【08:両雄を見つめる女神の視線(6)】


 ふと目が覚めるとレヴァイアの周囲は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。いつもと違う空気が肌を掠める。
 一体何が起こったのか。
 空には分厚い暗雲が立ち込め、風は殆ど吹いていない。無風だ。だが何処からともなく『血の匂いが漂ってきた』。まさかと思い改めて周囲を見渡すと……、レヴァイアは目の前に広がる赤茶けた大地が実は隙間なく敷き詰められた『肉塊』であることに気が付いた。これ全て天使だか悪魔だったかの身体だ。それが指先ほどの大きさに細かく刻まれ見渡す限りの景色一面にビッシリと広がっている。
 嗚呼、見れば見るほどにこれは骨だ、手の指だ、目玉だ、髪の毛だ、臓物だ。
 こんなことが出来るのはレヴァイア自身しかいない。しかし覚えていない。こんなことをしてしまった記憶が一切ない。
「バアル!! サタン!!」
 叫んでレヴァイアは二人の姿を探した。一体何がどうしてこんな事態になったのか分からない。だが、きっと彼らなら知っているはずだ。彼らに会えばきっと答えを教えてくれる。
 歩くたびに血が跳ねてバシャバシャと湿った音が鳴る。それでも気にせず前に進む。やがて、こちらに背を向ける格好で血の海に寝そべっているバアルを見つけた。何故あんな場所に倒れているのだろう。腰まである長い銀髪が肉塊の海に浸かってゆらゆらと揺れている。
「バアル!!」
 レヴァイアは急ぎ駆け寄って無事を確認しようとバアルの肩を掴んで仰向けに転がした。そして――我が目を疑った。
「うあああああ!?」
 信じられない、信じたくない。しかし目の前のバアルは何も語らず大きく見開いた目で虚空の一点を見つめ続けるのみ。真っ白な肌は満遍なく血に濡れ、鋭利な何かに引き裂かれた腹部からは臓物が漏れ、胸元には心臓を抉られた大きな穴が空いている……。一目で、絶命していると分かる姿だった。
 あのバアルが、『死んでいる』。
「嘘だろ……。バアル!! おい!! バアル!!」
 慌てて首筋の脈を確認する。……無い。脈が無い。どれだけ深く手の平を押し当てても脈の存在が感じられない。やはり死んでいる。正真正銘、死んでいる。
「そんな……。そんな……!」
 あまりのことに身体が震え、レヴァイアはバランスを崩し肉塊の海に尻餅をついた。
「バ、バアル……! どうして……、どうしてこんなことに……!」
 一体誰が、誰がバアルを殺したのか……。必死に考え巡らせている最中「お前がやったんだよ、レヴァイア」と何処からともなく声が聞こえてきた。
 幻聴? いや、違う。
 声のした方に振り向くと山のような肉塊の下からゆっくりとサタンが身を起こして血に染まった真っ赤な姿を現した。どうやら彼は今の今まで肉塊の海に倒れて埋まっていたらしい。それはいいが、…………残念ながら見間違いではない。サタンの胸元にも心臓を抉られた大きな穴が空いている。
「お前……、その傷は……!」
 なんということだ。まだ意識はあるが心臓を失っているとなれば既に死んでいるも同然だ。彼もまた死んでいる――!
「サタン……!」
 希望が、心臓を抉られ死んでいる。信じられない光景に声が上手く出ない。
「なんで……、どうして……!」
 レヴァイアは恐怖に顔を歪めた。認めたくない。何がなんでも認めたくない。希望を打ち砕くことが出来るのは絶望のみ。つまりサタンの心臓を抉ることが出来るのはこの世でレヴァイアただ一人。しかし覚えがない。微塵もない。何もない。だが確かにサタンには心臓が無い。綺麗に抉られている。と、いうことは他の誰でもない、間違いなくレヴァイアがやったのだ。嗚呼なんということだ、レヴァイアは自我を失っている間に知らず識らず希望を殺してしまった――!
「これ……で……、『終わり』だな……、レヴァイア……」
「サタン! 待って! ……え?」
 引き止める間もなくサタンが血に塗れた口元に笑みを浮かべ意識を失い白目を剥いて肉塊の海に倒れたその瞬間、レヴァイアの視界を地平線の向こうからドッと湧いてきた巨大な闇が一気に支配した。

 真っ暗だ。

 一瞬にして闇に全てが支配された。本当に真っ暗だ。どっちを向いても出口の見えない真っ暗な闇が続く。何も見えない、何も聞こえない、何もない。これは一体なんだ? 分からない。……いや、分かる。誰に教わったわけでもないがレヴァイアはこれが何か知っている。
 そう、これは『無』だ。何も存在しない、果てすらない『無』の空間だ。
 もう指先一つも自由に動かすことが出来ない。……いや、もう既に『指先なんてものが存在しない』のかもしれない。何故なら此処は『無』の空間だ。もう、身体というものすら存在しない世界なのだ。
『何もかも壊した後には『無』が待っている。そこは絶対の孤独。哀れな獣よ。お前はやはり親の我はおろか友すら喰い千切った……』
「神!? 神なのか!?」
 遥か遠くから聞こえてきた神の声にレヴァイアは声を荒らげた。まだ声というものが存在していたことに感謝をして腹の底から声を上げた。だが、この声はなんの意味も成さなかった。
『我を許しておくれ、哀れな獣。お前を産み落としたことが、我の犯した最も重い罪であった』
 レヴァイアの声は届いていたのかいなかったのか。確認する術もないまま、間もなくこの神の僅かな気配すら消え、レヴァイアは己の運命を悟った。自分はこの後この永劫続く無を彷徨いながら己の罪を責め苛み途方もない時間をかけてゆっくりと自我を崩壊させていくのだと。そして自我を崩壊させてもなお己が『終わり』という絶対に消えることのない概念である以上、死という形すら迎えることなくこの無に存在し続けなければならないことを――。
 レヴァイアが希望を打ち砕いた結果この永劫の無が生まれて世界は『終わった』。そこから何かが始まらぬ以上、終わったきりだ。終わりは、決して消えない。
 よって、『一つの世界が此処で終わった』という事実だけが、何処とも知れぬ闇の果てで『永遠に残る』。
「うあああああああああああああ!!」
 想像を絶する最悪の結末にレヴァイアは我武者羅に叫んで頭を掻き回した。そして気付いた。今のは、…………『夢』だと。
「はあ……はあ……! 夢……。夢、か……」
 いつの間に寝入ってしまったのだろう。息切れをしながら改めて周囲を見渡すとそこには変わりなく血の雨の降り注ぐ荒れ地が広がっていた。その荒れ地には寝ボケたレヴァイアが知らず識らず巻き起こした突風によって新たに刻まれた無数の大きな亀裂がチラホラ……。嗚呼、またやってしまった。うたた寝のたびに同じような悪夢を見ては無自覚に風を巻き起こして地面に無茶苦茶な模様を描いてしまう……。
「クソ……!」
 レヴァイアは舌打ちをして自身の頭上に降り注ぐ生温い血を手で拭い、背にしていた大きな岩に寄り掛かった。
 寝ボケたレヴァイアによってこの荒れ地一帯は今や酷い荒れ具合だ。大地には無数の亀裂でもって周辺の岩肌剥きだしな大きな山々もボロボロに切り刻まれている。
(こんなんじゃ帰れねーよな……)
 まだ自分自身が酷く不安定であることは明白だ。こんな有様で帰るわけにはいかない。今しがた見た夢が現実になってしまう可能性がある。とても家になど帰れない。
 今に限らずいつだって眠るのは怖い。あれは自分が自分でなくなる時間だ。何も見えない聞こえないあの真っ暗な時間は嫌いだ。……なんてクドクド考えていると永久に家へ帰れない気がしてきた。
『嫌だあああああああああああ!! 嫌だ!! 嫌だああああああ!!』
 別れ際に放たれたバアルの金切り声が今も耳から離れない。
 好きで逃げたわけじゃないんだ、それだけはどうか分かって欲しい。
(俺と一緒になってお前があれからずっと雨に打たれちまってることくらい分かってんだよ……)
 レヴァイアが一緒にいなければ彼が眠れないことも食事を取れないことも水の一滴すら飲めないことも知っている。彼はレヴァイアが側にいなければ一切『生きようとしない』のだ。それはレヴァイア自身も分かっている。それでも、今は帰るわけにいかない。
 レヴァイアは深い溜め息をついて雨除け代わりにマントを目深に頭へ被ると何処からともなく煙草の箱を取り出した。
「あと三本か……」
 手持ちの煙草はあと僅か。だが、どうにもならない。自分自身を信用出来ない以上レヴァイアは街から遠く離れたこの場所から動くわけにいかなかった。



 さて行き先は決めたわけだが、どうやって辿り着くかが問題だ。
 バアルの城を出たリリスは雨除けの布を頭に被るととりあえず目についた棒切れを手にし、ポトリと地面に落としてみた。この棒切れの先が指した方角へ向かってみようという無謀な考えである。……指した方角は東だ。
「よし、決まりっ」
 アテはないのだからとにかく行ってみようとリリスは血の雨が降り注ぐ中、街を抜けて果ての見えない荒れ地を歩き出した。
 行き先はもちろんレヴァイアの元だ。だが彼が何処にいるのか全く見当つかない。だからといって立ち止まっていたくはない。ひょっとしたら荒れ地をトボトボと歩いているリリスの姿を見つければ向こうから声をかけてくれるかも分からない。とにかく歩こう。
 リリスに迷いはなかった。…………だが、道には迷った。
「えっと〜……」
 ひたすら荒れ地。何処まで行っても同じ景色である。加えて視界を遮るこの雨だ。後ろを振り向いても街はすっかり遠退いて見えなくなっていた。
 此処は、何処だろうか。
 街を出て暫く経つわけだが、はてさて自分がどれだけ歩いたのか全く分からない。やっぱりアテもなく歩くというのは無謀だったのだろうか。もしかしたらレヴァイアが声をかけてくれるんじゃないかと甘い考えを抱いていたわけだが、こうして途方に暮れていても彼の声は全く聞こえてこない。そんな余裕などないとばかりに。
(ど、どうしよう……)
 リリスは血の雨降りしきる真っ赤な空を仰いだ。と、その時、ふとこちらへ近付いてくる不可思議な球体が目に入った。なんだろう。よくよく目を凝らすとその球体が実は水色の長い髪をした小柄な少年が雨を防ぐための小さな結界を自身の周りに張り巡らせた状態でこちらへ駆けてくる姿であることが分かった。水色の髪に水色の瞳に真っ白な服……、間違いなく彼は天使だ。それも姿の特徴からして話に聞いていたあのレヴァイアに酷い記憶を見せた少年天使たちの仲間である。
「な、なに!? なんなの!?」
 突然目の前に現れた天使の姿にリリスは慌ててバッグに入れて持ってきた鞭を手に握って臨戦態勢を整えようとした。が、それに気付いた少年が「待って!」と声を張り上げた。
「僕は丸腰だ! 何もしないよ! お願い、話を聞いて! ほら、僕は何も持っていない!」
 リリスの目の前で足を止めた少年が「ほら」と両手を広げてみせる。……確かに何も持っていない。だが天使はサタンらと同じく何処からともなく道具を取り出す能力を持っているし、そもそも炎より熱い光をなんの造作もなく手のひらから放つことも出来る。丸腰と言われたところで全く信用は出来ない。
「その目は、信用していないんだね? 分かった、それじゃこの両腕を今すぐ切り落とすね。そうしたらどう足掻いたって武器は持てないから信用してくれるでしょ」
「腕、を……?」
 疑われていることを悟った少年の捨て身の域を超えた悍ましい提案にリリスは絶句した。どうしたらいいのだ。まさか本当に丸腰でもって敵意を持たない小さな少年にそんなことはさせられない。
「ちょっと……! ちょっと待って!」
 リリスは考えるよりも先に声を上げていた。
「あの……、分かった、話を聞く! 聞くからそんなことはやめて! 私ちゃんと聞くから……!」
「ホント? ホントに? あぁ、良かった腕を落とさずに済んだあ〜。痛いのはニガテだもの」
 安堵に胸を撫で下ろして自身より少なくとも頭二つ分は背の高いリリスを見上げニッコリと微笑む少年……。一体なんの用があってこんな場所に一人で現れたのか。リリスはまだ若干警戒を続けながらもとりあえず彼の話を聞くことにした。
「あの、キミは、誰?」
「いけない、自己紹介が遅れました。僕は『ミカエル』といいます。貴女はリリスさんで間違いないですよね? 初めましてリリスさん!」
「あ……。初めまして……。え? あの、キミ、名前、ミカエルっていうの?」
 この水色髪と水色の瞳にミカエルという名……。リリスはバアルの記憶の中にいたミカエルという長身の天使をすぐに思い出した。彼と同じ名前だ。あのジブリールを酷く傷付けた天使と同じ名……。一体どういうことなのだろう。
 考え巡らせているリリスの頭の中を察したように目の前の小さなミカエルは「僕は父の名を継いだんです」と答えた。
「他にも沢山の兄弟がいる中でどうして僕一人が父さんの名を継ぐことになったのかは分からないけど……。リリスさんは僕の父さんを知っているんですね? じゃあ警戒されても仕方ない……。父さん結構酷い人だったみたいだもんね……」
「そんなことない! お父さんはお父さんでキミはキミだもの!」
 参ったな、と頭を掻くミカエルの無垢な姿にリリスは徐々に安心感を覚え始めた。なんというか彼からは本当に全くと言っていいほど殺意も敵意も感じないのである。そもそも奇襲目的であればわざわざ遠目に目視出来るような淡い結界を纏ってこっちを見ろと言わんばかりに走ってくるはずがない。彼がリリスを如何にして安心させようかよく考えた上で此処へ来たことは明白だ。
「ありがとうリリスさん。勇気出して此処に来て良かった。リリスさんは本当に僕の話を聞いてくれそうだ。あまり時間が無いから早速要件を言うね。僕、破壊神レヴァイアの居場所を知ってるんです。だからその近くまで貴女を送り届けたい。闇雲に歩くよりずっといいと思うんだ。こっち反対方向で凄く凄〜く遠回りだし」
「そ、そうだったの……? でも待って、手伝ってもらえるのは凄く助かるけど、そんなことしてキミ平気?」
 彼は天使だ。リリスを手伝ったことが天界の誰かに知れたらマズイに決まっている。しかしミカエルは「大丈夫です」と迷わず頷く。
「僕は少しだけ父さんの記憶も継いでる。だから過去に何があったか知ってる。父さんが女神様に何をしたかももちろんね。それで此処に来たんだ……。僕、嫌なんだもん……! みんなみたいなことするの絶対に嫌だ……! だから逆らってやるんだ……! 人の古傷を抉って追い詰めて、こんな悲しい雨まで降らせて……! こんなの、間違ってる……っ!」
 ミカエルの大きな目に涙がじわりじわりと湧き上がる。
「リリスさん……! 破壊神レヴァイアを早く助けてあげて……! じゃないと、大変なことが起きる……! みんな、これから凄くいけないことしようとしてるんだ……! 凄くいけないこと……! 破壊神がいないと止められない……! お願い、僕を信じて僕の手を掴んで! 側へ連れて行くから……! 時間がないんだ、早く……! 誰かに見つかっちゃう前に……!」
「ミカエル君……」
 彼の透けるような青い瞳に嘘は無い。この目を疑うくらいなら信じて騙された方がマシだ。リリスは「分かった」と頷き、差し出された彼の小さな手を掴んだ。そして……一瞬のうちに移動は完了したのだろう。だろうというのは、なにせ見渡す限り一面荒れ地なだけに景色が変わったことを察し難いからだ。だが、なんとなく岩やら山の位置が違う。ちゃんと移動は出来たようだ。
「ちょっとまだ遠くてゴメンね。あんまり近付くと僕の存在が破壊神に気付かれちゃうから……。此処からあっちに向かって真っ直ぐ行けば大きな岩の近くに座り込んでいる破壊神レヴァイアに会えるよ」
 あっち、とミカエルは前方を真っ直ぐに指差した。なんの目印も無いまっさらな道だ。
「分かった。ありがとミカエル君。凄く助かったよ」
「どう致しまして! それじゃ僕はこれで」
 言うと遠慮がちに手を振ってミカエルは別れを惜しむ間もなくすぐにこの場から姿を消してしまった。この急ぎっぷりからして、長居しては誰かに見つかってしまうと表情には出さないが内心は常に酷く焦っていた……と思ってよさそうだ。
(天使の中にもあんな良い子がいるんだなあ〜)
 罰を受ける危険も厭わずに敵を助けるなど相当の勇気がなければ出来ないこと。今の今まで意地悪な天使としか出会ったことのなかったリリスはまた一つこの世界のことを学んだ。
 さて、彼の好意を無駄にしてはいけない。リリスは早速指差された道を進んだ。歩けど歩けど同じ景色。猛烈な血の雨も手伝って距離感は全く掴めない。だが確かに進んでいる。いつレヴァイアの姿を確認出来るかも分からないリリスは気を緩めることなく目を凝らしながらひたすら前に進んだ。やがて――何処からともなく獣の咆哮が耳に入った。まさかひょっとしてレヴァイアの声だろうか……。いや違う。聞き覚えの全くない声と足音だ。ズシンズシンと地面が揺らぐほどの大きな足音である。どう間違ってもレヴァイアではない。それがこちらへ向かって来る。
 身構えた時には既に遅し。リリスは自身の優に五倍以上は上背のある巨大な漆黒の犬と真っ直ぐに対峙してしまった。
「なによ、あなた……!」
 ただの大きな犬ではない。よく見なくとも一つの身体に顔が三つも備わっているのが分かる。なんとも不気味な三つ首の犬だ。どの顔も殺気立った金色の目でこちらを睨み、ゾッとする鋭利な歯の隙間から大粒のヨダレを滴らせている。今にも地面を蹴って飛び掛かってきそうだ。どう間違っても友好関係を結べそうにはない。
(戦うしかない――!)
 リリスが鞭を握ると同時に犬が飛び掛かってきた。本当にほぼ同時である。しかしバッグに手を入れたリリスの動きは犬より一歩遅れてしまった。右か左か、どちらかに飛び退かなければあの牙を身体に思い切り受けてしまう。さてどちらに飛ぼうかとリリスが判断を一瞬迷ったその時、飛び上がっていた犬の身体がなんの前触れもなく鋭利な何かに細切れにされ、ただの肉塊と化して地面へ一気に散らばった。
「ひ……っ!?」
 あまりの凄惨な光景にリリスは思わず引き攣った悲鳴を上げた。だが、すぐに恐怖は安堵へ変わった。今、犬を切り刻んだのは『風』だ。『鋭利な風』だ。風を操ってこんなことが出来る者などこの世に一人しかいない。そうだ、何処からかこの状況を見ていたレヴァイアがリリスの為に犬を倒してくれたのだ。
「レヴァさん! レヴァさんでしょ!? どこですか!?」
 彼はもう近くにいるはず。よく見るとこの辺一帯の大地には風で裂かれたような不自然な亀裂が沢山走っている。彼が近くにいるという何よりの証だ。リリスはすぐに駆け出した。雨除けとしてマントを頭に被り岩を背もたれにして地面に深く座り込んでいるレヴァイアの姿を見つけたのはそれから間もなくのことである。
 しかしそのまま駆け寄ろうとしたリリスの足元をレヴァイアはうなだれたまま鋭利な風で切り裂いた。リリスの爪先すれすれの地面に刻まれた横一本の亀裂。これ以上近付くなというレヴァイアからの脅しである。しかしリリスは怯まなかった。あと七歩進めば彼に手が届くのだ。ここで怯むわけにはいかない。
「酷〜い! せっかく遥々新しい煙草を持って歩いてきた私を突っ返すんですかレヴァさん! もう手持ち少ないんでしょ? 本当にいいんですか〜?」
 するとレヴァイアは無言のまま手持ちの煙草の箱を開け、中身が空っぽであることを確認して深く溜め息をついた。こればっかりはどうにも強がれないようだ。
「ちぇ〜。分かったよ、俺の負けだ……」
 本当に落ち込んでいる声である。まあいい、リリスとしては助かった。受け入れてもらえて一安心である。
「良かった。煙草屋さんから頼まれたんです、渡してくれって。ちゃんとマッチもありますよ」
 意気揚々とレヴァイアの横に並んでしゃがみ込み、ちゃっかり彼が被っていた雨除けのマントの中へ一緒に入ってからリリスは預かってきた煙草をバッグから取り出し一箱だけ手渡した。いきなり五箱全部渡してしまっては「もう用は無い帰れ」と逃げられてしまう可能性がある。念には念をだ。更にリリスはレヴァイアの服の腰辺りもしっかり掴んでおくことにした。絶対に逃がさないというアピールである。
「んなに引っ付かなくても逃げないよ、もうちょっと離れてくれ。兄貴にバレたら怒られちゃう」
 早速貰ったばかりの煙草を口に咥えて火をつけながらレヴァイアが零した。確かにこれでは恋人同士でもない男女が密着し過ぎている。しかし今は恥じらいよりもレヴァイアを捕まえておく方が大事だ。照れないと言ったら嘘になるがリリスは引かなかった。
「嫌ですダメです信用出来ませんっ。絶対に逃さないんだからねっ!」
「え〜? 参ったなあ〜……」
 レヴァイアは苦笑いしながらフーッとゆっくり煙を吐いた。そんな彼の姿には見るからに衰弱していたバアルと違って明らかにおかしな部分は見当たらない。が、よくよく観察しなくとも気付く。今日の彼は圧倒的に口数が少ない。リリスと目を合わす気配もない。仕草も何処かいつもの少年っぽさがなく大人びている。
 やはり、普段とは何か違う。
 二人の間に暫しの沈黙が訪れた。静かな静かな荒れ地。耳に届くのは激しい雨音と煙草を吸うレヴァイアの吐息だけ。
「あの、レヴァさん。さっきはありがとう。変なワンちゃんから助けてくれて」
 レヴァイアが煙草を一本吸い終わったタイミングでリリスは沈黙を破った。
「あぁ……。荒れ地を一人で歩くのはこれっきりにしときなリリッちゃん。魔界は神様のゴミ箱つってね、ポイ捨てされた失敗作が結構ウロウロしてて危ないんだよ」
「はい……、あんなのいるなんて知りませんでした……。今度からは気をつけます……」
 叱られてションボリなリリスである。いやしかしちょっと待て。
「でも元はといえばレヴァさんがこんなトコにポツンといるからいけないんですっ! 私だって好きで無茶な外出をしたわけじゃありませんっ!」
 反論成功。リリスはレヴァイアをまた苦笑いさせることが出来た。
「アハハッ! 言われちまった! そーいやよく此処まで一人で来れたね。街から相当距離あったと思うんだけど?」
「あ〜……、私ってば足腰の強さにはちょっぴり自信があるんです! なんたって生まれてすぐドタバタ駆け回って星を半周して自分から魔界へ落っこちたくらいですからね」
「あー! そーだったな。成る程、納得」
 頷いてレヴァイアはまた煙草を吸い始めた。本当に酷いヘビースモーカーである。でもまあとにかくミカエルに手助けしてもらったことを悟られず良かった。なんとなく今の彼に『ミカエル』という名は聞かせたくない……。いや、待て。それは何か違う。そんな腫れ物に触るような扱いをレヴァイアが望むはずない。それでは彼を恐れて距離を開けた人々と同じだ。
「つーかリリッちゃん俺のこと怖くないの?」
 リリスの頭の中を覗いたかのようにレヴァイアがこれ以上ないタイミングで尋ねてきた。レヴァイアとしては破壊神の顔を見せた後だというのに一切臆さないリリスの態度が不思議でならなかったのである。こんな風にレヴァイアが暴れ狂ったあとも平然と笑いかけてくれた者は今までサタンやバアルや……ジブリールしかいなかった。
「怖くないです。レヴァさんが私に酷いことするはずがありませんから。さっきだって私のこと助けてくれましたし! だから怖くないです」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど俺を信用しすぎるのはどうかと思うよ」
 苦笑いしてばかりのレヴァイアである。リリスは気付いた、今、彼は自分に自信が全くないのだと。サタンやバアルと同じなのだと。ならば、もっと思い切って踏み込んでみよう。言葉に迷ってはいけない。彼は何を言おうときっと快く受け止めてくれる。
「あの、レヴァさん……」
 呟いてリリスは掴んでいたレヴァイアの服をより強く握り締めた。
「私、此処へ来る前、『ジブリールさんに会いました』」
 今もまだバアルの中にいるジブリールと、だ。
「ジブリールと……、か……」
 それから暫くの沈黙を置いてレヴァイアは今日初めてリリスに振り向きしっかり目を合わせていつもの温和な笑顔を見せた。
「なかなか可愛いヤツだったろ」
 何処か自慢気な口調。リリスはすかさず「はい!」と頷いて答えた。
「とっても可愛らしい人でした! ジブリールさん、レヴァさんが帰ってくるのご飯も食べずにずっと待ってますよ。だから帰りましょ」
「あぁ……まあ……」
 まだ言い出すには早かっただろうか。帰ろうと提案した途端にレヴァイアの表情がまた曇ってしまった。
「帰るのは、ちょっとまだ難しいかな……。周り見て分かるだろリリス。これ全部俺が寝ボケてやっちまったんだ。もしコレが城の中だったらどうなってたか……」
 突風によってズタズタに引き裂かれた景色を眺めながらレヴァイアはまた新しい煙草を口に咥えた。確かにこの光景は酷い。もし城の中でこんな暴れ方をしてしまったら城が壊れるどころでは済まない。被害は街にまで及ぶことだろう。
「でも、バアルさんが側にいれば大丈夫な気がします。バアルさんならきっとレヴァさんのことを止めてくれますよ」
「そうは言うけどさ……」
「仲間を疑うんですかレヴァさん」
 口篭るレヴァイアの態度にリリスは眉をひそめた。しかしレヴァイアは動じない。
「そうだよ、ぶっちゃけ疑ってる。俺はバアルを簡単に殺せちまうんだ。心底ゾッとするよ。自分が怖くて堪らない。想像してみてくれリリス、お前なんか死んじまえって軽く考えただけでそいつは簡単に細切れの肉塊になって本当に死んじまうんだ……。だから何もかもブッ壊れちまえとかそんな感情にだけはもう二度と流されちゃいけないって何度も何度も失敗して学んだはずなのに昨日またやっちまった……!」
 悔しそうに零してレヴァイアは吸い終わった煙草を手のひらで強く握り締めた。熱いだろうに火傷の痛みになど一切動じることもなく強く強く……。そしてクシャクシャになった吸い殻を何処かへ消し飛ばすと彼はまた次の煙草を咥え火をつけた。
 破壊神としての生を受けた彼の苦悩は想像を絶するものがある。自分の感情と判断一つで世界が大きく左右されてしまう恐怖というのは尋常でないことだろう。
 だからこそ、リリスはここで言い負けるわけにはいかなかった。
「でも貴方は私やバアルさんを殺せませんでした。サタンさんのこともです。だから私たちは貴方を止められます。必ず止めます。寝ボケて暴れることなんて絶対に許しません。大丈夫です」
「言い切れるのか、リリス」
「言い切れます」
 お前に何が分かる、と言われればそれまでだ。だがリリスは答えを迷わなかった。
「貴方にバアルさんは殺せません。絶対に殺せません。横で見ていて確信しました。どんなに我を忘れても貴方はバアルさんを殺せない……! だって貴方は我を忘れてもバアルさんへの加護を解かなかった。バアルさんが強いままだったのがその証拠。だから大丈夫です。破壊神である貴方が全身全霊をもって守護しているバアルさんが簡単に死ぬわけない!」
 虚言ではない。今までの光景に加えてバアルの血を介して彼らの過去を見たリリスには確信があった。お世辞にも喧嘩の強くなかったジブリールが男に生まれ変わったとはいえ突然あんなにも強くなれるはずがない。全てはレヴァイアの加護の賜物。それに、昨日といい過去といいレヴァイアは我を忘れていてもジブリールとバアルの制止を聞き入れた……。
 煙草を持つレヴァイアの手が小刻みに震えている。リリスの言葉が響いている証拠だ。
(もっと伝えなくちゃ! もっと!)
「どうか自分を信じてくださいレヴァさん! バアルさんを守ろうとする貴方の想いは貴方自身が考えているよりもずっとずっと強い! 負の感情になんか負けたりしない! だから……!」
「リリス、ストーップ!!」
 顔を真っ赤にしたレヴァイアが突然声を張り上げた。
「なんかすっっっげぇええええ恥ずかしくなってきたからそこでストップッ!! リリスの気持ちはよく分かった!! だからもうやめてくれ!! 死ぬ!! 死んじまう俺!!」
 どうやら、先程から小刻みに震えていたのは恥ずかしさが原因だったようだ。
「で、でもぉぉぉぉ……」
「でもじゃねーよ俺メチャクチャ恥ずかしいよッ!! 想ってるとかなんかそういうのマジ勘弁だよヤメテよ変な汗出てきただろ!! つーか、えーと、なんつーか、俺らもうそんな関係じゃねーし……。そら昔は確かに色々あったけどさ、もう今アイツは男だし……」
 モゴモゴと口篭るレヴァイアである。それにしても、ジブリールの一件は彼の大きなトラウマと思いきや案外平気で話せることにリリスは驚いた。
「え〜? でもバアルさん今もレヴァさんのこと確実に好きですよ。私が今もレヴァさんのこと好きですかって聞いたら分かんないって答えましたもん。否定しなかったってことは好きですよ」
 この言葉にレヴァイアは更に顔を赤くした。
「なっ、なっ、なんでだよ!? 分かんないってことは分かんないんだろ!! アイツ多分もう俺なんか好きじゃねーよ!! だって俺がどんだけ女遊びしても笑って見てるだけだし!!」
「なにそれレヴァさん分かってない!! それは正妻の余裕ってヤツです!! 貴方が絶対に家へ帰ってくるって信じてるから笑って見逃してくれてるんですよ!! ってゆーか、レヴァさん女遊びなんかしてるんですか!? 最低ッ!! 女の敵!!」
「ちょ〜っと待て誤解すんなよリリス!! 向こうから誘ってくるんだ、俺から何かしたことは今の今まで一度もないよ!! それに俺は遊べて楽しい、向こうは俺の加護が貰えて嬉しいっつー双方ちゃんとメリットあってのことだぜ!? 女の敵どころか女の味方だよ!! 兄貴が女遊び一切しない男だからな!! 代わりに俺が加護を振り撒いてるわけだ、いいことなんだよコレは魔界全体の戦力の底上げになるし!!」
「嫌だぁああああ!! そんな話は聞きたくありません!! 男と女の関係は愛があってこそです、そんな計算の入った関係は認めません私ー!!」
 やいのやいの。そうして耳を塞いだリリスを見て自分が優勢と判断したレヴァイアは「アハハッ!」と高らかに笑い上げて短くなった煙草をまた何処かへ消し捨てた。
「ちょっと!! 笑い事じゃないですよレヴァさん!! 私は真剣に話してるのに茶化して酷い!!」
「ゴメン、ゴメン! でも嘘は言ってねーよ、実際恥ずかしかったし今のバアルの気持ちとか知らねーし女遊びもホントのことだし」
 さっきまでのクールな無表情っぷりはどこへやら、レヴァイアはまた新しい煙草を口に咥えると美味しそうに煙を吐いた。
「それにしても恥ずかしい姿を見られちゃったなァ〜。まさかバアルが誰かと血を合わせる日が来るなんて夢にも思ってなかったよ。え〜っと、一体どこまで見たんだリリス。まさかそんな俺のあんな顔とかそんな顔とかは見てないよな? 幾らバアルでもそんな無神経なこたぁしないと信じてはいるけど……」
「えーっと、なんの話ですか?」
 あんな顔とかそんな顔、と言われても曖昧過ぎてリリスには分からない。かと言って繊細な問題ゆえにレヴァイアとしてははっきり聞き出すことも出来ない。と、いうことでレヴァイアは戸惑うリリスの様子を見て「まあ多分見てないよな、うん」と自己完結をした。
「しっかり口止めしとくんだったぜ……。あの臆病者が誰かに心開くなんて夢にも思ってなかったからなあ……。あの頃の俺ってば情けなかったろ」
 あの頃の、とは明らかに天使時代の自分を指してのことだ。言い方からしてやはり彼は遠くから今日先程のバアルとリリスのやり取りを見守っていたのである。
 レヴァイアは苦笑いしながら「でも……」と続けた。
「でも、そういうの引っ括めた結果リリッちゃんに会えたんだとしたら俺も実は満更でもないかなって思えたよ。自分を少し許せた気がした……」
「レヴァさん……」
『ちなみに、敵を欺くにはまず味方からってな。心配すんなリリス。俺はもう戦える。根っこは折れちゃいない』
「え?」
 不意にレヴァイアが肉声ではなく声にならぬ声で語りかけてきたことにリリスは驚いた。何故いきなりこんな方法をとったのか。見上げたレヴァイアの表情は声にならぬ声を発したことなど全く感じさせない平然としたものである。
 リリスは察した。これは万が一にも相手に知られてはならない話なのだと。
『帰るのが怖かったっつーのは一応マジな話だけどさ。落ち込みついでに待ち伏せしてみたんだよ。向こうは俺が折れたと思ってるからな。隙を窺って攻めてくる気でいやがるのは明白だ。そこを元気に反撃してやるんだよ。ピンチはチャンスだ。俺が屠っちまった奴らの命を無駄にしないためにもこの奇襲に賭ける』
「で、話は戻るけどバアルがまだ俺のこと好きっぽいってホント?」
 声にならぬ声で話をしつつ実際の口では別の話を振ってきたレヴァイアである。
「はい! ホントです!」
 リリスはどう会話を処理して良いやら若干混乱したが、せっかくのレヴァイアの努力を無駄にしないためにもしっかり応じてみせた。
 敵を欺くにはまず味方から……。レヴァイアは憔悴しきった振りをしてこんな離れた場所から魔界全体に気を張り巡らせていたわけだ。
 なんともいえない安堵がリリスの胸に広がった。サタンと同じく彼も強い。希望と絶望をその身に背負った二人の男は挫けてもなおしっかり世界全体を見つめてくれていたのだ。
 と、いうことは…………。
(バアルさん一人だけ今も本気で落ち込んでるってことですよね?)
 リリスがレヴァイアの手を捕まえてこっそり指で文字を書いて伝えると、またレヴァイアは声にならぬ声で答えた。
『そうなるな。でも大丈夫。俺はアイツを信じてる。アイツにはリリッちゃんも知っての通り俺の全身全霊の加護が宿ってんだ。簡単に死にはしない』
「えっと、どうしようリリス、ちゃんと本人に一度しっかり確認してみた方がいいのかコレって。俺ら一度終わったはずだけどお前まだ俺のこと好きなのかーって……。いやいやいや、ヤベェよ、そんなこと聞いたら半殺しにされちまう……」
 本当にバアルが怖いのかレヴァイアの顔から血の気が引いた。真っ青も真っ青だ。
「どうしてですか? ちゃんと聞くべきですよ! 遠慮はお互いのためになりません!」
「いやいやいやいや、そうは言うけどさぁ。そもそも関係終わらせようとか友達に戻ろうとか女の部分が邪魔だからどうしても無くしたいって言ったの向こうだし……。なのにまだ好きってそりゃねーよ。泣きながらアイツのおっぱいとか削いだ俺の苦労なんだったのって話になるじゃん。俺のこと好きなら女のままで良かったじゃーんみたいな……」
『下手に動くなよ、リリス。あと、もう絶対逃げないから俺から手を離しといてくれ』
「レヴァさん、この際ちょっと身体のことは置いておきましょうよ。大事なのはお互いの心ですから! ……え?」
 ブツブツと愚痴を吐く口とは裏腹にレヴァイアの声にならぬ声が突然真剣味を帯びた。
 そういえば敵を欺くにはまず味方からと言いつつ何故こんなタイミングで彼はリリスにネタばらしをしたのだろう。これ以上恥ずかしい話をしたくなかったからか、それともそろそろ敵のやって来るタイミングだと読んでリリスに予め作戦の理解を求めたのか――――答えは後者だった。
『見事に釣られやがったぜ、ラファエルめ!』
 レヴァイアが勝ち気に呟くと同時にリリスの視界は眩い光で真っ白に染められた。一体何が起こったのか。目が眩んで戸惑っている間にリリスの周囲はレヴァイアの築き上げた分厚い結界で覆われた。何か尋常ではない脅威が間近にやって来たことは確実である。
 やがて光に目が慣れたリリスは目の前でそれぞれ手に持った禍々しいフレイルと金色に光る槍とをぶつけ合っているレヴァイアと敵将ラファエルの姿を確認した。さっきの眩い光は敵将ラファエルがこの荒れ地へ降臨した際に発せられたものだったのである。
「なんだよショゲ切ってるかと思いきや元気いっぱいだなレヴァイア!!」
 計算が外れたのか金色に光る槍を握りながらラファエルは怪訝そうな表情を浮かべた。
「お前が思ってるほど俺は弱くないってことだよ! サタンとバアルもな!」
 言いながらレヴァイアは見ただけでゾッとする鋭利な金属のトゲを全面に生やした鉄球を器用に振り回しつつ何処からともなく突風を巻き起こし、ラファエルの身体を押しやって一旦距離を置いた。
「俺がお前を何度も殺し損なってるからって舐め過ぎだ畜生!!」
「ほお〜ぅ」
 風を振り払った敵将が眉を上げて大袈裟に感心してみせた。破壊神と一対一で対峙しているにもかかわらずこの余裕である。
「じゃあ今度こそ私を殺してくれるのかレヴァイア……! この私を……! ならば期待するといい……! 私はきっと姉さんそっくりの死に顔をお前に晒す! 間違いなく晒すぞ!」
 歪んだ笑みを湛えながらラファエルは槍の切っ先をレヴァイアに向けた。勝機十分といった雰囲気だ。だがレヴァイアは今度こそ怯まなかった。
「言うと思った。そーだよ、だからお前のことは正直スゲー殺し難いよ。けど、徹底的に半殺しにすることは出来る。こんな策を練りやがってクソッタレが……! 俺は今、物凄く機嫌が悪いんだ、遠慮はしねぇぞラファエル……!」
 事の全容が見えていないリリスには彼らの会話がイマイチ飲み込めない。しかしレヴァイアの元に敵将が現れたということは遠くにいるサタンらの元へも何かしらの脅威が向かったことは想像つく。ならばすぐにでも加勢に行くべきだがレヴァイアがまず目の前のラファエルと素直に戦っているということは、恐らく結界をこの辺一帯に張られて閉じ込められたのだ。それも酷く分厚い結界だろう。ラファエルが己の命を賭して張り巡らせた渾身の結界だ。
 察するにラファエルは孤立し足手まといであるリリスが側にいるこの状況ならばレヴァイアに相当の苦戦を強いることができると踏んだのだろう。戦局を大きく左右するレヴァイアを少しでも長く拘束出来れば天界側に勝機が見える――なんてことをリリスが思いついたくらいだ。レヴァイアも容易く読んだに違いない。と、いうことは、彼は敢えてそこに乗ったこととなる。魔界側へ勝利を呼ぶために敢えて、だ。
 なんの為にと考えたら答えは一つしか出なかった。
 自力で天界へ攻め入れない悪魔側にとっては神が直々に魔界へ降り立った時こそが最大の好機。
(じゃあ、今頃、向こうでは――!)
 全てはリリスが察した通りである。此処から遥か離れた街のすぐ近くに圧倒的な数の天使軍が降臨し、なおかつバアルの元へ神が直々に姿を現したのはラファエルの登場と殆ど時を同じくしてのことだった。
「なに……!?」
 バアルが異変を感じ、うなだれていた顔を上げた時には既に手遅れ。憔悴しきり普段のように危機を察する力も無ければ常に間近で自分を守護してくれている破壊神の存在もなかった彼は容易く神の接近を許してしまった。
「迎えに来たぞ、我が愛しい娘」
 雨を防ぐ淡い結界と金色の輝きを纏った神はバルコニーに素足で降り立つなりバアルを心の底からゾッとさせる勝ち気な笑みを浮かべてみせた。勝ちを確信したような笑みだ。悔しい。だが、まさか自分の城に神が直々にやって来ることなど想像もしていなかったバアルには驚愕に目を見開くことしか出来ない。
 とにかく、このままではマズイ。
 呆気にとられている場合ではない。バアルはすぐにその場を飛び退いて間合いを開けようとした。だが、これも一歩遅かった。飛び退こうと身構えた瞬間に神の長い手が伸びてバアルは腕を掴まれてしまった。心の底から嫌悪している神にまたも腕を掴まれたのである。
「迎えに来たと言っているだろう! さあ帰ろう」
「や、やめ……!」
 やめろと言い切る間もなく神は強引にバアルを連れて天界へ向かおうとした。だが――
「うああああああああああああ!!」
 移動は失敗。レヴァイアの加護と自身の強い反抗心によってバアルは天界と魔界の間にある神の張った強力な結界に弾かれた。結果、彼の右腕は一気に膨張し空気を入れ過ぎたゴム風船のように内側からパンと弾けて根本から綺麗に吹き飛ばされてしまった。飛び散った血や肉片がビチャビチャと城の壁にへばり付いていく……。もし神が結界の反発に気付いてすぐ移動を諦めなければ彼はそのまま全身を破裂させてただの壁の染みと化し絶命に至っていただろう。
「あああ……っ!!」
 覚悟の痛みだった。しかし強力な反発によって身体を内部から派手に破壊されたのである、痛みには強く出来ていると自負するバアルもこれには耐えられず失った腕の断面をもう一方の手で押さえ声を震わせながら血で汚れたバルコニーの床に額を擦り付けガクガクとのた打ち回った。
「何故……!? 何故だ……!?」
 これほどに心が折れている今こそバアルを天界へ連れ去る好機と見ていた神は予想外の事態に困惑した。
 天界と魔界の間に築かれている屈強な結界の壁は神が悪魔の侵入など一切許さないという強い思いで形成したものだ。特に天敵である破壊神レヴァイアの侵入は許されない。当然そのレヴァイアの加護を受けているバアルも弾かれる。だからこそ神はバアルを手中に収めたくとも強引な拉致を出来ずにいた。どれほどヤキモキさせられたか分からない。ゆえにレヴァイアとバアルが心折れている今こそと神は考えたのだが……。
「お前はまだあのバケモノに縋るというのか……!? 何故だ『ジブリール』!!」
「その名で呼ぶなクソッタレが!!」
 激痛に身を捩りながらもバアルは腹の底から声を出して反発した。
「そんな意地を張ってる場合かジブリール!! 一体何故なんだ……!」
 言葉が無い。しかし何故と言いつつ神は本当のところ分かっていた。腕を失って泣き叫び激痛にのた打ち回るこの姿こそバアルとバアルを守護するレヴァイアの覚悟の表れであることを。たとえ激痛に襲われようと絶命に至ろうとも決して天界へは行かない、連れて行かせないという二人の強固な心がこの状況を引き起こしたのだ。
 だが分からない。何故ここまでバアルが頑ななのか神には分からない。
 その困惑が神に次の行動を一手遅らせ、一瞬の隙を生じさせた。
「魔界へようこそいらっしゃいませ神様ぁああああ!!」
 異変に気付き飛び出す隙を窺っていたサタンが音もなく神の横に現れてその左頬を殴りにかかった。だがその拳は惜しくも神の大きな手に受け止められ、サタンはそのまま城の壁に投げつけられてカッコ悪く「イテッ!!」と叫ぶハメになった。彼の奇襲など創造主からすれば軽く想定の範囲内だったのである。
「親の言うことを聞かないクソガキばかりだ……!」
 呟いて神はバアルの長い髪を鷲掴みにし、共にこの場から姿を消してしまった。行き先は……街を一望出来る向こうの高台だ。神がそこで今まさに自身の血を織り交ぜて強固な結界を築いたのが感じられた。
「畜生、逃げやがって!!」
『レヴァイア、そっちはどんな状況だ!?』
 向こうがどう来るかは分かっていた。分かっていたが直々に神を相手にするとなるとやはり苦しい。サタンは遠くで戦っているレヴァイアに声を飛ばした。……返事はすぐに返ってきた。
『こっちはラファと喧嘩中だよ。リリスは無事だ、俺が何がなんでも守る。ただちょっとばかし結界から出るのに手間取りそうだ。どうにか時間稼ぎ頼む!』
『分かった!』
 そうして簡潔なやり取りを終えると今度は『街はアタシたちに任せてサッちゃん!』というロテの声が届いた。
 街は現在ぐるりと四方八方を天使軍に囲まれている状態だ。神がこの場を後にしたことを合図に秘密裏に温存していたと思われる上級及び中級天使の大群が一気に進軍を開始した。さて、どうするか。サタンがこのまま神を追跡しては街の守りが手薄になることは確実である。しかし、……今は仲間を信じるべきだ。
 ロテに続いてロトも『俺らもそれなりにやれますから』と勝ち気に呟き『わざわざ神様が直々にやって来たこの好機を逃す理由は無いだろサタン』と煙草屋も呟いてくれた。
『だっからなんでお前らは俺にだけ敬称略なんだよ……!』
 そこだけ少し気になるが、迷う理由は無い。
『まあいいや、そんじゃ街は任せたぜ!』
 サタンはすぐに神を追跡した。素早い決断だ。街の住人としては一安心である。
「案外すんなり信じてもらえて良かった」
 ロテは胸を撫で下ろし、剣を強く握り締めた。天使軍は血の雨に降られて魔王はおろか街の住人もさぞ憔悴していることと思っていたようだが、とんでもない。住人は誰一人として折れてはいない。魔王三人の不在を穴埋めしようと瞬時に住人総出で街の周囲に張り巡らせたこの強固な結界が証である。みんながみんないつ戦争が始まっても対処出来るよう精神を研ぎ澄ませていたおかげで予告なく街の中心に奇襲をかけようとしていた天使軍の目論見は潰えた。サタンも迷いなく行動出来た。あとは、しっかりと留守番をするだけである。
 出来ることは全てやろう。なにせ神が直々に魔界へ降り立ったのだ、こんな千載一遇の好機は滅多にあるものではない。可能なら自分たちも神を倒しに行きたいものだが、神とまともに対峙出来るのはサタンとレヴァイアのみ。向かっていったところで無駄死には確定だ。ならば、彼らが少しでも目の前の戦いに集中出来るよう自分たちは街を全力で守るしかない。
 これは神と神の戦いである。何が起こるかどういう結果が待っているのか全く予想つかない。が、とにかくどう転んでも帰る場所があるというのは心強いはずだ。
「とりあえず適当に四つのチーム作って別れて迎え撃つ感じでいいよな」
 ロトの提案に街中央の広場へ集まった大勢の上級悪魔たちが頷く。四方八方を囲まれている状態ゆえ適当にチーム分けして街の東西南北にそれぞれ向い、進軍してくる天使たちを蹴散らす作戦だ。結界を張って籠城しているとはいえ、外からひたすら叩かれてはどうなるか分からない。それに、折角の客人だ。丁重に出迎えても損はない。
「んじゃ俺は一人で南に行くからお前らあと適当によろしく」
 いつの間にか話の輪に加わっていた煙草屋が煙草の煙を吐きながらちゃっちゃと自分の持ち場を決めてしまった。南はバアルの城のある方角だ。とどのつまり彼は毎日のように煙草を買いに来る親しい友人レヴァイアの家を自らの手で守りたいのである。
「ガチで戦うの久し振りだろうに一人で平気かよ煙草屋」
 気持ちは分かるがちょっと心配。眉間にシワなロトだ。だが当人はどこ吹く風、周りの心配をよそにいつも通り何処か余裕めいた感じの顔でもって美味しそうに煙草の煙を吐いてみせた。
「ナメてもらっちゃ困るなぁ。俺を誰だと思ってんだよ。ヤバかったらすぐ逃げるか助け呼ぶから大丈夫。じゃ、お先に」
 なんだか頼りない言葉を残して我先にこの場からいなくなってしまった煙草屋である。しかし一同は「はいよ、行ってらっしゃい!」と手を振り、平然と見送った。
 実のところ常日頃から留守番役を買って魔王の不在時に街を守っている彼の決定に本気で口を出す者はこの場に一人もいなかったのである。本人はあまり公言していないが地味に天地創造の過程をその目に見た元は偉大な大天使の一人。実力はお墨付きだ。当然、天使軍にも彼の実力を知る者はいた。物珍しい赤い髪に咥え煙草の彼は結構目立って遠目にも分り易い。
「貴様は……!」
 荒れ地にポッと現れた煙草屋の姿に南側から進軍していた天使たちは足を止め、先頭に立っていた上級天使は目を見開いた。
「貴様は、『ウリエル』……!」
 ウリエル――煙草屋が隠し続けてきた本当の名である。
「あ〜あ、テメェ地雷踏みやがったな。俺をその名で呼ぶんじゃねーよ……!」
 ウリエルとは『神の炎』を意味する名だ。煙草屋はこの神から与えられた名を死ぬほど嫌っていた。俺はお前の火なんかじゃねーよという反抗心である。よって見事に憤慨した彼は咥えていた煙草を目一杯吸うとその大量の煙を天使軍に向けて吹きつけた。あっという間に広がって周りが一切見えなくなるほどの大量の煙である。
「な、なんだ!?」
 いきなり視界を一気に遮るほどの煙に巻かれた天使たちは当然戸惑った。しかし、所詮は煙だ。こんなものは光を放てばすぐに掻き消すことが出来る――などと天使軍の誰もが軽く考えた次の瞬間、煙の中から我を忘れ視線定まらない状態のレヴァイアが現れ突風を巻き起こし手に持ったフレイルを操って次々と天使軍を物言わぬ肉塊にしてみせた。
「破壊神!? な、何故此処に!?」
「ラファエル様が引きつけているはずじゃ……!?」
「ひ、怯むな応戦しろ!! 応戦するんだ!!」
 予想もしていなかった事態。決して敵うはずのない破壊神の出現を受けて天使軍はあっという間にパニックに陥った。だが慌てど喚けど破壊神から逃れる術はない。濃厚な煙によって視界が遮られている中で一か八か戦うしかない。そうして、勇気を振り絞ってレヴァイアに一撃を加えた者だけが気付いたことだろう。目の前のレヴァイアは己の恐怖心が見せた幻であり、今ザックリと自分が剣を突き刺した相手は宿敵レヴァイアではなく味方の天使だったと。……全て気付いた時には既に味方を殺している、手遅れだ。
「チョロい仕事だぜ」
 植物を自在に操る彼にはこんなこと朝飯前。特殊な香を焚いて天使軍を一瞬で幻覚の牢へ閉じ込めることに成功した煙草屋は悠々と新しい煙草を口に咥えてマッチで火をつけた。
 先日レヴァイアが大暴走をしてくれたおかげで彼らの恐怖心は一層高まっているはずと読んだわけだが、想像以上の大当たりだ。この幻覚は恐怖心が強ければ強いほどに効果を増す。さあ、あとは沢山同士討ちしてもらって自滅するのを待つだけだ……と思いきや、中には元気いっぱいに幻覚を振り切って向かって来る者も少なからずいる。
「おのれ、ウリエル!! 卑怯な手を使いやがって!!」
 本当に元気いっぱい、剣の先をこちらに向けて一人の上級天使が向かってきた。
「だからその名で呼ぶなっつーんだよ!!」
 叫んで煙草屋は予め地中に仕込んでおいた屈強な棘のツタを一気に成長させ、そのボコボコと地面を裂いて荒れ地一面に突き出た大蛇のように蠢くツタを操り向かってきた天使の足元を捕らえると何処からともなく取り出した漆黒の大弓で矢を射って不意を突かれ隙だらけでいた相手の心の臓を一撃で貫いた。
 この幻覚の渦と空腹に身悶えた大蛇のようにのた打ち回るツタと光の速さで放たれる矢から逃れる術は無い……とは強気に言い切れないが目下の天使ならば軽く一掃出来る。
「大体なぁ、卑怯だなんだって1対3万くらいで掛かってきてるテメェらに言われたくねんだよクソが」
 改めて煙草の煙をゆっくり吐き、煙草屋は阿鼻叫喚が木霊する前方一面に広がった煙の渦を見つめた。首尾は上々。遥か遠く北の方角ではロテとロトが放った雷撃が木霊し、東と西でも何やら派手な音が鳴っている。この調子なら無事に留守番は出来そうだ。
「あとは……、神サマ次第か」
 この世界は一体どうなることやら。煙草屋は遠く遠くに見える高台を見つめた。祈ることしか出来ない自分たちが情けない。だが、やれるだけのことはやった。恥じることはないと思いたい。
 一方その高台ではみんなの祈りの矛先であるサタンが神の屈強な結界に弾かれどうすることも出来ずヤキモキしていた。だがサタンが此処にいることは無駄ではない。中の様子は一切窺えず手出しも出来ないが間近にサタンが控えていればそれだけで神へ大きなプレッシャーをかけることが出来る。決して無駄ではない。ゆえに街の住人たちの協力も決して無駄にはなっていない。
「入れねぇ、畜生……!」
 無駄ではない。何一つ無駄ではない。しかし、悔しい。
 今頃、中では何が行われているのだろうか。バアルは無事だろうか。結界が屈強過ぎてお互いの声すら届かない。何も出来ない。だがバアルの屈強な精神を信じて今は待つしかない。心配は尽きないが待つしかないのだ。
 サタンは僅かな隙をも逃さぬために精神を研ぎ澄ませ、目の前の僅かに虹色がかった透明な壁を睨んだ。
 同じく遠くではレヴァイアもラファエルと衝突しながら全く内部を確認出来ない分厚い神の結界の向こうに気を配っていた。
「失礼な男だ!! この私を目の前にしながらあちらこちらに目を向けやがって!!」
 結界の向こうにいるバアルや側にいるリリスを気に掛けながらレヴァイアが戦っていることは火を見るよりも明らかである。プライド高いラファエルが気分を害するのも当然だった。
「うるせえ!! ラファエル、三回しか言わねーぞ結界を解け!! 神とバアルが顔を突き合わせたらどうなるか分からねえわけじゃねぇだろ!!」
 ラファエルの槍をフレイルで弾きながらレヴァイアが声を枯らす。そうだ、分からないはずがない。何故なら――
「ラファさん!! バアルさんは貴方の『双子のお姉さん』なんでしょ!? お姉さんが酷い目に遭ってもいいの!?」
「なに?」
 結界の向こうから届いたリリスの叫びに今の今まで全くこちらの話に耳を貸さなかったラファエルの様子が一変した。
「どういうことだ……? あんな小娘に話したのかレヴァイア」
 絶え間なく振り回していた槍を止め驚愕に目を剥く彼の姿には明らかに動揺の色が見て取れた。
 一刻を争う事態だが一旦殺気の失せた相手にフレイルを叩き込めるほどレヴァイアも冷酷ではない。彼もまた一度武器を下ろした。
「俺じゃない。バアルが血を介して話した」
「バアルが……!? まさか! 信じられない……!」
 これはバアルの性格を知っているからこその反応だった。
「でもホントなんだよ。大した子だよリリスは。アレに心を開かせたんだから」
「そうか……。ならば誤魔化さず正直に言おう。私はこの世界の安定を望む者。その目的を果たすためならば己の命など惜しくはない。もちろん我が姉を神に売ることも惜しくはない!!」
 ラファエルの手が再び金色の槍を強く握った。
「まーだそんなこと言っちゃうのか、ラファエル」
「言うさ!! 姉がお前の元にいようが神の元にいようが私にとっては同じことだ……! 汚らわしい!! 結局汚らわしいんだよ!! あの売女はどう足掻いても汚いんだ、世界の為の人柱になってもらった方がまだマシよ!!」
「そうかよ……!」
 再び二人が殺気立ったのをリリスは感じた。彼らが互いの刃をぶつけ合ったのはそれから間もなくのことである。
 嗚呼やっぱり分かり合うことは出来ないのだろうか。いや、そんなことはない。ないと思いたい。ラファエルも口ではああ言っているが実の姉を心から憎んでいるとはとても思えない。
(見てるだけなんて嫌だ……! 私も何か出来るはず……!)
 リリスは恐る恐るレヴァイアが築いた結界の外へ出ようとした。が、刹那『ふざけんな』と今の今まで聞いたこともないような恐ろしい声が何処からともなく響き、足が止まった。
「レヴァさん……?」
 今のは、信じられないがレヴァイアの声だ。一体どんな表情で今の声を発したのだろう。リリスの位置からは彼の背中しか見えない。が、とにかく尋常ではない気迫だった。
「分かりました……」
 もしも言うことを聞かずに飛び出したら憤慨した彼に喉元を風で切り裂かれそうな勢いである。悔しいが従うしかない。邪魔だけはしてはならない。
 そうだ、よくよく考えなくともリリスが察したことをレヴァイアが察せないわけがない。ラファエルがどんな思いを抱いているのか彼が分からぬはずないのだ。それでも、今は遠くで神と対峙しているバアルが最優先。敵将を説得する時間など惜しいということだ。
「ラファエル、結界を解け。マジで三回しか言わねーからな。あと一回だぞ……!」
 今のレヴァイアは冷静に見えても内心酷く荒れ狂っている。いつもより低い声がその証だ。一刻も早く友の元へ向かいたい一心なのだ。
 サタンもレヴァイアも気持ちは同じ。彼らの気配はたとえ察することが出来なくとも結界内に閉じ込められ、たった一人で創造主と対峙することになってしまったバアルの大きな力になったことだろう。



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