【06:帰っておいで(4)】
ラファエルの槍によって受けた傷は治りが遅い。風に晒していては余計という判断でサタンとバアルは薬草で傷口を消毒し、不慣れな包帯を身体に巻きつけた。
此処はバアルの城の一室。サタンとバアルは時折疼く傷の痛みに顔を歪めながら二つ並んだベッドの上に腰掛けていた。
先程まで「んっもう、みんな私に戦場で何もさせてくれなかった!」と頬を膨らませていたリリスは三人が「ゴメンゴメン」とひたすら謝った甲斐あってやっと機嫌を取り戻し、お腹の足しになるものを買ってくると言って部屋を出て行った。戦いで疲れたサタンたちを思ってのことであろう。
窓の外はすっかり夜の闇に包まれている。とても静かだ。今日のあの凄惨な光景が全て嘘のように静かである。
「で、結論として歩く18禁というのは褒め言葉なんですか?」
腰まである長い髪の毛を後ろにまとめ上げ、包帯まみれの手で紅茶のカップを持ったバアルが眉間に皺を寄せる。彼は目覚めてからというもの、この通り超がつくほど不機嫌だ。
「はい! 何度も申し上げておりますが褒め言葉以外のなにものでも御座いません! 今のその包帯に身を包んだ裸体なんて正に! 正に退廃的かつ官能的でいらっしゃる! 歩く18禁と呼ぶに相応しい!」
同じく包帯グルグル巻きのサタンが必死にフォローをする。いやはや、なんだってこんな不機嫌なバアルと隣合わせの二人きりでいなければならないのか。こんなことなら買い物に出掛けようとするリリスをもっと必死に引き止めるべきであった。
「そうですか、褒め言葉ですか。そ、れ、な、ら、いいけれどね」
「んっもう、軽い冗談だったんですってばああああ〜! そんな怒らないでよー!」
一切目を合わせないまま紅茶を啜るバアルに向かってサタンは何度も何度も頭を下げた。
「怒ってませんよ、ちぃぃぃぃっとも怒ってません私!!」
「なに言ってんだよ、思い切り怒ってんじゃんか〜!!」
なんかもう、これでは治る傷も治らない気がする……。サタンは大きく溜め息をついた。
いやしかし、いつまでもふざけている場合ではない。こんなことよりももっとちゃんと言わなければならない言葉がある。ちゃんと、言わなければならない言葉が。
「あ、あの、さ……」
「なに?」
急に声色を変えたサタンに気付いてバアルがやっとこちらを向いた。
「あ…………。今回の戦犯、明らかに俺だよな……。ゴメン」
サタンは深々と頭を下げた。
迷いを抱えたまま挑んで勝利出来るほど戦争は甘くない。己のせいで戦いを不利に進めてしまったことをサタンは酷く悔やんでいた。もっと自分がしっかりしていれば、ラファエルの魂胆を読むことが出来た。レヴァイアに負担を掛けてバアルを危険な目に遭わせることもなかった。
「誰も絶望なんかしてなかったのに、馬鹿だよな、俺」
自分の弱い心が、同じ夢を目指す仲間を疑ってしまった。あわよくば今回の戦いで全てを終わらせる気でいたのに、台無しだ。
まだ追求しないでいてくれているが、バアルとレヴァイアはもっとサタンに対して怒りを露わにしていいはずである。だが――
「なんだ、そんなこと」
サタンの予想とは裏腹にバアルはクスクスと笑ってみせた。
「サタン、過ぎたことを悔やむなかれ。ラファエルに太刀打ち出来なかった私にも大いに非がある。貴方だけの責任ではないよ」
「でも……!」
「サタン、貴方はこれ以上私にラファエルに一太刀も浴びせることが出来なかったことを悔やませたいのですか?」
自分を許せないのはお前だけじゃない……。そう言い聞かせるようにバアルが微笑む。
「いや、それは無い。ゴメン……」
サタンには返す言葉が見つからなかった。これ以上は何を言ってもお互いの傷を抉ることにしかならない。
「ならば良し。私にも責任はある。あの子があれほど神の加護を一身に受けていること、今の今まで気付けなかった」
「……あの子、ねぇ……」
あの子とはラファエルのことだ。敵対してしまったとはいえバアルにとってラファエルは未だ可愛い『妹分』という認識なのだろう。呼び方で分かる。
「あの馬鹿、リリスの前だというのに私を咄嗟に『姉さん』と呼んだ……」
言ってバアルは「彼女が気にしていないことを祈るしかないね」と苦笑いした。
「ずっと隠す気でいるのか?」
「さあ、どうかな」
サタンに問われてバアルはまた苦笑いした。
「誤魔化すなよ。リリスは俺らの仲間だ。俺らのために命を投げ出してくれた立派な仲間。そうだろう?」
「ええ、それは勿論です。あの娘は私のためにも命を懸けようとしてくれた。申し訳なくて断っちゃったけどね。あれは嬉しかったな」
「だったら……!」
黙っているんじゃない、と言いかけてサタンは口をつぐんだ。言い過ぎたくはなかったからだ。
そうして気まずそうに頭を掻くサタンを見てバアルは優しげに微笑んだ。
「貴方が仲間に秘密を抱えることを快く思っていないことは勿論分かっていますよ。ただ、今はまだタイミングではない気がするんです。彼女自身、興味本位でそういう話は聞きたくないと前に言っていたしね」
言いながらバアルは包帯だらけの手で紅茶のおかわりをカップに注いだ。ハーブティーの良い香りが部屋に漂う。
「心配しないで。近いうちに必ず明かすつもりです。あの娘ならちゃんと話を聞いてくれますね」
「ああ。そんで、ちゃんとお前に共感してくれるよ、きっと」
サタンの言葉に「だといいけど」とバアルが苦笑いする。
「不思議ですね、リリスって。全てを受け入れてくれるような強さをあの娘からは感じる……。ああいう娘を本当に『女』って言う気がします。貴方が常に気に掛けるのも分かるなあ〜。外見も中身も可愛いもの」
ニヤニヤニヤニヤ……。なにやら企んでいても不思議ではない笑顔である。
「あっ、テメ狙うなよ!? 俺が先に狙ったんだからな!! 後から目ぇつけて狙うなよ!?」
「え〜? 恋は早い者勝ちではありませんよサタン。上手く手を出したもの勝ちです」
「ちょ、ヤメテ!! リリスは純真なんだから変なことしないでよ絶対!!」
「はい、多分」
「多分!?」
言うとその反応が面白かったのかバアルは腹を抱えて笑い出した。んが、間もなくして彼は笑顔を盛大に歪め「痛い〜!!」と絶叫する羽目になった。傷がまだ癒えていないにもかかわらず大声で笑ってしまったことが身体に響いたのである。
「ザマミロお前綺麗な顔してエロいことばっか考えてる罰だぜ畜生め」
と、ここでサタンはもう一つ引っ掛かっていたものを思い出した。
「なあ。お前、俺にも隠しことしてないか? 今日のあの姿には正直、驚いた」
あの姿、とは彼が眼球の白目や血の赤を黒く染め上げたあの姿のことだ。サタンも一瞬だが、あの狂気じみたバアルの姿を目にしていた。
「ああ、あれは秘密ではありません。なにせ私も初めて経験したんですから。自分でも何が起こったやらでねぇ〜……。うわ絶対に神の元になんか拉致られたくねえって思ったら自分の血が真っ黒になったもんだから実は凄く驚いた」
そしてバアルはしみじみ、といった風に遠くを見つめた。
「まあでも、私はどうあっても私ですよ」
呑気な表情から一転、凛とした金色の瞳がサタンに向く。
「貴方も同じ。貴方も、どうあっても貴方です。ツノが生えようが歯が鋭くなろうが、貴方は貴方。私たちの希望だ。それだけは忘れないでいて欲しい」
「聞こえてたのかよ」
「ええ。薄っすらとだけど。……そろそろ紅茶くらい飲んだら?」
バアルがサタンの分のカップを指差す。折角入れてくれたお茶だがサタンはどうも気か進まず手を付けていなかった。しかし、それはそれで失礼になる。「じゃあ頂くよ」と告げ、サタンはとりあえずお茶を口にした。
「自分を責めるのは、やめなさい。次に勝てばいい。恐らく近いうちにまた来ますよ向こうは」
「そうか……」
近いうちにまた来る……。迷惑な話だが、今回のリベンジを果たしたいサタンにとっては都合がいいかも分からない。
「バアル、俺ちょっと出掛けるわ」
思い立ったら即行動。ベッドから降り、サタンは手早く何処からともなく取り出した服を着た。
「あら、久々にお尻見ちゃった。出掛けるって、その傷で何処へ?」
「しまった、久々にお尻見せちゃったッ!! ……行き先は、まあ適当に。軽く夜風に当たってこようかなって。じゃ、そーゆーことで」
告げると、サタンはまるで逃げるようにその場から姿を消してしまった。
「……ふーん。軽く夜風に、ねぇ……」
大体察しはつくけどね、と一人ほくそ笑むバアル。と、そこへ入れ違いでレヴァイアが何処からともなく帰ってきた。
「たっだいまー! って、アレ? 兄貴は?」
「ああ、今さっき夜風に当たりたいって言って出掛けちゃった」
「なんだよ、腹減ってると思って折角サンドイッチ買ってきたのにぃ〜」
頬を膨らませながらレヴァイアが手に持った大きな紙袋をテーブルに置く。どうやら相当な量のサンドイッチを購入してきたようだ。
「まあまあ、サタンが帰ってきたらゆっくり食べましょう」
「そーだな。しょーがねぇ、待つか……。リリッちゃんもまだ帰ってきてないみたいだし」
「そういえば遅いですね……。あ……。レヴァ君、ゴメンね。一人であれこれやってもらって申し訳ない……」
負傷者の回収や戦死した仲間の把握、残された者への伝言、エトセトラエトセトラ……そういった嫌な後始末を全て彼一人にやらせてしまった。レヴァイア本人が「傷が治ったら自分が行く」というサタンとバアルの言葉を蹴ってのことだ。これは怪我をしている二人に無理をさせたくなかったことと、帰ってこない仲間がどうなったのか知らせを待つ者をあまり待たせるわけにはいかないという彼の優しさである。だが、彼は本来『こういうことを最も苦手』としている。相当、気分を落ち込ませたことは想像に難くない。
バアルは胸が痛んだ。戦地で役に立てなかったのだ。せめてこういう仕事くらいは自分が引き受けたかった。やはり、彼が一人で行くと言った時にもっと待てと言い張るべきだったろうか。今日はとことん後悔に尽きない……。
「気にすんな。俺なら大丈夫。知らせを聞いたみんなも大丈夫そうだったよ。覚悟を決めたヤツらばっかだからな。一人には泣かれちゃったけどね……。んでも心配ない」
「そう……」
こちらへ心配かけまいと強がっているのかいないのか、ニッと歯を見せて笑うレヴァイアにバアルは頷き答えるしかなかった。
「ああ、あとね、みんな喜んでたよ。お前が目を覚ましたって聞いて」
「へっ?」
「なんだよ、聞こえなかった? よ、ろ、こ、ん、で、た、って。流石は支持率120%の王様だな! お前、自分が思ってる以上にみんなから信頼されてるんだぜ。これを機に自分をお飾りの王様だなんて言うのはやめるんだね」
魔界に堕とされて生活基盤を自分たちで一から創造するにあたり、具体的な指示や規律を作り上げて人々をまとめたのは「適当にやればどーにかなる!」なんて言ってばかりいたサタンやレヴァイアではなく彼、バアルであった。今までは湯水のように溢れていた食料や物資に限りが出来たことから貨幣という概念を用いたり最低限の秩序を保つために見た目18歳未満はエッチなことなるべく控えよう云々カンヌン……、とにかく彼の様々な提案のおかげで今も街は平穏無事に機能をしている。そのことに街の住人たちはしっかりと感謝の念を抱いていた。
「そ、そうですか……。あ……。うん、分かった……」
なんだか照れ恥ずかしい気分になってバアルはプイとそっぽを向いてしまった。それを見て「あ、デレた」とレヴァイアが意地悪く笑う。
「デレてねーし!!」
思わずキャラではない荒っぽい言葉が出てしまったバアルである。
「またまたぁ〜。ヒヒヒッ。……さてと! ちょっと俺も一服ついでに夜風に当たってくるわ。お腹減っちゃったもん、サンドイッチ目の前にして我慢してられそーにないっ!」
「元気ですねえ貴方……。ま、いいですよ、行ってらっしゃい」
「んっ! あっ、お前一人でサンドイッチ先に食うなよ!?」
「お前は私がそんな品のない男と思ってか!? 先になんか食べないよ、お腹の穴ボコ塞がったばかりだしねっ!!」
「ならいいや。んじゃ行ってきまーす!」
軽く手を振り、レヴァイアは風のようにこの場から姿を消した。
「全くみんなして忙しいんだから」
なんだか一人だけゴロゴロと休んでいるのが申し訳なくなってきた。だが正直、身体はとっても痛い。まだ塞がっていない傷が数ヶ所ある。これでは動いたら動いたでサタンとレヴァイアに「無茶すんなドM!」と怒られるのがオチだ。
これじゃあ仕方がないよなあ……と、バアルがのんびり紅茶を啜ると、今度はそこへ大きな大きな紙袋を3つほど抱えたリリスが帰ってきた。
「ただいま戻りましたあ〜。遅くなっちゃって……あれ? バアルさん一人ですか?」
(うむ、なんだか私も忙しい。良かった!)
よく分からないが変に安心してしまったバアルである。
「ええ、二人は夜風に当たりたいと言ってちょっと出ていきました」
「そうですか……。早く戻ってこないかなあ。お菓子屋さんから焼きたてのクッキーいっぱい貰ったんですよ。みんなで食べましょう!」
「ほう。どーりで袋から良い匂いがするわけだ。その大袋全部クッキー?」
「あ、いえ! あと紅茶の葉っぱとかワインとか果物とか〜……。わ、私はそんなに要らないって遠慮したんですけど、街の皆さんが持っていけ持っていけって……」
だから断るのも悪いし〜とモゴモゴ言いながらリリスは袋の中身を順にテーブルに広げていった。
「成る程ね。それだけの量だから持って帰ってくるのに重かったでしょう、お疲れ様」
これはきっとリリスの活躍を聞いた街の人々が労いの気持ちを込めて渡した品々なのだろう。取り囲まれてアレもコレもと押し付けられた姿が目に浮かぶ。帰りが遅かったのも納得だ。
「いえ、そんな! 皆さんのお礼の気持ちだそうなので全然重くなかったです!」
言ってリリスは屈託のない笑顔を浮かべてみせた。
(可愛いことを言う。これはサタンが惚れるわけだ)
一人納得のバアルである。
しかしリリスはテーブルに並べた美味しそうなお菓子を見るや笑顔を曇らせた。なに、理由は容易に察しつく。
「リリス、新しい紅茶を入れてくれませんか。せっかくの焼きたてだ、先に少しくらい摘んでもバチは当たりません。ちょっと食べちゃいましょ」
瞬間、曇っていたリリスの瞳がパッと輝いた。
「バアルさん! 私、その言葉を待っていました! 紅茶ですね、お任せあれ!」
「そのお腹の虫の音を聞けば誰だって察しますよ。素直で大変よろしい」
バアルはいそいそとオヤツの準備に取り掛かるリリスを微笑ましく見つめた。戦争開始してから今に至るまで食事という食事をまともにとっていない。お腹が空くのも当然だ。
「サタンとレヴァイアは帰ってくるの遅そうだし気にせず先に食べましょう。……優し過ぎるのが欠点だよ、あの二人は……」
思わず本音が零れた。聞き逃さなかったリリスが「え?」と目を丸くして顔を上げる。
「あ、ううん、なんでもありません。ただの独り言。気にしないで」
笑ってその場を誤魔化し、バアルは窓の外に目を向けた。そして気付いた。今日は、満月だ。
夜の闇に包まれた荒れ地は昼間の喧騒が嘘のようにシンと静まり返っていた。戦争などただの悪い夢だったんだと思えるほどに。
全て本当に夢であったなら、どれだけ良かったことか。だが崖の上には未だおびただしい血痕や自分たちが身体を叩きつけたことによって歪に崩れた岩肌があり、此処から見渡す荒れ地には魂を留める術を失った亡骸が無数散らばっている。
夢などではない。確かに今日、戦争があった。
一人、昼間の集合場所となった崖の上にやってきたサタンは「安らかに」と告げ、精神を集中させて見渡す限りの荒れ地一帯にそっと炎を放った。戦地に残された亡骸を灰にするためである。この凄惨な光景を、いつまでも月の下に晒してはおけない。何処か遠くへ旅立った彼らも、いつまでも自分たちの亡骸だけがこの忌まわしい星に残ることなど不本意であろう。
ゆえに、この炎は戦い散った者たちへの、せめてもの『はなむけ』である。
サタンは崖の先端に立ち、ゆっくりと無数の亡骸が焼け、灰になっていく様を無言で見つめた。
最中、まだ天使だった頃に人々から浴びせられた言葉が脳裏を過ぎった。
『お前、希望の子なんだろ。だったらあの狂った神様をどうにかしてくれ』
『どうして何もしないんだ、その希望の称号は偽りか』
『無理だって言うなら希望を見せてくれなくてもいい、その代わり、俺たちを殺してくれ』
『もう、生きていたくない』
『俺は崇拝する者を誤っていた。お前なんかより絶望の化身のが余程役に立つ』
……思い出に浸っているうちに、亡骸は全て綺麗に灰になった。もういいだろう。炎を沈め、彼らの最後を見守る。
誰が言い始めたか知らないが、魂は容れ物を失うと空に登って流れ星となり、次の大地へと向かうという。
頭上には満天の星空。もし流れ星となって流れていくという話が本当ならば、次に辿り着く大地ではどうか幸せになって欲しい。
祈り、サタンは目を伏せた。……すると、何処からともなく真っ黒な風が吹いて荒れ地に広がっていた灰を高らかに空へと巻き上げた。まるで、旅立ちを後押しするように。
真っ黒な風……。振り返らずとも背後に音もなく現れたのが誰か察しがつく。
「どうして一人で来た。一声くらい掛けてくれたっていいだろよ」
やっぱりレヴァイアだ。
「どーして俺が此処に来てるって分かった?」
「そりゃ分かるさ。俺は弟だよ? 愛しのお兄ちゃまの行き先なんて軽〜くお見通し」
言いながらレヴァイアはサタンの隣に並ぶと舞い上がっていく灰を見つめながら煙草を吸い始めた。……サタンは思った、煙草を口にするとさり気なく風下に立つあたり彼の性格が滲み出ていると。
「俺もそれ吸い始めてみよっかなー! いい気晴らしになるんだろ?」
「アハハッ。よしなよ、兄貴には似合わないって。ムセるのがオチだろし!」
「ちぇ〜っ!」
ニヤニヤと笑われ、サタンは戯けて唇を尖らせた。……だが、またすぐに気分は沈んでしまった。
「今日、こっちは何人失った……?」
サタンはまだ今回の戦争の全貌を把握し切れていなかった。出来れば目を背けたいが、仮にも魔界の帝王。立場上そんなことは到底許されない。
「66人だ。そんで向こうは333億3333万の軍勢を殆ど失った。どう思う?」
慣れた手つきで長くなった煙草の灰を落としながらレヴァイアが淡々と答える。
「66人……。あの数の軍勢を相手にしてそれだけの犠牲で済んだとみるか、みないか……。無意識にそんな計算しちまう自分が心底嫌になるよ。本当は誰一人欠けちゃいけねーのにさ」
「いやいや。そーゆー自覚があるだけ兄貴は良いリーダーだと思うよ、俺は」
曇りのない笑顔がこちらを向く。サタンもつられて少し口の端が上がってしまった。
「そーいや、お前とこうして二人きりで話すの久し振りだな」
「そらアンタが最近リリッちゃんに構いっきりだったせいだよ。俺はいつだって大歓迎なのにさ」
言いながらレヴァイアは短くなった煙草を落として踏みつけると、またすぐに新しい煙草を口に咥えてマッチで火をつけた。
「そら悪う御座いました。……俺がしっかりしてたら、その66人は死なずに済んだのかな……?」
ポツリと漏れてしまった一言。不愉快に思ったのか今の今まで飄々としていたレヴァイアの眉間に深く皺が寄る。普段たられば話はやめろと言っているサタンからそんな話を持ち出したのだ。当然の反応だろう。
「この頃、悔やんでばっかりだ」
今日築かれた灰の山も、自分が最初の反乱に成功していれば決して生まれなかったはずのものだ。サタンは深く溜め息をついた。
悔やんでも悔やんでも、足りない。詫びても詫びても、心は晴れない。
「そんで、お前のこと少しだけ分かった気になってる自分がおこがましい……」
お前さえいなければと人々の憎しみを一身に浴びる気持ち、大いなる力を生まれ持ったがために期待をされる重圧、守れたはずのもの守れなかった悔しさ、彼はサタンより先にその何もかもを経験している。それも、かなり手酷い形でだ。
「もうやめろサタン。あんま自分を責めるんじゃねーよ。責任なら全部俺にあるんだ」
不機嫌そうにレヴァイアは溜め息がてら煙草の煙を吐いた。
この話は、もうやめた方がいい。
「な〜んで俺らってこうなんだろな?」
サタンは思わず苦笑いをしてしまった。
いつもこうなのだ。サタン、バアル、レヴァイアの三人は誰かが「ゴメン」と頭を下げると「いや、俺のせいだから」「違う、俺のせいだ」と言い張り、矛先を徹底して自分に向けようとする。負を背負うのは、自分一人で充分だと。
「さあね〜。類は友を呼ぶってヤツかな、きっと」
短くなった煙草を捨ててレヴァイアはまたも続けざまに新しい煙草を口に咥えた。これは、彼が苛立ちを覚えている何よりの証拠だ。分かっている。それでも、今のサタンには弱音を止めることが出来なかった。
「でも……。今回は……、マジで、すまなかった。ゴメン……。俺、何を迷ってたんだろな。みんな俺なんかを信じてちゃんと戦ってくれてたってのに……。リリスが助けてくれなかったら、俺あのままポキッと折れてた気がする」
頭の中がグルグルしている。
「だけど、なんか今日は分かんなくなっちまったんだよ……」
頭の中が、グルグルしている。
「だって……、お、俺……俺は……」
自分に出来ることは何かを必死に考えて、やっと辿り着いた答えが『神へ反旗を翻す』ことだった。
なんでもいい、行動を起こしたかった。そして、あわよくばこの腐敗した世界が変わればいいと願った。
実際、変わりはした。――――悪い方向に。
「俺……! 俺は……、こんなことがしたかったんじゃない……! こんなことがしたかったんじゃないんだよ……!」
取り返しのつかない、大失敗をしてしまった。
反旗を翻した結果は見ての通り、ただ屍の山を増やしてしまっただけだ。
「俺はこんなことがしたかったんじゃない!!」
不完全な容れ物に魂を封じた狂戦士の大量生産や、かつての友人同士が殺し合う光景……。こんな未来は僅かも想像していなかった。
「こんなことがしたかったわけじゃないんだ……っうああああああああああ!!」
頭を掻き毟ってサタンは腹の底から叫んだ。叫ぶしかなかった。もうこの心根は隠し通せそうにない。全ての発端は自分だ、にもかかわらず後悔し泣き叫ぶことは無様で格好の悪い最低の行いだと分かっている。それでも、もう耐えられなかった。
「っ!?」
不意にレヴァイアの手に頭を掴まれた。そして何事かと思っているうちそのまま凄い力で顔をグイと胸に押し付けられた。……此処で泣け、ということだ。
「っ……っ…………うああああああああああああ!!」
遠慮する余裕などなかったサタンはそのまま素直に彼の胸を借りて泣き叫んだ。
レヴァイアは無言のまま、まるで「大丈夫だ」と鼓舞するようにサタンの頭を強く胸に押し付ける。
有無を言わさぬ力強い手。こういう時、『本来の兄は彼なのだ』と思い知る。
「全部吐け! んでスッキリさせて前を向こーじゃないの。みんなに申し訳ないと思うなら何がなんでも勝とう……ってのが兄貴の口癖だろ。まんま返すぜ。この戦い、必ず勝とうな」
言われてサタンは背中をバシッと叩かれた。
「イテッ!! …………ああ、そうだな」
ギャーギャー泣いてスッキリしたサタンは「もう大丈夫」と告げ、顔を上げた。そしていつになく優しげな顔をしているレヴァイアと目が合って気まずくなった。この温かい目は小動物に向けるそれによく似ている……と、いうか、そのものだ。
「何があっても安心しろよ。ラファちゃんにも宣言したけど俺は絶望の立ち位置を譲る気なんかない。何故なら俺にとって兄貴は不動の希望だから。俺は最後まで残って兄貴を信じる。だから二度と心細い顔すんな」
「レヴァイア……」
自分と違い、この世に生を受けた時点で「この世の負は全てお前のせいだ」と言われ続けてきたレヴァイアにこう言われては、敵わない。
絶望の化身として彼はサタンの比にならぬドス黒く重たいものを最初から背負わされた。それでも自身の責任を放棄しようとはせず、しっかりと向き合っている。そしてサタンが苦悩した時はいつも「重荷を背負っているのはお前だけじゃない」と笑顔で告げる。
(俺も、しっかりしねーと……)
不透明だが確かに存在する生と死、終わりと始まり、絶望と希望、その概念が不幸にも実体を持ってしまった、それが自分たち――サタンとレヴァイアである。
よりによって酷く厄介なものを抱えてしまった……。そう悔やむのは簡単だ。だが、厄介なものを抱えて生まれたのは自分だけではない。みんな同じだ。この世に生まれる誰もが何かしら抱えて生を受ける。人類の発展を担うために生まれたリリスもそうだ。自分たちだけが重荷を背負っているわけではない。
(俺は、何やってんだ……。自分だけ不幸ヅラかよ。とことん最低だ……)
なんだか、冷静になるとだんだん悔しくなってきた。
「兄貴? 大丈夫か?」
押し黙ってしまったサタンを見てレヴァイアが朗らかに首を傾げる。
「あ、おっ、おう!! 大丈夫!! なんか俺、悔やんでピーピー泣く自分にスゲー腹立ってきた!! カッコ悪すぎ!! だから何がなんでも前を向く!! もう大丈夫!!」
「おお。いいね、その意気だ! 兄貴はそうでなくっちゃ!」
「ああ!! つかテメー俺のが兄貴だっつーに偉そうに胸なんか貸しやがって生意気だぞ馬鹿野郎!! もう二度と借りねーからな畜生!!」
「えー!? なにそれ!?」
いきなり怒鳴られたレヴァイアはそれはもう目を丸くした。八つ当たり甚だしいにも程がある。しかしサタンがこれだけ吠えるのは調子を取り戻した証だ。一応、喜ぶべきだ。
「あーもおおお、なんか悔しいぞ畜生!! テメーも吐け!! 何か吐け!!」
……喜ぶどころではないかもしれない。テンション高ぶったサタンはこともあろうに自分を心配してくれたレヴァイアの胸倉を掴んで「吐け! 吐け!」とよく分からぬ催促をし始めた。酒も飲んでないのにコレは質が悪い。
「うおおお!? ちょっ、泣いちゃったの恥ずかしい気持ちは分かるけど八つ当たりはやめてくだちゃいっ!!」
「八つ当たりじゃありません、お兄ちゃまは純粋に心配をしているんで御座います!! はい、吐く!! 吐け!! 吐きやがれ!!」
「えー!? わ、分かったよ! 吐くよ吐く吐くっ! えーーと、俺だって今日は恐かったよ。俺が頑張れ負けんなって応援した途端にバアルの血が真っ黒になっちまったんだもん! うわ俺マジで化け物じゃん! って嫌な汗がブッワ〜出た!」
するとサタンは「よし、そういう話を待っていた!!」と満足気に笑って手を離した。……無茶苦茶である。
「テメー人の不幸を喜ぶなああああああああッ!! ……ま、でもそんだけ余裕綽々ってことは何が起きても兄貴が全部解決してくれるって自信の表れだよな? オッケー、頼りにしてる!」
「おう、任せとけ!! って、ちょっと待て!!」
俺そこまで言ってない……と続けたかったがレヴァイアの「流石兄貴だぜ、ありがとう!!」の言葉に掻き消された。
「んじゃ代わりにさ、俺も兄貴が困ったら何でも解決する!! 俺が兄貴を信じてるみたいにさ、兄貴も俺のことなんでも解決出来るヤツだって信じて安心してくれたら嬉しいなっと」
ニッコリと笑われてしまった。俺を信じろ……成る程、彼はこれが言いたかったのだ。
もうちょっとマシな伝え方はなかったのかとサタンは苦笑いした。
「ヒヒヒッ。俺が立ってられるのは一人じゃないからだよ兄ちゃん。アンタにもそう思ってもらえたら、それだけで生まれてきた意味がある」
「ああ。オーレーもーだーよっ!」
言ってサタンは弟分の額を指で小突いた。「イテッ」とレヴァイアが大袈裟に声を上げる。
「俺らはどうあれ最後までこの世界と付き合う羽目になる。仲良くやらねーとな!」
先刻まで泣いていたクセに急に偉ぶるサタン……。半ば呆れつつそこを追求しないのもまたレヴァイアの優しいところだ。
「だな! とにかくもう一人で立ってる気になるんじゃねーぞ。俺がいること忘れんな」
「俺よりも余程あれこれ背負ってやがるテメーがそれを言うか。まんま返すぜ馬鹿野郎」
そうして二人は大声で笑った。
終わりと始まりの概念がこの世から途絶えぬように、彼らもその存在がこの世界から消えることはない。消えることがあるとすれば、それはこの世界が終わる時だ。彼らは世界と共にあり、確実に終焉まで肩を並べることになる。
光と闇、相反する概念は決して通じ合えぬと見ていた、これこそが神の最大の誤算であった。決して通じ合うことはない……しかし、彼らは共存し、唯一の存在としてお互いを支え合う術を知っていた。そしてその姿が革命を望む者たちに絶対の希望を与える結果となった。
何度絶望を味わおうと折れない力強い希望――――大丈夫、潰えることのない相反する二つの希望はこちらにあると。
気配を消し、ラファエルは遠目に荒れ地一帯を包む炎とその後に灰となった亡骸が空へ舞って行く様を眺めた。
夜が更けるのを待ち、せめてもの弔いをと思い一人静かにこの地へ訪れたわけだが……、その必要はなかったようだ。
「やはり希望そのものである貴様を圧し折るのは容易ではない、か」
耳の良いラファエルには遥か向こうの魔王二人の会話など容易く聞こえていた。やれやれ、一生懸命に落ち込ませたはずなのにあっという間に復活してしまった。これでは今日の戦争の収穫は限りなくゼロに近い。
(あーあ、暫く神にうるさく言われそう……)
ラファエルは大きく溜め息をつくとその場から音もなく姿を消した。行き先は意外な場所である。
「うおっ!? なに!?」
カインはすぐさま滅多にないにも程がある眩い来客に長い前髪の隙間から覗く目を丸くした。
此処は地中深くに存在する真っ暗闇な世界の最果て、牢獄だ。
こんなとこ息が詰まるから嫌だもう来たくないと愚痴っていたラファエルの登場にカインは何事かと身構える。
どうでもいいが、今日一日の責め苦を終えてせっかく眠気にウトウトしていたところだったのに、台無しだ。驚きのあまり一瞬で頭が冴えてしまった。
「うーわ、久々に来たけど相変わらずカビくさ、汗くさ、血なまぐさ、空気わるっ!!」
そして開口一番にこの態度である。
「……えっと、なんの用? また神様に罰で言われて?」
あー臭い臭いとは鼻をつまむラファエルを見上げてカインが半ば呆れたように聞く。
「いや、今回は私の独断行動だ。お前に面白い話を聞かせてやろうと思ってな」
「面白い話?」
そう言われても、嫌な予感しかしない……。
「ああ。リリスのことだがな、なかなか傑作だぞ。出会って以降お前の名を聞くたびに顔を赤くしているようだ。どんなに落ち込んでる時でもお前の名が出ると照れて慌てるそうだぞ!! ハハハハハッ!! 良かったなカイン!!」
「ぁああああん!?」
いきなりそんな話を持ち出されてカインは思わず血管が切れそうになった。が、すぐに何が何やら察してしまった。
そういえば「悪魔相手にいよいよド派手な戦争を仕掛けることになったが、恐いから行きたくない」と先日、拷問係の天使たちが愚痴っていた。彼らの話が確かならば今日がその日だ。
「お、お前なあああああ!! 戦争に負けたからって俺に八つ当たりすんのはやめろおおおおおおおッ!!」
こりゃ絶対に負けたなと読んでカインは声を張り上げた。いきなり謂われもない八つ当たりを受けたのだ、そりゃ怒鳴りたくもなる。
「違う、負けではない。引き分けだ」
真顔でラファエルが言い切る。どうやらそこは譲りたくないらしい。
「どーだか!! 勝てなかったことにゃかわりねーだろがい!!」
と、ここでカインは大きく大きく溜め息をついた。
「ったくも〜〜、しょーがねーなぁ。愚痴りたきゃ愚痴れよ、どーせ他に言える相手がいないんだろ。俺で良かったら聞くよ聞きますよ聞けばいいんだろっ!」
「話が早くて助かる。ほら、そんな気の利く貴様に差し入れだ」
言うとラファエルは何処からともなく水のなみなみ入った瓶を取り出してカインに渡した。水も飲めない環境にいるカインにとってこれは嬉しいサプライズだ。
「おおっ、ありがと!! けど、たまには味の付いたモンも口にしたいなあ俺」
「贅沢言うなハゲ」
こういう言葉を真顔で放つラファエルである。
「ハゲてねーよ俺!! ……で、どーしたの、何があったの」
水を貰って気を良くしたカインが聞くとラファエルは待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「ああ。聞いてくれよ!! もう思い出すだけで腹が立つんだが、そもそも3対1というのは如何なものか!! 代わりに私には神の加護があるだろと向こうは言い張るが冗談じゃない!! 反則だ、あんなもん!! しかもそんな多勢に無勢でも精一杯に頑張ってやってるのに神め、今日はせめてバアルだけでも連れて帰ることは出来なかったのかとクドクドクドクドいつまでも言いやがって、こっちは内臓破裂の肋骨全折れで手足も粉砕されてヘロヘロの痛い痛いで早く休みたいんだっつーにいつまでもいつまでも!!」
余程の鬱憤が溜まっていたのか堰を切ったように喋り続けるラファエル。聞いてやると言ってしまった手前、仕方がないのでカインは合間合間にウンウンと相槌を打った。
(こりゃ長くなりそうだなあ〜……)
いやはや、本当に長くなりそうである。
「あ、あのさあ、ラファエルよお」
「んな文句言うならもっと私を加護してくれって感じだよ!! それとなく伝えたらウン、そうしよっかなみたいな返事しやがって、ふざっけんなアイツ!! 敗因は私ではなく出し惜しみした神だ、そう思わないか!? ぁあ!? なんだ!?」
愚痴を吐くことに夢中になっていたラファエルが名を呼ばれたことに気付いて振り向く。愚痴ってる間に怒りが再燃したのか、酷く不機嫌な形相だ。
「んな恐い顔すんなよ〜!! いや、ほら、此処って神の息が濃厚に掛かってんだろ。だからその愚痴はマズイんじゃねーかな〜って……」
「それなら心配ない。333億3333万もの軍勢を用意しながら勝ちを収められなかったことに我が主は酷く意気消沈していた。今日は此処に気を向ける余裕など間違いなくありはしない」
自信満々に言い切った……。それだけラファエルから見て神は酷く落ち込んでいたということだ。
「メンタル弱ッ!! ……ああ、でもまあ、それなら良かった」
「なんだカイン。私の身を案じてくれるのか? 可愛いやつだ、褒美に今度水を差し入れる時は砂糖を一摘みだけ入れてきてやろう」
「ショボいな畜生!! そこはもうちょっとオレンジジュースとかさあああ〜」
「贅沢言うなハゲ」
「だからハゲてねーし!!」
いやしかしこれだけハゲハゲ言われると少し心配にならんでもない。まさかそんなことないよな、とカインは伸び放題のボサボサ白髪頭を手で撫でて髪の感触を確かめた。
大丈夫だ、ハゲてるところは無い。
「ところでカイン、話を続けても?」
まだまだ愚痴り足りない様子のラファエルである。
「おう、どーぞどーぞ……。と、その前に一つ聞いていいか?」
「ああ、なんだ?」
返事しながら長期戦に持ち込む気満々でラファエルは何処からともなく真っ白な椅子を用意し、カインの前で荒っぽく腰掛け足を組んだ。
うむ、引き締まった胸板さえ露わにしていなければラファエルめ少しガサツな長身の女に見えなくもない……と、そんなこと考えてる場合じゃない。せっかく大天使サマが気まぐれを起こして自分の前に姿を現してくれたのだ、色んな話を聞く滅多にないチャンスである。カインは素直な疑問を投げかけることにした。
「何故、神は自ら打って出ない? この星の創造主だ、相当な力を持ってるはずだろ。焦って出来損ないの兵を量産するよか自分が出た方が遥かに勝ちが近付くと思うんだけどね」
「ああ、それは恐いからだ」
あっさりとラファエルが答える。
「恐いだ?」
「そう、恐いんだよ。サタンらと真正面から向き合うことや、自分の手で我が子を殺すこと……、何より己の死が恐くて仕方がない。そうとしか考えられない。神殿に篭っていれば余程の事態が起きない限り悪魔は何も手出し出来ないからな。確実な方に逃げているのさ」
「そんじゃ、あの野郎め自分は高みの見物を決め込んで後のことは子供にどーにかしろって言って押し付けてやがんのか。呆れたもんだな……」
「言い過ぎだ。私としても創造主には篭っていてもらった方が助かるところもある」
「だけど……。アンタ、どうしてそんな身勝手なヤツに従えるんだよ? 俺なら絶対ゴメンだわ」
それでこのザマだけど……とボヤくことも忘れないカインである。
「どうしてって言われてもなあ。ま、私にも色々とあるんだよ」
「色々と、ねぇ? ……あ、あともう一つ」
「まだ何か?」
「ああ、えっと…………」
自分で振っておきながらカインは少し口篭った。本当に聞くべきか聞かないべきか……。迷ったが、やはりここは知りたいという己の気持ちに素直になっておくことにした。
「その……。リリスは、元気だったか? あの女のことだ、戦場にも同行したんじゃねーかなって思うんだけど、怪我とか、その〜……ああああああ、やっぱいい!! 聞かなかったことにしろ!!」
途中でどーにもこーにも恥ずかしくなってしまったカインは照れを振り払うように頭をガシガシと荒っぽく掻いた。いやはや、どうかしていた。そうとも、ラファエル相手にこんな質問をするなど、どうかしている。さあ、からかってくださいと言っているようなものだ。現に、この目の前のラファエルのニヤケっぷりときたら半端ではない。
「ヒヒヒヒッ、やはり気になるかカイン」
「あーー、うるさい!! 大丈夫やっぱ全然気にならねーから忘れろマジで忘れろ!!」
「そう意地を張るな。リリスなら元気だぞ。お察しの通り戦地にも意気揚々とやって来たが転んで膝を擦り剥いていた程度の怪我しかしていなかった。見た目とは裏腹になかなかタフな女だ。だが、今日新しく厄介な病を患ったようではある」
「新しい病?」
聞くと、ラファエルは端正な顔にますます意地悪い笑みを浮かべた。
「ええ。リリスめ、危ういところを助けられたのが響いたのかサタンの顔を見るたびに心拍数を急上昇させていました」
瞬間、カインの世界はピタリと止まった。心拍数を急上昇させていたということは、つまり…………。
「うわーー!! 聞かなきゃ良かったああああああああ!!」
そうなって欲しいなとは思っていたが、いざ本当にそうなるとやっぱりちょっと正直に言えば面白くない話である。おかげ様でホッとしたようなガッカリしたような嬉しいような寂しいような、様々な感情が頭の中を駆け巡り、カインは頭を抱えてのた打ち回ってしまった。
「ハハハッ! 女ってのは図太い生き物だな、カイン。もうお前の心配には及ばないかもしれないぞ」
「そーかもねっ!! でもサタンが相手なら良かったぜ。クソつまんねー男に引っ掛かったらどーしよーかと思ってたもんよ。でもアイツなら安心だ、うんっ!!」
するとラファエルが関心深そうに顎に手を当てて「ほお〜」と唸った。
「意外な反応だな。どうしてそこまであんな男を信頼出来る?」
「んなのパッと見てすぐにコイツ只者じゃねーなって感じたからだよ」
目を合わせた瞬間に気付いたことだ、彼は他の誰とも一線を画す存在であると。あの力強い腕なら絶望に満ちたこの世界でもリリスをしっかりと守っていってくれるはずだ。
「お前の目利き、当たっているといいな」
ラファエルが意地悪く笑う。
「当たってるさ。そんで、リリスが俺のことなんか綺麗サッパリ忘れてくれりゃ万々歳」
ニッと歯を見せて笑い、カインは滅多に口に出来ない水を豪快に一口飲んだ。……これは美味い。
「ぷっは〜!! 生き返る〜!! ……あ、生き返っちゃ駄目だ、また拷問が辛くなるっ」
痛覚が健在だった頃の牢獄生活は正に地獄であった。もうあんな目に遭うのは御勘弁である。
「お前は、強いな」
歓喜の声を上げたり自分にツッコミを入れたり一人で忙しくしているカインをジッと見てラファエルが静かに呟く。
「は?」
いきなり、なんの話だろうか。
「強いと言ったんだ。己は世界の最下層に身を置きながら、それでも他人の幸福を祈る……、お前のその強さは一体何処から来る?」
私には無理だと戯けて肩を竦め、ラファエルは笑った。
「何処からって……、こりゃ自分のためだ。強いからじゃねーよ」
「自分のため?」
「ん……。そーゆー心すら忘れたらさ、本当に終わりな気がして……」
言った後にカインは後悔した。ラファエルはこんな本音を漏らしていい相手ではない。案の定「成る程なあ」と相手はニヤニヤ笑っている。嗚呼、余計な話をしてしまった……。
「おっ、お前だって!! 一人ぼっちで世界の最上層に身を置きながらそれでも他人の幸福を祈ってるじゃねーか。その強さは何処から来るよ?」
「何処からと言われてもなあ。ではお前と同じだと言っておこう」
「またそんな適当言いやがって」
カインが言うとラファエルは声を上げて笑い出した。誤魔化されてしまったが、まあいい。とりあえず大天使様の機嫌は治ったようだ。
終わりと始まりの概念、獣の加護……。今日はまた分からないことが増えた。しかし一番驚いたのは自分の鞭捌きである。まさかあそこまで出来るとは自分でも思っていなかった。
リリスは今日一日の出来事を頭の中で振り返りながら、「やっと傷治った!」と笑って意気揚々と包帯を解くバアルを見つめていた。綺麗サッパリ元通り雪のように白く美しい身体……。思わず目が釘付けになる。
戦争のどさくさに紛れて、ラファエルは彼を『姉さん』と呼んだ。最初は『兄さん』の聞き間違いかと思ったが、あれだけはっきり『姉さん』と聞こえてしまった以上疑う余地はない。
しかし出会った当初こそ細身な体躯と派手な化粧をした端正な顔立ちから性別を疑ったが、どう見てもこの引き締まった上半身は男のものだ。とても女には見えないのだが……。
「……ちょっと見過ぎじゃないですか?」
「え? あ、ごめんなさい!」
ガン見し過ぎてしまったようだ。背中を向けていたバアルが視線に気付いて振り向いてしまった。
「謝ることはありません。私、見られるの大好きですから。オホホホホッ!!」
冗談なのか本気なのかは分からないがバアルは盛大に笑ってみせると少し曲がっていたスカーフを直してリリスの隣の席へ腰を下ろし、今の言葉にどんなリアクションを返せばいいやら戸惑っている彼女を間近から見つめた。
「リリス」
「え!? あ、はい!!」
「時が来たら全てお話ししますよ」
「え……?」
いきなり胸の内を見透かされたような気がしてリリスは固まった。
「色々と気になっているのでしょう?」
「……はい……」
本当に見透かされていたようだ。リリスが素直に頷き答えると、バアルはそれでよしと言わんばかりに朗らかな笑みを浮かべた。
「前に言いましたよね、貴女は正直な気持ちを全て私に話してくれた、私もそれに応える覚悟はあると。ただ、今日はそのタイミングじゃなさそうだ」
言ってバアルはふとベランダの方に視線を移した。すると間も無くサタンとレヴァイアの二人がその位置に姿を現した。バアルは彼らの帰還をいち早く察したのである。
「おかえり。遅いから先にちょっと頂いちゃいましたよ、お菓子」
「え!? マジ!? 超ズルイ!!」
先に食べたよの言葉を受けて真っ先にレヴァイアが顔を歪める。
「大丈夫、まだ沢山残ってます。えっと……、おかえりなさい」
リリスが微笑みかけると二人は同時に「ただいま」と笑い、テーブルの上に並んだお菓子に気付くなり目を輝かせた。
「美味そう!! あー、腹減った!! リリス、お茶くれ」
サタンが意気揚々とお菓子に手を伸ばす。
「俺も貰おうっと〜」
レヴァイアも続けて手を伸ばす。刹那――
「お待ち!!」
声を上げてバアルが何を思ったか二人の手を容赦無く叩き落とした。
「痛〜い!!」
二人がいきなり叩かれた手を押さえて盛大に嘆く……。
「帰ってきたらまず手を洗う!! 食べるのはそれから!! 全く、何回言っても出来ないんだから!!」
「ちぇ〜……」
納得いかないのか唇を尖らせるサタン。
「ごめんなさ〜い……」
レヴァイアは早々に勝ち目なしと踏んだのか素直に部屋の隅にある洗面台へ手を洗いに向かった。
その光景を見てリリスが笑う。
「ウフフッ。バアルさんお母さんみたーい」
「おか……!? いえいえ、せめてお父さんでお願いします……!!」
リリスの悪気のない一言。しかしそれはバアルの胸を貫くに十分な破壊力を持っていた。
「お母さんみたーい」
せっかくだからと便乗してサタンが言う。するとバアルは無言のままに怒りの波動を放ちながら爪をジャキンッと鋭く長く尖らせた。これは、ヤバイ。確実に殺られると判断したサタンは即行その場で男らしく土下座を披露した。……一応効果はあったようでバアルは「それならよし」とばかりにまた無言で爪を引っ込めてくれた。隣でリリスがドン引きしていたこともバアルを引き止めるに一役買ったようだ。
危ないところであった。向こうで手を洗いながら声を殺して笑っているレヴァイアに怒鳴る余裕もない。
「寛大な処置に感謝致します……!」
一安心してサタンは顔を上げた。そして、パタッとリリスと目が合ってしまったことに顔を赤くした。
そうだ、思い出した。こんな風にフザケている場合ではない。サタンは彼女に言わなければならないことがあった。
「あ、リリス。えっと……」
なんだか気恥ずかしい。土下座なんか見せたあとだから余計だ。
でも、言わなければならない。
サタンは頭を掻きながら一体なんの用かと首を傾げているリリスを見つめた。
「その……。改めてお礼言わせてくれ。昼間さ、助けてくれてありがとな! リリスが俺のこと絶望なんかじゃないって言ってくれたおかげで目が覚めた……。んで、そんな風に俺のこと思ってくれてたんだって、スゲー嬉しかった! 本当にありがとう」
言ってサタンは満面の笑みをリリスに向けた。
昼間とは、あのラファエルと対峙してのやり取りのことだ。
そう、あの時のこと……。
ふとリリスの脳裏に、鬼気迫る顔で自分を弾き飛ばし、身代わりとなって槍の一撃を受けたサタンの姿が甦った。そして、何故かまた顔が熱くなった。
「い、いえ! 私はただ思っただけのことを言ったというかなんというか……。あの、本当に、サ、サタンさんは、私の……き、希望……だから……」
なんだか言ってるうちに恥ずかしくなってますます顔が熱くなっていく。これは本当にどうしたことか。
「そ〜んなに顔真っ赤にして言うなよ! 俺のが照れるじゃねーか!」
サタンがアハハと軽快に笑う。その隣では、何か察してしまったバアルがニヤニヤ……。そこへ手を洗い終えたレヴァイアが「リリッちゃん、俺は〜!?」と言いながら戻ってきた。
「あ、はい! も、勿論レヴァさんも私の希望です!」
「やった〜! なんかついでに言われた感たっぷりだけど嬉しいな!」
そしてニコニコ笑いながらレヴァイアは待ちに待ったクッキーを頬張った。と、何が気に食わなかったやら、サタンが眉間に皺を刻む。
「リリス、コイツはただのケダモノだから気ぃ遣ってそんなこと言ってやらなくたっていいんだぞ」
「んだとゴルァ!!」
「あらヤダ。レヴァ君、口からクッキー飛ばしましたよ。汚いなあ〜」
ワイワイガヤガヤ。リリスはいつも通り騒ぐ三人を見て安堵した。彼女はあの殺伐とした戦場を目の当たりにし、もうこんな平穏な光景は見れなくなるのではないかと心の何処かで恐れていたのである。
そんな心配は、全く要らなかったようだ。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
リリスが言うとワイワイ騒いでいた男三人が「なーに?」と一斉に振り向いた。
「えっと、なんでレヴァさんて『獣』って言われてるんですか?」
色々あった今日一日。特に引っ掛かったことの一つがコレであった。レヴァイアは何処からどう見ても綺麗な青年だ。なのに何故こんな荒々しいあだ名を付けられているのかと。
「ああ、それは彼がこの通りどっからどう見ても理性が大いに欠落している本能の男だからですよ」
あっさりと答えるバアル。するとサタンも頷いて続いた。
「そうそう、どー見ても獣だから獣ってわけ」
「なにそれ酷い!! ちょ、リリッちゃん頷かないでよ!! 違うよ、違うからね!!」
レヴァイアが必死に手をバタつかせて否定をする。
「違うんですか? じゃあ、えっと、どうして?」
「え? どうしてって〜……。まあ、自覚ないけど二人の言う通りなのかも……」
他に良い説明が浮かばなかったレヴァイアはガックリと肩を落とした。あとの二人がそれはもう勝ち誇ったように笑っていたことは言うまでもない。
そうしてお菓子やらサンドイッチやらをつまみながら他愛のない話をしているうちに窓の外は夜を過ぎ、明け方の様相に包まれ始めた。
薄明るくなった空を見て誰からともなく「そろそろ休もう」と言ったことで四人は解散。サタンとリリスはバアルの好意で今日はこのままこの城で休ませてもらうことにした。
「お前、今日はスゲー疲れたろうに愚痴の一つも零さねーで偉いな」
割り当てられた部屋へリリスを案内したところで、サタンがポツリ呟く。
「え? いえっ、皆さんの方が余程疲れてるはずです。私なんか全然っ」
「そっか? でも辛かったらちゃんと言えよ、無理に俺らの調子になんか合わせなくていいんだからさ」
苦笑いがちのサタン。遠慮してやせ我慢してる風に見えるのだとしたら申し訳ない話である。大丈夫であることをちゃんと伝えなければとリリスは微笑みを返した。
「大丈夫ですよ。一人で抱え込んじゃダメって前にバアルさんに言われたことちゃんと覚えてますから私」
「それならよし! じゃ、俺は隣で寝てるからさ。風呂の使い方が分かんねーとかなんか困ったことあったら遠慮なく起こしてくれよな。……おやすみ、リリス」
ニッと笑い、サタンは大きな手でリリスの頭を撫でた。出会った時から彼は一日の終わりに必ずこうしてリリスの頭を撫でくり回す。リリスはこれを「安心して眠れ」という無言のメッセージとしていつも受け取っていた。こうされると何故か分からないが無性に安心するからだ。
だが、いつもならホッと胸を撫で下ろすばかりの彼の手が今日はなんだか違う。笑顔も撫で方もいつも通りだ。それなのに今日は一層暖かく感じた。気のせいだろうか……。
そうして戸惑っているうちにサタンはいつもの挨拶を終えて隣の部屋へと歩いて行った。そのあっさりした態度がまるで「俺はいつも通りのことをしただけ」と告げているように見えた。全てはリリスの気のせいであると。
「あ……。おやすみなさい!」
彼の背中に向かって思わず伸ばしかけた手を引っ込め、リリスは部屋へ入った。
ドアを閉めて、暫く立ち尽くす……。何故、自分は今、手を伸ばして彼を引き留めようとしたのかと。
(私、どうしたんだろう……?)
分からない。
何故引き留めようとしたのか。どうして今こんなにも顔が熱いのか。この胸がギュッと締め付けられるような感覚はなんなのか。
(もっと、一緒にいたかった……?)
この感じ、以前にも経験がある。
カインに思い切り抱き締められ、牢獄の扉の向こうへと突き飛ばされた後だ。リリスは暫く彼のその時の腕の感触や鼓動の暖かさが身体から離れず、愛しくて愛しくて堪らなくて、もう一度会いたいと強く願った。そうして彼を想えば想うほど今のように胸がギュウと締め付けられるような――――
「だ、ダメダメダメダメ! ね、寝ようっと!」
思い出したらまた切なくなる。掘り起こすのはやめようと自分に言い聞かせ、リリスは部屋に添えつけのシャワールームに駆け込んで慣れない風呂ではあったが使い方が分からないということもなく今日一日の汗を流すと、ちゃっちゃとベッドの中へ潜り込んだ。
しかし、見事に寝付けない。
今日一日、極度の緊張に晒されて身体はヘトヘトに疲れている。それなのにどうにも寝付けない。目を閉じるとやはり昼間のあの瞬間の光景が過ぎって仕方がないのだ。そして顔が火照る……。
(んっもう、あの時のサタンさんカッコ良過ぎたよお……)
そうして一人のた打ち回っている間に時は過ぎ、やがて窓の外は静かに朝の訪れをリリスへ告げた。
ふと、ドアをコンコンとノックされた。
寝ているかもしれないことを想定してのとても遠慮がちなノックだ。しかし残念ながらリリスはバッチリ起きている。もう今日は寝るのを諦めた方がいいかもしれない……。
「はい、どなた?」
ベッドから出てドアを開けると、朝から元気満々な様子のレヴァイアがいた。
「おう、おはよ! よく眠れ………………なかったみたいだね、その顔は」
「はい、なんか眠り損ねちゃいました……」
「ま、まあそんな日もあるわな、うん」
ドンマイ、とリリスは肩を叩かれてしまった。
「ありがとう御座います……。レヴァさんこそ三時間くらいしか寝てないでしょうに元気ですね?」
「ああ、俺は夜遊び慣れてるからね! なんちゃって。あのさ、朝飯食う? これから作るんだけど」
「あ、頂きます。眠れなかったからお腹空いちゃった」
「了解! そんじゃ支度出来たら大広間においで。あの突き当りの廊下を真っ直ぐ左に行ったとこね。ま、もし迷ったら大声出してくれれば」
レヴァイアが意地悪く笑う。過去何度かリリスがこの城で迷子になったことを知っているからだ。
「酷いレヴァさん! 一本道なら大丈夫ですよ! ……多分……」
「多分かい! ああ、そうだ。あと兄貴にも飯食うかどうか声かけといてくれる?」
「はい、いいですよ」
「ありがと! じゃ、よろしく」
言うと彼は先程指差した突き当りの廊下へ向かい、その左方向へと歩き去っていった。うむ、あの通りに歩いていけばいいのだ、きっと大丈夫だ。
行き先を確認したところでリリスは早速サタンの眠る部屋のドアをノックした。…………返事は無い。
「サタンさん、朝ですよー」
声もかけてみた。が、やはり返事は来ない。
(えーと、どうしよっかな)
ノックしてもサタンが出てこないことなど初めてだ。彼はいつもどんな時間だろうとリリスがドアをノックするとすぐに顔を出してくれる。そしてチラリと覗ける彼の部屋のテーブルの上には専ら何本かのお酒の瓶と沢山の分厚い書物が広がっているのである。
なんだか夜も忙しそうな彼……。一体いつ寝ているのかとリリスは常々疑問に思っていた。
ひょっとしたら、これはそんな彼の貴重な寝顔を拝むチャンスかもしれない。
リリスの悪戯心に火がついた。
幸運なことにドアには鍵が掛かっておらず、最大の関門は容易に突破することが出来た。部屋のベッドの上には足を外に投げ出して豪快な寝相を晒しているサタンの姿……。相当お疲れだったのだろう。よく眠っているようだ。
(しめしめ、ですわ)
起こさないよう細心の注意を払ってゆっくりゆっくり近付き、そっとその寝顔を覗き見る。すると、あまりにも無防備な寝顔がそこにはあった。いつも施している目付きの悪さを強調するような目周りの化粧が無いことも一因だろうか、帝王と呼ぶにはあまりに幼い、まるで少年のような寝顔である。なんというギャップであろう。
(やん、可愛い!! 貴方、本当はこんな顔してるのね……)
一見微笑ましい。だが、これは普段彼が常に気を張っていることの裏返しでもあった。本当の顔はこっち。しかしリーダーという立場から昼間は常に目を鋭く光らせているということだ。
(貴方、ちゃんと心休まる時ありますか……?)
もしかして彼が普段あまり眠らないのは、それだけ安心することが無いから――そんな想像が頭を過ぎる。
と、その時、ジッと見られている気配を察したのか「ん……?」と声を出してサタンは寝返りを打ち、目を覚ましてしまった。
「……あれ……? リリス……?」
気だるそうに目を擦るサタン……。酷く寝ボケた様子だ。
「あ……。ごめんなさい、勝手に入っちゃって。あの、朝ご飯食べるかどうか聞いてきてって言われて、それで……」
「飯……?」
ぼんやりした口調で言ってサタンは寝乱れてボサボサになった頭を掻いた。
「ん〜〜…………、いいや……。もうちょっと寝る…………」
言うが早いか彼は毛布を頭からすっぽりかぶり直すと寝返り打ってこっちに背中を向けてしまった。なんだか動作まで子供のようである。
「分かりました。ゆっくり休んでください」
これ以上、邪魔をしてはいけない。リリスは朗らかに「おやすみなさい」と一声かけてそっと部屋を後にした。
そして迷わずしっかりリビングに到着すると、コーヒー片手に談笑しているバアル、レヴァイアの姿があった。驚くことにバアルはこんな朝も早くから既にバッチリ化粧をしている……。あわよくば素顔を拝めると思っていたリリスはちょっとガッカリした。
と、それはともかくバアルとレヴァイアはリリスがやって来たことに気付くと何やらニヤニヤ企みたっぷりの笑顔で迎えてくれた。
「おはようリリス。サタンの寝顔はどうでした?」
「寝ボケたアイツ、なかなか可愛かったっしょ?」
「あ、はい! とっても可愛かったです! って、馬鹿〜ッ!!」
続けざまに言われ、リリスは彼らがわざと自分をサタンの部屋に向かわせたことに気付いてしまった。
「なななななな何言わせるんですか恥ずかしいじゃないですか!! もおおおお〜!! そういうことやめてよおおおお〜っ!!」
なんだか恥ずかしくて堪らなくてリリスはその場でドタバタと地団駄を踏んだ。
「あらあら、照れちゃって可愛いっ」
「いいじゃん、貴重なもん見れたろ」
全く反省の色もなく、バアルとレヴァイアは楽しそうに声を揃えて笑った。そしてこっそり決意した。この反応、やはりリリスは昨日の一件でサタンに傾き出した。これは上手く後押ししなくてはと。
黙って見ているなんて冗談じゃない。この彼らは人の色恋沙汰にちょっかい出すのが昔から大好きなのである。
朝になっても玄関ドアの開く気配は無し。女はもう二度と夫が帰って来ないことを悟ってしまった。
あれだけ、必ず帰っておいでと言ったのに。
家の外では自分と同じ境遇の女たちが空に向かって声を上げ泣いている。「何故置いていった」、「私も一緒に連れてって」と泣いている。
この世界は、地獄だ。
地獄だが、それでも彼と共に過ごす時間欲しさに天界に留まり生きることを選んだ。しかし、その唯一生きる理由であった彼はもういない。
何がキミの無事と引き換えに命を懸けてくる、だ。彼のいない世界などなんの価値もない。
この地獄を生きる理由など、もう何もない。
女は剣を握り締め、迷いなく魔界へと降り立った。
「て、天使だ!!」
どうやら上手い具合に賑やかな街のど真ん中に来れたようだ。自分の姿を見るなり楽しげに道を歩いていた悪魔たちが表情を一変させ、悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
さて、のろまなヤツを捕まえるとするか。
周囲を見渡すと、逃げ損ねて道の脇に立ち尽くす幼い少年を見つけた。腰が抜けてしまったのか分からないが彼はただただ唖然とした目でこちらを見上げるばかり。動く様子は微塵も無い。
コイツにしよう。
女は少年の目の前に立つと彼が手に抱えていた薔薇の花束を剣で切り裂いた。花びらが飛び散り、地面に散乱する。……それでも彼はこちらをギョロリと見開いた目で見つめるばかりで逃げようとしない。
「小僧、何故逃げぬ」
微動だにしない様子を不思議に思って問いかける。
「け、怪我して死んじゃえば……、父さんと母さんに、会えるかなって……」
震えた声。そして、覚悟なら出来ているとでも言うように、少年は固く目を閉じた。成る程、覚悟が出来ているなら話は早い。
しかし……、女は剣を振り下ろせなかった。
「お前も、一人なのか……」
そうだ、同じだ。彼も、同じなのだ。
「どうした、斬らねーのか?」
不意にすぐ横から声を掛けられた。振り向くとそこには絶望の化身レヴァイアの姿……。騒ぎを聞きつけてやって来たのだろう。鋭利な無数のトゲを備えている武器フレイルを手に、如何にも異質な存在であることを思わせる縦長の黒目でこちらの様子をジッと窺っている。
「その子に一太刀を加えりゃ俺は遠慮なくアンタをブチ殺せるぜ」
……そうだ、自分は死ぬために来たのだ。魔王の手で確実に殺してもらうためにもこの少年を斬らなければ……。先に逝ってしまった彼を追うためにもこの少年を斬らなければ……。
分かっている。なのに、剣を振り下ろすことが出来ない。
「ちなみにな。余談ってヤツだけど、そのガキは反乱戦争で父ちゃん亡くして昨日の戦争で母ちゃんまで亡くしちまったんだよね。子持ちは戦争に参加すんなって言っといたのにさ。ついでに言うとアンタがぶった切ってグチャグチャにしたその花束はそいつが両親の墓前に添えようと小遣い全部はたいて朝一に買ったもんだ」
「そんな……!」
最早、女には剣を握っていることなど出来なかった。
「そんな、そんな……!」
力の抜けた手から剣が滑り落ち、地面に突き刺さる。
目の前の少年は未だ見開いた目で女をただただ見上げるのみ。
この世界は、地獄だ。本当に地獄だ。だが――――
「命というのは、簡単には捨てられないものですね……!」
女は涙を流しながら少年を両手で強く抱き締めた。
この少年を斬りつけ追いかけても、優しかった彼は決して喜ばない。そして、何も成さないまま、ただ他者を傷つけ去って行く……これでは自分が無価値な命であったことを認めることになる。
――キミの無事と引き換えに命を懸けてくる――
彼は無価値なものを守って死んだのか? いいや、違う。彼の行動が正しかったことを証明するためにも此処でこんな形で死ぬべきではない。
無価値なまま終わるわけには、いかない。
「坊や……! これから私と一緒に暮らそう……! 嫌か……!?」
「お姉ちゃんと……?」
女の突然の問いに少年は目を見開いて暫く沈黙した。何がなんだか分からなかったのだろう。しかし、やがて意味を飲み込むと「嫌じゃない」と首を横に振った。
後に少年に尋ねてみたが、何故この時「嫌じゃない」と首を振ったのか、その理由は上手く言えないそうだ。咄嗟のことだったという。
このお姉さんは信じられる、咄嗟にそう思ったそうだ。
「っ……私、この地で生き直したい……! 私は今日より天を捨て、羽を捨て、神の加護から外れることを誓います……! レヴァイア様、どうか私に御慈悲を……! これでも上級天使の端くれ、この地にて多少のお役には立てるはずです……!」
これは、堕天の誓いであった。
「そうか、分かった」
言うとレヴァイアは自身の親指を軽く噛み切り、その僅かに滲んだ血を女に差し出した。
これは神の加護を捨て去るための簡単な儀式である。
「ありがとう御座います……!」
女は躊躇なくレヴァイアの手を握って親指に滲む血を舌で舐め取り、ゴクリと喉に流し込んだ。
創造主が忌み嫌う破壊神の血を舐める……、それは完全に創造主の加護を否定する行為である。
レヴァイアの血を一滴舐めた瞬間、女が纏っていた眩いオーラが一気に色褪せた。金色に輝いていた髪色は灰をまぶしたように淀み、ピンク色だった頬は血色を失った。
「後は三日くらいこの地で普通に飲み食いして暮らせば天使の名残は全て消える。……坊主! 特別に俺の小遣いお裾分けしてやっからもう一度新しいお花、買っておいで」
ポカンと立ち尽くした少年にポッケから金貨を一枚出して手渡す。すると立ち尽くすばかりだった少年が不思議そうに首を傾げた。
「レヴァイア様……、このお金、ちょっと花束を買うには多過ぎる気がします……」
「ぁあ? 子供がそんな細かいこと気にするんじゃないよ! お釣りはそのまま取っておきな。……じゃ、その子のこと任せたよ」
レヴァイアの言葉に女は「はい」と答え、深々と頭を下げた。
「坊や……。お花、ごめんね……。お店は何処にあるの? 一緒に買いに行こう」
「うんっ。えっとね、お花屋さんは、あっち! あっちにあるの」
言うと少年は女の手を引っ張って、共に曲がり角へと消えて行った。
「えっと、終わったんですか……?」
騒ぎが終わったことを察して逃げ散っていた悪魔たちがチラホラと戻ってきた。
「ああ、もう心配ない。彼女は今日から俺らの仲間になった。みんなよろしく頼むよ」
「そうですか。良かった……。はい、分かりました」
丸く収まったことで住人みんな安堵の表情である。と、その時、頃合いを見計らったようにバアルの声がレヴァイアの頭の中に聞こえた。
『悲しみの破壊、ご苦労様でした。本当、貴方って女の子には優しいよねえ〜』
なんだか茶化すような笑みを浮かべるバアルの顔が目に浮かぶ……。
『たまたまでっす! んじゃ、寄り道はもうやめてすぐ足りない食材買って帰るから朝飯はもうちょっと待ってて』
『ええ。お腹を空かせたリリスが目の前でグッタリしていますので是非お早めに』
『了解!』
そうしてやり取りを終えると、レヴァイアは地面に飛び散った薔薇の花びらを拾い上げた。赤々とした綺麗な花びらだ。このままただ散らしておくのは勿体無い。
では、こんな使い方はどうだろう。彼は拾い上げた花びらにフッと軽く息を吹きかけると、そのまま風に乗せてすぐ向こうの墓地の上へと運んだ。
はなむけとしての再利用。まるで吹雪のように舞い散った薔薇の花びらが墓地を鮮やかに彩る。
「ちょ〜っと似合わないことしちゃったかな」
思わず自分に苦笑い。レヴァイアは口直しに煙草へ火をつけ、朝から人々の賑やかな声が木霊す市場へと歩き出した。
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