【08:両雄を見つめる女神の視線(2)】
サタンは遥か前方にて神とレヴァイアが対峙した気配を悟った。創造の神と破壊の神がこうして直接顔合わせするのはいつ振りのことだろう。
レヴァイアとバアルのことは勿論信じている。だが、どうにも嫌な予感が胸を締め付けて止まらない。
「ラファエル!! この結界を解け!!」
目の前に立つラファエルへ向けサタンは声を張り上げた。周りには33億の天使軍。負ける気はしないが殲滅するとなると流石に時間は掛かる。
「解けと言われて素直に解く馬鹿が何処にいる?」
……ラファエルの回答はごもっともだ。後ろでリリスも「ですよね」とさり気なく頷く。
「そこをどうにかするのがテメェの仕事だろがよ!! アイツらが顔合わせしたらどうなるか分からねーわけじゃねぇだろ!?」
「お前の言い分はよく分からないな。ま、とにかく此処で一緒に様子を見ようじゃないか。どんな修羅場になるのやら、な」
言いながらラファエルは静かに槍を構えた。今まだラファエル含む33億の天使は距離をおいて待機体制をとっているが、もしもサタンが結界を破る素振りを僅かでも見せたなら……。彼らは一斉にこちらへ飛び掛ってくることだろう。
はたして、どう動くのが賢明か。
遅かれ早かれこの軍勢とは戦うことになる。今、様子見に徹して得することは大してなさそうだ。だが、行動を焦る理由は充分にある。
耳の良いラファエルのことだ、今サタンが静かに拳を握り臨戦態勢を整えたことなど容易に察しただろう。
「一体、何を企んでいる?」
ラファエルを睨み据えて問いただす。しかし相手はサタンの眼光など物ともせず「すぐに分かる」と不敵に笑ってみせた。そして、サタンは彼の言葉が正しかったことを知る。本当に事態はあっという間に転がってくれた。すぐに分かるという言葉の通り事態は動いた。何をどう焦る間もなく、最悪な方向に動いた。
「ラファエル、テメェよくも!!」
「サタンさん!?」
遠くで何が起こったか知る由もないリリスは唐突に激高しラファエル目掛けて駆け出したサタンに目を丸くした。だが、動揺している場合ではない。これを皮切りに周りを取り囲んでいた天使たちが雪崩の如く一斉に襲い掛かってきた。何がなんだか分からないが、とにかく戦わなければならないことは確かだ。
リリスが鞭を振るうと同時に、サタンの一撃を容易に槍で弾いたラファエルのこれ見よがしな高笑いが木霊した。
お互いがお互いを話通じる相手と思っていない以上、顔を合わせたからには速攻で刃を向ける他ない。レヴァイアはフレイルの鎖をしっかりと右手に握り、すぐにも神に向かって飛び掛ろうと踏み込み態勢に入った。バアルを背中に庇いながらの戦いになるが、やるしかない。庇われる当人は背後で無表情を保ちつつも少し申し訳なさそうだ。何も出来ないことが悔しくもあるだろう。
相手は万物の根源だ、ありとあらゆる物理的衝撃をその身に吸収し無効化してしまう。ゆえに、この世界ではレヴァイアとサタンしか神に傷を負わすことが出来ない。この事実をバアルは身を以て知っている。普段なら決して甘んじることないお荷物役に黙って徹している理由はそれだ。
「まあ待ちなさい、レヴァイア」
今にも飛び掛かろうとしている破壊神の殺気を削ぐように、神が人形のようだった表情に朗らかな笑みを湛えた。
「必要がない」
先程の言葉をそのまま返し、レヴァイアは殺気を強めた。相手は間違いなく何か企みを秘めている。ならば披露されるより先に刃を交えてしまった方が賢明だ。一騎打ちに持ち込めば勝機はある。
行くか――!
覚悟を決め荒地を蹴ろうとした、その時である。
「この子の顔に見覚えはありませんか?」
神が唐突に何処からともなく幼い子供を呼び出し、両手にそっと抱いて見せつけてきた。
「な……!?」
レヴァイアとバアルは同時に絶句した。神に抱かれたその水色の髪に如何にも気の強そうな少しつり上がった大きな目と真っ白な肌をした幼い少年の顔は二人にとって見覚えがあるどころの騒ぎではなかったのである。
全身を貫く大きな動揺。不覚にもレヴァイアとバアルは神の前で一瞬の隙を生んでしまった。ふと気付いた時には既に、レヴァイアは怪我を負っていた左手をもう一人の水色髪した少年に強く握られていた。
「……あっ!!」
レヴァイアの手を握る少年の両手もまた血に染まっていることに気付き、バアルは絶句した。
「レヴァイア、早く振りほどけ!!」
叫んだが、手遅れだった。触れ合った傷口から血を通じてレヴァイアの脳裏に彼らの父親が生前に見た悍ましい光景が一気に流れ込む。
「あ……あ……あ……っ!」
レヴァイアの目が焦点を失った。半開きの口から引き攣った呼吸が洩れる。
「思い出してよ、何もかも」
手を強く握ったまま、少年が卑しく微笑む。
レヴァイアが瞼の裏に見ている光景、それは少年の血肉に刻まれた父親の記憶だ。彼の父親が見た光景がレヴァイアの目の前を走馬灯のように流れていく。
「オレたち、『パパの記憶』を持ってるんだ」
少年が手を握る力を増していく。
血は心の臓に宿った魂を身体に巡らし個の形を保つ生命の源。それが触れ合えば記憶をも共有出来る。一方が強く望めば一方がどれだけ拒否反応を起こそうと関係なく。
この視線の主をレヴァイアはよく知っている。反対に視線の主もレヴァイアをよく知っている。嫌なくらいにだ。
知り過ぎてるがゆえにレヴァイアが今の今まで思い出さないよう無理矢理に封じていた記憶が次々と甦っていく。
天地創造の過程、青い空、緑広がる大地、まだ生まれたばかりで幼かった仲間たちの懐かしい顔、そして美しい世界に不似合いの巨大な闇の塊……。
(俺、だ……。あれは、俺……)
あの巨大な闇こそがバケモノと指差されていた当時のレヴァイア、今の身体を授かる前のレヴァイア本人である。
シルエットはライオンのような尻尾を持つ四足の獣。ほぼ筋肉のみで構成された身体は硬い漆黒の毛で覆われ、頭部には銀色のたてがみ、額には二本の青黒く光る角、瞳は金色、大きな口には屈強な牙がズラリと並び、手足の先にはこの世の全てを切り裂いてしまいそうな鋭利な爪……、レヴァイアは生まれて初めて自分を客観的な視点で見た。
(ああ、確かにお前から見たらただのトンデモねぇバケモノだな、俺……)
一大陸以上に大きな身体に加えてこの見た目だ。ただそこにいるというだけで世界の半分を日陰にし、生まれたばかりの天使たちを恐怖させた存在であったことに改めて納得がいく。
(それでも、友達になってくれた子はいた)
孤独ではなかった。まだ幼かったサタンは勿論、神の最高傑作と称された美しい少女が一人、毎日のように声をかけに来てくれたことを思い出す。だが、それが原因で彼女は周りからおかしな目で見られることになった。毎日バケモノに近付く不気味な女だと。彼女の背中を見つめるこの視線にもそんな戸惑いの気持ちが僅かに窺える。そして彼に振り返る彼女の表情は酷く不機嫌だ。仲の悪さがよく表れている。
(そうだ、俺に関わったせいで彼女は傷付いた……)
場面は変わり、目の前に天使の姿を得た幼いレヴァイア自身の姿が映った。どうでもいいが相当な見下し視線だ。そういえば彼は背がとても高かった。当時レヴァイアより頭二つは背が高かった。
(嫌だな、色々と思い出すじゃねーか……)
視線の中にいるレヴァイアが若干怯えているのは敵意剥き出しの彼が怖かったからだ。そんな時期もあった。その怯えるレヴァイアの隣には美しく成長した少女の姿。彼女は当時、美を象徴する女神として知られていた。一瞬だろうとその目に見たら決して忘れられないと言われるほどの美しい容姿をしていたのである。
(俺の側にさえいなければ幸せになれたろうに……)
また場面が変わった。これは、今までの光景と一線を画すものだ。狂気に顔を歪めた天使たちの群れ、その中心に酷く怯えた彼女の姿、少し離れたところでレヴァイアは複数人の天使に身体を押さえ込まれて「やめろ」だの「畜生」だの我武者羅に叫んでる。
(その通りだ、やめろ。見たくない。こんなもん見ちまったら……!)
きっと自我が崩壊するという予感があった。しかし拒絶の意志を示しても目を閉じることが出来ない。これは瞼の裏に映る光景。たとえ目を抉っても見えてしまう。
「やめろ……、やめろ……、やめろ……!」
声に出して訴える。それでも視線の主を通じて見せつけられる目の前の光景は消えない。
どうにも出来ないままとうとう目の前で怯える少女に向かって複数の手が伸びた。
――やめて! レヴァイア、助けて――!
悲鳴を上げて少女が草むらに押し倒される。泣き叫ぶ声。だが複数の手は躊躇なく少女の衣服を剥ぎ取る。視線の主を介してレヴァイアの目の前で露わになる少女の身体。視線の主が舐め回すように彼女の身体を見つめているのが視線の動きで分かる。そして――――
「ああああああああああああああああああ!!」
堰を切ったように我を忘れてレヴァイアは絶叫し、頭を掻き毟った。どうしたらそんなに悲しい声が出るのかと思えるほどの悲痛な叫び。呆気にとられるバアルの前で彼はそのまま恐怖に顔を歪め、力無く地面に膝をついた。少年に手を握られて僅か10秒も満たない間の出来事である。
「レヴァイア……!」
どうか我に返って欲しいという僅かな望みをかけてバアルは恐る恐る名を呼んだ。だがレヴァイアは悲鳴を上げて頭を掻き毟るばかりだ。今の彼には現実の景色が見えていない、音も聞こえていない。何故なら今、彼の意識は現実を離れ、血を介して突きつけられた過去の情景の中にいる。
記憶というものはどうにもならないものだ、忘れようと思って忘れられるものではない。ゆえにレヴァイアはこの『地獄の光景』を今まで何度もふとした拍子に思い出しては苦しんできた。今更目の前に突き付けられたところで苦しくはあるが我を忘れるほどではない。だが、かつて自分が殺めた男の視線を通しレヴァイアは初めて見てしまったのだ。間近に苦しむ彼女の表情、姿、それを見下ろし笑い転げる天使たち、遠目に見える無力な自分の姿……。視線の主は事の最中に何度も何度もレヴァイアに目を向けていた。得意げな気分だったのかなんなのかは分からないが、おかげで今こうしてレヴァイアは成すすべ無く半ベソかいてる自分の顔を見る羽目になった。
『嫌なことを、してくれたもんだよな』
(え? ……誰だ!?)
『誰って、つれないこと言うなあ〜。お前』
記憶にない声を聞いてレヴァイアは耳を疑った。今、外の音は一切聞こえていない。聞こえるのは視線の主を通じた記憶の音だけ。誰も今レヴァイアに声をかけることなど出来ない。レヴァイア自身も上手く声を出すことが出来ない。だが、声の主はレヴァイアの声にならない声の問いかけにしっかりと答えを返した。何者も割り込むことの出来ない魂と魂のやり取りをしている最中だというのにだ。ならばこれは『ありとあらゆる干渉を物ともせず凛と存在出来る何者かが此処にいる証拠』である。
一体何がどうなっているのか。戸惑っている間にも目の前の光景は相も変わらずレヴァイアの意志と関係なく流れ続ける。
(誰なんだって聞いてんだろ!! 答えろ!!)
怒鳴り上げたちょうどその時、何処からともなく今の今まで耳にしたこともないような背筋凍る悍ましい獣の咆哮が轟き、青く輝いていた空が灰色に淀んで目の前に真っ黒な突風が吹き荒れた。
(これは……。俺の記憶に無いあの場面……!?)
『そうだよ。お前、ずっとこの時に何があったのか気になってただろ。ちょうどいい。一緒に見よう』
(テメェ、妙に馴れ馴れしいな!! いい加減に答えろ、お前は一体誰だ!?)
声にならぬ声を荒げた次の瞬間、視線の先で笑い転げていた天使たちが鋭利な風によって一瞬で引き裂かれ肉塊となり草むらに散乱した。臓物を身体の上に撒き散らされた少女が悲鳴を上げ、主の動揺した視界が揺れに揺れる。そして――――
『俺は、お前だよ』
レヴァイアは笑いながら次々と天使をミンチにし狂気に顔を歪めバケモノと化した『自分自身』と目が合った。
瞬間、他の誰でもない自分自身の声に改めて呟かれた気がした。まるで、いつかこうして視線の主を通し自分と自分が目を合わすことを見越したかのように、視線がぶつかり合った刹那、しっかりした口調で、『俺は、お前だよ』と。
「ああああああああああああああああああああ!!」
レヴァイアは叫んだ。自身の身体を引っ掻き回し、自我を保つための反抗として腹の底から叫んだ。
「レヴァイア、見るな!!」
彼が何を瞼の裏に見ているか悟ったバアルは声を張り上げ、少年の手を切り離しに掛かろうとした。だが、熱を帯びた尋常ではない力に左腕を掴まれ阻止された。一体誰だ。振り向くと、まばゆい神の顔が間近にあった。成る程、熱と尋常ではない力を感じたわけである。嗚呼、なんということだ、神に腕を掴まれてしまった――!
「う……っああああああああああああ!!」
バアルは王としての威厳も何も全てかなぐり捨てて腹の底から悲鳴を上げた。それ程に彼にとって神が身体に触れることは耐え難い苦痛と生理的嫌悪と恐怖を伴うのである。当然、無二の親友であるレヴァイアはそれを知っている。普段の彼ならばこんな事態は決して許さない。間髪入れずに手を振りほどくか、そもそも神の接近をここまで許しはしないだろう。だが、今の彼は脳裏に過る光景に精神をズタズタに引き裂かれ何も見えていない。
遠くでサタンがラファエルに対し激高したのもこのタイミングだ。彼の耳には二人の叫びがしっかりと届いていたのである。しかし分厚い結界に阻まれ加勢に駆けつけることが出来ない。
臆している場合ではない。どうにかしなくては。ここはバアルが一人でどうにかしなくてはならない。
「離せ!! 私に触れるな!!」
少しでも事態を好転させなければならない。神の手を振りほどき早くあの水色頭なクソガキをレヴァイアから引き離したい。自身の攻撃が神に一切効かないことは分かっている、それでもバアルは右手の爪を鋭利に光らせ、振りかぶろうとした。だが、振りかぶるより先にその右手首を神に左腕同様掴まれてしまった。ならばと自身の周囲に氷の刃を作り上げようとしたが神の熱によって阻まれ氷は氷とならず、まるで灼熱の油にベーコンをブチ込んだような音を上げて一瞬で蒸発してしまった。周囲を虚しく蒸気が包む……。
ダメだ、気持ちばかり焦ってはダメだ。こうしている間にもレヴァイアは精神を引き裂かれ悲鳴を上げ続けているが焦ることだけは避けねばならない。
「そんな荒い言葉を放つものではありません。子供たちが見ている前ですよ」
尋常ではない力を手に込めてるとは到底思えないような涼しい微笑みを湛える神。バアルはその時、レヴァイアの手を掴んでいる一人を含む計11人の水色髪の少年たちが自分たちを取り囲んでいることに気付いた。
彼らは総じて冷たい目で、狂ったように頭を掻き毟るレヴァイアを見つめている。
「可愛いでしょう、みんなお父さんにそっくりで。でも一番似ている子はお腹が痛いと駄々をこねて今日お留守番なんです。是非貴方と会わせてあげたかったのですけれどね」
「神……、貴様というヤツは……!」
少年たちの正体に絶対の確信を得てバアルは唇を噛んだ。
「バケモノ」
ボソッと呟き、しつこく手を握っていた少年がようやくレヴァイアから離れた。するとまるで糸が切れたようにレヴァイアは全身の力を失って地面に膝を付き、深く項垂れてしまった。長い前髪の隙間から覗ける目は焦点定まらず空虚な一点を見つめている。
バアルはすぐに察した、今の『バケモノ』という言葉がしっかり彼の耳に届いてしまったことを。
「このクソガキがァ!! 今、誰に向かってバケモノと言った!?」
余裕の無いバアルは相手が子供だろうとお構いなしにドス利かせた声を荒げた。真横で神が大きく溜め息をつく。しかし相も変わらず拘束は固く、常に逃れようと努力しているが神に掴まれた腕は僅かも動かない。
「お前もお前でいい加減にこの手を離せ、木偶の坊!!」
バアルは自身より優に頭一つ分は背の高い神を見上げ、そのサンダル足をヒールで思い切り踏みつけた。だが、神は微動だにしない。眉一つ動かさない。それだけ痛くも痒くも悔しくもないということだ。屈辱にもほどがある。バアルはますます怒りに顔を歪めた。もう我慢ならない、冷静でいられない。
そこへ水色髪の少年一人が歩み寄り、まじまじとバアルの顔を見上げて「女神サマ、本当ガサツになっちゃって……」と大きな目をパチパチさせながら小さく呟いた。
「女神、だと……?」
今の一言は鼻筋立てて憤慨していたバアルを絶句させるに充分な力を持っていた。
「言ったろ。俺ら父さんの記憶を持ってるんだ。だからアナタの正体もアイツの正体も知ってる。アナタは女神、アイツはバケモノだ」
バケモノ、と少年が深々と項垂れたきり動かなくなったレヴァイアを指差す。それに続けとばかりに他の少年たちも一斉に「父さんを殺したバケモノ」「壊すことしか出来ないバケモノ」と口々に言い放って何も言い返さぬ無力な男を指差し始めた。
「オレたち知ってる。アイツが本当は凄く巨大な怪物だってこと知ってる」
「オレたち知ってるよ。アイツ天界にいた時は天使のふりして今は悪魔のふりしてるけど本当はどっちでもない一人ぼっちの存在だってこと知ってる」
悪意に満ちた言葉が続く。
「やめろ!!」
大声で叫び、バアルは思った。愛らしい見た目とは裏腹に流石あの男と神の間に生まれただけあって彼らは決して子供という無垢で可愛い存在ではない。やめろと怒鳴って容易に口を閉じる相手でもない。彼らは父親の記憶を継いだせいで生まれながらにこの世界の醜さを知っている立派な『大人』だ。だから他人を傷付ける術を既に知っている。
彼らは、冗談抜きにレヴァイアの精神を崩壊させる気だ。
「やめろって、どうして? オレたち本当のことを言ってるだけだよ」
一人の少年がバアルに振り向き、ゾッとする程に愛らしい笑みを溢す。
「忘れるなんて許さない。破壊神、アンタはせめて殺した人の顔と名前を覚えておくべきだ。そうでしょう。嫌でも思い出してもらうよ。少なくともオレたちの父さん『ミカエル』と『ジブリール』の名前は絶対に思い出してもらう」
「ミカエルとジブリール。さっき血の記憶でしっかり顔も名前も思い出したよね?」
瞬間、俯いていたレヴァイアの呼吸が止まったようにバアルには見えた。
ミカエルはまだしも『ジブリール』の名は決して彼に聞かせてはならないもの。
嗚呼、最悪だ。レヴァイアの中にある絶対に触れてはならない場所をあの子供は的確に突いた。
「レヴァイア!! 聞くな!! 子供の戯言だ、耳を貸すだけ無駄だ!! 聞くな!! 何も見るな聞くな『ジブリール』なんて女は最初から存在しなかったんだレヴァイア!!」
叫んでいる最中、不意に背後で神が微笑んだのをバアルは察した。勝利を確信した卑しい笑み……。バアルは悔しさに唇を噛んだ。神に腕を取られ何も出来ない自分が本当に情けなかった。
『サタン、すまない。助けてくれ……!』
いつ振りだろう、彼に向かってこんなにも正直な弱音を吐いたのは。だが、いつもならすぐにあるはずの返事は無い。バアルには聞こえないがサタンは今頃レヴァイアに向かって必死に『しっかりしろ』と呼びかけているのだろうか。または結界を少しでも早く打ち破ろうと奮闘しているがゆえに何を返す余裕もないのか。
「バアル」
不意に耳元で神が囁いた。妙に生温い声。バアルの背筋に悪寒が走り、足が震えた。
「バアル、貴方が藁よりも頼りない希望に縋っていることを教えてあげましょう。貴方は希望を見失い溺れ、無我夢中で足掻く中たまたま手元にあったあの藁を掴んだに過ぎないのです」
あの藁、と神は感情の無い目をレヴァイアに向け言葉を続けた。
「貴方たち、そのバケモノに言っておやりなさい。お前は触れるもの全て壊してしまう忌むべき存在だと。破壊するばかりで何も守れない男だと。自分の『愛しい愛しい女神すら手にかけて殺したのがその証拠』だと」
「神、貴様!! さっきから何を勝手な!!」
神の言葉は全て事実無根の言いがかりだ。だが、弱り果てたレヴァイアはきっと真に受けてしまう……。バアルは出来る精一杯の反抗として声を荒げ、神と少年たちの暴言を掻き消そうとした。しかし、既に何もかも手遅れだった。少年たちはバアルの怒鳴り声など物ともせず神に言われた通りの鋭利な言葉を次々とレヴァイアに投げつける。そしてとうとう、決定的な一言が放たれた。
「このバケモノ最低だよ。自分を唯一愛してくれた『ジブリールすら殺した』んだから」
この言葉。ジブリールすら殺したという言葉に茫然自失であったレヴァイアの心臓に矢を突き刺されたような痛みが走った。
(そうだ俺はバケモノだ。ジブリールすら殺したバケモノ。俺バケモノなのになんで此処にいるんだ……? こんなに忌み嫌われてまで、どうして……)
最早、彼の精神は限界を超えてしまった。自我が保てない。意識が遠退いていく。視界がぼやけて定まらない。何も見えなくなっていく。
『悔しいなあ悔しいなあ俺!! でも貧血起こしてフラフラしてる場合じゃねーぜ。ほら、向こう見ろよ』
(向こう……?)
またも聞こえた自分そのものの声に従って目を向けると、薄っすらと神に捕らわれたバアルの姿が見えた。必死に何かを言っている。「しっかりしろ」「お前はジブリールを殺していない」「お前は希望だ、絶望の化身なんかじゃない」と声を枯らす勢いで叫んでいる。
(なんで? なんでお前はいっつもそうやって俺の存在を望んでくれてるんだ……? 俺は、お前のこともきっと不幸にする、それなのに……!)
『じゃあ見捨てるのか? 側にいるな、そのまま神と行っちまえっていうのか?』
(誰もそんなこと言ってねーだろ!!)
馴れ馴れしい自分自身の声にレヴァイアは唇を噛んだ。
『だよね、良かった。だってちょっと想像すりゃ分かるもんね。神様がアイツを天界に連れ帰ったらまず何をするか……。俺は嫌だ。想像すらしたくない。だから、助ける。さっき自分の本性見たろ? あの力を使おうぜ、そしたら神にも勝てる』
(さっき……?)
心当たりは、あの天使たちを一瞬でトマトジュースにしてみせたケダモノ染みた自分の姿だ。
(ダ、ダメだ、あんな暴れ方したら大変なことになる……!)
レヴァイアは青褪めた。
記憶に見たあのレヴァイアは我を忘れ、傷付いたジブリールのことを僅かも気にかけず大声で笑いながら殺戮を楽しんでいた。一切の見境もなく、ただ殺戮を楽しんでいた。
『おい。そうやって俺がウダウダ葛藤してる間にジブリールは陵辱されて死んだんだぜ。バアルも同じように失いたいか?』
(お、俺……、俺、は、俺は――!)
虚ろな瞼の裏に悲痛なジブリールの姿が甦る。美しかった顔も身体も真っ赤な血に染められた、あの姿が。
(俺が殺した、俺が情けなかったから、俺が何も出来なかったから……!)
色々な光景が瞼の裏に次々と過っていく。忘れたかった忌まわしい思い出が次々と。
『後悔したくねぇなら躊躇なんかするな。俺が本気になりゃ不可能なんか無い。さあ、考えることなんかやめてこの絶望しかない世界を派手にブッ壊してやろうぜ。ジブリールの為にもな』
(この、絶望しかない、世界を…………)
レヴァイアの胸に果てのない破壊衝動が湧き上がる。常に必死で抑えているドス黒い感情がリミッターを外れ全身に巡っていく。弱り果てた彼にはもうそれを止めることが出来ない。
――おはよう破壊神レヴァイア。さあ彼女を傷付けるもの全てを破壊しよう。己もろとも全てだ、彼女を傷付けるものは全てブッ壊すんだ――!
何処からともなく聞こえた目覚めを歓迎する自分自身の声。
彼はついに、己の中に溢れる狂気の渦へ身を委ねてしまった。
「レヴァイア……」
項垂れ続けるレヴァイアに静かな変化が起こったことをバアルは察した。
今、この世界の風が全て止まった。これは、嵐の前触れだ。この凍てついた空気をバアルは一度その身に浴びたことがある。だから、分かる。
(お前たちの狙いは、私ではなかった……! お前たちの狙いは最初からレヴァイア一人……!)
先を全て読まれていたのだ。天使軍の姿を確認してサタンとレヴァイアが二手に分かれること、前線に向かうのがサタンであること、バアルの顔を狙えばレヴァイアが身をていして庇うこと、そうして身体の何処かに傷を負うこと、ミカエルの子供を見れば動揺が生まれること、その全てを読まれていた。
ラファエルが手薄な軍勢でもって歪なほど街の近くで事を起こしたのもこうしてレヴァイアに我を忘れさせることが前提だったとしたら納得だ。上手くいけばレヴァイアの手で街を破壊することが出来る――。
「貴方たち、ご苦労様でした。先に天界へ帰っていなさい」
目的を果たした神が少年たちに笑顔を向ける。
「はーい! ご褒美のお菓子、絶対だよ神様!」
目の前の状況お構いなし。彼らは無邪気な笑顔でもって手を振り、揃ってこの場から姿を消した。……バアルは思った、あのクソガキ共め次に会った時は必ず殺すと。いやしかし今は怒りに頭を煮やしている場合ではない。
「ガアアアアアアアアアアアアア!!」
弾かれたように顔を上げたレヴァイアが背筋を仰け反らせ、荒れ地一帯に獣の咆哮を轟かせた。あの声、あの仕草、間違いない。バアルは以前一度見たことがある。あれは、彼が完全に我を忘れてしまった姿だ。ああなった彼は何をするか分からない。
(私のせいだ、何もかも後手に回ってしまった……。私のせいだ……!)
破壊神に狙いを定めるわけがないという驕りが心の片隅にあったとしか思えない。バアルは読み誤った己を責めた。
「……哀れですね」
神が耳元に囁く。
「なにを……うあっ!?」
言葉を返そうとした次の瞬間、神の放った鋭利な光の刃がバアルの胸、腹、背中、四肢、喉笛を的確に深く切り裂いた。
「ごめんなさいね。貴方が彼を止めてしまったら折角の作戦が台無しなので」
ようやくバアルの両腕が神の手から開放された。だが、今更だ。上手い具合に四肢の腱を断たれ脊髄も破壊されてしまったバアルは指先一つ動かせず地面に倒れ伏した。受け身の取れないバアルを気遣って神が忌々しいほど優しく手を添えてくれていなければどんな倒れ方をしていたか分からない。
「ゴホッ!! ゴホッ!!」
酷い屈辱。しかし文句を言いたくとも喉を裂かれたせいで口からは血しか出ない。
「後日改めて迎えに来ます。その時までにはちゃんと心変わりしておいてくださいね、我が愛しい子」
神が身を屈め、バアルの耳元にまた囁く。悠々とした声でだ。こんなに悔しいことはない。しかし喉を裂かれたバアルには何も言い返せない。
「貴方は今度こそ悟るべきだ。貴方の希望はあの獣ではなくこの私だと。この創造主であると。……惜しいな、その下品な口紅さえ厚く塗っていなければ別れの口づけをしたのに」
更に身を屈めた神が赤い舌を伸ばしてバアルの首に滴る鮮血を一筋ベロリと舐め上げる。本当に、こんな屈辱はそうそうない。が、身動き取れぬバアルの代わりとばかりにレヴァイアがこちらへ雄叫び上げて突進してきた。金色に輝いて目立っている神に狙いを定めたのだ。しかし彼のフレイルが届くよりも神が音もなくこの場から姿を消す方が僅かに早かった。
空を切った重厚な鉄球がバアルの真横に落ちる。
『レヴァイア……!』
声を送って必死に視線を彼に向ける。けれど返事は無い。目線だけでも合わせられればと思ったがレヴァイアの狂気に染まった目は何処か空の彼方に向いていてバアルを僅かも見ていない。
やがて彼は遠くに何か『壊せるもの』を見つけたのか「ニヒッ」と牙を剥き出して微笑むとこの場から姿を消してしまった。
(と、止め……ないと……。彼を……止め、ない、と…………)
ひょっとするとサタンの下か街に向かったのかもしれない。これは非常にマズイ。今の彼には世界の全てが醜く見えているのだ。怒りに任せて仲間を手にかけてしまう可能性は大いにある。それだけは防がねばならない。
『サタン……、リリス……、逃げて……!』
精一杯に声を振り絞る。どうかこの声が届きますようにと心の底から願って。願いに願って。
『逃げ、て……!』
絞り出すように願って、バアルの意識はここで途絶えた。
「え?」
雪崩の如く押し寄せてくる天使の群れに応戦している最中、リリスは何処からともなく聞こえた声へ咄嗟に振り向いた。しかし誰もいない。見えるのは相も変わらぬ金色に輝く天使の渦。最早一人一人が命を持っているとは思えないほどの圧倒的な数。倒せど倒せどキリがない。
(このままじゃ、押し潰されちゃう……!)
やっと回ってきた出番ではあるが、これはキツすぎる。先程『逃げて』と聞こえた声も気になる。
リリスはどうするべきか意見を請おうと業火を巻き上げながらラファエルと対峙しているサタンを見やった。あんなに余裕の無い彼の姿をリリスは初めて見たかもしれない。激高の具合も普通ではない。いい加減に何が起こったのか知りたいが……。
「アハハハハハッ!! 大成功だ!! 破壊神は目覚めた!!」
サタンの回し蹴りを槍の腹に受け止めたタイミングでラファエルが盛大な笑い声を上げた。リリスにはなんのことか分からないが「畜生!!」とサタンが声を荒げた様からして何かが起こったことは確かだ。
「お前を落とすことには失敗した、ならばともう一方の希望に狙いを定めたわけだ!! 滅べ滅べ滅ぶがいい、友の手によってな!!」
狂気じみた笑い声が辺りに木霊す。
サタンは思い切り舌打ちをした。成る程、殺すことの出来ない者を相手するにあたり彼らは考えたのだ。殺せないなら立ち上がれないほどに心を砕けばいい……。
(クッソ、こないだの戦い方を見て気付くべきだった……! コイツらの狙いは俺かレヴァイアを中からブッ壊すことだったんだ……!)
どうにか防ごうとレヴァイアにずっと声にならない声は送ったつもりだった。……だが、なんの役にも立てなかった。
「絶望と希望が本気で殺し合えばどうなるのか……。この目に見せてくれ、サタン」
「馬鹿か!! アイツが本気出したらお前らだってどうなるか分かんねんだぞ!?」
余裕綽々で微笑むラファエルにサタンは鼻筋を立てた。それでもラファエルは笑みを崩さない。
「その通り。これは我々にとっても大きな賭けだ。しかしサタン、お前はこの世界の破壊を望んでいたのだろう? なら何故怒る? 私はむしろ感謝して欲しいくらいだ」
「テメェ、待て!!」
叫んだが、サタンが手を伸ばすよりも早くラファエルはこの場から姿を消してしまった。しかし悔やんでる暇はない。古傷を抉られ狂乱したレヴァイアが雄叫び上げてこちらへ向かってくるのが分かる。今の彼は何をするか分からない。
「ああもう考え事してんのに邪魔だッ!!」
群がるように襲い掛かってきた天使たちを一気に焼き消してサタンは思考を巡らせた。
周囲にはかなり数を減らしたつもりだがまだ30億ほどの天使たちがひしめいている。自分たちを捉える結界は消えていない。街の周囲にも屈強な結界が張られている。しかし狂乱したレヴァイアに結界は通用しない可能性が高い。何故なら『彼は以前、神が張った結界を力ずくで破いたことがある』。彼は見境がない。どうしたものか分からないがとにかくサタンが拘束されているこの状況は確実にマズイ。
(何も出来ねぇまま街をブッ壊されたらショックでかいよな。それに結界の強度は街のが上……。俺が手っ取り早く30億の天使を焼き消して街に加勢するのが最善……! そんでどうにかレヴァイアをなだめる!)
結論は出た。
「リリス!!」
オロオロとこちらの様子を見ながら手はしっかりと鞭を振るい天使たちを叩き払っているリリスの元へサタンは天使を蹴散らしながら急ぎ駆け寄った。
「あ、あの、サタンさん。何かあったんですよね?」
「ああ!! いいかよく聞け今から俺が超本気出してこの結界を破く!! そんでお前を街に連れてくからお前はそのまま街の中に避難してろ、いいな!?」
向かってくる天使たちをなぎ倒しながらの会話である。有無をいわさぬサタンの迫力にリリスは山ほど聞きたかった質問を喉の奥にしまい込み、「はい」と頷いて手短に返事した。
「よし……! あと一つ言っとくけど今のレヴァイアは仲間じゃないかもしんねぇ」
「え? それはどういう――――」
言葉を遮るように、リリスの正面から突風が吹き荒れた。尋常ではない風圧にリリスの長い髪が全て舞い上がる。いや、尋常なのは風圧だけではない。周りを取り囲んでいた天使たちの身体が鋭利な風の刃によって幾重にも刻まれ、ただの肉塊と化して荒地へ散乱していく。この殺意に満ちた風をリリスは知っている。これはレヴァイアの巻き起こす黒い風だ。だが、どうしたことかいつもなら頼もしいこの風が、今日はやけに恐ろしい。
「リリス!!」
突風から庇うためにサタンがリリスの身体を抱き締めて包む。
「あ……!」
リリスの目の前でサタンの右肩が鋭利な風に裂かれた。真っ赤な鮮血が風に乗って飛んでいく。やけに恐ろしく感じた理由はこれだ、この風には『見境がない。殺意しかない』。サタンが身をていして庇ってくれなければリリスの身体は今頃どんな有様になっていたことか……。いつものレヴァイアならこんなことはしない。
二人の周りはまるでバケツに入れた臓物入りのトマトソースが空から荒地に撒かれているようだった。細切れになった天使たちが鋭利な風により次々と形を失って崩れていく。リリスの身体が自然と恐怖に震えた。何故こんなに背筋がゾッとするのかは分からない、きっと本能的なものだ。
……間もなく風が止んだ。嵐去った後の静けさが辺りを包む。
「サタンさん……。これは……!?」
声を震わせてリリスは聞いた。不思議な光景はたくさん見てきたが、これは規模が違う。広大な荒地に何処までも広がる血の池……。あの所狭しとひしめいていた天使たちが一瞬で消えてしまった。
「やれやれ……。結界破る手間が省けたと喜ぶべきかどうか……」
そっとリリスを離し、サタンは後ろに振り返った。予感は的中だ。振り返った先には正に怪物の形相をしたレヴァイアの姿があった。
焦点定まらぬ視線、異常な笑顔、背中を丸めた歪な前傾姿勢、開いたままの牙剥き出しな口元からはヨダレが滴り落ちている。
どう見ても、普通ではない。
「レヴァさん……?」
普段、明朗快活なレヴァイアが何故こんな姿になってしまったのか。リリスは息を呑み、これは一体どういうことか答えを求めてサタンを見上げた。しかし返ってきたのは答えではなく、痛みに引き攣ったサタンの表情だった。
間もなく今のレヴァイアに敵味方の区別が無いことは明白だと言わんばかりに今しがたの鋭利な風によって好き勝手に刻まれたサタンの右腕付け根から血が吹き出した。そして、恐らくは薄皮一枚で繋がっていたのだろう。重みに耐え切れなかった彼の右腕はそのままズルリと音を立てて根本から荒地へと落下した。先程の突風で既にサタンは右腕を失っていたのである。
驚きのあまりリリスは声も出せず、荒地にポトリと落ちたサタンの腕をただただ見つめた。想像もしていなかった光景である。まさかあのサタンが腕を失うなど、リリスは本当に想像もしていなかった。
向こうではレヴァイアが地面に落ちたサタンの腕を指差し、ゲタゲタと笑っている。ザマーミロ、と、いうことだろうか……。
「こりゃ……、本気でヤベーな」
サタンの顔に苦笑いが浮かぶ。レヴァイアと顔を合わせたらまず「やめろ」と言うところから始める気でいたが、向こうは完全にサタンを敵と見なしている。はたして説得する余地はあるのか無いのか……。
(ロテ、後は頼む)
声にならぬ声で呟き、サタンは落ちた自分の右腕を足で軽く蹴り上げて拾い、元通りくっつくように右肩の切断面へ腕の切断面を押し当てた。こうすれば傷口の再生を待つだけでいい、腕を一から再生するよりも早く傷を元に戻すことが出来る。
「キシャアアアアアアアアアア!!」
そうはさせないとレヴァイアが雄叫び上げて向かってきた。
『サタン、すまない。助けてくれ……!』
サタンの脳裏にバアルの悲痛な声が蘇る。彼が助けてくれと言ったのは決して自分のことではない。意識が飛んでこんな姿になるまで自分を責めてしまったレヴァイアのことだ。レヴァイアを助けてくれと言っていたのだ。
(俺に、出来るかな……?)
引っ付き始めたばかりの右腕は使えない。サタンはゆっくりと左手の拳を握って臨戦態勢を整えた。
出来る出来ないではない、やるしかない。彼と対等に戦えるのは今、自分しかいない。
「逃げろ、リリス……!」
切羽詰まったサタンの眼光。
「サタンさん!?」
声を上げると同時にリリスの身体を何者かが背後から抱き、瞬きした次の瞬間には景色が荒れ地から馴染みの街へと一変した。
「安心して。此処は街よ。みんなで結界張ってるから此処にいればとりあえず安全……、かもしれない」
戸惑うリリスの肩をポンと叩く手。振り向くといつになく真剣なロテの顔があった。彼女が瞬時に移動し、荒れ地にいたリリスを掴んで街へ避難させてくれたのだ。
「大丈夫? な、わけないと思うけど、えっと、ほら、ひとまずお茶でも飲んで」
ロテの隣にいたロトがリリスにお茶を差し出してくれた。
「ありがとう……」
喉がカラカラだったリリスは素直にカップを受け取ってお茶を喉へ流し込んだ。……なんだか生き返ったような気分。しかしホッと一息とはいかない。周囲には顔を強張らせた悪魔たちの姿……。皆、この騒動に落ち着かないのか家の外に出て結界を維持するために神経を集中させている。
「さあ、サタン様からの命令よ!! 全ての力を振り絞って結界を強めて!! じゃないと皆殺しにされるわ!!」
ロテが声を荒げる。
「あ、あの、ロテさん……。私、何がなんだか分からないんです、教えてください!」
縋るような気持ちで尋ねる。するとロテは深く息を吐いた。
「普段レヴァさんが一生懸命身体の中に封じ込めてる破壊神の一面が表に顔を出したのよ。顔を出したら最後。下手したらこの世界が全部、無に還る」
「まさかそんな……」
嫌な冗談だ、とリリスは笑おうとした。しかし、先程レヴァイアと対面した際リリスは理由もなく『死ぬ』と思った。死ぬと思って心の底から恐怖した。そういうことなのだ。破壊神が目覚めたら全てが無に還る、確証の無い説ではあるが何故か納得出来る。間違いなくそうなると頷くことが出来る。生まれたからにはどう転んでも最後は死ぬと、誰もが知っているように――。
息を呑んだリリスの耳に轟音が届いた。咄嗟に振り向き不気味に黒く淀んだ空を見上げると、遠くで雲を貫くほどの大きな黒い火柱と竜巻の立ち上がった様が見えた。
「サタンさんが負けてしまったら、この星は終わりなんですね……?」
本能的に察したことだった。
希望の神であるサタンが負けたら、全てが終わる。
リリスの声を聞いた周りの悪魔たちが「その通りだ」と迷わず頷く。
「アタシたち皆この世界をブッ壊してやりたくて反乱を起こしたわけだけど、望んでいたのはこんな壊し方じゃない。こんな壊し方じゃないのよ……!」
血が滲むほど強く拳を握って、ロテは唇を噛んだ。
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