【08:両雄を見つめる女神の視線(1)】
――私は、貴方が朝に行ってきますと出掛けて夜ただいまと帰ってくる、そんな当たり前のことが実は小さな奇跡の連続だったと、今になって気付いたのです――
サタンとリリスはその日、魔界の地下に建設された海洋生物研究所に来ていた。此処を切り盛りしている女悪魔から「魚の養殖に成功したので暇だったら見に来ないか」と声を掛けられたのである。
「んもうサタンさんが魚ってばギョロッとした目をしてて年がら年中口パクパクさせてて身体中ギラギラした鱗に覆われてて何故か水の中でしか生きられなくて陸に上げるとビチビチバタバタ悶えるちょっと滑稽な生き物のことだとか言うからどんな怪物さんかと思っていたんですよ〜!」
リリスは初めて目にする魚に興味津々、「可愛い!」「綺麗!」の二言を連呼しながら小魚が泳ぐ水槽にかぶりつきであった。
街の地底に張り巡らされた水道の配管から直に魚の飼育に適した水を加工し取り入れるために地下に設けたというこの研究所。少し長い階段を降りた先の鉄製扉を開くとそこはもう別世界。青白いランプに照らされた石壁の広大な部屋に大小沢山の水槽が天井を覆い尽くすように並んでいる。それはもう一歩足を踏み入れた時点でリリスは大はしゃぎだ。
「やっとだよ、やっと出来たんだよ! これで数年振りに魚が食べれるようになる! アタシ大手柄すぎるでしょ! みんな喜んでくれるかなあ〜」
「やったね! お前が堕天のショックで魚の創り方を忘れちまったばっかりにおあずけとなってた魚がやっと食える!」
「ゴメンナサイね、迷惑かけてッ!」
サタンと研究所主任の女悪魔が何やら話をしている。お魚観賞が一息ついたリリスもそこへ加わることにした。
「あのぅ、このお魚さんたちは貴女が全部作ったんですか?」
「そうだよ! 大したもんでしょ」
女が得意げに胸を張る。隣でサタンもウンウンと頷く。
「もっと言ってやると此処に来る前デッケー牧場を見たろ。あそこの牛さんやら豚さんやら鳥さんも殆ど全部コイツが創ったもんさ。コイツこんな顔して魔界の食の源を支えてくれてるスゲー女なんだよ。こんな顔して」
褒めてるんだかなんだかよく分からない言い方である。そりゃ女も憤慨するというもので……。
「ちょっと!! こんな顔こんな顔ってどんな顔よ!?」
ワーワーキャーキャー、なんだかとっても親しげだ。この女悪魔は化粧が少しキツいものの容姿端麗で頭に生えた小さなツノが愛らしく服装派手で身体の露出が激しいあたり魔界によくいる普通のお姉さんにしか見えないのだが、食の源を支えているだけあってサタンらと立場が近い上級悪魔と思っていいだろう。
魔界は見た目が殆どアテにならない。普段はごく普通のお兄さんにしか見えない隣のサタンが正にそれだ。
「あ、そうだリリス。ついでに言うとコイツ、バアルの元カノな」
「へぇ〜……ぇえええええっ!? バ、バアルさんの!?」
予想もしていなかった話にリリスは目をまん丸くさせた。
「そっ、食い物の製造に精通してるだけじゃなしにバアルと一ヶ月も関係続いた最長記録の持ち主でもあるんだぜ」
「ヤッダ〜ん、そんな話持ち出さないでよ恥ずかしい〜っ!」
ペシペシとサタンの肩を叩いて女が笑う。しかしその笑顔はすぐに曇った。
「大体あれ付き合ってたって言えるのか怪しいし……。そりゃアタシのために時間割いてもらえませんかって頼んで頷いてもらいはしたけど夜な夜な会いに行って一方的にアタシが愚痴聞かせるばっかでキスも無けりゃ手さえ繋いでないし……。でも自然と別れましょうって言葉がアタシの口から出て向こうもそれに残念ですって言ったんだからやっぱ一応付き合ってはいたのよねぇ……? でも残念です言いながらあの時バアル様ったら普通に笑ってたんだよなあ〜……」
「あ、あの〜……」
何やら一人でブツブツブツブツ言ってらっしゃる女にリリスはおずおずと声を掛けた。
「え、えっと、なんで別れちゃったんですか? 勿体無いですよ、バアルさんあんなに素敵な人なのに……」
「ん〜。だってバアル様ったら全然隙が無いし凄い秘密主義なんだもん、自分の腹の中なんにも見せてくれないの。そんでアタシばっか一方的に愚痴とか喋ってるうちに超自己嫌悪に陥っちゃってもう駄目だ一緒にいるの申し訳ない、と思ったわけよ……」
しみじみ……と、いった感じである。
「バアルってあの通り出来過ぎた男だろ、だからどんな強気な女でも一緒にいるとあらゆる自信を粉砕されるらしいぜ……。落ち度なさ過ぎて振られるってのもスゲー話だよな……」
「嗚呼……。な、なんかそう言われると少し分かる気がします……」
サタンの言葉に思い当たる節があり、リリスは深く納得がいった。一見するとバアルと別れるなど勿体無いにも程がある話だが、成る程……分かる気がする。
王という立場に加えてあの男の枠を外れた圧倒的な美貌だ。大抵の女は劣等感を抱き、とても隣を歩くことなど耐えられない。
「だろ!? そう思うと俺なんか女に劣等感なんにも抱かせない真の良い男だよな!!」
「あ、そーだサッちゃん。折角来たんだから魚料理試食してかない? ちゃちゃっと作るからさ! 食べてってよ」
サタンの言葉を完全に流して女が言う。
「聞けよ!! 聞けよテメー!! つーかバアルには様付けで俺はサッちゃんかよ!! んでも食う食う! そういう話を待っていたぜ! リリスも食うだろ?」
「アハハハハッ。はい! 頂きます!」
「決まりね! じゃあ待ってて」
早く魚を食べてみてほしいという想いが溢れる意気揚々とした足取りで女は奥の部屋へと歩いて行った。
「なんだか今日も刺激的な一日です」
女がいなくなったタイミングでリリスはサタンに満面の笑みを向けた。見るもの全てが新鮮で刺激的。好奇心旺盛なリリスにとってこんなに楽しいことはない。
「そいつは結構! 充実の毎日だろ?」
「はい、それはもう! あっ、こっちの水槽の魚さん凄い……! まるで宝石が泳いでるみたい……!」
「ホントだ。でも小さ過ぎて食いごたえは無さそうだなぁ〜」
「もおおおおおサタンさんは食べることばっかり〜!」
リリスが頬を膨らますとサタンはアハハと声を上げて笑った。
いやしかし、あまり笑いことではない。魚が可哀想……と言いかけてリリスはふと気付いてしまった。自分がなんの気なしに今まで命を食べて生きてきたことに。
「あの、私たち、牛さんとか豚さんとか食べちゃってるんですよね……?」
「ん? 可哀想って言いたいわけ?」
察したサタンが微笑む。
「はい……。改めて考えたらちょっと申し訳ないというか……。これっていいのかなって」
「いいんだよ」
迷いなくサタンが答える。
「生きてくためには食わなきゃいけねんだ。いいに決まってるだろ。お前、自分に自信が無いのか?」
「自信、ですか? 自信とお肉を食べることになんの関係が?」
「大有りだよ。要は無駄にしなきゃいいんだ。俺は食ったモンを絶対無駄にしねーよ。天使を殺すこともそうだ、俺は自分が奪っちまった命を全部無駄にしない自信がある。だから迷わない。糧にした分しっかりと事を成せば許されるって思ってる。そうやってお前も堂々とすりゃいい」
「サタンさん……」
どうしたら咄嗟にそんな答えが出るのやら。やっぱり彼は心底しっかりしているとリリスは改めて感じた。
よくよく考えなくともリリス自身、先日の戦争にてサタンらにおくれを取りたくない一心で鞭を振り回し沢山の天使を屠った。そのくせ牛や魚を食べるのは可哀想というのも変な話だ。矛盾している。
(私も、ちゃんとサタンみたいに食べた命は全て無駄にしないって心を持たなくちゃ……)
「……なーんつって!」
「わっ!?」
急におどけてサタンはワシャワシャとリリスの頭を撫でくり回した。
「とりあえず此処の食い物は心痛めることなく食え。面倒クセーこと考える必要ねーぞ、コイツら正確には『生きてない』んだから」
言いながらサタンがコンコンと水槽を爪の先で突っつく。
しかし、生きてないとは一体……。
「生きてない? え? どうして?」
水槽を小突かれた僅かな衝撃など意に介さず平然と泳ぎ続ける魚を改めて見つめる。……リリスの目にはどう見ても彼らが生きているようにしか見えない。
「コイツら脳みそで動いてるだけなんだよ。よく出来たゼンマイ人形みたいなもんだって言えば分かるか? 上の牧場で見た牛や豚なんかもそう。コイツら魂は入ってねーんだ。『ロテ』は……、ああ、此処の主任の名前な。アイツ、家畜とかは手で捏ねて創れても神サマみたいに魂を自在に呼び込むことは出来ないからな。そういう能力は神サマ専用だから俺ら誰も授かってねんだわ…………あっ、料理出来たってよ。地下室じゃ味気ないから外のテーブルで食おうってさ。行こ」
サタンの耳にはいつの間にやら外に移動して『飯が出来たぞー!』と二人を呼ぶ女の声が聞こえたのだ。
「え? あっ、はい、行きましょう!」
言うが早いか「じゃあ行こう」とサタンはリリスの手を握り、一瞬で月明かり眩しく乳牛の鳴き声賑やかな牧場の端にあるピクニックテーブルへと移動をした。
自分には全く聞き取れない声で会話をし、自在に移動をする彼らをとても羨ましく思う今日この頃のリリスである。が、隣でリリスがそんな風に羨んでることなど知る由もないサタンは目の前に並ぶ魚料理に釘付けであった。
「おおおおおおー!! お魚ー!!」
テーブルの上にズラリと並んだ魚のムニエル、カルパッチョ、塩焼きなどなどを見てそれはもう目を輝かすサタンである。彼を脳天気と指差すのは野暮だ。何せ魚を口にするのは数年振り。そりゃテンションも高ぶるというものである。
「おっ! 酒まで用意してくれたのか! そんな顔して気が利くじゃねーか!」
「だからそんな顔ってどんな顔よ全くもう! まあいいや、いっぱい作ったから遠慮なく食べて! リリスさんも遠慮しないでね。煮ても焼いても生で食っても美味いアタシの魚たちを是非ご堪能あれ」
言って女はリリスがまだお酒を飲めないことを知ってかお茶を用意しながらニッと白い歯を見せて笑った。いやはや、元気なお姉さんだ。
「はいっ! ありがとう御座います!」
早速席に座る。そして何から食べようか目移りしていると、横で一足先に塩焼きを頬張っていたサタンが「美味い!!」と叫んだ。
「スッゲー美味い!! 天界で食ってた魚そのものだコレ!! リリスこれ食ってみ!! あ、骨あぶねーから取ってやるな。ちょっと待ってろ」
「お褒めに預かり光栄でーす。……あーあ、イイ顔しちゃってまあ」
せっせと魚を解すサタンを女がニヤニヤしながら見つめる。
「うるさい黙りなさい俺は嘘偽りなく常にイイ男だ。……取れた! ほら、食べてみ」
「アハハハッ。サタンさんはいつも優しいですよ。あ、ありがとう御座います! いっただっきまーす!」
取り皿に置いてもらった魚の身をパクリと一口。瞬間、リリスの全身に衝撃が走った。
知らないはずなのに何処か懐かしい香り、なんとも言えぬ塩加減、初めての食感、どれをとっても素晴らしいの一言。
「美味しい!! なにこれ凄く美味しい!!」
リリス思わず感激である。
「やーん、そんなキラッキラな目で褒められたら照れちゃ〜う!!」
女も御満悦だ。
「可愛いリアクションしやがってリリスめ! やったなお前、大手柄! バアルからの給料が弾むぜコリャ」
「やったねアタシ大手柄! ガンガン創って一気に市場へ流通させてやるからさ、いっぱい食べてよね!」
「はいっ! 楽しみにしてますね」
またリリスに楽しみが増えた。と、何かを思い出したように隣でサタンが「あっ」と声を上げた。
「あのさ! ひょっとして俺、魔界でお魚食べた第一号!?」
すると女は間髪入れずに首を横に振った。
「ううん。残念ながら第一号はバアル様でーす。二番がレヴァイア様、アンタ三番目」
「なにそれいつの間に!? つかレヴァにまで様付けしといてなんで俺だけ呼び方が雑なんだよッ!!」
またワーワーキャーキャー。二人のやり取りが面白くてリリスは笑いが止まらなかった。
そうして和やかに食事は進み、サタンが大食らいなこともあってお皿の上はあっという間に綺麗になってしまった。彼は本当に毎日よく食べる。
「お腹いっぱい! ごっそさーん!」
サタンが満足そうにお腹を撫でる。隣でリリスも真似てお腹を撫でながら「ごちそうさま」と一礼。「喜んでもらえて何より!」と汚れた皿を片付けながら女は嬉しそうに笑った。
「あっ、そーだサッちゃん! 食べ物の創造も一息ついてきたもん、次の戦争はアタシも参加するからね! もう万が一のことがあったら食い物無くなっちゃうじゃん困るーなんて言わせないわよ!」
一度創造をすれば彼女が手を加えなくとも生まれながらに行動を脳にインプットされた動物や魚たちは決まった時間に機械で自動的に散布される餌を決まった量食べ成長し子供を作った後に食肉となる流れを三日間で淡々と行う。延々と子供を作るため、故意に横槍を入れなければ一度作った家畜は絶滅する恐れも無い。要するに何をせずとも勝手に延々と回るよう出来ているのでもう放っといても大丈夫、ということだ。
「おおっ、ヤル気満々だねぇ〜」
サタンが茶化すように言う。
「当たり前よ! せっかく反乱へ加わったのに食べ物の創造してるだけで終わりたかないわ! いつの間にか決着ついちゃいましたーとかなったら最悪っ!」
「アハハッ! そんぐらい早期決着つけてーもんだなあ! ……さーて、そんじゃ俺らそろそろ行くわ。お魚ありがとな」
「どう致しまして! あっ、リリスさん、またいつでもおいでね。周り男ばっかじゃ落ち着かない時もあるでしょ? アタシの家で良かったら気軽に来てくれていいから! ちょっと動物臭いケド!」
「いえ、そんな! ありがとう御座います、また来ます」
「ん、待ってるよ! って、いけね! アタシまだ自己紹介してねーじゃん! あのねアタシ、『アスタロテ』ってゆーの! みんな『ロテ』って呼んでるよ。よろしくネ」
「アスタロテ……、ロテさんね? 覚えました! よろしくね、ロテさん」
笑顔で握手を交わす乙女二人。横で見ていたサタンはリリスに友達が出来たことをとても微笑ましく思った。
「あっ。そーいやお前、旦那わ? 顔出さねーな?」
思い出したようにサタンは周囲を見やった。
「え? 結婚してらっしゃるんですか?」
「ああ、餌やり機の調子がちょっと悪いから点検するって言って…………噂をすればなんとやら。リリスさん、これアタシの夫」
言うと何処からともなくロテの隣にロテと同じく頭にツノを持った長身の男が現れた。
(あれれ?)
彼を一目見てリリスは思った、あまりにロテと顔が似過ぎていると。
魔界の住人は生まれた時期が近いことや、みな神から生まれたせいもあって割と似た顔が多い。しかしロテと今やって来た彼は割となんてレベルではない。男女の身体的な違いはあれど、ほぼ瓜二つだ。
「すんません、早く挨拶しようと思ったんだけど機械弄ったら身体が干し草まみれになっちゃったもんで風呂入ってたんスよ〜! リリスさん、初めまして。女房のうるさい話に付き合ってくれてありがとね。俺は『アスタロト』。『ロト』って呼んでください」
「双子でしかも夫婦なんだよ、ロテとロトは」
リリスが抱いたであろう疑問を察してサタンが解説した。
「もっと言うとコイツら神から『あまりに身体の似通った姉弟の婚姻は認めない』って言われてもフザケんな畜生って結婚を強行しぃのそのままの勢いで反乱戦争にまで参加したクセして旦那がうっかり酔い潰れて連絡なしに一晩帰って来なかったってだけで超大喧嘩した挙句そのまま別居にまで発展しちゃって二人してヤケクソになって別の恋人作ってみたけどどっちもひと月足らずで別れちまってやっぱり自分の相手はコイツしかいないんだって気付いたとかなんとかで結局元の鞘に収まったっつー超絶はた迷惑な夫婦なんだよ」
「おうおう悪かったよ、あの時は迷惑かけてよ!!」
サタンの早口な解説が終わると同時に双子夫婦が声を揃えた。
「でもしょーがないじゃん創造主の反対押し切ってまで結婚したっつったってホントに腹立ったのよアレには!! 全くどんだけ飲んだらそんなザマになるんだかコイツが泥酔して道で転び回ったもんだから家で待ってるアタシまで吐き気しまくりーの気分悪くなるわ擦り傷いっぱい出来るわで朝まで寝れなくてさあ〜!!」
「また蒸し返すのかよ!? 散々謝ったじゃねーか、あの日はついつい仲間と盛り上がっちゃったんだ〜って!! 悪気はなかったんだよ〜!!」
「悪気なかったら何してもいいのかこの馬鹿アホ間抜け!! 誰のおかげで飯食えてると思ってるのよ!!」
「んっだとコノヤロー!! テメー一人で全部やってるつもりかよ!! 俺がいなきゃ何にも創造の案なんか浮かばないクセに!!」
おっとっと、うっかりスイッチが入ってしまったようだ。
「あーあ。夫婦喧嘩は犬も食わねーとはよく言ったもんだ。くっだらね〜」
まるで他人事のように呆れ顔のサタンである。
「え〜!? 火をつけたのサタンさんじゃないですかあ〜。止めてあげてよ〜っ!」
激しく口論を始めてしまった夫婦を前に狼狽えるリリス。……と、その時ふと疑問を覚えた。
何故、家で待っているロテまで吐き気に苦しんだのか。
「あの、旦那さんが悪酔いするとロテさんまで気分悪くなるってどういうこと?」
聞くと、夫との口論に夢中になっていたロテが「よくぞ聞いてくれました!」と目を輝かせて振り向いた。
「それは聞くより見た方が早いわ。はいロト、左手のひら出して」
「切り替え早ッ! はいよ。俺の手をよく見ててなリリスさん」
素直に手のひらを出すロト。するとロテは唐突に適当な魚の骨を摘んで自身の左手人差し指を刺した。僅かに滲む血。すると何故か何もされていないはずのロトの左手人差し指にも血が滲んだ。
これは一体……。
「アタシたち双子として繋がり過ぎててね、どっちかが怪我したらもう片方も同じ場所を怪我しちゃうの。面白いでしょ」
ロテが得意げに笑う。
「こんな仕様だからお互い離れがたくてさ〜。結局結婚までしちゃったってわけ」
ロトは苦笑いがちだ。まさかの事情。やはりどうにもこの世界はリリスの想像もつかないことばかりが溢れている。
「へえ〜。でもそういうのって何か素敵……! 理想の夫婦ですよ! お互いがお互いに凄く寄り添ってるって感じがしていいなあ〜!」
純真な瞳でリリスが言う。
「そそそそそ、そうかしら……?」
「そそそそそ、そんな風に言われたの初めてだよ……」
こんな真っ直ぐな瞳で褒められては一溜まりもない。ロテとロトは照れて赤面したっきり動けなくなってしまった。しめしめ、である。
「おっ、うるせー言い合い止まったな! 丁度いいや、んじゃ俺らもう行くね。バイバーイ。さ、行こうぜリリス」
「はーい! では、また来ますねロテさん、ロトさん!」
今が頃合いと見てサタンとリリスは手を繋ぎながらその場を後にした。
彼ら四人はこの数千年後にお互いの子供が一つ屋根の下で共に暮らす未来など僅かも想像しなかったことだろう。
「あっ、うん! またおいで!」
「待ってるッスよ〜!」
慌てて我に返った夫婦が揃ってサタンとリリスに手を大きく振ってくれた。
いやはや今日も平和な一日だ――そう思った矢先、サタンの頭の中に『胸騒ぎがする』というバアルの声が届いた。
サタンとリリスが早速城を訪ねると「よく来た」といつも通りの笑顔でレヴァイアが出迎えてくれた。だが、彼はともかく大広間の玉座に腰を下ろしたバアルの様子は明らかにいつもと違う。
「ああ、急に呼び出してすいません。ちょっと、ね……」
つい先程に胸騒ぎを覚えたばかりというバアルはこめかみを手で押さえて何処かソワソワと落ち着かない様子だ。無理矢理に冷静を保とうとレヴァイアにいれてもらった紅茶を口にしているが効果はあるのか無いのか怪しいところである。
なんだか、あまりに彼らしくない姿だ。しかし先日の大戦争を予感した時よりも酷い胸騒ぎがするというのだから無理はないかもしれない。
「とりあえず、どんな光景が見えたのか教えてくれるか?」
先の戦争でバアルは天使軍が降り立つ場所もタイミングも、その光景さえもほぼ正確に言い当てた。今回もひょっとしたらひょっとするとサタンは読んだわけである。だが――
「御免なさい、それが、今回はなんというか酷く朧げにしか……」
言ってバアルは眉間に縦皺を刻んだ。
「どんだけ朧げでもいい。とりあえず見たまんまのこと教えてくれ」
詰め寄るサタン。するとバアルは深く息をついて顔を上げた。
「この城から見える景色に眩い光が差し込んで視界が全て真っ白く染まる……。暫くするとその視界を奪った白は真っ黒く変わり、最後は血のような赤になる……。意味分からないと思いますが見たまま言うと、こんな感じです」
成る程、これでは抽象的過ぎてよく分からない。
「とりあえず、この城の近くで何か一波乱起こるんだろね。今回は直接街を叩きに来るとかかな」
向こうの出方が読めず、レヴァイアは「う〜ん」と唸って頭を掻いた。
「こないだ派手に戦争したばっかで向こうも消耗癒えてねーだろに、そんな疲れそうなことするかあ〜? 此処で戦ったら地の利はこっちにあるし、悪魔が総出で街に結界張って籠城戦に持ち込んだらやっぱ向こうは不利だと思うぞ。それこそ創造主が自ら出張らないと手も足も出ないはずだからな。……って、それが目的だったりして……」
自分の言葉にサタンは顔を青くした。
この魔界の街周辺は高台にあるサタンの城とバアルの城の屋上から見事に一望出来る。バアルが鋭い勘を持っている以上、奇襲も不可能。天使が攻めてこようとすれば全て丸見えだ。狙い撃ちしてくれと言っているようなものである。
だが、そんな地の利も創造主自らが手を出してくれば何も関係はなくなる。どんなに屈強な結界を築いても神の圧倒的な力の前では無意味だ。一瞬で街の住人たちの命は根こそぎ絶たれることだろう。
先の戦争で籠城戦を避け街に力の弱い者を残し戦える者だけでわざわざ天使軍を出迎えたのは、そうして二手に別れることにより創造主の手によっていとも容易く全滅という最悪のシナリオを回避するためであった。しかし、それでもどちらかを創造主に狙われる可能性はありサタンらも最悪の事態は覚悟していた。
だが、神は何もしなかった。
何故か、それはサタンとレヴァイアの本気の怒りを恐れたからに他ならない。おそらく神は彼ら二人がこの世界を完全に見限れば己の命は無いと考えているのだろう。どれだけ遠くへ追いやろうと二人が本気で憤慨すればいとも容易く空間を飛び越えて自分を殺しに来ると思っているわけだ。
そうして神が一切の手を下さなかったことにより、先の戦争において神の手に負えないこの二人の存在が最悪のシナリオを回避するための抑止力となっていることが証明された、これは今後の展開を左右するとても重要なことである。
さて、力でゴリ押しすることは危険だと判断した神は次にどんな手を打ってくるだろうか……。
「ひょっとしたら神は、私をピンポイントで狙ってくるかもしれませんね」
暫くの沈黙の後、バアルがポツリと零した。あまりにも物騒な発言。サタンとレヴァイアが静かに眉間へ皺を寄せる。しかしバアルは言葉を続けた。
「私は唯一の神が容易に殺すことの出来る反乱の首謀者ですから。この城の近くで何かことが起きそうな予感もそれで説明が……」
「やめろ」
バアルの話をいつになく低い声でレヴァイアが遮った。
「縁起でもねぇ。それこそ俺らが怒るだろよ」
柄にもなくイライラした様子でレヴァイアは煙草を吸い始めた。「あら、嬉しいっ」とバアルに茶化されても「フンッ」と鼻息を荒くしたっきり、そっぽを向いて返事もしない。一見いつも通りに見えたが新たな戦いが起こりそうな気配に彼も少し落ち着かないようだ。
「ったく……」
舌打ちしたもののサタンもサタンで上手い言葉が見つからず、ただ腕を組み無言で深く溜め息をつく。
「あ、あのぅ……」
ふと、一人だけ全く話を飲み込めなかったリリスがタイミングを見計らっておずおずと三人の怪訝そうな顔を見回した。
「あ、あんまり、そんな、その……、今からプンプンしちゃうのは、どうかな……って、その……。ごめんなさい、私なんかが意見することじゃないかもしれないけど……」
そのどこか怯えたような声に男三人は針で突かれたように一瞬で我に返った。
「お、お前ら気持ちは分かるけどそんなピリピリすんなよな〜!! リリスが肩張っちまってるじゃねーか!!」
真っ先にサタンが言うとバアル、レヴァイアも「あっ」と声を上げていつもの表情を取り戻した。
「ご、ごめんねリリッちゃん! 怖がらせるつもりはなかったんだ、ごめん!」
レヴァイアが目をパチクリさせて頭を掻く。続いてバアルもいつもの温和な表情を取り戻した。
「しまった! 私としたことがお嬢さんにお茶も椅子も出さず申し訳ない! レヴァ君、今すぐ用意して!」
「了解しました! って、お前も少しは動けや!」
「なんだとクソガキ、この私に命令するのか!?」
ピーピーギャーギャー。良かった、いつものバアルとレヴァイアである。
「あわわわっ、あ、あの、そんなどうぞお構いなくですぅ〜っ」
「いやいや、お茶くらい飲んでも損はしないよリリッちゃん!」
言ってレヴァイアは傍らにあったティーワゴンに駆け寄ると手際良く紅茶を用意してオロオロするリリスに差し出した。メイプルの香り漂う甘い紅茶……。リラックスしてくださいという彼なりのメッセージである。
「あっ、ありがとう御座います、頂きます」
美味しい紅茶に舌鼓を打ち、リリスにも笑顔が戻った。
いやしかし、あまり笑ってはいられないのも事実である。
「ところで皆さん、確認するの忘れていましたが今回も私の勘を信じてくださる方向で?」
そういえばすっかり天使軍が攻めて来ること前提で話が進んでいた。これでいいのかキミたちと僅かに戸惑った様子でバアルが全員の顔を見回す。
「ああ、信じるよ俺は」
真っ先にレヴァイアが頷くとサタン、リリスも続いた。
「お前ほどの男がそんだけ青い顔してんだ、ほぼ間違いないだろ。街のみんなにも知らせるとして、後はなるよーにしかならねーかな。とりあえず向こうの出方を待とう」
そしてサタンの隣でリリスが力強く再度頷く。
「前回、私も少しは出来るってことが判明しましたからね! 今回はお留守番しないでついて行きますよサタンさん!」
「えっ!? いや、それはちょっと……」
サタンがモゴモゴと口ごもる。
「まあ!! この期に及んで私を足手まといと言いたいんですか!?」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど、俺らマジで前線突っ込んでく係だから危ないってゆーか……、なあバアル!!」
上手い言葉が見つからず、サタンは頼れる魔界の頭脳に助けを求めた。しかし――
「私も前回はイマイチ良いトコ無しでしたので今回は是非早々に前線へ飛び出したいなあ〜」
バアルはバアルでこんなことを言う……。するとリリスの目が「閃いた!」とばかりにキラキラと輝いた。
「じゃあ四人で仲良く前線に行きましょう! 決まりですね!」
「えー!? そっ、それはマズいよ流石にマズいって! 決めちゃダメだって! レ、レヴァく〜んっ」
どうにかしてくれ、とサタンは最後の頼りである弟分を見やった。が、弟分は我関せずな感じで窓の外に目を向けたまま返事の代わりに煙草の煙をゆったりと口から吐いた。いつになく冷たい態度である。
「ちょっとレヴァ君〜!?」
「なあ、天使の皆さんはいつ此処に来ると思う?」
話の流れをぶった切り、サタンの困惑そっちのけでレヴァイアが言う。
「は? いつって言われても……」
サタンは頭を掻いた。魔王といえど天使の動向を知るすべは無い。ゆえについさっき『とりあえず向こうの出方を待とう』と言ったばかりだ。レヴァイアがこれを聞いていなかったとは思えないが……。
「こないださ、バアルが嫌な予感がする〜って言った途端に天使軍が現れたじゃん? だから今回もひょっとしたらって」
嫌な予感がするんだよねと溢し、レヴァイアは短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「そんな、私の勘がそこまでピッタリ当たるとは思えませんけど」
話を聞いていたバアルが苦笑いする。
「そーだよお前、縁起でもねえ。普段ヘラヘラのフニャフニャなクセしてこんな時ばっか表情引き締めちゃってさ〜」
そうして笑い飛ばした直後のことである。男三人が一斉に「あっ」と声を上げた。
「サタンさん、今のは言い過ぎ…………え? どうしたんですか?」
一人、何がなんだか分からないリリスが急に血相を変えた男三人の顔を見回す。
「ほら見ろ、俺の言った通りだ兄ちゃん謝れ畜生〜!! 普段ヘラヘラのフニャフニャなのに表情引き締めとか言いやがって俺の予想大当たりじゃんかー!!」
沈黙を破るようにレヴァイアが声を張り上げる。
「えーん!! ごめんなざーい!!」
弟分に怒鳴られ、サタンは顔を崩して嘆いた。
「つか、フザケてる場合じゃなーいっ!! 行きますよ!!」
言うとバアルは飲みかけの紅茶をテーブルに荒っぽく置いて早々に姿を消した。レヴァイアもそれに続く。何せ、ことは一刻を争うのだ。
「俺らも行くぞ、リリス!!」
サタンが力強くリリスの手を握った。
「えっ? えっ? あ、あの、一体何が……?」
行くぞ、と言われ手を握られても事態を全く飲み込めていないリリスには何が何やら。しかし様子からしてことは一刻を争うのは明らか。悠長に説明する暇は無いらしい。
「見りゃ分かる!!」
瞬きする間に景色は一変した。
周囲を見渡して此処がバアルの城の屋上テラスであることを知ったリリスはサタン、バアル、レヴァイアの三人がジッと静かに見つめている方向へ一緒になって目を凝らし、そして絶句した。
「あ……、あれは……」
街と反対方向、荒れ地広がる景色の向こう一面に、揺らめく白い渦が確認できた。その見覚えある歪な白い渦が、轟音を立ててこちらに勢い良く向かって来ている。
目を凝らすまでもない。あれは遠くに見える天使軍の群れだ。
「天使軍が……! こんな街の近くに現れるなんて……!」
リリスは全てを把握した。リリスと違って魔王三人にはあの天使軍の群れが此処、魔界の地へと降り立った音が容易く聞こえたのである。
「意図が読めませんね。狙い撃ちにしてくれと言っているようなものだ」
高い崖を駆け下りてくる剥き出しの天使軍を見てバアルの眉間に皺が寄る。
「ざっと見渡して敵数は33億3333万てトコかな。前回の生き残りをまんま使った感じか……。とりあえずお言葉に甘えて狙い撃ちしようぜ」
さあ始めようとレヴァイアが鋭利に目を光らせる。だが、すぐにサタンが「待て」と制止した。
「なんで?」
そりゃヤル気を出したところを止められたらレヴァイアといえど機嫌を損ねるというものである。怒りを隠さぬ牙剥き出しで鼻筋立てた凄い形相だ。
「そんな顔すんなよ〜!! バアルの予感は当たるんだろ? だったらお前は此処にいろ。前線にはとりあえず俺が一人で出る」
今回はバアルがピンポイントで狙われる可能性がある。それと真っ先にこちらへ突っ込んできているのは自我すら持たない下級天使だ。サタン一人でそれなりに薙ぎ払える。わざわざレヴァイアまで出向く必要は無い。……が、バアルもバアルで眉間に皺を寄せた。
「貴方はそんなに私が護衛必須のか弱い存在に思えまして?」
すると隣のリリスも頬をパンパンに膨らませてサタンを見やった。
「サタンさん!! また私のこと無視なさってるけど今日は私もついて行きます!! 何がなんでもついて行きます!!」
「……あーーーーもーーーーーーッ!!」
言うこと聞かない人たちばっかり!! サタンはムシャクシャして頭を掻き毟った。と、そうしている間にも天使軍はこちらへ向かって来ている。仲間内でモメてる場合では断じて無い。それはバアル、レヴァイア、リリスもちゃんと分かっていた。
「冗談ですよ。あの軍勢なら貴方一人でどうにでもなる。私は此処から街の住人に結界を張るよう指示して暫くは様子を見ます。レヴァイアは一緒に待機、リリスは〜……では今回はサタンの側でお手伝いお願いしますね。ただし、無茶はしないように。約束ですよ」
バアルが朗らかに微笑む。
「はい!! 分かりました!!」
その指令を待っていた! とばかりにリリスは目を輝かせた。実際彼女はそこそこ戦える。側に置いてもそこまで支障は無い。
「仕方ないなあ〜」
サタンは頷くことにした。前回、充分に怖い思いはしたはず、それでも同行したいという彼女の思いは本物だと見込んだのである。そこそこやれるなら充分だ。今回は奇襲にも程があり、一人でやれる自信はあれど手伝いがいてくれるに越したことはない。
「俺はちょっと不服だけど、まあ仕方ないな」
一人レヴァイアだけは不機嫌そうに煙草を咥えた。苛立つとすぐに煙草を口にする……、本当に彼は分かりやすい。
「だっからそんな顔しないのっ!! んじゃリリス、行くぞ!!」
「はい!!」
「いい返事だ。しっかりついて来いよ」
サタンは何処からともなくリリス愛用の鞭を取り出して手渡すと、その場から彼女と共に音もなく姿を消した。
同時に、この城を含む街一帯に住人が総出で作り上げた幾重にも重なる分厚い結界が張られた。これだけ強力な結界だ、神でなければまず崩せない。
「さて、こうなることは目に見えていたはずですが……、本当にどういうつもりなのか」
籠城戦ならやはりこちらが圧倒的に有利だ。尚且つ向こうは大した準備もせずにやって来た。それはあの先日の戦争に比べて酷く見劣りする軍勢を見れば一目瞭然……。あまりに稚拙な攻め方にバアルは胸騒ぎを隠せなかった。
「不気味、だな」
レヴァイアも眉間に皺を寄せる。こうなると逆に神が直接手を下す気でいる可能性を考えなければならない。だが、こんな場所で戦争を起こせばサタンとレヴァイアの二強は街にいるのだ、神が一矢放ったとしても100%の効果が期待出来るかは怪しい。何故なら彼らは『希望』だ、誰の想像もつかないことを実現してみせる圧倒的な存在である。
「ラファエルは馬鹿じゃない、ってのは俺よりお前のがよく分かってることだよな。やっぱ裏があると思っていい……のか、それとも思わせといて何も無いのか?」
言いながらレヴァイアは短くなった煙草を床に吐き落として火種を踏みつけるとすぐまた新しい煙草を口に咥えて火をつけた。……イラついているようだ。
「吸い過ぎじゃないですか?」
真隣で延々と煙を吹かれては流石にバアルもこう言いたくなる。
「煙草吸い過ぎたくらいで死ねる身体なら苦労しねぇよ」
「おや、随分な態度じゃないか」
そうしてバアルが苦笑いすると同時に目の前の荒れ地に派手な爆発音を立てて雲さえも貫きそうな巨大な火柱が上がった。サタンが天使たちの進軍を食い止めようと渾身の力で広範囲に渡り放ったものだ。身体を焼かれた天使たちの阿鼻叫喚と焦げ臭い香りが此処まで届く。結界越しだろうと構わず、だ。
いよいよ始まった。
「とりあえず私たちは様子見に徹しましょう。街の皆には待機を命じています。早く戦わせろとうるさくて仕方がないけれど、少し辛抱させるしかないね」
私も辛抱だ、と呟いてバアルは深く息を吐いた。背後に見渡せる街から「出撃命令はまだですかー!」と叫ぶ悪魔たちの声が聞こえるが、本当なら自分だって飛び出したいのである。だが、ここは辛抱だ。
「バアル」
「ん?」
名前を呼ばれてバアルが振り向くと、いつになく真剣な眼差しで天使軍の動向を見据えているレヴァイアの横顔があった。
「何があってもお前だけは守るから安心しろ」
「えっ?」
脈略もなく放たれた一言にバアルは目を丸くした。
「急に、どうした? 私はそんな守られキャラじゃありませんよ」
そしてレヴァイアもレヴァイアでそんな言葉を真顔で放つキャラではない。
「分かってるさ。けど、一応言っとこーかなって。いつ世界が終わっても悔いがないように、ね」
「あ……」
思わずバアルは声が漏れてしまった。そうだ、そういえば今回で決着がつくかもしれないのだった。忘れていたわけではないが改めて言われると身が引き締まる。
「ありがとう」
「どう致しまして」
久々にレヴァイアがニッと歯を見せて笑ったその時、また荒れ地に派手な爆発音を立てて巨大な火柱が上がった。サタンがあんなに頑張っているのだ。自分たちも負けてはいられない。
魔王二人が決意を改めている頃、サタンとリリスは街へ進軍しようとする天使たちを虫のように蹴散らし、その歩みを食い止めていた。
「オラオラオラオラァアアアアア!!」
今日のサタンはヤル気に漲っていた。これは先日バアルから貰った「もっとカッコイイ姿を見せてリリスにアピールだ!」という助言の効果である。
自分を見るたび顔を赤くするリリスを見てなんだか脈がありそうだとサタンが相談したところ、ならばチャンスだアピールしまくって押せ押せとバアルは返してきた。と、いうことで、そのまんまサタンは今、押せ押せモードなのである。よって、このように周囲を物凄い数の天使に囲まれ休みなく襲い掛かられていようと彼は気にしない。むしろ大歓迎な勢いであった。
「おのれ魔王サタン!!」
「悪しき希望め!! 消えてしまえ!!」
山のような下級天使の群れに混じって中級天使たちもサタンに襲い掛かる。しかし勢いに乗った帝王の敵ではない。
「好き勝手言ってくれてんじゃねーよ!!」
ひと睨みでサタンはあっという間に威勢良く飛び掛ってきた中級天使を火ダルマにして滅した。
「おら、どーした!! どんどんかかって来い!!」
今の彼は最早、敵無しである。
しかしノリノリな反面サタンは手応えの無さが気になっていた。本当に、あまりにも戦っていて手応えがない。言葉は悪いが、まさにゴミを蹴散らしているような感覚だ。
(こんな、こないだの生き残りかき集めただけの精気無い軍勢をけしかけることになんの意味があるんだ? 何をそんなに焦っているラファエル……!)
「サタンさん!!」
「え?」
リリスに呼ばれ、サタンは絶えず天使を蹴散らしつつも思考を巡らすことは一時中断して目を向けた。
「なんだどーしたリリス!!」
「どーしたも何もサタンさんが強すぎるせいで私の出番が全くありません!! 私も何かしたいです!!」
彼女は、襲い掛かる天使の群れを軽々と蹴散らしてしまうサタンの大活躍に不満だった。
「お前はそうやって元気に息吸ってるのが仕事だ、気にすんな」
「嫌ですー! そんな冷たいこと言わないで私にも何かやらせてくださいっ! 私だって少しは戦えます!」
……ここまで言い張るなら仕方がない。
「分かったよ、ほれ」
絶え間なく炎を巻き上げ天使の群れを焼き払っていたサタンだが、あえてリリスに飛び掛ろうとしていた数人の天使を見逃してみせた。
「え? っきゃああああああああああ、そんないきなり酷いー!!」
炎の間を縫って殺気に目を光らせた下級天使たちがリリスへと襲い掛かる。
何かしたいと言い出したのは自分だ、しかしサタンの態度はあまりにも唐突過ぎる。リリスは大慌ても大慌てで鞭を振るった。酷く大振りな攻撃。しかしこれでちゃんと向かってきた下級天使たちを一撃で仕留めるのが彼女の凄いところである。
「アハハハッ! いい動きだ、リリス!」
「んっもう! 今の本当に危なかったじゃないですか! 馬鹿! 最低!」
茶化してるんだか褒めてるんだか分からないサタンの態度に声を荒げるリリス。しかしリリスがどんな態度に出てもサタンは余裕も余裕といった感じである。
「いいねぇ、言うようになったじゃねーか」
この通り、余裕に満ちた意地悪い笑みが返ってきた。
「……何よ、馬鹿……」
そこがまたカッコイイ……なんて思ってしまったリリスは悔しさに唇を尖らせた。サタンはフザケながらも天使を一掃する手は決して止めない。先程危ういことをしてはくれたが、あれはいざとなれば紙一重でリリスを掠り傷一つ負わさず助けることが出来るという自信あってのことだ。
なんということだろう、悔しいが本当にカッコイイ。
(サタンさん、貴方ズルイわ……)
無数の天使たちに囲まれ殺気を向けられているというのに、こんな呑気なことを考えていられる。これは、やはり、周りの状況などお構いなしに彼の隣こそがリリスにとってこの世界で最も安心出来る場所ということだ。
悔しい、本当に悔しいが、事実だ。認めるしかない。
一方サタン本人は急にリリスが顔を赤くして黙ってしまったことに「やったぜバアル!! 狙い通り確かな手応えを得た!!」とこっそり心の中で拳を握っていた。女性一人の命を片手で守りながらの戦いを強いられているというのに彼も彼で呑気なものである。
が、次の瞬間、サタンは表情を一変させた。
「やっぱり何か狙ってやがったな……」
サタンの口から漏れた誰に向けてでもない呟き。聞き逃さなかったリリスが「え?」と首を傾げて振り向く。同時に、休みなく飛び掛かってきていた天使たちが足を止めてサタンから距離を置いた。
一体何事か……。人間であるリリスには事態が見えない。しかし帝王サタンは一瞬で全てを把握した。
「結界で閉じ込められた。物凄くデカくて分厚いぞ、攻め入ってきた33億の天使が総出で張ったんじゃねーかってくらい分厚い結界だ。ラファエルの気配も感じる。俺の側から離れるなよリリス」
「は、はい!」
急に声色を変えたサタンの様子。それだけで只事ではないと理解したリリスは急いで彼に身体を密着させた。
「こうなることは読んでたけどな。どうするつもりなんだか?」
この奇襲、サタンとレヴァイアの二人を引き剥がすことが目的であることは最初から分かっていた。だが、あえて乗った。乗るしかなかった。完全な籠城は神に勝機を与える結果となりどう転んでも犠牲が出る、魔王三人が揃って敵陣に特攻しても同じく街をがら空きにすることとなる。相手の狙い通りとはいえ、あえて二手に分かれる以外に選択肢は無かった。そして分かれるとなれば要となるのは不死であるサタンとレヴァイアである。犠牲を最も少なくするには神ですら殺すことの叶わぬ二人が行動する他ない。
気になるのは、その先だ。サタンとレヴァイアを分断して一体どうする気なのか。
決して死すことない巨大な力が相手なのだ、このままでは一方的に天界側だけ損失が大きい。まさかそんな失策を神とラファエルが練るとは考えられない。
一体、相手の目的は何か。希望の一方を結界内に閉じ込めたところで破かれるのは時間の問題だ。戦力を分断して街を消すことが目的としても魔王二人が側で目を光らせている挙句に住人が総出で結界を張り守っている、これを打ち破れる者は『神』しかいない。
「お察しの通りだよ」
「なに!?」
考え巡らすサタンの目の前にラファエルが姿を現した。
「ラファエル……!」
怯えたリリスがサタンのマントをギュッと握り締める。流石にラファエル相手となると先程までの余裕は無い。
「……やっと重い腰を上げたってことか……!」
わざわざご丁重に顔を出し目の前で不敵に笑う敵将の余裕を見てサタンは全てを察し、唇を噛んだ。
神が、直々にやって来る。
瞬間、サタンとリリスは正面に立つラファエルの肩越しから襲い掛かってきた凄まじい突風と目が潰れるほどの眩い光を真っ直ぐに受けてしまった。あまりに一瞬で身に真正面から襲い掛かってきた風と光。声を上げる余裕もなくリリスは必死に足を踏ん張り両腕を顔の前に組んで防御を固めることしか出来なかった。
この、太陽を直接その目に見るよりも酷く眩しい光はラファエルが放ったものではない。もっと『途方もなく強大な存在』の仕業だ。
「ッ……リリス!! 絶対、離れるな……!」
自身も凄まじい突風と閃光に晒される中、サタンはリリスを片手で引き寄せマントの中に包み入れた。そして思った、『この城から見える景色に眩い光が差し込んで視界が全て真っ白く染まる』というバアルの予言はこの光を指していたのだと。
「この熱……、この光……!」
遥か前方、結界の外から鋭利に肌を刺すこの気配にサタンは覚えがあった。
間違うはずもない、この唯一無二の気配を察し間違うはずがない。
「神……!」
確かな確信を持って、光に視界を奪われながらもサタンは相手の名を呼んだ。
とうとう先の見えぬ戦いに終止符を打つために神が此処魔界へ足を踏み入れた――これは大きな危機でもあるが自力で天界へ攻め入る術を持たないサタンらにとっては好機でもある。しかし、今のサタンには『危機』しか感じられなかった。
33億の天使が総出で張った結界内にサタンを閉じ込めた神が狙うは、向こうだ。
「レヴァイア!! バアル!!」
遥か後方、城で待つ友に振り向いてサタンは声を張り上げた。
ひょっとしたら神は私をピンポイントで狙ってくるかもしれませんね、とバアルがさり気なく放った言葉が脳裏を過る。この結界を打ち破ってサタンが加勢をするには相当の労力を要する。ならば、信じるしかない。今は仲間の無事を信じるしかない。
『大丈夫、俺が守る』
ふと、サタンの頭の中にレヴァイアの静かな声が聞こえた。そうだ、強気でいよう。この33億の意思が築き上げた強固な結界をも貫き届けてくれた友の声を信じなくて何を信じるのか。
ようやく収まり始めた光と突風。サタンは顔を上げてまず目の前にある壁、ラファエルを見据えた。
『分かった、俺は俺でしっかり気張るぜ……!』
反対にこのサタンの声はレヴァイアとバアルにしっかり届いていた。
「心配すんな兄貴。約束は破らないさ。……多分」
城で待機を続けていたレヴァイアは煙草を吸いながら遥か前方の荒れ地に灯る、かつて天界で見た空に輝く太陽の光によく似ている眩い一点を見据えた。魔界の景色に不釣り合い極まりないその光の正体が『神』であるという強い確信を持って、だ。
「最後の『多分』が、かなり余計ですよ」
隣で同じくバアルも先程貰ったレヴァイアの煙草を口にしながら確信を持って光の一点を見つめる。
さて、どうしたものか。
引っ込み思案の神が直々にやって来てくれたのだ、バアルとしてはこの機を逃がしたくはない。
(が、それだけ神には相当な勝算があるということ……。そこが不気味だ。あれだけレヴァイアを恐れていた神が堂々と顔を出した意図は一体――――)
刹那、思考を巡らせていたバアルの顔を覆い隠すようにレヴァイアが素早く左手を広げた。同時に、肉の裂ける小さな音が響き一滴の血が床へと滴り落ちた……。
これは、遥か離れた位置にいる神がバアルに向かって一筋の鋭利な光を放った為だ。何より鋭い光の刃が街の住人総出で張った結界を容易く通り抜け、レヴァイアの出した左手のひらをパックリと切り裂いたのである。彼が咄嗟に己の左手を犠牲にしていなければ正確な狙いを定めた神の刃はバアルの口元を、咥えていた煙草ごと横真っ二つに切り裂いていたことだろう。
危うかった、しかし一撃に気付くのが遅れたバアルが眉一つも動かさなかったのは動揺を神に見せてはならない義務感とレヴァイアへの厚い信頼によるものである。彼なら必ず盾になってくれるという自信がバアルにはあった。
「神様はお前に煙草を吸って欲しくないらしいよ」
笑い茶化してレヴァイアがゆっくりと負傷した手を下ろす。パックリ開いた傷口、格好つけてノーリアクションを貫いてくれたが、本当は痛かったはずである。
「余計なお世話にも程があるね。私が何をしようと勝手だろうに」
今こうしている間もこちらの様子を窺っているであろう神へ向けてバアルは見せつけるように煙を吐き、まだ長い煙草を落として火種を踏みつけた。
「それはともかく、やはり神が動くと厄介ですね」
神が放ったささやかな一撃は明らかな宣戦布告であると同時に禁煙の勧めともう一つ、どんなに屈強な結界も意味がないということをバアルに告げていた。
これは、「こっちへ来い」という神からの誘いに他ならない。でなければ街を攻撃するという脅しだ。いや、街ならまだいい。サタンやリリスに矛先が向いたら最悪だ。33億の意思が張った結界に邪魔をされ、レヴァイアとバアルは何も出来ず傍観に徹するしかなくなる。
まるで四方八方に人質を取られた形だ。これではレヴァイア自身が直接結界を張ってバアルと街を守る手も使えない。バアルを引きずり出すためなら神は手段を選ばないはずだ。向こうの結界内に落ちた不死のサタンはともかく一緒のリリスは間違いなく集中的に狙われ、殺される。
「乗る他ないようですよ、レヴァ君」
「だな。やれやれ、また嫌な形でお前の予想が当たっちまった」
血に染まった左手のひらをペロリとひと舐めするレヴァイア。持ち前の治癒力で早速傷は治り始めているが、曲がりなりにも神の一撃。ただの傷より治るのが遅く、まだ血は止まらない。これをバアルが顔に食らっていたらと思うとなかなかゾッとする。
「明らかな私狙い。しかし、まんまとやられはしませんよ。こんな挨拶されてムカッ腹が立っているからね」
庇ってくれてありがとうの意を込めてバアルはシルクのハンカチをレヴァイアに差し出した。
「でもお前は此処で待機してた方がいいかもよ?」
血に塗れた手を受け取ったハンカチで拭い、レヴァイアが意地悪く微笑む。
「御冗談を。わざわざ此処が危ないことを相手は教えてくれたんだ。私も出向く」
破壊神の隣、バアルにとって此処より他に安全な場所など何処にも無い。『生まれた時からそうだった』。当の破壊神レヴァイア本人も分かっていることである。にもかかわらず待機を勧めたのは、やはり神が直々に出向いたことへの不気味さゆえだ。
「分かった。クドいようだが、お前だけは絶対に守る」
「おや、『多分』が無くなったね。嬉しいよ、ありがとう」
言い合って二人はその場から音もなく姿を消し、まばゆく光る宿敵の前に立った。光に霞んではいるが、この姿、間違いない。異様に長い手脚、純白の衣服と艶やかな宝石に飾られた男でもあり女でもある身体、全てを見下ろす目線の高さ、荒地に触れることを避けるように風に揺れ泳いでいる自身の身長よりも遥かに長い金色の髪――対峙して見れば見るほどに確信を得る。目の前に立っているのが万物の根源、神であると。
「久方振りですね、バアル」
神が柔らかな口調で言ってまばゆい光に隠れた端正な顔を微笑ませた。
「しつこいと思うでしょうが、改めて聞きますよバアル。私の元へ帰ってくる気はありませんか? 私は貴方に帰ってきてほしい」
「断る」
簡潔に返すバアル。だが神の優し過ぎる声に拒否反応と寒気を覚えた彼は無意識にその場から一歩下がりレヴァイアの後ろへ身を半分隠してしまった。これは本来、反逆の筆頭に立つ王が決して行なってはならない動作である。「私に続け」と声を張り上げ大勢の仲間を率いる彼が敵将の気迫に押されて一歩後ろへ下がるなど絶対に許されないことだ。それはバアル本人ももちろん分かっていた。にもかかわらず無意識に引いてしまったのである。ぶっちゃけ小一時間の説教ものだ。だが、レヴァイアは特に指摘もしなければ責めることもせず、真っ直ぐ神を睨み据え続けた。屈強な意志を誇るバアルであっても本能的に威圧されてしまう、神がそれだけ強大で恐ろしい相手だと分かっていたからだ。
「俺には挨拶も勧誘も無しかい、創造主」
普段の口調そのままにレヴァイアが言う。すると神は朗らかな表情を一変させた。まるで人形のような無表情。お前には喜怒哀楽のどれだろうと向ける価値が無いという憎悪の表れである。
「必要がない」
一切の感情が無い声。神の抱いている想いがよく分かる。
「お前、俺のこと嫌い過ぎだろ」
怒りやら何やらを通り越してレヴァイアは思わず笑ってしまった。
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