【08:両雄を見つめる女神の視線(7)】


 ――この世界には三人の神がいる。生まれながらに一人は羨望の眼差しを一手に引き受ける重圧を背負い、一人は産みの苦しみを味わい続ける義務を背負い、一人はこの世にある負の全てを受け止める悲しみを背負った。全てはこの世界を成り立たせるために必要だったことだ。
 ならば私も何か背負って生まれてきたのだろうか。
 考えて少女は気付いた。生まれた順番と執拗に自分を求める創造の神の姿からして自分は悩み苦しむ神々の慰み者となる運命を背負っていたのではないかと。だとしたらやはり世界が狂ったのは私が運命から逃げたせいなのか。全て私のせいなのか。
 この仮説を話すと負の神は一笑に付して「それは無い」と言い切った。「有り得ない。だって全ての負を背負うのは俺の役目じゃないか」と。「だからジブリール、お前はしっかり幸せになっていいんだよ」と。
 終わりを司る負の神は少女の苦悩の日々をたった一言で文字通り『終わらせてくれた』のである――


『サタン! レヴァイア!』
 声にならぬ声で呼びかけるがどちらからも返事は無い。
『畜生ダメか、私の声は届かないのか……!』
 しかし彼らは今頃きっと外で自分の為に奔走してくれているはず。バアルは地面に尻もちをついた状態ながら頭上から注ぐ温度のない視線に睨み返した。片腕を派手に失ったせいで体重のバランスが取れず起ち上がることすら出来ない。だが、それでも反抗の意思だけは貫きたかった。創造主と二人きりで向き合うのはこれが初めてではない。脳裏に胸糞の悪い思い出が蘇る。今にも全身に鳥肌が立ちそうだ。あの時もこんな風に外界から遮断されて風も無く物音一つも聞こえない空間で神と対峙し、睨み合った。
(馬鹿野郎、震えてどうする……!)
 バアルは意思に反し勝手にガクガクと震え出した己の足を睨んだ。だがこの震えは恐怖から来るのではない。嫌悪感から来るものだ。どうしようもない……。
「怯えているのですか、ジブリール。可哀想に」
「お前のせいだろうがッ!!」
 堪らず言い返してしまった。無表情だった神の眉間へ僅かにシワが寄る。
「汚い言葉遣いはやめなさい。これだから品の無い連中とは遊んで欲しくなかった……。ジブリール、私は貴女を救いに来たのです。どうか私の言葉に耳を貸して考えを改めてください。彼らと共にいることは貴女のためにならない。さあ、私と共に天界へ帰りましょう」
 心底ゾッとするような声だ。しかし引けない。引くわけにはいかない。
「うるさい黙れ彼らを侮辱するなデカブツが!! もともと私は下品なんだよ!! 何度同じことを言わせるんだ、淑やかであれ清楚であれってお前が勝手に描いてる女神像を私に押し付けるのはやめろ!! そもそも私はもう男だ、女神なんかじゃない!!」
 感情任せに怒鳴ることはマズイと頭では分かっていた。だが、喉元まで込み上げた言葉を吐かずに耐えられるほど器用な性格はしていない。
「何度も言わせないでくださいジブリール。貴女の口から汚い言葉が放たれることに私は耐えられない。さあ帰ろう」
「な……っ!? やめ……!」
 抵抗する間もなかった。神はバアルの胸倉を掴むと有無をいわさず天界への移動を強行した。結果は当然、失敗。バアルは残っていたもう一方の腕も付け根からパンと粉砕させられた。
「あああああぁあああああああああ!!」
 激痛が一気に全身を貫き、バアルは荒れ地にのた打ち回った。
 わざとだ。神はわざとバアルを結界にぶつけて痛みを与え心を折りにかかったのだ。
「畜生……ッ!! 畜生テメェ絶対許さない……!!」
 あからさまな嫌がらせを受けてバアルは痛みに震えながら頭上の神を睨みつけた。そこには相も変わらず人形のように無表情を保った端正な顔……。自覚はあるのか無いのか自身の行動に一切罪の意識は無いというふてぶてしさが滲み出ている顔だ。
「貴女が聞き分けのない悪い子だからいけないんです。私だってこんな手荒な真似はしたくなかった。さあ、いつまで意地を張るんですかジブリール。いい加減に悔い改めなさい。私の側に来れば貴女がそんな痛みにのた打ち回ることも二度と無い。何故なら不甲斐ない獣と違ってしゃんと私は貴女を守ってあげられる」
「なん、だって……?」
 今この瞬間バアルが目眩を覚えたのは決して身体の血を失い過ぎたことだけが原因ではない。
「アンタは、一体、なにを、言ってるんだ……?」
 怒鳴り返す気にもなれなかった。まさか人の両腕を吹き飛ばしておいて痛い思いをするのが嫌ならついて来い守ってやるとは……。正直、戦慄した。会話が成り立たないことはある程度覚悟していたが、まさかここまでとは思わなかった。
「なにとは、なんだ? 現に獣が不甲斐ないから貴女はそんな酷い怪我を負ったのです。貴女が私を選んでくれたらこうはならない。さあ、私には貴女が必要なんだジブリール。創造を手伝えとは言わない、もう無理に女へ戻れとも言わない。ただ私の側にいてくれればいいんだ。何がそんなに嫌か?」
 無表情のまま神が首を傾げる。
 嗚呼やっぱりだ、神は何も分かっていない。何故自分の思い通りに事が運ばないのか不思議でならないといった感じだ。
 そうだ、この感覚……。この寒気……。バアルは思い出した。『あの時と何もかも同じ』だと。こうして神はどれだけ口で拒んでも全て自分の良い方向に解釈し、当時非力な少女ジブリールだったバアルを押し倒した。
 吐き気がする。限界だ。
「アンタ……! アンタは、何も学んでないんだな……! 自分の子供たちを山盛り犠牲にしておきながら何も学んでない……!」
 もういい、吐こう。憤慨した神に殺されようが何をされようが結果は問わない。ひたすら吐こう。バアルは覚悟を決めた。
「自分勝手もいい加減にしろよ、私は絶対アンタにはついて行かないぞ創造主……! アンタは私が好きなわけじゃないんだ。ただ私を獣に取られたって結果が気に入らないだけなんだ……! 自分の思い通りにならないものの存在が認められないだけなんだ……! アンタは私を愛していない、私の降らしている雨を一滴もその身に浴びてないのが何よりの証拠だ……! それに……」
「それに、なんですか?」
 神の眉間に再び皺が寄った。憤慨しかけている証拠だ。だが、言ってやる。このまま言ってやる。大丈夫だ、最悪な結末は訪れない。何故なら必ずサタンとレヴァイアが助けに来てくれる。最悪な結末は決して訪れない。
 バアルは両腕を失った痛みにも屈せず勝ち気な笑みを浮かべた。
「ええ、それにそもそも私は『下手糞』が『大っ嫌い』でね。アンタ『下手糞』らしいじゃないか。自分本位なやり方で全然良くないって、相手したヤツらが揃って言ってたぜ……!」
 これは、神の怒りを買うに相応しい一切根拠のないバアルの虚言であった。
「だったらどうした!! 選り好み出来る立場か、この売女がッ!!」
 それは天地が揺るぐほどの凄まじい怒鳴り声であった。加えて無表情から綺麗に一転した憤怒の表情とおよそ崇高な者が放ったとは思えない言葉である。堪らず呆気にとられた刹那、バアルは何をされたのか全く理解出来ないまま右脚を根本から跡形もなく粉砕させられた。
「あああああああああああ!!」
 一体何をされたのか。痛いと感じる暇さえない状態。いよいよマズイかも分からない。が、悔いはない。
「ああそうだよ売女だよ私は!! アンタはその売女に頭を下げて脚を開いてくれと懇願しているんだ、無様だな!! 無様だよ創造主!! 売女一匹思い通りに出来なくて何が神だ!!」
 バアルは痛みにのた打ち回りながらも更に吠えてみせた。すると憤怒に頭を支配された神は容赦の欠片もなくバアルの腹を思い切り足で踏みつけた。
「ゴホ……ッ!!」
 あまりの衝撃に息が詰まったバアルは吠えることすら叶わなくなった。
「狂犬二匹を手懐けて王様気分に浸るのは勝手だが、それで私より偉くなったつもりかジブリール!! 一人では空を飛べもしない芋虫めが!!」
「うる、さ、い……! すぐ暴力に走るクソ野郎……! これだからアンタにはついて行きたくないんだ……!」
 言い返すとまた大きな足を腹に振り下ろされた。酷い痛みに意識が遠退きかける……が、今ここで気絶をするわけにはいかない。バアルは痛みに悶えながらなんとか意識を保った。
「ついて行きたくない、か。お前は本当に愚かな子だね。ああ本当に愚かだ。その身を刻んで私から逃れたかったんだろうが結果はこの通り。獣は悪戯に心を痛め、私はますますお前が欲しくなり、お前自身はせっかく男に生まれ変わったにもかかわらず自立出来ない有り様……。どうなんだジブリール、私から逃れ続ける為には変わらず獣の側へいなければならない。そのせいで獣は思い出に苦しみお前自身は女を捨て切れない。酷い泥沼だと思わないか」
 神の冷徹な虹色の瞳がジッとバアルを見下ろす。
「いい加減にお前こそ学ぶべきだ、ジブリール。結局お前が彼と共にいることは彼やお前自身を含めて全ての生きとし生けるものを不幸にする。私の創造も歪んでいく一方だ。困ったなあ困ったなあジブリール。どうしたらいいと思う?」
「っ……どうしたらいいんだ……?」
 神の言葉一つ一つが胸に突き刺さる。真に受けるべきではないことは分かっているが心の中にある後ろめたさがそれを許してくれない。
 いっそ死んでしまいたい――過去何度も思ってきたことだ。だが自分の存在がなければレヴァイアを制止出来るものが無くなる。そうなれば待っているのは最悪の結末だ。酷い泥沼という神の指摘はあながち間違ってはいない。
「ジブリール。解決策は一つ。お前が全て諦めて私の元へ来ることだ」
 予想通りの言葉が降ってきた。
「結局、それか……! アンタが諦めるって選択肢は無いのかよ……! いい加減に諦めろ、しつこいんだよクソッタレ……!」
「お前こそいい加減に私を敬え。この世界が首の皮一枚で繋がっているのは私のおかげだぞ。私のおかげでこの世界はまだ成り立っているんだ。私の決して破壊神に屈しない心がこの世界を維持しているんだよ、その疲れをお前の固くなってしまった身体で少し癒してくれとお願いしているんだ。間違っているのは頑なに頷かないお前だよジブリール……!」
 言うと神は胸倉を掴んで左脚一本しかないバアルを無理矢理に引っ張り立たせ、目を間近に覗き込んだ。
「助けておくれよジブリール。私は破壊神に屈せないんだ。そういう風に出来ているんだ。私が何を作ったってどうせ壊れてしまう死んでしまうと諦めてしまったらこの世界は成り立たないんだよ。だから敬っておくれよ。そもそもお前がそうしてヤツの温もりに触れられるのは誰のおかげだ? 身体を重ねる喜びに喘ぐことが出来るのは誰のおかげだ? 言ってごらん」
 悲痛な台詞回しとは裏腹にゾッとするほどの無表情。
 やっぱり嫌だ。彼に屈したくなどない。
「黙れよ……。肉欲なんてものを埋め付けて生き物を狂わし無理にでも繁殖に走らせるお前のやり方に感謝などするものか……!」
 バアルは改めて拒否の姿勢を取った。すると冷徹だった神の目が更に冷気を帯びた。
「酷い言い方だな。肉欲は私からお前たちへ与えたご褒美の一つだぞ。こんなに楽しい娯楽は他に無い。お前だって好きだろうが」
「まあね、大好きだよ。でも、お前とだけは絶対に嫌だ……!」
「ほう。何が、なんでも、私を、拒否するわけか? 創造主であるこの私、を、愚弄し、何がなんでも、拒否するわけか?」
 怒りに満ちたたどたどしい口調。しかしこのまま言ってやる。決して屈したくはない。だからこそ恐れずに言ってやる。
「ああそうだよ拒否する。私はお前を親として尊敬などしない。死んでもしない。ゆえに屈しない。分かったか!!」
 すると神はスッと大きく息を吸った。
「いいから股開けよ売女!!」
 再び響いた天地を揺るがすほどの怒鳴り声。しかし負けるわけにはいかない。
「うるせぇな!! 下手糞は嫌いだって言ってるだろうが!!」
 瞬間、神の目に確かな殺気が宿った。また身体の何処かを吹き飛ばされそうな予感。次は残っている左脚か、ひょっとすると頭だろうか。頭はちょっとマズイ。死にはしないが思考が一時的に麻痺してしまう。流石にマズイ。
「うっ!?」
 間もなく訪れるであろう激痛に身構えていた最中、全く別の感覚がバアルを襲った。酷い目眩と吐き気だ。何かが一気に喉元を逆流してきた。なんだこれは。耐え切れずゴボゴホと口から漏らしたそれはドス黒い己の血であった。
「お前……!」
 突然の変化にバアルの胸倉を掴んでいた神が絶句した。いやいや絶句したいのはこちらである。一体何が起こっているんだ。とても酷い気分だ。視界が定まらない。思考も定まらない。痛みを感じることすら出来ない。口から漏れた血の他、身体から流れる血も真っ黒く変色している。とても酷い気分だ。だが、なんだろう。この妙な安堵感は……。
(ああ、そうか……これは……)
「まさかレヴァイア、『此処が見えている』のか!? 馬鹿な!! とにかくやめろ、見えているなら尚更だ!! これ以上加護を強めるのはやめろ!!」
 バアルと同じく異変の大本がなんであるか気付いた神があからさまに動揺の色を湛えて空を仰ぎ声を荒らげた。
「レヴァイア聞こえないのか!? もう加護を強めるな、ジブリールの身体が耐え切れない!!」
 渾身の結界を張り巡らせたにもかかわらず破壊神の目が届いているとしたら一大事である。バアルの異変も合わせれば言わずもがな。一切余裕の無くなった神の意志に綻びが生じるのは当然のことだった。
『よく耐え切った、偉いぞ!』
 不意にバアルの元へ届いたサタンの声……。言葉にならない安堵と共にドス黒く変色していた血は元の赤へと戻った。
「チッ!」
 神が大きく舌打ちするのと結界の綻んだ隙を突いたサタンが「やっと入れたぜクソッタレが!!」と愚痴りながら全身に真っ黒な炎を纏って神めがけて飛び込んできたのはほぼ同時のことだった。勢い任せでもってほぼ捨て身の頭突き攻撃である。余程気分が荒れていたのかその本来なら避けられたはずの一撃を神はまともに正面から受け、後方に数メートル吹き飛んだ。だが完全に体勢を崩すには至らず何処か優雅な仕草でもって地面にしっかりと二本の足で踏みとどまった。その場でつんのめって両膝を地面についてしまったサタンとは対照的である。
「イッテェエエエエ〜!! お前のオッパイ硬すぎだぞ畜生!!」
 サタンはぶつかった衝撃で赤く腫れた額を手で押さえながら神の豊満な胸元を睨みつけた。サタンの大きな手で鷲掴みにしても溢れそうなほどの大きな胸、なのに岩よりも硬いとは何事か。渾身の一撃だったのに残念ながら神にダメージを受けた形跡は見当たらない。だが、まあいい。とりあえずバアルから神を引き剥がすことは出来た。
「ったく……。おい大丈夫かバアル」
「あんまり……、大丈夫じゃない……」
 なにせ両腕と片足を失っている。流石のバアルもこの状態ではいつものように強がれなかった。
「ですよねぇ〜」
 納得してサタンは背中にバアルを庇うような形で地面に立ち、憤怒に顔を歪めた二メートル半は優にある長身の神を見上げた。成る程、憤慨した創造主というのはなかなかの迫力である。昨日の我を忘れたレヴァイアに匹敵する勢いだ。だが恐れるなかれサタンも今、引けを取らぬほどに怒っている。昨日から続く神の卑劣な行動の数々に怒り心頭だ。鏡を見なくとも今、自分が頭にツノを生やし化け物じみた顔をしていると容易く分かるほどだ。加えて血の雨に打たれ続けたせいで全身真っ赤。さぞかし酷い姿になっていることだろう。
「汚い頭でぶつかってきやがってクソガキが……! 酷い顔だなサタン! 絶望に飲まれかけた酷い顔だよ!」
 いつもの感情の無い喋りと人形のような無表情は何処へやら。憤怒に飲まれた今の神は威厳も何も捨てている。
 これは大きな大きなチャンスだ。
「汚いと酷いは俺にとっちゃ何よりの褒め言葉だよ神様!」
 余裕の返し。だが正直なところサタンはまだ一度も神と直接拳を交えたことがなかった。ゆえに本当ならレヴァイアの到着を待ちたいところだ。しかし――
(そうやってスグ頼るからダメなんだ俺は!)
 やってやる。やってやれないはずはない。始まりと終わり、希望と絶望は表裏一体。レヴァイアに出来て自分に出来ないはずはない。そうだ、出来る。不思議なもので出来ると思えば思うほどに身体が軽くなっていく。いいぞ、今ならなんでも壊せる気がする。目の前にいる創造主さえも。
「バケモノめ……!」
 唐突に神が顔を歪めてサタンに言い放った。
 恐れるな。
 覚悟を決め、サタンは再び全身に炎を纏って神に飛び掛かった。勝てる。憤怒の賜物だろうか、とにかく勝てると根拠もなく思える。少し大振りになってしまった一発目の拳は受け流され、続けざまに放った蹴りも容易く避けられてしまった。だが、どうにもこうにも今は身体が軽い。勝てる気がする。いや、必ず勝てる。この創造主に必ずだ。
「オラァ!!」
 強い決意をもって放った左手の拳が神の頬を捉えた。悲鳴も上げずに大きな身体が吹き飛び、荒れ地を転がる。
(よし、予感的中だ! 今なら勝てる……!)
 調子付いたサタンは追撃しようと改めて拳を握った。……しかし、なんだろうか。なんと言えばいいのだろうか。今、神を殴りつけた瞬間、『世界中が悲鳴を上げた気がした』。いや、気のせいではない。現に後ろのバアルは痛みに呻き声を上げて震えている。街の方からも大きな大きな悲鳴が上がったのを感じる。これは一体なんだ? サタンが戸惑っている間に薄ら笑いを浮かべながら神がゆっくりと地面から起き上がった。
「おや、知らなかったわけじゃないだろう? 万物の源である私が傷つけば当然この世界も傷つく。この世界は私で出来ているんだからな!」
 絶句。
「いっそ結界を解いてやろうか、サタン。すぐに耳が千切れるくらいの阿鼻叫喚がお前の耳に届くぞ」
 辺りに未だ神の結界が張り巡らされている影響で外の悲鳴はまともに聞こえて来ないが、それでも容易く状況が飲み込めるほどに今、世界中が大きな痛みを味わってしまった。
「最悪だな、お前……!」
 目測が、甘かった。
 神の痛みは世界の痛み。神が傷付けばその神から出来ている物も全て傷付く。海も、山も、人も全てだ。この世界を形作っている全ての物質が傷付く。決して知らなかったわけではないが、これほどまでに強く反映されるとは思っていなかった。まさか拳で一発殴っただけでこんなにも大事になるとは……。
 この痛みを感じないのは神の影響を受けない無二の存在であるサタンとレヴァイアのみ。以前レヴァイアが神を殴りつけた時も同じような現象が起きた。頬を一撃殴っただけで天界の草花は散り地面はひび割れ天使たちは一斉に痛みを味わって呻き上げた。そうだ、知らなかったわけではない。全てよく覚えている。だが、どうにも今の今まで少し甘く考えていた。バアルののた打ち回り具合は普通でない。相当の痛みを伴った証拠だ。
「サタン……! 構うな……! みんな覚悟は出来てる……! 戦え……! 戦ってくれ……!」
 呆然と立ち尽くすサタンに激痛に身を捩りながらバアルが声を絞り出す。分かっている、全て覚悟の上だ。全て覚悟してのこの革命だ。しかし……、どうすればいいのか。下手に痛みをばら撒きたくはない。はたして、どう行動するのが賢明だろうか。
「うっ!?」
 迷っている間にサタンは一瞬で目の前に現れた神の拳をまともに腹へ食らってしまった。酷い不意打ちである。
「ぐあ……! ああ……!」
 激痛に身体中の力が抜けてしまったサタンは血を吐いて呻きながら地面へと崩れた。
「クッソ……! テメェ……!」
 どうしたものか。全世界を人質に取られているようなものである、どう戦えばいいのか見当もつかない。
「アハハハハッ!! 哀れだなサタン!! 見ろ、お前が傷付いても世界は悲鳴一つ上げやしない!! これぞこの世界がお前でもあのバケモノでもなく私を最も必要としている証拠だ!! どうだ馬鹿なお前でも考えを改めて私を敬う気になったろ!? 敬えよ!! 敬え!! 敬わないなら死ね!! 消えろ!! お前は悪い子だ!! 親を殴った悪い子だッ!! 希望でありながら私を裏切ったお前は悪い子だッ!!」
 笑ったと思いきやまた憤怒の表情を浮かべ、神は地面に倒れているサタンの頭を力いっぱい踏みつけた。
「ぐ……っ!」
 苦悩が絶望を呼んだのかサタンは別の意味で自分の身体が更に化け物へ近付いたのを感じた。手のひらを見ただけで分かる。異様に伸びた爪、青白い肌、妙に浮き出た紫色の血管……。
「おお、ますますお似合いの姿になってきたなサタン。そうだよ、それでいいんだ。無意味に悪戯な希望ばかり見せつけてくれるお前もまた手に負えないバケモノよ!! 私がこうして此処にいるのもお前のせいだ。今度こそジブリールが我が手に戻ってきてくれると淡い希望を見せられてのこと。お前も悪だ!! お前も悪だッ!!」
 酷い罵りの言葉が止むこと無く降り注いでくる。しかし言い返せない。嗚呼ダメだ、こんなことではダメだ、ダメだ、諦めるな。必ず策はある……!
『おい、キレすぎだよコイツ……。お前に下手糞って言われたの相当効いたんだな……』
 苦悩し過ぎて思考が一周グルリと回ってしまったサタンは気付けばこんな脳天気な言葉をバアルにかけていた。
『だね。自分の暴言力に惚れ惚れです私』
 バアルもバアルでこんな返しである。
『暴言力ってなんだよ暴言力って……』
 と、そんな呑気な時間を邪魔するように側へ屈み込んだ神が右手でサタンの頭を鷲掴みにした。痛い。悔しい。が、下手に手出しは出来ない。サタンはそのまま頭を持ち上げられ、目を間近から覗き込まれた。
「やれやれ私としたことが少し熱くなってしまった、すまなかった。許しておくれ」
 憤怒から一転、また人形のような無表情。虹色に光る瞳と相まって神の顔は本当に人形のようである。
「サタンよ、一つ聞きたい。お前の願いは私を殺すことか? 私を殺してこの世界の全てを破壊することか? いいや、違うはずだ。レヴァイアはともかく希望の守護者であるお前がそんな破滅願望を抱くはずがない。そうだろう?」
 そうだろう、と小さく首を傾げた神は無言を貫くサタンのその無言こそが問いの答えであると確信して更に言葉を続けた。
「そこで、だ。私から提案がある。どうだろう、お前からもあの頑固な娘を説得してみてくれないか。バアルさえ私に寄越せばもう二度と魔界へは攻撃を仕掛けないと約束しよう」
「なんだと……!?」
 提案と聞いてろくな話じゃなさそうだとは思ったが、本当にろくな話ではなかった。
「今までの罪は全て無かったことにしてやる。私の監視から離れたこの地でお前たちはただ自由に暮らしていい。それだけではない、此処をこんな荒れ地ではなくもっと緑豊かな天界に似た景色にもしてやろう。なんなら未だ牢獄にいるカインも釈放しようじゃないか。お前とそこそこ親しい仲だと聞いているぞ。リリスも喜ぶんじゃないかな。あと他には、ええと〜……、何がいいかなあ」
「おい、ちょっと待て」
 意気揚々と話を続ける神をサタンは驚愕の目で見つめた。が、神は動じることなく「サタン、お前あと何が欲しい?」と笑顔を向けてきた。
「だからちょっと待てって!!」
「は? なに? どうしたサタン、悪い話じゃないだろ」
 ますます笑顔を浮かべる神に正直サタンは戦慄した。
「なん、で、そこまでしてジブリールが欲しいんだよ、なりふり構わねぇにも程があんだろ……! なんでそんなに追いかけ続けるんだ……! ジブの幸せ願ってるならもう放っておいてやれよ……!」
「何が? なんの話だサタン。全てなりふり構わず彼女の幸せを願うからこそだ。彼女ほどの崇高な存在が破壊神を盲信する姿をこれ以上見たくない。苦痛だ。破壊神は彼女を不幸にする」
 聞くだけ無駄だったかも分からない。全ては彼女の幸せを願うからこそ、自分の側に来なければ彼女は幸せになれない……。神の主張は目眩がするほど常に一貫している。
「聞くだけ無駄したという顔だな?」
 ずばり言い当てて神は軽く首を傾げた。
「私も言うだけ無駄をしたよ。お前たちは私の救いをひたすらに否定する……。何故なんだ……。悲しくて堪らない……。あれ? 待てよ今の今まで気付かなかったがひょっとするとお前たちは私を憎むように破壊神から強力な呪いでもかけられているのか?」
 ここで神は呆気にとられるサタンらを他所に「そうか、呪いか!」と一人納得して大きく頷いた。
「なんてことだ! そうだ、よく考えなくとも分かることじゃないか。私を選ばないのはどう足掻いても絶対におかしい。非道な理由がなければ成り立たない……! やはりジブリールは私が救ってやらねば……! サタン、お前も早く目を覚ますべきだ! みんなみんな間違っている! 絶望に毒されている! 希望であるお前がしっかりしないでどうする!」
「はああ!?」
 声を荒げてサタンは軽く後ろを確認してみた。するとそこには案の定……地面に倒れ伏したまま信じられないものを見る驚愕の目で神を凝視しているバアルの姿があった。
 そりゃそうだろう、勝手な方向に飛躍しまくった神の話は無茶苦茶だ。あんな顔にもなる。
「えーと、何言ってんのかちっとも意味分かんねんだけどテメェはつまり何がなんでも悪いのは全部レヴァイアで自分は何一つ悪くないって思ってるわけだな? ふざけんなよ、なんでテメェからジブリールが逃げたのか今の今までちゃんと理由考えたこと一度もねぇのかよ……!?」
「なんだその不可思議な質問は。当然だろう。私に一切の非は無い。破壊神の存在こそ全ての元凶だ」
 神の答えにはなんの迷いもない。それが余計に恐怖を感じさせた。
「お前……! お前は……!」
 サタンは分かってしまった。この執着に愛など無いのだと。神はただ己の思い通りにならなかったレヴァイアとジブリールの存在が認められないだけなのだと。
 神の求愛を他の天使たちは本心はどうであれ揃って「光栄だ」と受け入れてきた。そんな中ジブリールだけは己の意思を貫き決して応じなかった。神はただそれが気に入らないだけなのだ。自分が拒否された事実を信じられないだけなのだ。そうに違いない。
 サタンは悔しさに唇を噛んだ。
 神は未だ己の過ちに気付いていない。サタンらの命懸けの革命を目の当たりにしても何一つ学んでいない。
「どうしたサタン。とにかく何も迷う必要はないだろう。彼女を私に差し出せば全ては解決だ。私は寛大に出来ている、絶望に毒されたお前たちをこれ以上責めはしない」
「っ……お前は俺がダチを売るよーな男に見えんのかよ、ふざけんな!!」
 世界中の命には申し訳ないが、サタンは怒りに任せて神の頬を再び殴りつけた。それでも本能的に『やってはいけないことだ』と思っているせいか、しっかりと力の入った拳を振るうことは叶わず、この身動ぎさせただけで体勢を崩すには至らなかった中途半端な攻撃はただ悪戯に痛みを世界に拡散し神を憤慨させる結果となってしまった。
「せっかく良い提案をしてやったのに……。私の好意を踏みにじったなサタン!!」
 憤怒に満ちた神の声が響き渡る。
「何が好意だ、俺を馬鹿にするのも大概に……っゲホ!!」
 文句の途中でサタンは腹に鋭い拳を突き立てられ、また盛大に血を吐いた。
 こんなに悔しいことはない。こんなに悔しいことは――!



 ラファエルと対峙しながら時折レヴァイアが手を止め殺気に満ちた目で何処か遠くを見つめるたびにリリスは何も把握出来ない自分を悔やんだ。
 何も見えない、何も言えない、結界に守られたきり何も出来ない自分が悔しくて堪らない。
 今、彼には何が見えているのだろう。そして先程から何度も唐突に襲い掛かってくるこの激痛はなんだろう。身体の内側から込み上げてくる不可思議な痛みの波にリリスはひたすら首を傾げた。
 全くもって原因が分からない。更に不思議なのは同じタイミングでラファエルも痛みに悶えることと、レヴァイアだけは一切反応を示さないことだ。
 まあ、でも、不思議なことの一つや二つは当然起こるだろう。なにせ今、神と神が戦っているのだ。具体的に何が起こっているのかは察することなど出来ないが、目の前のレヴァイアの表情が時が経つに連れてあからさまに苛立ちを強めている。血の雨の勢いも増していく一方。向こうで良くないことが起こっているのは明白だ。それでもレヴァイアはラファエルを殺せずにいた。甘いといえば甘い。だが『徹底的に半殺しにすることは出来る』と宣言しただけあって彼は殺しはしないものの手早く徹底的にラファエルを嬲ってみせた。リリスが途中で目を覆うほどにだ。そうして今や右手と両足を付け根から失ったラファエルだが、彼も彼でまた強情であった。拷問紛いの責め苦にあってもなお、頑なに結界を解こうとしない。残った左手で槍を握り闘志衰えぬ眼差しでレヴァイアを睨み続けている。
 しかし時間の問題といったところだ。なにせ力の差は明らか。一切余裕の無いラファエルとは対照的にレヴァイアは息切れ一つしていない。
「俺は最初に三回だけチャンスをやるって言ったよな。これが三度目だ、結界を解けラファエル」
 痛みに顔を歪め、最早起ち上がることすら敵わないラファエルをレヴァイアが冷徹な目で見下ろす。しかし、ラファエルは応じなかった。
「クソが……! 誰がお前の言うことなんか聞くかよ……!」
「ああそう。じゃあもう知らねえ。先に言ったろ、俺は今スゲー不機嫌なんだってな」
 言うとレヴァイアは自らの左手のひらを風でザックリと切り裂き、その鮮血滴る手でラファエルの失われた右腕の付け根を掴んだ。
「う……っ!? ああああああああああああああ!! げ……ほ……!! ああ……!!」
 これは魂が絶望の化身に直接触れたようなものである。得体の知れない巨大な恐怖に頭を支配されたラファエルは腹の底から叫び声を上げ、その場で激しく嘔吐をした。槍を握っていられなくなるほどの動揺。……それでも彼は結界を解かなかった。
「これでもダメ、か。本気で今日は命を捨てる覚悟で来たってわけね」
 レヴァイアもレヴァイアで今日は本気で容赦がない。結界が解かれないと見るや彼は右手一本でラファエルの首を掴むとそのまま彼の身体を仰向けに血の雨でぬかるんだ地面へ叩き付けた。
「ぐあ……っ!」
 バシャリと跳ねる血の水溜り。憔悴しきったラファエルに抵抗する力は残っていなかった。だが、そのままレヴァイアに上へのし掛かられる格好となってもなお彼の眼光は濁らない。本当に死ぬまで結界を解かない気なのだ。
 レヴァイアはフーッと深く息を吐いた。
「結界を解け。これが最後の慈悲だ。聞かないならもう知らねぇぞ」
 破壊神の憤怒に満ちた眼光に流石のラファエルも小さく身震いをした。先程、本能的に尋常でない恐怖を味わった直後だけに寒気も倍増だ。だが、今日の彼の覚悟は本物である。
「へぇ〜……。具体的に、どういうことをするつもりだ?」
「そうだなあ、じゃあ死に顔が姉ちゃんソックリだってんなら『アレん時の顔も』ソックリなのかどうか確かめてみるか。間違っても抵抗出来ないようにその残った左腕も粉々にしてさ」
 表情変えずにレヴァイアは言い切った。
「ハハ……ッ! 品の無い虚言だな……! 無理だ、お前にそんなこと出来るわけない……!」
「いいや。よく似た顔が仇になったなラファエル。やってやれないことはないねぇ。なにせ俺はお前らが言う通りのケダモノだから……!」
 間違いようもない本気の目。一度は笑い飛ばしたラファエルの顔色が変わった。
「随分と……形振り構わないじゃないか、レヴァイア……! 相当キレてんな……! まさかお前、あんなザマに成り果てた女にまだ惚れてるのか……!?」
「さあ、どうだろう」
 曖昧に濁してレヴァイアはラファエルの服を適当に手で荒っぽく引き裂いてみせた。神の加護を受けた滅多なことでは千切れない服だが破壊神の前では通用しないことが今まさに明らかとなった形だ。
「お前っ……リリスが見てるぞ……! いいのか!?」
 残った左腕一本で抵抗は試みるものの全く歯は立たない。ラファエルの顔から僅かの余裕も消え失せた。
「ああ、丁度いいと思ってる。ちゃんと可愛い声で鳴けよラファエル。見てるリリスが赤面するくらいに」
 目を狂気に光らせたまま更にレヴァイアは服をもはや服として機能しないほどに引き千切った。
「レヴァイア、本気か……!? お前、本気で……!?」
 この問いにレヴァイアは「冗談でこんなことはしない」と更に服を引き裂いて答えた。このままでは本当に全て剥かれてしまいそうだ。いよいよラファエルの顔も青褪める……。彼が本気であることを悟ったのだ。
「レヴァさん!? それだけはダメです!! ダメ!!」
 様子を黙って見守っていたリリスが堪らず声を上げた。しかし返ってきたのは『邪魔すんな』という冷徹な声。……分かっている、全ては大切な友を想っての行動だと頭では分かっている。
(でも、こんなのダメだよ……!)
 二人の血の雨が降りしきる中での凄惨な戦いを見ながらリリスは涙ぐんだ。こんなのダメだ。結界を張っているにもかかわらずラファエルは血の雨を受け入れて身体に浴びている。これが何を意味するか当然レヴァイアも分かっているはずなのだ。……嗚呼、そうか。分かっているからこそレヴァイアはラファエルを未だ殺せずにいるのだ。
 二人とも根本に抱いている想いはきっと同じ。なのに、どうしてその二人がこんなにも心を削り合って戦わなければならないのだろう。
 とうとうレヴァイアが最終確認として身を屈めラファエルの目を間近に覗き込む。これに返事をしなければ彼は本当に外道を極める気だ。
「っ……」
 よせ、と訴えても今のレヴァイアが容易く引くわけもない。ラファエルは目を剥いたまま息を飲んだ。
 全身に血を浴びて髪を振り乱し狂気に光らせた目で間近からジッとこちらを見据える破壊神の威圧感は半端ではない。本当に獣を相手にしている気分である。
 不愉快だ。
 このまま我が身を犠牲にして時間稼ぎをするのが最も賢い選択肢なのは明らか。レヴァイアもその最悪を既に覚悟している。だが――――ラファエルはそこまで己を捨て切れなかった。
「畜生……! バケモノめ……!」
 プライドを砕かれたラファエルは苦痛に顔を歪めた。
「どうとでも。とにかく話を分かってもらえて助かったよラファ」
 レヴァイアが鋭い眼光そのままにラファエルから手を離した。ダメ押しに残った左腕を破壊することも考えたが必要はないだろう。彼は暫く立ち上がれないはずだ。自分の甘さにゲロを吐きそうな思いだが仕方ない。
「これに懲りたらもう二度とバアルを神に差し出すような真似すんじゃねーぞ……! リリス、移動だ! こっちへ来い!」
「え!? あ、はい!」
 突然かかったお呼びはやっと結界を薄めることに成功したという証。呼ばれるままにリリスは急いで駆け出し……出来ればそのままレヴァイアが差し出した手を握りたかったが、どうしてもその前にやりたいことがあった。
「すみません一刻を争う状況なのは分かっていますが……! あ、あの、これビショビショなんですけど使ってください!」
 有無を言わさずリリスはラファエルの身体に自身が雨除けとして使っていた布を掛けた。女として、リリスは服をボロボロにした彼をこのままこの荒れ地に一人置き去りには出来なかったのである。しかし容易く敵の温情を受けるラファエルではない。
「な……っ!? 小娘!! 貴様どういうつもりだ!!」
 やはり声を荒げられてしまった。それでもいい。これはリリスが自分のためにしたかったことだ。感謝されないことは分かっていた。
「どういうつもりでもありません! レヴァさんごめんなさい、お待たせしました……!」
 改めてレヴァイアの手を握った瞬間、リリスは「リリッちゃんらしいよ」と彼が狂気を抑えていつもの温和な笑みを浮かべてくれたのを見た。だが安堵は許されなかった。移動した先では丁度サタンが神に腹を殴られ、地面を転がって血ゲロを吐いていたのである。レヴァイアはまたすぐに顔を狂気に歪めてしまった。同時にリリスは生まれて初めて目の当たりにした神の姿に目を見開き息を呑んだ。言われなくともひと目で神と分かる金色のオーラを纏った2メートル半を優に越す長身の引き締まった身体に豊満な胸に加え人形のように整った顔立ちと虹色の瞳と土に汚れぬようユラユラと先端を浮かせた身の丈よりも長い金髪という姿は全て合わせて美しさのあまり尋常ではない威圧感を放っている。
(あれが、神様……)
 リリスはただひたすら神の姿に目を奪われ、その場に立ち尽くしてしまった。だが、呆気にとられたのは相手も同じだった。
「レヴァイア……!?」
 神は神で突然現れた破壊神の姿に驚愕してみせた。想像よりも遥かに早い御到着だったということだ。そうして立ち尽くした神のがら空きの腹へ向けてレヴァイアは有無を言わさず容赦の無い拳をおみまいした。それは屈強な創造主の肋骨を粉砕するに十分な威力であり、神はおろかその場に居合わせたリリスとバアルも激痛に悲鳴を上げた。大地も揺らいだ。いや、揺らいだどころではない。亀裂が走って何処かに大穴が空いたほどだ。それほどの威力である。天使はもとより遠くの街にいる住民たちもさぞ苦しい思いをしたことだろう。しかしレヴァイアは体勢を崩した神へ向かって遠慮なく拳をもう一撃叩き込んだ。
「レヴァイア……!」
 地面に這いつくばりながらサタンは一切躊躇の無いレヴァイアを見て絶句した。また自我を失って暴走しているのだろうか。いいや違う、レヴァイアは正気だ。にもかかわらずこれだけ無言のまま躊躇無く神を攻撃出来るのは何故なのか。間近でリリスとバアルが身体の細胞を破壊される痛みにのた打ち回っているというのに――。
 何発も何発も神を殴りつけた後、レヴァイアは得意の突風を巻き起こしてついに神の右腕を粉砕した。
「うああああああああああ!? おのれバケモノめ、よくも!!」
 神の大きな大きな叫び声と共に大地が激しく揺らぐ。
(レヴァイア、そりゃマズイって……!)
 覚悟を決めているバアルはともかくリリスはわけも分からないまま激痛に悶えている。世界中この有り様だと思うとやり切れない。これは、この光景は、サタンにとってこれ以上ないほどの地獄絵図だった。
 一方、黙ってやられるばかりの神ではない。当然反撃を試みにかかった。だがレヴァイアには一切通じない。神が放った閃光をレヴァイアは容易く身に纏った風で掻き消し、お返しとばかりに右腕に続いて神の左腕をも鋭利な風を操って容易く破壊した。
「ああああああああああああああッ!?」
 痛みというものに慣れていない神の叫び声は尋常ではない。おかげでその叫びと連動した大地が立っていられないほどに激しく揺れ動く。
 あまりに一方的だ。レヴァイアは強い。破壊神の名に偽りはなかった。迷いに満ちた拳を振るってしまったサタンとは雲泥の差である。
 これなら、勝てる。神に勝てる。あの神に勝てる。今まさに長年の悲願が達成されようとしている。
(でも、これでいいのか……?)
 サタンはのた打ち回るリリスを見つめた。
(これが俺の望んだ結末なのか?)
 痛みに我を忘れた神に結界を保つ余裕は無くなったのだろう。この辺一帯にも血の雨がパラパラと降り注ぎ始めた。
 本当にこれでいいのだろうか。
 神を殺せば全ては終わる。この悲しみに満ちた世界に終止符を打つことが出来る。
 だがそれは革命と言えるのだろうか。
 また、終止符を打つにしても、はたして今はその時なのだろうか。
 こんな、血に塗れたまま終わっていいのだろうか。
 このままではレヴァイアとまともな仲直りもしないまま終わる。バアルに血涙を流させたまま終わる。リリスへ、この胸に秘めた深い気持ちを明かせないまま終わる――。
(そうだ、俺はまだリリスに心の奥底に秘めている気持ちを伝えていない……)
 好きの一言も告げられないまま永劫の別れ。
 本当に、それでいいのだろうか。
 このままでは、みんながみんな一体何のために生まれてきたのか分からない……。
「レヴァイア、よせ!!」
 気付けばサタンは神を殴りつけるレヴァイアを後ろから羽交い絞めにして止めていた。
「レヴァイア頼む、やめてくれ……!」
 ここで終わりたくない――サタンの正直な気持ちが込められた言葉にレヴァイアは地面を転がった神に視線を注いだまま何も言わず手を止めた。
 この隙にと血の雨に打たれ真っ赤に染まった神がフラフラと立ち上がる。
「バケモノめ……!」
 神は立ち上がるなりレヴァイアを睨みつけ「バケモノ……! バケモノ……!」と罵りの言葉を何度も浴びせた。
「なんの躊躇もなく私を殴れるお前はやはりバケモノだ……! この世で最も不要な存在だ……! 忌々しいバケモノめ!!」
 しかし、ここまで言われてもレヴァイアは何も言い返さなかった。サタンからは彼の表情を窺うことも出来ない。自分が制したばっかりにレヴァイアがこんな罵りを受けてしまった……。
「いい加減にしろよ神様……!」
 サタンが己の選択に後悔を覚え始めたその時、何処からともなく重傷を負った満身創痍のラファエルが現れて神とレヴァイアの間に立ち塞がった。
 今の今まで黙って成り行きを見守っていたバアルが顔を上げ、声を荒らげた。
「ラファエルお前また邪魔をするのか!!」
 しかしラファエルはそちらではなく神へ更なる一撃を加えようとしているレヴァイアを睨んだ。
「我が主!! 此処は私が引き受けます!! どうか今のうちに撤退を!! 早く!!」
 神に要らない心配は掛けぬようリリスに借りた布をちゃっかり腰に巻きつけて両足が無いことを隠しての登場である。だが、それを見抜けない神ではない。
「ラファエル……! しかしその身体では……。せめて治癒を……!」
 無茶苦茶ばかりな神だがしっかりと情はある。満身創痍の我が子を見て何もせず即座に撤退することなど出来なかった。せめてその怪我を治してやりたい。しかしそんな猶予はこの場面には無かった。
「我が主、二度は言いません!! 今すぐ此処は引いてください!! 私の為にも引いてください!! お願いします!!」
 右腕と両足を失った状態のラファエルだが捨て身となれば肉の壁になることくらいは出来る。彼の覚悟を見た神は「すまない、ラファエル……!」と苦々しく呟いてその場から音もなく姿を消してしまった。
 神の撤退。これは悪魔軍がもう二度とあるか分からぬ千載一遇の好機を逃した瞬間であった。
 嗚呼、やってしまった――――。
 全身の力が抜け、サタンはその場にへたり込んでしまった。
 なにせ、取り返しの付かないことをしてしまった。また新たに取り返しの付かないことを……。
 後方からバアルが「畜生……」と小さく呟いたのが聞こえた。悔しげな声だ……。
「サタンさん……」
 先程まで全身を蝕んでいた謎の激痛から開放されたリリスは今にも崩れ落ちて消えてしまいそうなサタンに駆け寄り、その倒れそうな身体を支えた。
「……ご、めん……」
 俯いたままサタンがたどたどしく呟く。
「何を……? 何を謝るんです? 貴方は正しいことをしました……! 謝らないでサタンさん……!」
 色々と分からないことだらけだが目の前で繰り広げられた戦いを見てリリスなりに激痛の原因が神であったことは理解したつもりである。神が殴られた瞬間とリリスの身体に千切れるほどの痛みが走るタイミングとが全く一緒だった……。ゆえにサタンは神を殴りつけるレヴァイアを止めたのだ。何が間違っていたというのか。仲間を守る為に神を殴りつけたレヴァイアも、仲間を激痛から救う為にそのレヴァイアを止めたサタンも間違ってはいない。
 そうだ、誰も間違ってはいないのだ。
「そっか……? 俺、正しかったか……?」
 そうしてサタンがグルグルと思考を巡らす一方レヴァイアは凛と立ったまま、今も殺気立った目を向けるラファエルを見下ろしてみせた。
「ラファエル、お前の作戦は失敗だ。残ってる天使を連れて早く帰れ」
 とはいえ、言われて素直に敵将が帰るわけもなし。ラファエルはレヴァイアを睨み返して盛大な舌打ちをした。敵意に満ちた態度である。それでもレヴァイアは淡々とした態度を崩さなかった。
「お前の敗因は俺を誤解したことだよ。俺が心底憎いのは神でも世界でもない、いつだって自分自身だ。いつもいつでもブッ殺してやりたいのは自分自身。そんで自分壊したくて暴れ狂っても約一名は絶対どう足掻いても俺を許してくれちまうからいつもいつでも死に損なう。いつも……」
 これを聞いてラファエルは傷の痛みに顔を歪めたまま大きな溜め息をついた。
「約一名、か……。あーあ、お前のブチ切れが退屈な戦局を打破する良いキッカケになると思ったのにな……。あれだけ痛い思いをしたんだ、神が直々に此処へ降りてくることはもう無いかもしれない」
 言いながら彼はチラリとバアルに目を向けた。何か言いたげな目だ。だが、……ラファエルは言葉を飲み込んで再びレヴァイアを見上げた。
「お互い決め手を失ったな。暫くは睨み合いの均衡が続くことになりそうだ。姉さんをよろしく頼んだぞ、レヴァイア」
「もちろんだよ。心配ならいつでも様子を見に来い、ラファエル」
 この和やかなやり取りをリリスは不思議に思った。とても先程まで非道な殺し合いをしていた者同士が簡単に出来る会話ではない。が、レヴァイアの言葉は暗に『いつ奇襲をかけてきても痛くも痒くもない。必ず王は守り切る』という余裕の表れであり、意図を理解して気分を害したラファエルは「フンッ」と鼻息を荒くした。
「ちなみに……。バアル、お前はやっぱり男を見る目が無い。レヴァイアめ動揺を誘う為とはいえ私を抱こうとするわ、挙句に己の血を介してジブリールとの濡れ場の記憶を私に見せやがったぞ。やあ凄い顔だった」
「なにいいいいい!?」
 大人しく地面を転がっていたバアルがまた息を吹き返したように叫んだ。
「アハハハハハッ!! じゃーな、また会おう!! アハハハハッ!!」
 ただ大人しく帰るのは癪。ラファエルは「ちょっと待てー!!」と声を荒げるレヴァイアを嘲笑いながら姿を消した。
「ち、違う……! 誤解だ、俺そんなことしてない……! だ、抱こうとはしちゃったかもしんないけどでもそれは結界剥ぐのに必要なことだったし、でもでもでも濡れ場だけはアイツのデタラメだよおおおおお!!」
「テメェふざっけんな!!」
 レヴァイアの制止など聞きもせずバアルは怒りに任せて失っていた足を音速で治癒すると両腕が無いことなど全く感じさせない素早い動きでもって立ち上がり駆け出してレヴァイアの膝裏を思い切り蹴りつけた。
 血の雨が強く降りしきる中、パーンと小気味の良い炸裂音が響き渡る。
「イテー!!」
 レヴァイアの悲鳴も響き渡る。
「テメ、ホントふざっけんなよコラ!! 誰を抱いても構わないがジブリールの濡れ場ってなんだよ濡れ場って!! 大体遅いんだよ来るのが!! 見ろ私のこのザマ!! 腕もがれて超痛いマジ痛い背中掻きたくても掻けないいいいい!!」
「痛い痛い痛い!! 待てって!! 分かったよ背中痒いなら代わりに掻いてやるからとりあえず待てってばー!!」
 ガンガンと何発も放たれる蹴り。せっかく助けにやって来た相棒に向かってこの仕打ちである。
「レヴァさん、さっきまであんなにカッコ良かったのに……」
 ちょっと残念。しかしリリスは安堵した。これぞ見慣れた二人の姿である。しかしバアルが喚くたびに雨脚は増していく一方。そろそろ泣き止んで欲しい……。
「あああああああーもー!! キミたちのせいで僕は落ち込む暇も無いよ!! いい加減にしなさい!!」
 これは本当に落ち込んでいられない。見兼ねたサタンが二人の間に割って入った。
「つーかバアルそんな重傷の身体でジタバタ暴れちゃダメだって!! 出血ハンパねぇよいくらお前でも死んじゃうって!!」
「だってサタン、コイツ…………ちょっと待て何処へ行く!! お前の家はそっちじゃないだろうがー!!」
 静かにそーっと逃亡を試みるレヴァイアに気付いてバアルが再び声を荒らげる。
「ひいっ!! ご、ごめんなさい!!」
「ごめんで済むか!! 謝る気があるなら早く家に帰って私の飯を作れ!! お前が勝手にどっか行っちまったせいで私は昨日から何も食べてないんだぞ!! 畜生がいつもの時間にお茶を淹れてくれないから一滴のお茶すらも飲んでない!! 腹減った喉も渇いた身体スッゲー痛いー!!」
「お、おいおいおいおいバアル……」
 金切り声でもって物凄い勢いでまくし立てるバアルにサタンはただただ呆気にとられた。あまりの勢いに口を挟む余地が一切無い。リリスもリリスでポカンと開いた口が塞がらない。が、レヴァイアだけは何処か呑気な様子でポリポリと頭を掻いた。
「んっだよ、飯はともかくお茶くらい自分で淹れて飲めば良かったじゃん」
 この態度。ますます猛威を振るう血の豪雨もなんのそのである。
「お前この私に自分でお茶淹れろって言うのか!? 冗談じゃない!! お前の役目だろ!! お前がやんなきゃダメなんだよ!! 分かってるクセに……! 分かってるくせに!! うあああああああああ!!」
 バアルの大号泣に合わせてますます雨が激化した。最早バケツをひっくり返したどころの勢いではない。肌が痛い。痛いなんてものではない。もうこれは雨ではなく滝だ。いや、滝という表現すら生温い。無数の鋭利な針だ。立っていることもままならぬ程の勢いで無数の太く鋭利な針が頭上から止めどなく降り注いでいるようなものだ。
「ぎゃああああああああー!! 痛い痛い痛い痛い痛い!! 馬鹿野郎レヴァイア早く泣き止ませろ早くー!!」
 帝王サタンですら身を屈めて痛い痛いと喚くしかない状況。隣のリリスもこれには参った。
「いたたたたたたっ!! 痛いよ痛いよー!! バアルさんお願い、落ち着いてー!! このままじゃこの雨で魔界が滅んじゃいますー!!」
 必死の叫び。だが一番焦らなければならないはずのレヴァイアは相変わらず「分かった、分かったって。悪かったよ」と苦笑いするばかり。これでは煮え滾ったバアルの腹の虫は到底治まらない。
「悪かったで済むかボケが!! ちゃんと謝れ!! 謝って二度と私から逃げないと誓え畜生!! この私が寝ボケたお前如きにいとも簡単に殺されてやると思ったら大間違いだ!! 畜生め畜生め私を舐めやがって!! お前の暴走くらい私が止めてやるわ畜生め!! 舐めやがってええええ!!」
「だから悪かったって。もう逃げないから許してよ」
 また長い足を振り上げて蹴飛ばしにかかってきたバアルの身体をレヴァイアは真正面から両手で強く抱き留めた。
「なっ!? 何しやがる離せ馬鹿!! 馬鹿ー!!」
 逃れようと暴れるバアルだが彼の腕には敵わない。
「アハハハッ! ……ただいま」
 笑って茶化した後に、ただいま――それはバアルがひたすら心待ちにしていた言葉だった。
 本当に本当に心待ちにしていた言葉をはっきりと言われてしまった。
 これではもう、敵わない。
「っ……っ…………お、お帰り……! お帰りなさい……!」
 待ち望んでいた言葉を耳元に放たれたバアルは今の今まで全身を支配していた怒りを忘れ素直に彼の帰宅を歓迎した。
「やれやれ……」
 徐々に収まってきた雨の勢いにホッと一息のサタンである。
「ったく神様も分かってねーよな。こんな超ド級のお転婆を扱えるのは世界でお前だけだっつーの」
「あはははっ」
 血の雨をたっぷり吸ってしまったマントを絞りながら呟くサタンにレヴァイアは苦笑いするしかなかった。
「滅相もない。俺の手にも余るよ、この子わ」
 この子、なんて言われても自覚があるのか当のバアルは黙ったまま何も反論しない。
「あーあ、大人しくなっちゃって。ところでリリッちゃんなんで泣いてんの?」
「へ?」
 レヴァイアに言われてサタンはようやく隣でメソメソと泣くリリスに気付いた。
「えー!? ななななな、なんで泣いてんだよリリス! どうした!?」
「だ、だって……! よ、良かったなあと思って……! ちゃんとバアルさんの側にレヴァさん帰ってきてくれて良かったって……! ひいいいい〜んっ!」
 色々な事情を知った後だけに感動もひとしお。涙が止まらないリリスなのだった。
「そうか……。つまりテメェのせいじゃねーかレヴァイア!!」
「俺のせい〜!? …………あっ」
 腕の中でやけに大人しくしてるバアルの顔を確認したレヴァイアが目を丸くした。
「なに?」
「ああ、やけに大人しいと思ったらさあ」
 スイッチ切れたようにグッスリ寝てしまった相方を見てとことん苦笑いの止まぬレヴァイアである。
「そんだけ安心したんだろ。お前あんま心配かけてやるなよな」
「返す言葉もございませんです。…………さて、帰ろうか」
「そーしよう。んで、とりあえず風呂だなコリャ」
 昨日から降り続いた雨がようやく止んだのを確認し、サタンとレヴァイアは血で真っ赤なお互いの顔を笑い合った。



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