【08:両雄を見つめる女神の視線(3)】
破壊神の力は圧倒的だった。どれだけ炎を上げてもレヴァイアの風は容易にそれを掻き消してしまう。ならば力比べをと拳を向ければ軽々と受け止められ、そのまま左手を潰され指は殆ど骨折してしまった。なだめようと声を掛けてもまともな返事は来ない。一応やめろだの待てだの言ってみたが目の前でレヴァイアは狂ったように笑い続けるだけである。
(ヤバイぞ、コレ……!)
サタンの頬に冷や汗が流れた。この事態をどうしたらいいのか全く分からない。だが、このレヴァイアと対峙出来るのは自分だけだ。逃げるわけにはいかない。そもそも『逃げる場所がない』。
風が止んでいるせいで辺りはとても静かだ。しんと静まった荒地にレヴァイアの狂気じみた笑い声だけが何処までも響いている。
まあ、笑っているだけいい。遊んでいるのか様子見なのかは分からないがレヴァイアはある程度サタンにダメージを与えたところで少し距離を置き、こうして笑い始めた。おかげで粉砕した左手の治癒は完了だ。残るは辛うじてくっついてる程度の右腕である。しかしこれだけ回復を早めると身体は治るが頭は疲れる。それだけ早期の治癒は集中力を必要とするのだ。攻撃力は向こうが上、長期戦は不利。どうにかして事態を一気に好転させなければならない。
彼が早く我に返ってくれるのを願うばかりだ。殺し合いだけはしたくない。
「おい、レヴァイア!! なんで俺に牙を剥く!?」
サタンはダメ元でまたレヴァイアに声をかけた。敵と認識されているから攻撃されているわけだが、何故敵と認識されているのかその理由が知りたかった。それが分かればひょっとすると誤解を解くことも出来るかもしれない。しかし――
「ゲヘッ!! ギヒャヒャヒャヒャヒャッ!!」
願い虚しく思い切り笑われてしまった。しかも普通の笑い方じゃない。レヴァイアは盛大に身体を弓なりに反らせて腹の底から笑っている。
(クソッ、ムカつく……!)
思わず正直な感想が過ぎってしまった。普段の彼に向かってなら迷わず顔面をブン殴っていたところだ。が、今の彼にそれをやってしまうのは非常にマズイ。
サタンは気を取り直して次の手を考えることにした。とにかく可能性あることは全て試すべきだ。それしか解決の糸口は無い。
「なんで俺に牙剥くのかって聞いてんだこの猫畜生!!」
……レヴァイアの笑い声が止まった。ヤバイことを言ってしまったのだろうか。彼の異様にギラついた肉食獣の瞳がこちらを見据える。
「彼女ヲ傷付ケルモノハ、全テ破壊スル」
それはガラガラの声で放たれた歪な言葉だった。
「彼女を傷付けるもの……!?」
「叶わナイ希望は彼女ヲ傷付ける」
一瞬で目の前にやって来たレヴァイアの左手がサタンの首を掴んだ。
(いつの間に――!?)
すんなり隙を突かれるサタンではない。今のはあまりにもレヴァイアが早かった。
「ぐあ……あ……!」
岩をも潰せるのではないかと思うほどの怪力で首を圧迫される。サタンが両手を使っても引き剥がせない。横っ腹に蹴りを入れてもビクともしない。どうしたものか。息が詰まって呼吸が出来ない。今にもへし折れそうなほどに首の骨が力に負けてギシギシと軋む。
「まだ納得いってないみたいだな」
先程のガラガラ声とは打って変わった鮮明な声だ。それでもいつもと違って酷く低い声である。
「お前から、俺は彼女を傷つけてなんかない叶わない希望なんか見せてないって声が聞こえる。じゃあ教えてやるよ。なら何故俺たちはこんな荒れ地にいる?」
無表情。そしてゾッとするほどの眼光を宿した目。鮮明な喋り口調だが普段のレヴァイアとはやはり違う。
「い、痛いとこ……、突きやがって…………ゴホッ!!」
喉が潰れてサタンの口から血が噴き出した。
「近くに見えるばかりの希望はやっぱり絶望なんだよサタン」
目と鼻の先でレヴァイアがニヤリと笑い、指先まで力を込めた右手をサタンの心臓めがけて構えた。瞬間、サタンは『死ぬ』と感じた。これは『生まれて初めてのこと』だ。サタンには俺が死ぬわけないという自負がいつもあった。自分を唯一無二の存在であると生まれながらに自覚しているがゆえだ。創造主すらサタンを殺すことは出来ない。しかし今サタンは生まれて初めて『死ぬ』と感じた。咄嗟に『死ぬ』と。
希望を打ち破るのは絶望だ。ゆえにレヴァイアはサタンの心臓を抉ることが出来る。何故そう思うのかと問われたら上手くは答えられない。きっと本能的なものだからだ。
刹那、レヴァイアの手が動いた。このままでは、死ぬ。
(レヴァイア、ごめん!)
サタンは大変心苦しいが思い切りレヴァイアの右目を殴りつけた。拳が派手に彼の目に食い込み、圧迫に耐え切れなかった眼球が水風船に針を刺したような音を立てて破裂。本当に心苦しいが仕方がない。サタンは「ギャアッ!?」と悲鳴を上げて痛みに気を取られたレヴァイアの手を引き剥がし仕上げとばかりに腹へ蹴りを入れて数歩後ろに下がり距離を空けた。
今ので完全にレヴァイアを怒らせたかもしれない。しかし元から彼は物凄く怒っていた、今更悔やむ必要はないだろう。
潰れた右目を押さえて唸り声を上げていたレヴァイアが怒りに染まった顔を上げた。
「テメェの見せる下らねー夢は彼女を傷付けるんだよおおおおおおおおおお!!」
渾身の叫び。その怒りを代弁するように彼を中心にとぐろを巻いた黒い突風が吹き荒れる。実際反逆に失敗したサタンには返す言葉が見つからない。そうして言葉に詰まっている間に一筋の風がサタンの頬を切り裂いた。僅かな痛みだ、どうでもいい。今、一番気になるのはレヴァイアの『彼女を傷付けるものは全て破壊する』という言葉だ。ブチギレ状態のレヴァイアには全てが邪悪で汚いもの見えている。『絶望』しているのだから当然だ。それがマズイ。
彼にとって彼女を無理矢理に独占しようとする創造主は勿論、希望さえも彼女に甘い夢を見せるだけ見せて惑わして最後に裏切り、傷付けるものだ。街と人々は彼女に負担を強いるお荷物であり、自分と彼女の関係を引き剥がそうとしたラファエルも当然悪、そして最後には彼女を守れなかった自分自身をも悪と見なして破壊するだろう。
今の彼には世界の全てが悪であり破壊対象。よって彼は今、全てを壊す気でいる。
そんなことはさせない。
「んなに文句あんならかかって来い、猫畜生があああああああ!!」
声を張り上げ、サタンは身構えた。
誘うまでもなかったようだ。瞬き一回する間もなくレヴァイアはフレイルを振り回して襲い掛かってきた。こう来ることは予想済みである。しかしサタンが拳を振るうよりもレヴァイアが鋭利な風を全身に纏い、やっと腕のくっついたサタンの右肩にかじり付くことの方が早かった。
「うっ!?」
悲鳴を上げる暇もなく骨が見えてしまうほどに肩の肉をゴッソリ噛み千切られた。続けざま、またレヴァイアが力を込めた右手を振りかぶる。他は何処を傷付けられても構わないが心臓だけは守らなくてはならない。咄嗟に身をかわすとレヴァイアの4本の指はサタンの左肩付け根に深く突き刺さった。両腕負傷する羽目になったが、これはやっと訪れた好機だ。サタンはまだ動く左腕に力を込め、お返しとばかりにレヴァイアの右腕を力任せに肩の根本から引き千切った。鮮血が飛び散り、両者の頬を濡らす。
「グゥ……!?」
流石のレヴァイアも痛かったようだ。顔が苦痛に歪んだ。
「ザマーミロよ!!」
仕上げにレヴァイアの頭に渾身の頭突きをお見舞いした。お互い石頭自慢。岩と岩がぶつかったような鈍い音が荒れ地に木霊す。一瞬レヴァイアが白目を剥いた。しかし彼は容易く参る男ではない。
「うあああああああああああああ!!」
雄叫び上げてレヴァイアはサタンに食い込ませていた右手を更に押し込み、鋭利な風を巻き起こして身体を切り刻んできた。
「くっそ……!」
刻まれた手足から血が吹き出す。30億の天使を一瞬にしてトマトソースにしてみせた風だ、サタンでなければこの程度の怪我で済まなかっただろう。
「ヒャハハハハハハッ!!」
痛みに顔を歪めたサタンを見てレヴァイアが血に染めた口元で盛大に笑ってみせた。
なんだか、どんどん状況が悪くなっている気がする。レヴァイアの表情は狂気じみていく一方だ。我に返る素振りなど微塵も窺えない。
(……そういえば……)
サタンは思考を巡らせた結果、あることに気付いた。遥か向こうで意識を失っているバアルの存在だ。彼はレヴァイアがブチ切れたその場に居合わせたにもかかわらず、何もされていない。今のレヴァイアには全てが醜い悪に見えているというのにだ。
『リリス!! リリス、聞こえるか!?』
サタンはレヴァイアと殴り合いを続けながら声を送った。
『俺じゃレヴァイアを止めるのは無理だ!! だから向こうで寝てるバアルをなんとか起こしてくれ!! アイツなら多分止められる!! ロテに頼んで今すぐバアルの側に――!!」
「おい、誰に何を話してんだ?」
不意にレヴァイアが口を挟んできた。彼には聞こえるはずのないやり取りに、だ。カマかけだろう。そう思いたい。しかし遠慮なしに力を解放し始めている今の彼にはひょっとすると本当に聞こえている可能性がある。
「んなまどろっこしい話し方してねーで直接会って喋ったらどーだ?」
「なに!?」
レヴァイアに突然右腕を掴まれた次の瞬間、サタンの身体はレヴァイアに連れられて街の東側にある入り口前に移動していた。……なかなかゾッとさせてくれる。此処に来たということはレヴァイアは街の東側入り口を見張っているロテがリリスを連れて行き、そのまま此処に待機していることを見破っていたのだ。それだけではない、そもそも今この街は全力でレヴァイアを弾くよう街の住人が総出で強力な結界を張っている。よってレヴァイアには街をその目に見ることはおろか、気配すら察することが出来ないはずなのだ。此処には他と変わらぬ荒れ地が広がって見えるだけだと。にもかかわらず彼は的確にこの場所へ移動してみせた。
やはり、今の彼に結界は通じない。
「サタンさん!? レヴァさん!?」
街の入り口にいたリリスが両腕千切れかけのサタンと片腕を失っているレヴァイアを見て叫んだ。瞬間、レヴァイアは結界内にいるリリスに振り向いてまるで見せつけるように掴んでいたサタンの右腕を肩の付け根から引き千切って遠くに放り投げた。
「ぎゃああああああああ!!」
ものの見事に仕返しをされた形だ。堪らずサタンは無様な声を上げてしまった。しっかり二つの目でサタンの腕が千切られる様を見てしまったリリスの顔が恐怖に引き攣る。周りにいた悪魔たちの顔もだ。一方レヴァイアはなんとも得意げである。
「テメェ、よくも!!」
感情の高ぶりに任せてサタンはレヴァイアに頭突きを食らわせた。ドンと重厚な音が響き渡る。若干怯んだレヴァイアだが効いていなかったようだ。そのままコケるかと思いきやすぐに踏ん張り留まって盛大に笑い始めた。失った右腕の付け根から血を滴らせながらだ。
まあいい、笑ってるぶんにはいい。問題は結界越しにしっかりとリリスを見つめたことだ。これで100%彼が結界内の様子を見えていることが分かった。
「あれがレヴァイア様なのか!?」
「話には聞いていたが、初めて見た……」
「サタン様が圧倒されているぞ……、大丈夫なのか?」
不安と恐怖と戸惑いに満ちたこの結界内で交わされている悪魔たちの会話も恐らく彼は耳にしていることだろう。
「ギャハハハハハハハハッ!!」
スイッチが入ったようにレヴァイアが笑い始めた。その猛烈な笑い声に連動するように彼の千切れていた右腕の付け根から肉が盛り上がり新しい腕が形成され、潰れていた眼球も再生した。治癒能力も半端じゃないようだ。何故そんなに短時間で自分の身体をしっかりイメージ出来るのか。おくれを取るまいとサタンも傷口に意識を集中するが、敵わない。
「テメェはさっきから何がおかしくてそんなに笑ってやがる!!」
あまりにも笑いすぎなレヴァイアにいよいよ本気でサタンは腹が立ってきた。
「あ〜?」
不気味な笑みがサタンに向く。
「だ〜ってオカシイんだ……。俺はこんな脆くてどーしよもないモンを自分ズタズタに引き裂いてまで守ってたのかと思うとオカシくて堪んねえ!!」
言うとレヴァイアは街に素早く駆け寄って結界に右腕を突っ込んだ。
「なっ!?」
その場にいる誰もが絶句した。下手に結界へ身体を入れようものなら異物とみなされて肉も骨も全て焼け千切れる。現に侵入してきた異物を弾こうと結界はバチバチと火花が散らし、レヴァイアの右腕を焼いている。
「ほら見ろよ仲良く力を合わせたところでコイツらなんの役にも立たねー!!」
「テメェ!!」
怒鳴り上げ、サタンは血みどろの左手を伸ばして彼を食い止めようとした。しかし止める間もなかった。レヴァイアは自身の身体が焼け爛れていくことも厭わず結界に身体を突っ込み、入り口付近で呆気にとられていたリリスの腕を掴んで結界の外に放り投げた。当然周りにいた悪魔たちはリリスを守ろうとしてくれたがレヴァイアのひと睨みで巻き起こった突風に手足を吹き飛ばされ、何も出来なかった。上級貴族であるロテやロトも例外ではない。一瞬で街の入り口付近は悲鳴轟く血の海と化した。命を落とした者がいなかっただけ幸いかもしれない。
「きゃあっ!!」
荒れ地に放り投げられたリリスは地面に右肩を打ち付けた痛みに悲鳴を上げた。しかし痛みに気を取られている場合ではない。急いで結界内に戻らなければサタンの足を引っ張ることになる。だが、咄嗟に顔を上げた瞬間リリスは狂気じみた笑みでもって自分を見下ろしているレヴァイアと目が合ってしまった。
「あ…………」
リリスが見つめる中、レヴァイアの全身に刻まれた傷や先程負った火傷が見る間に治っていく……。
「貴方……。貴方は、一体……!」
「レヴァイア!!」
リリスが言葉を紡いでいる最中、サタンが怒鳴り上げてレヴァイアに飛び掛かった。しかしレヴァイアは余裕の表情でサタンの残っていた左腕の手首を掴むと肘の関節部分を蹴り上げて決して曲がってはならない方向に圧し折り、挙句そのまま力任せに引っ張ってその左腕をも根本から引き千切った。
「ぐああ……!!」
両腕をもがれバランスを失ったサタンは続けざまに腹を蹴り飛ばされ、為す術もなく地面に転がった。
「お前も脆い」
……頭の上に捨て台詞まで吐かれてしまった。こんな屈辱があるだろうか。サタンは悔しさに唇を噛んだ。
「希望であるお前自身が脆いんだ、どーしよもないな」
「痛っ!! レヴァさん、やめて!!」
レヴァイアの手がリリスの髪を左手に掴んだ。振り解こうと足掻くリリスだが、相手が悪い。
「リリスさん!!」
入口付近に待機している悪魔たちが声を上げた。しかし飛び出すに飛び出せない。下手に飛び出しても瞬殺されるだけだ。そうなればサタンの足を引っ張るだけ。悔しいが今は様子を見るしかない。
「離せ……よ、猫畜生……!」
荒地に額を擦りつけて必死に立ち上がろうと足掻きながらサタンはレヴァイアを睨み据えた。だがレヴァイアは笑顔を崩さない。暴れるリリスを腕一本で軽く制し、時折揺さぶって頭皮に痛みを与えながらサタンを見つめ返す。
「よお、サタン。お前も俺と同じトコに来いよ。一緒に堕ちようぜぇ〜、気持ちいいぞぉ〜」
「はぁあ!?」
サタンは眉間に皺を寄せて声を荒げた。……これは強がりだ。実際は恐怖していた。レヴァイアがサタンを一息に殺さず少し焦らしていたのはその為だったのかと思うとゾッとする。彼はサタンを絶望に染め、仲間にする気だ。街の悪魔たちを一息に殺さなかったのもひょっとするとサタンの手で殺させる為かも分からない。
「冗談キツいな!! 俺は心底脳天気な性分だから絶望だきゃしねぇよ馬鹿!!」
「そっか? 言ってるわりには、ツノが出てるぜ」
トントンとレヴァイアが己の頭を人差し指で叩く。
言われるまでもない。確かに今のサタンにはツノが出ている。この状況に絶望しかかっているからだ。……だからなんだ。関係ない。
「だからどうしたぁああああ!!」
サタンは瞬時にレヴァイアの目前へ移動し、首筋に噛み付いてやろうと牙を剥き出しにした。目的は見事達成。サタンの牙はしっかりとレヴァイアの首筋に食い込んだ。だが、レヴァイアはわざと噛み付かせたのではないかと思うほどに余裕の笑みでもってサタンの喉元に拳を叩き込んで反撃をした。
「ゴホッ!?」
息苦しさと吐き気がいっぺんに押し寄せる。それでもこの好機は逃したくないとサタンは意地で噛み付き続けた。しかし二度三度と喉笛を拳で強く殴打され、間もなく無理矢理引き剥がされてしまった。トドメに腹を殴られ吹っ飛ばされて仕上げだ。サタンはまた地面に転がされてしまった。
「サタンさんっ!!」
リリスの悲鳴が木霊す。
(もう暫く砂は食べたくねーな……!)
舌打ちの後、サタンは砂まじりの唾を吐いた。レヴァイアは相も変わらずな笑みを湛えたままだ。サタンが殺気じみた視線を送ろうがお構いなしである。
瞬間、レヴァイアの風がサタンの両足を引き裂いた。酷い痛みが全身を駆けていく。しかし喉を殴打された影響で悲鳴の一つも出せない。
「同じ目に遭ってみればいい。そしたら嫌でも俺に同意するよ、兄ちゃんも」
両手足の機能を失ったサタンを見下ろしてレヴァイアが口角をこれでもかと持ち上げる。
『同じ目に遭ってみればいい』
彼の言葉が何を意味しているかはそのリリスを見る妙にギラついた目つきで分かった。最早、普段の愛らしい弟分の姿はどこにもない。今の彼は、なんだってやる。
「んなに一人で堕ちるのは恐いかレヴァイア!!」
「なんだ、まだ怒鳴る元気があるのか」
冷徹なレヴァイアの声。彼から吹き荒れる鋭利な突風がサタンの両足を更に切り刻む。身動き取れないサタンには呻くことしか出来ない。
「激高してはダメよサタンさん!! 思うつぼだわ!! 大丈夫、虚言よ!! レヴァさんは私に何も出来ない!!」
リリスが唐突に叫んだ。「はぁ?」と如何にも不服そうにレヴァイアが睨みつける。おかげで一瞬の隙が出来た。サタンの放った業火がリリスを捕らえていたレヴァイアの左腕を的確に焼き払う。この瞬間レヴァイアの目に初めて動揺の色が見えた。
「リリス!!」
瞬時にサタンはリリスを少しはまともに動く左腕で抱き、身体を焼かれた痛みに気を取られたレヴァイアの手から奪い取って元いた位置にまた一瞬で移動し、距離を空けた。立つことが出来ずにまた荒地に顔を打ち付けてしまったのはご愛嬌だ。
「熱いじゃねえかよ兄貴ー!!」
レヴァイアの怒号が響き渡り、突風が吹き荒れる。既に彼の傷が全て治っているのは異常な回復力の賜だ。
「リリス。さっき俺の声、聞こえてたよな?」
鋭利な突風からリリスを守りながらサタンは耳元にそっと問いかけた。リリスが無言で頷き答える。
「じゃあ話は早い。俺がレヴァイアを全力で食い止めるからその隙にバアルを起こしてくれ、頼んだぜ」
「でもサタンさん、立つことも出来ないのに……!」
「んな生まれたての子鹿みたいに言うんじゃねーよ俺を誰だと思ってんだ!!」
瞬間、激高したレヴァイアが奇声を上げてこちらに向かってきた。その時である。
「サタン様!! 加勢します!!」
とうとう見るに見兼ねた悪魔10数人が結界内から飛び出してきてしまったのだ。
「馬鹿!! 戻れ!!」
叫んだが、遅かった。レヴァイアが足を止め目を向けた一瞬の出来事である。彼らの身体は鋭利な突風でバラバラに引き裂かれ、地面を濡らすただのトマトソースと化した。心臓も綺麗に真っ二つだ。確実に絶命してしまった。
リリスが両手で顔を覆って悲鳴を上げた。目の当たりにした圧倒的な力や仲間が一瞬で血の海に変わったこと、レヴァイアが手を下したこと、そのレヴァイアが腹を抱えて笑っていること、全てが信じられずに叫ぶしかなかった。
「テメェ、もう許さねえ!!」
今、サタンの中で何かが切れた。
光と闇は表裏一体。にもかかわらずレヴァイアが圧倒的に優勢なのはリミッターが外れているからだ。理性云々全て吹き飛ばして目の前の相手を殺すことだけに集中しているから強い。
遠慮や躊躇など、するべきではなかった。いつも躊躇っている間に取り返しの付かない事態を引き起こす。サタンは唇を噛んだ。自分が何も学んでいないことに腹が立って仕方がない。
あらゆる意味で、ブチギレた。
「レヴァイアァアアアアアア!!」
雄叫びと共に真っ黒な炎の渦がサタンを中心に巻き起こった。盛り上がった背中からは真っ黒な翼が勢い良く飛び出し身体中の傷は塞がり千切られた右腕も綺麗に再生され目は狂気にギラつき牙が剥き出される。
その怒りに歪んだ形相を間近に見てリリスは改めて思った。サタンとレヴァイアは似た者同士であると。
本当に、よく似ている。
「染まってきたな、その調子だ」
サタンの巻き起こした炎がレヴァイアの頬を掠めて僅かに皮膚を焼いた。それでも彼は笑顔を崩さない。
「テメェ興奮し過ぎて目が節穴になったか……? 俺は絶望なんかしてねぇ、テメェをブチのめすために怒りまくってるだけだ!!」
「それが近付いてるって言ってるんだ。どんだけブチ切れても俺には敵わないってこと教えてやるよ。そしたらいよいよ絶望してくれるよな兄貴よお!!」
大声と同時に吹き荒れた突風が渦巻いていた炎を掻き消し、瞬き一つした僅かな隙にレヴァイアはサタンの目と鼻の先にやって来た。獣のように構えた手と殺気の込められた爪が迫っている。サタンはその一撃を左手の平に受け止めた。レヴァイアの爪が手の平を貫き、血飛沫が舞う。リリスがまた悲鳴を上げた。だが、これでいい。
(捕らえた!!)
サタンは獣の指が突き刺さったままの手の治癒を無理矢理に進め肉を一気に盛り上げ、更に力を込め爪を立ててレヴァイアの手を掴んだ。多少の痛みは覚悟の上で何がなんでも彼を捕らえたのだ。
「サタン様!!」
成り行きを見守っていた悪魔たちが声を上げた。
『テメーらはまた街の守りを固めとけ。レヴァイアは俺らがどうにかする!!』
声にならぬ声で早口に告げ、サタンはリリスとレヴァイアもろともその場から音も無くバアルがグッスリと眠っている場所の近くまで移動した。
「あれは……」
リリスの目がしっかりと遠くに倒れているバアルを捉えた。
『行け!!』
張り詰めた声が頭の中に木霊し、頷く間も惜しんでリリスはサタンの腕からすり抜け全速力で走った。が、容易く逃してくれるレヴァイアではない。
「ドコ行くんだよリリスよおおおおお!!」
卑しい笑みと共にレヴァイアがリリスの足元に鋭利な風を放った。だが、そんな妨害があることは既に想定済みだ。より威力のある炎を叩きつけてサタンは風を掻き消し、これ以上の妨害は許さないと強い意志を持って自身とレヴァイアの周囲に屈強な結界を作った。
これは希望の化身がブチギレ状態でとことん集中しレヴァイアを閉じ込めることだけを考えて作った屈強な結界だ。サタンが意識を失わない限りレヴァイアは絶対に外へ出られない。
「なんの真似だよ?」
周囲一帯に張り巡らされた結界を見てレヴァイアの顔から笑みが消えた。狙い通りだ。破壊神といえど希望が我を忘れて無我夢中で作った結界は強引に突破出来ないらしい。
「見たまんまだ。リリスのケツを追いかけたかったら俺をブチのめせ……!」
「じゃあ、そうする」
言ってレヴァイアはサタンの手に突き刺したままでいた指を強引に引き抜いた。途端サタンの手は何事もなかったかのように傷が塞がり、その今までのない治癒力に思わず目を奪われたレヴァイアは一瞬の隙を突かれて顔面を拳で殴られ吹き飛び、荒地をゴロゴロと転がった。
「砂って美味いよなあ〜!! 俺だけ腹いっぱい食っちまって申し訳ないからテメェも今から食え!!」
サタンが言い放つと、倒れていたレヴァイアが無表情でゆっくりと起き上がった。
「いや、味のしないもんは嫌いなんだ。これ以上は遠慮しとくよ」
……どうやら砂を食わされて怒ったらしい。レヴァイアが左腕に巻いたフレイルを振り回し始めた。重厚な鉄球が風を切る不気味な音が響く。だが、怖気づいてはいられない。
「おいおい、遠慮するキャラじゃねぇだろ?」
ニヒルに笑って、サタンはレヴァイアに襲い掛かった。瞬時に目の前へ移動し、殺す気で心臓めがけて拳を突き上げる。しかし紙一重で避けられ、拳はレヴァイアの服を僅かに千切っただけで終わった。刹那、首元にフレイルの鎖を巻き付けられそうになったが素早く屈んで回避し、逆にレヴァイアの動きを封じてやろうと足元めがけて蹴りを放った。が、また避けられた。でも、これでいい。こうしているだけでも時間は稼げる。
レヴァイアは我を忘れているようでまだ忘れ切っていない。バアルが無事でいることやサタン自身そして街も無事であることがその証だ。結界から出てしまった仲間は身体を引き裂かれてしまったが、レヴァイアは街のみんなには手を出さなかった。何がなんでもサタンの手で街を破壊させる為とも思えるが、ここはまだ彼の中に理性が残っているという可能性に賭けたい。彼が本気で破壊のみを望んでいるならば、街などあっという間にただの荒地に出来るのだ。レヴァイアが本気を出せばどうなるか、サタンはよく知っている。『あまりにも巨大な元の姿を実際この目にしたことがあるのだから』尚更だ。
(それにしても……)
時間稼ぎをすることしか出来ない自分が、サタンは情けなかった。
サタンが張り巡らせた結界の中で何が起こっているのか、リリスには分からない。とことん分からないことだらけ。それでも、とにかく言われた通りバアルを一刻も早く目覚めさせなければならない。バアルしかレヴァイアを止められないとサタンがはっきり言ったのだ。信じて、目を覚ましてもらうしかない。
ようやくうつ伏せに倒れているバアルの元に駆けつけたリリスはまず彼の身体を仰向けに転がし、負っている傷の重さをその目に見て息を呑んだ。
固く閉じられた目。真っ青な顔色。胸、腹、四肢、喉笛は得体のしれない刃によって抉られ、傷口が黒く焼け爛れている。治癒が始まってから時間は経っているはずだ、これでも傷は塞がってきた方なのだろうが……、痛々しい。
「バアルさん……!! 起きて!! お願い!!」
リリスはバアルの頭をやんわりと抱えて膝枕を与え、頬を何度か軽く叩いた。……反応は無い。
「バアルさん!! お願い、起きてください!! このままじゃサタンさんとレヴァさんが……!!」
何度も何度も頬を叩く。それでも反応は無い。
「バアルさん……、お願い……!」
リリスは泣きそうになった。これだけ重傷を負っている彼を起こすということがそもそもの間違いかもしれない。どうにも心が痛む。だが、これ以上サタンとレヴァイアを争わせてはいけない。レヴァイアに仲間を殺させたくもない。あのレヴァイアを止められるのがバアルだけだというのならば、やはり無理にでも起きてもらわなくてはならない。
「ごめんなさいバアルさん……! 私じゃ役に立てないんです、起きてください……!」
何も出来ず、ただ重傷のバアルを揺さぶり起こすことしか出来ない自分が悔しかったリリスはとうとう両の目から大粒の涙を溢してしまった。
(……あっ、そういえば……! 気絶してる人に水をかけると目を覚ますって何処かで聞いたことがある!)
泣きながらこんな時にこんなことを閃いてしまったリリスは丁度いいやと前のめりになって滴る涙の雫をバアルの頬に数滴垂らし、改めて「起きてください」とお願いしながら頬を叩いた。
「バアルさん! バアルさん!」
諦めずに何度も頬を叩く。すると、ようやくバアルが「う……っ」と小さく呻いて眉間にゆっくり皺を寄せた。
「バアルさん!! 気が付きましたか!?」
涙で濡らしてしまった彼の頬を手の平で拭い、リリスは顔をまじまじと覗き込む。すると長い睫毛に縁取られた大きな目がゆっくりと開いた。
「リリス……?」
僅かに開いた唇の隙間から放たれた、か細い声。力のまるで入っていない弱々しい彼の左手がそっと上がって涙に濡れたリリスの頬を拭った。ちゃんと血にも砂にも汚れていない手の部分を使って拭ってくれたあたり配慮細かい彼らしい。リリスは安堵に胸を撫で下ろした。でも一時的な安堵だ。次にリリスはこの事態をどう説明すべきか迷った。……どう言えばいいのだ。レヴァイアが我を忘れて仲間を殺し、今はサタンをも殺そうとしているなどと……。
「あの、バアルさん、動けますか……? えっと、サタンさんがバアルさんならレヴァさんを止められるって……。レヴァさん今おかしいんです……! 敵と味方の区別もついてないみたいで……!」
「……レヴァイア……?」
寝惚けたような重たい瞬きを数回行った後、バアルは我に返って痛みに顔を歪めながらも半身を起こし、遠くを見つめた。
「バアルさん、酷い傷なんだから無理はしないで!」
慌ててリリスはバアルの血に塗れた背中にそっと腕を回し、起き上がりの補助をした。
「大丈夫、ありがとう……。状況も分かった。私が呑気に寝ていたせいで申し訳ないことをしたね……」
目の良いバアルは今の一瞬で全てを見通し、唇を噛んだ。しかし悔やむのは後だ。喉はもう大丈夫として、身体はどれだけ動くのか確かめてみた。辛うじて起き上がれたあたり脊髄は繋がったようだ、腹はあまり無茶をすると臓物がコンニチワと顔を出しそうで恐いがまあまあ治ってきているし、左手左足も痛みは伴うが動く。ただ、右半身が動かない。流石は神の一撃だ。酷く治りが悪い。
「バアルさん! 今サタンさんが一生懸命に時間稼ぎをしてくれてる。だからもうちょっと身体を治して!」
リリスはまた横になるようバアルに促した。わりと意地っ張りな彼が素直に従って膝枕に頭を埋めたあたり、まだ満足に動ける状態でないことは明らかだ。無茶をさせたくはない。
「でも……」
バアルがポツリと呟いた。
「20秒です……。20秒経ったら……、彼を止めにかかります」
……大人しく従ったと思いきや、やっぱり彼は無茶したがりだった。
「そんな!! 何言ってるんですかダメですよ!! 今のレヴァさんはそんな傷を負った身体で止められる相手じゃありません!! サタンさんだって何度も腕を千切られてるくらいで……!!」
その時、不意にリリスは全身に鳥肌が立った。急に日陰が差し込み、得体のしれない冷たい風を背中に感じたからだ。
「言葉足らずで失礼……。正しくは20秒しか時間がない、ということ……」
一足早くレヴァイアが結界を打ち破って外に出たことを察していたバアルはそっと苦笑いを浮かべた。しかしリリスは笑えない。
「まさか……」
振り向くと、全身を血の赤で染め上げたレヴァイアが同じく血染めなサタンを片手で引き摺るように持ち、ほぼ真上から無表情でリリスを見下ろし立っていた。
「みぃ〜つけた」
感情の無い声。無感情、無表情。そんなレヴァイアにマントを掴まれてぐったりと項垂れているサタンにはゾッとすることに『両手足が付け根から失われていた』。挙句に腹部からは内臓が少し顔を出している。リリスは咄嗟に悲鳴を上げかけたが、なんとかギリギリで耐えた。いやはや、耐えられたことが信じられない。自分で自分を褒めてやりたいくらいだ。
手荒な両肩の断面からしてサタンの四肢は力任せに引き千切られたのだろう。はたしてこの状態で意識はあるのかないのか……。俯き前髪で隠れてしまった彼の目はリリスの位置では開いているのかどうか確認出来ない。が、今、サタンの口元から微かに呻きが聞こえた。成る程やはりレヴァイアは上手い具合にあえてサタンに意識を残させたようだ。リリスが苦しむ様をその目に見せるために、である。
どうにか、しなければ。
『もういい、逃げなさい』
頭の中に響いたバアルの諭すような声。しかしリリスは首を横に振った。絶対に逃げたくない。血塗れのサタンとバアルを置いて素直に逃げることなど出来るわけがない。
絶対に逃げたくない。
「だからどうしたっていうの。貴方は私に何も出来ないわ」
震えの無い声で言い切り、リリスは決心を固めた。バアルの回復が少しでも進むよう時間を稼いでみせる。こんな自分でも命をかければ少しは彼らの役に立てるはずだと。
バアルが何か言いたげな目をしたがリリスは静かに首を横に振り、膝に乗せていた彼の頭をそっと地面に降ろして膝立ちしたまま向き直り両手を広げ、歩幅二歩分の距離を挟んだレヴァイアと真正面から見つめ合った。
「何も出来ない? どうしてそう思う?」
レヴァイアの目は、まるで獲物を狙う肉食獣のそれそのものだ。この金色に縁取られたアーモンド型の黒目と見つめ合っているだけで威圧され、背筋が凍る。今なら戦地にて彼と目を合わせた者はその時点で否が応でも死を意識するという話にも納得だ。事実リリスは今、死を強く意識している。瞬きした瞬間にはもう身体がバラバラに崩れるのではないかという恐怖が全身を襲う。……だからどうした、全ては覚悟の上だ。リリスは深く息を吐いた後、恐怖を押し殺してレヴァイアを真っ直ぐに見つめ続けた。
「貴方は、とても優しい。だから私に酷いことなんて出来ない。絶対に」
「……優しい?」
レヴァイアの眉が僅かに動いた。リリスの言葉に腹を立てたのだ。
「これでも?」
言うとレヴァイアはサタンの身体を持ち上げて地面に強く叩きつけ、無抵抗の背中を思い切りサンダルのかかとで踏みつけた。痛々しい音と共に「ゴホッ!!」とサタンが血混じりの唾液を吐き散らして痛みに身体を震わす。……正直、吐き気がするほど腹立たしい行為だ。許せない。しかしリリスは表情を変えなかった。
「やっぱり優しいよ。そうやって貴方は今、我を忘れて暴れて酷いことをして世界中から嫌われようと必死なんだもの……。貴方は自分が世界中から嫌われて自分を見限ってくれたら迷いなくこの星を破壊出来ると思ってる。破壊神になりきれると思ってる。逆に、そうしなければ迷いがあって破壊なんて出来ない。貴方は優しいから……。だから私は貴方が恐くない」
「黙れ耳障りだ」
一言告げてレヴァイアは無表情だった顔へ徐々に怒りの色を出し始めた。しかし引くわけにはいかない。
リリスには一つの確信があった。レヴァイアは屈強な結界を物ともせず30億の天使を一瞬で惨殺出来る力がありながらサタンやリリス、街の住人にその牙をまだ完全に向けてはいない。10数人の仲間を見せしめのように殺してはしまったが、それっきりだ。彼の行動にはどこか躊躇がある。そもそもこうして呑気にリリスと対峙していることがそうだ。話などせず問答無用に押し倒せば容易く済む用事である。しかし彼はそうしない。しっかり話をしてくれる。もっと本気を出していれば彼の思惑通りトントン拍子にことは運ぶはずだ。なのに全くそうしない。
何故?
それは、これだけ我を忘れても尚、彼を踏みとどませる何かが心の奥底にあるからだ。そこでリリスは思った。彼はまだ、この世界を破壊したくないのだと。
「本当は誰かに自分を止めてもらいたくて仕方ないのでしょう? だから貴方は行動を躊躇する。貴方はまだ『希望』を捨て切れてない。だから躊躇する……。ねえレヴァさん、希望が残ってるならもう嫌われる努力なんかやめましょう。無駄よ。私は何をされても貴方を心の底から嫌いになんかならない!!」
言い切った瞬間、レヴァイアが一気に怒りの形相を浮かべた。尋常ではない圧力。堪らず背筋に悪寒が走る。しかし恐れてはいけない。それでは「恐くない」「信じる」という自分の放った言葉が嘘だったことになる。世界に絶望しかけて混乱し、こんな姿になってしまったレヴァイアの前で嘘をつきたくはない。
「じゃあ試してみるかクソアマ!!」
怒鳴り上げたレヴァイアが牙を剥き出して地面を蹴る。
「構いません」
リリスは覚悟を決めて迫り来るレヴァイアを凛と見つめ続けた。既に覚悟を決めたリリスには目の前から迫ってくる鋭利な牙など何も恐くない。彼が寸前で我に返ることを信じているからだ。勿論、たとえ願い虚しくこのまま殺されたとしても後悔は無い。レヴァイアに希望を与えられなかったことこそ悔みはするが、自分なりに精一杯やった結果だ。それなりに時間は稼げた。後はバアルやサタンがこの世界を救ってくれる。
「え?」
不意に、一歩手前でレヴァイアが唐突に足を止めた。その目には動揺の色が色濃く浮かんでいる。一体どうしたのか。
「レヴァさ――?」
「うああああああああああああああああ!!」
呼びかける間もなく、レヴァイアは何か迷いを振り払うように大声で喚き頭を両手で狂ったように掻き毟り始めた。
リリス自身には知る由もないことだが、その金色の長い髪に凛とした目で自分を真っ直ぐに見つめる姿がレヴァイアの思い出に深く住み着いて離れない愛しい少女の姿と重なって見え、心が締め付けられたのである。
「レヴァさん!!」
再度呼びかけ直す。しかし掻き毟るのをやめ顔を上げた彼の目には再び強い殺意が宿っていた。迷いは、振り払われてしまったようだ。
改めてレヴァイアが牙を剥き出した、その瞬間『よく頑張ったね』と頭の中にバアルの優しい声が響き、リリスは物凄い力に横から肩を押されてその場から吹き飛び、地面を転がった。
何が起こったのやら、分からない。
慌てて顔を上げると、地面に片膝をついたバアルが右肩をレヴァイアに深く噛み付かれおびただしい量の血を流している姿が見えた。それだけでリリスは理解した。あれは本来自分が負うべき怪我であり、それをバアルが代わりに受けてくれたのだと。
「バアルさん!!」
リリスは腰に装備していた鞭を手に握った。レヴァイアに一撃を入れることなど出来そうにないが、向かっていけばあの牙を離すことくらいは出来るはず。そうして駆け出そうとした時である、リリスはいつの間にか足と地面とを分厚い氷で固め付けられてしまった。嗚呼、まただ。また、決して冷たくはない不思議な温度のある分厚い氷だ。来るな、というバアルのメッセージである。
「そんな……。どうして!?」
『大丈夫』
声を荒げるリリスの頭の中にバアルの声が優しく響いた。何が大丈夫なものか。何故かレヴァイアはリリスと対峙していた時よりも獣じみた唸り声を上げ白目を剥いている。これはバアルの顔を見て落ち着くどころか悪化してしまったのではないだろうか。それでも……リリスよりも遥かにレヴァイアの事を知り尽くしているはずのバアルが大丈夫と言うからには、仕方がない。側で倒れているサタンもリリスの方に顔を向け「何もするな」と首を振って無言で伝えている。彼ら二人が声を揃えるのだ、従うしかない。何も出来ないのは悔しいがバアルは決して策もなく無茶をする男ではない。来るなと言うからには一対一の方が都合いいのだろう。リリスは悔しさともどかしさに唇を噛みながらも様子を見守ることにした。
一方、レヴァイアに噛み付かれたバアルは肩の痛みに顔を歪めつつリリスの聞き分けの良さに安堵した。お転婆な娘ではあるが、いざという時にしっかりこちらの言葉を聞いてくれるのはありがたい。……と、安堵してばかりもいられない。
「痛っ!!」
ドンとレヴァイアに全体重を掛けられて強引に押し倒され地面に後頭部を打った。挙句に今ブチリと肩の肉を噛み千切られた。肩から真っ赤な肉が裂け、伸び上がった皮がブツブツと音を立てて切れていく。そして目の前の血に塗れた口元から響く悍ましい咀嚼音。
「ぐ……!!」
バアルは痛みに歯を食い縛りながらも頭上にあるレヴァイアの目をしっかりと見つめた。けたたましく揺れ動き焦点定まらぬ獣の眼球……。これは何も見えていない目だ。まだ我に返る気配は微塵もないという証。
「レヴァイア……!」
呼びかけてバアルは尚も馬乗りになっているレヴァイアを見つめた。どうか正気に戻って欲しいと。しかし願い虚しくレヴァイアは再度おびただしい血を流しているバアルの肩に齧りついた。
「ぎ、あ……!!」
バアルの目が激痛に見開く。しかしバアルは地面に爪を立てるばかりで一切の抵抗をしない。その後も何度も何度も噛み付かれ、飛び散った血で真っ白な顔の半分が血に染まっても尚、抵抗をしない。一体どんな勝算があって彼がこんな痛みに耐えているのかリリスには分からなかった。やがて肉を食らうことに飽きたのか顔を上げたレヴァイアが指先まで力を込めた右手をゆっくりと振りかぶった。あれは、心臓を抉ろうとしている動作だ。
「バアルさん!!」
黙っていられなかったリリスが声を荒げた。それでもサタンや当のバアルは動じない。
「いい、だろう……! 全てを終わらす覚悟が出来ているなら、迷わず私を殺しなさい……! 全てを終わらせるのなら……! 貴方は一番に私を殺さなくてはならない! さあ!」
言い切ってバアルは爪で自ら服を破き、心臓の鼓動で上下する胸元を露わにして両手を投げ出した。一切の抵抗もせず殺されてやるというメッセージ。予想もしていなかった王の行動にリリスが目を見開く。
「バアルさん!? 何を――!」
「ひ……っ、ひひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!!」
勝利を確信したのかレヴァイアが狂気じみた笑みが溢し、上擦った不気味な笑い声を轟かす。しかしここで異変が起きた。では抉ってやるとばかりにレヴァイアの右手が動いた瞬間だ。先程の笑みは何処へやら、彼は突然スイッチが入ったように頭を抱えて顔を恐怖に引き攣らせ尋常ではない悲鳴を天に向かって上げた。聞く者の腹に響くような大きな大きな悲鳴が荒れ地に響き渡る。
このバアルの血に濡れながらも無抵抗に身体を預けた姿がレヴァイアの思い出の中に色濃く住み着く愛しい少女の、血と臓物に塗れた姿に強く重なったのである。
かつて、レヴァイアの下で血と臓物に塗れ死んでしまった、少女の姿に。
――また殺すのか? 嫌だ、殺したくない――!
一心不乱な気持ちがレヴァイアに自我を取り戻させた。
「おかえり、レヴァイア」
バアルが確信を持って静かに呟く。サタンとリリスには知る由のないことだが、彼は、『あえて抵抗せず狙ってこの血に塗れた姿を晒し、レヴァイアのトラウマを抉った』。自我を取り戻させる為とはいえ胸が痛まないと言えば、嘘になる。
それでも、どうしても必要だった行動だ。
「レヴァ……さん……?」
「リリス、もう大丈夫です」
一体、何が起こったのかと呆気にとられているリリスと違い、バアルと傍らに転がっているサタンの表情には安堵の感情がはっきり見て取れた。
「あの……、ひょっとして……?」
問いに答えるかのようにリリスの足の自由を奪っていた氷がパンと小さな破裂音を立てて砕け散る。
終わった、と、いうことだ。
リリスの見守る前でレヴァイアが身体を震わしながら後方によろめき、そのまま地面へ両膝をつく。
「うああああああああああああああ!!」
再び放たれたその悲鳴はあの不気味に引き攣った声ではなく、いつもの平凡な青年の声だった。表情も徐々に狂気が薄れ、元の温和で青年の顔へと戻っていく。黒ずんでいた空は本来の赤色を取り戻し、やんわりと吹いた風で荒地の砂がサラサラと流れた。レヴァイアが我を忘れて以降ピタリと止んでいた世界の風も無事帰ってきたということだ。
「お、俺……、俺は…………俺は……!」
首を振って辺りを忙しなく見渡し、レヴァイアはすぐに自分が何をしたのか知ってしまった。目の前のバアルやサタンのことは勿論、30億の天使が肉塊と化したことや仲間も同じく肉塊にしてしまったことも全てだ。彼の恐怖に見開いた大きな目から大粒の涙が零れ落ちる。
リリスはこの涙を見て、レヴァイアが我に返ったという確信を得た。
「あの、レヴァさん……」
歩み寄り、肩を叩きに向かう。が、リリスは手を伸ばせば触れられるという距離まで来て掛ける言葉に迷い、差し出しかけた手を下ろした。
気安く近寄ったところでなんと声をかければいいのだ。我を忘れていたとはいえ仲間を傷付けてしまった彼に、なんと声をかければ……。
「私の責任だ。貴方は何も悪くない」
身を起こしたバアルがリリスとは反対に迷いなく言い切る。
「……俺の……責任でも……あるぞ、畜生……」
虫の息にもかかわらずサタンも懸命に顔を上げて口を挟む。
「そう、これは私たち全員の責任……。貴方は悪くない。自分を責めるな。これは、不幸な事故だったんだよ」
言い聞かすような口調。しかしレヴァイアは恐怖に顔を引き攣らせたまま首を横に振る。
「お、俺が、俺が殺した……! 俺が……!」
「レヴァイア、違う。そうじゃない。もういい、今日はもう帰ろう」
言ってバアルが手を差し伸べたその瞬間、彼の指先に火花が散った。静かな表情を保っていたバアルの目が驚愕に見開く。
これは、結界だ。レヴァイアが自身の周囲に結界を張り、バアルに対して「俺に触るな」と無言で告げたのである。
「レヴァイア? どういうつもりだ……?」
状況を理解出来ないバアルが声を震わせて問いかける。するとレヴァイアは恐怖に目を見開いたまま無言で首を振り、一歩また一歩とゆっくり後ろに下がってバアルから距離を空けてしまった。傍らで地面に転がりつつ二人を見守っていたサタンもこれは何事かと眉間に皺を寄せる。
「おい……。どういうつもりだと聞いてるんだ。この私を拒絶するつもりか!? そんなことは許さないぞ!! 結界を解け!!」
怒りに鼻筋を立てたバアルが痛みなどお構いなしに結界へ左手を突っ込んでいく。飛び散る火花。焼け爛れ飛び散る血肉と骨。しかしレヴァイアは恐怖に目を見開いたまま結界を解除しない。
「バアルさんダメ!! やめて!!」
バアルの親指を除く4本の指が第二関節まで焼け落ちたところでリリスは彼を後ろから羽交い締めにし、無茶をやめさせた。冷静沈着なバアルが何故レヴァイアが結界を張ったことにここまで我を失い激高しているのかは分からない、ただ、こうして無理にでも押さえなければ彼はこのまま身体がどれだけ失われようと結界に突っ込んで行ってしまう気がした。
「何をする離せ!! 離せよ!!」
怒りに歪んだ端正な容姿がリリスに振り向く。しかし重傷に加え両の腕が完全に機能しなくなった彼にはリリスの腕すら満足に解けない。リリスに氷を突き刺す手もあるが、優しい彼にはそこまで出来ないのだろう。何より、無理にレヴァイアを追うことは間違っていると本人も本当のところ、少しは分かってしまっているのだ。
不意に耳へ届いた翼が広がって風を切る音。目を向けるとレヴァイアが俯きながら漆黒の翼を大きく広げて今にも遠くへ飛び立とうとしている姿があった。
「レヴァイア!! 何処へ行く!? 私から逃げることなど許さない!! 許さない!!」
金切り声でバアルが呼び止める。それでもレヴァイアは首を横に振った。
「……一人にさせてくれ……」
僅かに顔を上げて悲痛に満ちた目を見せ、静かに呟かれた一言。分かってくれ、ということだ。
「レヴァイア待て!!」
結局レヴァイアはバアルの制止を振り切り、風のように一瞬で何処かへ飛び去ってしまった。
「レヴァイア……。い……、嫌だあああああああああああ!!」
我を忘れたバアルが長い髪を振り乱し悲鳴を上げた。
「嫌だ!! 嫌だああああああ!!」
そのヒステリックな甲高い叫びは、まるで女の放った声のように聞こえた。そして一通り感情任せに叫んだ後バアルの身体はスイッチが切れたように手足の力を失い、ヘナヘナと地面へ膝をついた。まるで、レヴァイアが遠くへ去ったことでバアルの脚を支えていた芯が抜けてしまったかのように。
「バアルさん……」
リリスは、酷く震え今にも崩れ落ちそうなバアルの身体を後ろから支えた。
一応レヴァイアは我に返った。だが、これはどうしたことだ。取り返しのつかないことをしてしまったレヴァイアは苦悩に苛まれてこの場を去り、バアルは力を失ってもぬけの殻。なんという結果だろう……。
「だい、じょうぶ……。アイツ、は……、帰ってくる、さ……」
やっと右腕、右足の再生を終えたサタンが地面を這いずってバアルの足元へとやって来た。この状況でも「大丈夫」と笑顔で友を励ますのがサタンの優しさである。
「サ、サタン……! レヴァイアが、私を、拒絶した……! 私を……! 私を拒絶した……!」
今にも泣き出しそうな声で言ってバアルは縋るようにその焼け爛れた手でサタンの手を握った。……今の彼には王の威厳が微塵もない。今、此処にいるのは、かけがえの無い友を失った一人の、まだ若干のあどけなさを残した弱い男である。
「大丈夫。一時的なもんだよ。アイツだって一人で考え込みたい時だってあるさ……。すぐ、帰ってくるよ。俺が、保証する」
サタンの笑顔は揺るがない。彼が保証するというのだから、保証してくれるのだろう。理屈抜きにそう思える。
「うん……。分かった…………」
バアルが静かに頷く。と、その時、何かがポツリと荒地に落ちてきた。
「あ。雨……」
これは『雨』だ。雨なんてものは生まれて初めて見るがリリスは空からこうして水が降ってくることを誰に教わったわけでもなく『雨』だと知っている。知っているが、何せ初めて見るものだ。見上げた空にはいつの間にか焦げ茶色の雲が立ち込めている。では雨の雫とはどんなものかそっちもしっかり見てみようとリリスは手の平を広げ、そして雫を一滴捕まえたところで「あっ」と小さく悲鳴を上げた。
「この雨、何……?」
リリスが捕まえた雫は、『赤い色』をしていた。雨を見るのは生まれて初めてだ。それでも雨が赤いことなど有り得ないと知っている。
雨脚が強くなってくるにつれ、視界を雨の赤が遮り始めた。鼻に血なまぐささが届く。これは、この雨は、ただ赤い色をしているわけではない。これは『血』だ。誰の血だか分からないがとにかく空から大量なんて規模じゃない血が降り注いでいる。
「サタンさんバアルさん!! この雨、変です!!」
しかしリリスの声にバアルは無反応で背を向け俯いたまま。サタンだけが「ああ、まあね」と呑気に返事をした。
「なんたって破壊神サマが暴れた後だからな。不思議なことがいっぱい起こるんだ。さっきまで空が真っ暗になって風が止んでたこともそう、この雨もそうだ。リリス、これは『今は亡き女神様が心から流してる涙』なんだよ」
「今は亡き、女神様……ですか?」
「そっ。レヴァイアの悲鳴が聞こえるとさ、死んでも尚レヴァイアを想って女神が泣くんだ。アイツを救ってやれなかったことを心底悔やんでな。そんでこんな雨を降らす……」
血の雨は女神の行き場無い悔しさを代弁するように勢いを増すばかりだ。
ふとサタンは『この城から見える景色に眩い光が差し込んで視界が全て真っ白く染まる。暫くするとその視界を奪った白は真っ黒く変わり、最後は血のような赤になる』というバアルの予言を思い出していた。
神の降臨は視界を全て白く染め、破壊神の目覚めは空を黒く染めた。そしてこの血の雨だ。今や視界は赤一色――。
「お前の予言、またピッタリと当たっちまったな」
サタンはそっと右手を伸ばし、リリスに悟られぬよう『泣くな』と声にならぬ声で呟いてバアルの頬を流れて止まない『血の涙』を拭った。
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