【08:両雄を見つめる女神の視線(5)】


 ――この戦争は世界の安定を願う神と世界に革命をもたらそうとする神による屈強な意思のぶつかり合いなのだと今に知った。ゆえに勝敗は力の大きさで決まるものではないのだと。
 最期まで意思を貫いた方が勝つ。
 ならば世界を背負った彼らのために私たちが出来ることはただ一つ――


 ラファエルはその日、また地下深くにある牢獄へと足を運んでいた。神の命令ではない。昨日今日の戦争で天界が慌ただしくしている中での個人的な訪問である。しかしいつもなら元気よく悪態をついてくるはずの牢獄の主カインの様子が今日はおかしい。うなだれたまま黙ってその場でゲボゲボと嘔吐を繰り返すのみ。挨拶の一つもしてこない。
 まあ、毎度のことだ。
 ラファエルは容易に理由を察した。彼がこういう反応を示している時というのはもっぱら何者かによって精神的な苦痛を受けた時だ。肉体的な痛みには一切動じない彼だが精神を嬲られるとなると話は別。しかし詳細は知れない。一体どんな責め苦を受けたのか聞けども聞けどもカインはラファエルに一切語らないのである。当然だ。呑気に雑談する仲ではあるが一応は敵同士。そこまで心を開いてはいないということである。今回も何があったのかと質問攻めにしたところで時間の無駄だろう。
 とにかく、二度続いた戦争で鬱憤を溜めた何者かが彼を憂さ晴らしの道具にしたことは確かである。
「やれやれ、もらいゲロしそうな光景だ」
 ラファエルは床に散らばった嘔吐物を指差して跡形もなく消し飛ばすと手に持ってきた瓶をカインに差し出した。中身は天界の泉で汲んできた冷たい水である。カインはそれをお礼も言わずに受け取り即座に口をつけ中身の水を喉鳴らして勢い良く飲んだ。そして……水の美味さに少しだけ冷静さを取り戻したのだろう。プハッと息を吐いたあとカインはようやく今日初めてラファエルと目を合わせた。
「今日は何しに来たんだお節介野郎」
 素直に水を貰っておきながらこの態度。まあいい。これでこそカインである。
「そう構えるなよ。上手くいけば近々この世界が終わるっていうお前にとって何よりの希望を伝えに来たんだ」
 瞬間、もう一口水を飲もうとしていたカインの手が止まった。が、彼は喜びも笑いもせず呆れたように「なに言ってんだか」と溜め息をついた。
「昨日また戦争があったことは知ってる。そんで普通じゃないことが起こったことも一応知ってる。此処に来た野郎がそれっぽいこと言ってたし心なしか外から流れ込んでくる僅かな風が異常に血なまぐさい。でも、そんだけだ。俺にはこれが希望とは思えない」
「へえ〜。どうして?」
「どうしてって言われてもな。ただの勘だよ。なんとなくこの世界がコレで終わる気がしないんだわ。少なくともサタンはこんな終わり方を許さないだろうなって」
「成る程。随分とヤツを信頼しているんだなお前は」
「おい、少しは怒るなり言い返すなりしろよ。つまんねーだろ」
 普通に「成る程」と納得してしまったラファエルの態度にカインは眉間の皺を深めた。
「仕方ないだろ、同意見なんだから」
 悪びれなくラファエルは言葉を続けた。
「仕掛けといてなんだが私もコレで終わる気はしないんだよなあ。でも、それでもひょっとしたら『終わるかもしれない』わけだよ。可能性は決してゼロじゃない。だから此処へ来た」
「へえ〜、どうして?」
 つい先程のラファエルの言葉をまんま返す形となったカインである。
「陽の光を再び仰ぐことも叶わず終わってしまうお前にせめて水の一杯でも飲ませてやらないと死んだ後も後悔すると思ったからだよ。情けは人の為ならずってな」
「ハハハッ! そーゆーことかよ!」
 笑ってカインは改めて水を一口グイッと喉に流し込んだ。こんなに美味しい水が飲めたのだ。同情されるというのも決して悪くはない話である。それより気になるのは、仕掛けておいて作戦成功の自信が無いというラファエルの言葉だ。
 ひとしきり笑ったカインは「はあ〜……」と息を吐いてまたラファエルを見上げた。
「お前は今回なんのために破壊神を憤慨させたんだ?」
 不用意にそんなことをすれば損をするのは天使側の方ではないのか。この世界の仕組みを僅かではあるが知っているカインは素直に首を傾げた。
「説明するまでもない、破壊神の精神を弱らせることともう一つはこの世界を少しでも動かすためだ。いつまでもお互いがお互いを恐れて睨み合いの均衡を続けているだけでは何も変わらないからな。だからリスク覚悟で怒らせた。上手くいけば我を忘れた破壊神はこっちが何をせずとも魔界の住人を根絶やしにしてくれる、そして我に返った破壊神が己の行動を悔いて自我を崩壊させてくれたら万々歳。その時こそきっと勝機が見えると神もお考えになった」
「でもお前、神様と違って正直このまま魔界だけじゃなくこの世界全部ブッ壊れちまえばいいって少しは思ったろ」
 間髪入れないカインの指摘。だがラファエルは軽く笑い飛ばした。まさかそんなはずないだろ、と。しかし尚もカインが真っ直ぐな目を自分に向けていることに気付き表情を改めた。誤魔化しの通じない相手と判断したのである。
「ご名答だ。全くそう思わなかったと言えば嘘になる……が、私にも立場ってのがあるんだ、あまり言い触らしてくれるなよ」
「そこんとこは大丈夫だ安心しろ。俺には喋る相手がまずいない」
「あぁ、そうだったな」
 カインの自虐的な言葉にラファエルは笑顔を返した。せめて笑ってやるのが彼の為だと分かっていたからである。しかしカインは表情を曇らせた。ラファエルの笑顔に影があることを見抜いた為だ。冗談ばかり口にしているラファエルだが今日は終始表情がどこか暗い。
「外で何が起こってるのか気にならないわけじゃねーけど深くは聞かねーでおくよ。アンタが言いたいっていうなら黙って全部聞いてやるけどさ」
「随分と上から目線な言い方だな。自分の立場を分かっているのか?」
「もちろんだ。此処は本当に正真正銘世界の底辺だよラファエル。俺はそこの住人。だからこそ、まさか神やアンタに不満なんざ素直に漏らせねーから鬱憤抱えたヤツらみんな此処に来るんだ。そんで自分より遥かに立場劣ってる俺を嬲って一時的な救いを得て帰ってく……。アンタだって例に漏れず此処へは毒を吐きに来たんだろ。情けは人の為ならずってな」
 これを聞いてラファエルの眼の色が変わった。笑顔から一転、恐ろしいほどの無表情。しかしカインは臆さず不敵な笑みを保ったまま手に持った瓶を振るってチャポチャポと中の水を鳴らした。
「なあラファエル教えてくれよ。神の監視下での息苦しい日々の生活に加えて戦争に次ぐ戦争で天使すら毎日苦しみながら生きてるこの世界は一体なんのために存在してるのかな?」
 するとラファエルは無表情を保ったまま「そんなの決まってるだろ」と小さく溜め息をついた。
「神の自己満足のためにだ」
 それは一切の迷いも窺えない真っ直ぐな答え方であった。それもそうだ、他に答えようがない。カインもそれに頷いた。
「だよな。この世界の中で神様しか『永遠』ってのを望んでないんだから」
 この世界は神の自己満足のためだけに存在している――――創造主の傍若無人ぶりを知っている者なら誰しも分かる答えである。
 暫くの静寂が牢獄内を支配した。ラファエルとカインの二人が同時に言葉を詰まらせたからである。なんともやり切れない思いに言葉が出ない。ゆえの静寂。……沈黙を破ったのはカインの方だった。
「しっかり吐いてけよ、毒」
 かの大天使長ラファエルにこんな気遣いなど本来は不要だろうが、それでもカインはこう言いたくなる衝動を抑えられなかった。
「随分とお優しいことで」
 案の定ラファエルからは笑われてしまった。でもいい、構わない。カインも笑って返した。
「だろ、俺って優しいな」
 カインとしてもわざわざ水を飲ませてくれた大天使様とこれを最期に二度と会えなくなってしまう可能性を思えば気遣いの一つや二つしてやりたくなるというものである。



 我を忘れて失態を晒しまくってしまったサタンだったが我武者羅に暴れ回った甲斐あってどうにか立ち直ることに成功した。とりあえず、こうしてリビングにて肩を並べてリリスと共にお茶を飲み、昨日何が起こったのか何も分からずにいる彼女へ説明してやれるほどには。
「レヴァイアは悪くない。アイツは思い出したくない記憶をムリヤリ穿られてパニクッちまっただけなんだ。何も悪くないんだよ」
 呟いてサタンは自分が淹れたお茶を不味そうに飲んだ。リリスの口にはいつも通り甘くて美味しいお茶なのに、だ。
「血は心の臓に宿った魂を身体に巡らし個の形を保つ生命の源。いわば魂そのもの。だから身体から流れる血と血が触れ合えば魂と魂が直接触れ合ったも同然で記憶を共有することなんかも容易く出来るんだ。一方が強く望めば一方がどれだけ拒否反応を起こそうと関係なく。つーわけで……、神が連れてきた水色頭のガキの血を通じて父親の記憶を見ちまったんだとしたら、レヴァイアは最愛の女が陵辱されてる姿を間近に見ちまったことになる。そら正気も保てなくなるだろうさ」
「そう、ですか…………」
 血と血が触れ合う意味、記憶の共有、水色頭の子供、その父親の記憶、レヴァイアと親しかった少女、陵辱、悲しい記憶…………いつも以上にリリスにとっては聞き慣れない単語の連続である。それでもなんとか話の大筋は飲み込んでみせた。
 自分たちが結界内に閉じ込められている間にレヴァイアとバアルは神と対峙をし、結果レヴァイアはトラウマを的確に抉る少年たちによって正気を失い敵味方の判別もなく暴れ回ってしまったのだと……。全て天界側の狙い通り。向こうは見事レヴァイアに同士討ちをさせ更なるトラウマを植え付けることとバアルの軸足を断つことに成功した。
「向こうの狙いはレヴァイアの精神をズタズタに引き裂いてその力を封じることだったわけだ。デカい賭けに出てくれたもんだよ。ほんの僅かだろうとレヴァイアが『こんな世界消えちまえ』って思ったらもう『終わり』なのになあ……」
 深くため息をつくサタンである。
 レヴァイアは未だ自身の持っている強大過ぎる力を上手くコントロール出来ない。ゆえに毎日必死に負の感情が湧かないよう明るく振る舞って自分を抑えている。そこを叩くのは簡単だ。それでも今の今まで相手が手を出してこなかったのは彼の本気の怒りを恐れていたからに他ならない。
 だが、とうとう相手は大きな賭けに出た。仲間思いのレヴァイアが容易く負の感情に流されるものかとサタンらが強く信頼しているように、天界側もそこを考慮して今回の作戦をぶつけてきたのだ。彼は憤慨しても必ず踏み留まると。そして我に返った瞬間、神ではなく自身を責めるに違いないと。
 ……レヴァイアの優しさがアダになってしまった。
「レヴァさんは、本当に『破壊神』だったんですね……」
 今の今までピンと来ることはなかったレヴァイアの別名だが、今回の一件でリリスの認識はすっかり変わった。実際この目に見て分かったのだ。彼は正真正銘、破壊神なのだ。全てに終わりをもたらす破壊神なのだと。
 今までも彼がひと睨みしただけで天使が身体をバラバラに切り刻まれ物言わぬ肉塊と化す様は見てきたが、なんというか昨日の光景はケタが違った。それでも、不思議とレヴァイアを心の底から恐怖の対象とは思えない。何故なら彼はリリスを殺そうとした際に躊躇をしてくれた。あんなに我を忘れていても彼は優しかったのだ。
「いい機会だから改めて話すよリリス。俺らの目的はこの世界をブッ壊すことだ。でもそれは我を失ったレヴァイアに誰かれ構わず殺してもらうってことじゃない。狂った創造ばっかり繰り返す神の考えをブッ壊すってことだ。どうすればそんなことが出来るかはまだ分からない、けど声高らかにお前は間違ってるって叫ぶことにまず意義があると思って俺らは行動してる。一方、神サマは俺かレヴァイアの意思を完全に打ち砕いて俺ら全員を謝らせようとしてる。んで、あわよくば俺かレヴァイアの力を奪って『永劫』を手に入れようとしてる。自分が創造したものを絶対壊れないようにしたくて堪らないんだ。そんなこと出来るはずないのにな」
 神は万物の起源である。しかし始まりと終わりの理は操れない。よって神が創造したものは必ず壊れてしまう。神の意思など無視していつかは必ずだ。物事には必ず始まりがあり同時に終わりもあるのだ、当然の流れである。しかし神はその終わりが憎くて憎くて堪らない。丹精込めて作り上げたものをいとも容易く壊されてしまうからだ。ゆえに神は終わりを自由に支配したいと考えた。ごく自然の欲求だ。愛しいものと永劫、共にありたい。そして嫌なものは全て目の前から消えてしまえ――神だけでなく誰しも一度は胸に抱く願望である。
 しかし、創造主である神は決してこの願望を抱いてはならなかった。巨大な力を持った神の願望はそのままこの世界に反映されてしまう。実際、決して実現することのない願望を抱いての創造は世界に大きな混乱をもたらした。サタンらが反逆を決意したのはそれから間もないことである。
「永劫……ですか」
 そうか、とリリスは納得がいった。
 レヴァイアが完全に自我を失ったら双方バッドエンド、神の意思を正すことが出来たらサタンらの勝ち、もしこちらの意思が砕かれたら神の勝ち……。成る程、彼らの戦いは力の強弱で決まる単純なものではなく精神の削り合いなのだ。意思を砕かれ、隙を見せた方が負ける。
 決して死ぬことはない概念と物質の源のぶつかり合いなのだ、単純にいかなくて当然だ。そしてその概念が今、揺らいでいる。レヴァイアとそれを支えているバアルの意思が今まさに揺らいでいる……。改めて考えるとこれは大変な事態である。
 以前バアルも『貴方たちも勘付いているとは思うが大きな争いが起これば神の気が少なからず乱れることは必須。上手く行けば結界が薄れて私たちは天界の場所を思い出せるかもしれない』と話していた。サタンかレヴァイアか神、この世界を支える三人の内いずれかの精神が磨り減れば戦局は必ず大きく変わると思って良さそうだ。
「サタンさん、あの二人はちゃんと立ち直りますよね?」
「当然だろ。俺たちがこれからやるべきことはひとつだリリス。一刻も早く立ち直って次の戦いに備えること。この隙を向こうが逃すわけないってアイツら二人もちゃんと分かってるよ。心配ない」
 と、ここでサタンはリリスから何か言いたげな目をジッと向けられていることに気が付いた。
「なんだよジッと見て」
「ん? ん〜〜〜〜……、サタンさん、さっきからずっと気を張っているでしょ。いつ天使が襲ってきても対処出来るようにって。私最近そういうの分かるようになってきたんですよ」
「え?」
 何やらいきなり言い当てられてサタンは目を丸くした。
「エヘヘ〜。貴方の目を見ればなんとなく分かりますよ。バアルさんとレヴァさんが安心して落ち込めるように気を張ってるんだなって。…………サタンさん、私また出掛けてきますね!」
 勢い良く笑顔で席を立ちレヴァイアに渡すための煙草やら何やらが入ったバッグを手にするリリス。一方のサタンは想像もしてなかった言葉にポカンと開いた口が塞がらない。
「え? あ、あれ? おい、どこ行くんだよっ」
「バアルさんのお城です。ちゃんとご飯食べてるのかなーとか色々と心配なので様子を見に行ってきます」
「バアルん家にか? でも……」
 気を張っているサタンの代わりに仲間を励ましに行こうとするリリスの気遣いは分かる。だが、バアルははたしてリリスを歓迎するだろうか。
「大丈夫ですよ、みんなの迷惑になるようなことはしませんから。私、バアルさんが一人でいるところって見たことないから、どうしているか凄く心配なんです。行ってみて帰れって言われたら大人しく帰りますし何か役に立てることがあるなら立ちたいから、とにかく行ってみます」
 本当に、リリスはバアルが一人でいるところを見たことがない。常に彼の横にはレヴァイアの姿があった。それが今は――――。バアルに会ったところでなんと声をかけたらいいかも分からないわけだが、それでも何もしないよりはいい。
 昨日、レヴァイアが去った際に張り上げたバアルの悲鳴もその後の腑抜けた姿も尋常ではなかった。気にするなと言われても無理な話である。
「分かった。行ってこい。この雨だから城の側まで送るよ。バアルをよろしくな」
 彼女の存在を正直心強いと思ったサタンは頷いて背中を押すことにした。なんとなく、彼女ならこの状況をひっくり返せる気がする。此処は賭けてみても損はないと判断したのである。
「はい! 任せてください! ……なんちゃって、追い返されてすぐに帰ってきちゃうしれないけれど……」
「それこそ何を言ってんだか! ほら、送るから目を閉じな」
「はーい」
「ん。行ってらっしゃい」
 素直に目を閉じたリリスの手を軽く掴むとサタンは音もなくバアルの城の入り口扉前へ移動し、そのまま城の主に一言の挨拶もせず自分だけ自宅へと戻った。3秒もかからぬ間のことである。
「成長著し過ぎるのも困り者だなぁ。ビックリさせられてばかりだ」
 誰に聞かすでもない独り言だ。いやはやリリスには本当に驚かされてばかりである。お互いを知り過ぎているが為に暗黙の了解で距離を取ったサタンらと違い、リリスはなんの恐れも抱かずに相手の胸元へと飛び込んでみせる。一体いつの間にあそこまで強くなったのか……。
『可愛いお客さんを寄越してきたね、サタン』
 落ち込んでいるとは到底思えないバアルの声が耳に届いた。リリスの到着を容易く察したのだろう。
『寄越して良かったかな?』
 サタンが声にならぬ声で問うと『もちろんだよ』と笑い混じりの声が返ってきた。だが、明らかな強がりだ。バアルが元気なはずなどない。笑えるわけがない。何故なら、外は相変わらずの雨だからである。
『とにかく今は俺に任せて、ゆっくり休んでくれ』
『うん、ありがとう』
 此処で会話は途切れた。……バアルの放ったありがとうの言葉に胸が痛い。本当ならもっとバアルとレヴァイアにはゆっくり落ち込みしっかり立ち直れるだけの時間をあげたいのだ。だが出来ない。それはサタンが非力だからである。魔界の全てを一人で守り切れるほどの力などサタンは持ち合わせていない。一人では何も出来ない。
 お礼を言われる資格など、無い。
「力が、欲しい……」
 口から漏れるのはいつもいつも同じ愚痴だ。



「本当に便利な力だなあ。私も出来るようになりたい……」
 目を閉じろと言われて目を閉じた一瞬のうちに目的地へ到着してしまったリリスは一人バアルの城の入り口でパチパチと瞬きを繰り返していた――いやいや、いつまでもこんな目をパチクリさせてる場合ではない。しっかりしなくては。
 リリスは軽く深呼吸をして気持ちを落ち着けてから扉をノックしてみた。だが、いつもならすぐに返ってくるはずの反応は何もない。聞こえるのは周囲のけたたましい雨音だけである。
 やはり門前払いなのだろうか。落ち込んでる姿など見せたくないと。
 迷いながら再度ノックをしてみる。やはり返事は無い。が、代わりにどうぞ入ってくださいと言わんばかりに扉が自動的に開いた。これはノックに気付いたバアルによる無言の返事に違いないと解釈したリリスは「では、お邪魔しまーす」と笑顔で城内に足を踏み入れた。が、此処からがまた問題である。この城はリリスが過去何度も迷子になったほど、とてつもなく広い。迎えもないのにどうやってバアルの元へ行けばいいのだろう。一部屋ずつ当たっていては日が暮れるどころでは済まない。
 さて、どうするか……。リリスが考え巡らし始めたその時、『そこの階段を上がりなさい』というバアルの声が何処からともなく聞こえてきた。良かった、出迎えには現れないものの一応の案内はしてくれるようである。
 リリスが歩を進めるたびにバアルは的確な指示を与えてくれた。これなら簡単だ。声に従って階段を登り、廊下を進み、角を曲がってまた階段を登る……。はて、簡単だが全く馴染みのない道順だ。何処へ向かっているのか見当もつかない。そういえばリリスは今まで一度もバアルの私室に足を踏み入れたことがなかった。
(ひょっとしたら初めて招いてもらえるのかな)
 そう思うと嬉しい。が、反面なんと言えばいいのかリリスにはこの入り組んだ道のりが彼の心の壁をそのまま表しているように思えてきた。この道を案内もなくすんなり辿れるのは、きっとサタンとレヴァイアだけなのだろう。
 明かりもなく人気もなく完全な静寂に包まれている城内に胸が痛い。レヴァイアがいないだけでこれほどまでに空気が違うものかと驚かされる。
 やがてリリスは城の頂上の間に到着し、如何にも王様の部屋といった感じの黄金のドアの前で足を止めた。本当に細かな装飾の施された綺麗な黄金のドアである。下手に触るのを躊躇するほどだ。しかし『どうぞお入りなさい』とバアルは声にならぬ声で言う。と、いうことは本当に此処がバアルの私室なのだ。向こうには黄金に輝くドアとは対照的に真っ黒に塗り潰された大きなドアが存在感たっぷりに佇んでいる。きっとレヴァイアの部屋だ。間違いない。全く本当に彼らは仲が良い。
「分かりました、入りますよ」
 手のひらをドレスの裾でしっかり拭ってからリリスは黄金のドアを開け、……そのまま息を呑んだ。ドアが美しければその室内も美しかったのだ。広々とした室内には正に豪華絢爛といった趣の金と紫を基調とした家具がキッチリと配置され、装飾鮮やかな天井には大きな大きなシャンデリアがあり、ドレッサーの上には沢山の化粧品と指輪などの宝石が無防備に並んでいた。いやはやリリスが思っていたバアルのイメージそのまんまな部屋である。当の本人の姿は無いが、部屋に入って正面のバルコニーに続くガラス窓が大きく開け放たれたままカーテンをゆらりゆらりと揺らしている。居場所は一目瞭然だ。
「バアルさん、あの……」
 早速部屋を真っ直ぐ進んでカーテンを開けバルコニーを覗くと、そこには強い血の雨に打たれながら壁に寄り掛かってうなだれ、床に座り込んでいるバアルの姿があった。普段の自信と威厳に満ちた彼からは想像もつかない酷く憔悴した姿である。
 きっと、昨日リリスたちと別れてからずっとこうして此処で彼は雨に打たれ続けていたのだろう。憔悴した姿やずぶ濡れなんてレベルじゃなしに血をたっぷり吸ったグチャグチャの服がそれを物語っている。
「そこで止まりなさい……。せっかくのドレスが汚れてしまう」
 深くうなだれているせいでその表情は窺えないが、この雨に掻き消されないのが不思議なほどに弱々しい喋り口調からして察しはつく。
「分かりました。でもそれはバアルさんが部屋に入ってくれるならの話です。そんなとこにいちゃダメですよ」
 相手は魔王だ。雨に打たれ続けたところで容易く弱るような身体ではない。それでもこんな姿を見ては心配にもなる。だが、拒否の姿勢なのだろう。バアルはうなだれたまま返事をしなくなってしまった。起ち上がる気配も全くない。
 リリスは深く息を吐くと手に持っていたバッグを置いて改めてバアルを見つめた。
「バアルさん! どうしてですか!? そんなとこで濡れてちゃダメです! 中へ入ってください! いくら貴方でも病気になっちゃいますよ!」
 しかしリリスがバルコニーに入ろうとした瞬間、ハイヒールのつま先にバチッと電流が走った。これは『来るな』とバアルが結界を張った証である。だが酷く弱い結界だ。バアルの姿が結界越しにもしっかりと目視出来るのがその証拠。そもそもリリスを本気で拒否するのであれば最初から此処へ招いたりはしなかったはず。
 助けて欲しい、でも心を開き切れないジレンマ。
 リリスには分かる。リリスもまたそうして葛藤した過去があるからだ。
「私がこんなものに怯むと思ったら大間違いですよ!」
 確信を持ってリリスは前進した。踏み出せば踏み出すほど身体中に火傷を負おうと構わずに……。これはバアルにとって予想外な展開だったのだろう。
「リリス……!」
 驚きで反射的に上げてしまったバアルの顔は――その一晩中ずっと血の雨に打たれて化粧が流れ落ち血の涙の滴る目を大きく見開いた顔は、まるで無垢な少女のようであった。
(これが、貴方の素顔……! 嗚呼、やっぱり……! 思ってた通りだ……!)
 リリスは自分の中でバラバラになっていたパズルのピースが埋まっていくのを感じた。
「もう隠さないでください……! この雨は貴方が降らしているんでしょ! レヴァさんを想ってこの雨を降らせている女神って貴方なんでしょ!」
 この言葉が決定打となった。
 動揺はそのまま結界の強さに現れる。ただでさえ貧弱だった結界はバアルの動揺によって殆どその効果を失い、結果リリスは容易に血の雨降り注ぐバルコニーに踏み込んでバアルの腕を掴むことに成功した。が、そのまますんなりとはいかなかった。
「嫌だ!! 中へは入らない!!」
 まるで子供のように駄々をこねてバアルはその場で足を踏ん張ってしまったのである。こう全体重を掛けられてはリリスが全力を出しても彼の身体を引っ張るのは難しい。
「何を言ってるんですか!! ほら、立って!! どんなに落ち込んでても怠っちゃいけないことがあるって貴方が言った言葉ですよ!! ほら、立って!!」
「嫌だ!! あの人のいない城になんか帰らない!! 一人の城になんか帰らない!! 帰るもんか!! 嫌だ!! 絶対に嫌だ!! 私は帰らない!! あの人も外でずっと雨に濡れているんだ、私もそうする!!」
 彼が頭で考えず感情任せで言葉を叫んでいることは明らかだった。
「バアルさん、私は貴方が本当は『女』だってことにももう気付いています……!」
 この言葉が更に核心をついたのか呆気にとられたバアルの身体から力が一瞬抜けた。この隙を逃すほど呑気でないリリスは全体重と力を込めてバアルの身体を抱え込み、転がるように室内へ入った。
 お互い血塗れで倒れ込んだため、見るからに高価である刺繍艶やかな紫の絨毯が派手に汚れた。だが今はそんなことを気にしている場合ではない。リリスは呆然と仰向けに倒れたバアルの上に馬乗りになると今や酷く無防備で王の威厳は微塵も窺えない少女のような顔を両手で捕まえ、その瞬きもせず見開いたまま血涙を流し続ける目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「バアルさん……! 私に話してください! 前は受け止める覚悟がなくて断っちゃったけど、でも今なら私きっと出来ると思うから……! 私は前バアルさんにいっぱい吐いたら楽になった……! だから貴方も私に吐くことで楽になるなら吐いてください! お願い、吐いて! バアルさん!」
 本当は吐きたいはずなのだ。だが意地か何かが邪魔をして本人はどうすることも出来ないでいる。
 ならば、こちらから抉じ開けるしかない。
 リリスは顔を更に近付けてバアルの宝石と見紛うような金色の美しい目を間近に覗き込んだ。見れば見るほどに血に濡れてもなお腰が引けてしまうほどの圧倒的な美貌である。だが、決して引いてはならない。顔を突き合わせただけで腰を引いてしまってはまず間違いなく彼と対等の友人にはなれない。それでは到底心を開いてなどもらえない。
 絶対に引くわけには、いかない。
「貴方は一人で泣いても解決しない時は誰かの胸を借りると成功するとも言いました! 私の胸じゃダメですか!?」
 必死の呼びかけ。すると気持ちが通じたのかバアルは仮面のようだった表情を僅かに緩めて「いいえ大歓迎です」と返した。
「本当!? 本当に!?」
「ええ。だって言い難いけど私の位置から胸の谷間が丸見えだよリリス。無防備にもほどがある。おかげで正直に言うと今にも高ぶって貴女に手を出してしまいそうで我慢するの大変です私。どうしたらいいかな」
「な……っ!?」
 まさか彼から真顔でそんなことを言われるとは思ってもなかったリリスは咄嗟にドレスの胸元を両手で隠しながら後ろに飛び退き、そのまま動揺のあまり体勢を崩して絨毯の上に尻もちをついた。それほど彼女にとって少女のような容姿と全く合致しない今のバアルの発言は衝撃的なものだったのである。
「おや、本当に成長著しいね。言葉の意味が分かるとは思わなかったよ。誰に教わったのやら?」
 淡々と身を起こす衝撃発言の主を見てリリスは言葉に詰まった。だが、ここで言い返せなければ相手はもう二度と隙を見せてはくれないだろう。
 人を傷付ける言葉は甘えの証だ。今バアルは無意識か故意か分からないが確実にリリスを甘えるに値する人物であるかどうか試している。
「だ、誰に教わったわけでもないけど、なんとなく……分かります……。なんとなく、どうしてか分からないけど……。とにかくバアルさん、貴方にそんな台詞は似合いません……! 冗談はやめてください!」
「似合わないって、どうして? 私は決して紳士なんかじゃないよ。まだ根は『男になり切れてないとても下品な女』だ。貴女が察した通りのね。私が女だとどうして分かった?」
 感情の読み取れない人形のような表情だ。圧倒的な美貌がこんな表情をするとなんともいえない凄みがある。止まることのない血涙と合わせて本当に凄い迫力だ。我を失ったレヴァイアと対峙した時と同じような恐怖を感じる。しかしリリスは覚悟を決めてしっかり彼の目を見つめ続けた。
「感情に身を任せた昨日の悲鳴と今さっきの嫌がり方とその涙とこの雨を見たら、自然とそう思いました。レヴァさんを想って泣いている女神は貴方なんだろうなって。今はそうして男の身体をしているけど、でも本当は女の人だったんだろうなって」
「そう……。やっぱり敵わないね。本物の女の鋭さには」
 まるで女のような、いつもより高い声での返事。これはバアルがリリスの指摘を認めた瞬間だった。
「バアルさん……。話してください、どうか私に」
 以前、出会って間もない頃にもバアルに「女の人なんでしょ?」と尋ねたことはある。その時のバアルは酷く激高して自分が男であることを証明するために服を全て脱ぎ捨てようとした。だが今回は違う。リリスが当時のように彼の顔を見て「女」と言ったわけじゃなく内面を見て「女」だと指摘したからだ。当のバアルもその違いをしっかり汲み取って返事をしてくれた。それもただの返事ではなくいつもの押し潰した声とは違う素の高い声色を出してリリスの考えが正しいことを認めたのだ。人形のような表情とは裏腹に彼は今、己の大きな秘密を明かそうとしてくれている。
「リリス、貴女を此処へ呼んだのは是非サタンとレヴァイアの助けになって欲しかったから。それには私の正体を知ってもらう必要もある。何故なら彼らの苦悩の原因は全て私にあるから」
 ここでバアルは自身に何かを言い聞かせるように深い溜め息をつき、またゆっくりと顔を上げてリリスを見つめ返した。
「自分からこの話を人に聞かせるのは初めてだ。……本当に受け止めてくれるんですね?」
 彼はとうとう語る覚悟を固めてくれたのだ。こんなに嬉しいことはない。
「はい、もちろんです!」
 此処で頷かなかったら一生後悔をする――リリスに迷いは一切なかった。
「分かった。もう血の話はサタンに聞いて知っているねリリス。少しチクッと痛い思いをするけど平気?」
 言うとバアルはリリスの返事も待たずに自身の鋭い指の爪で己の右手のひらを深く切り裂いた。傷と傷を重ねて記憶を共有するつもりなのだ。
「ええ。でも、えっと、あんまり深く切られたら分かんないけど……」
「大丈夫、少しチクッとする程度にしか切らないよ」
 リリスがおずおずと伸ばした手のひらへ軽く血が滲む程度に爪を刺し「これでいい」と頷いてバアルは自身の鮮血滴る手を差し出した。
「私から貴女の手を握ることはない。もう見たくないと思ったらすぐに手を引きなさい。優しい人ほど他人の傷を一緒に痛がって苦しんでしまう。私にはそれが何より辛い」
「えっと……。はい、分かりました」
 一体これから何を見ることになるのだろう。リリスは深く深呼吸をしてからバアルの手を強く握った。すると瞬きする間もなく目の前の景色が一変し、目まぐるしいほどの沢山の光景とともに膨大な知識が雪崩のように流れ込んできた。その中にはとても正視に耐えられないものも多々あり、いや、耐えられないなんてものではない。これは、この光景は、『地獄』だ。天界の透けるような青空と鮮やかな花畑の広がった景色に広がった血と臓物の海……。こんなにも悍ましい出来事がバアルの周りで起こったというのか。こんなにも悍ましいことが……。
「おえ……! え……!」
 リリスは耐え切れず咄嗟にバアルの手を離してその場で口元を押さえ、背中を丸めてうずくまった。
 どうすればいいのだ、喉元まで込み上げてきてしまったものが今にも口から出そうでならない。しかしこんなにも美しい絨毯を汚すわけにはいかない。第一この喉元に込み上げてきたものは飲み込みかけた彼の記憶だ。それを吐くということは彼の記憶を受け入れると宣言した言葉を裏切ることになる。それだけはダメだ。絶対にダメだ――!
「我慢することないですよ」
「うっ!?」
 ギリギリ耐えていたところで背中をポンと叩かれたリリスはとうとう限界を迎えて嘔吐してしまった。よく分からない水分ばかりの嘔吐物が容易に手のひらから漏れ、絨毯に滴り落ちていく。
「ゲホッ! ゴホッ、ゴホ……ッ!」
 むせながら息苦しさと自分の情けなさに涙が溢れた。
「も、もう一度……! すみません、今度は絶対に離さないから、もう一度……!」
 震える手を伸ばして哀願する。しかしバアルは首を横に振った。
「私のためを思うなら貴女は今まず水を飲まなければいけないよ。ほら飲んで」
 どんな力を使ったのやらバアルはリリスの両手と絨毯の汚れを一瞬で掻き消し、同じくいつの間に持っていたやら水のたっぷり入った大きなコップを差し出した。
 経験上、彼の親切を断るのは難しい。加えて正直なところ今すぐに水が飲みたかったリリスは「はい」と素直に頷いてコップを両手で受け取り水を飲んだ。だが、喉が潤ってもホッと一息とはいかない。何故ならまだ約束をしっかり果たせていない。バアルの目からは未だ血の涙が滴り続けている。
 助けたい。なんとしてでも。
「あの、もう大丈夫です。だから、もう一度……!」
 訴えたが、バアルはまた首を横に振ってしまった。だがそれは呆れたといった風ではない。未だ血涙は流れたままだが彼の表情は何処か満足気だ。
「もう十分です、リリス。あそこまで耐えてくれたのだからもう十分。貴女は全身全霊で私の記憶を受け止めてくれた。その涙が証ですよ。ありがとう。でも、サタンに怒られてしまうかな。あまりに酷いものを見せてしまった」
 やっぱやめときゃ良かったかな〜と苦笑いのバアルである。いつも通りの声と表情だ。血涙は相も変わらずだが、いつも通りの声と表情である。それが今のリリスには胸に痛く感じた。また彼が『仮面』を被ってしまったように見えたからだ。少女の面影を色濃く残した素顔を隠すための仮面を。
「あ、貴方……、貴方は……! 本当に、辛い思いを、したんですね……、バアルさん……! いいえ、『ジブリールさん』……!」
 彼の記憶を見てリリスは知ってしまった、彼がかつて『ジブリール』という名の『美しい女神』であったことを。
「今だけは、どうか装わないでください……! 私はバアルさんではなく今はジブリールさんと話がしたい……!」
 素顔の彼と話がしたい一心だった。その気持ちはしっかりと届き、バアル、いやジブリールは静かに頷き「分かった」とまた女のような声で返事をした。
「今だけですよ。約束してくださいね。ジブリールの名はもう口にすべきじゃないんだ。彼が嫌なことを思い出すきっかけになってしまう……。分かってはいたけどあんなに思い出を苦に暴れた姿は初めて見た……。まさか、あそこまで思い詰めていたなんて……、ずっと横にいたのに、気付けなかった……」
 何処か呆然とした表情で語るジブリールの表情は本当に女そのものであった。
「リリス、レヴァイアは一度考え込むととことん下へ落ちてしまう。そんな自分を分かっているから普段は徹底して何も考えないようにしているんだよ。止めどなく酒を飲み煙草を吸ってヘラヘラ笑っているのもそれが理由で……」
 何処か必死にレヴァイアを擁護する様も正に女である。だが、リリスが聞きたいのはそこではない。
「あの……、レヴァさんのことばかり気にかけていますけど貴女自身はどうなんですか? 貴女はジブリールと呼ばれるとどうなの? 嫌なの? 嫌じゃないの?」
 思い切って尋ねてみた。するとジブリールは「私?」と小さく首を傾げたのち、「私……、私は……」と目を泳がせ始めた。彼がこんなに狼狽えた顔など今の今まで一度も見たことがない。
(これが、着飾っていない貴女の本当の顔なんですね)
 素顔を見ることができて嬉しい半面、リリスは複雑だった。本当に彼はダメなのだ、側にレヴァイアがいないと……、本当に……。
「私……、私自身は……、どうなんだろう、分からない。あの人が嫌なら嫌だとしか思ったことがなかった……。だから、分からない……」
「そう……」
「そういうリリスは、どうなんですか? 私を愚かだとは思わなかったんですか?」
「え……?」
「私が選択を誤ったが為に世界は更に混沌を極めた。貴女には私を責める権利がある。……責めないのですか?」
「そんなこと……」
 ここでリリスは言葉に詰まってしまった。
 先程、血を介して見た一瞬の光景が再び頭を過る。透けるような青空に鮮やかな花畑の広がった天界の景色……。視線の主はジブリールという名の『両性具有の女神』であり、彼女が花畑を進んで湖を覗き込んでくれたおかげで視界を介しその美しい顔を見ることも出来た。
 透き通った水面に映し出されたのは、まだあどけなさは残るものの女としての成長が始まっていた美しい少女の姿。陽の光に透けるような真っ白な肌。身体は細身だが大胆に開いた胸元には発育途中の豊満な胸があり、しかしその勝ち気な目元と耳に生えた小さな羽からはリリスもよく知る今現在のバアルの面影がしっかりと見て取れた。
 彼女はまるでこれからデートにでも出掛けるように鼻歌交じりで水面に映る自分を見ながら長い金色の髪を手櫛で整え身だしなみを確認すると、ある方向へ振り向いた。そこには、色鮮やかな景色に全く似合わぬ得体のしれない『巨大な闇の塊』があった。あれが『当時のレヴァイアの姿』だと血を介して教えられてもリリスにはすぐに飲み込めなかった。
 あの方角だけがまるで別世界、陽の光も差さずに夜の様相を纏っている。正直、不気味でしかない。しかし少女はその闇の塊レヴァイアが恋しくて仕方がない様子だった。
「レヴァ!」
 ジブリールが愛らしい声で呼びかけると遠くに広がる巨大な闇は僅かに動き、月と見紛うような大きな金色の目をこちらに向けてきた。よくよく見ればあの巨大な闇は闇という朧気な存在ではなくしっかりと息をする一個体の生命であり、どこか『獅子』に似た姿をしていることが分かった。鋭利なツノと漆黒の毛と銀色のたてがみと金色の瞳を持ったとてつもなく大きな獅子だ。恐ろしくも何処か美しい。ジブリールが彼に焦がれた気持ちは分からないでもない。
『あんまり俺には近付かないほうがいいよ』
 禍々しい姿とは裏腹にリリスも聞き覚えある優しい声で獣がこちらに語りかける。しかしジブリールは聞く耳を持たず「どうして? 私は貴方と遊びたくて仕方がないの! 側に行ってもいいでしょ! 断られたって行くんだからね!」と獣に向かって駈け出した。絵面の不気味さとは裏腹に微笑ましい図である。リリスはこの時点でジブリールがレヴァイアに恋心を抱いていることを悟った。どことなく伝わる胸の高鳴りからして間違いはない。
 だが微笑ましい場面は此処までだった。瞬きした瞬間に全ては一変。ジブリールが複数の少年たちに囲まれて「あんな獣と仲良くするなんてどうかしてる!」「気持ち悪い!」「なに考えてんだ!」「アイツのせいで世界の半分は日陰になっちまって草木も生えやしないんだぞ!」と口々に責められてる光景が目の前に現れ、リリスはまるで自分が責め立てられているような気分を味わった。
「なにさ、何も知らないくせに! レヴァは生まれてから一度もあの場所から立ち上がったことがないんだ! これ以上草木を自分の足で踏み潰したくないからってずっとあの場所を動かないでずっと寝て過ごしているんだよ! みんなと遊びたくても遊べないで、ずっとあそこで一人ぼっちで……! なのに、なんでそんな酷いことを言うの! レヴァだって好きであんな大きな身体に生まれてきたわけじゃないのに!」
 線の細い華奢な見た目と違って当時から気の強かったジブリールがしっかりと言い返す。これが癇に障ったのか特に気性の荒そうな水色髪の『ミカエル』という背の高い少年が「生意気に言い返してんじゃねーよ!!」とジブリールの肩を手で押した――刹那、遠くで様子を見ていたレヴァイアが天地が揺るぐほどの大きな咆哮を上げ突風を巻き起こした。少年たちの身体が空へ浮き上がりかけたほどの強い風だ。ジブリールを傷付けるなという脅しである。そこへ騒動に気付いた当時まだ少年だったサタンも現れ「一体なんの騒ぎだ!? またお前ら寄ってたかってジブリールに何かしたのか!?」と声を上げた。
「チッ」
 これは敵わないと察した少年たちはすぐに舌打ちをしてその場から去っていった。ただミカエルだけは去り際に一度こちらへ振り向き「お前はどうかしてる。目を覚ますべきだ。あんなバケモノに惚れたって結ばれっこねんだからな」と歯を噛み締めてみせた。
 此処から更にリリスはジブリールの心が荒んでいく様を見せつけられた。
 次に目の前に現れたのは神がレヴァイアを一度自身の腹の中に入れてその巨体を幼い少年の身体に封じ込めようとする場面。視界がいやに滲んでいたのはジブリールがひたすら泣いていたのと強い雨が降っていたせいだ。
「お前を、封印する。せめてもの償いに」
 横に見える神がはっきりとした口調で告げると、視界は更に滲んだ。雨の勢いも増した。
『封印とはなんだ?』
 レヴァイアが問うと神は「お前のその巨大な身体をこの子たちと同じ小さな器に入れることだ」と答えた。
『それが俺に対してなんの償いになる?』
「もう既に感じていると思うが、お前はこの世界に住むにはあまりに巨大過ぎる。酷く絶対的な脅威として色濃く存在し過ぎている。だから、もっと生きやすい身体にしてやりたいんだ。何年掛かるかは分からないが、どうか私を信じて身を委ねて欲しい」
『神よ、言い分は理解した。だが若干キレイ事ばかりに聞こえたよ。いっそハッキリ言ってくれ。ただ単純に俺の存在が貴方の天地創造に邪魔なのだろう?』
「そんな言い方をされても仕方ないな。お前の考えは間違っていないよ。だが、お前自身実際に不便だろう、その身体は」
 とても殺伐としたやり取りだった。お互いがお互いの腹の底を探り合うような……。
「嫌だ、やめて……。レヴァがいなくなるなんて嫌だよお……!」
 ジブリールはひたすら泣いている。側でサタンとラファエルは俯いたまま何も言わない。まだ幼かった彼らには友との暫しの別れが純粋に辛くて仕方がなかったのだろう。
『分かった、提案を受け入れよう。ジブリール、泣くな。俺はこの世界から絶対に消えはしない。何も悲しむ必要はないんだよ。それに、俺の他にもお前を守ってくれる人は沢山いるじゃないか』
 やり取りが終わり、眩い閃光が放たれてレヴァイアは激痛に身を捩らせ雄叫びを上げながら神の腹の中へと吸い込まれる形で封じられた。あとに残ったのはレヴァイアの身体に潰されていた草木も生えていない広大な荒れ地のみ。この光景を見てリリスは『レヴァイア、一回生まれ直してんだよ。最初ちょっと生活してくのに不便な身体で生まれちまったもんだからさ』というサタンの言葉が真実であったことを知った。もちろん決して彼の言葉を疑っていたわけではないのだが……。
 この一時的とはいえレヴァイアとの別れはジブリールに大きな喪失を与えた。ラファエルが「何か食べてよ姉さん」と差し出したシチューを彼女は「味がしないんだ……。何を食べても美味しくない……。私、あの人がいないと……ダメ……。早く会いたい……」と首を振って拒み、「食べなきゃ殴る!」と脅されて渋々食事を始めた際は本当に味を感じないのか塩を山のように振りかけて一口一口不味そうに料理を口へ運んだ。外出することも殆どなく一日の過ごし方は家に篭って膝を抱えているかベッドで横になっているかの二択。時折神の元を訪れては「いつレヴァイアは外に出れますか?」と聞き「まだ分からない」という返事を貰ってはまた家に篭る日々。
 彼女の姿は酷く健気だった。本当に健気だった。ある日突然に神から「そうだ、お前の美しい歌を私に聴かせてくれないか。そうしたらレヴァイアを封じる力も増すというものだ」と言われたのがきっかけで家に篭もるのをやめて外で美しい歌声を毎日披露するようになったのが良い例だ。彼女はレヴァイアに会いたい一心でひたすら神に尽くしてみせた。その才能と神の寵愛を受ける姿に嫉妬した他の天使たちから何を言われようが一切挫けることもなく。
 やっと封印を施され幼い少年の姿を得たレヴァイアとジブリールが再会出来たのは何年もの月日が経った後のことだった。まだあどけなかった少女が今にも大人の女として成熟しようとしていた頃のことである。
 幼いレヴァイアと再会した瞬間、どこか色の濁っていたジブリールの視界が一気に華やいだのを感じた。だが、その幸せも長くは続かなかった。
 突然現れた幼い少年がレヴァイアと知った瞬間、周りにいた天使たちは恐れをなして距離を置き陰口を叩き彼を無視した。側にいたジブリールにも再び辛く当たった。「好き好んでバケモノの側に寄る気味の悪い女」だと。「巨大な力に媚びを売る不気味な女」だと。
 それでもジブリールは折れなかった。サタンやラファエルといった理解者の存在もあって決して折れることはなかった。
 おくれを取り戻すように幼かったレヴァイアはあっという間にジブリールの側で成長を遂げ彼女の背を追い抜き頼れる青年へと姿を変えた。リリスが泉の水面越しに見ることの出来た二人の並んだ姿はとてもお似合いであり、このままどうか末永く幸せにあって欲しいと心の底から思えた。
 だが、願い虚しくレヴァイアの復活を機に神が創造する生命は酷く形が歪み始めた。神の心境に大きな変化があった確かな証である。どんな変化があったかは知る由もないが、間もなくして神はジブリールにこんな口出しをしてきた。「レヴァイアの側にいるのはやめろ。アレは滅びの使者であってお前とは決して相容れない存在だ」と。「私の側に来いジブリール。私にはお前が必要だ」と。
 ジブリールの美しさは神さえも虜にしていた。陰口を叩く天使たちも本音はそうだ。ジブリールが恋しくて堪らない。けれど横にいるレヴァイアの存在が恐ろしくて近付けない。
 レヴァイアさえいなければと誰もが考えた。神は特にそう考えた。滅びが存在するせいで自分が丹精込めて創造したものが次々と壊れてしまうこともあって余計にレヴァイアを憎んだ。ゆえに神はジブリールに再三説得を試みた。彼から離れろ、こっちへ来いと。
 それでもジブリールは折れなかった。よって神は業を煮やし、ある日とうとう神殿へジブリールを呼びつけ、上に無理矢理のしかかった。小柄なジブリールより優に一回り二回りは大きな創造主の身体が上にのしかかった様は一切勝ち目の無い正に絶望的な光景であり、リリスは堪らず目を背けようとした。眩い端正な顔立ちの創造主が人形のような無表情で迫ってくる恐怖は尋常ではない。こんな光景は見たくない。だが目を背けることは叶わなかった。視界の主であるジブリールが恐怖に目を見開いていたせいだ。
 決して敵わぬ相手に泣き叫びながら抵抗をするジブリールの姿は悲痛そのものだった。容易く手足は押さえつけられ、衣服は剥ぎ取られ、愛情の押し付けに他ならない口づけをされ、……そこへ神の張り巡らしていた結界を怪我負うことも厭わず強引に破って怒りの形相に顔を歪めた血塗れのレヴァイアが凄まじい勢いで飛び込んで神の頬を思い切り拳で殴りつけた。軽々と転がり飛んでいく神の身体。服を直す間も惜しみ無我夢中でレヴァイアに縋り付くジブリール。
「バケモノめ……!」
 身を起こした神がレヴァイアを睨みつけて呟いた。悪意を持って『バケモノめ』と。
「よくも私に一撃を加えたなバケモノ……! やはりお前は忌むべき存在だ、この世から消えるべき存在だ……!」
 生まれて初めて身体に『痛み』を味わった神の気持ちと恐怖は察するに余りある。しかしリリスに言わせればこれは自業自得だ。あるがままの世界の理を拒み自身の救いだけを求めて合意も得ないまま少女の身体に縋った神に同情の余地はない。にもかかわらず神は一方的にレヴァイアを恨み、ジブリールを求め続けた。だがジブリールは頑なに応じなかった。
「お前がその気ならこっちにも考えがある」
 ジブリールに要求を拒まれるたびに神は別の天使たちを手元に呼び寄せるようになった。歪んだ創造しか出来なくなった神は自力での出産を一度諦め、子供たちの身体を介して創造を続けようと考えたのである。おかげで望まぬ妊娠を強いられた天使たちが天界に溢れた。拒めば殺される。従うしかなかった。そんな彼女たちは神でもレヴァイアでもなくジブリールを恨んだ。「お前が大人しく神に従えば私たちはこんな思いをせずに済んだ」と。当然男たちもジブリールを恨んだ。「お前のせいで俺の恋人は酷い屈辱を与えられた。どうしてくれるんだ」と。
 神には逆らえない。レヴァイアにも逆らえない。世界を少しでも救おうと一人奮闘し続けているサタンを責めるなど以ての外。そうなると世界を引っ掻き回した当事者であり最も無力なジブリールに矛先が向くのはごく自然なことだった。
 逆恨みはやめろ全ては神の横暴が原因だとサタンはみんなを必死に説得した。だが神の暴走は留まることを知らず、天界が混乱を極めるのに時間は掛からなかった。
 女たちは大きくなったお腹を抱えて俯き、男たちは神が創造に失敗し続けたがゆえ天界に溢れた奇っ怪な生き物を掃除するのに疲れ果てていた。やがて筆頭に立ってジブリールを責め続けていた水色髪の大柄な天使ミカエルが声を荒らげた。「もういいもう沢山だ、何もかもジブリールお前のせいだ!」と。
 そしてとうとう、あの事件は起きた。
 一人我が侭を貫くジブリールを見兼ねたミカエル率いる十数人の天使たちが隙を突いてジブリールを捕らえ殴りつけ「今どき貞操を貫く処女なんて流行んねんだよ。ありがたく思え、俺らが名残惜しくないよう徹底的に汚してやる」「これで神の求めにも応じる気になるだろ」と声高らかに宣言し、手出し出来ぬよう結界内に閉じ込めて拘束したレヴァイアの目の前で酷い陵辱を加えたのである。幾ら追い詰められていたとはいえ一切擁護の出来ない卑劣な行いだ。その時ジブリールの視界を介して見てしまった光景はリリスにとっても二度と思い出したくないものとなった。悍ましい、ただその一言に尽きる。そして――
「レヴァイア、お前も馬鹿だよな! 大事に大事にしてねーでさっさと手を出しゃ良かったんだよ! そーすりゃこんなことにはならなかったのにさ!」
 誰かが放ったこの言葉が何かの糸を切った気がしてならない。憤慨して自我を失ったレヴァイアは鋭利な突風を巻き起こしジブリールを汚した十数人の天使たちを一瞬で物言わぬ肉塊にしてしまった。サタンと並ぶほど天使の中でも強い力を誇っていたミカエルすら同様に。
 透けるような青空と鮮やかな花畑広がる天界の景色に血と臓物の海が広がった。我を忘れたレヴァイアはジブリールに「もういい、もういいんだ、怒ってくれてありがとう」と抱き止められてやっと自我を取り戻し、自身が犯した大罪を目の当たりにしてその場で泣き崩れた。そんなレヴァイアを想ってジブリールの視界も赤く濁り、……間もなく美しい天界の景色に真っ赤な血の雨が降り注いだ。
『私のせいでごめんなさい、私のせいでごめんなさい、私のせいで――!』
 ジブリールの悲痛な叫びを代弁するように激しく降り注ぐ血の雨。
 事件を目の当たりにした神はレヴァイアを責めた。よくも私の可愛い子供たちをゴミのように屠ってくれたなと。私はお前が憎くて仕方がない。死ね、今すぐに死んでしまえと。しかし言葉ばかりだ。レヴァイアを殺す術を知らない神には何も出来ないからである。
 時を同じくして事態を把握したサタンは一方的に責める神と違って頭を抱えジブリールとレヴァイアの前で泣き崩れた。どうか許して欲しい。俺は何も出来なかった。お前たちに何もしてやれなかった。こんなことになる前にどうにか出来たかもしれないのに、と。
 それから暫くしてジブリールはある決意を固めた。レヴァイアと結ばれたい、結ばれないなら女でいる必要はない、私が女であり続けることは私自身を含めて沢山の人を不幸にする。だから『女を捨てる』と。
 結ばれたい。子供が欲しい。恋に全てを捧げた少女のささやかな願いである。しかし唯一無二の異質な存在であったレヴァイアに『種』という概念は存在しなかったのだろう。両性具有であったジブリールもまた女としても男としても未熟な身体であったかもしれない。どちらにせよ二人が子供を授かることはついに叶わず、失意のジブリールはレヴァイアの手を借りて女を捨てる決意をした。両性具有の身体を持っていたジブリールはその女の部分を全てレヴァイアの手で取り除いてもらい男として生まれ変わる決意をしたのである。当初は反対したレヴァイアだがジブリールの決意は固く、これが彼女の為になるならと応じる形になった。
 リリスはそうしてレヴァイアが虚ろな目をして涙を流しながらジブリールの腹を裂き女特有の臓器を両手で引き摺り出しているところで吐き気に負け、バアルから手を離してしまったのだった。
 全てほんの一瞬に流れ込んできた記憶の光景と知識である。リリスが見れたのは本当に彼女の記憶のほんの一部に過ぎない。もっと長く血と血を合わせることが出来ていたら更に事の詳細を知れたであろう。しかしリリスにはとても耐えられなかった。これ以上は、とても……。それでもバアルはジブリールという少女が如何にしてバアルという男に生まれ変わったか知ってくれただけで満足だと微笑んでくれた……。
「ジブリールさん、私は……貴女を愚かだとは思いません。思いたくありません……!」
 この答えに今現在リリスの目の前にいる男の姿を借りたジブリールという少女は「何故?」と首を傾げた。
「リリス、どうして? よく考えて欲しい。私たちがやるべきことは一つ、この世界の要であるサタンとレヴァイアを支えることだ。彼らの強い心がこの創造主の独裁を許した世界に大きな変革を必ずもたらしてくれる。なのに私は大きな過ちを犯した。支えるべきあの二人をドン底へ叩き落としたんです」
 全ての責任を感じたレヴァイアとサタンが苦悩の渦に巻き込まれたことは想像に難くない。彼らは己の判断をさぞ悔やんだことだろう。それはもう、リリスの考えなど及ばないほどに悔やんでばかりいたことだろう。だが、だからといって……。
「私さえいなければ、あの二人はあんなに弱くはならなかった。私の我が侭がレヴァイアを追い詰め、サタンを弱くした。私という存在がこの世にあったばかりに全ての歯車が狂ったんです。貴女には私を恨む権利がある。どうか嘘偽りなく言ってやってください、お前のせいだと、お前さえいなければこの世界は平穏でいられたのだと」
 口篭るリリスへジブリールが更に追い打ちをかける。いや、もうジブリールではない。この低い声と威圧的な眼差しはバアルのものだ。しかしリリスは頷かなかった。頷きたくなかった。
「そんな悲しいこと言わないでください!! 私は……、少なくとも私はこんな世界だけど生まれてこれて良かったって思ってます……! 生まれてこれたから、皆さんに会えました! バアルさんとも会えました! 私は、神様の隣にいて神様の寵愛を平然と受けている女神ジブリールじゃなくて今こうして私の目の前にいる優しい王様でとっても綺麗な男の人である貴方に会えて良かったって思ってます!!」
 そうだ、ジブリールの決意を否定することなど出来ない。否定してしまったら、それは自分の存在すら否定することになってしまう。ゆえにリリスは声を張り上げた。
「貴方がしっかり自分の意志を貫いてくれたから、結果として私はこの世界に生まれてくることが出来ました……! みんなに会うことが出来ました……! だから、どうか……!」
 しっかり伝えなくてはならない。ジブリールの決断によって世界の混乱は起きたかもしれない、反乱戦争が起こるきっかけにもなったかもしれない、しかしそうして巡り巡ってリリスという人間がこの世に生まれることにもなったのである。全てはジブリールが自分の意思を貫いた結果だ。ジブリールが己の心を捧げた男以外に抱かれるものかと一切怯むことなく神にすら逆らってくれたおかげなのだ。
「あの、凄く凄く勝手かもしれないけど、バアルさんも私に会えて良かったって思ってください!! そしたら神様に逆らったこともレヴァさんに身体を切ってもらったことも反乱戦争に負けちゃったことも何もかも、それで良かったんだって思えませんか!? 駄目ですか……!?」
 問いながらリリスは顔を上げ、驚愕に目を見開くバアルの瞳を見つめた。バアルにしてみればリリスのこの言葉は想像もしていなかったものだったのだろう。瞬きを忘れて大きく開いたままの目がそれを物語っている。
「お願いします……! 自分のこと、許してあげてください……! 貴方のおかげで私は生まれてこれた……! 私は貴方のおかげで……!」
 どうかこの感謝の気持ちが伝わりますように――祈りにも似た気持ちを込めてリリスは言葉を紡ぎ続けた。
「リリス……。貴女は、本当に、神から逃げた私を許せるのですか……? 大衆の犠牲になることから逃げた私を許せるのですか……? 女でいることに耐えられず逃げた私を許せるのですか……?」
「許せます! 私は貴方のおかげで此処にいられる……! 私は貴方が好きです! 男も女も関係ない、貴方は貴方だ! 私は貴方が好き! 貴方という人が好きです!」
「リリス……」
 次の瞬間、震えているリリスの手をバアルが両手でしっかり握り締めた。
「ありがとうリリス! よし分かった、結婚しよう!」
「はい! …………えっ?」
 思ってもなかった言葉に今度はリリスが驚きに目を見開いた。
「け、けけけけけ結婚!? なに言ってるんですかバアルさん!」
 あまりにもあまりにも急な話である。だがバアルの目は真剣だ。……いや、真剣なのか? どうにも彼はイマイチ読めない。
「な〜んだ、あんまり真っ直ぐに告白してくれるからてっきりプロポーズだと思ったのにガッカリですよ」
 ハァ〜……と肩を落とすバアル。その態度が本当に本気なのか冗談なのかリリスには今もって分からない。だが、「でも……」と再び顔を上げた彼の目は今度こそ本気の光を帯びていた。
「ありがとうリリス。貴女の言葉に少し救われた気がするよ。結婚は断られてしまったけど改めて誓おう、今日より私は貴女を命懸けで守ると。貴女に出会えた奇跡に感謝して貴女を命懸けで守る」
 バアルの力強い手がリリスの手を握った。どう間違っても少女とは思えぬしっかりと節々のゴツゴツとした男の手である。これは守られるばかりではなく自らも何かを守ろうとする者の手だ。
「どうか今さっきの言葉をレヴァイアにも聞かせてあげて欲しい。必ず喜ぶ。何故なら私たちはずっと選択を誤ったことを後悔し続けてきた……。こうなる前にもっと良い道があったはずだと……。その鬱憤が昨日のレヴァイアの暴走に繋がってしまった気がしてならない……」
 バアルの言葉には酷く重みがあった。世界を担う立場にあったサタンとレヴァイアとバアルの肩にのしかかった重圧はどれほどのものだったのかリリスには想像がつかない。しかし、だからこそ俯いて欲しくない。彼らは常に精一杯やってくれている、この世界に生きる者たちを代表して。だからこそ、俯いて欲しくはない。
「バアルさん、貴方が作った街を改めてよく見てみてください。自分本位の誤った選択ばかりしてきた人をみんながあんなにも慕うはずありません。街の皆さんは貴方のことが大好きですよ。本当に貴方とレヴァさんのことが大好きです。……バアルさん、貴方は街に住む仲間を疑うんですか?」
 この言葉を耳にした瞬間、バアルは針で突かれたように身体を一瞬跳ね上げた。それほどに大きな衝撃を受けたのである。
「貴方は何も間違っていない。少なくとも私はそう思います。今日は貴方のことをいっぱい教えてくれてありがとう御座いました。貴方の記憶は私の胸にしっかりしまっておきます。誰にも勝手に話しません、約束します」
 彼が自分に自信の無い理由はリリスなりに分かっているつもりだ。世界の明暗を分ける場面にて自分の感情だけで決断を行ってきたことを悔やんでいるためだと。
 でも、もう悔やまないで欲しいと思った。
 彼の考えは、まあ分かる。自身の女の部分がこの世界に混乱をもたらした。ゆえに自分が女であり続けることは誰の為にもならないと判断して彼女はバアルとして生まれ変わった。己の身体を引き裂き少女の面影を色濃く残した顔を隠すために厚化粧をし女だった頃の思い出を全て断ち切るため男としてのプライドを磨いて……、そうして今この世界の為に尽くして自身が女であった頃の過ちを清算しようとしているのだ。……もう十分ではないか。彼は、よくやっている。にもかかわらずこれ以上悔やまれては、こちらの立場が無い。
 彼は悪くない。悪いのはこの世界だ。一人の少女に自由な恋すらさせてやれなかったこの世界が悪いのである。
「リリス、褒めすぎだよ。私はまだ貴女に見せていないものが沢山ある」
 リリスが見たのは彼の記憶のほんの一部分。分かっている。彼はもっと沢山のものをまだまだ隠し持っている。その中にはきっと未だレヴァイアにすら見せていないものもあるはずだ。それをリリスが興味本位で見せて欲しいとは口が裂けても言えない。リリス自身もまた誰にも明かしていない心を隠し持っているからだ。人の心はそれだけ深い。
「お互い様ですよ。でも……、一つだけ、聞いていいですか?」
 下手に立ち入ったことは聞きたくない。だが、どうしても聞きたいことが一つだけあった。
「なんでしょう?」
 未だ止むことのない血涙を滴らせながら優しくバアルが微笑む。
「あの……、今もレヴァさんのこと、好きなんですか?」
 聞くべきか否か迷わなかったといえば嘘になる。正直とても迷った。だが、どうしても聞きたかった。この血の雨がひたすら過去の後悔とレヴァイアへの謝罪の意だけで降らせているものとは思えない。ひょっとしたら外は濡れるから早く帰って来いというメッセージも含まれているのではないかとリリスは思ったのである。
「さあ〜……、どうだろう。自分でも分からない。ただ……」
 ただ、と視線を僅かに泳がせてバアルは言葉を続けた。
「ただ確かなのは、彼が外で雨に打たれているのに私だけ屋根の下にいるというのはどうにも落ち着かないってことかな。困ったことに食事をする気にもなれないんだよ。なにせ味がしないんだ。……今日はありがとうリリス。貴女を家に送り届けてもやれない私をどうか許して欲しい」
 そしてバアルはおもむろに立ち上がるとまたフラフラと血の雨が降り注ぐバルコニーへ出て行ってしまった。
「ううん、こちらこそ本当にありがとう、バアルさん」
 もう彼を無理に室内へ引き摺り込む理由は無い。リリスは小さくお辞儀をして床に放り投げたままだったバッグを手に持ち、この豪華絢爛の部屋を後にした。
 次の行き先は、既に決まっている。



<<< BACK * HOME * NEXT >>>

* 破葬神話INDEX *