【08:両雄を見つめる女神の視線(9)】
ともかく掃除が終わり魔界に新たな観光スポットも出来上がったところで集会は無事終了。集まっていた悪魔たちは「やあ良かった良かった!」と笑顔を浮かべながらそれぞれ解散し、改めて街に平穏が訪れた。
だが、失われたものは元に戻らない。
一仕事終えた仲間たちが休憩にと適当な店に立ち寄ってお茶を飲む中、一人レヴァイアは街の外れにある墓地を訪れて自らの手で屠ってしまった仲間たちの墓に色鮮やかな花束を添えた。
「悪いことしちまったな、ホントに……」
呟いた瞬間、ふわりと吹いた風が辺りの草木を鳴らした。まるで、彼らの言葉を代弁するように……。
「気にすんなよって? 無茶言うぜ」
この手が難い。簡単に命を終わらせてしまうこの手が……。レヴァイアは千切る勢いで自身の手を強く握った。しかし彼らは悔やむなと言う。こっちにはなんの悔いも無いのだから悔やむなと。
「そうだな、こんな息苦しい世界から開放されたんだ。悔やむより祝ってやるべきだよな」
なにせ、嘆くよりも笑って送ってやった方が喜びそうな面子である。だから、笑うべきだ。
そうしてレヴァイアが一人微笑んだ丁度その時、音もなくサタンが隣に現れて墓前への花束を一つ追加した。彼もまた仲間の弔いに来たのである。
「レヴァ君、キミは本当に単独行動ってのが好きだね」
「別にそういうわけじゃないッスよ兄さん」
茶化すサタンにレヴァイアは苦笑いで応えた。
決して単独行動が好きなわけじゃない。ただ、彼らに謝るべきなのは自分一人だと思っただけである。
「なあサタン、俺は今までこの世界で死んだヤツの顔を全員分全部覚えてんだ。自分の手で殺しちまったヤツに関しちゃそいつの死に顔までバッチリだよ。そんでそのまま一人の顔も忘れたことがない……。今の今までそれが当たり前だと思ってた」
大きく息を吐きレヴァイアは何処からともなく煙草を取り出して口に咥え、火をつけた。
「でも最近知ったんだ、俺と違ってバアルは死んだヤツの顔なんざ余程のことがない限り忘れちまうんだって。天使いっぱい殺しすぎて全員なんか覚えてないって。そらもうビックリさ。あんなに頭が良いヤツなのに覚えてられないんだって知ってビックリした。……お前は、どう?」
この手で殺した天使はもちろん、一足先に去っていった仲間に関しては顔も名前も抱いていた想いすら全てレヴァイアは覚えている。不思議なことに一切面識無く死んでいった命に関してもその顔を知って覚えている。朧気に彼らの死を感じ、寝てる間に夢で出会って顔を見たっきりそのまま永劫その顔を忘れないのだ。忘れようにも忘れられない。終わりを司る彼は死んでいった者たちの全てを一手に引き受けてしまう定めを背負っている。ゆえに今の今まで去っていった者を忘れたことがない。それを、当たり前だと思っていた。
「マジかよ……。俺も全部覚えてるの当たり前だと思ってた。バアルですら忘れちまうってマジもマジ……?」
「ああ、マジだよ。ちゃんと確かめた」
「そっか……」
なんというか、驚きを隠せない。サタンもレヴァイアと同じだからだ。始まりを司る彼もまた去っていった者の想いを背負ってしまう定めにあり今の今まで一人の顔も忘れたことがない。
仕方がないのだ。彼らはこの世界の概念そのもの。この世界の全て。どんな生き方や死に方をしたかも問わず自分たちと面識があったかどうかすらも問わずに全ての生と死を彼らは欠かさず感じ取り、そのまま忘れない。何故なら、どうあってもこの世界で『一つの命が始まって終わり、新たな始まりへ向かったという事実は決して消えない』からだ。ゆえに彼らはあるがままを受け入れ、一つ一つの命を全て永劫忘れない。そういう風に出来ている。
辛く感じたことはない。なにせ、それを当たり前だと思っていたからだ。
「レヴァイア。コイツらは最後の瞬間に何を考えてたんだろうな」
サタンが聞くとレヴァイアは紫煙を吐いて少し目を伏せた。
「まあ、俺らの夢がちゃんと叶うようにって祈ってくれてたんじゃないかな。そういうヤツらだったもん。きっと死ぬ恐怖なんかそっちのけで俺らのことだけ考えてたと思う……」
その通り、と言わんばかりに柔らかな風が吹いて花束を揺らす。しかしこうして弔ってやっているのだ、そろそろ次の旅へと向かってほしい。レヴァイアは苦笑いした。
「お前自身は今、何を考えてた?」
カサカサと鳴る花束を見つめてサタンがまた呟く。
「俺? 俺は〜……、こういう沢山の想いに潰された時が『俺の死ぬ時』なんだろうなって考えてた」
寝ても覚めても忘れられない沢山の顔と名前と残された想い。これらを支えきれずに潰れた時こそが自分の死ぬ時。何故か漠然とそう思える。
「へえ〜。俺と違うな。俺はコイツらが糧になってくれたおかげで俺らはまた一つ強くなったんだなって考えてた。コイツらのおかげでまた夢に一歩近付けたんだなってさ」
すると目を伏せていたレヴァイアがフッと吹き出した。
「流石。お前が希望たる所以ってとこだな」
「バカ言え。お前だってみんなの希望なんだよ。コイツらが死を恐れなかったのはお前に希望を見たからだ。そんで命を投げ出す価値があるって思ってたからだよ。つーわけでコレ、お前にプレゼント。さっき宝石屋で買ってきた」
「は?」
話の流れを全く無視した形でいきなり手のひらに大きなサファイアのぶら下がりピアスを押し付けられ、レヴァイアは目をこれでもかと丸くした。
「な、なにこの自己主張の激しいピアス……」
大袈裟でなく本当に自己主張の激しいファセットカットされた存在感たっぷり親指サイズのサファイアである。留め具の部分は白金だ。なかなか可愛い。悪くない。相当の値打ちもありそうだ。が、なんだって急にこんなものをくれたのか。
「いいじゃん、お前ってば青色が好きだろ。で、俺は赤が好き。はぁ〜い、お揃いだよボクちゃん!」
お揃い……。得意気に髪を掻き上げたサタンの両耳には一足先に装着された赤く輝くルビーのピアスがあった。レヴァイアに渡したものと同じ形の色違いである。
「わーいやったぁ、お兄ちゃんとお揃いだあ〜!! ……って喜びたいところだけど疑問の方が先行しちゃって喜ぶどころじゃないよ俺!! 意味分かんない、意味分かんない!! なんで急に俺とお前で色違いなお揃いのピアスしなきゃなんないわけ!?」
レヴァイアの反応は正常だ。いきなり男同士でお揃いのピアス着けようと言われてもウン分かったとは頷き難い。
「ったく鈍感な男だなあ〜。着けてみりゃ分かるよ。自己主張強いだけあってそこそこ重たいんだわコレ。しかもチャラチャラ揺れまくる。だからスゲー気になる。つーわけでコイツが気になるたびに思い出せ、お前は一人じゃないってな。お前が俺と一緒に希望を背負ってくれてるように、俺だってお前一人に絶望を負わせはしない。約束する」
「サタン……」
一応、彼なりに考えてのことだったわけだ。よく見るとこのピアスには既にサタンの加護が宿っている。お前を一人にはしないという強い誓いが、決して消えないように。
「ったく、ガラにもねぇこと思いつきやがって全く」
しかし、悪くはない。レヴァイアは吸い終えた煙草を消すと早速ピアスを耳につけ「似合ってる?」とサタンに向かって髪を掻き上げた。
「似合ってるよ、お前。とっても綺麗だ」
「ありがとうアナタ。アタシ嬉しい」
気色悪いノリでもってレヴァイアは自身の両手の親指を歯で軽く噛み切り、滲んだ血をサタンのピアスに塗り付けた。自分だけ加護を貰うわけにはいかない。よって自身も血を塗って加護し返したのである。お前が俺を一人にしないというなら俺もお前を一人にはしない。口はフザケているが、やってることは真剣だった。
「ハイ、アタシも誓ったわよアナタ」
「ありがとう、お前。さあ、このままチュウしよう」
「しませんっ! やめてその顔キモいわアナタ!」
「ちぇ〜っ」
突き出した唇を残念そうに引っ込めるサタンであった。
「なんでガッカリしてんだよ……! つーかマジよく思いついたなこんなこと。貰えるものはなんでもってことで一応嬉しいけどさ」
「アハハッ! だってさっき向こうで花束買ってたら近所の宝石屋に声かけられちゃってさあ、無事を記念してドーンと何か買ってってくださいよ記念を形に残すのっていいもんですよーとか言うからぁ〜……、んであんまりしつこいから買わないよ見るだけだよ〜って店に入って〜……、そんで色々と見てたらパッと思いついちゃったんだよね、あぁレヴァ君とお揃いで何か買おうって」
「なる、ほど、ネ……」
ピアス購入のきっかけはただ単純に店主から言い包められただけ……。ちょっとかっこ悪いが彼らしいと言えばらしい。
「あ! ついでに宝石にはそれぞれ色んなパワーがあるって教えてもらったんだよ俺! そんで店主からサファイアには『冷静な思考を保ったり憎悪の感情を和らげる』パワーがあるんだって言われたもんだからもうこりゃ色といい効能といいレヴァイアにプレゼントしなきゃって思って!」
「ゴメンねプッツンして大迷惑かけてゴメンねーッ!!」
似合いすぎも困りもの、である。
「ワハハハハッ!! あ、ちなみに俺のルビーは『勝利を呼ぶ石』だってさ。超ピッタリ!」
「へぇぇぇぇ〜。なんかお前のが断然カッコイイじゃねーか、ズルいな畜生!」
「畜生って言うなよ猫畜生! なんなら交換するか? お前ってば赤とか死ぬほど似合わなそうだけど」
「失礼だな! 俺に着こなせない色はありませんっ!」
ワイワイガヤガヤ。厳かな墓地に二人の賑やかな声だけが何処までもこだましていく。しかし罰当たりどころか墓地の空気は何処か嬉しそうだった。それはこの光景を『そうそう、アンタたち二人はそうでなくちゃ』と一足先に眠った者たちは間違いなく喜んだはずだからである。
「ひひひっ! なあレヴァイア、俺らマジで一度腹を割ってちゃんと話したほうがいいな」
笑い疲れたタイミングで笑い涙を拭きながらサタンが呟いた。
「あ〜……、そうだな」
お互い唯一無二の存在同士。なのにお互いがお互いを知らなすぎる。死者を忘れることが出来ないというごく単純な共通点すら今の今まで知らなかった。暗黙の了解ではダメなのだ、もっとちゃんと声にして伝え合わなければ……。
「つーわけで、まず聞きたいんだけど。ホント気になって気になって仕方ないんだけど!! お前さんアイツとの関係はマジで今どうなってんの!? ヤッてんのかヤッてないのかだけでも教えてよ!!」
本当に、昨日からそこが気になって気になって仕方がないサタンなのである。
「えーーーーっ!?」
真剣な話が始まるかと思いきや、まだこんなノリ。レヴァイアは絶叫した。
「内緒!! 内緒ですッ!! 言いません!!」
「だから内緒ってなんだよ、せめて否定してよ!! 否定しないってことはつまりそういうことなの!?」
「そういうことじゃないッス!! 内緒は内緒ッス!! それ以上でもそれ以下でもありませんです!!」
「それズルいよ〜!! ちゃんとイエスかノー……ってえええええええ!?」
突然音もなく隣に現れたバアルに15センチはあろうかというヒールで足をボキリと踏まれ、サタンは盛大な悲鳴を上げた。サンダルの足にヒール……。これは痛い。
「あーあ!! 野郎二人で墓参りなんて水臭いなあ水臭いなあ!!」
不機嫌に顔を歪めながらバアルは墓に花束を供えた。その足は未だサタンの足を踏みつけたままである。サタンは未だ絶叫。横でレヴァイアは顔面蒼白である。
「痛い痛い痛い!! 凄いエグい音した俺の足ってば凄いエグい音した!! これ絶対に骨折れたよ!! 折れた!! 折れたあああああああッ!!」
「あら折れたの可哀想に。ところでサタン、私には宝石のプレゼントないんですか? 二人だけお揃いなんてズルいじゃないですか。私も欲しいなあ宝石。なにせ私!! お気に入りの指輪が!! 全部無くなっちゃったんだよね!! お前らが助けに来るの遅かったからさッ!!」
怒りの形相でもってバアルは一つの指輪もつけていない両手をサタンらに見せつけた。結界にブチ当たってお気に入りの指輪を一度に紛失したショックは相当のようだ……。
「そ、そう言われてもお前ってば耳が無いし〜……」
モゴモゴと口篭るサタンである。バアルには確かに耳が無い。彼の身体は少々風変わりで本来は耳があるはずの場所に耳ではなく小さなフワフワの羽が生えている。とっても手触り良いのだが当人がこんな性格ゆえに誰も触れないのが玉にキズで当然身に着けられないピアスなんかはプレゼント出来ない。が、そんなことは問題ではなかった。
「何もピアスにこだわることなくたっていいでしょうサタン! ネックレスだって指輪だってブレスレットだってチャラチャラしてて存在感たっぷりだし見るたびに私は貴方を思い出す自信がありますよ、ええ。だから買ってくれよ。買ってくれって。なんなら一発ヤラしてやるから買ってくれよ……! なあ……!」
「ババババババババババ、バアルさん……!? キャラが違いますよキャラが……! そそそそそんなダメですよ下品なこと言っちゃ……!」
物凄い形相と低い声で詰め寄られてサタンは震えが止まらない。しかも何気にまだ紫色に変色した足は鋭利なヒールに踏まれたままである。痛い、怖い、どうしよう。サタンの目に涙が滲む。せめて目を逸らしたいが殺気立った手に顎を掴まれてしまった。大ピンチだ。
「ぁあ? なんだよヤッてんだヤッてねんだって私の夜の顔が気になって仕方ないみたいじゃないかテメェ。そんなに言うなら見せてやるってんだ……! 大丈夫だ安心しろ、多分食い千切りはしないさ多分だけどな……!」
物凄い物凄い眼光が、間近からサタンを捕らえて離さない。
「い、いや、あの……、ごごごごごごめんなさい、もう私生活に立ち入ったことは二度と聞かないようにしますし、そ、それに、ボ、ボクは、可愛い女の子が、好きなので……! お兄さんのような、こ、こ、怖い人は、ちょっと、その……! えっと……、レヴァ君! レヴァ君なに黙ってるの、バアルさん止めてあげてよ!!」
藁をも掴む思いでサタンはレヴァイアに縋った。が、藁はやはり藁なのだった。
「え、えっと……、いいじゃないかサタン! 俺たちあらゆる意味で兄弟になれるね!」
怯えた彼はサタンを助けるどころかバアルの背を押してくれた……。
「わははは! やったねサタン、私を通じて兄弟の絆が深まるよ!」
押された当人は狂気じみた笑みを湛えてこんなノリである。
「そんな生々しい話はやめてー!! お前らヤケクソになり過ぎ!! もうちょっと恥じらってくださいお願いだから!! あ、あれ!? そ、そうだ、と、ところでリリスはどうしましたバアル様……! 一緒じゃないんですか!?」
どうにかして話を逸らそうとするサタンである。しかしバアルは顔色を変えない。
「リリスでしたら買いたいものがあるとかなんとか言って私を置いて一人で何処かへ行ってしまいました。そんなことより宝石にはそれぞれ効能があるようですね、私はこの通りアメジストが好きなんですがアメジストにはどんな効能があるんだろう、サタンご存知ですか?」
ギラギラした目でもって一切の息継ぎなしに喋ったあたり未だ不機嫌極まってることは明白だ。マズイ。これは本当にマズイ。
「え? えっとアメジストの意味? えっと、それは〜……」
そりゃあサタンだって一応バアルへのプレゼントも考えなかったわけではない。だが、どうにもこうにも、渡し難かったのだ。何故なら――
「確か、その、アメジストって『真実の愛を守護する』石みたいで『大切な人との真実の愛を深める』効能が、ある、そうですよ、ハイ」
「え?」
先程まであんなにも怒りのオーラを纏っていたバアルが見事に硬直した。よし。この隙を逃してはならない。
「そ、そんなワケで俺が渡すのは忍びないです! リリスんトコ行きます、サヨナラ〜!」
言うが早いかサタンは手を振ってその場から姿を消してしまった。残ったのは未だ顔面蒼白のレヴァイアとポカンと硬直するバアルだけである。
「……っうあああああああ恥ずかしいいいいいいい!!」
なんかもうこの感情をどうしたらいいのか分からなかったバアルは目の前にいるレヴァイアの頬を平手で思い切り殴りつけた。パチーンと小気味の良い音が辺りに鳴り響く……。
「いっだあああああーっ!! 痛いよ八つ当たりはやめてよー!!」
いきなり本気の力で顔をぶん殴られて涙目なレヴァイアである。
「だってメチャクチャ恥ずかしいよ!! だ、大体私は別にそんな意味でアメジストが好きなわけじゃないんだからね! 紫色が好きだから紫色な宝石のアメジストも好きってだけでまさかそんな意味が込められてたなんて……! ああもう一体誰だよ宝石にこんな適当な意味と効能をつけたの! 商売野郎共は口ばっか上手いんだから参るぜ畜生! そもそも、お前! なに一人で墓参りに来てるんだフザッケんな! いっつもいっつもそうやって水臭いんだから!」
「えええ〜……」
なんか酷い八つ当たりが始まってしまった予感。
(恨むぞ、サタン……。こんな暴れん坊と俺を二人きりにして……)
レヴァイアは心の中で呟いた。
「なーんだよ、その顔わっ! あとサタンに告げ口しただろ私がお亡くなりになった人を全員しっかり覚えてないって! 腹立つなあ〜! だから昨日言ったじゃないか、血を介して全部教えてくれって! なのに断ったのはお前だろ!」
いやはや不満爆発といった感じだ。これは困った。
「えーっと……。だ、だからその気持ちだけで嬉しいって言ったろ。俺はお前を馬鹿にしたんじゃなくてただサタンはどうなのか知りたかっただけだよ。それ以上の意味は無い。だからお前に知ってくれとは言わないわけだ、分かる?」
しかし説明してもバアルは不満気に舌打ちをした。
「レヴァイア、それは親切心じゃない。ただ水臭いだけだ。そんなに私は信用ないのか? 私は貴方の負を半分背負ったところで発狂も何もしない。そんなヤワじゃない。だけど隣で貴方一人だけが負を背負っていくことには耐えられない。そこまで強くはなれない。どうして分かってくれないんだ」
彼は強情だ。今度はレヴァイアが溜め息をついた。
「お前こそ分かってねぇなあ。気持ちだけでマジ十分なんだってば。昨日、俺がよく見る夢の話をしただろ?」
「夢? あぁ……、あの酷い夢の話か」
あの、先日レヴァイアが血の雨に打たれながら荒れ地で見た己の意志と関係なく全てを破壊したのち真っ暗な無の空間に自分の意識だけが残って絶対的な孤独を味わいながら最後は朧気な概念のようなものへと成り果ててしまうという夢の話だ。あれはあの日に限らず彼が繰り返し頻繁に見る夢なのである。
「で、それがどうした。今の話となんの関係もない」
バアルの眉間に皺が寄った。こっちの思惑を察してくれていない証拠だ。レヴァイアは苦笑いした。
「あるよ。お前は俺のそんな夢の話を笑いもせずいつも黙って聞いてくれる。そんだけで本当に十分なんだよ、十分一緒に背負ってくれてる。だから俺の抱えてるもんはこれ以上絶対に渡さない。お前にはせめて毎日を幸せに生きて欲しいからっつー俺の意地だ。水臭いお詫びにアメジストくらい幾らでも買ってやるから此処は譲ってくれよ王様」
「う……っ」
ぐうの音も出ない台詞とニッコリ爽やかな笑顔の合わせ技……。此処まで言うからには彼は決して折れないだろう。反論の言葉を失ったバアルは悔しさに目を伏せた。
「畜生テメェ良い男だな本当に……!」
「ありがと、よく言われる! じゃ分かってくれたんだね?」
「あぁ、分かってやったよ……。アメジストで手を打つよ、仕方ない……」
どうにも劣勢なバアルには頷くしかなかった。
「ありがと! アメジストの何が欲しい? 今ちょっと手が寂しいからまずは指輪かな?」
言いながらレヴァイアはバアルの今や少女の面影など微塵も無くした節々が太く指の長い手を取ってマジマジと見つめた。本当に、以前の面影はない。けれど今も変わらず温度はひんやり冷たくて綺麗だ……なんてことは決して声に出して伝える気は無いが、本当に綺麗だ。
(お前が早く真面目に彼女でも作ってくれりゃ俺も安心なんだけどなあ〜)
つい心にもないことを思ってしまったレヴァイアである。
「そうだね、指輪がいいな」
一緒になってバアルも指輪を一つもつけていない殺風景な自分の手を見つめた。
「指輪は指輪で、まずはどこの指に欲しい?」
「そりゃもちろん左手薬指ですよ。よろしく」
「うん分かっ…………それはダメだろ!!」
意味に気付いてすぐに声を荒らげたレヴァイアにバアルは「冗談だよ」と笑った、その時である。突如二人のいる一帯を強固な結界が覆った。雰囲気からしてサタンの結界だ。
「結界? なんで?」
敵の気配は一切無い。バアルはサタンの妙な行動に首を傾げた。
「アイツなにしてんだ?」
レヴァイアも同じく首を傾げる。そこへ結界を張った張本人であるサタンがバツ悪そうな顔をしつつ両手いっぱいに何か荷物を抱えているリリスを連れて音もなく姿を現した。
「ご、ごめん……。なんか急にリリスが大至急この辺一帯を人払いして結界張ってくれって言うもんだから……」
サタン自身なんでこんなことをさせられたのか分かっていないようだ。と、いうことで男三人はなにやら企てたっぽいリリスへ「どういうこと?」と一斉に目を向けた。
「エヘヘ〜。昨日バアルさんとレヴァさんは普通に街でデートをしたことがないってサタンさんから聞いたので是非その念願を叶えてもらいたいなって思って! 今日これから此処でデートしてもらいます! その為に人払いをしてサタンさんに結界も張ってもらいました! 見られる心配はありません、堂々とイチャイチャしてください!」
エッヘンと胸を張るリリス。対照的にバアルとレヴァイアは暫くポカンと口を開けたのちサタンをジーッと静かに怒りのこもった目で見つめた。なに余計なこと喋ってくれてんだ、という無言の訴えである。
「えー!? 俺のせい!? 俺のせいなの!? ちょ、ちょっと待てよリリス! コイツらはもうそういう関係じゃ……」
「ま〜たそんな! 揃いも揃って照れ屋ですねホントに! はいバアルさん、まずは靴を履き替えてください! さっき買ってきたんですよコレ! そんな高いヒール履いてたらレヴァさんと背が変わりませんからね、やっぱり一緒に歩くならちょっと男の人を見上げるくらいが可愛いと思うんです」
サタンの制止など物ともせず、リリスは男三人に反論する余地など一切与えぬまま今さっき買ってきたばかりの底がペッタンコなサンダルを呆気にとられたままのバアルに手渡した。
レヴァイアの身長は184センチ、サンダルの底を合わせると194センチ。対してバアルは身長180センチ、ヒールを足すと194センチ。ほぼ一緒なのである。これではいけない。
「え……? こ、これを履けと……? 嫌ですよ、こんなんで歩けますかって! 私はヒールで歩くのがこだわりなんですから! 大体ねぇ男の人を見上げるってなんですか私だって男ですよ!?」
これを聞いたリリスは笑顔から一転、頬をこれでもかと膨らませてイジケ出した。が、これに屈するバアルではない。
「なにその顔! そんな顔したって無駄だからね!」
「ま、まあまあまあ……。デート云々は抜きにしてちょっとサンダル軽く履き替えるくらいイイじゃないかバアル。せっかくリリスが買ってきてくれたんだし」
仕方なーく間に入ったサタンである。一方レヴァイアは触らぬ神に祟りなしとばかりに目をパチクリさせながら事態を静観中だ。
「ちぇっ。仕方ないなあ……。こんなペッタンコなの履いて歩けるかな私……」
履かないことにはどうにもならなそうな状況である。バアルは渋々ながらサンダルを履き替えた。嗚呼、一気に身長が縮んでしまった。ゲッソリと気分急降下なバアルである。
「わあピッタリ! 良かったサイズ合ってて! えっと、それからそのお化粧も一度落としてくださいバアルさん。もうちょっとナチュラルメイクにしましょう」
「は? なんですって?」
これにはバアル本人の他サタンとレヴァイアも緊張で硬直した。
化粧だけはマズイ。厚化粧をしなければ生きてられないバアルの化粧を弄ることだけはマズイ。にもかかわらずリリスは「だから化粧を落としてください」と笑顔で催促を続けた。
「お化粧品も色々と買ってきたんです! その紫基調のガッチリした化粧もカッコイイけど可愛さを目指すならもうちょっとナチュラルにしないと!」
サタンとレヴァイアによる「よせよせ、それだけはマズイ!」という必死のボディーランゲージも物ともせずバアルにとことん詰め寄るリリス。厚化粧はバアルのアイデンティティである。それを落とせと言うのだ、彼の表情は見る間に強張った。
「ええと、待て待て待ってリリス。貴女は私に死ねと!? 死ねと言うのですか!? なに、なんなの!? 病み上がりな私を追い詰めてどういうおつもり!? 絶対に嫌だね化粧を落とすなんて!!」
予想通りにも程がある反応。しかしリリスは引き下がらなかった。
「な、なんでそんなに意地っ張りなんですか……! おめかしして街をデートするの夢だったんでしょ……!? なのにどうして……!? ふえぇぇぇぇん……!」
目に涙を溜めての精神攻撃。これにはバアルはもとより端で成り行きを見守っていたサタンとレヴァイアもますます顔色を変えた。
「バ、バアル……! ここはちょ〜っとだけ譲歩してやったらどうかな……!? たたた頼むよ、化粧落とすの嫌いなのは知ってるけどさあああ」
恐る恐るサタンが言うとレヴァイアも続いた。
「そ、そうだよ。せっかくリリッちゃん張り切って色々と用意してくれたんだし今日くらい……! ちょ〜っと薄化粧で道を歩くだけの簡単なお仕事だ、やってやろうよ……!」
女の涙にはどうにも弱い二人である。それはバアルも同じであった。
「ええいリリスこの卑怯者めがああああああ!! 分かった、やるよ、やればいいんでしょっ!!」
とうとう折れる形となってしまった。
「やったあ〜!! ありがとうバアルさん!! では任せてください!!」
いつまでも墓地で騒ぐわけにもいかないので軽〜く移動。禍々しい街路樹の並ぶ道のど真ん中でバアルは自らその場で一度化粧を落とし、リリスに乙女なベージュ系ナチュラルメイクを施される羽目となった。しかし顔は女らしくなってもバアルはバアルである。出来上がりを見た男二人に「ぎゃはははは! 女の子だ女の子!」と笑われた彼は一瞬で二人の間に移動しそれぞれの膝裏を無言で一発ずつ思い切り蹴り上げた。パーンと小気味の良い音が二回と男二人の「イテー!!」という悲鳴が無人の街並みに木霊す……。
「バアルさん暴力はいけません暴力は! 二人も笑ったりしちゃダメです! さあ、ほら手を繋いで繋いで!」
「えー?」
リリスに言われて仕方なさそうに手を繋ぐレヴァイアとバアル。だが渋々なだけあって繋ぎ方が浅いのなんのという感じである。レヴァイアの小指をバアルが親指と人差し指で摘んでいるだけ。これではいけない。
「違う違う。なに照れてるんですか! もっと街の恋人さんたちみたいに繋がなきゃ! はい、こうです!」
二人の手を捕まえてしっかりとお互いの指と指を全て絡ませた繋ぎ方に修正するリリス。二人が「もう勘弁してください……」と白目を剥いて肩を落としていることもお構いなしだ。普段は率先してこういう光景を茶化すサタンが若干引くレベルである。
「恋人たちみたいにって言われても俺ら恋人同士じゃないんですけど……」
いっそ殺せ、といった顔でレヴァイアが訴えるも「照れないの!」と言い張ってリリスは一切譲らない。
「リ……、リリスさんリリスさん、コイツら息してないよ……! もうやめてあげて……! 可哀想……!」
「ダーメーでーすっ。そうやって照れてたらいつまで経っても夢は叶いません! ほらバアルさんの方が手のひら一回り小さくてとっても様になってますよ、だから照れない照れない! さて、レヴァさんバアルさん、手を繋いだままこの道を真っ直ぐ歩いて突き当りにある公園まで来てください! そこがゴールです! 私とサタンさんは先に行って待ってます。あ、途中で手を離したり瞬間移動したりしちゃ絶対にダメですからね! ちゃんと歩いて来てくださいよ? ズルしたら結界は解いてあげないんだから!」
「ああもう無理! レヴァイア、サタンを倒せ! ヤツを倒せば結界は崩れる! お前なら出来る! 勝てる!」
一人張り切り続けるリリスに業を煮やしたバアルがビシッとサタンを指差す。
「ひいいいい!! 矛先向けられたー!!」
目の敵にされたサタンは盛大に嘆いてサササッと後ろに後退しバアルから距離を置いた。
「えー!? ででででで出来ないよ、そんなこと!」
いきなり戦えと言われてレヴァイアも困惑である。
「この意気地なし!!」
「なんとでも言ってくださ〜い! ねえもうコレちゃっちゃ歩いちゃった方が早いよバアル、歩いちゃおうよ〜!」
今回よく頑張ってくれたリリスへのご褒美と思ってコレで彼女が喜んでくれるなら素直に応じてしまった方がいい。公園までは徒歩7分といったところだ。確かに喚いて抵抗するよりも大人しくちゃっちゃと歩いてしまった方が早い。「そうですね」と、ようやくバアルも悪足掻きを諦めた。
「やーっと納得してくれましたか! あ、そうだ。バアルさん、ちょっと」
「はい?」
ちょっとちょっとと手招きをされてバアルが耳を傾けるとリリスは彼にだけ聞こえるようコショコショと耳打ちをした。そして……何を話したやら、暫くしてバアルはクスッと小さく吹き出した。
「いいえ、彼は夜に大人しく眠るのがあまり好きではないから遊び歩いてくれるくらいで丁度いいと思っています」
「えー? それってやっぱり正妻の余裕ってヤツですか?」
「ええ、そんなところですね。結婚してないけど! とにかく咎めることはありませんよ、ちゃんと遊びで留めてるし。それに――」
言ってバアルは目をパチクリさせているリリスに勝ち気な笑みを向けた。
「それに、なにせ貴女の想像も及ばぬほど激しい人なので私だけで毎晩相手をするのは大変ですから。…………なんちゃって」
この言葉を機に形勢逆転。バアルは余裕の笑みを浮かべ、リリスは顔を赤くして硬直した。
「な、なに、なんの話?」
全くやり取りを聞いていなかったレヴァイアが首を傾げる。
「リリス? どうした?」
サタンもサタンで急に大人しくなったリリスに目を丸くした。
「おや、言葉の意味が分かったんですか? 本当に成長著しいこと。さあレヴァ君、行きましょう」
クスクスと笑ってバアルは沸騰し呆然と立ち尽くすリリスとオロオロしているサタンを置いてレヴァイアの手を引き文字通りちゃっちゃと歩き出した。
「なに? ねえねえ、なに話したの?」
なんたってリリスの反応は普通でなかった。バアルの勝ち気な態度といい気になって歩きながらレヴァイアは首を傾げ続けた。
「知りたい?」
せっかく乙女なナチュラルメイクをしたにもかかわらず表情は思い切り普段通り。可愛げが無いにも程があるバアルである。
「そりゃ知りたいよ。なに?」
「なーに、大した話じゃない。ヒソヒソと『レヴァさんの女遊び止めないんですかコレを機にヤメテってビシッと言ったほうがいいですよー』とか言ってきたので粋な返しをしてあげただけのことです」
「成る程ね。……ん?」
レヴァイアはすぐに気付いてしまった。遊びをやめさせた方がいいとのアドバイスにあの返しである。……あんまりだ。
「ちょ〜っと待ってよ!! なんでそんな俺が誤解されるようなこと言うわけ〜!? ち、違うよ違うからね……って、居ねぇし!! もう居ねーし!!」
慌てて後ろを振り返ったレヴァイアだがそこにはもう既にサタンとリリスの姿は無かった。パッと公園へ向かってしまったのだろう。
「ひ、酷い……! 実は胸張って言うほど女の子とは遊んでないのに……! どうしようリリッちゃんに本能だけで生きてる男だと思われたら俺やっていけないぃぃぃ……!」
自分基準ではあるがホントにそこまで女の子とばかり遊んでいるつもりはない。実際、彼の夜遊びの半分は男友達との健全な飲み会である。
「ワハハハハハッ!!」
肩を落とすレヴァイアを見てバアルは高らかに笑い上げた。
「笑い事じゃないよッ!! 酷いよお前ホントに!!」
「いいじゃないですか、モテ男ってことにしといてあげたんだから」
「そりゃそうだけど、っつーか僕たちの関係も誤解されちゃったかもよ王様!! どうするの!! なんだよ激しすぎて毎晩相手出来ないってトンデモない発言だよ!!」
「それもいいじゃないですか、暫くリリスをからかって遊べそうだ。ただ黙って茶化される私と思うなよ小娘〜ってことです」
「あのー……、俺も一緒に大ダメージ受けるんですけど……」
言いながらレヴァイアはからかうように繋いでいる手をわざとらしくニギニギ握った。
「大丈夫。貴方は気にしなければいい」
キッパリ言い切られてしまった。「そんな無茶な……」と嘆くしかないレヴァイアである。
「けど、マジで意外だったな。お前があの子に過去を明かすなんて。こういうことになるのも予想出来たろうにさぁ」
こういうこと、というのは、なんというか今のこの状況である。リリスはどうにも真っ直ぐ過ぎる。そこが彼女の可愛いところでもあるのだが。
「いえいえ、こんなほぼスッピン顔で街を歩かされる未来が見えていたら明かしていたかどうか。あの子の気持ちは嬉しいけどねぇ、気持ちだけは……、なんてね」
堪らず苦笑い。リリスに悪気が無いことは、ちゃんと分かっているのだ。
「私の性格は知ってるだろうレヴァイア。あんな真っ直ぐで一生懸命な子に隠し事をずっと出来るほど器用じゃない。出会って半年も経たないが、あの子は心から信頼出来る子だと判断したよ。明かすのに躊躇いはなかった。なんだか肩の荷が下りた気分だったなあ。こんなことになったのは貴方に申し訳ないが」
「アハハッ! 大丈夫、付き合うよ。お前の肩の荷が下りたなら結構だ。つーか俺こそ申し訳ないけどボチボチ禁煙限界! 吸わせてもらうよ」
一応真横で煙を吐くことを遠慮していたレヴァイアだが、ヘビースモーカーの彼が煙草を我慢出来る時間はとても短かった。
「ええ、どうぞお構いなく。今更ですよ」
「どーも」
言うなりレヴァイアは何処からともなく煙草を取り出して口に咥えると片手で器用にマッチを擦り火をつけ美味しそうに煙を吐いた。流れるような動作。昔からバアルがよく見てきた光景だ。……それが今日は何処か懐かしく見えた。少し彼を見上げる形だからだろうか。
「なんだか懐かしい景色だ。でもやっぱりちょっと歩き難い。ペッタンコな靴は今日これっきりにしとこう」
悪くない景色だが、どうにも歩き難い。そんなバアルの思いを察してレヴァイアは「アハハ」と笑った。
「それがいいや。俺もお前の頭がこんな低いと違和感ありまくりだもん! 落ち着かないよ!」
いやホントに、と低い声で付け足しレヴァイアはそっぽを向いた。本当に、落ち着かないのだ。
「イヤじゃねーのか? こんな律儀に手ぇ繋いでなくたって兄貴なら空気読んでくれるよ」
この場に居なくともサタンがこっちに目を光らせているのは分かっている。が、彼もリリスも鬼ではない。どうしてもどうしてもダメならば笑って許してくれる。にもかかわらずバアルが案外真面目なことにレヴァイアは驚いていた。
「どうして私が嫌がるんです?」
目をパチクリ瞬きさせてのこの返事に二重の驚きだ。
「どうしてって……。忘れたい過去なんじゃございませんの?」
振り向いて問う。すると今度はバアルが驚愕の表情を浮かべた。
「なんてこと! 貴方はずっと大きな勘違いをしていたのか!」
「勘違い? 何が?」
「何がって……」
伏し目がちにバアルが呟く。
どうも何か食い違っているようだ。二人は足を止めて暫く顔を見合わせた。暫くと言っても5秒程度である。沈黙を破ったのはバアルの方だった。
「私が恥じているのは己が酷く浅はかな女だったことだ。貴方を好いたことそれ自体は今も『私』の誇りですよ」
真っ直ぐに目を見つめての言葉。レヴァイアの顔が見る間に赤くなる。
「そ、その顔でそんなこと言うなよ……!」
薄化粧なバアルは少女であったジブリールの面影があり過ぎる。ゆえにこの顔で可愛いことを言われると非常に複雑な思いである。確信があったのかバアルはしてやったりな笑みを浮かべた。
「他の誰でもなく貴方を好いた、私の何よりの誇りだ。だから今も共にいる。……貴方はどうですか?」
「……………………言えるかよ、そんなこと」
口を尖らせ、レヴァイアは前だけ向いてバアルの手を引いて早足に歩き始めた。口に出さなくても察しろ、ということだ。
「え〜? 言ってくれよ、こんなことくらい」
イジケた彼をつい茶化してしまったバアルである。なんたって物凄く今更だからだ。
昨日のことだが、また自分が消えて無くなる夢を見たというレヴァイアにバアルは「そんな悲しい夢ばかり見てくれるなよ。貴方一人をそんな無間地獄に叩き込まれてたまるか。逝くなら私も付き合う」と返した。すると彼は「それはなんか違う」と言った。「俺がこの夢で怖かったのはお前の最後を知れなかったことだ。この結末を望んでいたのかどうか聞けないまま終わった。お前の望みが果たせたなら俺の結末はどうだっていいんだ」と。
それだけのことを言っておきながら今更なにを照れるのか。
(まあいいけどさ)
バアルは一人、微笑んだ。
忌み嫌われ続けた自分を唯一慕った少女の夢を叶えることこそレヴァイアの全てであり、それすら出来なければ自分という存在があったことを本当に悔やむしかないという気持ちはバアルにとって嬉しくも哀しい。何故ならレヴァイアが自我を失いながらも自身の行動に迷った理由はそこにある。
――キミを悲しませるものは全て破壊してやる。でも、本当にそれはキミの望みなのか? 俺は、絶対に間違えたくない――
これはバアルがジブリールとして存在していた昔に言われた言葉だ。
先日、自我を失った際バアルが制止せず背中を押していたらそれこそ彼はあのまま本当に怪物となって世界を終わらせていたことだろう。神を殴りつけた時もそうだ、バアルが腹の底から「殺れ、殺っちまえ」と声を上げていたら彼は絶対に躊躇わなかった。そういう真っ直ぐな男なのだ。ゆえにバアルの目を見て彼は振り上げた拳を素直に下ろした。
彼はどうしたら一人の少女を幸せに出来るのかが分からず、常に行動を迷っているのである。だからバアルの声に忠実なのだ。たとえ、自我を失っていようと。
「神が、私に側へ来いというのも無理はないかもしれませんね」
不意にポツリ。するとレヴァイアがすぐに「何が?」と眉間に皺で振り向いた。
「私も少し馬鹿げた『永劫』を望んでしまっている節があるんだ。自分でも反吐が出るくらいに馬鹿げた『永劫』をね」
神と同じ思考をしているとは思いたくないが、仕方がない。本当のことだ。
「ふーん? 永劫、ねぇ」
半笑いでもってレヴァイアは吸い終えて短くなった煙草を丁度見つけた道端の灰皿に入れた。
「叶うといいな。なんであろうと手伝うよ俺は」
「そんな他人事のように言ってくれるなよ」
一体どんな永劫を願っているのか彼が深く聞いてこないのは言わずとも察しているということなのか、それとも興味が無いのか、興味はあるが敢えて聞かずにおくつもりなのか。とにかくただ笑っただけのレヴァイアにバアルは不服の表情を向け、握っていた手をより強く握った。
己を犠牲にしてもバアルの夢を叶えたいというレヴァイアの気持ちは確かに嬉しい、だがバアルにとっては『それこそ何か違う』。
そうだ、そんな結末は違う。絶対に違う。だからこそバアルは最大の好機を迎えたにもかかわらずレヴァイアに神を殺せとは声を大にして言えなかった。策も無しに言えることではない。全て壊したのち自分の存在が最後は闇に溶けてしまうという夢の話をレヴァイアの口から何度も聞いているからには尚更だ。
そんな結末だけは迎えてはならない。お互いの為に。
今回の判断がまた大きな悲劇の引き金になるかも分からない。だが、此処はリリスの言葉を信じよう。
『貴方がしっかり自分の意志を貫いてくれたから、結果として私はこの世界に生まれてくることが出来ました……! みんなに会うことが出来ました……!』
こんなに嬉しい言葉は他にない。
『無茶でもなんでもいいから何がなんでも勝って俺たちが正しかったことを証明すりゃいい! だから俺について来てくれ、頼む!』
革命を企てた際のサタンの言葉も思えば似たようなものだ。
悔やむ暇があるなら己の正しさを証明する為に進もう。これから起こる苦難の全てはその先の更なる大きな幸せのための布石。そうでなければならない。
大丈夫、出来る。幸いこっちにはサタン、レヴァイアという強い男が二人もいる。未来は明るい。
(ああ、そうだった思い出した。これが『希望』ってヤツだ)
少し、初心を思い出したバアルであった。
一方その頃、先の公園ではリリスがベンチに座りながら未だポーッと顔を沸騰させていた。視線は上の空だ。おかげで隣に座るサタンは戸惑いっぱなしである。
「えっと、なんかバアルに変なこと言われた?」
彼に何やら耳打ちされてから明らかに様子がおかしい。また変なことでも言われたんだろうか。バアルは色んな意味で無垢な女の子にすら容赦の無い男だ、可能性はある。つーか可能性しかない。
「あ、いえ、あの、な、なんでもないですっ! ただ、大人って凄いなあ〜って思っただけで……」
「大人が凄い?」
ますますよく分からない。顔を赤くしたリリスはこちらを一度も見ようとしない。一体なんだというんだ。
「そそそそそそ、そんなことよりバアルさんとレヴァさんはちゃんとまだ手を繋いでますかサタンさん!」
「え? ああ、うん。ちゃんと繋いでるみたいだよ。つーかリリスすげぇよマジ! あのバアルを勢いで押すなんて俺やレヴァにも出来ないことやったぜお前!」
あとが怖いけど……とは一応言わないでおくサタンである。
「いえ、そんな……」
ちょっと恐縮したリリスがまだ赤い顔をようやくサタンへ向けた。
「度胸あり過ぎも困り者だぜ。なんだってこんなこと思いついちゃったんだか?」
「なんでって……、きっとあの二人は意地張っちゃってるんだなって思ったから、ここは無理にでも私が、と……! 私がやらねば誰がやる! と思ってしまって……。これを機にもっと堂々としてくれたらいいなあ〜」
「それは、どう、かな……」
あの二人の性格を考えると、どうだろうか。なんてサタンが頭をボリボリ掻いている最中、人気のない公園に仲睦まじいような睦まじくないような二人が言いつけ通り手を繋いだままやって来た。
「やっほー。ちゃんと言いつけ通りズルせず歩いてあげたよリリッちゃん」
座った目をしてリリスに手を振るレヴァイア。
「おうよ、ありがたく思いなさい小娘」
バアルも同じく座った目をして手をヒラヒラと振る。どう見ても気分荒んでいる感じだ。が、当のリリスは気付いていない。二人がちゃんと言いつけを守ってくれたことに喜ぶので夢中なのだ。ゆえにリリスは「お疲れ様でしたー!」と、それはもう生き返ったように目を輝かせてベンチから立ち上がった。
「あの、どうでした!? これでまだ絆が深まったというかなんかそんな感じになりませんでした!?」
「うん、おかげ様で過去をスッパリ断ち切れたよ」
純粋そのものなリリスの問いにレヴァイアとバアルは同時に喋って綺麗に声をハモらせるとパッと切り払うように繋いでいた手と手を離してしまった。とどのつまり、リリスの作戦は大失敗に終わったということである。
「えーーーー!?」
リリスがっかり。
「いやいやいや、当然の結果だろ……」
想像通りの結末にサタンは溜め息した。嗚呼どうしよう、不機嫌になったバアルは確実にリリスではなくレヴァイアとサタンに当たり散らしてくる。怖い。どうしよう。怖い。そうだ、よし、こういう時の為の宝石だ。光物が大好きなバアルに何か綺麗な宝石をプレゼントして機嫌を良くしてもらおう、そうしよう――などと思案している最中、「まだまだ!」とリリスが声を上げた。
「こんなこともあろうかと次の作戦も用意しておきました! はい、公園のベンチで二人仲良くオヤツのサンドイッチを食べてもらいます! もちろん黙々と食べちゃダメですよ、お互いがお互いにハイあーんして〜ってやって仲睦まじく食べ合ってもらいます!」
早口に言い切ってリリスは予め買ってベンチに置いて用意していたコーヒーとサンドイッチのセットを二人に差し出した。
「ヤダー!! もうヤダー!!」
レヴァイアとバアルの綺麗に声をハモらせた仲睦まじい返事が無人の公園に響き渡った。
……さて、このリリスの作戦が功を奏したのかどうかは定かではないが、結果としてレヴァイアとバアルはこんなノリのまま数千年先まで揃って独身貴族を貫いてしまった。仕方がない、なにせ束縛嫌いな挙句に色々と特殊な二人だ。毎日の生活習慣からして特殊ゆえに誰も足を踏み入れる余地などなかったのだろう。
例えば自我を一時的に失う『眠る』という行為が嫌いなレヴァイアは毎朝必ず目覚めた瞬間に自分の両手のひらを確認する。血で汚れていないかどうかだ。無事汚れていないことを確認すると次に半身を起こして四六時中ずっと付けっぱなしな両耳のサファイアのピアスを指で弾いて揺らし、手元に煙草の箱と灰皿を引き寄せて煙草を一本吸う。そして僅かな目眩と味と煙が若干目に滲みるのを感じて自分が今確かに目覚めていることを確認する。
煙草を吸い終えると今度は部屋の奥にある洗面台へ向かい冷たい水で顔を洗って鏡を覗き込み、髪の寝癖を直しがてら今日も自分が自分であることを確認する。次に軽く身支度を整え何かしら飲み物を飲みながらこっそりバアルのお部屋へお邪魔し、寝顔を覗き込む。すっぴん晒してぐっすり寝ているバアルの無防備な顔は昨夜が何事もなく過ぎたことの証だ。
そのままレヴァイアが1分くらい寝顔を覗き続けているとバアルは決まって気配を察し目を覚ます。
「ん……。もう、朝……?」
バアルがゆっくりと開いた寝ぼけ眼を手で気怠そうに擦る。この気の抜けた顔には王の威厳など微塵もない。
「ああ、朝だよ。おはよー。今日の朝飯は何がいい?」
「おはよ……。えーと、朝ご飯は…………朝ご飯は………………」
朝食を考えながらバアルはまた目を閉じて寝てしまった。たまに彼はこんな風に寝起きが悪い。
「おーーーーい、起きろ。とりあえずちゃんと朝飯の希望だけ言えー」
少し大きな声で言う。するとバアルはうるせぇなとばかりに眉間へ皺を寄せつつ仕方なさそうにまた目を開いた。
「朝ご飯……。じゃあ……、分厚いステーキ…………ん? レヴァ君、なんだってわざわざ私の部屋でオレンジジュースなんか飲んでいるんですか?」
違和感にバアルの目がようやくパッチリと開いた。彼は目覚めると決まってレヴァイアが勝手に部屋にいることとその日その日に違う手にしている飲み物を指摘する。毎朝のことなのに、だ。
「朝の恒例行事でーす。オレンジジュースを飲みながらお前に朝飯は何がいいか聞きに来た。朝っぱらから分厚いステーキかぁ〜。悪くないぜ」
「あ、いや、待て待て待て寝ボケて言っちゃっただけだ朝からステーキも別にイケるけどちょっと重いからー…………よし、閃いた。オムライスがいい。フワフワの玉子とデミグラスソースでよろしく」
「デミグラスソースのフワフワなオムライスね。オッケー、任せろ」
リクエストを受けたらもう完璧。これにて一連の確認は終了。レヴァイアはサッとキッチンに移動し朝食作りを開始する。これが彼の毎朝寝起きに欠かさずやる行動全てだ。今日も自分が自分であることを確認する為の大事な習慣である。
不安定な存在ゆえの苦労だ。それでも自分の目がしっかりと覚めているかどうかちゃんと確かめる術があるだけ救われる。
ちなみに極稀だがバアルの方が先に起きることもある。レヴァイアがあまりにも深酒した翌日なんかがそうだ。その時はフルメイク完了したバアルがベッド脇に仁王立ちし、「私を起こさないとは何事だ」「喉が渇いた早くお茶を淹れろ」「腹が減った飯を作れ早く作れ」「早く起きろ死んでも起きろ」などと不機嫌に言いながらレヴァイアの頬を何度も何度も手で叩く。結構遠慮無しにバシバシ叩く。その痛みで寝過ごした日のレヴァイアは今日も自分が自分であることを悟るわけだ。
どうあっても確認出来るのはありがたい。が、しかしバシバシ叩かれて起こされるわけであるからして、やはりお世辞にもあまり良い目覚めとはいえない。ゆえにレヴァイアは極力寝過ごさぬよう日々努めているのである。
全ては阿吽の呼吸がなせる業。
バアルが好きな紅茶の塩梅はレヴァイアしか知らない、反対にレヴァイアがふとした拍子にバルコニーへ出て柄にもなく物思いに耽った顔で煙草を吸う時は先にこの世界を去っていった者たちの声が脳裏を一斉に掠めていったタイミングだということもバアルしか知らない。
と、いうわけで彼らの多々ある日々の習慣に他の誰かが踏み込む余地なんてものは微塵もなく、しかしおかげさまで破壊神は今日も朧気な概念ではなく一人の男として存在し、元気に生きている。間近に彼の存在を望む者がいる限り決してその自我が消えることはないだろう。
たとえ、相反する概念を抱いて共に生き続けたサタンの存在を失っても。
(そうだ、今日はカインと飲みの約束があったな)
こうしたささやかな約束もまた彼が彼として存在するための大きな支えだ。周りには『外で飲んでばっかり!』と怒られてしまうが、これが楽しくて生きているのだ。可愛い姪っ子が生まれたのを機に良い兄になりたい一心で女遊びはパッタリ断った。毎晩の酒くらいどうか温かい目で見てもらいたい。
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