。落ち着いて時を待ちましょう。勝機は必ず来る。必ずです」
 勝機は必ず来る、というのは最早バアルの口癖だ。彼はいつも勝機は必ず来る、自分たちなら出来る、この戦いには必ず勝てると真っ直ぐな目で断言してみせる。
「ちょっと教えてくれねーか。お前のその自信は一体どっから来る?」
 常に迷いの無いバアルのことがサタンはこの頃とても羨ましく思える……。これは自分が今、弱っている証拠だ。
「どっからも何も、私は貴方とレヴァイアを心の底から信じています。貴方たちが握っている神ですら自由に操れない『二つの希望』は、こちらにある。だから負けるわけがない」
 言ってバアルは曇りのない金色の目を細めて朗らかに微笑んだ。やはり彼に迷いはない。しかし、いつもなら嬉しく感じる彼の言葉が今のサタンには重く感じた。情けない。これは自分が今とことん弱っている証拠である。
「どうしてお前はそこまで俺たちを盲目的に信じられる?」
 思わず柄にもないことを聞いてしまった。おかげでバアルもキョトンと目を丸くしている。しかし一度放ってしまった言葉は引っ込まない。
「どうしたの? 貴方にしては少し珍しい質問だ」
「ああ、ちょっとこの頃、参ってるみたいで……」
 どこまでも情けないことだが、当事者であるリリスはもう既に前を向いたにもかかわらずサタン自身は未だカインの一件を引き摺っていた。あれ以来どうにも気が緩むと思考が後ろを向く……。
「嫌でももうすぐ世界はまた慌ただしく動き出すよ、サタン。貴方が焦りを覚えたくらいだ、神も同じく焦る頃です」
「どういうことだ?」
 唐突なバアルの言葉にサタンは首を傾げた。
「全てはあくまで私の予想ですが、神が私たちをこの地へ堕としたのは、ごく単純に私たちを『殺せなかった』から。神は『希望を握っている貴方とレヴァイアを殺す術を知らない』。同行した私や他の仲間をも生かしたのは、貴方たち二人の本気の怒りを恐れたから。だから猶予を与えるという理由を後付けして私たちをまとめてこの地に堕とした……。前にも話したよね、これ」
「ああ、どうして俺たち堕ちるだけで済んだのかって話な。そんで納得がいくお前の説に落ち着いたんだっけ……。覚えてるよ」
「ならば話は早い。その続きです。神は、あわよくばゴメンナサイと頭を下げることを願ったんでしょうが、こんな荒地では生きていけないはずだという予想に反して案外私たち悠々自適に暮らせちゃってる。そうして三年の月日が過ぎた。これじゃいつまで経ってもゴメンナサイを言いそうにはない。さあ、どうする?」
 バアルの視線が冷めた紅茶からサタンの方へと向けられた。答えろ、ということだ。
「どうするって……、罰を与えたはずが逆に俺たちは神の目からちょいと離れた地での〜んびり楽しくしちゃってるわけだから神としては大失敗だよな。と、なると……、しっかりとした罰を与えるためにまた何か新しい手を打ってきても不思議じゃない、かも」
 サタンが言うとバアルは「その通り」と頷いた。
「そう、貴方が焦りを覚えたくらいです、神も同じく焦る頃だ。そろそろ新たに何か仕掛けてきても不思議じゃない。上手くは言えないけれど嫌な予感がします。攻め入れない以上こっちは受け身に徹する他ありませんからね、ひょっとしたら忙しくなるかもしれませんよ。悩む暇など無いくらいに」
「そりゃ喜ぶべきか嘆くべきか分からないな」
「喜ぶべきですよ。なんにせよ退屈は凌げるんですから」
「そっか〜? 変に忙しくなるのはゴメンだぜ俺は」
 サタンはふとベランダの向こうに目を向けてみた。そこには相変わらず何処か遠くを眺めているレヴァイアの背中が見える。何も口を挟んでは来ないが、恐らくは彼もこの会話を耳にしているはずだ。
 サタンの対極に位置する『裏の希望』を背負った彼レヴァイアはこの一連の話を聞いて何を思っているのだろう……。確かめたいが不思議と気軽に声をかける気にはなれない。
「押して駄目なら引いてみろ、引いて駄目なら押してみろってね。私の予想が正しければ、きっと神は次に大掛かりな方法でやってくると思いますよ。折角私たちが築き上げたものを壊して、改めてその意志を砕いてやろうとね」
「それは確かか?」
 サタンが問うと、バアルは「あくまで予想です」と笑ってみせた。だが、あくまで予想と言われても決して楽観は出来ない。バアルはなんの根拠もなくこんな物騒な話をする男ではないのだ。
「バアル、神は具体的にどんなことを仕掛けてくると思う?」
「そうだなあ……。私たちの意志を砕くつもりなのだから『戦争を仕掛けてくる』とか有り得そう」
「戦争だ?」
「ええ。まあ、これもあくまで予想ですけど、どんな方法であれ神は私たちがこの地で築き上げたものを崩しに来ると思うんです」
 言うとバアルは物騒な話の最中だというのに白い歯を見せてニッコリと笑ってみせた。そうして笑ってみせるのは何があっても負ける気はしないという自信の現れなのだろう。私に恐れなど全くない、ということだ。
「なあ、改めて聞くけどお前のその自信はどっから……」
「私にだって一応の迷いはありますよ、サタン」
 みなまで聞かずとも察したのだろう、バアルはサタンの言葉を遮った。
「私にだって迷いはある。巷で私たちがなんと呼ばれているか貴方も知っているでしょう?」
「へ? ああ、一応は」
 いつからか自分たちが巷で『三大魔王』と呼ばれ始めたことならサタンも知っている。最初はなんのことやら分からなかったが、聞けば魔界を支えるサタン、バアル、レヴァイア三人の魔王を指しての呼び名とのこと。満更でもないが、いやはや随分な名称を付けられたものである。
「三大魔王……。はたして私なんかが貴方たち二人と肩を並べていいものかどうかと思わなくもない。貴方たちは希望を背負っているけれど、私は違いますからね。生きて一緒に世界の終わりを見届ける自信なんかないんだな実は」
「なんでさ。『王』って意味の名を持っといてよく言うよ」
「王は所詮ただの王ですよ。民に祭り上げられはしても神の上には立てないよう出来ている……。お情けで生かされている弱い存在だ」
 そうしてバアルが自虐的に笑ってみせた時、ちょうど二人の頭の中に『物騒なお客さんが来た、先に行く』というレヴァイアの声が響いた。
「お客さん?」
 サタンが何がなんだと聞く間もなく、ベランダの外を見ると既に彼の姿はなかった。
「言葉通り物騒なお客が来たんでしょう。私たちも出迎えますか」
「だな。ったく、しゃーねーな」
 迷惑極まりないが退屈しのぎにはなる。サタンとバアルはゆっくりと席を立った。



 その頃、リリスは大量の荷物を両手にぶら下げて、はてどうしたものかと頭を悩ませていた。コレは美味しいよ、コレも美味しいよと店員に勧められるまま次々と買い物をしまったせいでまるで一貫性のない食材が揃ってしまった。おかげでどんな料理を作っていいやら全く見当つかない。
「これでお肉を買えばハンバーグが作れるかしら……。でもお昼にハンバーグは食べちゃったし、これ以上荷物増えたら持つの大変だし〜……」
 ブツブツブツブツ……。とりあえず、凄く荷物が重たい。これは一旦帰った方が良さそうだ。この一貫性のない大量の食材を見て魔王三人は一体どんな顔をするだろう。あーあ、まだリリスに買い物は早かったかもな〜と笑うだろうか。
(早く、少しでいいからみんなの役に立てるようになりたいのに……)
 溜め息をついてリリスが肩を落とした、その時である。ゆったりとしていた街の空気が突如響き渡った甲高い悲鳴によって一変した。
「なに!?」
 咄嗟に悲鳴の聞こえた方へと振り向く。すると慌てふためいて血相を変えた街の住人たちが急ぎこちらへ向かって走ってくる姿が見えた。そしてリリスと擦れ違い様、皆口々に「早く逃げろ!!」「上級天使だ、殺されるぞ!!」と告げ、そのまま奥の路地へと走り抜けて行く。これは一体何事か。悪魔が逃げ出すなど余程のことである。
「ねえ待って、一体どうしたの!? 上級天使って…………」
 何がなんだか分からずリリスは走り去っていく悪魔たちに問いかけた。だが、皆逃げることに必死で答えは帰ってこない。代わりに「ドン臭い奴、見〜っけ」と思わず背筋がゾッとするような冷たい声が頭上から降り注いだ。見ると、揃いも揃って血の滴る剣を握り真っ白な服を返り血の赤で染めた背の高い男が五人、立っていた。
「あ……、貴方たちは……!」
 リリスは彼らが天使であることを一瞬で察した。金色の髪、背中には白い翼、眩いオーラを身に纏っている様子からして間違いようもない。しかし何故天使がこんな魔界の街の真ん中に現れたのか……。いや、のんびりそんな疑問を抱いている場合ではない。リリスを見る彼らの目は明らかに殺意に満ちている。今にもこちら目掛けて剣を振り上げてきそうだ。
(逃げなきゃ……!)
 だが、頭では分かっていても彼らの視線に威圧されてしまったのか足が全く動かない。
「あっ、お前……。そっか、どーりでドン臭いわけだ」
 一人の天使がリリスの顔をまじまじと見つめて不敵に笑う。
「おい、コイツあのリリスだぜ。自分から魔界に堕ちて帝王サタンに色目使って取り入ったっつーあのリリスだよ。ヤッベー俺らいいもん見つけちまった!」
 これを聞いて他の天使たちも眼の色を変えた。
「へえ〜! 泥人形のわりには可愛い顔してんじゃん!」
「よし、持って帰っちゃおうか。色々と便利に使えるぜ、絶対」
「でもリリスのことは放っておけって結論出てなかったか? いいのかな、確認しないで勝手なことして」
「馬鹿か、お前。サタンを揺さぶる人質に使えるんだ。叱られるどころかお手柄だよ」
「と、人質以外にも楽しく使う気でいるヤツが言ってまーす」
「失礼なことを言うな!! 当たってるケド!!」
 ……なにやら好き勝手な言われようである。
「い、色目って何よ!? 私そんなの使ってない!! それに泥で出来てようがなんだろうが私の身体は私のものよ!! あ、貴方たちの好きになんかさせない!!」
 火に油を注ぐ恐れも度外視して思わず言い返してしまった……。すると案の定「はあ? なに生意気に言ってんの?」と天使たちは一斉に顔を歪めた。
「おい、聞いたかよ!? カインの花嫁になり損ねた途端コロッとサタンに寝返ったクソ女が私の身体は私のものだってさ!!」
「アハハハハッ!! 寝言は寝て言えよな!! 男に媚を売らなきゃ生きてけねー役立たずの泥人形に自己主張する権利なんかねーんだよ!! 今度は俺らに黙って媚を売りゃいいだけだ、簡単だろ!!」
 一人の天使が大声で嘲笑った。そしてリリスは思った。『この人たちはおかしい』と。どうしてこんな風に笑いながら平気で人を傷つける言葉を吐けるのだろう……。彼らがこんなにも歪んだ理由は一体なんなのか……。
 リリスは再び恐怖に襲われ、ゆっくりと後退りをした。瞬間、何処からともなくリリスの長い髪が全て舞い上がるほどの強い突風が吹き荒れた。
「神様に媚を売らなきゃ生きてけねーヤツが偉そうに何を言ってやがる」
 すぐ横から聞き覚えのある声。
「レヴァさん!?」
 リリスが名を呼ぶよりも早く、今しがた大声で笑っていた天使が「あっ」と短く悲鳴を上げ、何か見えないもので一瞬のうちに身体を粉々に引き裂かれた挙句ただの肉塊へと姿を変えて地面に散らばった。本当に、一瞬のことだ。一瞬で今の今まで高笑いしていた天使がただの肉塊になってしまった。恐らく彼は痛みを感じる暇もなく絶命したことだろう。
「もう大丈夫だよ、リリス。遅れてゴメンね」
 目の前で起こった一瞬の出来事と地面に広がった血溜まりに気を取られていたリリスの肩を大きな手が優しく掴んだ。振り向くと、やはりレヴァイアの顔があった。天使の気配を察して助けに来てくれたのである。
「レヴァイア……!」
 天使たちの顔から一気に血の気が引いた。リリス一人を目の前にしていた時とは明らかに態度が違う。それだけ魔王レヴァイアの力はケタ違いなのだろう。何か圧倒的なものを目の前にしたような眼の色……。そうだ、これは『絶対の死を目の前にした者の顔』だ。レヴァイアと敵として目が合った者はその時点で死を覚悟するとリリスはサタンから聞いていた。それは、こういうことだったのだ。
「剣を持った男数人がかりで丸腰の女イジメるの楽しい?」
 レヴァイアがいつもと変わらぬ陽気な、しかし僅かに怒りの込もった声で聞く。……天使たちは答えない。ただ真っ青な顔をしながらゆっくりと後退りをするだけだ。だが魔王に気配を感付かれた以上、彼らに退路は無かった。
「うわあああ!?」
 突然、一番後方にいた天使の身体が真っ黒な炎に包まれて激しく燃え上がり、一瞬にして塵と化した。
「な……っ! ぐあああああ!!」
 続けざま、今度はその両隣にいた天使二人の胸元に何処からともなく放たれた鋭利な氷の矢が真っ直ぐに突き刺さって心臓を抉った。
「遅いよ、お前ら」
 誰の仕業やら考えるまでもなく見破っていたレヴァイアが眉間に皺を寄せると「ゴメンゴメン」という軽い返事でもってリリスの目の前にサタンとバアルが音もなく姿を現した。
「ち、畜生……!」
 一瞬にして天使三人の命は絶たれた。残る天使一人は、震える手で剣を握り直すと射るような目でサタンを睨んだ。
「呑気なもんだ……。お前たちのせいだってのに……。いや、違う。サタン、お前だ……、咎は全てお前にある!! お前が馬鹿なことを考えたせいで世界はより混乱を極めた!! 何が明けの明星だ、希望の子だ!! お前こそ反逆者の冠がよく似合う真の絶望の化身に他ならない!! 死んでその罪を贖え!!」
 言うが早いか天使は剣の切っ先を真っ直ぐサタンに向けて突進した。決して敵う相手ではないことくらい分かっていただろう。それでもせめてその身に一太刀入れようと向かってきたのである。だがレヴァイアがひと睨みした瞬間、彼の両腕は鋭利な風の刃に根本から切り落とされた。
「うあ……っ!?」
 剣を握ったままボトリと鈍い音を立てて地面へと落ちる両の腕。断面からは真っ赤な血が容赦無く吹き出し、腕を失ってバランスを崩した彼はそのまま地面へ膝をついた。
「畜生……! 畜生……っ!」
 彼は、せめてもの一太刀すら入れることを許されなかったのである。だが、天使は哀しいことに最後の最後まで諦めないように創られている。腕を失い、地面に倒れ伏しても尚、彼はサタンを睨みつけた。
「聞け……。天界は、ますます、酷い状況だ……。サタン、お前は、お前は何故、天界から逃げた……!?」
「逃げた……? 違う!! 俺は……」
「何が違う……? 逃げたんだよ、お前は……! あの惨状を見るに耐えなくなって、お前は生きることから逃げたんだろうが……!」
 苦しげに呼吸をしながら天使は言葉を続けた。
「でも、もういい……。結局こうして、俺も逃げてきた……。こんなことなら……、最初からお前の誘いに乗っとくんだったな……」
「何か、あったのか……?」
 サタンが聞くと天使は自嘲気味に鼻で笑った。
「ああ、そりゃあもう……。よく聞け、サタン……。『神はいよいよ大々的に戦争を始める気でいる』……。お、俺たちは……、どんだけ神に蹂躙されようと生きることを選んだ……、それなのに、神は……身体だけじゃ飽き足らず、今度は命まで差し出せと言う……! 俺は、俺たちは……これ以上、神にいいように使われるのはゴメンだ……!」
 そして天使は笑いながら大粒の涙を零した。これは、何もかもに絶望した者の顔だ。彼は天界で余程の地獄を見たのだろう。そして『死ぬために此処へやって来た』。天使は自殺が出来ないよう神に創られ、何がなんでも死に抵抗するよう頭に刻み込まれている。これは、そんな彼らが安らかに死ぬ方法の一つだ。到底自分たちには力の及ばない魔王を怒らせることが出来れば、どれだけ抵抗しようと確実に殺してもらえるという一つの自殺の形なのである。
 黙って話を聞いていたバアルとレヴァイアが同時にサタンへ目配せをした。楽にしてやれ、ということだ。サタンは静かに頷いて答え、天使の方へと向き直った。
「フッ、フフ……ッ。心配は要らない、妻は先に星となって空で待っている……。これで、俺も、逝ける!!」
 言うと天使は地面に落ちていた剣を素早く口に咥え、サタンへと振りかぶった。だが、彼の心臓を貫くサタンの手の方が遥かに早かった。
 鋼鉄の槍よりも鋭いサタンの突きは彼の心臓と背中を一直線に貫いた。
「……お疲れさん……」
 サタンが労いの言葉をかけると、返事の代わりに彼は口に咥えた剣を離し、安堵したようにゆっくりと目を閉じた……。彼は無事、この世界で自らがやるべきことを全て終えたのである。
 地面に落ちた剣が空々しい音を鳴らす。しかし、先に妻を手にかけてきた彼らの覚悟は本物だ。こうする以外、なかった。
「バアル、お前の予想どうやら当たってるっぽいな」
 サタンが言うと、バアルは「あまり嬉しくはないけどね」と目を伏せた。
 世界が動き出すのは嬉しいことだ。だが――――いや、悔やんだところでどうにもならない。
 サタンは突き刺した手を静かに引き抜くと、安らかに眠った天使をそっと地面へ寝かしつけた。
 手を濡らす生温い血の感触が心をじわじわと締め付ける。
 早く、こんなこと終わらせなくてはならない。
「あ、あの…………」
 今の今まで黙って成行きを見守っていたリリスがおずおずとサタンに声をかける。すると、まるで何かのスイッチが入ったように神妙な顔つきでいたサタンがパッと表情を変えた。
「あっ! リリス、怪我は無いか!? 大丈夫だった!? ゴメンな、怖い思いさせて……。俺らが一人で買い物しといで〜なんて言ったから……。レヴァイア!! 言い出しっぺお前だろ!? リリスに謝れ!!」
「えー!? 俺だけ悪者にするわけ〜!?」
 いきなり矛先を向けられ、レヴァイアは目を丸くした。
「だって言い出しっぺお前じゃんか!! つか、大体いつまでそうやって馴れ馴れしくリリスの肩を掴んでるつもりだ!? 離れろケダモノめ!!」
「なんだとコノヤロー!!」
「い、いえ、あの、そこは私、あの、全然気にしてませんから大丈夫ですっ。ただ、あの……」
 とりあえず言い争いを始めてしまった二人を宥めると、リリスはまたおずおずと肩を竦めた。なんだか様子がおかしい。
「ひょっとして、天使じゃなくて私たちが怖く見えちゃったとか?」
 バアルが冗談めかして言うとサタンとレヴァイアはハッと顔を見合わせた。そういえば、うっかりしていた。リリスの目の前でこんなド派手に天使を切り裂いたり燃やしたりしてしまったのは初めてのことである。今も地面には血の池の中に手足や内臓が飛び散っていて酷い有様だ。さぞかし衝撃を受けても不思議ではない……。
「ち、違います! それも大丈夫です! でも、あの、えっと…………。この人、ひょっとして……、サタンさんのお友達だったんじゃないですか……?」
 そしてリリスは安らかに目を閉じた天使を見つめた。二人の会話を聞いてなんとなく以前は親しい仲だったのではないかと察したのである。
「こうする以外に、なかったんですか……?」
 胸に突き刺さる質問である。だが、サタンの思いは揺るがない。
「コイツらは死にたがってた。他に選択肢は無かったよ。後戻り出来ないよう女房を手にかけてきたくらいだしな。下手に情けをかけたら更に俺らを憤慨させようと住人を襲ったはずだ。そうなりゃ誰も得しない。だから、コレで良かったんだ」
 リリスの質問にサタンは目を伏せることなく答えた。後ろめたいことなど何もないという確かな思いが伺える。しかし――――。
「でも……。そんな……。死ぬことだけが救いだなんて…………」
 そんな哀しいことがあっていいのか……。死とは何もかも終わってしまう悍ましいものだ。それだけが救いだなどと……、リリスには到底納得のいく話ではない。
「そんだけ地獄を味わったんだよ、コイツらは」
 サタンは深く息をついた。
「リリス、いい機会だから教えとく。これが『俺たちのやろうとしていること』だ。俺たちの目的は神を殺してこの星の全てを終わらせること。全ての終わり、これもその一つの形……。ロクでもねぇ考えだと思ったらいつでも言ってくれ。お前にはまだ沢山の選択肢が残ってる。俺たちに嫌々従う必要はない」
 しかしこのサタンの言葉にリリスは笑顔で首を横に振った。
「哀しいけど、でもこの人の安らかな寝顔を見ていると一眼にサタンさんが間違っているとは言い難いです。だから、そんな見限るようなこと言わないでもう暫く私を側に置いてください」
「ああ、お前がそう言ってくれるなら喜んで」
 見限られる可能性も考えていたサタンはリリスの返事に心底安堵した。どんな答えが返って来ても受け入れる気でいたが、まだ自分たちを尊重してくれると聞くとやはり嬉しい。
「それにしてもシッチャカメッチャカな食材を揃えたねリリッちゃ〜ん」
 糞真面目な空気を引き裂くようにレヴァイアがリリスの荷物を見つめて呑気にボヤいた。その隣でバアルも一緒に「コレは何を作るつもりだったんですか?」と首を傾げて同じく荷物を覗き込んでいる。
「え? あっ! ご、ごめんなさい、私ったら……! えっとレヴァさん、これ何を作ったらいいと思う……?」
 いやはや、すっかり忘れていたがこのメチャクチャな食材で何を作るべきかリリスには見当もつかない。本当なら買い物から料理まで全部一人でやるつもりだったのだが、今日は意地を張らずに諦めたほうが良さそうだ……。
「大丈夫、最初から上手く出来る人なんていないよ。えっと、トマトにズッキーニにレンコン、トウモロコシ、大根……。成る程なあ〜。これなら変わり種の具材使ってのピザでも作ってみたら面白いかも!」
「ピザ、ですか?」
「そっ! トマトソースとチーズはどんな食材も美味しくしてくれる魔法の組み合わせだよ! あとピザ作りに必要な材料は俺が揃えとくからさ、リリっちゃん荷物も多いことだし、とりあえずサタンと先に城に帰っといたら?」
「先に……?」
 レヴァイアに言われ、リリスは「どうする?」と首を傾げてサタンを見やった。
「ああ、じゃあ後はお前らに任せていいか?」
 サタンが問うとレヴァイアとバアルは勿論だとばかりに頷いて答えた。
「オッケ、じゃあ頼む。さ、リリス。色々あって疲れたろ。とりあえず帰ろう」
 言うとサタンはリリスが両手に持っていた荷物を抱え、彼女を連れて音もなくその場から姿を消した。
 ……さて、これでリリスの目を気にすることはなくなったわけだ。遠慮無く喋ることが出来る。
「犠牲者は出たのか?」
 レヴァイアがバアルへ静かに問う。サタンとバアルが駆けつけるに遅れた理由が怪我人を優先したためだと彼は最初から気付いていた。
「大丈夫。何人か手足を飛ばされていましたが、それだけです。貴方が異変に気付くのに早かったおかげで彼らは大して暴れる暇が無かったようだ」
「そりゃ良かった。……で、神は大々的に戦争を始める気でいるって話だけど……」
 大々的にと言われてもイマイチ想像がつかない。一体神は何をする気でいるのか……。
「とにかく派手にってことでしょう。大群で此処に攻め入ってくる可能性がある。暫くは気を張っておく必要がありそうですね。…………レヴァ君、ちょっと私は他に寄り道をしていきます。後は任せていいですか?」
「え? ああ、まあ、別に構わないけど……」
「ありがとう。では」
 言うとバアルはさっさとこの場から姿を消してしまった。その妙によそよそしい態度からして大体の察しはつくが、まあいい。あまり詮索はしないでおこうとレヴァイアは一人頷いた。
「えっと……、終わったんですか……?」
 レヴァイアの背後に騒動が終わったことを察して逃げ散っていた街の住人たちが集まってきた。この一帯に住む住人たちは野菜を育てることを生業としており、戦闘能力はお世辞にも高くない。だが、何かあったら遠慮なく逃げろという教えを徹底しておいたおかげで被害が少なく済んだ。万々歳である。
「ああ、もう大丈夫。心配要らない。で、申し訳ないけど誰かコイツらの埋葬を手伝ってくれないか?」
 この言葉に何人かの男が「じゃあ自分が」と手を挙げてくれた。彼らも何故天使たちがこのような暴挙に出たのか察していたのだろう。
 彼らもまた犠牲者。憎むべきは命を弄ぶ神であって、彼ら天使ではない。
「いつまでこんなことが続くのかな……」
 誰が発したかは分からないが落胆に満ちたそんな呟きがレヴァイアの耳に聞こえた。



 後のことはレヴァイアに任せ、街から遥か離れた見渡す限りひび割れた大地が広がる荒れ地の真ん中にバアルは一人で立っていた。これだけ離れた場所に来れば恐らく大丈夫だ。誰に見られる心配もない。
「ラファエル、話があります。聞こえているのでしょう? 出てきなさい」
 普通ならこんなところで呼びかけてもなんの返事もないと思うだろう。だがラファエル相手なら違う。耳の良い彼は天界にいながら全ての世界の音をその耳に聞いている。よって、このバアルの声も間違いなく届いているはずである。
「ラファエル、私の声を無視するのですか?」
 再度呼びかける。すると余程鬱陶しかったのか見事あの敵将ラファエルが本当に音もなくバアルの目の前に姿を現した。大成功だ。とりあえずやってみるものである。
「なんだよ、うるっさいな!! のんびり昼寝してたのに!!」
 案の定いきなり呼び出したものだから彼は御立腹だ。本当に寝起きなのか髪が少し乱れている……。が、そんなことを気にするバアルではない。
「そんなプリプリすることないでしょう。この私が直々に呼び出してやったというのに」
「なんだ、そのよく分からない超上から目線は!! ……まあいい、なんの用だ。さっさと要件を言え。もう駄目だ降参だ天界に帰りたいって要求なら喜んで応じるぞ」
 腰に手を当ててラファエルは不機嫌そうにフンッと鼻を鳴らした。
「まさか。ただ、ちょっと聞きたいことがあってね」
「聞きたいことだ? 呑気なものだな、今や私と貴方は敵同士だというのに」
 明らかな皮肉を込めてラファエルは挑発的な笑みを零した。だが、それでもバアルは動じない。彼は皮肉など軽く聞き流し、今や神の加護に色濃く染まってしまった肉親を真っ直ぐに見据えた。
「近々、神が派手に戦争を始める気でいるというのは本当ですか?」
「さてね、答える義理はない」
「ケ〜〜〜〜チ!」
 バアルは歯を剥き出して端正な顔を歪めた。予想通りの返事ではあったが、やはり質問に答えてもらえないというのは不愉快である。
「そんな下品な顔をするんじゃない。美人が台無しだぞ。全く……。今、私が言わずとも答えは後日、嫌でも分かる。これでいいか?」
 ハァ……と、ラファエルは大きく溜め息をついた。反対に大ヒントを得たバアルは大変御満悦である。
「ええ、充分です。で、派手にというくらいだから相当な頭数を揃えて此処に攻めて来る気ですね?」
「仕方ない、何を知られたところで痛くも痒くもないから教えてやる。私は上級、中級合わせて333万、下級を合わせれば総勢333億3333万の天使を率いて後日お前たちを討ちに此処へ赴く。どうだ、ド派手だろ。これだけの気合を入れるんだ、そっちもそれ相応の豪勢なお出迎えを頼むよ」
「333億3333万?」
 あまりにあっさりと告げるものだから聞き間違いかと思ったが、確かにラファエルは333億3333万と言った。聞き間違いではない。
「なんとまあ……。分かりました。お任せください」
 だからどーしたとばかりにニコリと笑ってみせるバアル。だが、そんな愛想笑いの誤魔化しを通すには相手が悪かった。
「余裕を装っているが私相手に動揺を隠すことなど出来ないぞ、バアル。流石の貴方も驚いたようだな」
 案の定、動揺を見破って心臓は正直だと笑いながらラファエルはバアルの胸を指で小突いた。耳の良い彼は心臓の鼓動の変化など軽くお見通しなのである。小馬鹿にされたバアルは思わず舌打ちをした。
「ええ、まあ、そりゃあ、ね。そんな大きな数字が出てくるとは正直思わなかったよ確かに思わなかったよ悪かったよ。ところで、なんで3で揃えてるんです? 333億3333万なんて舌を噛みそうな数字だ。貴方も言い難いでしょう」
 気を取り直して話を変えると、ラファエルは「う〜ん」と唸って腰に手を当てた。
「そうなんですよ、ぶっちゃけ言い難い。しかし特に理由は無いそうだ。どうもこれは偶然らしくてな。狙ったわけでもないのにゾロ目の数の戦士が揃って縁起がいいと主はそれはもうお喜びであった」
「あ、相変わらず神にはそんな脳天気なところがあるんですね……」
 なんだかバアルは少し脱力してしまった。いやしかし肩を落としている場合ではない。何か引っ掛かるものがある。そうだ、333億3333万という数字の異様さだ。この数は『色んな意味で普通ではない』。そうだ、これは三年前、自分たちが反乱戦争を起こした時よりも圧倒的に多い敵数である。
「そして脳天気も相変わらずだが、神は相変わらず子作りにも力を注いでいると。悍ましいね。と、なると天界の様子も相変わらず?」
 あの反乱戦争でこちらも大いに痛手を負ったが、神も多少なりとも貴重な戦力を失った。にもかかわらずこんな頭数を揃えたとなれば、子供を作りに作ったとしか考えられない。
 バアルは喉元に込み上げる吐き気を静かに押し殺した。
「ええ、相変わらずです。それどころか益々の荒れ様だ。天界に住まう男たちは皆、主のいいように使われているし多くの女は望まぬ子を宿して腹ボテ状態。挙句、大概の天使は今度の戦争に強制的に駆り出されるときたもんだ。そんな有様だから今日も何人かの天使は貴方たちのところへ『救い』を求めてしまった。可哀想なものだよ」
「そう。まあいいや。とりあえずお前は孕めない身体で良かったね、ラファエル」
 言い放った瞬間、バアルはラファエルの手のひらに思い切り頬を叩かれた。パチンと乾いた音が荒れ地に響き渡る……。避けようと思えば避けられた一撃だ、しかしあえて受け止めたのは彼に対して後ろめたい気持ちがあったからに他ならない。
「こっちは真面目に話してるんだ。冗談もほどほどにしろ。殺すぞ……!」
 明らかにラファエルの眼の色が変わった。
「いいですよ、殺してください。それで気が晴れるならば」
 顔を上げぬまま答える。するとラファエルは無言でまたバアルの頬を叩いた。
 本気の力で叩いているのだろう。無数の針で突き刺されたような衝撃だ。皮膚から血が吹き出すんじゃないかと思うほどに、痛い。
「っ……ごめん……」
 これは気迫に押されて思わず漏れてしまった言葉である。バアルがラファエルに謝罪の言葉を放つなど滅多にないことだ。しかし、この程度でラファエルの怒りは収まらない。
「なんだ、その女々しい声は!! 本気で謝る気があるなら今すぐ神に頭を下げて天界に帰って来い!! それが出来ないなら安易に謝罪を口にするな!! 逃げることしか考えぬ卑怯者め、死ねば何もかも終わると思ったら大間違いだ!! 私はたとえお前が死んでも尚、追い掛け回して必ず非を認めさせてやる!! そしてその口から言わせてみせるぞ、この世界の混乱は何もかも自分たちが中途半端な反乱を起こした結果だ申し訳なかった、とな!!」
 大声で怒鳴りあげるとラファエルは視線を落とすバアルの顔を両手で掴んで持ち上げ、無理矢理に至近距離から目を見つめた。
「本来なら天界の女たちの苦しみは『お前が一手に引き受けるべきものだった』んだ、それを分かっているのか!?」
 ズバリ指摘され、バアルはまた後ろめたさから視線を逸らした。だが、逸らすことは許さないとラファエルに顔を両手で激しく揺さぶられ、致し方なく視線を戻す。そこには怒りの色を隠さないラファエルの金色の瞳があった。
「なあバアル、お前は一体どこまで逃げる気だ? お前が逃げ回ったせいで世界はより一層の混乱を極めたんだ。挙句にまだ逃げ足りないのか隙あらば死んでまで楽になろうとするその態度が私は心の底から気に食わない!!」
 動揺の色を宿して弾けんばかりに見開いたバアルの瞳を凝視し、ラファエルは尚も責め立てる。
 彼の言葉は全て正しい。言い返す術が見つからない。そうして無言を貫くバアルの態度に業を煮やしたのかラファエルは「チッ!」と大きく舌打ちをすると投げ捨てるように手を離した。
「やはりお前の呼び出しになんぞ応じるんじゃなかったな。酷く気分を害したよ」
 スゲーつまんない要件だったし、と小声で付け足してラファエルは背中を向けた。やれやれ、本当に気分を害してしまったようだ。
「……要件がつまらなかったのは、どんな話のタネでもいいから使えるものなら使って、単に貴方の顔が見たかったからかもしれません。今日は来てくれてありがとう、ラファエル」
 柄にもなく素直な思いを口にしてしまった。しかし、そうしなければこのままこれが今生の別れになってしまう気がした。何故かは分からない。とにかくそんな得体のしれない恐怖を覚えて気持ちを隠すことが出来なかったのだ。
「急にしおらしいことを言うな、気色悪い。心配しなくともきっと長い付き合いになるよ私たちは。特に貴方は願望とは裏腹に決して楽には死ねないさ。貴方が死ぬことは神も私も許さない。何より『アイツ』も許さないはずだ。どんなにド派手な戦争が起きようとも貴方は死ねない。残念だったな」
 この『死ねない』という言葉は終わりを願うバアルを一番絶望させるものだ。しかし彼は何でもかんでも黙って聞いていられるほど大人しい男ではない。よって、これには異議ありといつもの勝気な表情を取り戻した。
「それはちょっとどうでしょう。私は反逆者、死なせまいと願うならば尚更のこと私は貴方たちの殺意に本気で火をつけるまでです」
「よく言うよ、未だ『アイツ』にだけは頭が上がらないクセして」
 やれやれと呆れた調子で肩を竦め、ラファエルはまたバアルに向き直った。
「一応の確認だが、やはり天界に戻る気は無いのか」
 これはラファエルがバアルの顔を見る度に聞く毎度恒例の質問である。バアルは「またか」と溜め息しつつ、しかし諦め切れないでいる彼の心情を考慮して丁重に首を横に振った。縋るような彼の目を見てどうして冷たく突き放せるだろう。良いか悪いか分からないがバアルはまだそこまで心を失ってはいない。
「ええ、それは無い。申し訳ないけれど私はまだ夢を諦めはしないよ」
 すると、それだけでこれ以上の説得は無意味と判断したラファエルは残念そうに視線を落とした。
「そうか……。では後日、敵として会おう。その時、私はまた貴方の夢を砕くために容赦なく刃を振るう。手加減はしない」
「ええ、望むところです」
 そうしてお互いに不敵な笑みを交わした後、ラファエルは音もなくその場から姿を消した。
「ったく、頑固者が」
 ボヤいて、一人広大な荒地の真ん中に残ったバアルは足元の石をサンダルの爪先で軽く蹴り飛ばした。今頃、天界に帰ってこのボヤキを耳にしたラファエルが「それはこっちの台詞だ」と眉間に皺を寄せていることだろう。
 彼に叩かれた頬が、まだ痛い。
 数え切れない命を自分たちの反乱に巻き込んだ罪は自覚している。だが、それでもバアルは『革命を起こさなければならない』、『逆らわなければならない』という自身の意志を譲れなかった。この意志を守るためならば333億3333万の敵など喜んで相手にしてみせよう。
「私は、決して神の愛玩人形になどならない」
 自分に言い聞かせるように決意を呟く。
 ただ神の言いなりとなって大人しく人形のように生きなければならない世界なら要らない。そんなもの、跡形もなく破壊して闇の向こうへ葬ってやる。



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