【08:両雄を見つめる女神の視線(4)】


 いつまでも雨に打たれていたって仕方がないと割り切り、間もなくサタンたちは帰路についた。
 本当ならばサタンとバアルは指導者として真っ先に街へ戦争の後片付けに向かわなければならないのだが、今回ばかりは傷も重いため住人たちに甘えさせてもらった。サタンらにとっては酷く情けのない話である。幸い「勿論です、任せてください」と彼らは御機嫌な声で応えてくれた。血の雨がザーザー降り注いでいるというのにだ。
 己の無力さに唇を噛みつつ城へ真っ直ぐ帰ってきたサタンはリリスに「お疲れ様、よく休め」と手短な労いの言葉をかけると逃げるように自室へ向かい、血の雨に濡れた身体を拭う気力もなく床へペタリと座り込んで壁にもたれかかった。
 今のサタンにはリリスの目を真っ直ぐに見つめ返すことなど出来ない。何故こんな事態になったのか無言で説明を求めているリリスに詳細を語ってやれる気力がないからだ。仲間をろくに守れなかった情けない姿を晒してしまったからだ。希望の冠に名前負けしていることを知られてしまったからだ。
 先の戦争で散々足を引っ張った後、仲間に立ち直らせてもらっておきながら今日またこのザマ。嗚呼、無力なことがバレた、恥ずかしい、恥ずかしい、情けない、無様だ、とても無様だ。こんな有様でリリスの真っ直ぐな目を見つめ返せるわけがない。
「クソ……! 畜生……!」
 サタンはまだ再生されていない左肩の断面に爪を立てた。長い爪が傷口に食い込みグチュッと潰れたような音を立ててより肉が裂け血が滴る。痛い。痛いからどうした。痛いのは自分が弱かったせいだ。
 ――ツノが出てるぜ――
 戦いの最中レヴァイアに言われた言葉を思い出す。そのツノは、今も頭のてっぺんに二本並んで出たままだ。ゴツゴツと壁に当たって鬱陶しい。
「絶望……か……」
 レヴァイアの力は圧倒的だった。感情高ぶらせれば対抗出来るなどと考えていた自分が滑稽に思えるほどに彼の力は圧倒的だった。
 それだけ彼の中にある闇は深かったということだ。
 あの場にてサタンの抱いている希望よりもレヴァイアの胸に秘められていた絶望の方が遥かに巨大だったということだ。
 希望の感情を打ち砕くのは絶望。絶望の感情を打ち砕くのは希望だ。……サタンは、レヴァイアに希望を見せてやることが出来なかった。完全な負けだ。そうだ、負けだ。完全な負けだ。
 己の無力さを痛感するのはこれが初めてではないが、どうにもキツい。
 狂気に歪んだ弟分の顔と、形を残さず死んだ仲間たちと、重傷を負っているにもかかわらず無茶をしてくれたバアルの姿が目に焼き付いて離れない。
 これ全て、己の無力が原因だ。
 正面にあるベランダ窓の遥か向こうに今にも血の雨に掻き消されそうなバアルの城が見える。城の主は今頃どうしているだろうか。酷い深手を負っているのだからひとまずウチの城へ来ないかと誘ったがバアルは無言で首を振り音もなくその場から姿を消して自分の城へと帰ってしまった。独りぼっちの静かな城にだ。……仕方ない。彼も彼で今は独りになりたいのだろう。
 独りぼっちが、死ぬほど苦手なくせに。
「ん……?」
 不意に、部屋のドアをコンコンとノックする音が響いた。
「あの、サタンさん……」
 ドア越しに聞こえるリリスの遠慮がちな声。返事をするべきかしないべきか一瞬迷ったが、心配はかけるべきでない。サタンは「なーに?」と応えた。
「あ……。傷、大丈夫ですか? 私で良かったら包帯巻くの手伝わせてください」
「ああ……、包帯、か……」
 まだサタンの左腕は再生していない。片手で自分を治療するのは大変だろうとリリスは声をかけてくれたわけだ。だが……、こんな情けない顔を彼女には見せたくない。自分の身体を労る気分でもない。何もしたくない。
「いい。大丈夫。ちょっと今は一人にしてくれ」
「そうですか……? あの、何か私に出来ることないですか?」
 その時、サタンの耳にはリリスがドアノブを握った僅かな音がしっかりと聞こえた。
「入んな!!」
 反射的に、声を荒げてしまった。ドアの向こうでリリスがビクリと肩を跳ね上げて息を飲んだ空気が伝わる。
「あ……。ごめんなさい……。私ちょっとしつこかったですね。ごめんなさいっ。じゃあ、あの、おやすみなさいサタンさん。ゆっくり、寝て下さいね」
「ああ、おやすみ……」
 サタンはパタパタと早足にリリスが歩き去って行き如何にも肩を落としている感じで静かに彼女の自室である隣部屋のドアを開閉した音を聞きながら血塗れの手で頭を抱えた。
 最悪だ。身を案じて声をかけてくれた彼女に怒鳴ってしまった。とことん最悪だ。
「なんで俺って、こうなんだろ……」
 愚痴ばかりが溢れる。自分のダメさ加減に頭痛までしてきた。
 いつだったか、まだ心優しい母であった神がサタンとレヴァイアにだけ語った言葉を思い出す。
『よくお聞き。不透明ながら確かに存在する生と死、終わりと始まり、絶望と希望……その概念が不幸にも喜怒哀楽の感情と人格と肉体を持ってしまった、それが貴方たち二人なのです。けれど私は貴方たちをしっかりとこの目に見ることやこの手で触れることが出来て本当に嬉しい。会えて良かった。私の元に来てくれてありがとう』
 ……本当に、まだ優しい母であった頃の話だ。まあいい。それはともかく誰に教わらずとも生まれながらに知っている本能というヤツで神は極自然とサタンとレヴァイアに『不幸にも』と言った。それつまり自分たち二人が本来は肉体や人格を持つべきでなかった存在ということだ。サタンとレヴァイアが一個人として存在するのは酷く不自然なことなのである。ならば何故こんなことが起こったのか、何故自分たちが人格と肉体を持つに至ったのか。それは自分たちも生みの親である神にも分からない。よってサタンとレヴァイアに唯一与えられた確信は、ただ己が不自然な存在であるということだけ。
 ――だったら、概念だけ残してサタンという男など消えてしまえばいいのに――
 そう心にもないことを願った瞬間、サタンは己の身体に異変を感じて部屋にある姿見鏡へ振り向いた。そこには絶望に飲まれかけたことにより頭のツノは一層不気味に伸び、目は狂気に光り、異様に青白くなった肌の下から血管をはっきりと浮かび上がらせ、歯は肉食獣のように鋭さを増してしまった自分の姿がはっきりと映っていた。
 あまりのことに、声すら出ない。ただ背中に冷たい汗が流れる。
「う……っああああああああああああ!!」
 闇に飲まれてはいけない。それだけは絶対にいけない。本能的にサタンは絶望を振り払いたい一心で異様なほど爪が鋭利に伸びてしまった右手で我武者羅に頭を掻き回した。ガシガシガシガシ、ひたすら頭を引っ掻き回した。暫くしてゆっくり顔を上げもう一度鏡を見ると先程までの化け物じみた姿は何処へやら。表情は憔悴しきり頭には相変わらずツノが二本出てはいるが、いつもと変わらぬ自分がちゃんと映っていた。爪の長さも元通りである。
「……なんだよ、俺って……!! 俺ってなんなんだよおおおおおお!!」
 己の脆さにサタンは頭を抱えて声を張り上げた。
 希望の象徴と呼ぶには頼りなく、絶望の象徴と呼ぶには貧弱すぎる。それが、自分だ。自分という存在だ。こんなザマではレヴァイアが暴走してしまったのも頷ける。彼は希望があまりに脆過ぎて信じられなくなってしまったのだ。どんなに絶望のドン底に叩き落されても希望さえしっかりと見えていれば彼はあそこまで闇に飲まれず済んだ。
 何もかも全て、自分の無力が元凶だ。
『お前は希望。俺が絶望』
「え?」
 あまりにも突然に何処からともなく聞こえた声。
『負は俺が背負う』
 これは、間違いない。レヴァイアの声だ。何処か遠くへ飛び立ってしまったくせしてちゃっかりサタンの喚き声を耳にしたらしい。
「よく言うよ。重すぎて潰れかけたくせして……」
 正直な気持ちをぶつける。するとサタンの頭の中に彼の小さな苦笑いが聞こえた。
「笑ってる場合かよ畜生……。一応心配してんだぞ、聞き耳を立てる元気があんなら今すぐ俺の目の前に出てこい。テメェのせいで外の雨脚どんどん増してってるんだしよ」
 するとまたレヴァイアは「ハハッ」と苦笑いをした。
『リリッちゃんを拒否った兄ちゃんなら、俺の気持ち分かるだろ』
「あ〜……、まあな……」
 これにはサタンも苦笑いをするしかなかった。
 仲間に迷惑をかけてることは分かってる。それでも今は、一人になりたいのだ。
「でも、なるべく早く帰って来いよ。俺もなるべく早く、『帰る』から」
 いつもの自分に帰るから、と。
『ああ、分かった。じゃーな』
 ここで二人のやり取りは終わった。正しくは一方的にレヴァイアが終わらせてしまった。彼は唐突に自分から声をかけておきながら「じゃーな」と言ったきり一切の気配を絶ってしまったのである。探さないでください、ということだ。
 まあいい。彼に言いたいことは山ほどあるが、今はその殆どを語る気になれない。自分よりも遥かにこの事態を悔やんでいるはずのレヴァイアに「負は俺が背負う」と言わせてしまった。優しくされて胸が痛むあたり本当に重症だ。どうしようもない。
 サタンは改めて壁に寄りかかり、激しさ増していく雨音をぼんやりと聞いた。
 済んでしまったことを今更いくら悔やんだところでどうにもならない。分かっている。分かってはいるが、それでも今は、身体が重くて動けない。
 隣の部屋ではリリスもリリスで酷く思い悩んでいた。先程サタンの叫び声が壁越しにはっきりと聞こえてしまったのだ。胸を締め付けるような悲痛な叫び……。サタンは今とても苦しんでいる。なのに何も出来ないしてやれない無力な自分が悔しかった。せめて何か声をかけてあげたい。でも何を言えばいいんだろう。
 先程ドア越しの会話で「ゆっくり、寝て下さいね」と告げたあと、本当は「貴方はとても頑張ったのだから」と去り際に言いたかった。だが、言えなかった。
 側で見ていたリリスには分かる。サタンは今日、誰より頑張っていた。本当に頑張っていた。しかし今の彼に「頑張ったね」などと知ったような顔で言う資格は自分に無い。そんな生温い言葉をかけたところでサタンは決して喜ばない……。
 結局なんの力にもなれず、ただ温厚なサタンに声を荒らげさせてしまった。最悪だ。胸が痛んで仕方がない。力になるどころか邪魔をしてしまったのだ。
「……とりあえず、身体を、洗おう……」
 ふらりと立ち上がってリリスは浴場へ向かった。なんの役にも立てないなら、とりあえず当たり前のことをしよう。まずはこの血の雨で汚れた身体を洗おう。そしたら何か食べよう。お腹は正直あまり空いていないけれど何でもいいから食べよう。『どんな時も怠ってはいけないことがある』というバアルの教えを信じて。
(私が塞ぎ込んでても意味が無いもの。サタンさんが元気ないならその分、私が元気でいなくちゃ)
 しかし、そうして迎えた翌日も事態は何一つ好転しなかった。相変わらず血の雨は轟音を立てて降り続けているしサタンは朝食の時間になっても部屋から出てこない。心配になってドア越しに声をかけても「すまない、もう少し一人にしといてくれ」という素っ気ない返事しかもらえない始末。しかし、リリスが肩を落として去ろうとした時、サタンはポツリ「ゴメンな」と言った。
「昨日、ゴメン。怒鳴ったりして……。心配してくれたのに……、ゴメン……」
 それは雨の音に掻き消されないのが不思議なほど、か細い声だった。
「サタンさん……。ううん、私なにも気にしてないから。今はゆっくり休んでください」
 言ってリリスはそっとドアを手の平で撫でてからその場を後にした。そして、リビングに着いたところで大きな大きな溜め息を吐いた。嗚呼、成る程これはキツい。
(私が以前カインさんとの別れに落ち込んで部屋に篭っちゃった時は、サタンさんがこんな気持ちでいたのかな……)
 サタンはそんなつもりないだろうが、まるで仕返しをされた気分である。これはキツい。とてもキツい……。しかしリリスまで落ち込んではなんの解決にもならない。溜め息なんて吐いてはいけない。リリスは今一度気を取り直すとキッチンへ向かって食料の備蓄を確認したのち、お買い物バッグを持って街へ出掛けることにした。
 こうなったらサタンが思わず部屋から出てきたくなるような美味しいご飯を作ってみようという考えである。
 リリスは雨を通さぬ厚手のショールを頭にすっぽり被ると玄関を開けて叩きつけるような血の雨が降っている外へ足を踏み出した。
(ホント、凄い雨……)
 未だ降り止みそうにない強い雨である。鼻を突く独特の鉄臭い香り。この雨の影響で真っ赤に染まった街は普段の賑わいからは想像もつかないほどシンと静まり返っていた。大通りに出ても殆ど人の姿がない。当然と言えば当然だ。あんな争いの後でもってこの雨である。みんな、外を出歩く気になどなれないのだろう。
 リリスは改めて今、魔界を支えてきた三人の男がバラバラになっていることを実感した。
 胸が、痛い。
 魔界の希望であったサタンとレヴァイアが本気の殺し合いをし、その二人を支えてきたバアルも今は心折れてしまっている。
 これは、魔界に住むみんなの希望が断たれたも同然の状況なのだ。街が静まり返っているのは当然だ。みんながみんな肩を落としている。そう思うと、胸が、痛い。
 しかし、だからといってリリスまで落ち込むわけにはどうしてもいかない。
(しっかりしなくちゃ……!)
 リリスはまた自分を奮い立たせると馴染みの食料品店のドアを叩いた。いつもなら開け放たれたままの大きなドアだが今日は固く閉じられカーテンまで掛かっている。ひょっとすると休業だろうかとリリスが案じたその時、中から「はーい」という返事と共に軽快な足音がやって来て馴染みの店員がドアを開けてくれた。
「あらリリスちゃん……! こんな雨の中を歩いてお買い物に!?」
 リリスを見るなり小柄な女性店員は目を丸くした。
「ええ、色々と買い置きがちょうど無くなっちゃって。あの〜、営業してます?」
「勿論だよ! むしろこんな時だからこそウチは営業続けてまっす。さあいらっしゃい、どうぞ」
 手招きする店員、だがリリスは店内に足を踏み入れることを躊躇した。
「あ、えっと、私ビショビショの血塗れだから此処でいいですっ。あのですね今日はお肉と〜……」
 口頭で注文を伝えようとしたリリス。だが店員に「なに言ってんの、そんなトコいたら濡れちゃうよ! ほら遠慮しないで入った入った!」と腕を掴まれて店内に引きずり込まれてしまった。
「ああぁぁぁぁぁ……。す、すみません。でもお店汚しちゃうよぉ……」
「とんでもない! お客をこんな雨の中に立たしておけますかって! 特にリリスちゃんみたいな美人さんなら尚更だよ! さあ、今日は何が欲しいのかな?」
「お姉さん……。ありがと! えっと、今日はねぇ〜。なに買おうかな」
 店員の笑顔に押し切られる形でリリスはいつも通り店内を歩いて品物を眺め始めた。しかし、いつもなら大賑わいのこの広い店にリリス一人しか客の姿がないことも落ち着かなければ、やっぱり店の床にポタポタと自分から血が垂れ落ちていくのは心苦しい。が、ひょっとしたら今更なのだろうか。こんな日でも先客は何人かいたのだろう、よく見ると床には血塗れの靴で歩き回った足あとがそこら中にある。
 ダメだ、血で汚れた床など見てはいけない。胸が苦しくなる。だから今は買い物に集中しよう――リリスはひと通り商品を流し見したあと「よし決めた」と手を叩いた。
「じゃあ今日は奮発して、うんと大きくて分厚い牛肉を買っていこうかな。ステーキ用の分厚〜い牛肉ください!」
「お、いいねー! じゃあとっておきのお肉出してあげちゃうよ! あとは? あとは?」
「あとは〜、バターとジャガイモと人参とブロッコリーとトウモロコシとミルクかな! 今日のランチはステーキ、夕食はクリームシチューにします。全部サタンさんの大好物! 美味しいものをいっぱい食べさせて元気出してもらう作戦です」
 威勢のいい店員の言葉にリリスもいつも通りのノリで返した。しかしサタンの名を聞いた瞬間に先程まで笑顔を保っていた店員の表情が僅かに曇った。が、店員はすぐまた笑顔を作って「うん、分かった!」と頷き、血で汚れたリリスの代わりに商品を手に取って買い物バッグの中へ次々と詰め込んでくれた。そしてレジへ向かい会計をしようとした時である。リリスが手についた血をしっかり拭って革袋から銀貨を一枚取り出して手渡した瞬間、とうとう我慢が出来なくなったのか店員の目から大粒の涙がボロボロと零れ始めた。
「お姉さん……?」
 リリスが心配して顔を覗き込むと、店員は嗚咽をもらしながら涙を手で拭い「ごめんなさい……!」と呟いた。
「なんにも出来なくて、ごめんなさいね……! サタン様をお願いします……! どうか支えてあげてね、リリスちゃん……!」
「お姉さん……。はい、もちろんです。私に出来ることならなんでもするつもり。それに、大丈夫ですよ、あの人たちはとても強いから。こんなことに負けたりしない。私たちの希望はこんなことで折れたりしない。そうでしょ? だから、……泣かないで」
 このリリスの言葉に店員は「うん」と頷くと涙を荒っぽく手で拭って「毎度ありがとうございました!」といつもと変わらぬ元気な笑顔を向けてくれた。
 やっぱり、みんな傷付いて落ち込んでいるのだ。
 店を出たリリスは雨脚が弱まるどころか更に強まった真っ黒な空を見上げてフーッと小さく息を吐いた。
 この雨が本当に今は亡き女神様が心から流してる涙で、死んでも尚レヴァイアを想ってひたすら泣いている証なのだとしたら……。
「泣いてるだけじゃ……、ダメだと思いますよ……」
 思わずリリスは空に向かってポツリと零してしまった。その時、『同感だ』という返事が何処からともなく返ってきた。
「え? えええっ!? だ、誰!?」
 誰にも聞かれるはずのない独り言に返事をされたリリスは恥ずかしさに顔を赤らめながら周囲をキョロキョロと見渡した。しかし人影は全く見当たらない。だが、声の主は変わらぬトーンで『右向け右』と告げてきた。よって素直に右を向いたが、やはり人影は無し。すると今度は『そのまま直進』と告げてきた。
「なんですか、もうっ」
 なんだか分からないが誰かに呼ばれていることは確かである。リリスは仕方なく声に従って真っ直ぐ歩いた。そうして歩を進めるたびに『そこを右』とか『そのままちょっと真っ直ぐ』と指示してくる声を追っていった結果、軽い結界でも張っているのか周囲一帯を一切雨に濡らさぬまま佇んでいる如何にもガラの悪そうな店へ辿り着いた。なんだか本当にガラが悪い。ドアや窓が真っ黒なカーテンで締め切られているせいもあって入るのにとても抵抗を覚える外装の店である。しかし呼ばれてしまったものは仕方ない。
「えっと〜、お邪魔しま〜す」
 意を決してその雨の降っていない一角に足を踏み入れた瞬間、何かふわりと温かい風が吹いてリリスを濡らしていた血が一気に綺麗サッパリ消し飛んでしまった。ひょっとすると血を入れまいとするこの結界の効果だろうか。少し驚かされたが綺麗にしてもらうに越したことはない。リリスはそのままドアノブを引いて軽く中を覗き込んでみた。リリスがドアを半開きにしたせいで遠慮がちなドアチャイムの音がチリンチリンと木霊すそれなりに広々とした店内。鼻を突く煙草の香り。左右の壁一面に様々な煙草の箱がギッチリと並んでいる。心なしか室内が煙っているのは奥のカウンターに行儀悪く足を掛けて座っている赤い髪の派手な男が煙草を吸い続けているせいだろう。彼の手元にある灰皿には吸い殻が山のように積まれている。
「よう、いらっしゃい。アンタを呼んだのは俺だよ。入ってきな」
 リリスを見るなりグシャリと吸い終わった煙草を灰皿に押し付けて赤い髪の男は瓶ビールを口に含んだ。店の作りもガラが悪ければ店員の男までガラが悪い。一体此処はなんなのだろう。リリスは首を傾げながらも素直に店内に足を踏み入れ、男の前に立った。
「あの、私になんの用? 此処ってなに? あなた誰?」
「此処は見てのとーり煙草屋さん。俺のことも煙草屋って呼んでくれ。神様に貰った名前で呼ばれるのはどうにも苦手なんでね。で、用はコレ」
 コレ、と煙草屋と名乗った男はカウンターに真っ黒な煙草の箱を5個ドンッと置いた。これはリリスにも見覚えのある煙草の銘柄だ。
「これは、レヴァさんがいつも吸ってる煙草?」
「そっ。レヴァ様に会ったら渡しといてくれ。そろそろ手持ちが尽きる頃だと思うんだわ。あの人、煙草が無くなったらそれこそ絶望に飲まれてちまうだろからさ。買い物ついでに頼まれてくれると助かる」
「わ、分かりました……。あれ? でもちょっと待って。じゃあ渡さない方がいいんじゃないですか? ほら、手持ちが無くなったらどうにもならなくて煙草を買いに戻ってくるかもしれませんよ。それに私レヴァさんの居場所……、分からないし……」
 そう、会ったら渡せと言われてもいつ会えるか分かったものではないのだ。しかし煙草屋は自信ありげに笑う。
「いやあ〜、買いに戻ってくる気はしねーし俺の勘だとアンタなら何故か近々会える気がするんだわ。確証はないけど」
 言って煙草屋は煙草を咥えてマッチを擦り、火をつけた。レヴァイアが日常的によく行う動作と瓜二つ。悲痛な顔で仲間の下から去っていった彼は今頃どこでどう過ごしているのだろう。リリスの胸がまた痛んだ。
「あぁ、こんな煙たい場所に呼びつけて悪かったね。俺から出向くのが筋なんだろうけど、ただでさえ外出苦手なのにこの雨でさ〜。お礼は何がいいかな。俺、煙草しか持ってねんだよな……。アンタにそんなもん勧めたらサタン様にぶち殺されそうだ。と、なると、えーと、お小遣いとかがいいかなぁ」
 煙草を咥えたまま煙草屋はなにやら棚の中をガチャガチャと物色し始めた。……チラッと見えたその乱雑な棚の中はリリスの目にはどう役立つのか分からない不可思議なアイテムばかりが詰まっている。あの中からお礼になるものをチョイスする気なのだろうか……。
「あ、あの、どうぞお構いなくっ。えっと、その代わり教えていただけませんか? あの、私なにがなんだか本当に分からないんです……。どうしていきなりレヴァイアさんがあんなことになっちゃったのかとか、なんでこんな雨が降るのかとか、バアルさんが抜け殻みたいになっちゃった理由も全部、分からない……。だから、教えて欲しいんです。なんとなく貴方、知ってそうだから……、その、ただの勘だけど……」
 すると煙草屋は返事の代わりに「ほい、お小遣い」と棚の中から見つけた金貨を指で弾いてリリスに投げ渡すと何処からともなく取り出した椅子を自分の隣に置き、「コーヒー飲める?」と立ち上がりざま問いかけてきた。これはきっと長話に付き合ってくれるというサインである。
「はい、私コーヒー大好き! ……ミルクと砂糖たっぷりならだけども」
「へえ〜、可愛い好みだな。分かった、ここ座って待ってて」
 ここ、と先程用意した椅子を指差してから煙草屋は煙を吐きながらカウンターのすぐ奥にある小さなキッチンに立ってお湯を沸かし始めた。リリスの読み通りやはり彼とレヴァイアは幾らか親しい仲なのだろう。彼はレヴァイアが日常的に口にしている煙草を販売する店の主人でもって見た目もなんとなく相通じるものがある。特に耳元を彩っている派手なピアスたちがそれだ。彼もレヴァイアと同じく痛くないのか心配になるほどの太いピアスを何個も大きく尖った耳に付けている。……要は、どことなく同じ匂いがしたのだ。
「何から話せばいいのかって感じだし部外者の俺がどこまで話していいものかって感じもするわけだけど」
 リリスが椅子に座ったことを背中越しに察したのか手元を動かしながら煙草屋がポツリと呟く。
「話すに迷うってことは、貴方なんでも知ってるってことですね?」
 生まれて初めてカウンターの向こうに足を踏み入れたリリスは興味津々に周りを見渡した。成る程、店員さんからはこんな風に店内が見えるのかと。
「おお嫌だ、女はこれだから恐いよ察しが良すぎるんだもの」
 アハハと茶化すように笑う煙草屋。しかし一切リリスに振り向かなかったあたり彼がどんな表情で笑ったのかは分からない。
「なんつってな。マジで大したことは語れないよ俺だって。でも、とりあえずバアル様が抜け殻になっちまった理由は簡単だ。あの人はレヴァ様が側にいなきゃ生きていけねんだから。これココだけの話な。俺がこんなこと言ったなんてバラすなよ、バアル様に殺されちまう」
「アハハ……。でもその話、なんとなく分かる気がします。バアルさんとレヴァさんはいつもとても仲良しだから……」
 無二の親友が自分の側から離れていってしまったのだ、身体の力も抜け落ちるというものであろう。しかし、煙草屋はそういうことが言いたかったわけではないらしい。
「仲良し、か……。まあ、ね。その言い方も間違っちゃいない」
 どうにも煮え切らない言い方である。
「正しくもないってこと、ですか?」
 この問いに煙草屋はコーヒーを入れていた手を止めた。
「いや、正しいさ。でもアンタが考えてる以上にあの二人は実を言うと関係が深いんだよ。バアル様はただの男友達を失っただけで折れる男じゃない。アンタ、『加護』って知ってる?」
「ええ、勿論です。その加護というものを私もこのドレスと鞭にサタンさんから受けましたので」
 以前教わった知識だ。血は魂を運ぶもの、よってサタンらに思いを込めて血を塗りつけられたものには加護が宿る。ゆえにサタンが想いを込めて自身の血を塗りつけたこのドレスと鞭にはサタンの強い加護が宿り、火の中に投げ込もうとも焦げ目一つつかなかった。極普通の素材で作られたドレスと鞭だったのに、だ。
「なら話が早い。とどのつまりバアル様は全身をレヴァイア様に加護されているんだよ。だから本当にレヴァイア様がいないと生きていけないんだ。精神的にも肉体的にもね」
「そう、なんですか?」
 リリスにとってはまさかの話であった。常に凛と立っているバアルがそこまで誰かに依存していたとは夢にも思っていなかったことである。……ところで全身を加護されているということはバアルは以前レヴァイアの血を全身に浴びた、ということだろうか。なんというか、想像したらとてもバイオレンスな図が浮かんでしまったリリスである。
「安心しろ、多分アンタの想像してるようなモンとは違う」
「で、ですよね〜」
 手をザックリ切って痛い痛いと泣き喚きながら一生懸命に不機嫌そうなバアルへ己の血を塗りたくるレヴァイアを想像していたわけだが、良かった違ったようだ。
「ともかく、レヴァイア様が帰ってくるまでバアル様は一人でずっと塞ぎ込んだままだと思う」
 言いながら煙草屋は湯気の立つマグカップをリリスに差し出した。ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーがなみなみと注がれたマグカップである。リリスはそれを「ありがとう」とお礼を述べて受け取り、フーフーと息を吹きかけて一口喉に流し込んだ。
「あんまり美味しくなかったらゴメンよ。女の子にコーヒー入れてやるのは慣れてないもんでね」
「とんでもない! 美味しいですよ、凄く」
 リリスが言うと煙草屋は「そう?」と、おどけて首を傾げ仏頂面を緩めて笑顔を見せた。
「あ〜……、あのさ、……アンタあのレヴァ様と真正面から対峙したんだろ? ぶっちゃけ怖くなかったのか?」
「え? あ、あの、それは……」
 彼の言う『あのレヴァ様』というのは、あの我を忘れたレヴァイアのことに違いない。リリスは言葉に詰まった。怖くなかったと言ったら嘘になる。しかし、言いたくなかった。レヴァイアのことを怖かったとは口が裂けても言いたくなかった。
 この気持ちが伝わったのか煙草屋は「それでいい」と頷いた。
「大丈夫、怖くないって言ったらそれは偽善だ。死そのものと対峙したからには怖かったに決まってる。誰だって死ぬのは怖いんだから。答えに詰まってくれてむしろ安心したよ。でも、それでもアンタはまだレヴァ様を見限らないでいてくれるんだよな?」
「もちろんです! レヴァさんは私の大切な友達ですから!」
 告げた瞬間、煙草屋はリリスを真顔でジッと見つめ、「やっぱり俺の勘は当たってたぜ」と呟いた。
「アンタの存在があればあの人は救われそうだ。一応補足させてくれ、レヴァ様が殺めた面子はみんな俺と親しい奴らでさ、似たもの同士で集うってヤツなのかみんながみんな家族を持たない一匹狼だった。だから後腐れなくあの場面で自分の命を進んで投げ出せたんだ。自分たちの死があわよくばレヴァイア様の目を覚ますキッカケとなるか、それがダメでも戦うことに躊躇していたサタン様が奮起するに至ると信じてね」
 親しい友人を亡くしたとはとても思えぬ淡々とした口調でもって煙草屋は短くなった煙草を灰皿に押し込むとまた次の煙草を口に咥えた。
「みんな肉塊になっちまったから死に顔は拝めなかったけど、もし拝めたらさぞかし充実した顔を晒してたと思うよ。天使に殺されるよりイイ死に方をしたと思う。憧れだった男の糧になる死に方が出来たんだから。つーわけで、間違ってもレヴァイア様を見損なわないでやって欲しい。誰一人としてヤツらの死を悲しんじゃいないわけだからさ」
「煙草屋さん……」
 誰一人として悲しんではいないというのは、明らかに嘘だ。煙草屋の目を見れば分かる。でも、それでも死んだ仲間の意志を尊重して悲しまずにいるのだろう。
 リリスはそのまま煙草屋からレヴァイアがあんな風になってしまったのはこの世の全てに絶望したことと血の雨の元凶である女神のことを思い出したことがキッカケであり、そうなると破壊神である彼は湧き上がる衝動を抑えられなくなってしまうんじゃないかという仮説と、この雨の原因は知っての通りレヴァイアを案じた女神が流す涙が原因であること、街の住人が敢えて結界も張らずにこの雨を受けているのは今回の一件に関して何も出来なかった自分たちに対するせめてもの戒めの意であること、にもかかわらず煙草屋だけ店の周りに結界を張って雨を防いでいるのは煙草の葉がシケッたら元も子もないからというドライな話を聞いた。
 彼の説明はそれはもう要点しか述べない簡潔なものだった。その際、要点のみに絞りながら言葉を選びに選んでいるように見えたのは決してリリスの気のせいではない。きっと彼はもっと深いところまで知っている。だが、何か彼の口からは語れない理由があるのだろう。ならば、詳細を尋ねるべきではない。
「俺が話せるのはここまでだな。あとは上手く当人たちに聞いてくれ。今は無理でもアンタにならきっと全部話してくれるさ」
 そうして区切りをつけるように煙草屋はマグカップに残っていた冷えたコーヒーを全て喉に流し込んだ。
「うん……。色々教えてくれてありがとう煙草屋さん。ちゃんとレヴァさんにコレ、渡しますね!」
 コレ、とリリスはレヴァイアに渡すよう頼まれた煙草を大切に買い物バッグの中へしまい込んだ。
「ああ、よろしくな。……おっと、いいところに来た」
「え?」
 不意にカウンターの向こうへ目を向けた煙草屋を見て同じ方向へ目をやると、そこには音もなく店にやって来たと思われる酒瓶を片手に持ったロトが「お前なに女の子なんか捕まえてんだよ珍しい……!」と目を丸くしている姿があった。
「あら、ロトさん! こんにちは!」
「お、おう、こんにちは……。えっと、どういうこと? ダダダダダ、ダメだぞお前リリスさんに手ぇ出したらサタンにブッ殺されるぞ死ぬぞ!!」
「んなこた言われなくても分かってんよ。つーかお前ちょっと頼まれろ。リリスさんを城まで送ってやってくれ。この雨の中を歩かせるのは可哀想だ、よろしく」
 何やら大慌てのロトだが、それに対する煙草屋の態度は酷くクールなものである。
「うん分かった……って、ちょっと待て! いきなり人をパシリに使うとは何事だよ! 俺、お客! 煙草切れたから買いに来ただけのお客!」
「うるっせぇなあ〜。ほら、一箱サービスしてやるからよ」
 棚から取り出した煙草の箱をポイッとロトに手渡す煙草屋。うっかり素直にそれをキャッチしてしまったロトは頷くほかなかった。
「ちぇ〜っ、横暴なんだから全く」
「いいじゃねーか大した手間じゃねーだろ。つーわけでリリスさん、コイツが城まで送っていくから安心しな」
「え? あ、はい! ありがとうございます」
 なんだかよく分からないが送ってもらえるのは正直助かる。
「よろしくね、ロトさん」
「おう! 任せとけ!」
 さっきまで不服そうにしていたロトだが、なかなか満更でもなさそうである。とても眩しい笑顔だ。昨日は酷い怪我を負った彼だが、この笑顔を見る限り心配なさそうである。切断されてしまった手足も綺麗に元通りだ。
「あの、今日はロテさん一緒じゃないんですか?」
「ああ、女房は〜……、まあ、この雨だからね。家でちょっと塞ぎ込んじまってる」
 苦笑いのロト。何かマズイことを聞いてしまった気がしたリリスは「そうですか……」と肩を窄めた。そこへ「リリス」と煙草屋が口を挟んだ。
「俺たちは無駄に知り過ぎてるせいか、あの人たちの苦悩を一緒に背負える気がしなくて側に寄れなかった。そんでこうして黙って一緒にショゲることしか出来ない有り様。なのにアンタは何も臆さずあの人たちの側へ足を踏み入れて、あの人たちのことを覚悟持って知ろうとしてる。素直に凄いことだと思うよ。こんな店に縁は無いだろうけど、またいつでもおいで」
「煙草屋さん……! はいっ、ありがとうございます!」
 なんと言えばいいのか、リリスは今、胸に温かいものが込み上げたのを感じた。なんだろう、今、初めて彼から仲間として認められた気がしたのである。が、その感動は「此処来るのは極力避けた方がいいよ、全身が煙草臭くなるから」というロトの冷めた言葉に若干砕かれた。
「じゃかましい。ちゃんと匂い消えるようおまじない掛けてやるっての。そういうわけだから、またな。あとは頼んだぞロト」
「おうよ。ほんじゃ行くかいリリスさん」
「はい。またね煙草屋さん、コーヒーご馳走様でした。ロトさん、よろしくお願いします」
 煙草屋に一礼しロトの差し出した手を握った瞬間、リリスは煙たい店内から一瞬で雨の音がダイレクトで耳に入るサタンの城の玄関前に移動した。いつ味わっても慣れない移動方法である。
「わお、一瞬だ……! ありがとうロトさん、助かりました!」
「どう致しまして。なんつーか、リリスさんが煙草屋と何を話したかは大体察しがつくよ」
 言ってロトはボリボリと頭を掻いた。
「女は腕力バカな男にない別の強さを持ち合わせてるっていうけど人間てのもそうなのかもな。俺ら天使崩れには無い別の強さを生まれ持ってる気がしてならないよ。牢獄にいるカインって男といいリリスさんといい……。なんだか敵わないや」
「そんなことない、ですよ。私、まだ何も出来てないし……」
 何もしていないのに褒められても落ち着かないだけである。リリスは堪らず口籠った。しかしそんなリリスを見つめるロトの目は優しい。
「いいや、この雨の中を買い物に出掛けたじゃないか。サタンに美味いもん食わすためにさ。俺らにはとても出来ないことだよ。……ちょうど昼時だ、サタンをよろしくねリリス」
 言うとロトはリリスが挨拶を返す間も与えずこの場から姿を消してしまった。
 リリスには分からなかった。一体、彼らの言う知り過ぎていると近寄れないとはどういうことなのだろう。敵わないとはどういう意味なのだろう。リリスはただ、サタンに元気を取り戻して欲しいだけである、なのに、彼らは褒めすぎだ。でも、悪い気は決してしない。頼られるというのは理屈抜きに嬉しいものだ。
 とにもかくにも、ちょうど昼時。空が曇っているせいで分かり難いが腹時計は確かに今が昼時だと告げている。
「よしっ」
 リリスは城へ入るとそのまま真っ直ぐにキッチンへ向かった。



 眠る気にも何かを食べる気にもなれず、サタンは血塗れでしゃがみこんだまま夜を過ごし、朝を迎えた。いつの間にか頭のツノは引っ込み、体中の怪我は全て塞がった。だが気分は一向に晴れない。もうすぐ昼だ。いつまでもこうしていたって仕方がない。分かっているのに身体が動かない。
 窓を叩く血の豪雨を見つめながら後悔ばかりが頭を過る。何故どうして、あの時もっとこうしていれば結果は違っていたかもしれないと延々たられば妄想の繰り返しである。こんなことをいつまでも続けていたって仕方がないと分かっているのに、止まらない。
 バアルとレヴァイアも、同じような思いでいるのだろうか。
 こんな時に何故だろう、サタンは此処へ堕天したばかりの頃を思い出してしまった。
 あの時は本当に辛かった。カラ元気を出して休みなく動き回ったことを覚えてる。それは正直にいうと立ち止まった瞬間に大きな後悔で身体が圧し潰されそうだったからだ。
 自分に付き従ってくれた者たちの希望を裏切ってしまった罪悪感と、もっとしっかりやれたのではないかという大きな後悔とで胸は今にも張り裂けそうだった。しかし、せめて指導者として今此処で崩れ落ちるわけにはいかないと己を奮い立たせ、何もない荒れ地にてこれからどうすればいいのかと途方に暮れる仲間たちに「大丈夫だ!」「なんとかなる!」「生きてさえいればどうにでもなる!」と励ましの言葉をかけ続けた。だが、たかが励ましだ。なんの根拠もなければ中身もない軽い言葉である。それでも仲間たちは「そうですよね!」と俯かせていた顔を上げてサタンに笑顔を返してくれた。でもそれは『サタンが自分たちを引っ張ってくれる』という安心感から来るものであり、結果これから何処へ彼らを引っ張ればいいのかまだ道の見えてなかったサタンは軽い言葉を放ち続ける罪悪感に耐え切れず、暫くして岩陰に身を潜め塞ぎ込むこととなった。
 そこへ一切臆さず「お悩みですか〜」と軽いノリで近寄ってきたのが他ならぬバアルとレヴァイアである。
 あの時は、本当に助けられた。
「まずは衣食住の確保をしましょうサタン。私の目の良さは知っていますね? 街を造るに良い土地を見つけたんですよ。一緒に見に行こう、そうしよう!」
「そうしよう兄ちゃん、そうしよう!」
 有無を言わさぬ早口の誘い。その勢いに押されてサタンが頷くとバアルは「それでヨシ」と手を叩き、翼が無い彼は自力での飛行が不可能ゆえレヴァイアの両肩を跨ぐ形で飛び乗って「はいレヴァ君、私の言う通りに飛べ!」と明後日の方向を眩い笑顔で指差した。
 そうして「お前は俺をなんだと思ってんだ!!」と文句を言いつつバアルを肩車する形で素直に空へ飛び上がったレヴァイアを追って暫く飛ぶと、二つの高台に挟まれた広大な土地に辿り着いた。
「此処です。此処が一番いい」
「此処? どうして?」
 どこもかしこも同じような景色が広がる中で何故此処をチョイスしたのか。話の見えぬサタンが首を傾げるとバアルは「まずは見たほうが早い」と言って真っ直ぐに手をかざした。するとあっという間に目の前の広大な大地の上に氷の街が広がり、二つの高台には大きな城が築かれた。
「うお、スゲェ……!」
 思わず素直な感想が口から漏れてしまったサタンである。
「エッヘン、凄いだろ。これが私の予想設計図です」
 己の能力を存分に活かし頭の中にある構想を目に見える形で伝えたバアルは遠慮なしに胸を張った。
「でね、二つの高台にまず私とサタンの城をそれぞれ建てて常に街を見守れるようにします、街の真ん中にはその私の城と貴方の城とを結ぶ大通りを作りましょう。いざという時に街のみんなが私たちをすぐ頼って来れるようにね。それと、街の中心はやはり活気溢れる場所にしたいから大きな大きな広場を配置したいなあ〜、それと……」
「はい、先生!」
 バアルの話を遮るようにレヴァイアが突然手を上げた。
「なんですかレヴァ君」
「俺の城がありませんッ! 俺はドコに住むんですか!?」
 目の前の街完成予想図にはサタンとバアルの城しか無い。レヴァイアが口を挟むのも当然であった。すると――
「貴方は私の世話係として私の城に同居してください」
 ……これはレヴァイアにとって無慈悲にもほどがある知らせだった。
「な、なんでー!? なんで俺だけ自分のお城持てないの!? 嫌だよ完成予想図を見た限りじゃお前ってばお城スッゲー可愛いデザインにする気満々じゃん!! 俺可愛いお城に住むとか無理だよ嫌だよ毎日お前の世話とかマジ勘弁だよおおおお!!」
「うるさい黙れ拒否は許さんもう決まったことだ大人しく従えケダモノめ。貴方のような畜生が一人暮らしなんぞしたらそれはもう毎日酒浸りなグーダラの食っちゃ寝でもって夜な夜な女はべらせまくりの酒池肉林ヤッホーな堕落生活送るに決まってるんだから絶対にダメ」
「お前ちょっとそれ人聞きが悪いにも程があるだろ俺そんなことしねーよー!!」
「わーーーーもおおおおお!! はいはいはい、そこでストップストップ!!」
 黙ってやり取りを聞いていたサタンが堪らず間に入って二人を制した。しかし「だってぇぇぇぇ〜」と嘆いてレヴァイアは不服そうに頬を膨らまし、バアルはバアルで「私は間違ったことを言っていない」と聞く耳持たない始末。やれやれである。
「ええとええと、しょーがない! とりあえず同居するかしないかの話は一度置いといてだ! バアル、お前のこの設計図はマジでスゲーよ! 此処に街を造るの大賛成! 早速みんなも呼んでもっと設計練ろうぜ!」
「おお、頷いてくれると思ってました! では私は此処で更に構想を練っておきますのでサタンはみんなを呼んできてください」
 褒められて一気に機嫌を直したバアルである。いやしかし実際この設計図は素晴らしい。即興で作ったとは思えぬほどに洗練されている。しっかりと天使の来襲を構想に入れて逃げ道の確保などを考慮していることもそう、街全体がちゃんと回るように出来ていることもそうである。ここに仲間全員の知恵が加わればそれはもう良い街が出来るはずだ。
「任せとけ! レヴァイア、お前も来い!」
 つい先程まで自分が落ち込んでいたことなどすっかり忘れ、サタンは意気揚々と先に風を切って飛び立った。そして「そういえば……」と思い出した。自分が先程まで落ち込んでいたことにだ。
「元気出たな」
 翼を広げて後から追いついたレヴァイアがニッと白い歯を見せて笑いかけてきた。
「ああ、お前らが『希望』を見せてくれたおかげだ」
 本当に、その通りである。バアルとレヴァイアがサタンに新しい希望を見せてくれた。また此処から始めようという希望をだ。
「どう致しまして。一人で落ち込むのは無しだぜ兄ちゃん。俺らも同罪なんだ、一緒に償おう。みんなに新しい希望を見せてさ」
「そうだな! ありがとう、レヴァイア」
 そうだ、その通りだ。サタンは己の夢を打ち砕かれて凍りついていた心に再び火が灯ったのを感じた。そうだ、また此処から始めよう。みんなで始めよう。と、ここでレヴァイアがバツ悪そうに「でさ……」と切り出した。
「俺に少しでも感謝してくれるなら頼むバアルを一緒に説得してくれ……! 俺にだけ城を持たせないとかマジで酷いよアイツー!」
「アハハッ! よく言うよ、実は満更でもないくせに」
 なんたってバアルとレヴァイアは仲が良い。一緒に暮らすのが本気で嫌なわけがないのである。その証拠に自覚はおそらく無いだろうがレヴァイアはサタンの言葉を全面否定せず「でもファンシーなお城に住むのはやっぱヤダよお……」と唇を尖らせただけだった。つまり、本当に実は満更でもなかったわけである。
 こうしてサタンは堕天のショックから立ち直り、仲間と共にまずは街建設に全力を尽くした。みんながみんな己の生まれ持った力を存分に発揮し、まずは地下の水脈を掘り当て地下水路を造って生活のための水を確保した。水脈を掘り当てた記念にと広場の中心に大きな噴水を造った時の感動は今も覚えている。
 そう、いつもいつでも、助けられてばかりだ。それゆえ今回は余計に「今度こそ俺が助ける番だ!」と奮起した。だが結果はこの通り。
(俺、いつもお前らに何もしてやれない……)
 身体から更に力が抜けていくのを感じた。
 さて、どれだけ時間が経っただろうか。窓の外は相変わらずの雨。バアルとレヴァイアは今頃どうしているだろう。気になるなら声をかければ早い、それは分かっている。しかしかける言葉が見つからない。
(どう声をかけりゃいいってんだよ、なんの力にもなれないのに……)
 自然と大きな溜め息が漏れた――その時である。気のせいだろうか、部屋に何処からともなくとても食欲のそそられる香りが届いた。察するにバターを贅沢に使ったステーキの香りである。気のせいだろうか。いいや気のせいではない、確かに匂う。ドアの向こうから猛烈に匂ってくる。なんだこれは。どうなっているのだ。サタンは堪らず気になってドアを開けてしまった。するとそこには焼きたてホヤホヤの大きなステーキと蒸かしたイモと人参のソテーを乗せた鉄板のトレイを団扇であおいで一生懸命にサタンの部屋へ向けて匂いを飛ばすリリスの姿があった。
「あっ! やっぱり空腹には勝てなかったみたいですねサタンさん! ドア開けてくれるって信じてましたよ! はいどうぞ! まだ熱いから気をつけてください」
 未だ血に汚れ荒んでいるサタンの姿に臆することなく眩い笑顔でもってリリスはまだジュージュー音を立てているステーキセットをホイと手渡してきた。
「あ……。あり、がと…………」
 食欲なんかなかったはずだがウッカリ勢いに押されてトレイを受け取ってしまったサタンである。どうしたものか。食欲なんかないはずなのに。はずなのに……、こうして間近に焼きたての大好物を目にすると腹の虫というものは現金なものである。
「良かった、腹減ってたんだわ……。えっと、一緒に食うかリリス。俺、きたねぇけど……」
 なにせ血に塗れたままの姿である。とても女の子と一緒に食事をする格好ではない。しかしリリスは「はい、もちろん!」と迷わず頷いてみせた。
「汚いなんてトンでもないっ。ワイルドでカッコイイですよサタンさん。じゃ、リビングに行きましょ!」
「ああ、行こう」
 これは逆らえない。サタンは遠慮がちにリリスのドレスを指で摘んで一緒にリビングへ音もなく瞬時に移動し、いつも通り無駄に椅子の多い長テーブルに隣合って座っての仲睦まじい食事を始めた。しかし会話らしい会話は無し。リリスが隣から「それお店の人がオススメしてくれた肉なんです」やら「奮発したんだよ」と話題を振ってくれたがサタンはただ黙って頷き答え、黙々と食事を口に詰め込んだ。なにせ今のサタンは口を開けば弱音がせきを切って流れ落ちそうな状態であり、下手に声を出すことなど出来なかったのである。それを察したようにリリスも同じく黙って黙々と食事に集中した。そうして静かな食事を終えた時である。サタンより10分ほど遅れて「ごちそうさまでした」と食事を終えたリリスが手を合わせたタイミングで彼はポツリ「情けない」と呟いた。
「え?」
 突然の言葉にリリスが振り向く。…………もうサタンには何を耐える気力も無かった。リリスの気遣いがそれだけ彼の胸に深く深く突き刺さったのである。
「な、情け、ない、な……、俺は……」
 歯止めの利かなくなった口元から震えた声色の弱音が漏れ、虚ろな目からは涙が次から次へと零れ落ちていく。情けない。文字通り情けない。しかしもう弱音を止める術はない。せきは切れてしまった。
「情けないよ……! 情けない……!」
「そんなことないですよ。貴方は凄くカッコ良かった……! だってボロボロになっても最期まで諦めなかったじゃないですか……!」
 とうとう頭を抱えて泣き崩れたサタンをリリスは若干の躊躇はしたものの思い切って胸に強く抱き締めた。やめろと振り払われるだろうか。馴れ馴れしいと憤慨されるだろうか。それでもいい、怒られても呆れられてもいい、どうなろうとリリスは今この男を強く抱き締めたいと思った。この気持ちに嘘はつけない。結果、サタンは憤慨するどころかそのまま声を殺して腕の中で泣き崩れてくれた。どうにもならぬ感情の爆発に襲われた彼は右も左も分からぬ状態の中で素直にリリスを頼ったのである。
「サタンさん……」
 不謹慎かもしれないが、リリスは正直嬉しかった。遠い遠い存在であったサタンを初めて間近に感じられたからだ。今の今までリリスはサタンのことをなんの迷いもなく目標に向かって進んでいく強い男だと思っていた。とてもリリスの手など届かぬ存在だと思っていた。だが違った。彼もリリスと同じく悩み、泣くことすらあるのだ。そうだ、彼も同じなのだ。それが分かってリリスは嬉しかった。頑なに意地を張り続けていた一人の男がやっと心を許してくれた気がして嬉しかった。
 が、やはりサタンはサタン。リリスが安堵に胸を撫で下ろしたのも束の間、泣きに泣いて気分が晴れたのが逆に災いしたとしか言い様がない。我に返った彼は慌ててリリスの腕から擦り抜けると己の行動の恥ずかしさに身体のどこを引っ掻けば良いのか分からぬ猛烈なむず痒さを覚えて「うあああああああ俺は一体何をしているんだああああああああ!!」と叫び壁に何度も何度も渾身の頭突きを食らわせた。あまりの威力に城は揺れるわ壁は削れるわサタンの額からは血が滲むわ、ともかく大惨事である。
「ちょっとサタンさん何してるんですかああああっ!!」
 これはいけないと急いで止めに入るリリス。するとサタンは尋常ではない形相で振り向き、単刀直入に「忘れろ!!」と叫んだ。
「リリス忘れろ今さっきまでの俺の姿は忘れろ!! あんなの俺じゃない俺なわけがない俺は正気を失っていたんだ、あんなの俺じゃなあああああい!! 忘れろー!!」
「は、はいっ!」
 ツノを生やして目を血走らせ額からおびただしい鮮血を垂れ流している男にこう至近距離で大声を張り上げられたら嫌でも頷くしかない。
「それでヨシ!!」
 怯えるリリスをよそに満足気なサタン。が、次の瞬間サタンにだけ聞こえる声で未だ姿を見せぬ友人二人が何か言ってきたのだろう。一旦落ち着いたのもこれまた束の間、サタンは頭を掻き毟りながら腹の底から怒鳴りあげた。
「だあああああ『ウルサイ』ってなんだよお前らちゃっかりこっちの話聞いてんじゃねーよ俺にそんなツッコミ入れる余裕あるなら帰って来いっての!! あっ、無視しやがったな畜生がああああああ〜っ!!」
「サタンさん……」
 自然と溜め息が漏れるリリスであった。会話の内容は一切分からないが彼が誰と誰にどんなことを言われたかは大体察しがつく。やれやれ全く忙しい人である。まあ、でも、これでいい。なにはともあれ元気になってくれたのだ。やはりこうして大騒ぎしてくれてこそサタンである。彼に俯いた顔は似合わない。



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