【06:帰っておいで(3)】
ふと真っ白な海が見えた。魔界の荒れた大地の向こうに真っ白な海の広がった光景。しかしそれはよくよく見ると海ではなく怒号のような足音を立ててこちらに向かってくる無数の天使の群れであった。
更に目を凝らすと、群れの最奥からこちらを静かに見据え勝気な笑みを浮かべるラファエルの姿があった。
これは、この光景は…………夢ではない。
――来る――
「……どうした?」
来る、というバアルの声にならぬ声に気付いたレヴァイアが振り向く。
「おい、急にどうしたんだよ」
いつも通り二人で朝食を食べた後である。隣に座るバアルは先程までレヴァイアと談笑しながら上機嫌にコーヒーを飲んでいた。その彼が唐突に表情を変えた……。一体、何事だろう。
「いえ、大したことでは……」
「そんな青い顔しといて大したことないだ?」
どうやら、誤魔化すことは出来ないようだ。
「……白状すると今、瞼の裏に変な光景が見えてね……。胸騒ぎがしてならない。一体どうしたのかな……」
どこか視線定まらぬ様子でバアルが呟く。
「なんかそれ、ただの胸騒ぎじゃなさそうだな。オッケー、準備しよう」
バアルのこういう勘はいつも当たる。なんとなく嫌な予感がすると彼が言うと本当に間もなく街に天使が現れたり、ラファエルが神の命令でちょっかいを出しにやって来たりする。そうなると、今回もひょっとしたらひょっとする。
「え? ちょちょちょ、ちょっとお待ちよ。まだ確証は無い。そんなに急く必要は……」
「いいや、お前の第六感は馬鹿に出来ない気がする……っていう俺の勘を俺は信じてみるわけだ。無駄足だったら俺がみんなに謝るから大丈夫だよ! 万が一に備えるのは良いことだろ?」
「ええ、まあ、それはそうですけど……」
「じゃあ決まりだ! 伝えてくる!」
レヴァイアはニッコリと歯を見せて笑うと引き止める間もなく早々にその場から姿を消してしまった。せっかちにも程がある……。だが、バアルの胸のざわめきは増すばかり。ラファエルから話を聞いて二日が経った。いつ333億3333万の軍勢が現れてもおかしくない。レヴァイアの言う通り、万が一に備えるのは良いことだ。
今でこそまだ場数も少なく、本人もこの胸騒ぎが何を意味するのか戸惑っていた。だが後にバアルのこの天使軍による侵略を予感する力は常に百発百中を誇ったため、悪魔たちから絶大な信頼を得ることとなる。
今にも天使軍が攻め入ってくるかもしれないというレヴァイアからの一報。サタンは急ぎリリスに支度をするよう命じた。
「アイツがいきなり青い顔をしたとなると、まあ……、信ぴょう性はあるよな」
意気揚々と準備をしに部屋へ走っていったリリスを見送りながらサタンが頷く。
「だろ? アイツは冗談でそんな顔出来るヤツじゃないもんさ。街のみんなにも知らせといた。準備が出来次第、戦えるヤツらは東の崖に集合する手筈になってるからヨロシク」
言うとレヴァイアはベランダの柵に腰掛けて煙草を吹かし始めた。
「それにしても……、さっきの兄ちゃんマジ傑作!! 超カッコ悪い!!」
「うるっさい黙れ笑うな畜生ッ!!」
ちょうどレヴァイアがやって来た時サタンとリリスは朝食をとっている最中であった。ゆえに弟分から物騒な知らせを聞くなりサタンは驚きのあまり口の中に頬張っていたサンドイッチを全て外に噴射してしまった……。リリスが、わあ汚いサタンさん最低と嘆いた切なさといったら上手く言葉に出来ない程だ……。
「いっきなりウチのベランダから入ってきて開口一番に天使が攻めてくるぞーなんて言われたらそりゃ吹くよ、食ってるモン吹くよ!! しょーがねーだろッ!!」
「ヒャハハハハハッ!! 腹痛い腹痛い腹痛い死ぬ死ぬ戦う前に死ぬっ!!」
「笑うなゴルァ!! 死ねるもんなら死んでみなさいよ馬鹿ー!!」
「あ、あのう……」
男二人が大声で騒いでいる中、おずおずと準備を整えたリリスが戻ってきた。服は以前バアルが絶対に似合うと言ってプレゼントした大胆なスリット入りの黒のロングドレス、足元は妖艶なハイヒールブーツ、手には鋭利なトゲが無数に付いた迫力満点の鞭を握っている。
「へえ、可愛い勝負服だね。鞭といい全部兄貴の趣味かい?」
レヴァイアが意地悪く笑う。
「ちげーよ趣味じゃねーよ!! ドレスとハイヒールはリリスが動きやすいから絶対コレで行くって言い張ったからだし鞭は近距離戦なんて危なっかしいしリリスは腕が細いから軽く振り回しただけで威力出る武器がいいと思ったのっ!! んで、いざ持たせてみたらそれなりに扱えたから鞭で決まりだなってことにしたのーッ!!」
「サ、サタンさん、どうしたんですか?」
感情高ぶらせて大声張り上げるサタンを見てリリスが目を丸くした。
「ヒヒヒッ! 本当にからかい甲斐のある男だな兄ちゃんは。……ん、ちゃんと『加護も授け済み』みたいだね。よしよし」
まじまじとリリスのドレスとハイヒール、手にした鞭を見て頷くレヴァイア。喚くサタンのことはお構いなしである。
「加護って……、ひょっとして一昨日サタンさんが『おまじないだよ』って言ったアレのこと?」
「おまじない? ああ、多分そうかな。うん。良い勘してるねリリッちゃん」
武器屋で鞭を買って帰ってきた一昨日のことである。城に帰ってすぐサタンはリリスに戦場へ着ていく服と靴を選んで持ってこさせるとナイフで自身の指先を切ってこのドレスとハイヒールと鞭におまじないと称し血を塗り付けた。そしてどんな意味があるのかと聞くと、いきなり燃え盛る暖炉の中にドレスとハイヒールと鞭を投げ入れてみせた。せっかくバアルがプレゼントしてくれた大切なドレスとハイヒールと武器屋の主人が自信作だと言って渡してくれた鞭が火の中へ……。
なんてことをするんだと慌てふためいてリリスが火の中からそれらを拾い上げる…………と、ドレスもハイヒールも鞭も焦げ目一つ無し。何事もなかったかのように新品同様の形を保っていた。
どういうことかと尋ねてもサタンは『だから、おまじないをかけたんだよ』と笑うばかり。『これで大概の刃は弾き返せるはずだ』としか教えてくれなかった。
「血は魂を運ぶもの……。そのドレスとハイヒールと鞭にはサタンの魂が僅かに塗り付けられたってわけだよ。たとえ離れててもリリスを守りたいっていうサタンの魂がさ。俺らはそれを『加護』って言ってる。これ、俺らが生まれた時から本能的に備えてた知識の一つなんだ。思いを込めて血を塗りつけると加護を授けることが出来るって」
「加護……ですか?」
またもいきなりの話である。しかしリリスがなんとなく血を塗り付けられた意味に感づいたのも頭の何処かにその概念があってのことだ。まるっきり分からない話ではない。
「そっ。だからサタンの魂が宿った以上もうそのドレスはただの布じゃない、ハイヒールもね。勿論、鞭もただの鞭じゃない。分かる?」
「は、はい、なんとなく……」
レヴァイアの説明を聞いてリリスは目をパチパチと瞬きさせた。
「こっ、こっ、こら馬鹿!! あえて多くを語るまいとしていた俺の思惑を踏みにじる気か馬鹿ー!!」
得意げに説明をするレヴァイアの頭をサタンが勢い良く叩いた。バチーンッ! という爽快な音がリビングに響き渡る……。
「いでーーーー!! だ、だって何がなんだか分かんないのも可哀想かなって……」
「いいの!! 黙っておくのが俺の美学なの〜っ!!」
「でもさー、知らなかったら普通にお気に入りの服に血ぃ付けて汚したデリカシーの無い馬鹿男としか思われないかもしんないし〜……」
「大丈夫だよリリスはちゃんと分かってくれる良い子だもん余計なことすんなよ馬鹿ぁああああああああああ!!」
言いながらサタンは頭にツノを生やし顔を真っ赤にしてその場で地団駄を踏んだ。
「あ、あの〜……」
いつも通りワーワーギャーギャー大騒ぎ。これから天使軍が攻めて来るかもしれないというのにこんな調子で大丈夫なのだろうか……。リリスはちょっぴり不安に駆られた。
「あ、そーだ。リリっちゃんコレ! 戦いの無事を祈って俺とバアルからプレゼント」
渡しそびれるトコだったぜーと笑いながらレヴァイアは何処からともなくオニキスで作られたティアラを取り出した。
「わあ、綺麗……! これを、私に?」
差し出されたティアラを見てリリスが目を輝かせる。と、横で見ていたサタンが大声を張り上げた。
「あああああ!? またお前はそうやっていい顔をしようとするッ!! 何が目的だこの猫畜生め!!」
分り易いにも程がある態度。リリスが特別に鈍感でなければとっくに気持ちを見破られていたであろう。
「どんっっっだけ小物だよアンタ!! ……ま、こんなウルサイ男は放っておいてだ。リリっちゃん、受け取ってくれる?」
「あ……、はい! 勿論です! ありがとう御座います!」
隣で喚くサタンに戸惑いつつもリリスは二つ返事で頷き、そのままレヴァイアにティアラを付けてもらった。
「嬉しい……! 似合ってるかな?」
どう対処したらいいやら分からないので尚も喚いてるサタンはスルーし、リリスは小走りで飾り棚の上に置かれてる鏡を覗き込んだ。
「もっちろん似合ってるよ。俺らで似合うヤツ選んだんだもん!」
自信満々といった感じでレヴァイアが微笑む。
「気に入ってくれた?」
「はい! もうお風呂入る時と寝る時以外は外したくないくらいに!」
「そりゃ良かった! ……さり気なく俺らのおまじない付きだよ、たとえ離れててもリリッちゃんを守れますようにってね」
言ってレヴァイアはティアラを指でツンと突っついた。
こんなにも大切に想ってくれている……。リリスは彼らと共に歩む決意をしたことに僅かの間違いもなかったと確信した。
そうして一人の女性が自身の生き方について真剣に考えている横でサタンはまーだ喚いていた……。
「ちょっと!! 俺のことは完全に無視なわけ!? 酷いや酷いや!!」
「ええい、うるさい!! 喚けば喚くほど評価が下がるぞ兄貴!!」
無視を決め込んでいたレヴァイアがツッコミを入れた。そろそろ構ってあげなきゃ可哀想かなという彼なりの優しさである。
「もういいよ、きっと下がるトコまで下がっただろからお前も巻き添えだ!! リリス聞いてくれよコイツなんてな小さい頃……」
「ちょっと待て何をバラす気だー!? そっちがその気ならこっちだってなあっ」
いやはや騒がしい騒がしい。……しかし次の瞬間、二人は冷水を浴びたかのように突然ピタリと口を閉じ、まるで射るような鋭い目でお互いの顔を見やった。
「来た、な」
サタンが静かに言う。
「ああ、バアルの予感的中だ。スッゲー足音だぜ。じゃあ俺は先に行くから」
言うが早いかレヴァイアはそれだけ言うとさっさと音もなく姿を消してしまった。足音……という言葉からしてリリスには全く分からないがサタンとレヴァイアには遠くに姿を現した天使たちの気配が耳に届いたのだろう。
「来たって、天使さんたちがですか?」
リリスが聞くとサタンは「大当たり」と頷いた。
「俺らも行こう。準備はいいか?」
勝気な目をしてサタンが手を差し伸べる……。先程まで子供のように喚いていた男と同一人物とは思えぬ表情の変わり様である。
「はい、大丈夫です」
言ってリリスが差し出された手を取ると、瞬きした瞬間に景色は一変。リリスは辺りを見回して自分が城一つと同じくらいの高さを誇る崖の上に立っていることを知った。荒れた大地の地平線が目の前に広がり、背後には街が一望出来る。なんとも見晴らしの良い場所だ。そしてすぐ脇や崖の下には既に合わせて数千近い沢山の悪魔たちがそれぞれ武器を手にし、準備万端の体勢でガヤガヤと雑談に興じている姿。更に崖の先端には一足先に来ていたバアルとレヴァイア姿があり、二人は地平線の向こうへと目を凝らしていた。
「お待ちしていました。あ、リリス。レヴァ君から聞いていたけど本当によく似合ってるね」
バアルがリリスのティアラを見て朗らかに目を細める。
「エヘヘッ。素敵なプレゼントありがとう御座います。私これ絶対大事にする!」
「そう言ってもらえると嬉しいです。貴女の無事を心から祈っていますよ」
「はい!」
これから333億3333万という圧倒的な数の敵が攻めて来る……。しかし不思議とリリスは恐怖を感じなかった。それだけサタンらの存在が心強かったのだ。彼らが口を揃えて『守る』と宣言している以上、恐怖よりも安心感が勝っていた。彼らがいれば何があっても大丈夫。そう手放しで信じられる。
「ちぇ〜っ、お前までリリスにイイ顔しやがって。髪の毛長いクセに」
……面倒臭いことにサタンがまた不貞腐れた。煙草を吸いながら遠くを見つめていたレヴァイアがそれに気付いて肩を震わせて笑う。
「髪の毛が長かったら女の子に優しくしちゃいけないと!? ったく、そんな無茶苦茶な言いがかりつけるあたり器が小さいというかなんというか……」
大人げないサタンの態度にやっぱりバアルも呆れている。
「小さい言うな!! まあいいや、今回はお前が勘を働かせてくれたおかげで助かったから大目に見てやろう」
好き勝手に喚いておいて何故か偉そうなサタンである。
「ああ……。こんな予感、当たらない方が良かったんですけどね」
「なんでさ。遅かれ早かれ天使様御一行は近々此処へいらっしゃる予定だったんだ、ピッタリ察してくれて助かったよ」
サタンが言うとバアルは「そう?」と首を軽く傾げて苦笑いをした。と、その時ジッと前方を見据えていたレヴァイアが「おい」と一声発して地平線の向こうを指さした。
「いよいよおいでなすったぞ。こうして見るとやっぱスゲー数だな」
その言葉にサタンやバアル、雑談に興じていた悪魔たちも一斉に静まり返って前方を見やった。すると、徐々に轟音を響かせて地平線の向こうから白いモヤのようなものが見えてきた。まるで雪崩か浜に押し寄せる波のよう……。しかしそれはよくよく見るとモヤでも雪崩でも波でもなく、列を成してこちらに向かってくる333億3333万という途方も無い数の天使の軍勢であった。
これには目を凝らしていたリリスは疎か崖上、崖下に待機していた悪魔たちも息を呑み、口々に「凄い……」「どうしよう……」と戸惑いの声を発した。
戸惑うのも無理はない。神に逆らった時点で全て覚悟の上とはいえ反乱戦争の時でさえこんな敵数はいなかった。これは神が本気でこちらの意志を圧し折ろうとしてきた証である。
「案ずるな!!」
バアルが声を張り上げた。
「対する我が軍勢はたかだか数千……、しかし二つの希望はこちらにある!! お前は街で待つ者たちに伝えてこい、結界を張って何人たりとも街に踏み入れさせるなと。そして何が何でも家だけは守ってみせろ!! いいな!!」
「はい、お任せください!! では、御武運を!!」
指示を受けた悪魔はサタン、レヴァイア、バアルに深々頭を下げてその場から音もなく姿を消した。そして間もなくリリスの背後に見えていた街が視界から蜃気楼のように消えた……。街に残った者たちがせめて家だけは守ろうと総出で街全体に結界を張り巡らせたからである。こうすれば街の者たちの心が折れぬ限り、戦いに出た者たちが帰る家を失うことはなくなった。
バアルは更に続けた。
「そして此処に残って戦う者たちはサタンとレヴァイアに続け!! 我らの屈しない心を神に見せつけてやろう!!」
すると、この言葉に士気を高ぶらせた悪魔たちは一斉に拳を振り上げて思い思いの歓声を上げた。やってやる、これで戦いを終わらせてやる、神に思い知らせよう……、全て希望に満ち溢れた言葉だ。
全く負ける気はしない。
サタン、バアル、レヴァイアは勝気な目でお互いを見つめ合い、微笑みを交わした。
しかし一つ引っ掛かる。何故天使軍がわざわざ街から少し離れたところに降り立ったのかだ。あれだけの軍勢を用意したのだ、一気に街に攻め入って全てを破壊してしまえば手っ取り早いはず……。そう三人は三人とも同じ疑問を抱いていた。
「数に騙されてはいけないね。そもそも街外れから攻めに現れた時点で向こうは消極的だ。街に私たち全員が固まって屈強な結界を築くことを恐れた……。いきなりの市街戦を恐れた理由はこれしか考えられないでしょう」
まずはバアルが口火を切った。如何にも彼らしい自信満々の推測である。なかなかの説得力。しかしサタンが頷く一方でレヴァイアは少し不服そうに首を傾げた。
「分かんねーぞ。逆に余裕の表れかも。戦える俺ら全員ブッ殺せば後に残るのは殆どが力の劣る女子供ばっかりだ。生きたまま捕らえりゃ色んな使い道がある」
「こ、恐いこと言うなよレヴァ君〜!!」
サタンは笑って誤魔化した。だが、もし本当にそうだとしたら背筋がゾッとする話である。と、その時、三人の頭の中に馴染みのある声が響いた。
『その推測、レヴァイアの方が正解に近いな』
勝気な、男とも女ともつかぬ声……。間違いない、ラファエルの声である。彼は持ち前の地獄耳でこちらの会話を聞いていたのだろう。三人が地平線の向こうに目を凝らすと、遠く遠く……天使の渦の最奥で勝気に微笑みこちらを真っ直ぐ見据えるラファエルの姿が確認出来た。
『まずは意気揚々と向かってくるヤツらを一人残らず潰す、やがて街の女子供たちは意気消沈。否が応でも結界は崩壊し街は丸裸。あとは想像に任せよう。我々にとって剥き出しの積み木を叩き崩すなど容易いことだ。そうして成す術なく全てを失ったサタン、バアル、レヴァイア、貴様らの絶望はどれほどのものだろうな』
遠く遠くに見えるラファエルがニヤリと歯を見せる。こちらとしては面白くない。
『わざわざ手の内をバラしてくれてありがとう』
バアルが嫌味たっぷりに返すとラファエルはますます頬を持ち上げた。
『礼には及ばない。それだけ勝つ自信があるということだ』
……成る程、とことん面白くない話である。
「あ、あの……。どうしたんですか……?」
まさかそんな途方も無い距離を挟んで睨み合いながら敵将と声に出さぬ声で会話しているとは夢にも思っていないリリスは突然魔王三人が眉間に深く皺を寄せて遥か向こうを見据えていることに戸惑った。あれだけ遥か離れた場所にいるラファエルの姿はとてもリリスが肉眼で確認出来るものではない。
「ああ、ちょっとね。ラファエルに挨拶してた。細長い女みたいなヤツって言ったほうがリリスには分り易いかな?」
「挨拶って、ど、どうやって!?」
軽く言うサタンだが、リリスはただただ目を丸くするばかりである。なにせとても人間には出来ないことだ……。
「まあ、とにかく勝てばいいんだ。勝ちましょう。私は此処に残って暫く援護と指揮に努めます。切り込みは頼みましたよ二人とも」
「任せとけ。派手に大暴れしてくるぜ。なあ、レヴァイア」
「ああ。それしか取り柄ないしな俺ら」
バアルに肩を叩かれ、サタンとレヴァイアは満面の笑みで答えた。
「あ、あの、ちょっと待ってください。私は……?」
なんだかポツンと置いていかれそうな気がしてリリスは慌てて口を挟んだ。
「リリスは私と一緒に此処で暫くお留守番でーす。一緒に戦況を眺めましょう」
や、やっぱりである。絶対に断らせないよという凄みを帯びた笑みをバアルが向けてくる。
「で、でも〜……」
一緒に行きたい――――言いかけたところで「リリス」と諭すような口調でサタンに名を呼ばれた。
「お前、天使を殺せるか?」
「え……?」
殺せるか――――その真っ直ぐな問いにリリスは、すぐ答えることが出来なかった。
「だろ? だから暫くそこで戦争がどーゆーモンか見とけ。見て考えて、それでも頑張れると思ったら降りてこい。……じゃ、頼んだぞバアル。行こうぜ、レヴァイア」
「おう! ほいじゃ、行ってきまーす!」
サタンとレヴァイアは軽く手を振るとその場から一瞬で崖下に集う悪魔たちの先頭へと姿を移した。一番に敵軍へと突っ込んでいくためである。
「バアルさん、私…………」
戦う覚悟は出来ていた。にもかかわらず『殺せるか?』の問いにすぐ答えることが出来なかった……。何故頷けなかったのかリリスは自分でも分からず、ただ悔しかった。
「それでいいんですよ、リリス。迷ってくれて逆に私たちは安心しました」
「安心? どうして……?」
「どうしてって、そんな無垢な瞳をした貴女がいきなり抵抗なく手を血に染めたらそれはそれで心配になります…………というのは建前で、本音を言えばこの期に及んで貴女にまだ汚れて欲しくないと思っている私たちの勝手な願望かもしれません」
言うとバアルは真っ直ぐ前を向いたまま憂いを帯びた笑みを浮かべた。
改めて、力の無い女子供までも戦いに巻き込んでしまった罪が肩にのし掛かる。だが、悔やんではいけない。これも反旗を翻す時に覚悟していたことだ。
『確認する。お前たちに降伏する意志は無いんだな?』
またラファエルの声が頭の中に響いた。
『クドいぞ、ラファエル』
再び果てしない距離を挟んで敵将と視線を交わす。
かつて、かけがえの無い肉親であった彼と敵対することもまた、覚悟の上。
――悔やむな。勝てば自分たちが正しかったと胸を張れる――
『では、仕方ない。全力で潰す』
そう告げると、ラファエルは恐らく進軍の合図を送ったのだろう。天使たちの足音が激しさを増した。大地を揺るがすほどの轟音。333億3333万の軍勢が一斉にこちらに向かって走り出したのである。
まるでこの世の終わりとも思える光景にリリスは息を呑んだきり指先ひとつ動かせなくなった。
「バ、バアルさん……」
縋るように隣に立つ王を見やる。そして、救われた。恐れなど微塵もうかがえない、いつも通り自信に満ちたバアルの目がそこにあったからである。
「心配ないよリリス。勝つのは私たちだ」
「はい!」
そうだ、負けるわけがない。サタン、バアル、レヴァイア、そして悪魔たちを信じると決めたのだ。彼らの『絶対に勝つ』という言葉を信じると決めたのだ。ならばどこまでも信じよう。大丈夫、勝てる。恐怖や不安など感じる必要は無い――リリスは思い新たに視線をまた前に向けた。
「さあ、行け!! 我らの力でこの独りよがりな世界を木っ端微塵に破壊してやろう!!」
バアルが右手を振り上げた。これは進軍の合図である。
「おお!!」
合図を見た悪魔たちは待ってましたとばかりに声を上げ、崖上から一斉に漆黒の翼を広げて飛び立った。
それを見て崖下で待っていた悪魔たちも歓声を上げた。
「よっしゃ、始まった! 行こうぜ!」
いよいよだ。レヴァイアがフレイルのチェーンをしっかりと手に握り直してサタンに視線を向ける。
「ああ。……よし、お前ら!! 俺たちに続け!! 絶対に勝つ!!」
サタンが言うと悪魔たちは更に大きな歓声を上げた。
絶対に、勝つ。
サタンとレヴァイアは互いに頷き合うと、迫りくる天使たちめがけて勢い良く走り出した。
「皆さん、どうか頑張って……!」
リリスは崖の上から遠目にサタンとレヴァイアが金色の渦の中心へ真っ先に飛び込んでいった姿を見送った。
しかし、心配には及ばなかったのかもしれない。リリスが瞬きした瞬間、大地を埋め尽くしていた金色の渦が広範囲に渡って血の海と真っ黒な影へ姿を変えた……。何が起こったのか分からない、ただ本当に一瞬で荒れ地に血の海と真っ黒な影が広がったのである。響き渡る断末魔。そこかしこから立ち上る真っ黒な火柱と竜巻……。
「あれがサタンとレヴァイアの力です。サタンは一瞬で大地一帯を焦土に変え、レヴァイアはあらゆるものを鋭利な風で切り裂き、消し飛ばすことが出来る。あの二人がいれば333億3333万の軍勢など恐れるに足りない」
呆気にとられ立ち尽くすリリスを見てバアルが微笑む。まるで、どうだ勝機はこちらにあるという言葉の意味が目に見えて分かっただろう、とでも言うように。
一方、それだけ王に頼りにされていることを知ってか知らずか当のサタン、レヴァイアはキャッキャウフフと笑いながら楽しげに雪崩のごとく押し寄せる天使たちを埃同然に蹴散らしていた。
「いいぞレヴァイア!! 今日だけはお前が少しイケメンに見えるぜ!!」
意気揚々と血の海を広げていくレヴァイアを讃えながらサタンも負けじと一帯を業火に包み込んで焦土を拡大する。
「おう、ありがとう……って、ちょっと待て畜生!! それどーゆー意味〜!? 褒めてないよね!?」
今日だけは、ということは普段は全くイケメンに見えていないわけだ。それでは褒められた気がしない。
「ぁあ!? 細かいこた気にするない!!」
「細かくねーから気になるし!!」
『いい調子です、そのままもっと敵軍の奥深くに踏み込んでいってください。あと、どうでもいいけど貴方たち凄くうるさい。ハイパー耳障り』
圧倒的な力を見せつけつつワーワーギャーギャーといつも通り大騒ぎする二人の頭の中にバアルの声が響いた。
「あーもー、ほら兄ちゃんのせえで怒られたじゃんか!!」
レヴァイアが破裂するのではないかというくらい頬を大きく膨らませて不快感を露わにする。
「あっ、またそーやって何でもかんでも兄ちゃんのせいにする!!」
『だからうるさいっつーの。無駄口を叩いてる暇があったら走れ』
キンと凍てつくような空気を肌に感じた刹那、二人の目の前に天空から無数の氷の刃が降り注ぎ、前方の道を塞いでいた天使たちを深々と一気に切り刻んだ。氷使いバアルの見事な援護射撃である。そしてコレはちゃんとやらないとお前らも一緒に刺すぞ、という悪ガキ二人への脅しでもあった。
『はい、ちゃっちゃと真っ直ぐ先に行く』
「は、はーい!」
並んで素直に返事すると二人はまた血の海と焦土を広げながら敵軍のド真ん中に向けて走り出した。
「ところで、おっぱじめてチョイと経ったが今んトコ戦況はどうだ?」
目の良さには自信のあるサタンだが、この砂埃立った渦の中ではとても全体の状況など把握していられない。バアルがあの場に残ったのはこれを見越してのことである。
『一方的にこちらが押してますよ、今のところは。前線の天使はみな下級も下級ですね。向こうは数打てば当たると見込んだんでしょうけど、少し鬱陶しい以外に害は無いと思っていい』
「下級も下級、鬱陶しい以外に害は無い、か。そーだ。お前そっから見て気付いたか? その下級も下級の奴らなんだけどさ……」
サタンが言うと横で話を聞いていたレヴァイアが気を利かせてパッと目のついた天使の四肢を根本から切断し、わざと心臓を抉らず生け捕りにした。
「ぐあっ……あがああああああああああ!!」
断末魔の悲鳴を上げてためす統べなく地面にうつ伏せに倒れる身体。レヴァイアがその顎をブーツの先に引っ掛けてグイと持ち上げると……天使の視線の定まらぬ目とヨダレを垂れ流しにした口元が露わになった。
「お前、自分の名前を言ってみろ」
レヴァイアが問いかける。しかし相手は「あああああ」と呻くばかりで返事をしない。これは決して魔王を目の前にしての恐怖や四肢を失った痛みと衝撃が原因ではない。元々、この有り様なのだ。
よくよく見て分かったことである。こちらに向かってくる天使たちはその殆どが視線定まらぬ目をし、言語にならぬ奇声しか発しない……。
『もう殺してあげなさい。私も彼らの異様さには既に気付いていました』
「分かった」
言うとレヴァイアは目には見えない風の矢を作り上げ、天使の心臓を一撃で貫いた。絶命の瞬間、呻いていた天使が一瞬だけ安堵の表情を湛えたのは気のせいだろうか……。
『これだけの数ですからね、実のところ大した手間もかけずに作ったんでしょう。辛うじて闘争本能だけを特化させることは出来たようだが、生き物としての尊厳をないがしろにし過ぎている。だから容れ物がまともに機能をしていない。私たちの意志を圧し折ろうとするあまり創造主はここまで落ちたということだ。全く、どれほど命を弄べば気が済むのやら』
「チッ、胸糞の悪い話だな」
唇を噛んでサタンは目を伏せた。
「殺してやった方が正義ってもんだね、ホント。でもキリが無い。……バアル、ラファエルは今どの辺にいる? 分かるか?」
レヴァイアが周囲に目を配りながら尋ねる。戦争を手っ取り早く勝利するためには敵将を討つことが何より先決だ。しかし押し寄せる天使の群れを切り裂いて進めど進めど全くラファエルの気配は感じられない。彼は一瞬の隙に姿を暗ませてしまった。
『お役に立てず申し訳ないのですが、私の目にもラファエルの姿は確認出来ない……。暫くは気配を消して戦況を見守るつもりなのでしょう。もう少しこちらが押せばいい加減に頃合いと思って出てくるはず。それまでは雑魚の一掃に尽くしてください』
「分かった。見つけたらすぐ教えてくれよ!」
『お任せください。あと何か確認したいことはありますか?」
「俺は特に無し! 兄貴は?」
「俺!?」
急に話を振られて業火を放つことに集中していたサタンは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「あ、えっと…………。リリス、どうしてる?」
すると二人の頭の中にバアルがクスリと笑う声が聞こえた。それにつられたのか横でレヴァイアが盛大に吹き出す。
「笑うことねーだろ、畜生〜!!」
『フフフッ、失敬。リリスなら私の隣で一生懸命に貴方たちの無事を祈っていますよ。可愛いものです』
「そ、そうか、それなら良し!! じゃ、そのままリリスのこと頼んだぞ!!」
『了解しました。では』
二人の頭の中からバアルの気配が消えた。
「……どうでもいいけど、いっつまで笑ってんだテメー!!」
隣で笑い続けているレヴァイアを思わずど突いてしまったサタンである。
「アハハハハッ!! イテッ!! だ〜って兄ちゃんたら変にオドオドしちゃって可愛いんだも〜ん!! ヒヒヒヒヒッ!!」
「うるさいよ涙が出るまで笑うんじゃないよ真面目にやりなさいよ!! 此処、敵軍のド真ん中なのよ一応ッ!!」
言ってサタンはまたレヴァイアの頭を引っ叩いた。ちなみにそうしてフザケている間も集中と手だけは休めることなく、二人はしっかり血の海と焦土を確実に広げている。妙なところは器用なのだ。
「ヒヒヒヒッ!! 痛いって!! 叩くなって!! 大丈夫だよ、ちゃんとやるよお〜。じゃないとバアルが怒っていきなり氷の矢を頭に刺してくるかもしんねーし!!」
「あ、り、え、る……」
想像してサタンはゾッと青褪めた。バアルのツッコミは基本的に容赦が無い。それでいて目が利き、どんなに離れていようと正確に目標へ氷の矢を打ち込むことが出来る……。
「だろ? だから一応ちゃんと頑張らないと……。っ!?」
話し途中でレヴァイアがフレイルを勢い良く振ってこちらに飛んできた何かを弾いた。サタンももちろん気付いたが、ここはリーチのある彼に任せた感じである。
鼓膜に響くような金属音。見ると剣を構えた五人の天使と目が合った。
「お前らは……」
サタンの業火とレヴァイアの突風をかい潜り、第一撃を跳ね返されはしたものの体勢を崩すことなく軽く地面に降り立ったことから察し、上級天使とみて間違いない。
「やっとまともに口の聞けるヤツらが出てきたなあ〜。久し振り。元気だった?」
ニッと歯を見せてレヴァイアが挨拶をすると一人の天使が同じく笑顔を見せて「ああ、おかげ様で!」と返した。
「で、この戦いは避けられそうにないわけか?」
サタンが聞くと五人は揃って頷いて答えた。
「そっか。俺としては引いて欲しいんだけどなァ。お前らまだ生きたいからって反乱に加わらなかったんじゃん。なのにこんなトコで死んでいいわけ?」
尚もサタンが聞くと、五人は五人とも苦笑いして顔を見合わせた。
「そりゃ俺らだってまだ死にたくはないけど、引くに引けない理由が出来ちゃってさ〜」
「簡単に言うと主は俺たちに生死関係なく最後まで戦い抜いたら奥さんには絶対に手を出さないって約束をしてくださったんだ。だから引けないわけ」
「主は天空から我らを見ている。敵前逃亡など言語道断だろうね」
「あわよくば勝って帰りたいけど、お前ら相手じゃ無理だろなあ〜」
「顔見知りだったよしみで出来るだけ楽に殺してくれよ」
言って五人は声を揃えて笑った。
だが、サタンとレヴァイアにはとても笑える話ではない。
「ふざけんなよ、死ぬ気満々じゃねーか。お前らが死んだら残された女はどうなる……!?」
サタンは拳を握り締めた。どんなに世界が狂っても、まだこの地で愛する者と共に生きていきたい……、彼らはそうサタンに誓い、天界に残った者たちである。それなのに、だ。
「どうって、幸せになってくれることを祈るしかねーわ。他にどーしようもねえだろ」
諦めきったような口振り。だが、先程一人が言った『あわよくば勝って帰りたい』というのが彼らの本音であり目標なのだろう。剣を構える彼らの目は確かな決意を宿して凛と光っている。
「そうか。分かった……」
サタン、レヴァイアといえども、こうして凛と光る瞳を持った相手とやり合う時はやはり多少緊張をする。全く油断ならないからだ。生きようと思う者の力は強い。
(でも、他に方法は無いのか……)
これはどうしても避けられない戦いなのだろうか……。
「兄ちゃん」
迷うサタンの肩をレヴァイアがポンと叩いた。
「兄ちゃん、此処は俺が引き受けた。アンタは他に行ってくれ」
「はっ!? なに言って……」
サタンからすれば、まさかの提案であった。
「迷い丸出し。そんな拳で戦えるとは思えない」
「な……っ」
本当に、予想もしていなかった言葉である。
「なんだと、テメェ……!」
そんなはずは無い――――と、言いたかった。だが、言えなかった。悔しいが本当のことだ。サタンは彼らに拳を振るうことを迷っている……。こんな状態で戦えば何かしら失態を演じるだろう。もし無傷で勝ったとしても胸に湧き上がるのは拳を振るったことへの罪悪感だ。決して喜びや達成感などではない。
この提案は、レヴァイアの優しさだ。全てサタンを思ってのことである。
「負を背負うのは俺だけでいい……。すぐに追いつくから適当に他へ行っててくれ」
言うとレヴァイアは天使五人を威嚇するようにフレイルをブンブンと振り回し始めた。
絶望の化身であるレヴァイアと対峙した者は否が応でも死を意識する……。天使たちの表情が一気に恐怖に歪んだ。
「……分かった、じゃあ此処は任せる……」
これ以上ゴネては、邪魔になる……。サタンは言葉に甘えて先を行くことにした。
「ああ、マジすぐ追いつくからさ」
音もなくその場から消えた兄貴分の姿を見送ってレヴァイアは更にフレイルを激しく振った。かなりの重量を誇る鉄球が風を切る悍ましい音が周囲に響き渡る。
「希望は逃げ出したか」
天使の一人がポツリと零した。
「心配すんな。終わりを背負った俺だ、お前らを躊躇いなく殺してやれる自信はある」
言い返してレヴァイアは頭の中でバアルの気配を探り、話しかけた。
『サタンのヤツ、この期に及んでまだ調子悪いみたい』
すると、すぐに察したのかバアルの溜め息が頭の中に返ってきた。
『仕方がないね……。一人で大丈夫?』
『勿論! 俺を誰だと思ってるわけ?』
そこで二人のやり取りは途切れた。バアルの目にレヴァイアが天使五人と剣を交え始めたの姿が遠くに確認できた……。まあ、まず心配は要らないだろう。なにせレヴァイアは絶望の化身だ。実際、圧倒的な力で今まさに二人の天使をただの肉塊にしてしまった。
と、なると気がかりなのはサタンの方である。
「バアルさん、何かあったんですか……?」
戦争が始まってから遠くの一点を無表情でずっと見つめていたバアルの眉間に深く皺が刻まれたのをリリスは見逃さなかった。
「あの、サタンさんたちに何か……?」
「ああ、それは大丈夫。心配要りません」
変わらず前を向いたまま答えるバアル……。その視野の広さたるや一体どれほどのものなのだろう。今日、隣にいて彼の目の良さが異常であることをリリスは知った。彼は一点を見つめたまま砂粒大にしか見えぬ軍勢の動きをしっかりと見通している。今もまた一人の悪魔の背後から斬り掛かろうとしていた天使の心臓を氷の矢で居抜き、更にはそこから遥かに離れた位置で苦戦していた悪魔の相手の足元を凍てつかせて動きを封じ、続けざま天使の群れに向かって無数の氷の刃を浴びせた。それでいてこちらに直接向かってくる天使がいても一瞬で気付いて軽く払いのけるという……。忙し過ぎる。リリスとしてはその動きを追って見ているだけで目が回るというものだ。
そうして砂埃の中で死闘を繰り広げている人々に目を凝らしているうち、また一人「すいません!」と謝りながら深手を負った悪魔が陣地に引き返してきた。その身体中を血の赤で染め上げ両腕を失っている悪魔を見てリリスは絶句した。いやしかし、マシな方だ。先程なんては首から上を失った悪魔がペコペコ謝りの仕草をしながら戻ってきて驚きのあまり気を失いかけた……。おかげ様で今日はそれ系の免疫がしっかりと付きそうである。
「謝ることはありません。よくぞ無事に帰ってきた。傷が癒えるまで下がっていなさい」
「はい、分かりました!」
バアルに深々頭を下げると悪魔は音もなくその場から姿を消した。街に戻って手当てをしてくるのだろう。そして傷が癒えたらまた此処に来て戦うのだ。
(どうして、そこまでするのかな……)
目の前に広がる凄惨な情景を眺めてリリスは何度も疑問に思った。
他に方法はなかったのか。ただ考えが違うだけでどうして殺し合いまでしなければならないのか……。
何度考えを巡らせても正解は出ない。それはそうだ。自分に答えが出せる程度の問題ならばサタンとバアルとレヴァイアがこんな最悪の選択をするはずがない。
これは、どうしても避けられなかったことなのだ。
(それだけ、みんな心から譲れないものがあるのね……)
リリスは今日、何度目になるだろう涙を流した。しかし、泣いても泣いても足りない。己の心にケジメをつけるにも、今日散った命を見送るにも、こんなものでは足りない。
「あ……?」
ふと、滴り落ちる涙が突然氷の粒へと変わった。氷の粒となった涙が光を反射して風に乗り、まるで宝石のように舞い散っていく……。あまりの美しさに見惚れていると隣でバアルが視線は前に向けたまま「泣かれると辛いからヤメテって言ってるのにぃ〜」と笑った。
涙を凍らせたのは彼だ。泣かないで欲しいという遠回しのメッセージである。
「ご、ごめんなさい……。また気を散らせるようなことしちゃって……」
「いえいえ。それは大丈夫」
大丈夫、と彼は常に笑ってくれるが、なんだかこの場にいるだけで迷惑をかけている気分だ。泣いては駄目と思っても勝手に泣くこの目が憎い……。
リリスは両目を手で押さえ『止まれ!』と強く念じた。哀しい光景を見ることは覚悟していた、それでも戦場について行きたいと言い張ったのは自分である。ゆえに、せめて泣くことだけは、やめたかった。
「リリス」
不意に名を呼ばれてリリスが顔を上げると、久し振りにバアルと目が合った。一瞬たりとも気の抜ける状況ではないだろうに、彼はしっかりとリリスに向いたのである。
「この光景を哀しいと思うならば、私たちに力を貸してください。私たちはこの世界を壊すために戦っている」
言って目を細めると、彼はまた前を向いた。
『そうでしょう、サタン……!』
未だ迷いに満ちた拳を振るう友を遠目に見つめ、自然とバアルの眉間にまた皺が寄る。上級天使との戦いを軒並み回避とはリーダーとして到底褒められた行動ではない。友に拳を振るわなくてはならない苦悩は分かる。だが、それはみんな同じだ。
バアルの声にならぬ声が届いたのか、遥か遠くでサタンがこちらに振り返った。酷く申し訳なさそうな顔をしている……。
「力……。私の力は、役に立ちますか……?」
弱々しくリリスが問う。
「ええ、勿論。男ってのは現金なものでね。可愛い女の子に応援されたら、それだけで力が出るものなんですよ。特に今ちょっとサタンは調子が上がらないようなんです、是非励ましてあげてください」
「励まし……。サタンさーん!! 頑張ってー!! 私、応援してますからー!!」
リリスが遠く遠くに向かって声を張り上げる。普通なら届かないと思うだろう、しかしサタンの耳は違う。
『聞こえた?』
ニヤニヤしながらバアルが問うと間も無く『聞こえたよ!!』という荒々しい声が頭の中に返ってきた。
『めっちゃ恥ずかしいからやめてください!! ちゃんと頑張るんでッ!!』
『それなら宜しい。ではでは』
なんだかお怒りの様子なのでバアルはちゃっちゃとやり取りを終えた。
「ちゃんと聞こえたみたいです。サタン喜んでましたよ、ありがとう」
「ホントですか!? 良かった!! 私の応援でよければいくらでもっ!!」
リリスの表情にも元気が戻った。ともかく万々歳である。
「それは心強い。そのままの意気でお願いしますよ。何せ、間もなく戦局に動きがありそうだ。私もいよいよ本格的に忙しくなるかもしれません。腕が鳴るねぇ」
言うとバアルはゆっくり伸びの運動をした。本格的に忙しくなる……、それは彼が直々に打って出ることを指していた。
「戦局に動きがって……、どうしてそう思うんです?」
崖の下では変わらず天使と悪魔が剣を交えている。リリスにはこの状況、特に何が変わりそうにも見えない。
「勘です」
……バアルは即答であった。
「か、勘ですか?」
「はい。あっちの大将とは変なところ気が合うのでね。私が様子見に飽きてきた頃合いです、向こうも同じく飽きたはずですよ。いい加減に動くでしょう」
少し日も暮れ始めてきたし、と呟いてバアルは僅かに空に輝く赤い月を見やった。
魔界の夜は暗く、寒い……。そんな時間までラファエルが戦争を引っ張るとは思えない。大概の天使は本能的に『闇』を恐れているからだ。士気が落ちることは目に見えている。
『レヴァイア、もういいでしょう。サタンと合流してください。嫌な予感がするんです』
遠く、上級天使と刃を交えている真っ最中のレヴァイアに声を送る。すると彼の溜め息が頭の中に返ってきた。あまり合流に気乗りしないらしい。
サタンにかつての友と極力刃を交えぬよう、そして死に様を見せないようにと離れて上級天使ばかり狩り続けているのは他ならぬ彼の優しさだ。負は全て自分が背負うという確かな決意も伺える。だが、サタンとレヴァイアの二強がかなりの距離を開けて長らく別行動をしていると妙に不安が募る……。
どうにも、向こうの手の内で踊らされている気がしてならない。
幸い、レヴァイアも同じ思いだったようだ。
『心配すんな。お前に嫌な予感がするって言われたら断れないよ。コイツら片付けたらすぐ合流する』
『そう言ってくれると助かる。火柱上がりまくってるから私が案内しなくても彼の居場所は分かりますね?』
言いながらバアルは何処ぞへ向かって全力疾走しているサタンの後ろ姿に目を凝らした。一体どこに向かっているのか、彼の行き先に目をやると……、戦場の空気に当てられたらしく「この女、持って帰って好きにしちまおうぜー!!」と下品に騒ぐ天使たちの群れと、それに捕らえられた一人の女悪魔の姿が見えた。成る程、彼女を助けに行くつもりなのだろう。忙しそうなので声をかけるのは少し待つことにした。
「ったく、顔に似合わず優しいんだから」
思わずバアルは声に出して苦笑いしてしまった。隣のリリスに「どうしたの?」と首を傾げられたが、とりあえず「なんでもない」と誤魔化しておいた。
と、その時、一つ疑問が頭を過ぎった。
あの女悪魔は、よりによって何故あんな中級上級天使が揃っている相手陣営の深みへ一人で突っ込んでいってしまったのか……。無理はするな奥深くへは行くなと全ての悪魔には伝えておいた。にもかかわらずだ。勢い余ってついうっかりだろうか……。いや、それは無い。ただ一人、敵陣営に突進していく悪魔の姿があれば、バアルなら間違いなく見えるはずなのだ。
(あの女は、誰だ……?)
「女の子には優しくしやがれ!! テメーらみたいのがいるから男全体の評価が下がるんだよボケがッ!!」
バアルが首を傾げるのとサタンが大声を張り上げて天使の群れをあっという間に灰にしてみせたのはほぼ同時のことであった。
「おい、大丈夫か?」
うつ伏せに倒れたまま動かない女悪魔にサタンが手を差し伸べる。すると、幸い意識は健在だったらしく、女はゆっくりと起き上がり、顔を上げた。
「っ!? サタン!! 罠だ!!」
見覚えのある女の顔を見ていち早く異常に気付いたバアルが叫んだ。
「は? 罠って……あーーーー!! 最悪だーーーーッ!!」
叫んだ時には既に遅し。女はニヤリと端正な顔を歪めて勝気に微笑むと何処からともなく取り出した黄金に光る槍で渾身の突きを放ち、サタンの腹部を一気に貫いた。
「ぐあ……っ!」
腹部を支配する激痛。堪らず地面に膝をつく。そして……サタンの目の前で銀髪のショートボブを風に揺らし豊満な胸元を強調するレザースーツに身を包んでいた女が瞬き一つする間に本来の姿を現した。腰まである長い髪、長い手足、端正な顔……この女、敵将ラファエルの手の込んだ変装だったのである。まさかそんな手段を用いてくるなど夢にも思っていなかったサタンは不意打ちという形でラファエルの一撃を受けてしまった。
「あはははははっ!! 笑いが止まらん、どーしよー!! まさかまさか、こんなベタな手に引っ掛かるなんて!! ちょっと一工夫した登場をしようと思っていただけなのに、まさかまさかだよ!! あはははははっ……ッゲホゲホゲホ!! 苦し……っ、ゲホゲホ!!」
あのラファエルが、ムセるほど笑っている……。何か言い返したいが、腹部の激痛と喉元に込み上げる血が邪魔をする。
「テ……、テメェ……、おっぱい生やしてまで俺を騙すとは卑怯なり……! 恥を知れ恥を……!」
「聞こえんなあ〜」
言うとラファエルは槍を抜いて立ち上がり、傷を負ったサタンの腹部を思い切りサンダルのつま先で蹴り上げた。これには幾ら屈強な魔王とはいえ唸りを上げて身体を丸め激痛に身悶える他ない。
「ゲホッ!! ゴホゴホッ!! ……だ、大体な、こんな下らない作戦に、巻き込んで……灰になった天使に申し訳なくならねーのか……!?」
「ああ、それなら心配には及ばない。彼らはとても乗り気だった。今頃は満足気にあの世で笑っているだろうよ」
笑いながらラファエルは再びサタンの腹部を蹴り上げた。
(マズイ……!)
だが、バアルが助太刀に打って出ようとした瞬間、それを阻むようにサタンのいる周囲一帯に巨大な結界が張り巡らされてしまった。幾重にも重なった屈強な結界……。一目見てバアルは察した。これはラファエルが張ったものではない、結界内にいる上級中級合わせて30人近い天使が力を合わせて張ったものだと。その続けざまにレヴァイアの舌打ちが聞こえた。
『バアル、ゴメン! やられた!』
『やられた?』
目をやるとレヴァイアはサタンの比ではない1000、2000、3000万……いや、分からない。数の凡そもつかぬ渦にしか見えない無数の天使たちが共同で張った巨大かつ屈強な結界内に閉じ込められていた。
普段の彼ならいくら上級天使を相手にしていようと、まんまと捕まるヘマはしない。恐らくはサタンが不意打ち受けたことを察したその一瞬の動揺を突かれたのだろう。ラファエルのまさかの女装にも恐らく気付いて驚いたはずである。これは仕方がない。
結界とは執念だ。逃さぬ、入らせぬという執念が作る絶対の壁……。ゆえにサタンとレヴァイアは結界内にいる天使全員を倒さねば外に出れぬという仕組みだ。
『これは〜……、強引に俺らを分断して一人ずつ片付ける気なのかな。あのラファが女装までした理由が見えたぜ。あのラファが、女装! 暫く夢に見そうだ……!』
『やっぱりそこに一番動揺したのねレヴァ君……。とにかく出来るだけ急いで打破してください』
『分かった。これだけの数を一掃するにゃ流石に時間食われそうだ。俺が行くまで耐えろよ!』
『誰に向かって言っているレヴァイア。耐えるどころか容易に勝利してみせますよ』
『アハハッ、そいつは心強いや! じゃあ頼んだぞ!』
やり取りを終えると、それを見越したようにラファエルが遠目から勝気に微笑みかけてきた。どうだ参ったかと言わんばかりの顔である。そしてバアルが「何がだ馬鹿野郎」と零して唇を噛んだことを察すると更に彼は見せつけるように足元で痛みに悶えているサタンを蹴り上げ、その無防備な身体に向けて槍を何度も振り下ろした。
「ぐあ……っあああああああああああー!!」
右肩、右腕、右手右足、右脇腹、左手、左肩……次々とメッタ刺しにされて頭がおかしくなりそうな程の激痛が身体を駆け巡る。なにせラファエルの槍は神の加護により光の熱を帯びている。ゆえに、これで刺されると肉を裂かれた上に傷口を高熱で焼かれてしまうのだ。
少しでも相手に苦痛を与えようという悪意に満ちた刃。あのサタンでも無我夢中に叫ぶしかなくなる。
「やはりお前の心の臓は絶対刺せぬようになっているのか……。狙っているつもりなんだがな」
白目を剥いて血の池に沈んだサタンの既に穴だらけな腹部へ駄目押しとばかりに槍を突き刺し、ラファエルは溜め息をついた。彼が決して殺せない存在であることを改めて認識した形だ。
「がは……っ! あ……!」
ゴボゴボと血を吐いてサタンが身体を痙攣させている。この光景にさぞかし敵将は気分を害したことだろう。
『お前の希望は無様だな』
声にならぬ声でラファエルがバアルに呼びかける。
『その手には乗りませんよ、ラファエル』
こんな明らかな挑発にみすみす乗るバアルではない。だが――
『そうか? 私にはこの距離からでもお前の動揺した鼓動が聞こえるぞ』
この言葉には思わず眉間に皺を寄せてしまった。しくじったと思った時には既に手遅れ。してやったりなラファエルの笑みを見る羽目になった。
「お前たち、後は頼む。殺すことは出来ないが身動き取れぬ肉塊にすることは出来るだろう」
ラファエルは背後に集った天使たちに指示すると、遠くの敵将を見据えた。
「此処に来るか。真っ先に私へ目をつけるとはお目が高い」
呟いて、バアルはラファエルの視線に応じるかのように両手の爪を伸ばし、鋭利に尖らせた。彼の爪は戦いにおいて岩をも切り裂く鋭い刃と化す。とりあえずの準備は万端だ。
だが……、正直に言えば、大いに不利な状況だった。
初めての戦争――当時、彼らは揃ってまだ未熟であった。己の感情を優先してサタンとレヴァイアは勿論、バアルも友の思いを度外視してまで作戦を重視する裁量を持ち合わせてはいなかったのである。
帝王、魔王、希望、破壊の化身……呼び名こそ偉大だが、彼らもこの頃はまだ生を受けてから20年ほどしか経っていない若者だった。
「バアルさん……?」
何か様子がおかしいことを察したリリスが首を傾げる。
「リリス、今すぐ下がって岩陰に隠れていなさい。手短に言うとアホ二人が罠に掛かって大ピンチで敵将が直接此処に乗り込んできます。ですが貴女のことは私が命に代えても守りますので、とりあえずは御安心を」
「あ、はい……。って、大ピンチ!? 大丈夫なんですか!?」
なんだかあっさり言われたので一瞬飲み込み損ねたが、自分の目の届かぬところで大変な事態が起こったようだ……。リリスの身体に悪寒が走った。
「大丈夫、大丈夫。さあ、早く下がって!!」
「は、はい!! 分かりました!!」
あのバアルが声を荒げた……。これは只事ではないと察したリリスは言われた通り急ぎ走って身体がすっぽり隠れるくらいの岩陰に身を潜めた。と、同時に金属のぶつかり合うような音が周囲に響き渡った。何事かとリリスが僅かに岩陰から顔を出すと、先程まで自分がいた崖の先端にて血に染まった槍を手にし真っ白な羽を背中に広げたラファエルと手の爪を鋭利に光らせたバアルが対峙している光景があった。
「会いたかったよ、バアル」
「こちらこそ」
ピリピリと殺気を漂わせながら女性と見紛う端正な顔立ちの二人が笑顔を交わす。
「バアル様!!」
「バアル様、我らも戦います!!」
敵将ラファエルの姿を確認した崖下の悪魔たちが天使と剣を交えながらもバアルの身を案じて次々に声を荒げた。命じてさえもらえれば喜んで加勢するという意思表示である。しかしバアルは首を横に振った。なにせ相手が相手だ。出来るだけ犠牲は増やしたくない。
「手出し無用!! 私を誰だと思っている!! 貴方たちは目下の敵の殲滅に尽力なさい!!」
「バアル様……!」
王の命令とあらば従うしかない……。悪魔たちは揃って悔しげに頷くと、前を向いて天使たちの一掃に集中した。
「いいのか、手伝ってもらわなくて」
ラファエルが意地悪く笑う。
「勿論。お前の相手など私一人で充分」
そっちがその気ならこっちもとバアルは顎を上げて意地悪く笑い返した。
状況不利と思うなかれ、自分が勝てば済む話だ。むしろ、わざわざ敵将から出向いてくれたのだ、好機と捉えていい。
と、その時、ふと横目に血の海に沈んだまま天使たちに囲まれているサタンの姿が見えた。このままでは、本当に死にはしなくとも肉塊にされてしまう……。
『サタン、しっかりなさい!! リリスが応援してますよ!!』
声にならぬ声で呼びかける。すると、それを察したのかラファエルが鼻で笑った。
「貴様、他人の心配をしている暇があるのか?」
これまたカチンと来る一言である。
「あるから、しているんですよ」
言い放つとバアルは爪を鋭く尖らせてラファエルに斬りかかった。だが、その一撃は容易く槍で弾き返された。
「う……っ!?」
衝撃で後ろに飛び退いた後、バアルは低く呻いて痺れた右手首を押さえた。明らかに以前と手応えが違う。辛うじて爪こそ砕かれなかったが……、弾き返された、ただそれだけで手首に重たい痛みが走るなど、こんなことは初めてだった。
「お前、その力……!! 更に神から加護を得たのか……。一体何処まで落ちる気だ、恥を知れ!!」
バアルが声を荒げる。だが、薄ら笑いを浮かべるラファエルからは微塵も意に介する様子など伺えない。
「好きに蔑め。私は貴方の意志を砕くためなら手段を選ばない。力を得るためならどんな辱めも甘んじて受ける!!」
力強く踏み込んでラファエルが槍で真っ直ぐに突いてきた。
(早い――!)
避けるのは無理と判断して爪で弾き返す。だが、やはりただの突きだというのに酷く重い。手首が千切れるのではないかと思うほどの衝撃だ。
「うっ!?」
そうして手首の痛みに気を取られている一瞬の隙を突かれ、バアルは横腹にラファエルから蹴りを食らって吹き飛ばされた。だが、すっ転ぶ醜態までは晒せないという意地でなんとか踏み止まる。
ヒールの踵がガリガリと地面を削り、長い線を描いた。
「げは……っ!」
横腹を押さえ、喉に込み上げた唾液を留めることが出来ず口から吐き出す……。ただの蹴りすら以前とは比べ物にならないほど酷く重い。バアルは、かつての肉親が本当に遠くへ行ってしまったことを肌で実感した。
「相当……、神へ熱心に御奉仕をしたようだな……、ラファエル……!」
「だったらどうした。獣の加護無しでは満足に生きていけないお前が私に何を言える」
再度ラファエルがこちらに向かって力強く地面を蹴った。
(一撃でも受けたら命取りだな……!)
槍の軌道を読み、バアルは右に飛び退き紙一重でラファエルの一撃をかわすとそのままの勢いを生かして長い足で回し蹴りを放った。だがラファエルの肘に食い止められてしまった。ならばとそのまま飛び上がって頭を狙って蹴りを放つが、また食い止められ、逆に足首を掴まれて地面に身体を叩きつけられてしまった。
「い……っ!」
背中を思い切り打った、痛い。だが呻いている暇はない。案の定、目を開くと鋭利な槍の先が自身の身体めがけて振り下ろされている様がスローモーションに見えた。
「チィッ!」
気休め程度にしかならないだろうが無数の氷の刃を放って応戦する。……予想通りラファエルは見向きもせずに身体の周囲に光を放って全ての氷を溶かし消してしまった。だが、こんなことでも0*1秒の時間稼ぎにはなった。
バアルは一瞬でその場から姿を消すと、空振りをして槍を地面に突き刺してしまったラファエルの背後から爪を尖らせて斬りかかった。
だが、この攻撃も読まれていた。
ラファエルは振り返らぬままバアルの腕を掴み取ると、そのまま後ろ手に捻り上げた。
「あ……ぐああっ!!」
バアルはいつブチリと切れるか分からぬ寸前まで腕を捻られ、呻くしかなくなった。
「脆いな」
耳元にラファエルから屈辱の一言……。何か言い返してやろうと思ったが近場の岩壁に身体を荒っぽく押し付けられ、挙句に激突を恐れた咄嗟の反応で岩に付いた左手のひらを容赦無く槍で貫かれてしまった。
「うああああああああ!!」
手を粉砕された痛みで、とても何を言い返すどころではない。
このままでは、駄目だ。しかし腕を取られた挙句に岩壁とラファエルの身体との間にギッチリと挟まれて身動きがとれない。
「何度でも言ってやる。……脆い」
目の端に、金色の槍がゆっくりと岩肌から抜き取られていくのが見えた。次は何処を刺す気かと身構える……。と、耳元でラファエルが鼻で笑った。
「なんだビビってんのか王様。可愛いところあるじゃないか」
……あまりに屈辱的な一言であった。
「なんだとこの雌豚ッ……ぐああああっ!?」
気が緩んだところで左肩を貫かれた。まんまと踊らされた形である。
「雌豚はお前だろうが」
耳元で嘲笑ってラファエルが突き刺した槍をグリグリと捻る。その度に焦げ付くような音が響き、僅かな煙と嫌な臭いが漂う。
「降伏しろ、雌豚」
耳元でラファエルが囁く。
「っざけんな……! 降伏なんざしねーよ……! 私、雌豚じゃねーし!」
「おやおや、酷い言葉遣いだ。誰に習った?」
ラファエルは腕を捻る力を強めると、バアルの左肩に続いて今度は背中越しに腹を槍で貫いた。
「が……は……!」
急所を突かれ、口から血をゴボリと吹き出す。
「もう一度言う。降伏しろ」
温度の無い声でラファエルが耳元に囁く。
「バアル様!!」
崖の下で王の劣勢に気付いた悪魔たちが我慢出来ずに声を上げた。
「ゴホッ、ゴホッ……!! 黙れ!! 手出しは不要だ馬鹿どもが!!」
このままでは命令違反だろうとこちらに向かって来てしまう悪魔が現れるかも分からない。仕方なしにバアルは激痛に悶えながらも崖の周囲一帯に結界を張り巡らせ、自分の存在を外から遮断した。これなら無様な姿を晒すこともなければ悲鳴を聞かす心配も、誰かが飛び込んでくる心配もない。来るな、という渾身のメッセージである。
「バアル様……!」
こんなところで死ぬな、という彼の気持ちはありがたい。だが、自分たちの無力さに悪魔たちは唇を噛んだ。
「サタン様、レヴァイア様、早く……! このままではバアル様が……!」
一人の悪魔が声を振り絞って叫んだ。
そうして祈っているのは悪魔たちだけではない。岩陰に身を潜めて惨状を目の当たりににしているリリスも今や遅しと助けを待ち、祈っていた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……! 早く……っ、サタンさん、レヴァさん……!)
こうなったら自分が出て行くしかない……。だが、出て行ったところで何も出来ないという自身の臆病な心と『来るな』というバアルからの無言の圧が足を固く踏み止まらせる。
(早く、誰か……!)
祈るリリスの耳に、また残酷な槍が身体を貫く音と王の苦しげな呻き声が聞こえた。
一体何がどうなったのか。頭の中に、何度かバアルとレヴァイアの『しっかりしろ』『起きろ』という声が聞こえた気がする。
ああ、そうだ、そういえばいつの間に寝てしまったんだろう。
起きなくては。
嗚呼、身体中が焼けるように痛い。なんだこの痛みは。とても寝てなどいられない。痛い――!
「つっ……!!」
胸が鼓動するたびに身体中を走る激痛に叩き起こされる形でサタンは目を覚ました。
「ん…………うおおおおっ!?」
自分が武器を手にした無数の天使たちに取り囲まれている現状を把握して思わず大声で叫んでしまった。すると向こうも驚いたようで天使たちも揃いも揃って「ぎゃあああああ!!」と悲鳴を上げた。
「帝王が目覚めちまった!! ええい、死なば諸共!!」
一斉に刃が降り注ぐ。応戦しなければ……。だが、深手を負った手足はピクリとも動かない。ならばと周囲一帯を業火で燃やし尽くすことにした。
灼熱に身体を焼かれた天使たちの阿鼻叫喚が耳をつんざく。しかしそれはすぐに止み、残ったのは僅かな灰だけとなった。
『おっはよー!!』
頃合いを見計らったように頭の中にレヴァイアの声が入ってきた。
『ラッキーだったな兄貴。そいつらお前の寝顔があまりにもホラーだったから近寄るのに二の足を踏んでたんだぜ。お陰で余計な傷が増えずに済んだな』
『寝顔がホラーで!? 全然喜べねぇぞ畜生!!』
開口一番に酷い話である。
『アハハハッ!! っと、笑ってる場合じゃねーや。手短に状況を話すよ』
『ああ、頼む。ラファエルにメッタ刺しにされて結界の中に閉じ込められたトコまでは覚えてる』
『オッケー。ああ、えっと、兄ちゃんがオネンネしてた時間はせぇぜぇ5分てトコ。んで俺も同じく結界に閉じ込められちまってさ。バアルが一人でラファに応戦してるけど、ぶっちゃけ非常にマズイ』
随分と早口である。それだけ急を要する事態ということだ。
『マズイって?』
どうマズイのやらとサタンは遠くに意識を集中させ、崖の上の状況とバアル、ラファエルの声を微かに聞いた。
『ああ、把握した』
『なら話は早い。俺も急ぐけど兄ちゃんも急いでくれ』
そこでやり取りは終わった。天使の殲滅に集中するためだろう。
「いつになく真面目でいらっしゃる」
一人サタンは笑った。兄貴分として、常に無駄口が多くフザケてばかりのレヴァイアが友人のために真面目に仕事してると思うと微笑ましくて仕方がなかったのである。
いやしかし、あまり笑っている場合ではない。
(とりあえず、足の治癒を最優先……だな)
足先に意識を集中しつつ、サタンは漆黒の翼を背中に生やして羽ばたき起き上がった。自由が利かずブラブラと揺れるばかりの手足が重い……。だが、戦えなくはない。
「おい、出てきたらどうだ。つか隠れてても無駄だぜ。俺、かくれんぼ遊び超強いから」
先程、多くの天使を灰にしたが結界は解けていない。……まだ生き残っている天使がいるということだ。
「しゃーねー、当ててやろうか。ほら、そこの岩陰!」
言ってサタンは一つの岩を睨みつけ漆黒の炎で包んだ。すると「アチチッ!」と声を上げながら一人の天使がサタンの目の前に姿を現した。火に巻き込まれる前に瞬時に移動したらしい。
……彼は、サタンの知っている顔だ。
「よお、久し振り。この結界内に残ってる天使は俺で最後だ。こんな俺でも命懸けりゃアンタを5分か10分は足止め出来るかなー。出来るといいなあ〜」
「お前は相変わらず呑気だな、オイ。…………結界を解け。でないと俺はお前を殺さなくちゃならない」
「まだそんな甘いこと言ってんの? 早くしないとバアルさん死ぬよ?」
どうやら、解く気は無いようだ。また一人、友人を殺さなければならない……。サタンは唇を噛んだ。
「ったく。悔やむなよサタン。お前が選んだ道だろが。俺は俺で悔んじゃいないよ。少しでもアイツらと長く過ごすことが出来た。そんで疲れた。だからもう眠りたい。……天界に残っといてなんだけどさ、俺アンタが絶対この世界を壊してくれるって信じてんだぜ」
「だったら……!!」
だったら天界なんか捨てて堕ちて来い――――言いかけてサタンは言葉を止めた。無駄だと気付いたのである。
反乱戦争の時、誰もが天界に残るか革命を求めて戦うかの二択に苦しみ、悩みに悩んでそれぞれ答えを出した。その時の決意は今更に容易く違えられるようなものではない。
そして今また彼らがこうして戦場にやって来たことも、強い決意を抱いてのことなのだ。
「いや、なんでもない。分かった。そっちがその気なら全力で応じるのが礼儀だよな」
「そのとーり! またどっかで会ったら、一緒に飯でも食おうぜ」
ニッと白い歯を見せて天使は笑った。それは、到底これから殺し合いをする相手とは思えない表情であった。
それでも、迷ってはいけない。
天使は先手を打って剣で斬りかかってきた。帝王の治癒を遅らせようという魂胆に違いない。サタンはその一撃を紙一重で避けると、周囲一帯を漆黒の業火で包んだ。だが、手応えは無い。
「っ!?」
気配を察して頭上を見やると、いつの間に飛び上がったのか今まさに剣の切っ先をこちらに向けて振り下ろす天使と目が合った。すんでのところで音もなくその場から姿を消し、天使の背後に回って火を放つ――が、姿を消されてまた避けられた。流石、そこそこ階級ある天使は動きが違う。
「チッ!」
時間稼ぎする気満々の戦い方だ。やはり手足が使えぬ状況では上手く立ち回れない……。
(早く足だけでも治れってんだよ……!)
もどかしさに舌打ちしながら、サタンは再度業火を放って周囲一帯を火の海にした。だが、またも手応えは無い。
その時、右足の出血が止まったことに気がついた。集中切らさずいた甲斐があったというものである。
(よし、まだ死ぬほどイテーけど動く……!)
背後の気配を察し、サタンは今まさに動くようになったばかりの右足を振り上げた。
バアルの足元には血の池が広がっていた。これ全て自身の身体から滴り落ちた血である。
意識が、朦朧としてきた。
既に四肢には痛み以外の感覚が無い。何処をどれだけ槍に刺されたのやらも曖昧だ。既に自力で立つこともままならず、敵に後ろから脇を抱えられている情けなさ……。
それでも、神に頭を下げることだけは出来ない。
「本当に頑固だなあ」
半ば呆れたような口調でラファエルが言う。
「何故そんなに降伏を拒む? 媚を売る相手が怪物から創造主に変わるだけだというのに。媚びを売るなんて貴方にとっては簡単なことでしょう?」
「うる、さ、い……! あんな下劣な奴に、媚びを売るくらいなら私は……っ」
「死を選ぶって? またか。何度も言ってるだろ、そんな贅沢な選択肢、お前には用意されていないと」
言うとラファエルは穴だらけのバアルの背中に重たい拳を叩き込んだ。
「ゴホ……ッ!」
傷口を抉るような衝撃にバアルの腹と口から鮮血が滴り落ちる。
「度し難いな……、本当に!!」
怒鳴りながらまた重たい拳を叩き込む。バアルが呻いていることなどお構いなしだ。
「自分可愛さに世界の混乱を招き怪物を手懐けて我が物顔で日々をのうのうと生きて、いざ窮地に陥れば死にたい死にたいと逃げることばかり考える……。お前は一体何処まで性根が腐っているんだ!!」
渾身の一撃が入った。身体が真っ二つに千切れてもおかしくない衝撃。大地を揺るがす程の大きな悲鳴が辺り一帯に木霊する。そこにラファエルの狂気染みた笑い声が重なった。
(もう、耐えられないよ!!)
ずっと耳を塞ぎ息を殺していたリリスではあるが、いよいよ我慢の限界だった。二人の会話の意味はまるで分からない、きっと彼らの間でしか通じない話だ。だが、意味こそ分からなくても、あれが心を抉るような悪意に満ちた言葉であることくらいは分かる。
大切な友人が罵倒され苦しんでいる――やはり黙って見ていることなど出来はしない。こんな自分でも此処から飛び出せばサタンやレヴァイアが来るまでの僅かな時間稼ぎにはなる。その可能性は決して0では無いはずだ。ならば、やるしかない。
リリスはしっかりと鞭の柄を握り直すと、その場から立ち上がろうとした――瞬間、左足の先が分厚い氷に固められてしまった。
「な……っ!?」
決して冷たくはない不思議な温度のある分厚い氷が自分の足と大地とをしっかりとくっ付けて離さない。これは……、すぐに氷使いバアルの仕業であると分かった。
来るな、ということだ。
(そんな、どうして……!)
あれだけ身体を真っ赤な血に染め上げ、痛みに叫び、意識を朦朧とさせ、最早視線も定まらぬはずの目でこちらを気に掛け、来るなという――――。
(バアルさん、どうして……!)
リリスは鞭の柄で氷を叩いた。しかし叩けど叩けど氷は僅かも砕けない。
「紳士ぶってる場合なのか、バアル」
向こうでラファエルが高らかに笑った。彼のことだ、岩陰に潜むリリスの存在にはとっくに気付いていたことだろう。それでも何もしてこなかったということは……。見向きをする必要が無いと思われた、それしか考えられない。
(わ、私……っ、私は……、なんて無力なの……!)
悔し涙が頬を伝って渇いた地面に次々と滴り落ちる。泣いてもどうにもならない、分かってはいても涙を止めることなど出来なかった。
「似合わないことをする」
またドスリとラファエルの拳がバアルの背中に突き刺さった。
「グホッ!! ォ……ッ!!」
こうも攻められ続けては治癒が進むはずも無し。腹部からの出血は留まることを知らない。
「いつまで王を演じているつもりだ? 限界近いと思ったが、まだ随分と余裕だな」
殴ることに飽きたのか次にラファエルはバアルの頭を掴むと荒っぽく岩肌に叩きつけた。
岩の砕ける衝撃音とグシャリと潰れるような音、それに紛れて喉を押し潰したような短い悲鳴が木霊す。今のが自分の声であると把握するのにバアルは数秒を要した。
「そろそろ隠すのは諦めてお得意の甲高い声で怪物に助けを乞うたらどうだ? アイツなら本気を出せば5秒であの結界内の天使を全て血の海に変えて此処に来てくれるはずだぞ」
また頭をグシャリと叩きつけられた。額が割れたのだろうか、目の前が真っ赤に染まる。
「ほら、意地を張らずに呼べ。そして認めろ。所詮お前は男に媚を売らねば生きていけぬ売女であるとな!!」
また叩きつけられる。再三続く衝撃に声すら出し損ねた。真っ赤に染まっていた視界が、今度は白黒に濁っていく。
「本当はずっと心の中で名前を連呼して縋っているんだろう!? しゃんと口に出したらどうだ、誰に聞こえなくとも縋っている時点で同じことだ!!」
強く強く叩きつけられる。自分の石頭っぷりには自信あるつもりだったが、やはり本物の岩はもっと固い。
(なんでこんな時に強度比べしてるんでしょう……)
悲鳴を上げている身体とは裏腹に、バアルは心の中で冷静に自分を笑った。しかし身体は本当に限界だ。指先一つとしてまともに動かない。
「……あ……ぅ…………」
いよいよ意識も朦朧としてきた……。視界が奪われていく。
――素直に縋ったらどうだ――
朦朧とする意識の中において、それは跳ね除ける術のないとても甘い誘惑であった。
「………………」
ほぼ、無意識のことだった。バアルは朦朧と瞼の裏に映った相手の名を呟いていた。自分ですら聞き取れない小さな声、だがラファエルには聞き取れたのだろう。そしてそれは御期待に添えるものだったようだ。遠くに彼の高らかな笑い声が響く……。
「そらみたことか!! それが証だ!! そうやって縋ってばかりいるから!! どれだけ足掻いても、お前は『男』になれないんだよ!!」
……返事は無い。普段ならこんな言葉を許すバアルではない。しかし返事は無い。聞こえているのか、聞こえていないのか、なんにせよ言い返す余力など僅かもないということだ。
だが、これはこれでいい。ラファエルは一人歪んだ笑みを浮かべた。これだけしっかり気力を失っていれば魔王バアルといえども容易く天界に連れ帰ることが出来る。
(延々待ち望んでいた手土産だ、さぞ神はお喜びに……)
「っ!?」
ふと、その時ラファエルは背後に強い殺気を感じた。振り向くと――――誰もいない。誰もいないが、遥か向こう、幾重もの結界を超えた先にいるレヴァイアと、目が合った。
殺気の源は、彼だ。
天使たちを鋭利な風と残虐なフレイルで粉砕しながらこちらを異常なまでに鋭い目で睨みつけ、こんなに離れた場所まで殺気を発している。
下手に触れたら指先から肩まで粉々に切り刻まれそうなほどの冷たい冷たい殺気……。思わず、ラファエルは息を呑んだ。
(寒気だと……。この私が……!?)
信じたくはない。だが、確かな悪寒が身体を突き抜ける。そしてラファエルは手元に捕らえていたバアルの様子が一変したことに気付いた。
「バアル……?」
一体、何が起こったのか。腕の中のバアルが食い縛った歯の隙間からまるで獣のような唸り声を漏らし、虚ろに曇っていたはずの瞳を殺気に光らせて真っ直ぐこちらを凝視している。それだけではない。見る見る間に眼球の白目部分は黒く染まり、口元から垂れた血や傷口から滴る血も赤から黒へと変色を始め、黒ずんだ血管が真っ白な肌の下から浮かんでいく。
これは、自分の知っている王の姿ではない。
――化け物――
真っ先に浮かんだ言葉である。
「バアル、貴方は、一体……」
これは、『獣による加護が露わになった』としか思えない。だが、認めたくはなかった。認めれば、本当に手の届かないところへ彼が行ってしまったことも同時に認めなければならなくなる。
しかし、天界に連れ帰ろうとした途端にバアルは豹変した。これは最早自身の姿を保っている場合ではないという本人の意志と何がなんでも彼を離すまいとする獣の執念が合致したがゆえとなれば説明がつく。
彼ら二人は王の化け物じみた姿を晒すまいとあえて手を抜いていたのだ。どれだけ怪我を負おうとお構いなく……。ラファエルはそうして二人が封じていたものをみすみす開けてしまった。
「遠くへ……、遠くへ行ってしまったのは一体どっちだ『姉さん』!!」
叫んだ刹那、ラファエルは結界内に飛び込んできた何者かの気配を察して我に返ると豹変したバアルを手放してその場から飛び退いた。そして間も無く漆黒の羽を広げたサタンの蹴りが今しがた自分のいた位置の岩肌を抉り削る様を見た。飛び退くのがあと1秒遅れていたらあの鋭い蹴りを自分の身体に受けていたところである。
「チィ!! ……おい、バアル!! しっかりしやがれ!!」
地面に足を下ろし、サタンが呼びかける。するとバアルは黒く染めていた血を元の赤色に戻し、小さく呻いて地面へとゆっくり崩れ落ちた。
「おい、バアル!!」
出来れば身体を支えてやりたかったが生憎まだ両腕は思うように動かない……。サタンは己に舌打ちをして前方のラファエルを睨みつけた。
「テメェェェ!! よくもウチの総大将をこんな血染めにしてくれたな!!」
怒りの感情を包み隠さず腹の底から怒鳴り上げる。しかし相手は動じない。動じないどころか鼻で笑っている。……当たり前かもしれない、何せこちらは骨を絶たれて両腕がプラプラだ。敵将ラファエルはとても手ぶらで勝てる相手ではない。
(それでも、レヴァイアが駆けつけるまでの時間くらいは稼いでやるさ……!)
サタンは自身の周囲を灼熱の炎の渦で覆った。
「それで時間が稼げるとでも?」
ラファエルは槍の切っ先を天に向けると自身の身体から眩い光を放ってサタンを目眩ましさせた挙句、炎を綺麗に掻き消してしまった。神の御加護の賜物である。
「うわ、眩しっ!!」
薄暗い魔界に慣れたサタンの目にこの光はあまりにも毒であった。明らかに生じた大きな隙。この機を逃すまいとラファエルが力強く踏み込んでこちらに向かってくる気配を察したサタンは視界を奪われながらも身体を右に逸らして辛うじて一撃をかわした、だが、脇腹を少し切られた。
「つ……っ!」
鮮血が地面に滴り落ちる。やはり今やただの錘と化している両腕が邪魔だ。思うように動けない。いっそ引き千切ってしまった方がいいかも――――などと考えている間にみぞおちをド派手に殴られてしまった。
「がは……っ!!」
あまりの力に後方へ吹き飛ばされ、岩壁に背中を強打。そして体勢を立て直す間もなくダメ押しの蹴りをまた腹に叩き込まれた。
「ぐっ!! ぐぇ……え……っ!!」
メリメリと音を立ててラファエルのサンダルが腹に食い込んでいく。息が詰まったサタンは無様な声を上げて唾液を吐き散らした。
「無様だな、サタン。私に手も足も出ない男が神を討つなど笑止千万。身の程を知れ」
「うるっせぇ、馬鹿……っぐあああ!!」
口答えは許さないとばかりにまた腹を蹴られた。
「やはり学ぶ頭など持ち合わせていないか。やれやれ、お前の上手い話に乗ってしまった奴らが不憫でならないな」
不気味なほど感情のこもっていない目をしてラファエルが笑う。
(そんな、サタンさんまで……!)
全てを見ていたリリスはいよいよ絶望感に襲われた。バアルに続いてサタンまで、また自分は黙って見ていることしか出来ないのだろうか。
その時、足元を固めていた氷が砕けて消えた。これは、バアルが倒れたまま意識を失ったことを示していた。此処から見てもサタンらの脇で転がっている彼は血みどろの姿のまま目を閉じ、身動きひとつしない。
枷は無くなった。しかし今、感情を優先して飛び出せば来るなと言い続けてくれた彼の好意を無駄にしてしまうかもしれない。
そうして悩んでいる間にサタンは脇腹を蹴られ、地面へと転がされてしまった。
「ゴホッ!! ゴホッ!!」
腹に何度も重たい衝撃を受けたことが響いてか身体を丸めて苦しげに血を吐いている……。そこへ、より深手を負わす気なのかラファエルが近付き、淡々とサタンを見下ろしながら静かに槍を構え直す。
(どうしよう、どうしよう……。私なんかが出て行ったところで……。でも、私……、バアルさんゴメンナサイ!! 私、どうしても黙って見ていられません!!)
「もうやめて!!」
意を決してリリスは鞭を握り締め、サタンとラファエルの間に割って入った。
「これは驚いた」
ラファエルがこれ見よがしに目を丸くして大袈裟に驚いてみせる。
「な……っ!? 馬鹿、リリス!! 下がれ!!」
背後でサタンが怒鳴り上げた。しかしリリスは引き下がらない。
「嫌です、下がりません!! わ、私が、私が相手をします細長い天使さん!!」
「ラファエルです。そろそろ覚えましょうね。で、えーと、相手しても構わないが、とりあえずその足の震えを止めては如何かな」
ガタガタと振るえるリリスの足元を槍の先で指し示してラファエルが意地悪く笑う。
でも、これでいい。話をするだけでもいい。それはそれで時間を稼げる。
「おっと。ひょっとして、これはこれで時間稼ぎになる……なんて思ってないでしょうね?」
「えっ!?」
ズバリ、言い当てられた……。
「はっきり言いますが、私はこんな時間稼ぎに付き合う気など無い。5秒待ってやる、その間に退け。退かなければ殺す」
リリスは足が竦む思いだった。退かなければ殺す……、こちらを真っ直ぐに見る彼の無機質な金色の瞳が躊躇など微塵も無いことを告げている。しかし、退くわけにはいかなかった。
1秒、2秒、3秒と時間が過ぎていく。
「リリス!! 退け!!」
背後でサタンが怒鳴り上げた。彼にこんな思い切り怒鳴られるなどリリスには初めてのことである。
「い、嫌です……。退きません……!」
どれだけ怒鳴られようと譲りたくはなかった。正直ラファエルのことも恐くて仕方がない。だが、もう目の前で誰かが苦しむのは沢山だった。
――あっという間に5秒は過ぎた。
「退かないか」
ラファエルが大きく溜め息をつく。
「サタン、これもまたお前が愚かな理想を掲げた結果だな。お前のせいでなんの力も無いこんな女でさえ武器を手に戦わなくてはならなくなった。どう思う?」
瞬間、リリスは後ろでサタンが悔しげに唇を噛んだことを察した。
「違う……! サタンさんは悪くない……! これは、私が望んだことですから……!」
「志願したと? それまた奇っ怪な話だな。女、そんな男に肩入れしてもなんの得にもならないぞ。そいつは破壊することしか能のない絶望の化身だ。いつかお前のことも平気で壊す」
淡々と紡がれたラファエルの言葉……。リリスは意味が上手く理解出来なかった。
「な、何を言ってるの。私、サタンさんは希望と始まりの象徴だって聞いたわ!! 彼の破壊はただの破壊じゃない、次へ進むために必要なものだって!!」
「そう聞かされたか。それは以前の話だ、今は違う。希望と絶望は表裏一体。見てみろ、その男の漆黒の髪、殺気立った赤い目の色、鋭い犬歯、禍々しい頭のツノ、鋭利な爪……、かつて絶望の化身とされていた化け物にそっくりだ。そいつは変わりつつあるんだよ、化け物にな」
……とんでもない話が飛び出したものだ。
「絶望の化身てなんなのよ!? やめて!! 私が何も知らないと思って勝手な話をしないで!! 私、信じないわ!! 何が化け物そっくりよ、神様がサタンさんを堕とした時にそうしたんでしょ!!」
「いいや、神はそいつに『殆ど何もしていない』そうだ。つまり、一人で勝手に歪んだことになる」
「なに……!?」
黙って話を聞いていたサタンが声を上げた。こんな話、初耳だったのである。
「やはり自覚は無かったようだな。では教えてやる。サタン、お前のそのツノは感情を包み隠せなくした嫌がらせなんて甘い代物じゃない。よくよく思い出せ。そのツノは怒りだけではなく、憎しみと破壊衝動を抱いた時にも現れてきたはずだ」
瞬間、サタンは息を呑んだ。言い訳が出来なかったからである。
「そいつは何よりお前が化け物に近付いている証。更に負の感情に蝕まれ化け物に近付けばそのツノが元に戻ることもなくなるだろうな。一応は私の推測でしかないが、的は外れてないはずだ」
「……俺が、化け物に……」
「サタンさん!?」
聞き慣れない震えた声に思わずリリスが振り返ると、そこには片膝を地面につけたまま驚愕に満ちた目をギョロリと開いて何処か一点を見つめているサタンの姿があった。
「お似合いだよ、サタン。お前は悪戯に希望を振りまき、裏切った。希望に裏切られた時、人は絶望をする……。お前が人々に与えた絶望は神の比ではない。もっと言えば高々と持ち上げて叩き落とした分、『真性の怪物であるレヴァイア』よりも質が悪い」
放たれ続ける言葉の刃。サタンの身体が恐怖に震え出す。リリスはこんな彼の追い詰められた姿も、初めて目にした。なんだか今日も初めて尽くしである。
「俺……、俺は……っ…………」
何か言い返さなくてはならない、しかしサタンには返す言葉が見つからない。ラファエルの言葉が全て正しいからだ。実際、反乱に失敗した。その時、仲間に与えてしまった絶望感は一体どれほどのものだったろう……。
「そう、お前こそが真の化け物だ」
トドメとばかりに言い放ってラファエルは盛大に歪んだ笑みを浮かべた。
「革命などと謳っておきながら空虚な灰の山しか築けぬ絶望の化身、破壊しか知らぬ正真正銘の化け物よ!! お前は己一人の実態もない夢のために平気で弱者、友人までも踏み付け殺す!! その口が夢を語るな、虫酸が走る!!」
――正真正銘の、化け物――
サタンの中で何かが砕け散った気がした。
とにかく、どんな形でもいい、この腐敗した世界を壊し、みんなで達成感を胸に笑い合うのが夢だった。
その夢のために今日もかつての友人を殺した。
一緒に夢を目指す仲間たちも沢山の傷を負った。
そうして一緒に笑うべきだった者たちが一人、また一人と去って行く。このまま、みんな、いなくなってしまうのだろうか。
これでは、一体なんのための夢だったのか分からない……。
「いい加減にして!!」
突如リリスが大声を張り上げた。
「貴方の話の内容、私には殆ど分からなかったけど、でもサタンさんは絶望の象徴なんかじゃないってことはハッキリ言える!! 何が『裏切った』よ。夢を与えてくれたサタンさんに向かって誰もそんな風に思ってないわ!! 少なくとも魔界のみんなは思っていない!! だから今もこうして一生懸命に戦っているの、私だってそうよ!! それが分からないの!?」
「リリス……!」
決して見失ってはいけないものを見失っていたことにサタンは気付かされた。そうだ、みんなはまだ戦っている。苦しいのも哀しいのも自分だけではない。みんなもそうだ、それでも夢を叶えるために戦っている――――。
「貴方と神様はそうやって自分可愛さに誰かに責任を押し付けることしか考えないからいけないんだ!! レヴァさんのことまで怪物呼ばわりして許せない!! いつも全部そうやって二人のせいにしてきたのね!? そんな気持ちでいるから世界はこんなになっちゃったのよ!! 絶望は全てを諦めた自分自身の弱い心のせいよ、貴方たちの身勝手な絶望に私たちを巻き込まないで!!」
リリスは思いの丈を精一杯に叫んだ。自分は今ここで死ぬかもしれない。ならば、せめて言い残すことがないよう全て吐き出しておきたかった。
沢山の夢を見せてくれたサタンたちを信じたことに僅かの悔いもない。この想いが伝われば、それでいい。
一応の希望として、あわよくば敵将の心変わりをと願ったが、それはやはり流石に無理のようだ。リリスの決死の想いを耳にしても彼は何が面白いのかニヤニヤと笑っているだけ。何も胸に響かなかったことは一目瞭然である。
「身勝手な絶望ときたか。ならばこっちは身勝手な革命に私たちを巻き込むな、と言っておこう」
言うとラファエルは槍の切っ先を真っ直ぐリリスに向けた。
「しかしまあ、どれだけ連中に毒されたやら随分と吠えるようになったもんだな、女。私に楯突くとは良い度胸だ。その勇気に敬意を表して、この神より授かった槍で直々に命を絶ってやろう。泥人形如きには勿体無い死に方だ。光栄に思えよ」
「わ、わ、私の、私の名は女じゃなくてリリスよ!! ちゃんと覚えて!!」
瞬間、リリスは自分に向かって真っ直ぐ殺意が向かってくるのを察した。
全ては本当に一瞬だった。
ラファエルが地面を蹴る音、そして目の前まで迫ってきたことを知らせる風圧。
――刺される――!!
咄嗟に目を固く閉じ、覚悟を決める。と、何か凄い力に身体を横に弾き飛ばされた。
「きゃあっ!?」
成す術なく地面を転がり、一体何事かと慌てて顔を上げると……自分の代わりにラファエルの槍を腹に受けたサタンの姿があった。
彼が、身体を張って庇ってくれたのだ。
「あんな泥人形如きを庇うとは焼きが回ったものだな、サタン!!」
「うるっせーよ、女虐めてるヤツ見るとどーしょもなく腹が立つんだよ俺は!!」
言い放つとサタンはギリギリと歯を食い縛った悪鬼の形相で槍に貫かれたまま、痛みは疎か傷口が広がることもお構いなしにラファエルへ向けて突進した。
「なに!?」
「ぶっ壊れろオラァアアア!!」
不意を突かれ隙の生じたラファエルの腹に向かってサタンはそのまま岩をも砕く渾身の拳を叩き込んだ。爆発音にも似た鈍い音が響き、ラファエルの口からゴボリと血が吹き出す。この吐血は内臓を派手に破壊された証である。
「ゴホッ!! あ……が……っ!!」
端正な顔を歪め、ボタボタと血を吐きながらラファエルがフラフラと後退する。彼が手を離したおかげでサタンの腹に突き刺さっていた槍も姿を消した。
追撃チャンスだ。
(動け、俺の身体!!)
リリスのおかげで右手一本を治癒する時間は稼げた。だが今のパンチ一発で限界だったのか、また己の右腕は力無くブラリと垂れ下がって言うことを利かなくなってしまった。
そうこうしている間に目の前でラファエルは血を吐き、苦しげな息をしながらも再び槍を何処からともなく取り出して握り直し、こちらを睨みつけてきた。まだまだやる気充分だ。
(確かな手応えはあった……。内臓はペチャンコで肋骨もバラバラに砕けてるはずだ。重傷同士、これなら少しは互角に渡り合える…………とは思えないなコリャ)
冷静に戦況を分析している途中でサタンは多量の血を口から吐き出してしまった。先程の無茶が祟ったのである。
ふと、またリリスが鞭を構えて間に立ち塞がった。
「サタンさん!! あ、あとは私が……、私が戦います!!」
……なんだか、ラファエルだけじゃなしに彼女もやる気満々である。ヘロヘロなサタンを心配してか、ひょっとしたらラファエルが深手を負ったことでこれなら後はイケると思ってしまったのか、どちらにしろ考えが甘いことには変わりない。
「ええ!? よ、よせやめろ危な……ゴボェェェ!!」
やめろと言いたいが血が喉に込み上げて上手く喋れない。
ラファエルの目は本気も本気だ。深手を負った今の彼には余裕が無い。今度こそ下手に絡めば平気でリリスを殺すだろう。っていうか、間違いなく殺す気だ。彼がトンデモなく狂気に歪んだ笑みをリリスに向け、今まさに槍の矛先を定めたのが見えた。
「リ、リリス……。良い子だから、俺の言うこと聞いて下がれ……!」
「でも、サタンさんもうボロボロじゃないですか!!」
「いいから下がれ!! 下がらねーと俺がテメーをぶち殺すぞ!!」
「っ……」
ここまで拒否されては仕方がない……。リリスは肩を落としてサタンの後ろへ走り下がった。それとラファエルが突進してきたのはほぼ同時のことであった。
仕方なしに真っ直ぐリリスを狙っていた槍へ向かって左肩を差し出す。暫く徹底的に左腕が使い物にならなくなるが、リリスを守れるなら判断に迷っている場合ではない。
「ぐあ……っう!!」
激痛に呻きながらサタンは頭を巡らせた。さて、どうするか。彼に炎は効かない。右腕はまだプラプラ、両足は辛うじて健在だが、振り上げたところで容易に避けられ、重たい反撃を食らうことは目に見えている。
此処は一つ、下手に前に出るのはやめて時間稼ぎの肉の壁となっておいた方がいいかもしれない。
覚悟を決め、サタンは簡単には槍を抜かせまいと左肩に力を入れた。
「っ……なんの真似だ?」
容易に抜けると思った槍が抜けず、ラファエルの眉間に皺が寄る。
「我慢比べの誘いだよ……。面白そうだろ……?」
「お前の提案は、いつも下らないな」
言うとラファエルはサタンの身体を後ろに蹴り飛ばし、その勢いで槍を引き抜いた。そして何処を突いてやろうかと矛先を定めていた一瞬のことである、突如真っ黒な突風が辺り一面に吹き荒れた。
「なんだ!?」
声を上げ、風に気を取られている間に何か黒い塊が光の速さでラファエルに突進し、そのまま彼の身体を岩壁に強く叩き付けた。
「お……、遅ぇよレヴァイア!!」
よくよく見て確認するまでもなかった。バアルが残した結界内へ容易に侵入出来る黒い風となると、彼しかいない。
「遅刻して良かったあ!! 美味しい役が回ってきちゃったよコレ!!」
呻くラファエルの首を片手で締め上げながら返り血で身体を赤く染めたレヴァイアが陽気に笑う。どう見ても余力充分だ。
「馬鹿野郎……! こっちは死ぬほど大変だったんだぞ……!」
「そう言うなよ。俺だってこれでも死ぬほど急いだんだからさ!」
言いながらレヴァイアはフレイルを振り回してラファエルの右脚を叩き潰した。血肉が飛び散り骨が砕ける凄惨な音と耳をつんざく悲鳴が轟く。リリスはあまりの痛々しさに思わず目を背けた。レヴァイアと対峙したものはその時点で死を意識する……その真の意味を知ってしまった気がした。
あの武器は、残酷だ。まるで卵の殻を叩き潰すように魂の容れ物を打ち砕く。しかしそれだけの威力の武器を躊躇なく振るうということは、彼の戦う意志が本物であることの証明。
生半可な決意で、あの武器は振るえない。
「そろそろ隠すのは諦めてお得意の甲高い声で神に助けを乞うたらどうだラファエル。ヤツなら本気出しゃ1秒で此処に来てくれるはずだぞ」
ニヤリ笑うとレヴァイアは続けざまにラファエルの左脚を打ち砕いた。
「ぐあああああ!! ……っ、図に乗るな、化け物……!」
首を締め付けるレヴァイアの腕に爪を立てる、これだけが今ラファエルの出来る最大の反抗であった。しかしレヴァイアはそんなもの痛くも痒くもないとばかりに締め付けの力を増していく。
「もう引け、ラファエル。勝負はついた」
鋭利な視線を濁さぬまま静かに言い放ち、レヴァイアは僅かに手を緩めた。
「ゲホッゲホッ!! ……引け……? 引けだと……? 誰に向かって言っている……!」
当然、素直に従うラファエルではない。するとレヴァイアは無言のままにラファエルの左腕付け根をフレイルで叩き砕いた。ラファエルの切り裂くような悲鳴が辺りに木霊す……。
リリスは両手で固く耳を塞いだ。誰が発したものであろうと関係なく、やはり悲鳴というのは耳にして気持ちの良いものではない。
「いっそ、殺せばいいだろう……!? 何故、殺さない……!? その、甘さが……後に無駄な犠牲を増やす結果になるというのに……!」
苦しい息の中でラファエルが言葉を紡ぐ。
「勘違いすんな。お前にも贅沢な選択は許されないってことだ。お前も世界の混乱の一端を担ったんだよ、簡単に死ねると思うな」
「なんだと……? 貴様がそれを言うか……! 絶望の源が何を……っぐああああああ!!」
レヴァイアのフレイルが今度はラファエルの右腕を叩き砕いた。一切の言い訳も要らぬというメッセージである。普段は無邪気な彼がこうしていつになく冷酷な態度を取るのは親友二人を血塗れにされたことに対する怒りに他ならない。
「二度も言わねーぞ、ラファエル。まだ続けるって言うなら遠慮なく地獄を見せてやる。つーかよ、なんでそんなに意地を張る? 創造主に平然と媚を売れるお前だ、怪物に頭下げるのも簡単なことだろう?」
如何にも人外であることを思わせる金色の瞳と縦長の黒目が冷たくラファエルを見据える。
ラファエルは思った。神の加護の元に生きているにもかかわらず身体の奥底から悪寒が走った、これはまだ自分が到底この化け物に敵う力を備えていない何よりの証であると――――。
「……分かった……、お前の提案を受け入れる……」
悔しいが、こう答える他ない。
「分かってくれて嬉しいよ」
レヴァイアが無表情のまま首を掴んでいた手を離す。だが、もう一方の手はまだしっかりとフレイルの鎖を握り締めたまま。騙し討ちは通じないという無言のプレッシャーである。
「ゲホッゲホッ!! ……案ずるな、この手では槍など握れない……」
岩壁にぐったりと寄り掛かり、ラファエルは潰れた両腕に目配せをした。
「レヴァイア、サタンはあの通りお前に少しずつ近付いているぞ。どう思う?」
「どうも思わないね。兄貴はどうあっても希望のままさ。俺に取って変わることは絶対に無いよ。少なくとも、俺はこの立ち位置を譲る気なんか無い」
「それならいいがな。……始まりが消え、終わりだけになった世界、か……。面白そうだから見てみたい気もするが、それはきっと主の望みではない……。また会おう」
また会おう――ニヤリと笑ってラファエルは血溜まりだけを残し、音もなくその場から姿を消した。そしてそのまま撤退命令を下したのか遠くに見えていた残りの天使たちも次々と姿を消していく……。
「終わった、の……?」
ことの成り行きを見守っていたリリスが呟く。
「ああ、終わったっぽい……」
こういう時の我が弟は恐いなあ〜と思いながら同じくことの成り行きを見守っていたサタンが頷く。
気絶しながらも戦いの終わりを察したのかバアルの張り巡らせた結界もゆっくりと消え始めた。刹那、まだ戦場に残っていた天使たちが「名を上げてやる!!」「手土産だ!!」などと口々に言いながら一斉に羽を広げてサタンらに飛び掛ってきた。
「んっだよ、大人しく帰っておけばいいものを!!」
まあいい、一気に風で切り刻んでしまえば済む話だ。レヴァイアは意識を集中した……その最中のことである。誰が予想しただろうか「ええーい!!」の勇ましい掛け声と共にリリスが天使に応戦しようと崖の先端に駆けて行ってしまったのだ。
「ええー!?」
まさかの行動に目を丸くするサタン。
「ちょっ!? リリッちゃ〜ん!?」
レヴァイアも思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。あれではリリスを巻き込みそうで下手に炎や風を起こせない。
とにかく引っ込んでもらおう。
サタンとレヴァイアは頷き合い、行動を起こそうとした。だが――――心配は要らなかったようだ。
「私だって戦えるんだからああああああー!!」
叫びながらリリスは凄まじい鞭さばきでもってこちらに向かってくる天使たちを次々と叩きのめしていった。いやはや凄い凄い。リリスの腕もなかなかのものだが、それに加えてサタンの加護が宿った鞭である。天使たちは一叩きされるとその衝撃で全身を火に包まれ、身体が焼ける痛みに叫び灰になりながら次々と崖の下へ落ちていった。
「兄ちゃん、これだけ出来るコなんだから素直に助太刀頼んでみても良かったかもね……?」
「ああ、俺もそう思った……」
リリスの鞭捌きを目の当たりにしたサタンとレヴァイアが小声でコソコソ呟き合う。
「ちょ、あの女ヤベーよ!! ただの泥人形じゃねーよ!!」
「流石あのカインの嫁候補だっただけあるわなあああ〜。せっかく撤退命令出たんだし無茶は良くないよ、帰ろう!」
「おお、そうだな、それがいい!!」
まさかの反撃に恐れをなした天使たちは奇襲を諦めて大人しく帰っていった。
荒れ地に残ったのは悪魔たちと死体のみ。
そうして、半日に及ぶ壮大な戦争は幕を閉じた。
「終わった、のか……?」
「ああ、終わった! 終わったんだ! だって天使みんな逃げてったぜ!」
「だよな、じゃあ終わったんだ!!」
「やったー!! アイツら逃げてった! ザマーミロ、俺たちの勝ちだー!!」
崖の下で悪魔たちが一斉に歓声を上げた。
「良かった……」
無事に天使たちを追い払い、歓声を上げる悪魔たちを眺めてリリスもホッと胸を撫で下ろす。……んが、安心するにはまだ早かった。
「リーーリーースーー……」
背後から響く怒りに満ちた声……。恐る恐る振り向くと、そこにはニョキッとツノを生やした血塗れのサタンがフラフラしながらこちらに歩み寄ってくる姿があった。
どう見なくても、確実に怒っていらっしゃる。
「あっ、サ、サタンさん……! あ、あの、えっと、えっと……」
再三に渡って彼の言いつけを無視してしまったのだ、怒られても文句は言えない……。慄いている間に目の前まで迫ってきたサタンがいよいよこちらに手を伸ばしてきた。頭を叩かれると思い、咄嗟に目を閉じる。
しかし、その予感は外れた。
サタンの大きな手は叩くどころかリリスの優しく頭を撫で回す。
一体これはどういうことか……。恐る恐る顔を上げると、目が合った途端にサタンはツノを引っ込め、ニッと白い歯を見せて笑った。
「ありがとう」
陽気に放たれた一言。瞬間、リリスの胸の奥で何かが弾けた。
「サタンさん……。怒って、ないんですか……?」
どうしたのだろう、胸が苦しくて顔が熱い……。
「怒る? まさか!! そりゃ無茶しやがるなーとは思ったけど!!」
「だ、だって、下がらねーと俺がテメーをぶち殺すぞとまで言ってたし……」
「え!? 俺そんなこと言った!? 悪い、覚えてねーや。きっと慌ててたんだな! ゴメン!」
「お、覚えてない!? 私、凄くショックだったのに……」
アハハッと笑って誤魔化すサタン。これにはリリスも開いた口が塞がらない。
「うわ、兄貴最悪」
ちゃっかり向こうで話を聞いていたレヴァイアがバアルを抱き起こしながら意地悪く笑う。
「うるさいよレヴァ君!! 覚えてないものは仕方ないでしょーが!! でもこうして素直に謝ってるでしょ!! ……とにかく、今日はいっぱい助けられちまったな。本当にありがと」
気を取り直してサタンがまたニッと微笑む。
「そんな……。助けられたのは私の方です……。私の方……!」
リリスは、まだ痛々しいサタンの腹部と左肩の赤黒い傷を見やった。これは、彼がリリスを庇ったがために受けた傷だ。自分がしゃしゃり出たせいで彼に余計な傷を負わせてしまった。
「わ、私……私……っ!」
「おいおいおいおい泣くなよリリス!! 俺なら大丈夫、こんな傷すぐ治るから気にすんな!! んなコトよりお前が無事で何よりだよ。怪我はないか? 膝とか擦り剥いてねえ?」
「サタンさん……!」
どうして彼は、立っているのもやっとな状態なのにこうして笑ってくれるのだろうか。血を失いすぎて顔なんか真っ青だ、本当なら他人の心配をしている場合ではない。
「わ、私は、大丈夫です……! だ、だって私、何も出来なかった……! サタンさんが大変だった時も何も出来なかったし、バアルさんの時なんかもっと何も出来なくて……! 岩陰に隠れて、見てるしかなかったんです、私……! 血の色とか、苦しそうな声とかにビックリして足が竦んじゃって……! あ、あと、なんかそこはかとなく雰囲気がアダルティーだったしで気まずくて本当、全然、助けに出て行けなくて……! それでもいざ行こうと思ったらバアルさんにダメダメされて足が凍っちゃったし……!」
リリスは涙の溢れる目を擦りながら胸に引っ掛かっていた素直な気持ちを吐き出した。吐き出すのに夢中でちょっとトンチンカンなことを言ってる自覚など無いままに。
「そうか……。でも、そこはかとなく雰囲気がアダルティーだったってなんだ!? あの二人どんな争いしてたの!?」
まず一番に引っ掛かったのがその部分であった。幾ら戦場だからといってリリスの前で盛大にハメを外す二人とは思えない。サタンは首を傾げた。
「あ……。あの、どうってわけじゃないんですけど、なんとなくそんな雰囲気が……。ラファエルさんがバアルさんを後ろから押さえつけて槍でズボズボ刺してたんですけど、こんなこと言っていいのかなあ……。それがなんか凄く痛々しいだけじゃなくて妙にアダルティーでした……」
「うーん……。その『槍』を『ナニ』に言い換えると大変なことが起こるね……」
横で聞いていたレヴァイアが当事者であるバアルを抱きかかえながらボソリ呟く。
「ナニでズボズボ…………レヴァ君その冗談はちょっと兄ちゃん聞き捨てならないよ!? 最低だよ!! 戦いが終わったばっかでテンション高ぶってるのは分かるけど、それでも言っていい冗談と悪い冗談があるよレヴァ君!! 何よりバアル様がお怒りになるよ、そんな話!! 今は気絶してるからいいけれどッ!!」
意味が分からず首を傾げるリリスとは違い何かを察してしまったサタンは顔を真っ赤にして声を荒げた。
「アハハハッ!! ま、とにかく気にしないでリリッちゃん。バアルは歩く18禁だからやたらアダルティーに見えちゃうの仕方ない」
「は、はい……」
本人が意識を失っているのを良いことに言いたい放題なレヴァイアである。とても先程まで目を血走らせ敵将の手足を粉砕していた男とは思えない。
「歩く18禁かあ……。色っぽすぎも困りものですね……」
言いながらリリスはバアルを心配して寝顔を覗き込んでみた。とても男とは思えぬ美しく穏やかな寝顔……。目が覚めたらなんと声をかけようか。怪我は大丈夫かと普通に労りの言葉をかけるか、それともあえて足を凍らせてくれたことへの不満を伝えてみようか……。なんでもいい、とにかく早く彼の声が聞きたかった。
「ああ、何かにつけて無駄にエロい声出すしな、そいつ……。って、そーいや聞くの忘れてたけどバアル大丈夫なん? まだ起きねーな」
「忘れてたって、そっちのが余程本人怒ると思うよ!?」
こちらにやって来て呑気にバアルの顔を覗き込むサタンへ鋭くツッコむと、レヴァイアは未だ目を閉じたまま動かない親友の頬を指で軽く突っついた。
「ん〜、大丈夫っつったら大丈夫かな。怪我は酷いけど普通に生きてるよ」
「そっか。……おーい、しっかりしろ18禁!!」
サタンが大きな声で呼びかける。すると、バアルの紫のリップグロスに彩られた唇がゆっくりと動いた。
「……じゅ……、純金のが、好き…………」
なんと、気を失っていたはずのバアルが目は閉じたままとはいえ確かに喋った。
「よし、大丈夫みたいだな! 良かった!」
満足気にサタンが頷く。こんな返事が出来るくらいだ、無事と判断していい。
「な、にが、大丈夫なもんか……! 黙って聞いてれば貴様ら言いたい放題言いやがってクソッタレ……! この怪我が治ったら覚えて…………ゴフッ!!」
言葉途中でバアルが盛大に吐血した。この大怪我にもかかわらず怒りで思わず力んでしまったためだ。傷を自ら圧迫してしまったのである。
「ああああ!? もう馬鹿!! サタンさんとレヴァさんが怒らせるようなこと言うからよ!! バアルさん、しっかりしてー!! 死んじゃ駄目ー!!」
リリスが慌て駆け寄ってバアルの口元の血をハンカチで拭う。しかしバアルはお礼も言わず、薄っすら開いた瞼から僅かに白目を覗かせて小さく痙攣するのみ……。
「バ、バアルーーーーーー!!」
友を想うサタンとレヴァイアの大きな声が戦火の消えた荒れ地一帯に木霊した。
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