【08:両雄を見つめる女神の視線(8)】


 雲ひとつない青空の下、ミカエルは常日頃から仲良くしている白ウサギのフワフワな毛を小さな手で撫でながら魔界での血で血を洗う戦いが一旦の幕を閉じたことを察した。
 自分が破壊神の手助けをしたばっかりに神が殴りつけられて世界中が痛い思いをしたと考えると胸が苦しい。天界の花々も多く散ってしまったし、戦いになんの関係もない動物たちまで酷い痛みに巻き込まれてしまった。こうして腕に抱いている白ウサギなど未だ怯えてミカエルから離れようとしない。
「ごめんね、僕のせいで痛かったよね……」
 それでも、後悔だけは無い。自分の行いが正しかったかどうかは分からないが、とにかくあの真っ赤な雨を止ませることが出来て良かった。天界には直接関係のないことだがあの雨が降っているという事実だけでどうにも気が滅入る。何故かは分からないが、とにかく気が滅入るのだ。ひょっとすると父親の影響だろうか。……いや、関係ない。これは自分の意志だ。
「僕は血ってものがとことん嫌いなのかな……」
 言葉を返せぬウサギ相手に人生相談。すると相手は突然ミカエルの腕の中から飛び跳ね慌てふためいた感じで草むらの向こうへと駆けて行ってしまった。
「え? ちょっと待って……!」
 一体どうしたのか。刹那、背後から感じた尋常でない気配に振り返るとそこには右腕と両足を失い真っ白な肌を血の赤に染めたラファエルの姿があった。今まさに戦地から戻ってきたばかりなのだろう。そのボロボロに乱れた長い長い髪と傷だらけの身体と激しい息遣いが全てを物語っている。
「ラファ、さん……」
 ミカエルは驚きのあまり上手く声が出せなかった。
「お前……、今回……、裏切り行為をしなかった、か……?」
 冷徹な金色の瞳が容赦なくこちらを睨みつけてくる。ミカエルは震えながら首を横に振った。だがラファエルは嘘の通じる相手ではなかった。耳の良い彼は既に全てを察していたのである。
「そうか……。まあいい……。今回は許すが次は無いと思え……! 神の目は誤魔化せても私の耳は誤魔化せないぞ、クソガキ……!」
 言い捨ててミカエルに言い訳させる間もなくラファエルはその場から早々に姿を消してしまった。
「あ……。ま、待って! ラファさん!」
 ミカエルはすぐにラファエルを追いかけた。行き先は……言われなければ大天使長が住んでいるとは誰も気付けないのではないかと思うほどにポツンと建てられた質素で飾り気の無いレンガ造りの真っ白な平屋である。そしてこれは、「来るな」ということなのだろう。敷地に足を踏み入れようとした瞬間ミカエルを屈強な結界が阻んだ。こうなるとどうにもならない。普通なら大人しく引くところだ。だが、どうにもミカエルという少年は妙なところが頑固である。
「怯みません! 貴方の傷を手当てするまで帰りません! 僕、クソガキですから!」
 どれだけ身体が焼け爛れようが構わず突進を試みる。するとラファエルはすぐに根負けして結界を解いてくれた。その際「チッ!」と家の中から盛大な舌打ちが聞こえた気がするが、まあいい。とにかく結界は解いてもらえたのだ。
「お邪魔しまっす!」
 ミカエルは火傷を負った右手を軽く擦りながら意気揚々とラファエルの家のドアを開けた。飾り気のない外装通り、家の中も必要最低限の物しか無い質素さである。
「マジで邪魔だよ。しかし……成る程な、本当にお前は兄弟の中で最もミカエルの名に相応しいガキのようだ、私の癪に障ることばかりしやがる。親父と同じだよ」
 家の主は玄関ドアすぐ正面の壁にぐったりともたれ掛かっていた。視線の先は無地の天井。ミカエルの方など僅かも見ようとしない。それでもミカエルは部屋の端にある井戸で桶に水を汲みパッと目についた布を湿らせてラファエルの真っ赤な身体を拭き始めた。
 ラファエルは無言だ。感謝の言葉など一向に貰える気配は無い。それでもミカエルは淡々と彼の汚れた髪や身体を拭き続けた。そして……、泣いた。
「ぼ、僕の、僕のせいで、こんな怪我をしたんですか……?」
 痛々しいにも程があるラファエルの怪我にミカエルは溢れる涙を抑えることが出来なかった。自分の勝手な行動が常に凛としているラファエルをここまで追い詰めてしまったのだとしたら、謝っても謝りきれない。
「僕は、ただ、誰の血も見たくなかっただけなんです……! 誰の血も……!」
 なのに、どうしてこんな結果になってしまったのか。ミカエルはただただ大粒の涙を零した。その気持ちは分からないでもない。ラファエルは大きく溜め息をついた。
「綺麗事だけじゃ世界は回らないんだよミカエル」
 こう言ってやるしかなかった。子供には少し酷な話かもしれないが、遅かれ早かれ学ぶことだ。ラファエルは迷わなかった。
「私がどれだけ汚いことをしているか知らないわけじゃないだろ。父親の記憶を継いでいるなら尚更」
(お前が父親の記憶を何処まで継いでいるかは分からないがな……)
 少なくとも彼の兄弟はレヴァイアの心を抉れるほどの記憶を持っていた。彼もまたそれなりのことは知っているはずである。レヴァイアはおろかラファエルの心さえも抉れる凄惨な記憶を。
「……でも……、僕は……」
 ミカエルは唇を噛んだ。
「僕は、自分の全てを投げ打ってでも世界の安定を図る貴方のこと、綺麗だと思います……!」
 言い切ってミカエルは空より美しい水色の大きな瞳でラファエルを真っ直ぐ見つめた。
 なんだろう、この目にはちょっと敵わない。
「褒めたって何も出ないぞ」
 彼に笑顔を向けてやるつもりなど毛頭なかったラファエルだが気付けばアハハと声を上げて笑っていた。



 とりあえず風呂だなコリャとバアルの城へみんなで帰宅したはいいものの、血塗れの身体を拭くこともなくまずレヴァイアはリリスの為に風呂の準備を整えた後バアルの手当てを始め、サタンは住民たちへ戦果を告げに街へと向かってしまった。
 自分だけが先に風呂に入ってのんびりするわけにはいかない。すぐに手伝いを申し出たリリスだったがサタンとレヴァイアの二人に「お前は今回一番頑張ったんだから遠慮すんな」と言い張られ問答無用で浴場へ押し込められてしまった。
 やたらと広い豪華絢爛の浴場に一人ポツン。髪を流すたびに血の色の少し滲んだ水が排水口へ吸い込まれていく。
(もう、あんな悲しい雨は降って欲しくないな……)
 本当に、心からそう思った。
 何せ、原因が悲しすぎる。
 全てを振り払いたい一心で身体を洗ってリフレッシュ完了。用意してもらった簡単な服を着て浴場を出て……ここはドコだと早速迷子になったリリスへ『ドコ行くんだいお嬢さん、そっちじゃないよ右だ右。そこを右』といった感じに声にならぬ声でレヴァイアが道案内をしてくれた。御蔭様で無事にレヴァイアとバアルがいる部屋に到着。知った顔を見てホッと胸を撫で下ろした。
「よお、サッパリしたかい?」
 部屋中央にある大きなベッドの上で穏やかな寝息を漏らすバアルを椅子に座ることもなく立ったまま見つめていたレヴァイアがリリスに振り向く。そのいつも通りの笑顔にリリスは安堵した。良かった、彼は本当にすっかり元通りだ。未だに身体がところどころ血で真っ赤なことを除けば……。
「はい、とってもいいお湯でした。レヴァさんも一息ついたら是非」
「ああ〜、もうちょっとしたらな。あ、お茶そこに用意しといたから良かったら飲んで」
 サイドテーブルの上にある紅茶セットを指差してレヴァイアはまたバアルの寝顔に視線を戻してしまった。
「はーい! あ、あの……、バアルさんは、大丈夫ですか?」
 お茶を飲むより先にまずリリスはベッドに眠るバアルの様子を覗き込んだ。血に塗れた素顔もなかなかに美しかったが、全ての汚れを綺麗に拭き取られた顔は更にといった感じだ。長い銀色の髪をシーツに広げ色素の無い陶器のような真っ白い肌でもって銀色の睫毛に縁取られた大きな目を固く閉じ桃色の唇の隙間から穏やかな寝息を漏らすその無防備極まりない顔は本当に少女のようである。
 これが本当に本当の彼の素顔なのだと思うとリリスの胸は何故かチクリと痛んだ。
「まあ痛いの大好きだし殺しても死なないようなヤツだから大丈夫だよ。ちなみに毛布は捲らない方がいいからね。今すっぽんぽんだし再生途中の腕とか結構グロいから!」
「レヴァさんその言い方ヒド〜イ! バアルさん可哀想! ……でも、凄く綺麗に拭いてあげたんですね。大変だったんじゃないですか?」
 あんなに真っ赤だったバアルを起こさないようここまで綺麗に拭くのはさぞ大変だったことだろう。特にこの長い髪の毛を綺麗にするのは苦労したはずだ。髪に付いた血は凄く落としにくい……。先程リリスが身を持って学んだことである。
「いいや全然。身体はちゃんと布で拭いてやったけど髪は指先一つでちゃちゃっとやっちまったもん」
 ほらこんな感じに、とレヴァイアは本当に右手人差し指をピンと立てただけで自身の真っ赤だった頭を何事もなかったかのように綺麗にしてみせた。
「えええー!? ちょっ、どうやったんですか!?」
「髪に付いた血だけ風呂場の排水口へ瞬間移動させた。移動させたい物と場所をしっかり頭ん中でイメージすれば出来るんだなコレが。で、イメージし難いから俺の血塗れの服はそのまんまと」
「移動させたい物と場所をしっかりイメージ……」
 全く意味が分からないが、とりあえずリリスは試しに向こうの紅茶セットを見てカップが自分の手元に来るよう強くイメージして目を閉じてみた…………が、どれだけイメージしても紅茶のカップは手元にやって来ない。
「なんか私には出来ないみたいですね……。いいもーんだ、普通にお茶いただきまーす」
「アハハッ! いいじゃないか、しっかり自分って存在がある証拠だよ」
「自分っていう存在が?」
 一体どういう意味なのやら。首を傾げながらリリスはカップにまだ温かい紅茶を注ぎ、ゆっくりと喉に流し込んだ。疲れた身体に染み渡る蜂蜜の風味が良く効いた甘くて美味しい紅茶だ……。ちょうど甘いものが欲しくて仕方なかったリリスには堪らない。まさかひょっとするとレヴァイアは相手がどんな味を欲しているのか分かるのだろうか。なんだか、あり得る。なにせ彼が振る舞うお茶はその時その時によって葉の種類から砂糖の量まで全て違う。それをバアルは「この味だ、ありがとう」と必ず喜んで飲む。
(バアルさんが自分で淹れたお茶なんか嫌だレヴァさんの淹れたお茶じゃなきゃ飲まないって駄々をこねた気持ち、理解出来るかも)
 口で伝えなくとも自分が欲しいと思ってるものをそのまま目の前に出してもらえたら嬉しいに決っている……。
「ところでさ」
 頭をボリボリ掻きつつ唐突にレヴァイアが切り出した。
「はい?」
「あぁ、いや、その、えーっと……、タイミング逃しまくりで言い損ねちまったんだけど……、色々と悪かったな。今回はやたらと怖い思いさせちまって……。ゴメン。ラファと殺り合ってる時も手伝ってくれようとしたのに邪険にしちまったし……、なんかスゲェ外道な姿も見せちまったし……」
 余程後ろめたいのか酷く歯切れが悪い。
「なに言ってるんですか! 謝らないでくださいレヴァさん! 俺が頑張らなくちゃって気迫に溢れてて凄くカッコ良かったですよ! 外道なんてとんでもない、ワイルドで男らしかったです!」
 全てはジブリールの記憶を見たからこそだ。彼女の記憶にある彼の表情は常に暗く沈み悲しみに満ちていた。ゆえに昨日今日の彼の無我夢中の憤怒は、理解できるつもりだ。今の彼は「え? 俺カッコ良かった?」などと普通におどけて笑ってくれているが……。いや、もう大丈夫だ。心配は要らないだろう。こうしてみんなで無事に帰ってきたのだから。
「可愛い子に褒められると照れるなあ〜! もうこれを機にサタンから俺に乗り換えちゃおうぜリリッちゃん! 俺ってば兄貴より料理とか上手いぜ! 尽くすタイプで家庭的だぜ! いい旦那になれると思うんだよな自分で言うのもなんだけど!」
 さっきまでの歯切れの悪さは何処へやらである。そこへ突然「楽しそうだな、レヴァイア……!」と音もなく帰ってきたサタンが目を剥いた鬼の形相でもってレヴァイアの肩を抱いた。しっかり頭のツノも出ているし未だ血塗れなこともあって凄い迫力である。
「ひいっ!? じょ、冗談だよ……、僕がお兄ちゃんより勝ってるわけないじゃあないか」
 モゴモゴモゴモゴ……。また歯切れの悪くなったレヴァイアにリリスはクスクスと笑い、サタンはサタンで盛大な溜め息をついた。
「全く、いい気なもんだ……! とりあえず街は神様ぶん殴った影響で建物ちょっと損壊あったけど死傷者はゼロだとよ! んで、ひとまずの危機は去ったこととテメェの無事の帰宅を伝えたら街のみんなスゲー喜んでたぜ猫畜生。愛されてるなクソッタレ。つーわけで今日のところはゆっくり休んで後日改めて街に謝罪巡りといこうじゃないの」
 この言葉にレヴァイアは「気が重たい……」と呟き、まるで逃げるようにフラフラと部屋のバルコニーに向かって歩き出した。
「一服してきまーす……。バアルのことちょっと頼んだよリリッちゃん」
「あ、はーい! ごゆっくり」
 そうしてレヴァイアが去ったあとサタンは「凹みやがった、ザマーミロ」と笑って用意されていたお茶をカップに注ぎ口をつけ「おっ、蜂蜜入りか。アイツ気が利くなあ〜」と呟いた。彼も糖分が恋しかったようだ。
「お疲れ様です。サタンさんもそろそろ休んだ方がいいですよ。昨日からずっと張り詰めっぱなしじゃないですか」
 ベッドの側にあった椅子に腰掛けてリリスはサタンを見つめた。
 本当にサタンとレヴァイアは動きっぱなしだ。どうか一段落ついた今くらい休んで欲しい。そうもいかないのだろうが、それでもだ。
「あぁ。でも、そんな言うほどくたびれちゃいねーよ俺は」
「でも……」
 大丈夫だと笑ってみせる彼の笑顔に胸が痛いのは自分が何も出来ない負い目ゆえとリリス自身、分かっていた。本当に強がりでもなんでもなく彼らには寝ずに戦うことなど大したことではないのかもしれない。それでも、それが何も手伝えないリリスには勝手ながらとても辛いのだ。
「気持ちだけで十分だ、リリス。その気持ちだけで本当に十分だよ」
 リリスの気持ちが分からないほどサタンは鈍感ではない。彼はちゃんと察していた。
「でも……」
「ハハハッ。まあ〜……ちっとカッコ悪いとこばっか見せちまったからな、そう心配されても仕方ないか」
「ち、違います! 私そんなつもりじゃ……! ただ、なんていうか……、貴方だけが痛い思いしてるの嫌なんです……! 貴方が痛い時は私も一緒に傷付きたいんです……! 迷惑、かも、しれませんけど、でも、そう思っちゃうんです……。貴方の痛み、分けて欲しいんです……」
 全ての責任を負っているがゆえにサタンらは常に自分の行動を悔やみ悩んでいる……。理不尽だ。何故どうして彼らだけがそんな苦しみを負わねばならないのか……。ゆえにリリスは思った、どうかその痛みの輪の中に自分も入れて欲しい。それで痛みが和らぐかどうかは分からないが、もう蚊帳の外には居たくないと。
「貴方が今回神様を倒すのに迷いを抱いたのは、私たちの責任でもあります。お願いだから、一人で抱え込まないでください……! 自分ばかり責めないでください……! わ、私にも……、私にもその痛みを分けてください……! お願いします……! お願い……!」
「リリス……」
 目が合った瞬間、サタンの頭からツノがビックリしたモグラの如くシュッと引っ込んだ。おかげで真剣に話していたリリスだがどうにもこうにも耐え切れずプッと吹き出してしまった。仕方がない、ツノの引っ込むタイミングが絶妙過ぎた。
「あー!? ひっでぇぇぇええええ!! 笑いやがったなコノヤロー!!」
「ご……っごめんなさい……! だって凄い絶妙なタイミングでツノが引っ込んじゃったから……!」
 なんかもう笑いすぎて涙まで出てきてしまったリリスである。
「クッソ〜、マジ不便だこの頭……! いいさいいさ笑うがいいさ……! お前はやっぱり笑ってる時が一番可愛い」
「へっ!?」
 プニッと指で頬を突かれ、リリスの身体は照れ恥ずかしさにカチンと固まった。
「さ〜て、ちょいレヴァイアと今後について話してくるわ。バアル頼んだぜ」
「あ、はい……」
 立場逆転。余裕の笑みでもって部屋を出て行くサタンの背中をリリスは手を振って見送った。
 あんな笑顔であんな台詞、ズルい。
 リリスは火照った両頬を押さえながら気を取り直して今もグッスリ眠っているバアルを見つめた。そして深い溜め息……。
 恋とは恐ろしい。戸惑って当たり前なのだ。
(恋って、こんなにも凛と強い心を持った人ですら心を乱され泣き叫んでしまう自分ではどうにもならない想いなんだ……)
「私も、貴女みたいになれるかな……?」
 問いかけるが返事は無い。
 正直リリスは彼――いいや彼女『ジブリール』を羨ましく思った。こんな風に、真っ直ぐに生きたい。己の信念を貫くために神にすら逆らい貞操を貫くために身体すら平然と切り刻んだ彼女のように強くありたい。決して賢い方法ではなかったかもしれないが、それでも憧れる。
「私も、貴女みたいに…………」
 再び呟く。やはり返事は無い、と思いきや「なっちゃダメですよ」と返された。
「へっ!?」
 寝てるとばかり思っていた相手に返事をされてリリスは目を丸くした。
「すぐ横であんなにイチャイチャされたらそりゃ目も覚めますよ。全く見せつけやがって」
 ゆっくりと開く大きな目。始まる愚痴。彼はサタンとリリスの会話をバッチリ耳にしていたようだ。
「それにしても……。あーあ、お気に入りの指輪が全部無くなってしまった……。神の野郎、許せねぇなクソ……!」
 バアルは半身を起こすと眠っている間に再生が終わって戻ってきた両手をマジマジと見つめて舌打ちをした。
「ま、まあまあ……。命があるだけヨシとしましょうよ。あっ、毛布からは出ちゃダメです! 今バアルさん裸なんですから!」
 いきなり毛布から出ようとしたバアルを慌てて制するリリス。するとバアルは「あらまあ〜」と毛布の中を覗き込んでパチクリと瞬きした。
「ホントに裸だ照れる。せっかくだから見ますかリリス」
「えー!? 何がどうせっかくなんですか、見ませんよっ! そ、それよりもレヴァさんがお茶を淹れておいてくれたんですよ。どうぞっ」
 真顔で言われた為に冗談なのか本気なのか判断し難かったがとにかく即座にお断りして話題転換のためにお茶を注いだカップを「つまんねーの」と唇尖らせてイジケているバアルに手渡した。
「あら、いい香り。ありがとう、いただきます」
 イジケた顔から一転、爽やかな笑顔である。
「あらら? 香りだけでレヴァさんの淹れたお茶だって分かるんですか?」
「ええ、まあね」
 リリスとしては茶化したつもりだったのだがバアルは全く動じることなく、むしろ得意気な笑みを湛えて湯気立つカップに口をつけた。
(ちぇ〜っ。つまんねーのは私です)
 でも、いっか。「彼がいないと何を食べても味がしない」と虚ろな目で言われたあとだけにバアルが美味しそうに紅茶を飲んでくれただけでリリスも笑顔になれた。



 バルコニーに出ると雨の名残で漂っている血の鉄臭さが鼻を突いた。ついでにレヴァイアが絶え間なく吸い続けている煙草の香りも……。
 雨が上がった空には朧気に光る月を中心に満天の星空が広がっていた。朧気な光……、嗚呼、いつの間にかもう夜になっていたのだ。
「その煙って身体に悪いんだろ。いいのか、そんな止めどなく吸って」
 サタンはバルコニーの柵に腰掛けて吸い殻の山を足元に築き上げているレヴァイアに笑いかけた。
「みんなウルサイなあ〜。いつも言ってるだろ、こんなんで死ねる身体なら苦労しないって」
 とはいえ心配してもらえて実は満更でもなさそうなレヴァイアである。予想通りの返しにサタンは「アハハッ」と笑いながら彼の隣に立って遠目に一望出来る街を眺めた。
 みんな、戦争を切り抜けた喜びに湧いている。だが、これで良かったんだろうか……。
「ごめん、レヴァイア。余計なことをした」
 あの時、サタンがやめろとレヴァイアを羽交い絞めにしなければ戦いの決着は確実についていた。全てに終わりをもたらす破壊神が物質の源如きに負けるはずがない。
 サタンはひたすら悔やんでいた。バアルが泣いていようがなんだろうが構わず荒れ地にて血の雨に一晩中打たれながら好機を窺っていたレヴァイアの努力を無駄にしたことを。
「分かってねぇなあ〜、お前は」
 溜め息がてらレヴァイアがフーッと煙を空に吐いた。
「俺が神様を遠慮無く殴れたのは全てに諦めかけてたからだよ。明日なんか来なくていい。もうみんな死んじまえってな。改めて神の恨み節を聞いて心が荒れてたんだと思う。お前のせいだお前さえいなければ〜って、いつ聞いても嫌な気分になるぜ、ありゃ」
 ここで彼は「ハァ……」と大きな溜め息を漏らした。
「なのに、一撃で仕留められなかった。俺にも迷いがあったんだよ。だから止めてもらえて正直安心した。迷っといて良かったって……。とどのつまりタイミングじゃなかったってことだ、仕損じて当たり前」
 言い終えてレヴァイアは短くなった煙草を血の池が出来上がっている石造りのバルコニーの床に落とした。ジュッと火種の消える音が木霊す。
「俺の諦めに満ちた選択はいつも間違ってる。反対に絶対諦めないお前の選択はいつだって正しい。後悔なんかしてんじゃねーよ、俺の立場が無くなるだろ。胸を張れヤギ頭」
「イテッ」
 本当に痛い。トンッとレヴァイアに拳で胸を小突かれサタンは色んな意味で胸が痛くなった。
「褒めすぎだろ。俺はただ自分勝手な心残りがあったってだけで……」
「でも、それが将来お前だけじゃなくて他の誰かのデッカい幸せにも繋がる、かもしんない。リリスが俺らに言ってくれた言葉を借りるとね」
「ああ、あの言葉か……」
 貴方のおかげで私は生まれてこれた――あの時リリスがバアルに放った言葉はしっかりとサタンの耳にも届いていた。そして、全ての失敗にも意味があるのだと学ばされた。……失敗? いや待て何が失敗なものか。何故間違ったと思うんだ、そんな風に苦悩する暇があったら全て正しいことだったと胸が張れるように行動するべきである。サタンは自分に言い聞かせて一人「よし」と頷いた。
「いいね、それでこそ『希望』だ」
 サタンの面構えの変化に気付いたレヴァイアがニヤリと微笑む。
「うるせぇ猫畜生。泣き喚いて暴れたヤツに偉そうなこと言われたくねーわ」
「アハハハハッ! それ言われるとキツイや!」
 これはお互いを認め合っている二人だからこそ出来るギリギリの会話であった。
「つーかさ、みんなスゲー優しいよな。俺らだけで悩むなってさ」
 言いながらレヴァイアはまた新しい煙草を咥え、街の方へチラリと視線を向けた。
「そうだな」
 この世界に生きる者は殆ど優しい。だからこそ、どうにかして守りたいと思えた。
 少し、初心を思い出したサタンである。
 そもそも反逆したきっかけは神の独裁に満ちた世界にどうにか革命を起こして皆を幸せにすることだった。ならば、やっぱり今回神を殺すことに躊躇ったのは正しい判断だったと思いたい。
 正直なところサタンはかつてレヴァイアが神と対峙した際、何故そのまま彼が神を殺さなかったのか疑問に思った。何故そんな絶好の機会をみすみす逃したのかと……。今回いざ自分がその場に居合わせて痛いほど思い知った。全てを壊すということが、どれだけ難しいか。
 絶好の機会を無駄にしたなどと口が裂けても言えない。これで良かったのだ。ただ、牢獄にいるカインにだけは少し申し訳ない結果になってしまった。だが彼はきっと神に降伏しての釈放など微塵も望まないだろう。ならばやはり、これで良かったのだ。いや、何がなんでも良かったことにしなければならない。
「レヴァイア。俺さ、この世界がブッ壊れちまうって思った時に何故かリリスのことばっか考えてた。頭おかしいよな。あんな大事な場面でさ、俺まだあの子に好きともなんとも伝えてないわーとか、そんなこと考えちまった……」
 落ち込みついでに洗いざらい話そう。サタンは色んな意味で人生の先輩であるレヴァイアに相談してみることにした。
「自分勝手な心残りって、それ?」
 人生の先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべた。けれども茶化すような態度とは裏腹に眼差しは優しい。相談に応じてやる、ということだ。
「もうアレか、お前は一緒になる気満々なのか?」
「ああ、多分……。一目惚れな挙句に知れば知るほど離れがたくなっちまった……。向こうがどう返事してくれるかは分かんないけど……」
 若干歯切れ悪いのは照れているからだ。話を聞いたレヴァイアは「成る程ねえ」と笑った。
「よーし、そんじゃ結婚を視野に入れちゃってるお前に俺から一つアドバイスをやろう。サタン、女ってのは強いて言うなら最も身近に存在する『小宇宙』だ」
 自信満々なドヤ顔でもってこの発言。しかし全くもって意味不明である。
「なにその迷言」
「全く理解出来ない生き物ってことだよ。凄いぜハンパないぜ、ずっとずっと側にいても全く理解出来ないんだから。そもそもなんで俺に惚れたのか意味不明だし俺なんかと仲良くしたせいで徹底的に周りから虐められるわあんなことやそんなこともされるわ身体改造する羽目になるわ挙句一緒に頑張った反逆戦争にも失敗してこんな荒れ地に落とされるわそれからも大怪我続きで痛い思いばっかしてそんで自分の女の部分はもう死にましたとか言って俺の女遊び黙認するのにいざ本気で俺が離れたらヤダヤダって女みてーな金切り声上げて俺がいねーと何も出来ないって泣き喚いて真っ赤な雨降らして駄々こねて水の一滴も飲まずに早く帰ってこい帰ってこいって身体張って抗議しやがる。敵わないよ、ホント。わけ分かんないし」
 なんだか壮絶な話である。ちょっと血の気が引く勢いだ。しかし当のレヴァイアは「でも……」と、嬉しそうに話を続けた。
「でも、いいもんだよ側に誰かいるってのは。俺にとにかく生きる力をくれる」
 嘘偽りの無い真っ直ぐな目と笑顔。
「お前が言うと重たいわ」
 サタンは堪らず苦笑いした。
「重くて結構! お前がその気なら絶対に逃すなサタン。何がなんでも一緒になって加護しまくって死ぬ気で守り通せ。間違っても俺みたいなヘマすんなよ」
「レヴァイア……。お前それで女遊びさえしてなかったらカッコイイのに……」
 本当に、そこだけが残念である。これで今も一途であったなら本当にカッコ良かったのだが……。
「いいんだよ俺はそーやって向こうが音を上げるの待ってんのっ。とにかく守り通せよサタン。失敗すると悲惨だぞ、なんたって俺は柔らかいおっぱい触れなくなったからな。泣けるぜ固いおっぱいの揉み甲斐がなさには」
「そうだな。なにはともあれおっぱいは大事だ……! って、そうじゃねぇだろ!! つーかそれってつまり一度は揉んじゃったわけ!? なにそれなんかもう俺にとっちゃそもそもお前も小宇宙だよ分かんないこといっぱいだよ!! あのさ、この際だから腹割りついでに教えてくれよ!! ずっとずーっと気になってたんだけどお前とアイツって今どーゆー関係なわけ!?」
 マズイと思って今の今まで遠慮して聞かないでいたが、もう我慢の限界である。夫婦なんだか恋人なんだか普通に友人なんだかこの際はっきりさせて欲しい。が、願い虚しくレヴァイアは盛大に首を傾げてしまった。
「さあ〜、どういう区分になるんだかなあ。俺自身サッパリ分かんないわ」
「え〜!? よし、じゃあ質問を変えよう。その………………夜の営みは未だに続いているのか……!?」
 刹那、レヴァイアは「ぶわっはははは!!」と目から涙が溢れる勢いで大笑いした。
「ひ〜ひひひひっ!! 凄い質問だなサタ〜ン! そいつぁご想像に任せるぜーい!!」
「えー!? 否定しないの!? しないの!?」
 なんというか、結局こんな流れになってしまった。どうにも真面目な話が続けられない二人である。と、そこへベッドの毛布と「わあああああバアルさんどうしたんですか安静にしてましょうよダメですよ怪我治ったばっかりだし裸なんですからあああああああ〜っ!!」と喚くリリスを腰に貼り付けたバアルが般若の形相でもって「お前らさっきからなんつー話をしてるんだボケがあぁあああああ!!」と叫びながら荒々しく窓を開けて怒鳴り込んできた。
「ヤッてねーよヤッてるわけねぇだろサタンの馬鹿野郎ー!!」
 凄いドスの利いた声だ。
「ひいいいい!? バ、バアル! お前は一応クールビューティー担当なんだからそんなヤるだのヤラないだの下品な言葉を発しちゃダメだろ!」
 このサタンの言葉が更に王の火に油を注いだ。
「なんだと!? お前まであのクソ気持ち悪い神様みたいなこと言うんじゃないよクソがクソがクソッタレがあああああ!!」
 正に怒り心頭。顔を真っ赤にして怒鳴るバアルである。でもでもそうしてムキになっているのがまた色々と怪しい……。呑気にサタンは勝手な想像を巡らせた。
「だ、ダメですバアルさん!! 出ちゃう!! 大事なものが出ちゃいますううううっ!!」
 一番大変なのはこうしてバアルのバアル様がポロリしないよう必死に毛布を押さえるリリスである……。で、最も呑気なのは当事者にもかかわらず顔色一つ変えていない彼レヴァイアだろう。
「えーっ。否定しちゃうのかよバアル〜」
 この態度である。
「だっから無駄に意味深な方向へ持っていくのはやめろー!!」
 なんだって味方してくれないのか。バアルは他人ごとのようなレヴァイアの態度が不思議でならない。
 ワイワイガヤガヤ……。嗚呼、そうだコレだ、このノリだ。
「なんつーか、平和ってやっぱいいなあ〜」
 しみじみ。死線を潜り抜けたあとだけにこういう何気ないやり取りに幸せを感じてしまったサタンである。が……
「これのどこが平和ですかーッ!!」
 間髪入れずにリリスが声を荒らげて否定した。
 しかしまあいつものノリに戻ったのは事実である。
 四人はそのまま暫く談笑をしたのち解散することとなった。このメンバーが顔を合わせていると賑やか過ぎてイマイチ休まらない。ゆえの解散。今日のところはゆっくり休んでまた明日から頑張ろうということである。レヴァイアは「お前らウチで夕飯くらい食っていけばいいのに〜。二人分多く作るくらいなんでもないのになぁ〜」とサタンとリリスを引き止めてくれたが今日だけは遠慮しておくことにした。なにせ手足を取り戻したばかりのバアルをまた激高させてしまったら大変だ。
「お前ら今日はゆっくり休めよ。さあリリス、帰ろうぜ」
「はーい!」
 サタンに言われてリリスはイソイソと帰り支度を始めた。血に塗れたままのドレスやらレヴァイアにお土産で持たされた紅茶の葉やらバッグに詰める荷物は結構ある。あまり人を待たせないよう急ぐ彼女の姿は可愛い……と見惚れているサタンの元へレヴァイアがこっそりと近付いた。
「さっきの話だけど、手に入れるなら急ぎなよサタン。リリッちゃん今回俺の大活躍を見てちょ〜っとばかしお前から俺に傾いたっぽいからさ」
「へえ〜……って、なんだとゴルァ!! 忠告ありがとうテメェにだきゃ絶対に譲らねえぞ畜生ッ!!」
 まさかそんな想像もしたくない絵面である。そこへ「どうしたんですか?」と支度を終えたリリスがやって来た。
「あ、いや……別に……。かかかかか帰ろうぜ! じゃーなレヴァイア、バアル!」
「え? え? ああ、あの、また明日!」
 バイバーイと呑気に手を振るレヴァイアとバアルにゆっくり挨拶する間もなくリリスは手を掴まれて一瞬でサタンの城へと帰宅させられた。
 着いた先は玄関前。未だ血で真っ赤に染まったままの城はサタンが急いでいたせいで明かりは全てつけっぱなしであった。ゆえに足を踏み入れてすぐにリリスはホッと安堵した。
「なんだか、『帰ってきた』って感じがしますね」
「ああ、そうだな」
 バアルの城もなかなかの居心地だが、やはり自分の家はまたちょっと格別だ。
「リリス、俺……」
 玄関扉を開けながらサタンはリリスに微笑みかけた。
「俺は、こうしてもう一度お前と家に帰りたかったんだと思う」
 情けないが神を殺すに躊躇った理由はそういう些細なものだ……。情けない、カッコ悪い。ゆえに笑われる覚悟はしていた。だがリリスは茶化すことも迷うこともなくサタンに優しく微笑んだ。
「ありがとう! 嬉しいです、私ももう一度貴方とこうして家に帰ってきたかったから、嬉しい」
 彼女の言葉には本当に迷いが無い。
「リリス……」
 こんな微笑みを向けられては敵わない。おかげでサタンはなんだか本当に自分が正しいことをした気になれた。
『いいもんだよ側に誰かいるってのは。俺にとにかく生きる力をくれる――』
 今日先程のレヴァイアの言葉が脳裏を過る。
「俺も嬉しいぜ! さーて腹減ったな。なに食おうか!」
「何にしましょうね。あ、でもご飯の前にサタンさんまずはお風呂です。その姿もワイルドでカッコイイけど!」
 笑いながらリリスは躊躇なく真っ白なその手でサタンの血に汚れたままの服を撫でた。
「先にお風呂へ入ってきてください。その間に私がご飯を作っておきます。何かリクエストありませんか?」
「あ……、えっと…………」
(おいいいいい!! 何これトキメく!! これってばまるで夢にまで見たアナタ〜まずはお風呂にする? ご飯にする? それともワ、タ、シ? みたいな感じじゃん!! うわー!! うわー!! 新婚生活みたいだ、どうしよう!!)
 ご飯に悩む振りして頭の中は穏やかでないサタンである。
「えっとー……、じゃあビーフシチューでもリクエストしちゃおっかなー、うん」
「分かりました! 任せてください! ……あ、あと、…………ううん、これは後で話しますね」
「あ? なに?」
「なんでもない! 後で話します」
 と、言われて待てるほどサタンは大人ではない。
「気になって風呂に行けないから今スグ話そうネ!!」
「ひいい!? は、はい、あの、大した話じゃないんですけど……」
 サタンの尋常ではない眼力に負けてリリスは頬を赤くしながらボソボソと語り始めた。
「あの、ジブリールさんの視線を通して天使だった頃のサタンさんに会いました。カッコ良かったです!」
 どうしても報告したかったことである。今と変わりない鋭い目つきでもって青空の下、金色の髪を風になびかせていた姿もなかなかでしたと。
「アハハハッ! なんだよそんな話かよ〜!」
 もっちろん褒められて悪い気はしないサタンではあった。
「だから大した話じゃないけどって先に……。でも不思議です、サタンさんあんなにカッコ良かったし親切だったのにジブリールさんちっともサタンさんにはそういう感情抱かなかったんですよね?」
「おいおいおいおい。よせやい、俺だってあんなガサツなヤツ妹みたいなもんだとしか思ったことねーよ。どこまで記憶を見たのか知らねぇが、言っとくけどジブはマジで顔しか可愛くなかったぞ……! 女神とは名ばかりだよホント。性格とか今のまんまだもん……! あんな女、俺には絶対無理だ……!」
 大袈裟ではない。ジブリールは本当にガサツで気の強い女であった。色々と思い出したら寒気がしてくるほどに……。
「サ、サタンさん言い過ぎです言い過ぎ言い過ぎ」
「だーってホントなんだもん! でも…………」
 サタンはふと視線を落とした。
「そんなお転婆がレヴァの前ともなると頑張って女の子やってたんだわ。言っちまえばただのブリっ子なんだけどな! でも、出来れば守ってやりたかったよ。俺はアイツの綺麗にめかし込んで惚れた男と手を繋いで街を歩くっつーささやかな願いすら叶えてやれなかった」
 周りから突き刺さる視線が落ち着かず、あの二人はいつも人気の全くないところでデートをしていた。それも手を繋いで歩くだけのシンプルなデートである。
 一度でいいから、もっと堂々とさせてやりたかった。
「リリス、俺カッコ良くなんかないわ。今も昔もひたすら情けねーよ」
 堪らず苦笑い。笑うしかなかった。
「サタンさん……。いいえ、そんなストイックな貴方がカッコイイ……!」
 仲間の為に心を痛める男の何がカッコ悪いものか。リリスは顔を真っ赤にしてサタンを見つめた。
「なんで!?」
 一体、今の話のドコにカッコイイ要素があったのやら。
 女というのは本当に小宇宙かもしれない。なんたってよく分からない。
 とにかく確かなことは今、自分が照れ恥ずかしさに発火寸前まで体温を急上昇させているということである。
 そうしてサタンが向こうで身体から煙を上げていることなど気にも留めず、改めて自室のベッドに寝そべり身体を休ませていたバアルはテキパキと新しい紅茶を用意するレヴァイアを見つめて「本当に貴方は悪役を引き受けるのが好きだね」と呟いた。
「なんの話?」
 なんて言いつつレヴァイアは分かっている。どこか勝ち気な笑みがその証だ。
「誤魔化しちゃって。変に大人っぽいことするなよ、不気味だから」
「なにそれ、ひでぇ!」
 アハハと軽快に笑ってレヴァイアは慣れた手つきで紅茶のポットの中にレモンの絞り汁と蜂蜜と砂糖を的確に入れた。未だ血塗れな身体でご飯も食べずに介護を続ける良い男である。
「ったく、ホント酷いよお前。俺は少し怒ってんだぞ」
 突然変わった声色。本当に怒っている声だ。甲斐甲斐しく介護を続けてくれていた良い男に突然怒りスイッチが入ってしまった。一体何事だろう。
「怒る? どうして?」
 心当りがない。バアルは重たい身体を寝返り打って急に機嫌を悪くした相方を見やった。
「リーリースーにー、お前がー、俺とサタンが弱くなったのは自分のせぇだとか話してたのしっかり聞こえちまってたんだよバーカ!!」
 これは彼がずーっと言いたくて言いたくて堪らずにいた言葉だった。
「怒鳴んないでよ頭が痛いんだから今……」
 終始強がってはいたが血涙として体内の血を失い続けたことに加え天界に張り巡らされた屈強な結界に両腕を飛ばされた衝撃は尋常でなく、バアルは傷の再生を済ませた今も人間でいうところの風邪に似た症状に苦しみ発熱を起こしてとても体調万全とは言えない状態にあった。
「そーかよ。悪かった。でも、ふざけんな。あんなこと二度と言うんじゃねえ。俺は生まれた時が一番のドン底だったんだ、それより下がったことなんかねんだよ!」
 破壊神として生まれながらに忌み嫌われ続けたレヴァイアにとってバアルは唯一自分の存在を肯定し続けてくれた存在だ。彼のおかげでレヴァイアは自我を保ってきたと言っても大袈裟ではない。本来は真逆の概念であるサタンとレヴァイアが相通じることになったのも彼が間にいてくれたからだ。本人だってそんな自分の功績を少しは分かっているはずなのだ。バアルが自身の存在を否定することはバアルを支えに生きてきたレヴァイアの存在すら否定する行為であることも、本当は分かっているはずなのだ。
 存在を否定されたレヴァイアの怒りはご尤もである。バアルに反論の余地は無かった。
「ごめん…………」
「素直に謝んなよ不気味だから」
 ものの見事に言い返された形だ。「なにさ畜生……」とバアルは頬を膨らませてベッドに潜り込んだ。毛布越しに頭上から響く笑い声。この強情な王に負けを認めさせたのだ。憤怒から一転、上機嫌のレヴァイアである。
「謝ればヨシだバアル。紅茶が入ったぜ。飯はどうする?」
 聞くとバアルはモゾモゾとバツの悪そうな感じで再び毛布から顔を出した。
「申し訳ないが食欲はイマイチです……。あーあ、寝込んでる場合じゃないのになぁ。一刻も早く部屋のバルコニーを改築したいよ。神が降り立った痕跡を綺麗サッパリ消さなくちゃ……」
 アイツが触ったものには触りたくない。本当にもう「生理的に無理!」というヤツでバアルは神の存在がとことん許せないのである。
「あ〜……。んなの明日辺りから俺がやってやんよ。どんなデザインにしようか?」
 聞くとバアルはゆっくり半身を起こして「うーん」と腕組をした。
「そうだなあ〜……。ハートと薔薇がいっぱいな感じがいいかなあ」
「お前そんな乙女乙女したもん俺に作れっつーの……?」
 とはいえ逆らえはしない。また一つ城が変な意味でレベルアップしそうな気配にレヴァイアは肩を落とした。
 一方その頃、天界ではラファエルが神からの呼び出しを受けて神殿を訪れていた。ミカエルに見守られつつベッドでのんびりうたた寝していたところを呼び出され、正直気分は最悪だ。こちとらやっと手足が元に戻ったばかりの病み上がり。身体がダルいなんてものではない。それを分からぬ神ではないだろうに何故呼び出しなどしてくれたのか。ひょっとすると作戦失敗の説教でもされるのだろうか。我が主は根に持つタイプだからな〜……等々、嫌な想像も尽きない。が、とにかく逆らうわけにはいかない。
 いよいよラファエルが神の待つ七色カーテンの間に足を踏み入れると察した神から『そのまま中へ』と声を掛けられた。
「分かりました。主よ、一体なんのご用で……?」
 不思議に思いながらカーテンを捲って中に入ると、そこには無限に広がる真っ白な空間にポツンと置かれた大きな大きなベッドの上で丸まって寝転がっている神の姿があった。
 これは、一体、何事か……。
「疲れているところを呼び出してすまないラファエル……。一人でいたくなくてな。もっと側へ……。殴られたお腹がまだ痛いし色々と罵倒されて胸も痛い……。どうしたものか……」
 物凄く心細そうな声である。まるで子供だ。
(とっくに治癒は済んでいるはずだが……。無理もない、か……)
 神が痛みにどれだけ不慣れかはラファエルなりに理解している。仕方ない、ここは構ってやるしかなさそうだ。
「そうして寝ていればすぐに治ります。どうか気を強く持ってください」
 言いながらラファエルは神の眠る純白のベッドの端に腰を下ろした。
「ラファエル、お前はいつもこれより酷い痛みを味わって私のために戦ってくれているのですね……。改めて感謝を……」
「感謝だなんてとんでもない。私の未熟な策に貴方を巻き込んでしまい怪我までさせてしまった。私は感謝どころか罰を受けて然るべきです」
「何を言う。お前はよくやってくれましたよ。ところでラファエル、話は変わるのだけれど…………………………私って『下手糞』だったんですか?」
「え?」
 ラファエルは思わず振り返って沈み切った神の顔を凝視してしまった。
(気にしてたのか……)
 厄介な落ち込ませ方をさせてくれたものだ。ラファエルは出かかった溜め息を飲み込んだ。
「ええと……、なんと申し上げたら良いやらですが、下手、では、ない、でしょう。みな主の腕に抱かれることは何より光栄なことと思っております。全てはバアルの虚言です。どうか鵜呑みにされませぬよう」
 他になんと言ってやればいいのやら見当がつかない。幸いラファエルの言葉に神はすぐ「そうか! そうだよな!」と頷いて機嫌を良くしてくれた。これはラファエルに全幅の信頼を寄せているからこそである。
「少しばかり気が晴れた。ありがとうラファエル。あぁ、そうそう。唐突ですが後でお菓子作りを手伝ってくれませんか?」
「お菓子? 手伝うのは構いませんが本当に唐突ですね」
 珍しい頼み事にラファエルは何度も大袈裟に瞬きをしてみせた。
「今回手伝ってくれたミカエルの子供たちにお礼としてお菓子を渡す約束をしていましたからね。せっかくですからこの手でちゃんと作ったものをと」
 言って微笑む神の表情は優しげな母親のそれそのもの。こういう一面もまだちゃんと持ち合わせているのだと思うとラファエルの胸は痛んだ。
「そうですか。あの子ら、きっと喜びますよ」
「ええ。それにしてもよく考えましたよね、小麦粉と卵と砂糖を混ぜて焼くなんて。みんな発想の天才だ。私の想像も及ばぬことばかり思いつく……」
 不意に、神が長い腕を伸ばして優しくも威厳に溢れた大きな手で縋るようにラファエルの手を握った。
「私はただ、そうして皆と創造を永劫この世界で楽しみたいだけなのに……。ジブリールには横で私のその創造の数々を見ていて欲しいだけなのに……。上手くいかない……。上手くいかない……。寂しい…………」
 今にも消え入りそうな声。創造主も創造主なりに悩んでいるのである。
「我が主、どうかそんな顔はなさらず。私が側におります、私は貴方を裏切りません」
「ありがとう……。お前がいてくれて良かった……」
「勿体無いお言葉です。……ちなみに一つアドバイスをしますと本気でバアルに帰ってきて欲しいなら幾ら頭に血が昇ったからといって売女呼ばわりはマズイです。あれじゃ帰ってくる者も帰ってこなくなります。女を落とす時はひたすら紳士に振る舞わねば」
 どうしても指摘したかったことである。一応少しは自覚あったのか神は「うっ」と小さく呻いた。
「そうは言うがあんな頭ごなしに拒絶されたらカッとなってしまうというかなんというか……」
「そこを耐えなくてどうしますか。殴って女が手に入るなら男は誰も苦労しません。大体バアルはただでさえ普通の女じゃないんだから細心の注意を払って口説けと事前に口酸っぱく言っておいたでしょうに。反省をお願いします我が主」
「……はい……」
 弱っていることが幸いしたのか神はすんなりと非を認めて頷いた。それはいいが、神は一向にラファエルの手を放す気配が無い。
(ひょっとすると私は今夜一晩こうしてずっと主を慰めなきゃいけないのか? おのれバアルめ、一体どこまで神を酷く口撃してくれたんだ……!)
 仕方がない、これが自分の選んだ道……。ラファエルは気を取り直して「どんなお菓子を作りましょうか」と別の話題を神に振った。

 魔界にてバアルの体調が復活したのはそれから三日後のことである。

 リリスに見せた弱気な表情など幻だったのではないかと思えるほどに以前と変わりない厚化粧と威厳に満ちた目をした彼が戻ってきた。が、街は相変わらず血で真っ赤。それは住民たちが敢えて血を全く掃除せずにおいたからだ。そう、敢えて。
「えーっと……、お、おかげさまで、元気に、なりました、ハイ」
 時刻は真っ昼間。街の中央広場にギッチリ集まった住民たちの前へ噴水を背に元気な姿をお披露目したバアルは滅多にないほどの歯切れの悪さでもって挨拶をし、気まずさを誤魔化すように赤い空を見つめた。隣に立つレヴァイアも同様である。サタンだけが少し離れたところで呑気に笑っている。その横には二人の復活に笑みが止まないリリスの姿。住民たちの先頭には感動でむせび泣くロテとロトの姿もある。煙草屋の姿は残念ながら見当たらないが……彼も何処かでバアルとレヴァイアの復帰を喜んでいることだろう。
 とにかく魔王復活の挨拶をひと目でも見ようと街の住民全員が集まってるだけあって広場は四方八方ギッチギチ。尋常でない賑わいである。建物の屋根の上に乗ってまでバアルとレヴァイアを見つめている者も多くいる。この視線が二人には痛い。まだ当時の魔界には天地創造をその目に見た上級悪魔が沢山生き残っていた。つまりこの血の雨が誰のせいか口にこそ出さないもののバレバレ、ということである。
「えーとぉ〜……、み、皆さん、こ、今回は、俺のヘマで色々と一悶着ありーの神様ぶん殴ったせいで大人はともかく子供にまで痛い思いさせちゃったし街もこんな有り様にしちゃってマジすんませんっした……。せ、責任をとってこれから俺とバアルとで街をピッカピカに掃除しますです! そんなワケで許してください今日からまたヨロシクお願いしまっす!」
 ガバッと頭を下げるレヴァイア。隣でバアルも「お願いしまーす……」と渋々頭を浅く下げる。すると誰かが「しょーがねぇなあ〜!」と冗談っぽく口火を切ったのをきっかけに「許しますよ、もちろん許しますよお!」「何を謝ることがありますか!」「二人が無事で良かったです本当に!」という声が次々と上げ始め、言葉の渦は最終的に「貴方たちが頼りなんですから!」「俺らどこまでもついていきますよ!」「これからも戦い続けてください!」と二人の健闘をひたすら称えるものとなった。
「み、みんな……!」
 なんと素晴らしい仲間たちだろうか。バアルの目にジワジワと感動の涙が滲む。しかし彼が泣くと……。
「あーーーー!! ダメだバアル泣くなー!!」
 気付いたレヴァイアが大絶叫してくれたおかげで感動に飲まれかけていた王は「え? あ、いけない。危なかった……!」と我に返り涙を引っ込ませてくれた。これには黙って様子を見ていたサタンも苦笑いである。
「ホントに危なかったよお前! さあ、ちゃっちゃと掃除しちまおう!」
「ですね」
 頷き合うなりレヴァイアはバアルを肩車に乗せて真っ黒な翼を広げ街が一望出来る高度まで飛び上がった。
「サタンさん、二人は一体どうやって街を一気にお掃除をするんですか?」
 空高く飛び上がって点になってしまった二人を見つめながらリリスが首を傾げる。まさか手作業でやるわけもなし。一体どうするのか。
「ああ、目の良いバアルが街を一望して血だけどっかに移す作戦とみた」
 サタンの言った通りである。一瞬のことだった。上空から目の良いバアルが全神経を投じて街をしっかりと見定め、血だけを一気に何処かへ消し飛ばすことによって街は瞬く間に元の姿を取り戻したのである。
 ちなみにバアルが血を飛ばした何処かとは先日の戦いにて神を殴ったことによりボッコリと派手に窪んだ魔界の果ての広大な大地である。そこはバアル本人は全く意図しなかったことだが、のちに初めて魔界に血の雨が降った際に出来た血の湖として数千年経っても枯れることなく存在する有名な観光スポットとなった……。



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